ヲトナの普段着

2005年06月03日(金) 恋のお試し期間

 ネットでは瞬く間に恋が生まれそして消えてゆくという話は、ネットにおける時間感覚についてのコラムでも書いた。考えてみると、ネットにあるさまざまなコミュニケーション手段のなかでも、とりわけこのチャットというのは流れが速いのかもしれない。そんな急流を上手に渡っていくヒントのような科白を、僕の経験のなかからご紹介しましょう……って、タイトルに書いちゃってるんだけど、汗。
 
 
「まだわたしたちって、お試し期間中よね?」
 
 
 いつだったか、ウェブで知り合った女性と急速に親しくなりはじめたとき、ふと彼女の口からそんな科白が零れ落ちたことがあった。人間ってのはどこか傲慢な生き物で、自らの意識で親近感を覚えると、相手を理解したようなつもりになってしまいがちなように思える。そしてそれは、暗黙のうちに「恋愛関係進行中」という名の鎖で、自分と相手とを雁字搦めにしようとする。
 
 冷静に考えれば、そう易々と人の心や背景を理解できる道理などあろうはずもなく、たかが一ヶ月や二ヶ月で理解しあったつもりになるなど、笑止千万という気もしなくもない。たしかそのときは、「大抵は、何でも三ヶ月くらいがお試し期間よね」と彼女がいい、親しくなって一ヵ月半程度で勇み足を踏んでいる僕をたしなめてくれたのであった。
 
 
 長く関係をつづけられる間柄、例えば夫婦というものを思い浮かべたとき、そこには喜怒哀楽が幻灯機が映す絵物語のように展開されるものだろう。人と人との絆は、決して楽しいことばかりで織り込まれるものではない。そこに怒りや哀しみ、そして深い喜びがあってはじめて、絆は堅固に作られていくのだと思う。
 
 そう考えたとき、楽しいばかりの最初の短い時間だけで、相手と自分との関係を定義づけてしまうのは、かなり乱暴かもしれないとすら思えてくる。喧嘩をしたり、嫉妬したりされたり、そういうさまざまなシーンを共有していくなかで、少しずつふたりの絆は出来上がっていくに違いない。
 
 そのためのお試し期間であるのなら、率直に気持ちをぶつけあい心を開きあい、ときに崩れかかった関係を修復する辛苦すら味わっておいたほうがいいのだろう。そして何よりも、「なぜ相手がそこまでして自分のほうを向いてくれるのか」という想いの核心を、その間に深く深く心に刻むべきだろうとも思う。僕もどちらかというと苦手なほうなんだけど、直接的な言葉に頼らず、相手の行動から想いを受け取ることは、とても大切だと思えるから。
 
 
 さて、ライブチャットにまつわるコラム集であるはずの花道に、なぜこのような恋のハウツーみたいなことを書いてるかというと、ライブチャットに見られる「レンアイ」の多くが、このお試し期間が満了する以前に萎んでしまっているように感じられるからだ。なかには、お試しを無視していきなり本格的恋愛モードに突入する人も少なくないだろうが、そのうちの多くは、きっとほどなく撃沈してるのではなかろうかと想像もしている。
 
 そういえば、このライブチャットには、「段階を経ない客」が大勢いる。チャトレの気持ちを上手にリードして濡らすなどということはせず、のっけから「脱いで」「見せて」とかます輩などはその最たるもので、エッチ系に走らずとも、たかが数回チャットしただけで真の恋人気分になってる野郎どもは、きっと溢れかえるほどいるに違いない。
 
 次のステップのために何かをするということ。相互理解のために時間を費やすということ。それは何もライブチャットに限らず、世の人間関係では必須に違いないのだろうけど、なぜかネットではそれが軽んじられてるように思えてならない。お試し期間というのは、何も「恋人としてとりあってくれない」のではなくて、そういう関係をその後構築していくために、お互いがお互いをじっくりと吟味する期間であり、同時に、自分自身の想いを固めていく期間でもあると思う。
 
 
 チャトレを長くやっていると、付かず離れず長く繋がっているお客さんというのが、ひとりやふたりはいるものだと思う。一方客サイドからみても、同様に長く繋がるチャトレというのもいる。それらの間柄において、必ずしもお試し期間があったとは言い切れないと思うけど、お試しを通り越して初めから突進していたということも、ないのではなかろうか。仮にあったとしても、どこかで冷却期間を置くというか、足並みを揃えるようなペース調整があってはじめて、長くつづく関係の礎が築かれてきたのではなかろうかと想像する。
 
 あなたなりの恋のお試し期間を、どうぞ演出してみてください。



2005年05月31日(火) 好き嫌い

 幼い頃に両親に何を一番に仕付けられたかと振り返ると、やはり食べ物の好き嫌いだったような気がする。おかげで僕は、みずから好んで口にしないものはあるけれど、食べられないものというのがない。そんな僕は、人の好き嫌いもさほど激しいほうでは……ない。
 
 
 きつい論調でコラムを書いていると、「こいつは人の好き嫌いが激しそうだな」と受け取られがちなように感じているんだけど、これほどの博愛主義者もそうそういないと自負している。大仰な物言いはいつものこととしても、人を嫌いになれないのだから仕方がない。
 
