沢の螢

akiko【MAIL

My追加

ながらえば
2006年03月26日(日)

父が緊急入院するという電話が、きのう妹からあった。
一昨日行った時は、ハウスの食堂の椅子に腰掛けていて、私の顔を見ても、反応はなかったが、元気そうだった。
しかし、大分前から、痰が喉に絡んで、自力ではなかなか吐けないので、時々介護士の世話になっているという話は聞いていた。
ハウスでは風邪が流行っていて、少し風邪も引いていたのかも知れない。
母が先に風邪を引き、楽しみにしていた孫の結婚式に出席出来ず、そのときの引き出物を持って、おととい行ったのだった。
「お父さんに移すといけないから」と、介護室のベッドに寝かせて貰っていたらしい。
しかし、何分にも、95歳という年齢。
今までは、何とか入院もせず過ごしていたが、昨日の朝高熱が出たので、救急車で、入院という事態になったらしい。
肺炎と言うことなので、ケアハウスの医師が、病院に手配してくれた。

病院は、私の家からバスで駅まで行き、電車に乗って3つほどのところにある。
とりあえず駆けつけると、妹は来ており、父は、診療中で、ハウスの介護士が、車椅子のそばで、入院に至った状況を説明してくれた。
やがて、病棟に移動、4人部屋に落ち着いた。
父は、点滴と栄養剤のチューブを繋がれた状態で、眠っていた。
声をかけると、うっすら目を開けるが、よく認識出来ないようだった。
そのうちに、もう一人の妹も来て、姉妹3人で、婦長の質問を受け、家族環境や、最近の健康状態について応対した。
詳しい状況は、日常的に世話になっているハウスの介護士が答え、きょうだいの中では、ハウスの身元引受人に登録されている妹が、主として応対した。
その後で、担当の若い医師から、大事な話を聞くことになった。

父は誤嚥性肺炎であること。
脱水があるので、今は、肺炎治療とための抗生物質と水分補給をしていること。
2週間くらいで、元の状態に回復すれば、ハウスのケアに戻れること。
しかし高齢なので、口からものを食べられない状態になったら、入院が長引くこと。
それでも、効果がなければ、いわゆる延命措置に切り替えざるを得ないこと。
高齢なので、治療と処置には限界があり、いつなんどき、命に関わる状況になるとも限らないこと。

そして、医師の言いたいのは、通常の治療と処置で、対応出来ない状態になったとき、延命措置をのぞむかどうかということだった。
昔なら、有無を言わせず、スパゲッティ症候群になったようなことだが、現在は、患者本人、あるいは家族の意志を確かめる状況になっているのだろう。
それはいいことではあるが、父自身の意志を確かめられない今、家族としては難しい決断を迫られることになる。
妹たちがなかなか口を開かないので、まず私が言うことになった。
私は、日頃思っていることを下記のように伝えた。
高齢なので、苦痛を伴う無理な延命は望まない。
自然体で、なるべく苦しまないで、命を全うさせたい。
もし、状態が良くなり、母の元に戻れるなら、それが一番いいが、もし状況が悪化して、自力で生きられない状態になったら、器械の力で、医学的に生かすというやり方はしないで欲しい。
本人の死生観としても、望まないと思いますと、伝えた。
「あなた達も、言いなさい」と妹たちに言ったが、「同じ考えです」と、答えた。
こういう場合、どうしても、長女である私が、代表して言うことになってしまう。
若い医師に、はたして、こちらの言わんとすることが伝わったかどうかわからないが、「延命治療はしない」ということだけは、理解してくれたと思う。
ハウスから救急車に乗る時、母はこれがこの世の別れであるかのごとく見送ったそうだが、先日「お父さんに、万一のことがあったら」という仮定の話をした時、私と同じ事を言っていたので、多分、同意してくれるだろう。

