Seakの日記
日々感じたことを書き留めていこうと思っています。

2003年03月25日(火) 成績

2003.04.15 (Tue) 9:25:31

昨日、課程主任の教官のところまで行って、自分の成績を聞いてきた。大学院の推薦を受けるために、成績順で見て22番より上でなければならないのだ。と言っても、かなり概略の部分しか教えてくれないのだが。結果は5番から10番。いつも一緒に講義を受けている友人たちがいるが、その人たちはみんな5番から10番と言われたらしい。まあ、確かにみんな似たような成績だし、そのくらいのものだろう。

彼女は、どの程度だったのだろう。高専では目がくらむほどの優の羅列だったようだが…。ただ、彼女が優秀だとか、そういうことを別にしても、彼女の成績はかなり良い方であるに違いない。

高専出身者の成績表かはかなり特殊で、高専の単位が認定された分は、すべて成績評価の対象にはならない。従って、大学に入ってからの1年間だけで、すべての成績が評価されるのだ。そして、3年次ともなると、かなり専門の科目が多くなっている。基礎教養の科目は大抵、成績認定の対象になっているのだ。そして専門の科目というのは、最低限必要な専門的知識とそれに基づいた考察ができれば、かなり簡単に優が取れる。まあ、あくまでも僕が行っている大学の場合は、だが。東大だったらその程度じゃ無理だろう。ちなみに僕の場合、最低限必要な専門的知識というレベルまで到達していない。にもかかわらず、その不十分な知識に基づいた考察のみで優をもらえているのだ。この日記程度の文章が書ければいいというわけだ。そして彼女の場合、すでに大学に入ってくる前から、必要な専門的知識を得てきている。だいたい、僕たちが1年次にほんのわずか、そして2年次に学んできたような専門科目を、彼女は高専の2年次から5年次にかけて、4年もかけて学んでいる。1年とプラスアルファに対して4年だ。仮に大学と高専に教育レベルの差があったとしても、それを補ってあまりある時間の差だ。

ちなみに、僕が普通科の高校にいる間にも専門科目を学んでいたのだから、当然その代償は存在する。たとえば、世の中には分数のできない大学生というのもいるらしいが、普通の(理系の)大学生であれば、三角関数の基礎くらい、誰でも解ける。加法定理の証明が東大で出て、多くの人が解けなかったと言われているが、証明はともかく、計算くらいできるのが普通だ。だが彼女の場合、この辺の知識が欠如している。…それで何の不都合があるのか、と問われると答えようがないが。高校で学ぶ知識など、あまり役に立っていないような気もする。

まあ、要するに彼女は、基礎教養の部分が若干欠けている代わりに、もともと専門的な知識は負けようがないのだ。まあ、それだけで十分な上に、彼女の考察はどう見ても僕より上だ。レポートに目を通した瞬間に、敗北感に打ちひしがれるくらい違う。大学の教授あたりが書いた文章なら、それはすごいのが当たり前でいちいち劣等感を持ったりしないが、さすがに自分と同じ歳の、しかも自分が好きな人が書いた文章が明らかに自分より上となると、さすがに悲しいものがある…。もっとも、それは文章力がどうとかではなく、文章を書く元になっている知識がまるで違うからなのだが。知らないことについて、それをごまかして必死に書いている僕の文章と、知っていることについて、時間をかけてゆっくり考えたことを書いている彼女の文章とでは、そもそも違って当たり前ではある。彼女の方が優れた文章を書いているが、きっと僕の方が苦労して書いているに違いない。

上にも少し書いたが、高専というのはあくまでも専門分野を学ぶところだ。従って、基礎はそれに付随するという扱いになるそうだ。前にも書いたが…。だから、たとえば三角関数の場合、専門を学んでいるときに三角関数が必要になったら、そのときになって必要な公式だけを学ぶ、という形になる。専門知識の最も重要な部分さえ理解できれば、三角関数の方はその場で捨ててしまうと言っても過言ではないかもしれない。専門知識を体系立てて説明するために、それに必要な基礎はあえてつまみ食いし、体系として整理することはしない。要するに、高校のようにいろいろな分野を順番に学んだりしないということだ。これはこれでいいような気もするが…。なんと言っても、高校と違って必要性が明確だ。そこで説明している数式が理解できなければ、話の筋道が分からない。今、この専門の知識を理解するために、どうしても三角関数が必要だ、という形で数学を学ぶ。本来、数学とはそのような学問ではないが、必要性が明示されるのはよいことではないだろうか。

ちなみに、では数学とはどのような学問なのか、ということなのだが、要するにこれは貴族の暇つぶしだ。従ってそもそも数学は、「数学する」コトが目的であって、数学によって新しい何かを得ようとか、そういう目的があったわけではないらしい。「問題を解く」こと自体が目的であり、解ければそれで完結する。何のために問題を解いているのか分からないという子どもたちが多いようだが、そもそも問題を解くために数学をやっているのであって、それ以上の目的はない。まあ、これが本来の数学の姿なのだそうだ。もちろん、これは古代ギリシアかどこかの話であって、現代は違うわけだが。

とにかく、一部の貴族の高尚な趣味であった数学を、すべての人に教えるのはそもそも無理があると思う。だからどうしても使いたければ、その必要性を納得できる形で示すべきではないだろうか。数学の用途など、現代では腐るほどある。最後の聖域と言われた整数論すら、今やコンピュータ科学に浸食されつつある。暗号化の手段として整数論が使われようとしているのだ。その詳細については、勉強したのだが忘れてしまった…。

ちなみに、当然のことではあるが、先に目的があった数学も数多く存在する。たとえば確率論は、誰だか忘れたが、なんかの賭に勝つために考え出した数学だと言われているそうだ。高尚な趣味が、1000年も経つとずいぶん様変わりしてしまうものだ。最近では複雑系の数学がそれに当たるだろう。数式で記述できる決定論的問題であるにも関わらず、そこに一定の規則性は見あたらず、初期値のわずかな変動でその後の値がまるで変わってしまうという謎の世界だ。

なんかたくさん書けたなあ。入りきるのだろうか。

2003.04.15 (Tue) 10:11:37


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