沢の螢

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通常の日々を・・
2021年05月11日(火)

少しも収束の兆しが見えないコロナ禍。

2年前の8月、いつも過ごす信州の夏小屋から帰ってきて、留守中の片付けものを
しながら、秋にはもう一度、現地に行くつもりでいたが、なんだかんだと気ぜわしく、そのうちに、コロナ問題が起こり、あれよあれよといううちに、今まで無かった大きな問題になり、そのまま、2年近くたってしまった。

最初は特に体の弱い人たちだけのことのようにも思われ、そのうちに収まるかと思ったが、やがて、名のある女優さん他、名のある人たちも、少しずつ感染例が増え、中には亡くなるケースんもあり、いまや、誰にでも罹る可能性がある。

病気の仔細な正体や、感染の経路など、詳しいことは、まだ、よくわかっていないようであり、私たちは、日常の生活の中で、今までよりは、細かな注意をしつつ、自治体や政府指導の注意を守り、日々の生活を送っている。

昭和に入っての世界大戦。
私が生まれて三歳の時には、その二度目の開戦だった。
幼い私の耳にも、毎日、ラジオを通じて流される戦争のニュースは、部分的に記憶に残っている。
すでに負け戦に入っていたような昭和18年、30歳過ぎの父までが、戦地に赴くことになったのは、すでに、日本が負け戦に転じていたのだろうが、幼い私と弟は、親たちの後ろから手を繋いで、見送りに行った。
いつもなら、子供達を挟んで、道を歩く親たちが、その時だけは、私と弟を後ろに従え、夫婦で何やら話しながら、先を歩いていたことを、よく覚えている。
私は、幼い弟と手を繋ぎ、親たちの後から付いていったが、あれは、もしかしたら、これが夫婦の永遠の別れになるかも知れないことを予想しつつ、語り合ったのでは無いだろうか。
子供の私には、その時には解らなかったが、何故か、声を掛けてはいけないような空気を感じ、弟と2人で、その後に付いて歩いたのだった。
その時、母のおなかの中には、三人目の子が宿っていたのだが、私も弟も、そんなことは知らず、ただ、いつもと違う何かを感じながら、手を繋いで歩いたことだけ覚えている。

後々、その光景を思い返す度に、その時、親たちは、どんな気持ちだったのだろう、何を語り合ったのだろう、2人とも、戦争によって、或いは、これが最後かも知れないことを、心の中に思いながら、夫婦最後になるかも知れない歩みを続けたのだろうと思う。

戦争はむごいものである。
父は幸にして、戦病死に遇うこと無く、終戦の翌年に、田舎に疎開中の家族の元に帰還したが、あのときの光景は、その後も、決して忘れたことは無い。
疎開中の父の実家でも、一番若かった父の末弟が、飛行中に爆撃を受けて戦死。
20歳の若さだった。
学業は半ばで中断、恋も楽しいことも無いまま、航空兵として戦地に行き、爆死した。
享年20歳、村での最初の戦死者として、村の人たちの見送りを受けての葬儀だったが、その後も、生みの母である祖母が、縫い物をしながら、思い出しては涙を拭っていた姿をおぼえている。
「おばあちゃん、また泣くの」と声を掛けると、祖母は、涙を拭いながら、微笑んだりした。

いまでも、地球上には、規模の大小は有り、様相は変わっても、何らかの形での「戦争」は絶えることが無い。



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