沢の螢

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大晦日
2006年12月31日(日)

息子から夫宛に、「ブログ書いてるから見てよ」とメールがあった。
息子夫婦は、東京の下町に住んでいる。
40歳になったが、子どもは居ない。
忙しく、半年に一度くらいしか顔を合わせないが、この正月は、キャンセル待ちしていたハワイ旅行に行けることになり、今日の飛行機で発つはずである。
息子は、一人っ子だから、マザコンなどと言われないように、昔から、母親の私には、意識的に距離を取っているが、父親には、自然なスタンスで付き合っている。
だから、電話もメールも、私は夫から内容を間接的に知らせて貰うだけである。
ブログを見ると、今月になって開設したホヤホヤで、毎日、自分で撮った写真を載せ、そこにエッセイ風の文章を添えてある。
「今晩は(こんにちは)皆さん」で始まる文章は、その日その日に感じたことや、思ったことの平易な文章ばかりだが、世の中の動きも捉えて、率直な感想も入っており、我が息子ながら、なかなかいい線を行ってるなと感心した。
文体はですます調で、柔らかく、上から物を言うような調子もない。
ブログランキングに参加しているというので、開けるたびに、クリックしている。
「さすが私の息子だわ」と一人、喜んでいる。
こういうのを親バカというのだろうが、滅多にこんなこと書かないんだもの、たまには、許して貰いたい。

さあ、あと一日で2006年も終わり。
昨日は母に電話し、妹の家で年越しするというので安心。今、ケア付きマンションに住んでいて、正月も、そこで過ごすことになっていたが、やはり心細かったと見える。
日頃近くに住む妹が、ちょくちょく様子を見に行っており、母とも一番気が合っている。
5月に父が亡くなり、気弱になっているが、93歳でも、私達には、まだ母親でいたい母。
「風邪を引かないように、気を付けてね」という言葉が返ってきた。

この数日、あるネットサイトで、実に腹立たしい、不快なことが起こっていたが、騒ぎを起こした本人が、トーンダウンして、表面的には静まった。
誰とも特定できない人を加害者に仕立て、自分が被害者であると訴え、「追放」「排除」などの言葉を使い、サイト全体の力をバックに、怨念の対象である相手を、引きずり出し、人民裁判にでも掛けかねない勢いだったが、そんなことが、出来るわけがない。
「そういう事実は、存在しません」と、まずある人が言ったが、収まらず、今度はその人を相手に、攻撃を仕掛ける事態になった。
さすがに、「加害者」の名前まで出さなかったのは、本人の訴える被害状況がはっきりせず、いつ、どういう状況で起こったのか、曖昧なので、そんな恣意的なことで、迂闊に、名指しで攻撃すれば、明らかな誹謗中傷になり、場合によっては、司法の出番となるので、そこはわかっていたのだろう。
相手を特定しないが、対象になった人には、状況判断で自分のことだとわかり、ほかの人にも、わかっている。
だが、名指ししない限り「加害者は私です」と名乗るわけはないし、その相手から、もし「誹謗中傷だ」と抗議されても、自称被害者は、「誰とは言ってません」と逃げることが出来る。
つまり、相手への気遣いと言うよりは、自分の保身のためであり、騒ぎの当人は、こうしたネットの闘い方に馴れているのである。
みんなが黙って、見ていれば、感情の赴くまま、攻撃の言辞を吐きだしたあとは、いずれ、自分で収拾しなければならなくなる。
過去にも、似たことがあり、相手を結果的にその場から追い払ったあとで、人から窘められて、相手に謝り、落着したのだが、今回、また同じ事を蒸し返したのは、そのときの反省も、詫びも、本物ではなく、ただのポーズに過ぎなかったことになる。