 世に棲む人々もそれぞれで、僕のコラムに反感を覚え、反論や批判を寄せてくれる人ももちろんいる。そういう人たちを前にしても、僕のなかに「厭だな」とか「こいつは嫌いだ」という感覚は、不思議なことにそれほど沸き起こってはこない。だからこそ、僕はそれらの言葉に素直に自分の考えを返すし、拒絶したことも一度もなかったような気がする。
 
 相手を認めるというのはとても難しいことで、誰だって自分を認めてもらってはじめて、相手を認めるというプロセスを経るものだろうと思う。されど僕はあえて、自分を否定されても相手を認める立場をとってみたいと考えている。よく性善説性悪説なんて考え方があるようだけど、僕は人の心というのは基本的に善であって、さまざまなしがらみや固有の知性、価値観が、それを見る人の目にさまざまに映してしまうだけだと思っている。だからこそ、それを穿った目で見なければ、そこにはその人が持つ良さも自然と見えてくるのではないだろうか。
 
 
 これまでチャットをしてきて、幾度か「あれ、おれ嫌われてるのか?」と感じた瞬間があった。会話がどうも噛みあわず、チャトレのノリも明らかに悪い。相性というのもあるから、ある程度は仕方がないのかなとも思う反面、チャトレならあわせろよとも思ってしまう。もちろん、僕が暴言吐いたり脈絡のないエロおやじに変身してるなら話は別だろうけど、ごくごく普通にチャットしていてそうなるのだから、「客」としては不満たらたらである。
 
 いつだったか、ウェブデザインを本職でやってるという二十歳そこそこのチャトレちゃんと話したことがあって、僕は素直な気持ちで「ぼくのサイトも見てみてよ」と言ったんだ。彼女は少々かったるそうにその場で「アドレスは?」と訊き、僕が教えたURLをそこで開くや否や、渋い顔をしてあれこれと酷評をしてくださった。率直なところ、どれも承知してそうしているものばかりで、融通のなさにむしろ僕が彼女に対して渋い顔をしたくらいなんだけど、不思議と、自分が彼女を嫌う以前に「おれ嫌われてるのかな」と感じたように覚えている。
 
 正直であることは悪いことではない。いかにチャトレとはいえ、嘘ついたり自分を繕って客と相対すべきではないと僕は思っている。けれど、最低限の心配りというか、人と相対する上でのエチケットのようなものは、チャトレという立場であるなら身につけておくべきだろう。
 
 
 「嫌いなものは嫌いなんだから仕方ないじゃん」と仰るだろうか。現代の風潮をみていると、なんとなくそんな言葉がまかり通ってしまいそうな気がして、僕は少々不安にもなってくる。自己というものが、本当に自己のみで成立してるなら、おやじも口をすっぱくして言いはしないけど、自分以外の人間と関係を持ちつつ存在しているのが自己である限りは、その言葉は間違っていると思うからだ。
 
 好き嫌いがいけないと教えられた幼い頃に、僕はもうひとつ、他人に迷惑をかける生き方をしてはいけないということも教わりつつ育った。迷惑をかけるとはどういうことだろうか。目に見える形で迷惑をかけることのみならず、相対する人の心に影を落とすことも、やはり迷惑ではなかろうか。迷惑とは読んで字の如く、「迷わせ惑わせる」という意味だ。会話している相手の心を不安にさせる行為は、僕は迷惑な行為に値すると思っている。
 
 人間関係もさまざまだから、そういう迷惑行為がむしろ良好な関係を育むことも、僕は否定しない。例えば恋愛という範疇にあっては、心に落ちた不安という影が、むしろふたりの絆を深める結果に繋がることだってあるだろう。されど、チャトレという立場でそれを行っていいのだろうか。
 
 
 好き嫌いは多かれ少なかれ誰にでもあると思う。僕は自分のことを博愛主義者だなどと書いたけれど、嫌いといわぬまでも苦手な人たちはいる。けれど、立場はわきまえる。それすら感じられないチャトレを見かけたとき、「駄目」というハンコをポンと押してあげたくなるのは、おやじのわがままだろうか……。



2005年05月30日(月) その子はチャトレ

 チャトレに恋する男は少なくないだろう。モニターごしの笑顔に胸ときめかせ、あたかも目の前にいるかの如く囁きかけてくれる彼女のことを、恋人のように感じたとしても不思議はない。よほど無謀なことをしない限りは、ふたりの間にはハートフルな会話が流れつづけていくのだから。けれど彼女は、チャットレディなんだよね。
 
 
 インターネットを俯瞰していると、面白いことに気づくことがある。これまでも幾度か触れてはきたけど、パソコンに向かう男たちの意識のなかに「一対一」という構図が根強いのも、そのひとつだろう。掲示板でもブログのコメント欄でも、投稿者は管理者ひとりを相手に書いているような印象が強い。そこが公の場であるにも関わらず、ときに私信とも思える文章を平気で書いている。それが悪いとは思わないものの、なんとなく妙な構図だよなと僕は感じてしまうんだ。
 