しかし、もう一度父の顔を見、妹たちと別れて、帰路につきながら、私が医師に言ったことは、あれで良かったのかどうか、疑問が残った。
父は、浄土真宗の家で育ち、本願寺にちょくちょく通うほど、仏教への思いが強かった。
元気な頃、人間の尊厳という問題は常に、父のテーマであり、人格を伴わない死に方はしたくないと言っていた。
私の家で暮らした3年の間に、やはり肺炎で一度、ヘルニアの手術で一度、入院している。
病院の扱いに腹を立て、夜中に「帰りたい」と言い張った父を、なだめに行き、そのとき、「病院と言うところは、ひどいところだ」と言ったことを覚えている。
それは自分のことではなく、同室にいた高齢の男性患者に対して、看護婦が、手荒な扱いをしたことに、怒っていたのだった。
「何もわからないと思って、バカにしている」と訴える父を、ともかく、ベッドに戻し、看護婦に「父は、自分のことでなくても、心を痛めるのです。それで、安眠出来ないようです」といいに言った。
それが8年前のこと。
「もう充分生きましたから手術などせず、このまま帰してください」と言った父に「いえ、人間はみな、持っている寿命まで生きることになってますから」と、穏やかに納得させてくれたのは、ヘルニアの執刀に当たった年配の医師だった。
ベテラン医師のおかげで、父は、手遅れになりそうな状態から脱して、命を貰った。
そう言う病院でも、末端の現場では、患者の心をないがしろにするような状況が、皆無ではないのである。
だから、延命治療は望まないと言ったことで、家族が、父を見放したというように、取られはしないかという不安が起こってきたのである。
私たちは、父が、人間らしい治療と介護を受け、その結果として人知の及ばないものであるなら、自然の状態で、安らかに終わりを見届けたいと思っているのである。
その気持ちが、逆手に取られるのは困るのだが、医療現場に、どのくらい伝わるのか。
こんな事を考えるのは、20年前、私の入院経験から、医師と医療現場に、不信感を持っているからだが、現在、医療現場にいる医師や看護士たちが、患者の命について、どういう哲学を持っているのか、短い時間の確認では不十分であろう。
後で悔いが残らないよう、もう一度、行ってこなければと思った。


春うらら
2006年03月25日(土)

中世文学なんかに浸かっている間に、季節は移りすぎて、彼岸も過ぎ、今日は3月最後の週末。
いい天気である。
連句の会も一つあるが、こちらには昨年からほとんどご無沙汰。
連句の会も、さまざまあれど、メンバー構成もいろいろで、進んで行きたい会と、あまり気の進まない会とある。
一昨日の会は、個人で連句会を主催している人が、一月前から呼んでくれていたもので、メンバーは常連の3人に、その都度、違うメンバーを3人加えて、やっているようだ。
1月にも呼んで貰い、今年2度目。
いずれもいいメンバーで、楽しく、闊達な座だった。
11時から午後5時でピタリと終わる。
ずるずると2次会まで、引きずらないところも、かえってすっきりしていい。
主催者は男性。
ほかのメンバーはみな女性。
中高年ばかりだから、今更おとこおんなもないようなものだが、やはり女の声は姦しい。
「女のおしゃべり、うるさくないですか」と訊いたら、「いやあ、同じウルサイなら女性の方が、いいですよ。男は、蘊蓄垂ればかりだからね」という答えが返ってきた。
フムフム、なるほどと、いくつかの顔が浮かんできたが、ほかの人が思い浮かべた顔と同じだったかどうか。
忌憚ないおしゃべりの中でも、ある一線を越えないところが、常識をわきまえた中高年グループの良さである。
こういう会には、呼ばれれば喜んでいくことにしている。
今日の連句会も、ひと頃まで、進んで行っていたが、昨年合唱の練習とかちあって、ご無沙汰しているうちに、だんだん雰囲気が合わなくなった。
「たまには来ませんか」という誘いが前回あって、気持ちも動いたのだが、結局足が向かなかった。
そんなわけで、今日も、久しぶりの麗らかな春の一日を、家で過ごすことにした。

この時期、花粉症の夫は、外の空気に触れたくないと言うので(そのくせ夜の飲み会には出かけていく)、毎年、春彼岸の墓参りは私一人で行っていたが、先々週の14日、少し寒いが、花粉も少なそうだと言うことで、夫の運転で、思い切って早めの墓参に行った。
彼岸の中日の頃は殺人的に込むが、その日は、平日で道もすいていたので、すいすいと、霊園に着いた。
高台にある墓地は寒かったが、人が少なくて、静か。
いつもよりゆっくりと、墓地の周りをきれいにし、植木の手入れもし、花を生け、手を合わせた。
ここには、夫の両親と、生まれてすぐ死んだ弟が眠っている。
霊園内のレストランで、遅めの昼食をすませ、帰路についた。

毎年よ彼岸の頃に寒いのは  鷹羽狩行

この句は、作者の母親が言ったことばをそのまま句にしたとか。
確かに、彼岸過ぎから、大分春らしくはなった。
台風のような荒れた風の日も、何日かあったが、やがて、春も終わりにはいる。
21日、甥の結婚式。
WBCで日本が優勝。
めでたさ一杯の一日が終わり、昨日は、父母のところへ。
父は私の顔がわからないようだったが、母は、先週引いた風邪の具合も良くなり、声も、普通に戻っていた。
孫の結婚式に出るつもりでいたのだった。