そして、さらに騒ぎを拡大したのは、過去の現場には存在しなかった人が、正確な状況のわからぬまま、安易に反応し、「被害者」を救う正義の味方気取りで、旗振りをしたことだった。
ネットで困るのは、騒ぎの当事者はもちろんだが、それよりも、元々、自分が責任を持って収拾するほどの誠意も、度量もないくせに、中途半端に介入して、問題の核心をずらせてしまう人の存在である。
こういうのを「煽り屋」という。
こういう人は、今、実社会で話題になっている現象を、ファッションのように考えて、遅れまいとする意識が働くから、取りあえず、話題に飛びつくのである。
本当に「加害者」が居るのかどうかわからない状況で、もっともらしく「人に危害を加えるのは悪いことです」的な、マニュアル通りの説教を垂れたが、見えない「加害者」を傷つけただけで、解決にはならず、自分が盾になって、「被害者」を守るほどの心意気もないから、次第に形勢が不利になると、いつの間にか逃げてしまった。
取りあえず、時流に乗って、参加してみただけのことなのだろう。

救いは、普段は滅多に登場しないが、物事を深く冷静に見つめる賢者が、サイトに一人いて、騒ぎの本人にきちんと向かい、感情的でなく、理性的に対応したことだ。
自分がターゲットにされているわけではないが、敢えて火中の栗を拾い、その人の間違った点をわかりやすく諭し、その遣り取りのうちに、「被害者」も、気持ちが落ち着き、感情的な物言いも、収まった。
ネットは顔が見えず、じっくり話すことも出来ないが、こういう事態が起こってみて、文面から、ある程度、ネットの向こう側にいる人の人間性も、思慮の深さ、浅さも、うかがい知ることが出来る。

謂われなき加害者にされ、「煽り屋」から、「因果応報」などと非難された人は、最後まで、登場せず、沈黙を守った。
元々、「加害者」などは存在しないのだが、名前を出さなくても、攻撃の対象になっているのが誰かは、過去の状況から特定は出来る。
下手な発言をするより、我関せずを貫く方が賢明である。しかし、これは、かなりつらい事ではあろう。
だから、当事者でもなく、自分の利益にもならないのに、火中の栗を拾って、結果的に救ってくれたサイトの賢者には、どんなに感謝し、こころを救われただろう。
騒ぎを起こした人も、救われたことになる。
このまま暴走が続けば、やがて、「いったい誰のことを言ってるのよ」ということになり、名指しされた人も黙っていないだろうから、「あなた、ホントに被害者なの?」と、疑問を持つ人も出てくるからだ。
もし、その賢人が、深い知恵と人間性をもって、発言しなかったら、かつて品格のあったサイトは、無惨に荒れて、壊滅状態になり、カウンセラーか司法の出番ということになっただろう。
私の居る処じゃないと思いながら、見ていたが、その経過の中で、賢者の宝石のような言葉に触れ、その人がいる限り、やめずにおこうかと、考え直した。
盥のお湯だけでなく、赤ん坊まで流してしまうような愚かさは、無視すればいい。
黙ってみていた人たちの沈黙にも、意味がある。
それを感じたからである。

掃きだめに賢人ひとり年果つる
北風や首振りせはし風見鶏 13:25


雨の植物園
2006年10月01日(日)

午前中はまあまあの天気だったので、ウオーキングを兼ねて、深大寺へ行くことにした。
家から歩いて30分、ちょうどいい距離である。
昼少し前で、曇ってはいたが、雨は降っていなかった。
神代植物公園に行くと、今日は都民の日だからと言うことで、入場料がタダ。
知らずに行って、得をしたことになる。
春は桜などで、花一杯の植物園だが、秋は、花が少ない。
7日から秋の薔薇展があるというので、薔薇園に行ってみた。
ところが、花弁がみな開ききってしまって、花としては、あまり美しくない。
薔薇は、外側の花びらが開き、中央が少しつぼみのようになっているのが、一番きれいだ。
探したが、そういう状態の薔薇は、ほとんど無く、残念だった。
デジカメを持って、張り切っていた亭主殿も、ちょっとがっかりしたらしい。
「被写体がよくないなあ」と言いながら、それでも、色別に、何枚か撮ってきた。
間もなく、雨が降り出したので、蕎麦屋に入る。
新蕎麦の時期。
ザルを一枚ずつ注文。
蕎麦まんじゅうも、一つずつ食べて、帰ることにした。
傘を差しながら、バス停まで歩く。
家に着く頃は、結構な降りになっていた。