 掲示板のシステムを利用した「フォーラム」という場がある。最近はあまり耳にしなくなったような気もするけれど、読んで字の如く、複数の人たちが寄り集まって意見を述べ合う場がフォーラムだ。投稿者はそこに参加している複数の人たちを相手に文章を書き、読み手もそれを前提に読んで自分の意見を投稿する。僕はべつにフォーラムで育ったわけではないけれど、ネットという開かれた場にある掲示板というものは、そういう性質のものであると認識してやってきた。
 
 だから、ブログの記事にコメントを寄せる際も、僕の脳裏には常に複数の人影が浮かんでいる。誰が読んでも構わないような内容、管理者だけでなくその他の人たちにも伝えたいメッセージや話題を込めて書くことを、いつも心がけている。それが、ネットでのコミュニケーションだと思ってもいる。
 
 けれど、それはフォーラムや掲示板を中心に育ってきた者の言い分であって、チャット、とりわけツーショットが中心となるライブチャットにあっては、僕の理屈が見当たらないのも無理ないのかもしれない。しかし、そこに問題の種が根を深くはっているのも……事実のような気がする。
 
 
 チャットというのはリアルタイムに話が進む。僕は、ライブチャットをやる遥か以前からチャットの経験があって、それほどマメにやっていたほうでもないけど、ときには十数人でチャットしたこともあった。ひとつのテーブルを囲んで肉声で会話するのなら、複数相手でも話は成立する。けれどチャットの場合、それを成立させるのはかなり困難だと僕は感じている。大勢でのチャットを眺めていると、全員がひとつの話題で盛り上がるというよりは、幾つかの小さなグループが交錯しながらチャットが進んでいくという状況が多いような気がするからだ。
 
 別な視点でそれを言い換えると、掲示板では同時に複数を相手にできる(書ける)けれど、チャットでは同時に複数相手に会話する(書く)ことが極めて困難もしくは不可能に近いということになるだろう。もちろん、パーティーチャットを得意とするチャトレちゃんは、「わたしは複数相手にできるわよ」と仰るだろうけど、それはきみがチャトレだからであって、その場にいる客のほうはそうではないだろう……という話だね。
 
 これは、スタンスというか、パソコンを使って人とコミュニケートしようとする際の、根本的な意識の話になってくると思う。平たく言えば、ひとりを相手にしてるのか、大勢を相手にしてるのかという違いだ。そして更には、そこに「チャットレディ」という「立場」も加味されるわけだから、話は余計こんがらがってくる……。
 
 
 冒頭に戻るけど、片っ端から誰かれ構わずチャットしてるアウトローならいざ知らず、大抵のチャット客というのは、お目当てのチャトレと会話することを目的としてるだろう。彼の胸のうちに恋心があるか否かは状況にもよるだろうけど、所詮男と女は求め合うという原則に立ち返ると、形こそ違え、そこにはほのかな想いがあるのだろうと僕は想像している。
 
 いつも優しく微笑みかけてくれる彼女に対して、自分に格別な好意を抱いてくれていると思い込むのも無理もないし、それが高じて、あたかも街で知り合った自分好みの女性と恋人同士になったような気分になっても、やはり不思議はないのだろう。恋人なのにどうして逢えないのとか、なぜ自分だけを愛してくれないのなどと口走る手合いの多くは、いわゆるその口だとも思う。けれど、そこには大きな大きな落とし穴があるんだ。
 
 
 「今年はみんなの絵美ちゃんで行きまぁ〜す」という科白を、かなり昔に某テレビ番組で耳にしたことがある。彼女はAV女優。そりゃ女優なら誰かひとりのものでなく、みんなのものだろと、そのときは思ったわけだけど、考えてみたら、チャトレだって同じだろと僕は思い至った。
 
 チャトレがチャトレたり得るのは、そこに数多のファンがいるからに他ならない。もしも彼女にたった一人の客しかつかなかったら、彼女はいずれチャトレを辞めるだろう。そう考えると、大勢の男たちがそこにいてはじめて、彼女はチャトレとして輝いていられるのだということにもなってくる。そう、チャトレはみんなのものなんだ。
 
 それを大前提として念頭におかないと、トラブルはそこかしこで勃発してしまうだろうし、独りよがりや恋の空回りという現象も多発するのも道理だなと、僕にはそう思えてくるわけ。
 
 恋をするのは悪いことじゃない。縁があれば、できるだけ人に恋して恋されて、人間って素敵だなって思いながら生きていくほうが、僕は実りある人生になるような気すらしている。けれど、思い違いはやはりいただけないではないか。ライブチャットという世界に腰を据えるのであれば、そこで上手に生きる術を身につけるべきだろうし、せめて、「チャトレはみんなのアイドルなんだ」という大前提くらいはわきまえるべきだと僕は思う。
 
 色気のないお話だったかもしれないけれど、それをわきまえることができると、意外とその先には、チャトレと客という構図を超越した人間関係が待ち構えているのかも……しれませんよ。


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ヒロイ