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風紋 もくじ / この前 / この後
今日は、家族がみんな留守だったので、お昼過ぎまで1人で留守番をしていた。最初は、落ち着いて仕事ができるかなと思っていた。しかし、昨日に大きな仕事が一応目処がついたということもあり、気が抜けてぼーっとしていたら、不意に何とも言えないくらい寂しく心細くなってどうしようもなくなった。どうしたんだろう。今までもこんなのだったっけ…? 時々夜に感じる不安と少し似ていた。 お昼過ぎ、一番最初に帰ってきた家族と一緒に高校野球を見ていた。この夏は自宅にいることが多いということもあり、高校野球をよく見ている。私は野球はあまり詳しくないのだが(実は中学生の時まで、ストライクとボールがどう違うのかも知らなかった)、それなりに楽しんで、熱中して見ている。 私が思わず、 「これまで見てきてつくづく思うんだけれど、やはり、しっかり守ってしっかり球を見てしっかり走るという基本的なことが大切なんだねぇ…」 と言ったところで、ふと、家族が食べているベビースターラーメンが目に入り、何とも美味しそうに見えてしまったので、 「ところで、それ、ちょっとちょうだい」 と右手を出すと、 「その前振りは何?? 前の話題と全然関係ないよ…」 と、あきれられてしまった(分けてくれたけれど)。 高校野球を見ていると、私はどうしても、バックで応援しているブラスバンドの音に惹かれてしまう。「狙いうち」「サウスポー」などが使われていることが多いように思うのだけれど、たまに珍しい曲もやっている。今日は「ブラジル」を使っている学校があった。 「そう遠くない昔のことのような気もするし、ずっとずっと昔のことだったような気もする、そんな過去のある時に、もう二度と会うことのできない遠いところへ旅立ってしまった友人」に関するものをしまってあるファイルを出してきて、中にあるものを1つ1つ見ていた。「“過去のある時”から少し時間が経って落ち着いた時」に、彼女に関するものを1つにまとめておいて、大切にしまっておきたい気持ちになったのだ。手紙や写真はもちろんのこと、「プリントここにおいておくね」と書かれたメモや、彼女が手作りのお菓子を私に作ってくれた時に結ばれていたリボンまで。それから…、それから、私が書いた弔辞の原稿の下書き(内容はほぼ同じで、細部の言葉が少しずつ違うものが何枚もあった)、御両親に頂いた法要の案内、これも御両親に頂いた香典返しの包装紙、彼女に会いに行った時に持っていった花を買ったときのレシート。 1つ1つのものを見て、“あの時はこうだった”という思いや、何とも言えない寂しさを感じていたのだけれど、それ以上に“なぜ私はこれらを残しておこうと思ったのだろう”ということを考えていた。手紙や写真はわかるとしても、包装紙やリボンまで…? きっと自分には残しておくことが必要だと思ったから残しておいたのだろう(そして残し続けるであろう)けれど、なぜだかわからない。けれど、残しておきたいと思ったのは本当。 今もファイルの中は、少しずつではあるが、増え続けている。レシートなど、だけれど。 私の中には、どうしても、「死について(あるいは死に関することや、死を連想させることについて)語ることは、一般的にはあまり好ましいことではない」という抑制(?…どう言えばいいのか…?知識?マナー?)がある。実際にどうなのかはよくわからないし、私の周りでも本当にそうなのかどうかよくわからない。けれど、普通の会話では、明るく楽しい話をする方が好まれるだろうし、もし、話している中で私が死について話すと“何なの、この人は”と思われたり、あるいは“この人は大丈夫なのかな。もしかして今は精神的に落ち込んでいるのではないかしら”と心配されたりするだろうと、そしてそうなったら嫌だなと思ってしまって、飲み込んでしまう(あくまで私は、だが。ここにこう書いている今も、そう思っている)。 その抑制(?知識?マナー?)を、時々とても重いものに感じる。はねのけたいと思う。そういうことと関係のないところで死について話すことは許されないのか?と思う(私のいる環境では許されないだけか? それとも私が許されないと思っているだけか?)。死について考えたり語ったりすることは、結局は生について考えたり語ったりすることにつながるのではないだろうか…というのは、希望的観測に過ぎないのだろうか。 そういうわけで、私は死について語ってはいるけれど、生きたいから語っている。最近、私自身がやや落ち込んで時々どうしようもない気持ちになっているのは事実なのだけれど、それでもけらけら笑ったり、家族や友人と楽しく話したり、空がきれいで幸せだなぁと思ったりするし。 一方で、死について話すことや、「死」という語を自分の手で文字にすることは、精神的につらいな、とも思う。この文章の中では何度も文字にしてしまっているけれど、1回1回文字にするたびに、胸を刺すようなどうしようもない苦しさがある。伏せ字にすると意味がわからなくなってしまうだろうから、今は何とか耐えて書いているけれど。 自分にとって大切に思うものについて、「自分が大切にしなければ、攻撃されたり壊されたりするかもしれないから、なんとしても自分が守らなければならない」と頑なな気持ちになってしまうことが、私には時々あるのだけれど、少し頑なな心をゆるめてみると、同じように大切に思ってくれる人が少しはいるかもしれない…と、最近は少しだけ信じられるようになった。 私が人見知りが強いのは何とかしたいと思っているし、そうでないと次に進まないような気がしている。
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