蜜白玉のひとりごと
もくじかこみらい


2002年02月27日(水) 確かめてみたいこと

ここのところ忙しいというか、しょせん私の言う「忙しい」はたいしたことないのだが、なんだかそれでも気分的に落ち着かなくて、「ひとりごと」がなかなか書けずにいた。書こうとしたことは3回ほどあるのだが、無理して書いてもつまらなかった。そんなのは、即刻削除である。やっぱり本を読む時間がないと、干涸らびてくる感じがするし、おもしろいことも何ひとつ思い浮かばない。2、3日前からようやく、本と自分との距離がいつもの調子に戻ってきた。

今日は川上弘美の『椰子・椰子』を読んだ。彼女の作るお話はどれもこれも、生物学的に変な感じなのだ。何かが間違っている。グロいというのとはまたちょっと違うと思う。私はドロドロしたものとか気持ち悪いものがだめな性質なのだが(ホラー映画なんて100万円積まれたって見に行かない)、そういう私が読めるのだから、きっとグロいというのとは違うのだ。

それで、確かに彼女のお話は生物学的に間違ってるし変だしおかしいのだけれど、一方で、そういうこともあり得るかもなあとその気にさせるところがある。単に周りのそうした様子に気がついていないだけで、私がもうちょっと敏感だったりしたら、そういう目に遭うかもなあと思ったりもする。

生物学的にちょっと変というのとは異なるけれど、おもしろいと思った部分がこれ。「椰子・椰子 *秋」の「九月二十四日 雨」のくだりで、「一日読書。十時間以上読みつづけていると、文字に影が見えるようになってくる。その影が、ページをめくる時には、いっせいにふるえ、『ぷう』というようなささやきを漏らす。少しうるさいが、情緒がないこともない。」というのだ。

今週末、読書三昧をしようと考えているので、ページをめくる時に「ぷう」というささやきが聞こえるかどうか確かめてみるつもりだ。その前に、十時間以上読み続けられるかが問題なのだが、ここまで来たら、やってみるよりほかない。


2002年02月20日(水) まだまだつづく

周囲で結婚話が続いてたいへんだという話をちょっと前にしたけれど、最近ないなあ、そろそろ一段落かなあ、と思っていたら、ひさしぶりにその話が出た。

仕事を終えて家に帰ってきたら、昼間、祖母に会ったという母がおかえりなさいのすぐ後に、今日おばあちゃんがね、「蜜白玉ちゃんは早く結婚させてあげなきゃ。いい人見つかったのよ。これこれこういう人なんだけど、どうだろうねえ。」だって、どうする?と言ってきた。どうするも何も…。

祖母は横浜で小さな料理屋をやっていて、ずいぶんながくやっているものだから、何やら仲良しの常連さんがたくさんいて、そのうちのひとり(仮にSさんと呼んでおく)のお孫さん(といっても私より年上)を候補にあげているらしい。私はSさんはもちろんのことSさんのお孫さんにも会ったことはないし、話も聞いたことがなく、その人が一体どんな人なのか想像もつかない。言ってしまえば祖母がひとりで(もしくはSさんとふたりで)盛り上がっているだけのことなのだが、相手が大切なお客さんだけに、私としても全然その気がないからと言ってあまり邪険にするわけにもいかず、変に気を遣う羽目になる。

話はまだたいして進んでいないようなので、私は今の時点ではさっぱり結婚する意志がないということを母の口からさらっと伝えてもらうことにした。私はしばらく祖母のお店にも顔を出さない方がよさそうだ。

それにしても、驚いた。祖母は以前から「いい人が見つかったら早く結婚しなさいよ。」と私の顔を見る度に言っていたが、まさか「どこそこのだれだれさん」という具体的な形で話を持ってくるとは、私も母も予想していなかった。女三代の結婚話といえば有吉佐和子の『紀ノ川』が思いつくが、あれはゆるゆると流れていく女の人生の話だった。流れること自体いっこうに構わないが、どうせなら自分の意思で流れたい。


2002年02月16日(土) おふろじゃおふろじゃ/長ねぎじゃ

昼間からお風呂に入った。指だけでなく手のひらの皮もしわしわになるくらい、のんびり二時間。湯船に浸かってぼうっとしていると、隣の家からピアノの音が聞こえてきて、「ねこふんじゃった」に始まって「アラベスク」「エリーゼのために」と続いて「千と千尋の神隠しの歌」で終わった。「千と千尋の神隠しの歌」は前奏でピンときたので、一緒に歌った。

らら らんらんらんらん らららら らんらんらんらん らららら らんらんらららん らららら らん らららららん…

お風呂で本を読む人がいるけれど、器用なもんだと思う。私は何度か試してみたものの、本を濡らさないようにするのに腕をお湯の外に出しておかなくてはならないのが嫌で(冷えるから)、水面ぎりぎりのところで読むから、結局本を濡らしてしまって、どうもうまくいかなかった。雑誌も文庫本も紙がふにゃふにゃになって、乾いてもなおらなくて、もったいないなあと思った。

