風紋

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2003年11月23日(日) (タイトルがつかない…)

今日はうまく書けるかどうか自信がないけれど、それでも勇気を出して少しでも書いてみようと思いつつ、やはり少しの躊躇いも残しながら、それでも書く。


「同じ出来事に遭遇したから、同じ気持ちを抱えているだろう」として、ひとくくりにされて扱われるのは、随分とつらいことではないだろうか、と、思う。

確かに、同じ出来事に遭遇すると、同じような気持ちを持つかもしれない(持つ可能性は大きいと思う)。ただ、その出来事をどう受け止めるか、どのような状況の中でその出来事に遭遇したか、という点からして、既に「同じ」ではなく、1人1人違うものであるように思う。そこで生じる気持ちも、「同じような」ところを抱えながらも、それぞれ違うものであって、それぞれを大切にしたいものだと思う。私はそう思うので、複数の気持ちを「同じもの」として無遠慮に扱うことには、戸惑いと申し訳なさを覚える。

しかし、「同じような気持ち」があるからこそ救われる部分も大きいように思う。それは、別に「同じ出来事」に遭遇していなくてもよいのかもしれない。「同じ出来事」に遭遇していなくても、あぁ、と思うことはある。

“ただ隣に居て、心から相槌を打ってくれれば嬉しいのよ”と思うこともある。

追記:↑“ただ隣に居て、心から相槌を打ってくれれば嬉しいのよ”と書いたが、相槌を打ってくれなくてもいいということに後で気がついた。相槌を打ってくれなくても、迷っても、戸惑っても、悩んでも、居てくれればそれだけでいい、と思う(2003/11/24,23:15)。


最近、私は私自身に対して「自分が痛みを抱えていると自覚できていない人間に、他の人の痛みをわかることができるのか?」と問い掛けている。あくまで私が私自身に対して、私自身のために問い掛けているだけなのだけれど(だから、一般的にどうこうというつもりはない)。

私がこれまで生きてきた中では、いろいろなことがあった(などと書くと波瀾万丈の人生のように思われそうだが、そうでもない)。その中には、悲しいことやつらいこともあった…ような気がする。その時に、私はきちんと悲しんできただろうか?つらさを十分に味わってきただろうか?と考えると、どうだろう…と思うのだ。

「大したことはない」「悲しくもつらくもない」「大丈夫」というふうに他の人の前で振る舞おうとし、実際にそうすることによって、自分自身に「大したことはない」「悲しくもつらくもない」「大丈夫」と言い聞かせてきた。そう思うようにしてきた。結果、悲しみやつらさから随分と逃げてきたような気がする。1つ1つのことにきちんと向き合ってこなかった。

こんなことを考えるのは、最近「あの頃はこうだったのだな」と振り返ることがあるからだ。そんな今も、未来のある時に、「あの頃はこうだったのだな」と振り返られているかもしれないけれど。


ここのところ、人に会う練習をしてきているように思う。…と書くのもおかしいのだけれど。

私の話を他の人にして、他の人に聴いていただいて、自分自身を振り返って。

他の人の話を私が聴かせていただいて、ただただ聴かせていただいて、自分自身を振り返って。

もう少し、きちんと人と会えるようになれればいいのにな、とは思う。


休みを使って、身体面と精神面の調子を整えようとしています。とは言っても、これがなかなかうまくいかない。今日は少し頭痛がしたような気がしないでもない。

少し家事をしたり、少し仕事をしたり、少し掃除をしたり、少し連絡をしたり、少しテレビを見たり、少しお菓子を食べたりしながら、基本的には日当たりの良い部屋で、のんびりとしていた。こんなのでいいのかなぁとは思っていたが、少し自分が戻ってきたような気がする。


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浜梨 |MAIL“そよ風”(メモ程度のものを書くところ)“風向計”(はてなダイアリー。趣味、生活、その他)