白虎草紙
『遙か』の白虎組についての四方山話、SSなどです。

2006年04月11日(火) 散ればこそ




満開の時を過ぎた夜の代々木公園




散りゆく桜に思い出した、とある一節。


持って行った原稿は、朱を入れられるなんてものではなく、
目の前でずたずたに引き裂かれた。
「こんな説明は不必要だ」といっては切られ、
「文章が冗漫だ。形容詞が多すぎる」といっては削られ、
なかんずく、
「これはあんたの一番いいたいこと」と消されたのが
一番身に応えた。

ジィちゃんの説では、自分のいいたいことを我慢すれば、
読者は我慢した分だけわかってくれる、
自分自身で考えたように思う、
読者にとって、これ以上のたのしみはないではないか、
というのである。



ここで、ジィちゃん、とは骨董の目利きにして、
批評の神様・小林秀雄の親友であった青山二郎。

原稿をずたずたにされたのは、
青山二郎の弟子、
白洲正子である。

(「いまなぜ青山二郎なのか」 白洲正子 p28 p/b新潮社 より引用)

 
文章についての言葉であるが、
これは絵や音楽、演技など、
芸術すべてに通じることであるのかなと思う。


さらに、人との会話、やりとりにも、
通じることなのかと思う。



有名な、

面白き こともなき世を面白く


高杉の詠んだのは確かここまでで、
後に別人がわかりやすいよう、下記の下の句を
繋げたようだが、
上の、上の句だけで確かに充分であろうと思うし。

(下の句は、「住みなすものは心なりけり」)


また、伊勢物語の、

散ればこそいとど桜はめでたけれ
浮世に何か久しかるべき



も、
ある貴人への慰めとしての側面は抜きに、
テキスト主義のよう、
この歌だけを見るならば、
上の句だけで、
さらには「散ればこそ」の五文字だけで、
充分に伝える力があり、
人の想像を喚起する大きな余白の
魅力があるように思う。



俳句を趣味とされる先輩が、
「和歌は私には長すぎるの」
を微笑んで以前、仰ったとき。

私は、長いほうが云いたいことを
伝えやすいのでないかと思ったが。


より、大きな想像を、
想像の面白さを、
読み手に与えてくれるのは、
なるほどいいたいことをより削る、
俳句のほうであるのかもと、
遅ればせに思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


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