ピアノの音が消えて、再び何もすることがなく肩までお湯に浸かっていて(肩こりなのだ)、札幌の恋人が言っていたことばを思い出した。「だいじょうぶ。本当に大事なものはそう簡単にはなくならないから。」たぶん合っているはずだけれど、もしかしたら後半部分が「そう簡単には離れていかないから」だったかもしれないし、「そう簡単に手からこぼれていかないから」だったかもしれない。とにかく、言っていることはそういうことなのだ。今日は彼女のこのことばが、ものすごく現実味を帯びて私にせまってきている。そうだといいのに。

お風呂から上がって少しお腹が空いたから、遅めのお昼ごはんにした。スパゲティ・ナポリタンを作ろうと思ったら玉ねぎがなくて、仕方がないから長ねぎで代用した。長ねぎを薄くななめ切りにしながら、ああ、私ってば、こんな時にねぎ刻んでる、と思ってちょっとおかしかった。本当は玉ねぎを刻む予定だったのに、長ねぎでは涙は出ない。


(注)札幌の恋人とは中学以来の女友達で、彼女は自ら「札幌の恋人」もしくは「札幌の愛人」と名乗る。メールや手紙のはじまりにはたいてい「札幌の恋人○○○だよ!」とある。


2002年02月11日(月) 「気をつけっつ」のK先生と巨人

孫引きで失礼。ある医学の本に、「ひいきのスポーツ・チームが勝ったりすると、人間を元気にし活性化する何かの分泌物が、体内でより多く分泌される」という記事があったという(『村上ラヂオ』の「太巻きと野球場」より)。村上さんはながいことヤクルト・スワローズのファンらしいのだが、この説にのっとって考えてみると、「通算勝率から、ヤクルト・ファンになるより巨人ファンになっていた方が遥かに充実した人生を送れたんだということになる、僕の人生を返してくれ、僕の大事な分泌物を返してくれ」と叫んでおられる。いや、叫びたくなる、だったかな。

確かに巨人ファンの方が分泌物は多く出ているかもしれないけれど、巨人ファンでも苦労が耐えない人もいるのだ。

私が通っていた高校の国語科のK先生は、大の巨人ファンで、己の人生を完全に巨人に委ねていた。と言うのも、巨人が勝った次の日は、肌つやもよく晴れ晴れとした顔で、足取り軽く授業にやってくる。「いや〜、巨人勝ったね!松井!いいね!」私はめったに野球を見ないので、朝のニュースで巨人が勝ったことは知っていても、松井がどんな感じでよかったのかはよくわからない。ただ、K先生があんまりうれしそうなので、よかったんだなあ、というのは伝わってきた。

逆に、巨人が負けた次の日のK先生は、気の毒なくらいに落ちこんでいて、それはもう、どこか具合でも悪いんじゃないかと心配になるような感じなのだ。表情は暗く顔面蒼白で、授業中もうなだれて昨日の試合を振り返って、愚痴というか反省というか、誰に向かって話すというわけでもなくぼそぼそ言うのだ。授業なんか、そっちのけである。教科書は全然進まない。でも誰も文句を言わない。教室には「先生かわいそう…」的な雰囲気が漂っていた。

巨人の話になると、だから私は必ずK先生のことを思い出す。もう退職されたのかな。巨人が負けた次の日に、誰が先生の愚痴を聞いているのだろうか。巨人が勝った次の日、ちっちゃい体でちょこちょこ元気よく歩いている先生の姿が忘れられない(思えば、あの時のK先生の体には確かに、何か体を元気に活性化させる分泌物が分泌されていたようだ)。

私はどこの野球チームのファンでもないけれど、K先生の事を考えると、1回でも多く巨人が勝ってくれることを願わずにはいられない。


2002年02月10日(日) なくてはならないもの

今日の夕方、やっと『恋愛太平記2』を読み終わった。なかなか思うように読み進まなくて(それは話がおもしろいとかつまらないとかいうのとは関係がなくて、自分の体調が悪かったり、本を読むまとまった時間が取れなかったりで、そうなってしまったのだが)、正月休みに『恋愛太平記1』を読んでから、ずいぶんと時間がたっていることに少し驚いた。

蜜白玉ノートの読書メモのあたまに、「水も空気も本も、私にとってはどれも同じくらい大切なもの。それがなくては生きていけない。」と書いたが、これを書いたときにはちょっと大げさかなという気もしたのだが、今ではそれに近い感じはあるな、とも思う。

本屋や図書館で読みたいと思う本を見つけ、それらをすいすい読んでいられるうちは、読書に限らずほかの物事もうまく進んでいて、調子がいいのだ。それが、読みたい本が見つからないとか、何を読んだらいいかわからないとか、読まなければいけない本が山積みなのになぜか本を読む気にならないとか、読む時間を見つけられないというのは、たいてい体調が悪く、周囲もごたごたしていて、忘れ物をしたりバスに乗り遅れたり、運も悪い。読書は生活のバロメーター?

