Seakの日記
日々感じたことを書き留めていこうと思っています。

2003年09月07日(日) 生きる道とは

「お前の生きる道はなんだ?」と母に聞かれた。前置きも何もなく、唐突に、である。僕は「知らない」と答えた。大学でさんざん言われたことが頭をよぎる。物事は「相手が知っていることから知らないことへ」説明しろと。確かに、知らないことを突然言われると分からないなと思った。細かいことをいちいち…、などと思ったが、確かに必要なことだ。

話はいきなり横道へそれるが、僕はここ数年、なるべく物事を素直に見ようと努力してきた。世の中の影響なのかなんなのか、ものの見方がいちいちひねくれていたのだ。良いものを素直に良いと認めない傾向にあったのだ。今でも、そういう人は多いのではなかろうか。原子力発電所のように、大きな問題を抱える場合によく見られる。何か1つ問題を起こすと、原子力発電所のすべてが悪いように言い、何もかもを否定せずにはいられないのだ。マスメディア自体に何もかもを否定する傾向があるために、世の中全体がすべてを否定している気がする。何もかもを認めないのに、どうして取引先を認める気になれるだろう。何も信じていないのに、どうしてビジネスの取引だけを信じられるのだろう。現代のすべてを疑ってみる見方では、景気が悪くなるのは当然だ。そして、そうやって見る見方が間違っていないと言うなら、景気が悪くなるのもまた、間違っていない。

今、その場にあるものを素直に認める。人の言うことをなす事を肯定的に捉える。これは、大事なことでもあるし、必要なことでもあると思う。それが信頼を勝ち得る第一歩だと思うからだ。そして僕には、ずっとこの視点が欠けていたのだ。すごいものはすごいと認める。素直に人を尊敬する。

でも、科学の世界はそれを認めない。過去の業績を素直に尊敬していたら、そこから先がないからだ。過去の知見から問題点を探し出し、この点について不十分である、この点は考えられていない、この点は議論に問題があると言い、自分の正当性を主張するのだ。過去を否定し、自らの正当性を主張することで、新しい知識を積み上げていく。科学とは、そうして進歩してきたものらしい。もちろん、建前は教授を尊敬している、などと言うわけだが、その本質は過去の研究者がしていないことを、足りないことをする、というものなのだ。

自然保護を主張する人たちあたりが言っていたことだと思うが、僕も同じように思う。「人は、どこまで行けば満足するのか。」と。現代の科学は、十分すぎるほどに進歩している。これ以上、何を望むと言うのか。数多くの研究者たちが築き上げてきた、ほぼ完璧な研究の塔に、今さら何を築こうと言うのだろうか。まあ、一部の研究者たちが自らの正当性を主張するために、過去の研究と比較して、自分の研究がより優れていることを述べるのはいいだろう。人は何かと比較しなければ物事の価値が分からないからだ。しかし、研究をするために大学に入ったわけではない学生たちに、無理矢理過去の研究の問題点を探させてどうしようと言うのだろう。

話を最初の問題に戻す。生きる道とは、何を言いたかったのだろう。人生の目的だろうか。お前はなんのために生きているのか、と問いたかったのだろうか。何のために生きて、そして今、その目的のために何をしているのかと問うていたのだろうか。

何のために生きているのか?そんなことは知らない。死にたくないから生きているだけだ。生きる目的など、僕にはない。あえて言うなら、楽しく生きたいということだけだ。これは目的ではないだろう。生きるという過程の問題だ。

死にたくないから生きている。どうせ生きているなら楽しい方がいい。じゃあ、そのためになにをしているのかと言えば、よりマシな人生を送るために必要な技術、知識を身につけようとしているに過ぎない。こうして生きていることで、どうしてもしたいことなんて何もないのだ。小説を書いてみたいとは思うが、人生を賭けてまでやりたいとは思わない。そもそも、僕はものを創るということにあまり興味がないのだ。人間はすでに、多くの人が多くのものを創ってきた。もう、僕にできることなど残されてはいない。過去に誰かがやったようなことを、さも自分が初めてやったかのように自己満足するくらいだ。

絶対の価値なんてない。自分にとって一番大事なものがないのだ。だから、そのために努力しようという発想もない。でも、世の中の多くがそう考えているのではないのか?人生の目的を定めて、そのために生きている人間がどれほどいると言うのだ?

絶対に正しい考え方なんてない。科学は1つの方向性を示すが、それが正しいとは限らない。結局、人生の目的なんて問題に答えを出すことはできないのだろう。きっと、どこかの偉い哲学者が言っていることだろう。「人生で何をすべきかを知ることが、人生の目的だ」と。

何のために生きるのか。そのために何をするのか。真剣に生きている人間にとっては、永遠の命題なのだろうな。僕だって、人生の岐路で道を一歩違えていれば、こんな問題を一生懸命考えていたかも知れないのだ。いや、そんなこともないか。結局、現代の大学にいたら、自分の研究に手一杯になって、こんな答の出ない問題を考える余裕なんてなくなってしまうのだ。こんなことを考えることが、人間に深みを与えるのだろう。言葉や外見に現れない人としての魅力を作り出して行くに違いない。そして、こんな命題を考える機会を失った若者たちは、人生の目的を考えることすらせずに、ただ流されるがままに生きているのだろう。それでいいのか?確かに、1つのことに打ち込んでいる姿は外から見ていて良いと思えるだろう。しかし、それが本当にその人のためになっているのかと言えば、はなはだ疑問に思える。


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