春宵や母の涙の皺伝ひ


ある命のこと
2006年03月02日(木)

もう一昨年10月のことになるが、イラクで香田証生さんが、殺害された。
当時、日本人にとっても危険だと言われていたイラクに、何故、単身幸田さんが入ったのか、理由はわからないが、テロ組織に拉致され、数日後に無惨な死という結果になった。
香田さんは、身の危険を感じて、イラクから去ろうとしていたところをつかまったようだが、犯人たちの前に座らせられ、カメラに向かって、「済みませんでした。日本に帰りたい」と訴えた。
そのときの、息をのむような表情を、私は正視出来なかった。
親たちの気持ちを考え、また、香田さん自身の、死の恐怖の中で、縋ろうとしたかすかな望みを思うと、何とも言えない気持ちになった。
日本政府も、手をこまねいていたわけではないだろうが、犯人グループの「自衛隊撤退」という要求はのめず、期限が来て、香田さんは、殺害された。
両親は、日本政府に対して、声高に、息子の救出を要求したりしなかったが、本当は、生きて帰ってくることを願っていたはずである。
しかし、その半年前に、イラクで捕らわれた日本人3人の救出を巡って、世間では、いわゆる「自己責任論」が主流を占め、また、アメリカ、そのほかの、イラク駐留の外国人軍人、民間人が犠牲になったりしたこともあり、「自衛隊を引き上げて香田さんを救え」などと言う意見は、とても、受け入れられない空気があった。
致し方なかっとと言えばそれまでだが、やはり私は、みんなで見殺しにしたという気持ちを拭えなかったし、今でも、それを思うと、心が痛む。
憎むべきは犯人グループである。
そして、そのうちの一人が逮捕されたというニュースが入った。

「イラク治安当局により逮捕された国際テロ組織アルカイダ系のテロ容疑者の男が、香田さんの殺害を自供、当局が起訴していたことが1日までに分かった。男は捜査官同席の下で、時事通信イラク人通信員の取材に応じ、香田さんを殺した時の模様などを詳細に語った。」

犯人であることは、どうやら間違いなさそうである。
その報に対し、香田さんの父親は、「犯人が捕まって嬉しいという気持ちはない。今は、なぜ息子が殺されなければならなかったのかという、空しさだけです」と語った。
病気の祖母の世話をしたり、気持ちのやさしい子だったと、当時語っていた母親。
両親にとっては、異国でたった一人、恐怖と苦痛の中で、無惨に殺害された息子のことを思うと、この一年半近くの間は、言葉に尽くせない日々だったろうと想像する。
そして、息子を悼む気持ちさえ、表明することを憚るような、あのころの空気。
あらためて香田さんの冥福を祈り、いつまでも、記憶に留めたい。

当時書いた日記を書きに表示しておく。

「一掬の涙を!」


天才モーツァルト
2006年03月01日(水)

2月から始まった「毎朝モーツァルト」という10分間番組を見ている。
最初に1,2分ゲストの話、そのあとで、山本耕史のナレーションと映像で、モーツァルトの生涯を追う。
そして、残りの7,8分の時間内で、「今日の一曲」を流す。
ウイーン、ザルツブルグ、イギリス、フランス、イタリアなど、ヨーロッパ各地を、父親と一緒に旅をし、王室や貴族に認められて演奏をしたり、その地で作曲をしている。
5歳から始まった旅は、今、17歳に来ているが、今日は、ザルツブルグで作曲した「交響曲25番」が流れた。
これは私の好きな、モーツァルトはじめての短調による交響曲。
今日は第一楽章だけだが、よく聴く曲である。
シンコペーションを多用した激しい旋律は、当時、ヨーロッパに吹き荒れた、文芸の疾風怒濤の波に呼応してもいるらしい。
17歳で、これを作曲したのだが、あらためて、やはり神童というか、天才だと思う。
自筆の楽譜が映像で出たが、彼の頭の中には、常に音符が渦巻いていて、一寸したきっかけで、しゃべり言葉と同じように、旋律となって、舞い始めたとしか思えない。
そして、モーツアルトは、14歳くらいから、旅の間、留守中の母や姉に宛てて、毎日のように手紙を書いている。
それがまた、ユーモアと、独特のセンスに溢れていて面白い。
わずか10分のモーツァルト番組。
朝見逃した時は、夕方の再放送を見る。
あ、これもモーツァルトの曲だったのかという、発見もあって、楽しみである。



BACK   NEXT
目次ページ