昨日も図書館で文芸誌を何冊かコピーして、それをひとまず、お昼ご飯(高級つぶあんパンとツナポテトパンとジャワティーストレート)の入っているコンビニの袋に入れたとき、ああ、私は活字を栄養に生きているんだなあ、なんて「ふと」思ったりもした。

とにかく、『恋愛太平記2』を読み終わって、すっきりした。今は『村上ラヂオ』と『文章教室』を平行して読んでいる。(実は、『村上ラヂオ』と『恋愛太平記2』は金曜日までに図書館に返さなければならなかったのだ。週明けには必ず!)明日も読書がはかどることを願って。


2002年02月06日(水) 数字の2と電車の旅

一日お休みをもらった。体調はいまいちだったが、電車に乗ってちょっと遠くに出かけた。ひとりだったら絶対に行かないところに行った。それがなぜか数字の2とならほいほいと一緒に行ってしまうのだ。数字の2の持つ不思議な力。

数字の2はあんまり行動的には見えないのに、実は私よりもずっとよく動き回る。くっついてまわると、その行動範囲の広さに驚く。私はすぐに疲れたとかだるいとかトイレ行きたいとかおなかすいたとか、足手まといなことこの上ない(だろうと思う)。まるで、幼稚園児を連れて出かけているようなものだ。

数字の2のおかげで、私は普段目にすることのない、いろいろなものに出くわす。今日見たのは、連結バス。バスが電車みたいに連結されているのだ。長いし、ぶよんぶよんしている。なんか変な生き物みたい。車輪は6個だか8個だか、よく見えなかった。あんな乗り物ははじめて見た。

はじめて見たよ!と言ったら、数字の2はあっさりと、あれはつくば万博の時からあるよ、と言った。そんなに昔から走っていたのに、私はその存在すら知らなかった。世の中にはまだまだ未知なる生き物がたくさんいる。


(注)数字の2は以前「相方」と称していた人のことで、なぜ数字の2かと言えば、呼び名からごく単純に連想されたものだから。数字の2はもともと『ホテルカクタス』の登場人物である。もちろん、ここで言う数字の2と『ホテルカクタス』の数字の2が同一人物でないことは言うまでもない。


2002年02月03日(日) おにわそとふくわうち

今日は節分、豆まきの日。
日本の伝統行事はどんどん忘れ去られているようだけれど、
節分の豆まきだけはなくならないと思う。
豆をまき、年の数だけ食べる。
この動作は単純に楽しい。

今年はマロ(ウェルシュ・コーギー、♂、1歳10ヶ月)も参加した。
といっても、豆をまくのはさすがに無理なので、
食べる方を担当。

1歳なので1粒。
マロは目の前に差し出されたものなら、とにかく何でも口の中に入れてしまうので、
初めて目にする豆だってものともせず、パクッといった。

しばらくもぐもぐして、・・・?
きょとんとしている。
どうやら、かまずに飲み込んでしまったみたい。

1粒しか食べられないのに、ありゃりゃ。



2002年02月02日(土) 週末・新宿・人ごみ

引き続き、風邪。
仕事は休みだが、夕方から「どうしても出かけなければならない用事」と、
「なるべく出かけたい用事」のふたつがあったので、
相変わらずゴンゴンする頭をかかえて外出した。

待ち合わせは新宿駅東口交番前に6時25分。
中途半端!
なんで、20分とか30分じゃないんだろうか。
別に30分でもいいような気もするけれど。
駅前は土曜日の夕方だけあって、ものすごい人人人・・・
相手を見つけるのに手間取った。

ほんの少し前までは人ごみも全然平気だったのに、
気づいたら、苦手になっていた。
週末の繁華街は避けて通りたい。
お買い物するなら平日午前中。

ふたつの用事はどちらも無事にこなし、
風邪もあまりひどくならずに済んだ。
とにかく、早く治さねば。


2002年02月01日(金) 早めのパブロン♪

風邪をひいた。頭が重くてゴンゴンする。
立ったりしゃがんだりする瞬間など、ものすごく痛い。
孫悟空の輪っかみたいに。

寝ていたいのを我慢して、パブロンゴールド(我が家の風邪薬)を飲んで、
できるだけ温かい格好をして仕事に行った。

こういう日に限って忙しい。
あっちで呼ばれこっちで呼ばれ、バタバタと動き回り、
体温が上昇していくのがわかった。
やばい、やばいよ・・・。

そして、こういう時に限って、
やって来る問題児、約一名。

ねー、なんか最近、俺に冷たくない?

今の私には、あなたの相手をしている余裕はありません。
お願いだから、消えて〜!


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