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6月になった。紫陽花と雨と蛙と水色の季節になったなぁと思う(なんだ、そりゃ…)。 ふらふらと彷徨っていて、いつの間にか買い物をしていた。 右:まんが4冊。上2冊は古本屋さんで買ったもの(以前持っていたのだが、引っ越しの時にどこかにしまって行方知れずになったので買い直した)。下の2冊は本屋さんで正規の値段で買ったもの。あと、文庫本も1冊買ったが、写真には撮っていない。 真ん中:「たれぱんだ」の「メールガード」。つまり、携帯電話のメールを横から覗き見られるのを防止する役割を果たす。それから、画面の傷や汚れも防ぐ。ただ、私の携帯電話は古い型なので(「メールガード」の下、まんが本と葉書の間に少しだけ見えているのが私の携帯電話)、実は買っても意味がない。買った理由は「それがたれぱんだだったから」。携帯電話の機種を変更するつもりはない。愛着があって、絶対手離したくないのだ。というわけで「当分使い道はない」。 左:白紙の葉書100枚。表も裏も自由に使えるもの。というか、実は100枚も要らないのだけれど…。 左上:「ミニチュアワールド キャラアロマ ラベンダーの香り たれぱんだ」の外箱と本体(上が外箱で下が本体)。これも、別に芳香剤が欲しかったわけではない。買った理由は「それがたれぱんだだったから」。 上:「おーいお茶」のペットボトル(これは喉が渇くので…)。 ![]() 「そよ風」に書いたことを忘れないうちにこちらにも移動させておく。 ずれ、あるいは違和感、あるいは食い違い、を感じることは何かへの第一歩ではなかろうか。「何か違う」「何か齟齬がある」と感じることから、新しい方向へ進むことができることもあるだろう。 もちろん、「似ている」「こんな部分は同じだ」と感じることから、新しい方向へ進むことができることもある。 いずれにしても、「ずれている」「何か違う」という感じも大切にしてやりたいと思うのだ。 それからもう1点。 最近、私は私自身の素直な気持ちを少しずつ周りに伝えようとしているが、方法を誤りがちでしばしば衝突している。どうしても周りが見えなくなってしまっていて、「私が」「私が」の一方的な主張になりがちになっているかもしれないということに気がついた。伝える時もその方法が適切でなくて、一方的になったり、分かって欲しいという気持ちの押し付けだったり、つっけんどんになってしまったり。 もっとも、今までは私は自分の素直な気持ちに真正面から向かいあうことすら避けてきたから、それに比べるとちょっとは進歩したかなとは思う。思うけれど、次には、それをどのように周りに伝えていくか。周りのことも見ること、周りのことも聴くことがどれだけ大切なことか。常にそれを忘れずにいたい。 「やっとここまで来た。でもまだもっと先へ行きたい」という気持ちを、最近強く持っている。今日、ある人にそのように伝えると、「欲が出てきましたね」と笑って言われた。「そうかもしれないですね」と笑って答えた。そう伝える前は落ち込んでぼろぼろだったのに、もう限界だって思っていたのに、話し終わった後は、明日か明後日くらいまでは生きていられるかなと思った。明後日になったら、また、明日か明後日くらいまでは生きていられるかなと思えるように周りを見たり、話したりということを繰り返せばいいんだ。その繰り返しの中で、それでも落ち込んでどうしようもなくなったら、眠ってしまおうそうしよう。 今は、明日明後日くらいは、生きていられると思う。体調が悪くて起き上がれなかったりもするけれど、そういう状態だからこそ見えることもあるし、今は、そう思っているという事実があるだけで私は十分に幸せだ。
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