どんぐり1号のときどき日記
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昨日買った「宇宙船」を読んでいると、結局自分たちの年代は年の功で、編集部よりも良いものを見る目があるのだと感じてしまった。もちろんプロと言われる連中は、自分の好みや良し悪しを無視してでも売らなければならない事もあるのは充分判っている。判ってはいるが、結局売ったモン勝ちという世界観が、彼らの目を曇らせているのも事実だ。 そして少なくともサブ・カルチャーといわれる物に関しては、恐らく我々シロートの方が知識も多いし単純に年の功という部分はあるが、結果として「売らなければならないプロ」よりも「ただのアマチュア」の方が良いものをきちんと見分けられるのが現状である。
昔のプロと呼ばれる連中は本当にいいものを見る目があった。商売が絡んで嫌でも売らなければならない時には、普段と違う書き方でそれとなく仄めかしてくれたから、こちらもなんとなく彼らの言いたい事は理解できた。それが通常のやり取りの中で行われていたのだから、やはり信用という部分が大きかったのである。 だが現在は、この信用という部分がめちゃくちゃ、というより初めから存在していない。だから何を信じていいのか判らないという人は「プロが進めるから良いもの」と考え、自分の嗜好を無視するという言語道断な行為に出てしまう。 これは特撮関係の作品だけではなく音楽シーンも同じで、ミュージック・シーンをダメにしたのはミュージシャンの才能不足以前であり、売る側の姿勢が悪すぎるという問題の方が大きい。
ところで今日の朝日新聞に、演歌についての記事があった。 そもそも演歌というものの歴史は思った以上に浅いという事は私も前から言っている事だが、実は根本的に定義づけが難しいらしい。何を持って演歌とするのか、それが想像以上に難しいようである。もっとも定義づけが難しいというのは、別に演歌が複雑なものではなく、単純だからこそ難しいともいえる。人によって見方が異なるからだ。 日本に定着したのは昭和40年代からだと新聞には書いてあったが、これはぼそのとおりだろう。この頃に放映された歌番組である「ロッテ歌のアルバム」がキーになっていると私は考えている。
しかし私は、演歌を全否定するためにこのへんを調べているのだが、それが昔ながらのSFファンには良く見られた事なのに、現在は嫌いな物は無視するだけという人が圧倒的多数派だ。これでは進歩も何もあったものではない。 まともな論争が出来ないのも当然だろう。
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