夜も更けて、雨戸越しに雨音がしている。
明日も、雨らしい。
亭主殿は、ゴルフの予定をキャンセル、同行者間で電話連絡をしていた。
最近は、みな年のせいか、無理してゴルフ決行という人もいないようだ。
10月1日が、こうして終わる。


「純情きらり」
2006年09月30日(土)

ひと頃まで、習慣のように見ていたNHKの朝ドラ。
子どもや夫を送り出してからこれを見、終わってから家事に取りかかるという、いわば時計代わりの役目をしてくれていた。
亭主がリタイアすると、朝早く起きることもなく、「時計代わり」が必要なくなり、見なくなってしまったが、今回の「純情きらり」は面白く、毎日愉しみに見てきた。
それも、今朝、ヒロインが亡くなるという、今までにあまり無い終わり方で幕を下ろした。

朝ドラというのは、大体が女の一生もの、あるいは、仕事や生き方を描いた一代記。
前者には、「おはなはん」や「おしん」、「澪つくし」があり、最近のものには、後者のタイプが多いようだ。
女性の社会進出が当たり前になると、家庭や男たちの影で尽くす、女の一生ものは、受けないのかも知れない。
いずれにしても、山あり谷ありの起伏の中で、さんざん苦労を重ねたヒロインが、最後はめでたしめでたしでエンディングを迎えるのが定番だが、今回のドラマは異色だった。

大正生まれの女性が主人公。
第二次世界大戦が忍び寄る時代を背景に、スタートした。
当時の庶民の、平均的生活レベルとしては、比較的、豊かな家に生まれ、女学校に行き、ピアノも習う。
母は幼い頃亡くなり、父も、仕事の事故で失う。
そのなかで、きょうだいが力を合わせて、生きていく。
やがて戦争が激しくなり、相愛の婚約者が出征。
婚約者の居ない旧家の味噌屋を手伝ったり、空襲に遭ったり、様々な苦労を重ねる。
戦地で死んだと思っていた婚約者が、思いがけず生きて帰り、結ばれ、味噌屋の女将さんとしての新しい生活が始まる。
子どもも授かり、さあ、めでたしめでたしと言うところで、結核にかかっていることが分かる。
当時は結核は不治の病に近い。
病状の進む中で、子供を産み、やがて命を終える。
最初から見ていた友人が、途中から「次ぎ次ぎ人が死んで、悲惨な話が続くので、もう見たくなくなった」と言っていたが、私は、最後まで、ドラマに付き合い、今日などは、ぼろぼろ泣いてしまった。
朝ドラとしては、暗い結末だなあ、やはり、ヒロインを生かして欲しかったなあと思うが、考えてみると、昭和20年代位までは、こういう形で死ぬ女性は、少なくなかった。
ましてや、男尊女卑の時代、機械化されていなかった女性の家事労働は、今とは比べものにならないくらい、厳しいものだったであろうし、産褥や、過労のために、新しい命と引き替えに、生を終える女性たちも、多かったのだろう。

五月に亡くなった、私の父の生母は、4人の子供を産んだ後、産後の無理と、やはり結核のために、父が2才にならないうちに亡くなっている。
だから父は、生母の顔を知らない。
現在93才になる私の母の生母も、6人の子供を産んだ後、産後の過労で、母が10歳の時に、命を落としている。
「まだ33才だったのに、覚えている母は、まるで老婆みたいよ」と母は言う。
それほどに、家事労働がきつかったと言うことであろう。
ストレプトマイシンが出来てからは、結核は死の病ではなくなったが、栄養状態の悪かった戦後のある時期までは、若い男の人でも、それで命を落とす例が、少なくなかったのではあるまいか。
お産で死ぬと言うことも、今ではほとんど聞かなくなったが、このドラマは、半世紀前までの日本で、ごく普通の女性たちの生き方に見られた、一つの例だとも言える。

ドラマの終焉を見ながら、両親の育った時代、そして、その親たちのことに、ちょっと思いを馳せてみた。


ルーツ
2006年09月19日(火)

