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風紋 もくじ / この前 / この後
さすがに疲れていたのか、起きたら昼近く。研究会を休んでしまった。ごめんなさい。 滋賀県豊郷町立豊郷小学校の校舎建て替えをめぐって、町長と住民が対立して騒ぎになっているということを新聞で知った(詳しくはこちら)。どちらが正しいのか正しくないのか、文化財的な価値の面から考えるとどうなのか、安全性の面から考えるとどうなのか、はわからない(今、書くことはできない)のだけれど、ただ、校舎が壊されるかもしれない、壊されるのは許せないという住民の方々の気持ちは少しだけわかるかもしれないと思った。安易に“わかる”というのは失礼かと思うし、同じ立場にない以上はわかり切れない部分もあると思うから、全部わかるとは思わないし言わないけれど、少しだけなら、わかるかもしれない、と。ガラスが割られた校舎の写真をネット上で見て、胸が痛んだ。 思い出はものに在るのではなく、心にあるのだから、もの=校舎がなくなってもかまわないという考え方もあるのかもしれない。この世界に存在するものは永遠に存在するのではなく、いつかはなくなっていくのだから、なくなるのを素直に受け容れた方がよいという考え方もあるのかもしれない。ただ、約3ヶ月前に、自宅の解体を経験した私は、確かに思い出はものではなく心にあるとわかっていても、永遠などないとわかっていても、それでもなくなるのは寂しいし哀しいんだよ、と思う。 理屈で説明できなくても、間違っていると言われても、おかしいんじゃないかと言われても、悲しむべきではないと言われても、悲しいものは悲しいのであって、他の何物でもない、と思った。そう感じること自体は否定したくないなと。理屈で説明できなくても、そう感じることがあるということは。 ガラスが割られた校舎の写真を見て、ふと、前の家の解体の場面を思い出した。見届けなければならないと思ったのだけれど、結局、重機が入っているのを見ただけで耐えられなくなったのだった。それでも頑張って見届けるべきだったのかもしれないけれど。 今でも時々、前の家のことを思い出す。あのドアを開けるときの力の入れ具合とか(建てつけが悪かったから)、廊下を歩いた時の足の裏の感触とか。覚えているつもりだったのに、忘れないつもりだったのに、日が経つにつれて記憶は確実に薄くなっていて、悔しくなる。忘れても生きてはいけるのだけれど、忘れたくないのだ。
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