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153 Positive Thinking

なにかつらいとき、不安だったり、焦ってたり、苛立っていたり、うまくいかないとき、そんなマイナス思考が精神を覆いそうなとき、俺は巨大すぎるものを考える。宇宙とか、自然とか、もう自分が何をしても、まるで痛くもかゆくもない圧倒的なもの。何万光年も昔の星の光がたどってきた道筋だとか、深海の世界だとか、ジャングルとか、太陽のあつさとか。そういうこと考えたとき、宇宙の中の、地球の中の、日本の中の、東京の片隅にいる俺、の考えている悩みがどうした?って思える。そこで俺がちょっとチャレンジ精神を出して、無茶しようが、東京も、日本も、地球も、宇宙も、痛くも痒くもないわけさ。俺の存在なんか気づいてさえくれない。そう考えるとね、なんでもありなんじゃないか?って思えてくるんだ。いい意味でね。(犯罪してもいいとか、そういうことじゃなくて)
そう考えたとき、うちらの周りにある「当たり前のこと」とか、「常識」ってことがなんなんだ?って思える。地球が丸く、青く見える辺りからうちらを眺めてみるんだ。時間軸も幅広く過去までさかのぼってね。そうすると、意味のまるでない常識や法律や、理不尽な当たり前がたくさん見えてくる。
他人の目から見る「客観的な目」よりも、もっとずっと遠くから客観的に見てみると、なんか笑えてくるよ。こう考えると、かなりいろんなイヤなこと、つらいことも、前向きに考えられるな。
2004年02月29日(日)

152 「〜よりマシ」という言葉

この間友達と言葉のことで討論になった。「〜よりマシ」という言葉だ。AとBについて、Aはあまりよくなかった。そしてBはよかった。Aについてお互いに「Aはちょっとね〜。よくないよね〜。」という会話。お互いそう言い合い、そして俺は「でもBはいいよね。」と言うと、友達は「Aよりはマシだね。」と言ったのだ。
当然のごとく俺は、友達がBに対してもあまりいいという感想を持っていないと思った。そう聞くと、友達はBを褒めてそう言ったらしい。ここで言葉の使い方について討論になったというわけだ。
そしたらたまたま数日後に、テレビのある番組で同じことについて討論している場面があった。そこでは、
「確かに『〜よりマシ』という言葉は、『〜より勝っている』という意味ではあるが、現在捉えられるこの言葉の意味は、『〜よりは悪くはないが、でもよくはない』というニュアンスで捉えられる」と言っていた。
これは別にその友達を責めてるというわけではなく(そうとられちゃうかな?)、ちょっとした言葉のニュアンスの違いっていうものは難しいなぁってことだ。なんとなく普段使っている言葉で、ちょっとした捉え方の違いで、相手に与える印象というものはまるで違ってくることがある。例えば今回のようなときに。
言葉って難しい。外国の言葉を詳しくは知らないけど、それでもかじった程度の俺から言わせれば、やっぱり日本語ってのは難しい。細かいニュアンスまで伝えられる複雑な言語である分、使い方を間違えると誤解を生むややこしい言語でもある。言葉ってほんと難しい。
2004年02月27日(金)

151 もし目が見えなくなったら・・・

最近見た映画『解夏』の主人公の姿をみていて、もしも俺の目が見えなくなったら・・・と考えた。ということは、昔から何度か考えたことだった。
もしも今、目が見えなくなったら、本が読めなくなる、映画が観れなくなる、フットサルができなくなる。これからしばらくして失明してしまうことがわかったら、自分の趣味はすべてなくなってしまうだろうな。そして自分の周りにいる大切な人たちの顔もみることができない。話をしていて、相手がどういう表情をしているのかがわからない。服を着る喜びがない。インテリアなんてどうでもよくなってしまうだろう。写真を撮る喜びもない。・・・言い出したらキリがない。
難しいことだろうけど、もしもそうなったときの自分に望むことはただ一つ。そうなった自分はとても稀少な体験をしているのだと考え、他の人では味わえない世界を味わっていると捉えたいということ。
Mr.Childrenの『Center Of Universe』という曲の中でこんなフレーズがある。
「どんな不幸からも 喜びを拾い上げ 笑って暮らす才能を誰もが持ってる」
大好きなフレーズだ。俺はこのことを日々忘れないようにしている。解夏の中でもそうした捉え方がある。稀少な体験をしているのだ、と・・・。
もちろんそうなったときに、自分がちゃんと前向きに捉えられるとは限らないし、むしろそれは厳しいのかもしれない。でも、「もしそうなったら」という仮定の中ではせめて、そう考えていきたいと思う。そうしたら絶望と思われた世界も、捉え方次第で、絶望ではなくなるだろう。ましてやそれに満たない苦悩なんて、すべてプラスに変えられる。そう思い続けたい。
2004年02月22日(日)

