蜜白玉のひとりごと
もくじかこみらい


2012年03月23日(金) もうすぐ2年

父が亡くなってからもうすぐ丸2年になる。自分の感覚では、もうずっと父がいない気がするけれど、いなくなってからまだ2年しか経っていないのだった。一方で、ついこのあいだ一周忌法要をやったばかりなのに、もう三回忌法要の準備をしていて、なんだってこんなに慌しいのだろうとも思うのだった。矛盾しているけれど、どちらも素直な感想で、相変わらず父の不在に慣れていないということなのかもしれない。

いるはずの人がいない。いてほしい人がいない。不在。

心に引っかかっているのはでも、不在そのものではない。父のこととして思い出すのはいつも、晩年の介護がとても大変だった頃のことばかりだ。難病も介護も父の人生の一部分でしかないのに、私にはあまりに強烈で、そのことばかりが頭の中で繰り返される。

そして、どこか悔いにも似た気持ちがある。いまだに、もっとこうすればよかった、ああもできたんじゃないか、あのとき言いたかったのは本当はこういうことだったんじゃないか、といくらでも考えが回る。もう当の本人はいないのだから考えたって仕方がないのに。

あのときのことは失敗だったとは思っていないし、たぶん自分たちができる最良にごく近い辺りまでできていたとも思う。それでもやっぱりどこかで意味を見出したくて反芻してしまうのだ。

家で父が息を引き取る少し前、きっともうあと数時間だろうなとわかったので、手を握ったりさすったりしながら、いろいろ言葉をかけていた。ふと、父の表情がゆがんだ。もう長いこと全身の筋肉が動かないから、表情だってほとんど変わらなかったのに、その時、ほんの一瞬だけ、顔が動いたのだ。おとうさん、ありがとう、って声をかけたときだった。それを思い出すと、今でも毎回、滝のように涙があふれ出す。

父の表情は、悲しそうで悔しそうで、でもほんの少しだけうれしそうにも見えた。ありがとう、って言われてうれしい。でもみんなと別れるのは悲しい。ああ、もうここで俺の人生終わりなんだという悔しさ。いろんな感情が入り混じった、泣きそうな顔だった。その一瞬を私はそう読み取った。当たっているかどうかは、そのうち聞けるといい。

あのときのことをやっと書けた。2年。長いのか短いのか、わからない。


2012年03月17日(土) 雨は読書漬け

朝から雨降りで真冬のように肌寒く、こんな天気の日はとても外へ出かける気になれない。急ぐ用事もないから、一日中、家で本を読むことにした。相方は早々と出かけてしまったので、部屋はしんと静まり返っている。時折、洗濯機の終了の合図に呼ばれるほかは、床にゴロゴロ寝そべってひたすら文章を追う。雨で薄暗いせいか暖房をつけていてもどこかしら寒く、本を持つ指先がつめたい。それでも本から目が離せない。

一昨日から読み始めた湯川豊さんの『須賀敦子を読む』になにしろ熱中しているのだ。文庫になったのを見つけてやっと買ったけれど、もっと早くに読めばよかったと今さらながら思う。担当編集者だけでなく友人でもあった湯川さんが、もう一度ていねいに須賀さんの作品を読み直して語っている。単に故人を懐かしんで書いた思い出話ではなく、残された作品に真正面から向き合って、読み解こうとしているのがわかる。だから湯川さんの個人的なエピソードは抑えられ、ほとんど出てこない。推察も、あくまで文章や作品群からの推察であり、友人としての憶測に甘えていない。湯川さんはこの著書で読売文学賞(評論・伝記賞)を受賞されたそうだ。

『須賀敦子を読む』は、次のような構成になっている。

第一章 もう一度、コルシア書店を生きる ――『コルシア書店の仲間たち』
第二章 霧の向うの「失われた時」 ――『ミラノ 霧の風景』
第三章 父と娘のヨーロッパ ――『ヴェネツィアの宿』
第四章 精神の遍歴 ――『ユルスナールの靴』
第五章 家族の肖像 ――『トリエステの坂道』
第六章 信仰と文学のあいだ ――「アルザスの曲りくねった道」

須賀さんの生前に出版された作品を中心に話が進む。第一章、第二章と読むにつれ、自分が何年かおきに須賀さんの作品を読むたび、なぜこんなに寄り添われる気がするのか、なんとなくだけれど、その理由が見え隠れするような感覚がある。私の人生に父の死が加わってから、その気持ちがますます強まったのもきっと関係がある。

記憶のおぼろげな『ヴェネツィアの宿』と『ユルスナールの靴』は飛ばして、第五章を読む。『トリエステの坂道』はわりと最近再読したので覚えている。最後、第六章の「アルザス」についても少し読んで保留した。湯川さんに読み解かれてしまう前に、もう一度自分で読み直さなければもったいない。私をとらえる文章はどれなのか、立ち止まる言葉は何なのか。

窓を開けると、濡れたアスファルトが寒々しい。雨はやむ気配もなく、正午前でも気温は朝とあまり変わらない。天気予報では最高気温11度と言っていたけれど、この分だとまた予報はハズレだ。すっかり冷めてしまった紅茶を飲みほして、今度は『ヴェネツィアの宿』を頭から読む。今日中に一気に読み切ろう。そして湯川さんの話に戻ろう。本当に、いつになく熱中している。


『ヴェネツィアの宿』には以下のエッセイが収められている。

ヴェネツィアの宿
夏の終わり
寄宿学校
カラが咲く庭
夜半のうた声
大聖堂まで
レーニ街の家
白い方丈
カティアが歩いた道
旅のむこう
アスフォデロの野をわたって
オリエント・エクスプレス


そうだったか、ヴェネツィアの話は最初の一編だけで、あとは主に日本での話だ。両親のこと、親戚のこと、戦前、戦中、戦後、自分や家族がどこでどうやって暮らしたか。時間軸は行ったり来たりするものの、人との関係は時間通りに整然と並んで思い出されるものでもない。

・・・なんだっけ。読んでいるときは書きたいことがあったはずなのに、もう忘れてしまった。読みながら同じスピードで文章に線を引いてしまいたいくらいだけれど、いくら自分の本でもやっぱりそれはできない。百歩ゆずって付箋か。付箋も読むのがいったん止まるからやらないだろうなあ。


2012年03月06日(火) 18時開店

駅前の小さな店に足しげく通う。これまで本屋以外で足しげく通った店があっただろうか。そこは本屋ではないけれど、店主と本の話ができる。

店にはまず本好きがいて、それから本に関わる仕事をしている人がいて、そして自身は本好きというわけではないけれど本好きの話を聞くのを楽しんでいる人がいる。

好きな物事の近くには、自然と似たような人が集う。発信すれば行きっ放しじゃなくて、どこかではね返って形を変えて戻ってくる。いつも気にしていれば、いつかは何かが引っかかる。不確実だけれど、でもこれらは本当に起きることだ。ほとんどそのことを忘れているので、ある日ふとつながったりすると、だから余計にうれしい。

Iさんが職場を離れてから話せる人がひとりもいなくなった。仕事上の話や、簡単な世間話はするけれど、それ以上の話ができる人、ほかの話もしたい人がいない。職場には遊びに行っているわけではないのでそういうものかもしれないし、それでもいいと言えばいいけれど、今は職場のほかに外とつながるところはないから、やっぱりつまらないし少しさびしい。

こんなものかとあきらめかけていた頃に、その小さな店を見つけた。18時開店、レースの傘をかぶったオレンジ色の灯りとワインが待っている。さて、今日は何の話ができるだろう。


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