カタルシス
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劇団め組公演『幕末シリーズ 会津篇・戊辰残照』楽日楽回にて観劇
【あらすじ】 君臣ひとつになって幕末の動乱期を駆けぬけた会津藩。 孝明天皇に最も信頼され、誰よりも徳川幕府に忠義を尽くしながら、その士魂故に逆賊の汚名を着せられた彼らが選んだ道は、最後の侍としての意地と誇りをかけて戦うことだった─
昨日の日記にもチラリと書きましたが め組の今回の公演は幕末会津のお話でした 特別会津に詳しいわけじゃないから細かい部分への突っ込みはできませんが 毎度思うにこの劇団の戯作者である合馬百香さんは あまり史実にこだわらずにお話をつくる人のようです そして演出の与儀英一氏は相当のドリィマーと見た つか 毎回思うんだからもう認定でいいような気もする(苦笑)
史実を踏まえて観ると「あれれ?」と思う部分が多々あるのですが 結構潔いというか ここまで違ってたらもうかえって気持ちがいいよ!的な展開が多いです 架空の人物の登場は当然のこと いるはずの人がいなくなってても それはそれこれはこれ その代わりこの劇団は 小さい所帯ながら劇的な演出で感情に訴えるのがとても上手です ベタだろうがお約束だろうが 泣かせようとしてるのが解っていても泣けてきます 悔しいけれど涙が出てくるんだから仕方ない チクショウめ 後になって落ち着いて考えると つじつまが合ってなくて「んん?汗」と思ったりもするんですが 「何であそこで込み上げちゃったんだ??」とか考えたりもするんですが
そこが手管だというのだよ関口君
まぁあの 実際の会津はもっと悲惨で凄惨で凄まじい末路を辿っているので 綺麗にまとめてある時点で本物とは程遠い話になるんですが そんな生々しいものを舞台で観たいわけがないし 泣ける以前に凹むからさ あの藩は・・・ 判官贔屓のお国柄としては肩を持ちたくなるエピソードてんこ盛りの御家なんですよね 家柄は良く忠義に厚く最後まで筋を通して散った藩なので 江戸っ子の心情は傾きまくっただろうなと 藩の人たちはたまったもんじゃなかったでしょうけれど 藩内教育も行き届いていたらしいのでね 精神的に後ろめたいことなく死んだり生きたりできたんじゃないでしょうか
⇒●戊辰残照 ⇒●劇団め組
オマケ 【戊辰敗戦後の会津の話】
戊辰後の会津藩は代々の土地を追われ 容保がまだ幼かった嫡男・容大(かたはる)に代を譲るという条件の下 旧領である猪苗代か未開の斗南か 統治先の選択を迫られます その際彼らは敢えて新天地である斗南を選び 過酷な環境の土地へ移住していくのです 斗南は下北半島の一部で現在の青森・岩手にまたがる三万石の領地でしたが 当時はその大半が未開の森林であり 痩せた土と極寒の地でした 三万石といわれた石高も実高は七千石程度であったと言われています 移住の際身分を捨て土地に残った者もいた上 共に移住してきた家臣には寒さと飢えで命を落とす者が続出しました 藩名も「斗南藩(となみはん)」と改められ 徳川親藩の富も栄光も事実上失ってしまったことになります
明治の世となり廃藩置県が行われ 藩主容大は参事を経て子爵の爵位を与えられます ここにようやく華族として 会津松平の代を存続させていけるようになったのでした
幕末の動乱を藩主として生きた容保公は 藩主の座を追われた後 因幡国鳥取藩に幽閉され2年後紀伊国和歌山に移されます 更に2年経ち斗南へ送られ 旧臣らと合間見えることになりますが半年後には東京に移され そこで「預り処分」を解かれて自由の身となりました 明治13年には日光東照宮宮司と上野東照宮祠官を兼務し4年後両職とも免職になりますが 明治20年には日光東照宮宮司に復職 更に二荒山神社宮司を兼務することとなり 皇典講究所監督等の職にも従事しました 明治26年に二荒山神社宮司を辞職していますが 日光東照宮宮司と皇典講究所監督の職は生涯つづけており 先祖を祀る徳川の精神と天皇を敬う尊皇の精神を最後まで貫いた孤高の人であったと後世に語られています
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