市内の某大学公開講座に通い始めて、10年を超えた。
自転車で15分ちょっとの処にあるこの学校は、ルター派の神学校を母体としてできた大学。
歴史は古いのだが、長いこと、私は存在を知らずにいた。
もとは神学科だけだったらしいが、今では、キリスト教学科、社会福祉学科、臨床心理学科と三つの学科を持つ大学になっている。
キリスト教精神が基本にある点は変わらない。
市内にはもう一つ、戦後アメリカ資本が創立したキリスト教系の大学があって、歴史は新しいが、総合大学的な学部を備えていて、規模としてはずっと大きく、知名度が高い。
キリスト教と名乗っていながら、神学科に類する学科はない。
この大学には、30代の中頃、日本語学を学ぶため、研究生として1年間通ったことがあった。
始めに書いた大学の方は、すぐ隣に塀を接して建っていながら、私の目に触れなかったのは、私自身が、宗教的な関心がなかったためもあるが、二つの大学が、長年の間、ほとんど交流がなかったことにも依る。

10年以上前のこと、連れ合いと散歩しながら、第二の母校である大学のそばに行った。
そのとき、大きな大学の傍に、隠れるようにひっそりと建つ二階建ての建物に気づいた。
それが、その後、縁を持つことになった大学だったのだ。
ちょうど春休みで、学生の姿が見えなかったこともあり、はじめは、市の文化施設かと思っていたのだ。
隣には、オリエント関係の美術館もあるので、その一部のようにも思えた。
門は開放してある。
入ってみると、緑に包まれた構内の奥に、いくつかの建物がある。
平屋か二階建ての小さなものである。
大学という雰囲気ではない。
中に入ってみると、玄関脇にチャペルがあり、さらに教務科があり、そこで始めて、大学であることが分かった。
名前は知っていたが、それがそうだとは知らなかったことになる。
「公開講座」のパンフレットがあり、4月からの、講座の案内が書いてある。
市内の図書館にも、置いてあったらしいが、宣伝も何もしないので、それまで知らずにいたのだった。
神学関係、社会福祉関係のいくつかの科目が並び、興味を惹かれた。

次の年、北森嘉蔵氏の講座を、そこではじめて受けた。
世界に名のある先生の存在も、その時始めて知った。
それまで縁の無かった、キリスト教の世界を知るのは、私にとって、大変新鮮で、先生の話も、魅力に溢れていた。
当時すでに80才を超えて、杖をつきながら、通ってこられた先生の講義を、2年間受けた。
受講生は、ほとんどが、北森神学に心酔している人たち。
無宗教に近い私のような受講生は、少なかったようだが、開放的な大学は、誰でも受け入れる雰囲気があり、それをきっかけにして、ほかの講座も受けることになった。
北森先生は、2年後に、退かれ、間もなく亡くなった。
著書「神の痛みの神学」は、私にとって、大変難しく、まだ理解に至っていない。

同じ頃に、比較文化を専門に他大学から移ってきた若手のU先生が、「日本の宗教風土」というテーマで、古事記を取り上げた。
この授業は、伊勢、熱田、奈良、京都の神社、仏閣、宗教的施設や学校を訪ねるという、フィールドトリップ付き。
6日間に渡り、学生やほかの先生方も混じって、15人程の、実り多き、旅となった。
その後、U先生の講義は、毎年受けている。
テーマは変わらないが、講義の内容は毎年違う。
単位を取れば、2度と教室には戻らない学生と違い、社会人受講生は、気に入った先生の授業を、何年でも受けることが出来る。
U先生は、授業に対して、充分準備をし、真摯な態度で臨み、決して手抜きをしない。
1時間半の授業で、退屈だと感じることはほとんど無い。
アメリカ、アジア、アフリカなどにも、積極的に行き、海外でのフィールドワークも、こなしている。
2年前から、市民大学でも、企画講座の中心的存在となって、魅力的なプログラムを、提供している。

今年も、U先生の授業を受けに、その大学に週一回通っている。
「キリスト教と文化」という科目名だが、前期は、「神の痛みの神学」をテキストに、比較宗教学。
今日から始まった後期の授業は、仏教やイスラム教と、キリスト教との比較である。
毎回、授業の始めに、「自分にとってのキリスト教との出会い」というテーマで、受講生が順番に指名され、それぞれの宗教的ルーツを語ることになっている。
前期の時は、私は、父が亡くなったばかりだったので、人の死と弔い方について、自分の思いを話した。
20人程の受講生のうち、現役の学生は5,6人、ほかは社会人である。


