どんぐり1号のときどき日記
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昨夜は「スカイ・クロラ」を観てきた訳である。22時45分で40人弱。 結果から言うと、非常に面白かった。原作ファンからはどう見えるのか判らないが、相変わらずの押井作品に仕上がっている。封印したのは食事シーンだけだろう。これは「アヴァロン」の時にメジャーを狙うならカットするべきだととんでもなく不評だった事からも判るように、押井作品の食事シーンは非常に危険なのである。
オープニングの監督の文字が滑走路に近づくと影が写り、文字が飛んでいるように見えるのだが、これは何かの映画で使われていたはずだ。なんだったのか思い出せないが。
しかし戦闘機のシーンは予告編から想像していた以上の素晴らしい出来だ。これは「邦画での劇場公開を前提とした予算編成での映画」としては、現時点での最高峰だろう。もちろん現在の技術なら金に糸目をつけなければ実写と全く同じクオリティの映像は作れるかもしれない。だが経済効果を考えた映画というシステムで、しかもほぼ海外配給が考えられない邦画のレヴェルでは、多分押井監督以外には作れない。当然宮崎、大友でも不可能だ。理由は単純で、技術面だけではなく、納期、予算の枠まで考えないと製作は不可能だからだ。 それ以外にも、カメラ位置の問題やセンスの問題で、やはり簡単に作れる映像ではない。好きだからこそ作れる映像なのだ。
だが人物については、「人狼」のような割と平面な感じで少し違和感があったが、これは全体が映画として上手く構成されているので違和感はなくなる。映画を見るというのはそういう事なのだ。そもそも押井監督は、CGIによる人物描写はまだ不完全で、人間による作画の方がマシだと言っている。結局どれだけリアルにCGIで作っても、最終的にはデスマスクから脱する事ができないのだ。 そしてこの絵なのに、草薙のしぐさが予想以上に色っぽく見えてくるあたり、さすがは押井監督である。伊達に年は取っていない。というか、この人の感覚が往年のヨーロッパ映画によって磨かれてきたのは周知の事実だが、我々の世代は多かれ少なかれそういう映画を多く見てきたのだから、押井監督の女性の描き方を一番理解しているのも我々なのかもしれない。
しかし今回の映画で、何故ワルサーPPKのハンマーをコッキングしたままにするのか理解できなかった。シグナルピンの描写があるから、デコッキングしておくべきだろうに。仮に誰でも判るようにというのなら、PPKを使う意味はないように思うのだが。
さて、ここからネタバレである。 私は基本的に映画のネタバレは大歓迎である。それをしなければまともな批評、感想など書けないからだ。だからネタバレが嫌いという人は、以下を読まない事。
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今回の押井監督からのメッセージは、「人生とはいかに死ぬかという目的に向かって努力する事だ。何もしなければ無味乾燥のエンドレスが続くのだから、それを楽しむ術を得よ。それが人生である。」だと私は受け取った。
ラストのティーチャーとのドッグ・ファイトで優一は戦死する。草薙に生きる意義を悟らせ(これが死亡フラグだ)、コクピットに直撃を受け風貌が真っ赤になる。そして機体が未帰還で終わるから、戦死は間違いない。ここで映画は終わりエンドロールとなるのだが、「監督 押井守」の後に続きの映像がある。
散香が飛来し、優一に良く似たパイロットが降りてくる。名前は別だ。だがここで草薙が「待っていました」と微笑み、またうっすらと口紅も付けている。つまりこのパイロットは優一のコピー、クローンだと思われるのだ。ここで草薙は彼に対して「恋愛の宣戦布告」をしたのである。優一は前任者「ジンロー」のクローンの可能性が高い。だから草薙はあれほどまでに悩んでいたのだ。だが優一により生きる目的を理解し、短い間であってもそれを謳歌すべきだと悟ったのだ。例えそれがクローンであっても、だ。押井監督が立派に活動している秋葉の人間を認めるのは、その人が社会とまともに対峙しているからなのだ。社会と対峙している人間に対しては、その対象を問う意味はないのである。
映画の中で、瑞樹は草薙の娘だといわれる。父親はティーチャーだという噂だがそれは判らない。だが少なくとも娘だというのは正解だ。だからこそ草薙にはパートナーが必要なのだ。それは人生に絶望していた彼女にとって恋人なのである。それが優一という存在だ。 これは整備の責任者である笹倉が女性だという点からも明白だ。彼女は基地で母親としての存在なのである。つまり父親がいて母親がいて子供がいたら、あと必要なのは夫婦または恋人である。押井監督の意図は明白だ。
多分押井監督の当初の構想では、このラストはなかったと思う。だが若者にストレートに生きる意義を提示したいと考えた場合、このエンドロール後の話が必要だと考えたのだろう。 押井監督が好きなヨーロッパ映画なら、ここは全くの無駄だ。なくても良いというより余計なお世話だろう。だが現在の若者にはそこまでしないと意図が通じないだろうし、それは若いスタッフなどと仕事をしていて彼も身にしみて判っているはずだ。 だが彼は監督でもある。このラストを映画としてどうするか、散々悩み、その打開策がこのエンドロール後の映像なのではないだろうか。つまり職業監督としてのセンスを取るか、若者へのメッセージを取るか、この映像はその妥協案なのだ(そう考えた場合、エンドロールが終わる前に立ち去った人は、押井監督のヨーロッパ・テイストの映画を観たという事になるかもしれない)。
今までの彼の作品は、10年経っても映画として立派に残り、その時々にその時代の人に語りかければ良いというスタンスだったが、今回は今劇場で観ている、今の日本に生きる若い観客へ語りかけたいという想いがある。 これが映画「スカイ・クロラ」における、今までの押井監督と違う最大の点だ、と思う。
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