★悠悠自適な日記☆
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2002年10月04日(金) ピアノ

私がこれまで生きてきて一番辛かったことは「音楽」が聞こえなくなったことである。

 私は2歳の頃からピアノを触っていたらしい。母がピアノの講師をしていたこともあって、私は音楽の中で育った。別に英才教育を受けていたわけでは全くないが、他の子よりも始めるのが早かったし、私自身楽しんでやっていたようなので、周囲の人々は私が母のように音楽の道に進むと思って疑わなかったらしい。

 しかし、私にはそのつもりが全くなかった。音楽は何よりも好きだったが、ピアノを弾くことは私の1番にはならなかった。もっと遊びたかったし、幼い頃から役者になりたいという夢も漠然と持っていた。

 しかし、成長するにつれて、そういった気持ちが母の意見とよく衝突した。ひどい時は、弾けるようになるまでご飯を食べさせてもらえない。友達が遊びに誘いに来ても追い返される。逆らって練習を拒めば2階のベランダから楽譜を投げ捨てて、その後すぐに外に放り出されたこともあった。その道を志す者ならともかく、その気のない私にとっては地獄のような日々だった。そして私はそれを助長するかのように反抗しまくっていた。

 それななのに、中学を卒業する頃になると、私は自分から「ピアノで大学に行きたい」と母に言った。それが一番いい道だと思ったからだ。ここまで長く続けていると、ピアノを弾くことは私の1部で、運命であるかのように思えていた。それに、人より少し上手いことで誉められたり、頼りにされたりすることもまんざら悪い気もしなかった。その気持ちがあればこれからもやっていけるだろうと思った。そして何よりも、ここで決めてしまえば母との対立もなくなって楽になるかもしれない。それはどこか諦めのような決断だった。

 ところが私は演劇と出会ってしまった。一目見た瞬間「ここは私の居場所だ。」と確信してしまった。それは私が2歳の頃から積み立ててきたものに匹敵するくらい大きな存在だった。高校で部活はやらないと決めていたのに、私はどんどんのめり込んでしまった。

 私はピアノと演劇の間で揺れ続けていた。一度決めたことを途中で投げ出してはいけない。しかし、両立も限界だった。ピアノと演劇、どちらを選ぶか決着をつけなければならなかった。しかし、この気持ちを母にも、ピアノの先生にも言い出せないでいた。

 そうしているうちに、私のこの曖昧な態度が最悪の事態を招いた。ある日、家に帰ると、母が泣いている。母のそんな顔を見るのは初めてだった。そして母はこう言った。「O先生(ピアノの先生)もう、面倒見きれへんって。お宅の娘さんどういうしつけしてるんやって、さっき電話かかってきたわ…。」私は急に目の前が真っ黒になった。そして「破門」という2文字が私の心臓をエグり取るかのように、私を息苦しくさせた。自分で決着をつけなければならないと思っていたことが、中途半端なまま私の手から離れていってしまった。これまでどれだけ拒んでも離れることがないと思っていたピアノが、いとも簡単に消えてしまった。

 その時から、私には音楽が聞こえなくなった。音楽を聴くことによって生まれる感動や言葉、世界が全く分からなくなった。ステレオから聴こえる音も、テレビから流れてくる音も、人の声さえもが雑音のように疎ましく思え、吐き気がした。
 
 そうやってずっとふさぎ込んでいた私に声を掛けてくれたのは同じ部の仲間だった。友達はただ「また、やりたいと思った時にやればいいんじゃない?」とだけ言ってくれた。とても優しい言葉だった。しかし、この言葉を受け入れるのには、少し長い時間が必要だった。純粋にピアノを弾くことを楽しみたいだけなのだと思えるようになったのは、つい最近のことである。

 私がどれだけの思いでピアノをやってきたか、そしてどれだけの思いで演劇を選んだのか、その気持ちを証明するためにも、私は演劇に執着した。そして、自分自身の意志で音響をやりたいと申し出た。

 しばらくたって、これまで私が演劇をすることに大反対だった母が、初めてこう言った。「あんたは、あんたが選んだ道を進めばいいねん…。」と。私はただ「うん。」とだけ答えた。心の奥底に沈んでドロドロしていた塊が、少し小さくなった気がした。

 それから私は以前よりも増して鮮明に音楽が聞こえるようになってきた。

 しかし、ピアノの音だけは、まだ、私には聞こえてこない。


嶋子 |MAILHomePage

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