敬老の日に
2006年09月18日(月)

旗日の設定が変わり、ウイークデイに祝日を作らず、土日に続く月曜日になったことで、以前は、固定していた祝日が、毎年動く。
9月15日に決まっていた「敬老の日」が、今年は、今日である。
一昨日、ある会合で、「何も、土日と続けなくても、いいのにねえ」という意見が多かった。
三日続きにすれば、小旅行などに行きたい人には便利だし、会社にとっても、間に休まれるよりも、かえって効率がいいと言うことなのだろうが、国民が、同じ日に、一斉に休むと言うことが、果たしてそんなにいいことなのかどうか、疑問に思う。
月曜日の授業は、ほかの曜日より時間数が少ないので、年単位の授業計画が、立てにくいという話を、ある大学の先生がしていた。
授業時間が少ないからと言って、給料に差があるわけでもないだろうが、時間給で貰っている講師などは、収入に響くかも知れない。
また、三日間という休みは中途半端で、家庭の主婦などは、家族が居る分、家事が増えるだけということもある。
みんながそうそう、お金のかかる旅行や、外食ばかりして、過ごせるわけでもあるまい。

昨日、母から電話。
「元気?」と訊いているが、本当は、自分がそう訊いて欲しいのである。
8月に行ったきり、ひと月も無沙汰をしてしまった。
ちっとも顔を見せない娘を、気にしているのである。
私も、もう、高齢者のカテゴリーに入っているのだが、母にとっては、いつまでも、娘であり、その世代は、子どもが親のことを気遣うのが、当たり前だと思っているところがある。
しかし、60才半ばを過ぎた私自身も、もう、若い時のように元気なばかりではない。
出かけること自体が、もう、億劫だと言うことが増えてきた。
この前行った時、私が膝の痛みを訴えたので、母は心配して、持ち合わせの湿布薬を貼ってくれた。
いつまでも、親は有り難いなと思い、本当は、言いたいことがあったのに、胸に納めて帰ってきた。
その後、避暑に出かけてしまい、そのままになっていた。
「悪かったね」と謝ったが、母は耳が遠いので、あまり込み入ったことは、電話では通じない。
連休が明けたら、墓参りに行くことになっているので、その帰りに、行こうと思った。

「元気な人には働いて貰って・・」などと言うことを、自民党総裁選の、さる候補者が言っている。
いかにも、男の発想だと思った。
家庭で夫を支えて、過ごしてきた女たちには、どんな言葉を掛けてくれるのだろうか。
また、男にとっても、仕事だけが、人生ではない。
日本の高度成長期、豊かさへの橋掛かりとなって、充分働き、これからは、老後を心豊かに過ごしたいと思ってリタイアした人たちに、まだ、会社みたいな働き方を勧めるのか。
ちょっと発想が貧困すぎないか。
子どもの受難が増えている今、気持ちに余裕のあるおじいちゃん、おばあちゃんの出番を作るとか、若い人たちに、生活の知恵を引き継いで貰うとか、席の空いた大学に、もう一度勉学の機会を与えて、授業を活性化させるとか、いろいろ多様な道がありそうだ。
私の住む市では、幸いこの方面に積極的な市長さんになってから、市民に大学を開放するやり方を取り入れている。
ネットワーク大学と名付けて、昨年から、様々なプログラムを、設けている。
以前の市民講座というと、あまり専門的でない、趣味や健康、入門的なノウハウ物が多かった。
このところ、様変わりしている。
平日は、夜間にも半分くらい時間設定している。
先日、募集した秋期のプログラムのうち、「臨床心理学」と「比較宗教学」という、回数の多い、まじめに取り組む型の講座が、すぐに満杯になった。
高齢者対象と言うわけではないが、前回の例から、多分、半分くらいは、シニア受講生であろう。
今や、もう、小手先の市民講座よりも、こうした物にニーズが高まっているのである。
孫の面倒を見るだけ、受け身で介護をされるだけの、おじいちゃん、おばあちゃんのイメージは、もう私の世代くらいからは、無くなっている。
介護の形も、変わって来るであろう。
高齢者に対するイメージを、変えて行かねばならない。
かといって、若い人と同じ働き方を、強要しても、うまく行かない。
長い人生経験と、生活感覚の中から産み出された知恵、心のゆとりから生まれる、人間に対する見方、感じ方を、いろいろな場で活用し、役立てて貰うこと。
高齢者を邪魔者扱いにして、サービスの質を減らすなど、もってのほかである。
下記の記事を読んで、示唆されること多く、私も、あらためて、その世代に属する人間として、考えてみた。


