お利口、ではなく、「檻」考。4月公演「檻と盆栽」にちなんで、「檻」というものの持つ哲学的意味について考察してみた。 今から10年ほど前、俺が夜間の福祉専門学校に通ってた頃のこと。昼間にはいろいろバイトしたけど、ある時期、俺は警備員というのか、工事現場で交通整理みたいなことをやっていたんだ。とにかく日銭が稼げる仕事ということでやってたわけだけど、俺が派遣された現場はかなりヒマだった。朝8時から夕方5時までの拘束時間のうち、実働時間はおよそ20分。こう聞くと楽でいい、と思うかも知れない。確かに、肉体的にさほどきついわけではない。「だらしない格好はするな」と言われているから座って休んでるわけにはいかないけど、それでも現場作業を思えば、あんなものは肉体労働のうちには入らないだろう。 でもね、精神的にはちょっと辛い。8時間中の7時間以上は、何の仕事もせず、しかし持ち場を離れられない時間である。毎日、7時間超のゆるやかな監禁状態に置かれることによって、俺は7〜8千円の日当を手にするというわけだ。俺は、毎日約7時間の空白を埋めるために、様々な思考に走った。その多くはつまらない考えであったと思う。 そんな経験のなかで俺は思った。人は皆、生まれながらにして見えない檻に囲まれ、そこから決して逃れることのできない存在ではないか、と。だからこそ、自由に憧れ、夢に羽ばたこうとするのではないか。そして、いつしか夢破れ、いくつもの傷を負いながら、それでも生き続けていこうとするのだ。生きるってことは悲しいことだ。でも、それゆえにお互いを慈しみあえるのかも知れない。そしてまた、 悲しみの数だけ余分に喜びの意味を知る。辛さを知るからこそ、幸せをかみしめることができるのだ。
で、「檻と盆栽」公演初日まで40日ほどとなった今。気持ちをどんどん乗せて 素晴らしい舞台にしていきたい。「檻」のむこう側にあなたは何を見るだろうか。
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