150 演劇鑑賞

初めて演劇というものを見た。高校時代のクラスメートが劇団に入って頑張っているんだ。
友達と二人で観に行ったんだけど、会場は満席で、立ち見すらいたくらいだった。初めて観る舞台に、こっちまでドキドキしていた。
舞台を観て一番感じたことは、観ているこっちにもすごい緊張感が生まれるということ。例えば映画であれば、それはワンシーンごとに撮影をして、それを編集しているものだし、そのワンシーンごとにもNGを繰り返して撮られるものだ。それに引き換え舞台というのは、リアルタイムで一つのストーリーを演じきる上に、生であるからNGが許されない。そう考えると、役者がもつ緊張感が、こっちにも伝わってくるんだ。
また、とてもパワフルだと思った。声がとおらなきゃならない。会場に来ているお客さん全員にはっきりとセリフが伝わらなきゃいけないわけだから、はっきりとしゃべる。それがたとえ悲しくて、小声になってしまいそうなシーンでも、声をしっかりと通した上で、その雰囲気を伝えなきゃならないんだもの。すごいことだよ。
俺が今回観に行った公演は、テンポのよさが目立った観やすいものだった。笑いあり、感動あり☆役者の演技を見ていたわけだけど、そこに演出家としての力も感じた。全体を通しての展開のスムーズさや、交差するときの流れの表現や、クライマックスシーンでの演出力も目をひいた。たった一つの舞台で演じられるわけだから、そこでクライマックスの盛り上がりをみせるには、音楽や視覚効果や小道具を駆使するわけだ。そういう点で、しっかりと観客の気持ちを盛り上げてくれていた。
プロの役者はすごい。セリフを多少かんでしまう場面があって、こっちがドキっとするときがあるけど、そこでも役者さんはあわてずに乗り切る。それって役者さんにとっては当たり前のことなのかもしれないけど、すごいと思う。映画やドラマなどと違って、舞台っていうのはメンタル面の重要性が、より大きいんだろうと感じた。
舞台で他の役者さんと遜色なく演じている友達をみて、なんか感動してしまった。あの頃のあいつが、今こうして頑張ってるんだ〜って。なんか猛烈にうれしかったよ。これからも彼の活躍を期待している。
2004年02月15日(日)

149 斑尾スノボ

大学の友達6人でスノボにいってきました☆1泊2日でレンタカーを借りて、長野県の奥の方の斑尾へ。
早朝から出発するって話だったので、男3女3だったんだけど、男女それぞれ3人ずつ友達の家に泊まって、そのまま朝出発する予定だったから、夜9時くらいに学芸大学前に住む友達の家へ。すでに前の日に4時間しか寝てなかった俺は、ドライバーでもあり、ついたらすぐにスノボもするわけだから、すぐ眠るつもりだった。でもまぁ、男3人で泊まりをして、すぐに寝るのが無理な話なのか、結局寝かせてもらえず、そのうち眠れなくなり、結局1時間半しか寝れないまま朝に・・・。
マツダ・プレマシーに乗って、早朝5時半に出発!もともと低血圧の俺は、しょっぱなからテンションは最悪。ずっとぼーっとしながら、ついたのは9時半くらいだったのかな?スタッドレスタイヤのみでの雪道の運転を、恐い恐いと言われながら到着!着替えて早速ゲレンデへ!
俺はまぁまぁ経験者で、あと一人が経験者、そのほか男1人と女3人はほぼみんな初心者だった。ボードのつけ方から、止まり方、転び方などを伝授し、滑走。俺はみんなの後から追うようにすべっていった。この斑尾のゲレンデは高校3年生のころに一度きたことがあって、結構穴場なのだ。コース数はそれなりにしっかりあるのに、すごく空いてる。リフトは2回とまり、手でもつちっちゃいリフトみたいなやつは3回とまった。(というか止めた。。。)そんなこんなでしっかり5時半まで滑った。
ホテルにいって、飯食って、とりあえずみんなで仮眠。みんな本当につかれきっていたんだ。俺は相当いびきがすごかったらしい・・・。普段そんなにいびきをかくわけではないんだけど、ほんと疲れててすごかったみたい。ちょっと人前で寝るのが恐くなった。仮眠のあと風呂にはいり、楽しくみんなでおしゃべり。
翌日は7時起床で早めにゲレンデへ。出発の1時までの間、しっかり滑った。初心者だったみんなも最後のほうにはしっかり滑れるようになっててよかった。
アクシデントが2度ほど。1度目は俺と女の子2人の3人でいるときに、遠くに見える上のほうでクラッシュして崖から落っこちた人がいた。ちょうどそのときは俺はみてなかったんだけど、1回転してふっとんだみたいで、みんなさわいでいた。しばらく見ていると、あがってこれないみたいで、俺が走っていったんだ。近くにいってみると女の人がいて、落っこちたのは恋人の男性だった。「大丈夫ですか?」と聞くと、「怪我をしてるんで、助けてください。」と言われた。近くによってみると、なんと顔面血だらけ!林に突っ込んだため、おそらく木にぶつかったんだと思う。下りていってみたらかなり深いところで、あやうくミイラとりがミイラになるところだった。ボードをはずし、なんとかその彼は這い上がることができた。あ〜、びっくりした。
2度目は、さぁかえるぞ!ってときにレンタカーのキーがなくなっていることがわかり、みんなで大捜索。ゲレンデを下りたところがあやしいということで、友達とふたりで走ってゲレンデをおりていった。かなりの距離。結局なくてリフト券もすでになくて、ゲレンデを歩いて登る。俗に言う「登山」。雪山を登るのってかなりきつい!リフトってすげ〜!って思ったよ。「Information」に連絡をしたら見つかった。ほっ・・・。
いっきにばーっと書いてまとまりがなくなっちゃったけど、まぁこんな感じでせわしなかったわけよ。でもほんと楽しかったよ♪やっぱスノボはいいねぇ。
2004年02月14日(土)