「SNSって?」
2006年09月14日(木)

昨年あたりから、ネット界で話題になっているソーシャルネットワーキングサービス。
そのパイオニア的存在の mixi 会員数が570万人になったとか。
時代の先端を行く成長産業と言うことで、株式公開し、ニュースになった。
私はまだ参加していないが、会員になるには、すでに会員になっている人からの招待が必要なんだそうだ。
誰でも参加できる、その辺のネットコミュニティとは違いますよと言う、一種の差別化で、逆に人気がでてきたらしい。
人間は、見知らぬ人との関わりを避けたい反面、何処かに自分に合う社会はないかと、追い求める気持ちがあるから、そこを撞いた、うまい商法といえる。


私の周囲で、話題に出ないのは、元々IT 化の浸透していない中高年社会であるから、当然だが、すでに、この世界に足を踏み入れて、6年になる私には、今までにないコミュニティのあり方として、すこぶる興味のあることである。
「招待メールが来ないので・・」と、参加しているヤフーのグループで書いたら、「よろしければ紹介しますよ」と言ってくれる人がいた。
その人とは、ネットグループのメンバーというだけの付き合い。
顔も名前も、どこに住んでいて、何をしている人かも知らない。
ネットの交流には、必要ないからだ。
その人も、顔見知りでもない、ネット上の仲間から、招待メールを貰って、会員になったという。
ミクシイだけでなく、いくつかのSNSに、同じやり方で参加しているらしい。
じゃ、会員はみな知り合いばかりで、安心ですという謳い文句と、ちょっと違うではないかと思うのは、ユーザーの側の危惧で、経営者、あるいは主催者にとっては、参加者の個人情報が分かっているから安心だという意味なのであろう。
ヤフーでも、無料でIDを持っている人には、参加資格がなく、有料利用者のみに、参加を許されている。
有料なら、お金を払い込む関係で、利用者の本名も、そのほかの個人情報も、サーバには分かっているので、どこの誰だか分からない利用者とは、違うと言うことなのである。
連れ合いは、ヤフーの有料サービス利用者なので、SNSに参加できる。
まず、連れ合いに入って貰って、その紹介で、私も会員になれるのではないかと言ったが、「友達の友達の、またその友達と・・と広がっていけば、結局、従来のネット社会と変わらない、知らない人ばかりの集まりと同じだよ。ネットに起こる問題は、そこでも起こるよ」という意見で、敢えて、参加する気はないらしい。
SNSについては、今までに何度か、テレビでも取り上げられた。最近は、爆発的に参加者が増え、学生などはほとんどミクシイあたりの会員になっているという。
学校などでは、あまり自分の考えを発表しないような人が、そのコミュニティでは、積極的に、意見を言い、議論に参加している例があると、大学の先生が言っていた。
「君みたいに、どこでも自由に物をいうような人は、そんなところに入らなくてもいいんだよ」と連れ合いは言う。

ともかく、今までにないネット社会が、登場していることは確か。
参加したい気持ちはあるが、ネット上だけの知り合いの人に、招待してもらうのも、ちょっと躊躇する。
「ブログと同じで、雨後の竹の子のごとく、この種の物が登場し、だんだん淘汰されて、いい物だけ残るだろう。
そんなに遠い話じゃないから、様子を見たらいいよ」という、連れ合いの意見で、静観している。


「ブログの引っ越し」
2006年09月12日(火)

