蜜白玉のひとりごと
もくじかこみらい


2007年05月27日(日) アイロンと映画/『十字路のあるところ』

3週間前、卵のついた水草を親たちとは別のアクリル容器に移し替えた。卵は確かにちゃんとあるのに、でもちびメダカの姿はぜんぜん見えない。まだか、まだか、今日こそは孵ったか?と毎日覗きこむ。先週やっと孵った5匹くらいは、これまた親とは別の中くらいの火鉢に水を張ってそこへ移す。

それがここにきて、メダカの卵がぞくぞく孵る。今朝新たにアクリル容器に14匹を確認する。乱視ぎみの目をぐわっと見開いて何度も数を数える。それはそれはちいさな、水面に浮かんだゴミと間違えそうなくらいの、かわいいメダカたちだ。

吉田篤弘著・坂本真典写真『十字路のあるところ』を読む。クラフト・エヴィング商會の吉田さんの小説は独特のおもしろさがある。大真面目のうそ話、でたらめばかりを適当に並べているのかと思いきや、あるところまでくるとそれまでバラバラだったものがすーっと、まるで磁石にひきつけられるように集まりぴったりとはまる。小気味よい裏切り。そしてこの本がさらにおもしろいのは、それらたくさんのうそが、続くページの写真によってうそではなくなること、望んだわけでもないのに本当のことになる。探せばどこかにきっとこの世界がある。図書館で、あともう1冊なんかないかな、と何気なく選んだわりには、とても満足のいく読後感だ。

まだ明るい夕方、録画しておいた映画『博士の愛した数式』を見ながらアイロンをかける。毎週ワイシャツ5〜6枚、ハンカチ、ランチョンマット、エプロンを1時間と少しでだらだらと片付ける。家政婦の私を深津絵里が演じていて、予告を見たときにはちょっと若いんじゃないかとも思ったけれど、これはこれでよかった。素直で一生懸命な感じが原作とはまた違った温かさを与えていて、後ろに流れる悲しげな音楽がいったい誰のためのものなのか考えてしまう。原作、また読んでみよう。


2007年05月26日(土) 通勤経路変更と最近の読書/『人生のちょっとした煩い』『がらくた』

文鳥まるの換羽もそろそろ終わりに近づいている。抜けた羽根はグレイや白や黒など生えていた部分で少しずつ色が異なる。そのうち、真っ白なひとつを定期入れにとってある。わがままで甘ったれの内弁慶のまるは、眠たくなると目が三角になり不機嫌きわまりない。

転職して通勤経路が変わってから、電車の中で少し落ち着いて本を読む時間ができた。今まであまりにも読まずにいたのをちょっとずつ取り返している。

グレイス・ペイリー著・村上春樹訳『人生のちょっとした煩い』は文章が難解でよくわからないなりにも、ときおり彼女の描こうとする情景が目の前に立ち上るような感覚がある。晴れた日に大きな木を仰ぎ見れば、きらきらと輝く葉が美しい。そんな印象だ。そして翻訳ものを読むときはネタばれ必至で訳者あとがきから読む。何でもいいから取っ掛かりが必要なのだ。

勢いづいてフィッツジェラルド著・村上春樹訳『グレート・ギャツビー』へと突き進む。第3章で頓挫。翻訳ものは一筋縄ではいかない。しばらく放置して、また(いつか、そのうち)時機が来るのを待つ。

通勤で新宿乗換えがなくなったので、ときどき物足りない。今は週末にまとめて新宿での用事を済ませている。大きな本屋さんを特にあてもなくうろうろ見てまわるのもそうで、この前の日曜日はそれで江國香織著『がらくた』を買った。ほかにもめぼしい本がいくつか見つかり、これといって探し物をしていたわけでもないのに収穫があって、得した気分になる。

『がらくた』は言ってしまえばインモラルな夫婦の話で、こういうのはいつの頃から江國さんがずっと書き続けている人たちだ。本当はあまり好きではないし、もっと別な人たちを書いてほしいと思いつつも、ついつい文章が読みやすいのでさらさらと読んでしまう。さて今回は、インモラルな夫婦の話といっても、例えば『東京タワー』みたいにどろどろしてはいなくて、それと言うのも話の中心が「夫・妻」ではなくて、「母・娘」にあったせいなのかと後になって思う。あくまでも女たちの話、「夫」とか「元の夫」(場合によっては「父親」)はいずれもおまけというか、スパイスというか、便利な脇役たちだった。

はあ、それにしても。夫婦というのはそれぞれにいろんな了解事項があるものだ。あんな変てこりんなルールのもとで一緒に生きていくなんて、私には到底できない。だいたい、そんな夫婦がいつまでも夫婦でいられるはずがない、などとついむきになってしまう。でもナントカは小説より奇なり、とか言うくらいだから、もしかしたらどこかにいるのかもしれない。涼しい顔して、大人のふりして、それはひどく残酷なことだ。


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