どんぐり1号のときどき日記
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2008年07月22日(火) 廃墟とは人の不在

 一昨日の「課外授業へようこそ」で、押井監督が子供たちに目線の違い、日常と非日常の違いを説明するのに「パトレイバー2」の刑事たちの捜査シーンを使用していた。

 ここで押井監督は、刑事たちの他に人が全然いない事で非日常感を表しているという内容の事を言っていたのだが、この時に最近のアマチュアが撮る廃墟写真に対して自分が抱いている違和感の正体が判った。人物だ。
 押井監督が言うように、廃墟に人物は不要だ。これは優れた廃墟写真を見れば判るし、実際に廃墟に行けば人の存在が無意味だという事が良く判る。
 つまり「廃墟は人が存在しないがゆえに廃墟たりえる」のであり、決して廃屋だから廃墟だというものではない。生活感が過去のものであり、それすらも消えていくのが廃墟なのである。ここに普通の人物が介在する意味はまったくない。

 mixi内には廃墟写真のコミュもあるのだが、ここではほとんどが廃墟に人を配置して撮っている。ひどいのになると、廃墟にコスプレイヤーを配置したためにまったく意味不明になった写真も多い。つまりこれらは、廃墟を撮るのではなく、廃墟をスタジオの代用としているにすぎない。つまりただの勘違い写真だ。
 もちろん中には、極々少数だが、人物すらも廃墟の一部と化している素晴らしい写真もある。ただしこういうのは例外中の例外で、よほどの才能がないと表現は不可能だ。
 本来、廃墟に人物を配置するならそれなりの理由が必要となる。それがない写真はただのポートレートであり、少なくとも廃墟写真ではない。もっともこの手の写真は、ほとんどがポートレートとしても意味をなさないレヴェルのものばかりだ。そもそも廃墟という素晴らしいシチュエーションで、よりによってコスプレイヤーを撮るとは、本当に何を考えているのだろう。

 繰り返すが、基本的に廃墟に人物は不要である。それが判っていない人が多すぎる。


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