今、メインのブログの引っ越しを考えている。
2004年6月から書き続けたブログが、記事数400件になった。
ところが最近、アクセス数が増え、どういうわけかと思っていたが、ケータイで見に来るらしい。
ケータイ検索機能が、向上したらしく、ヤフーあたりのモバイル検索で、ほとんどがDOKOMOとAUユーザーである。
7月から、やたらとケータイでのアクセスが増え、毎日100件を越すくらいになった。

私のブログは、どれも、あまり面白おかしい内容ではないので、訪問者数は、多くない。
ニュース性のあるものを取り上げると、アクセス数が増えることは分かったが、数は少なくてもいいから、定期的に来て、じっくり読んでくれる訪問者の方が、私には有り難い。
ただ、この春、ケータイ機種を替え、その際、インターネット対応にしたので、それまで使っていなかったケータイでの投稿の仕方も、覚えた。
父の病床に付き添っていた時は、ケータイからも、2,3投稿した。
便利な物だなと思った。
しかし、私の書くものは、どうしても長くなるし、瞬発的な物ではないから、やはり、机に向かって、大きな画面のPCから書き込む方が、ずっと楽だし、内容的にも、合っていると思った。
だから、今は、ケータイ投稿は、旅行中以外はしていない。
私のブログが、ケータイではどんな風に見えるのかも、自分がケータイで見て初めて分かった。
苦心してカスタマイズしたテンプレートのデザインも、サイドバーに書き込んだ能書きも、ケータイには表示されないし、なんとも無機質で、ケータイの小さな画面では、私のブログは適していないことが、よく分かった。
私の書く記事は、一件平均が長いので、PC画面でないと、全体が掴みにくいし、逐一画面をスクロールしなければ、読めないケータイでは、些末なところが気になって、書いた文章が、うまく伝わらないような気がする。
ケータイ閲覧のアクセス状況を見ると、始終画面を動かしながら、切り替えてみているのが分かる。
その度に、アクセス数が、増えるからだ。
短い時間に、記事全体を読むのも、ずいぶん手間が掛かるだろうし、多分、訪問者は、スクロールの途中で、画面を変えてしまうだろうなと思った。
もう一つは、私にとって、困った訪問者が居て、数年前から何故か私のサイトやブログを、検索でしつこく追いかけてくるのだが、PCでは、IPアドレスで、身元が分かっているので、ケータイの方が、アクセス解析では分かりにくいと思うらしく、7月以降、ケータイで、毎日おいでになる。
とうに身元は分かっているので、ご苦労さまなことよと、同情するが、あまり気持ちのいいものではない。
出来れば、お引き取り願いたい。
そこで、メインのブログサーバーが、最近、サポート状態が悪く、いつ閉鎖するか分からない状態になったので、消えてなくならないうちに、ログをそっくり、ほかのブログサーバーに移すことにした。
ログのダウンロードで、メモ帳に写した物を開くと、読めない文字コードになっている。
しかし、互換性のあるサーバーに移せば、変換されるはずだから、迷わず、インポートした。
ところが、ログのインポートで、「ファイルサイズが大きすぎます」という警告が出て、失敗。
画像などほとんど使っていないテキスト中心のブログが、いつの間にか1メガを超えていたのだ。
いくつかに分けるにしても、記事の区切りが、判別しにくい。
やはり手作業で、一件一件移すしかないかと、考えている。
いっそ、サーバー解除と共に、全部消してしまった方がいいのかも知れない。

最近は、ブログ出版を手がけるところが出来た。
ネットにアップしたファイルから、そのまま製本してもらえて、しかも、注文は、一冊から可能と言うので、シメタと思ったが、縦書きには対応してない場合が多い。
私のブログは、本にした場合、やはり縦の方が向いている。
そこで、自費出版を専門にしている出版社のホームページを見たが、ネット上から原稿用紙がダウンロード出来、校正も、PDFで、すべてPC上で、出来るらしい。
活字を組むという手間がないので、校正と印刷期間だけ。
費用も、その分安いはず。
便利な世の中になった。
自分の記念のためだけに、1,2冊くらい作っておくのも、悪くないかと、思っているところである。



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