2002/8/31 0:22 千と千尋の神隠しを見た。 今さらという気はするが…。 どうせなら旧作になるまで待っても良かったのだが、 まあ、そんなに料金は変わらないだろう。
感想は、思ったより良かった、という感じ。 もののけ姫より良かったかな。 ただ、もののけ姫もそうなのだが、 どうも名前だけ見るとつまらなさそうに見える。 今まで見ていなかったのも、その辺が原因だ。 今日だって、母が見たいと言わなければ借りてきたりはしなかった。
ところで、序盤に千尋が署名するシーンがある。 そこで、名字を書いているわけだが、 その名字が、どうも「藤見」に見えてしまった。 まさか、そんなことはないと思うのだが。 マンガの読み過ぎかも知れない…。
調べてみたが、案の定、違った。 主人公の名前は「荻野千尋」らしい。 うーん、名前だけだと特徴的な気がするが、名字も合わせるとかなり平凡な印象を受ける。 そういう名前を選んだのだろうか。
どうせだから、他で見ないような分析をしてみようかと思う。 まず、物語の展開。 外連(けれん)というべきなのか何なのか、よく分からないのだが、 とにかく、見る人間の理解力に任せ、 いい加減になっている部分は確実に存在するように見えた。 まあ、これをいい加減と取るか絶妙なバランスと取るかは人それぞれだが。 ファンタジーを描くとき、絶対不可欠な要素が存在する。 それは、物理法則以外の法則を、どのように表現するか、ということだ。 今時の人間であれば、物理法則以外の法則が存在することに 抵抗を示すことは少ないだろう。 それこそ、そんな人間は科学者くらいだろう。 科学者だって、証明が不可能だというだけで、物語で描くことまでいちいち文句を言ったりはしないはずだ。
だが、問題は程度だ。 そして、この部分に必ずごまかしが生じる。 法則を提示し、それが感覚的に理解できなければ、 定義と法則をもって証明する必要が生じる。 そこまで厳密でなくても、それに近いことをする必要がある。 ファンタジーにおける非現実的な現象は、 それがあることを納得するのは容易だが、程度を納得できるように示すのは極めて難しい。 あれができるなら、なぜあれができないんだ、おかしいじゃないか、となる。 このとき、ファンタジーとして進むべき道は2つ。 まあ、他にもあるかも知れないが、僕の知る限りは2つだ。
一般に、世の中でファンタジーと呼ばれる小説などの手法が、 何らかの理屈でできることとできないことを説明する、という方法だ。 例えば、精霊の力を呪文によって借りている、などということだ。 精霊の力を借りているから、精霊にできないことはできないし、 呪文を知らなければ精霊を行使することはできないから、自ずと制限が生じてくる。 このような制限を明示しているのがハンター×ハンターというマンガだ。 まあ、ファンタジーと言えるかどうかは分からないが、とにかく、「制約」という言葉を示している。
そして、千と千尋の神隠しで用いられている手法は、そうではない。 圧倒的なストーリーと目眩く展開で、細かい矛盾を飲み込むという方法を採っている。 見る人間は、主人公の千尋と同様、 なんだかよく分からないがそういうことなんだと思って、物語を見ていくことになる。 自分たちの作り出す世界と物語に、絶対の自信があるからこそできることだ。 本来なら大きな問題となりうるリアリティを、問題としないだけの出来だと信じていたのだろう。 そして事実、多くの人間が、それを認めたはずだ。 あの世界にどのような魔法が存在するか分からず、細かい疑問が無数に存在したまま放置されても、 物語を純粋に楽しめたはずだ。
ただ、問題はあると思う。 僕の周りではよく聞くことだが、 スタジオジブリの作品は、序盤の方が良かった。 天空の城ラピュタや風の谷のナウシカなどは、何度でも見ようと思うが、 もののけ姫や千と千尋の神隠しは、そういう印象は受けない。 原因はいろいろ考え得るが、 その一つとして、物語の性質が上げられる。
序盤の作品は、よく言えば簡単、悪く言えば内容が浅かった。 浅いと言っても、十分訴えるものはあるし、2時間のアニメーションとしては十分すぎるほどの内容だ。 だが、おそらくは、それでは満足できなくなったのだろう。 誰がそう思ったのかは、よく分からない。 宮崎氏かも知れないし、よく多くの利益を求めたスポンサーかも知れない。 とにかく、より重い、より強いメッセージを、映画にこめようとしたのではなかろうか。 もちろん、宮崎氏が疲弊したとか、そういう原因も考え得るが。 結果として、作品としては決して悪くないものであるにもかかわらず、 見ていて疲れる、分かりづらい、負担に感じるものに仕上がってしまったわけだ。 もちろん、これは僕の感覚で、他の人がどう思っているのかは知らない。 ただ、シンプルさを失っていることは間違いない。
これは、スタジオジブリの映画に限った話ではない。 世の中のいろいろなところで、そういう兆候が見られる。 今まで多くの人が多くの作品を発表してきたことで、 独自性を発揮するには、物語を複雑化させなければならなくなってしまったのではなかろうか。 その端的な1つの部分として、登場人物の増加が挙げられる。 ゲームの場合は特に顕著だ。昔はせいぜい4人程度だった仲間が、 ものによっては100人を超えるものだってある。 キャラクターを丁寧に描写すること自体はいいのだが、数が多すぎて疲れてしまうのだ。 それもまた、仕方のないことか。 ある意味では、作品を提供する側が、わざわざ見る人間のために レベルを落とさなくても構わない、と考えるようになったとも言える。
しかし、千と千尋の神隠しで見る限り、 傲慢な経営者の心理や中間管理職の態度、その他様々な登場人物に反映させた現実社会は、 小学生に理解しろというのは少々酷なのではなかろうか。 分からなくてもそれなりに楽しめるかも知れないが、 ただでさえ疑問点が残るこの作品で、さらに疑問点が増えてしまう。 …そういう細かいことなど気にしないようにしなければ楽しめないということだろうか。 まあ、こう言う僕だって、今になって思い返しているからこう思うだけであって、 見ているときは抵抗など感じなかった。 それでいいのかも知れない。 理屈など関係ない。見ていて楽しければいいのだ。
ところで、鳥人間コンテストを見た。 東工大が優勝した。 機体などもなかなかすばらしいと思ったのだが、 それ以上に印象が強かったのは、彼らの話し方。 先輩によると、あれこそがアニメオタク、通称(?)アニオタというやつらしいのだ。 まあ、テレビの話し言葉をそのまま使うよりマシだとは思うが、それにしてもすごい。
ああ、また遅くなってしまった。 もう寝なければ…。 気づけばもう9月だ。やれやれ…。
2002/9/1 3:47
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