148 純文学とカジュアル文学の違い

これまで「Book」のコーナーでいろいろと紹介してきた村上春樹の作品を含む純文学に対して、全般的な意見をVoiceで話してみようと思う。これはあくまでも素人的に、ただ好きで読んでいるだけの一読者としての意見だから、より専門的な目で見る人とは視点が違うし、もしかしたら「お前の言ってることは違う!」といわれてしまうかもしれないけど、そう、あくまでも俺個人が感じた意見として、ね。
村上春樹は純文学作家とされていると思う。世間でどう思われているとか、どういうジャンル分けをされているとか、そういったことにそこまで詳しく知ってるわけじゃないからなんとも言えなくもあるんだけど、たぶんそうだと思う。そして俺もそう感じる。同じ日本語を使って文章を書いているのに、そこに純文学と、そうでない文学(文学というのかわからないけど)の差をどこで見分けるのかは最初はわからなかった。
例えば、同じ村上姓で有名な村上龍の作品は、純文学とは言わない。石田衣良も、辻仁成も、田口ランディも違う。これらはなんて言うんだろう・・・。大衆小説とか、中間小説とか言った言い方があるけど、一番しっくりくる言い方は「カジュアル文学」という表現。これをどこで見たのか覚えてないけど、(しかも正式な名称なのかも疑わしい)なんか一番納得できた。
純文学に共通して言えるのは、抽象的な表現を真剣に受け取り、そこに含まれる深い意味合いを少しでも知る喜びがある、ということ。中学生のころの読書の時代を除けば、ここ数年の読書熱の発端は村上春樹にあるんだけど、その始まりの喜びの一つの大きな理由はそれだった。実に抽象的な名言が多いと思う。
カジュアル文学が、ストーリー全体を通して喜びなどの伝えたいことを伝えるなら、純文学は、一場面ごとにそれが集約されている重みがあると思う。こういうと純文学のほうが勝っているかのように聞こえてしまうかも知れないけど、そういう意味ではなく。読みやすさという点で言えば、カジュアル文学のほうが明らかに読みやすく、面白いものも多い。それに引き換え、純文学は読みにくく、読み終えて「おもしろかった!」と言い切れるものでもないものが多かったりする。読み通すのにテンションが保たれないことも多く、難解な点につまづくことも多い。でも、そのぶん後に残るものも多いと思う。ずっと後を引くし、場面が心に残る。
また、カジュアル文学における会話ってものは、ストーリーが進む上での「過程」として映る場面が多く、あとは登場人物のキャラクター設定の要素としての役割がある。それに比べると、純文学における会話のシーンは、会話そのものに面白みがある。過程としての役割はもちろん担いつつも、それでいて会話のセンスを見せるという点で、その会話のシーン自体がそれ単体として完結しているようにも思える。村上春樹の作品を読んでいて、一番好きなのは、この会話のシーンだ。
どちらが好きかと言えば、俺は純文学の方が好きではあるけど、純文学ばかりを読み続けると疲れてしまう。そしてカジュアル文学も好きではあるから、どっちも読む。なんかほんと素人目の考えだったし、いまいちまとまりがないけど、まぁそんな感じだと思うんですわ。
2004年02月10日(火)

147 財布

今、さて何を書こうか・・・と考えてみて、思い浮かばなくて、たまたま机の上にあった財布が目に留まったから、財布について書いてみようと思う。気まぐれ。
財布って、その人がよく見えるものだと思う。いろいろな人と会うけど、例えばとてもわかりやすい「部屋」は、そんなに見る機会はない。外に出て人とあって、外のみの顔しか知らないわけだから、人はみなその限られた情報の中からその人を知り、理解しようとする。その限られた情報の中で、財布ってやつは大きな情報を発信している気がする。心理学的にどうとかはよく知らないけど。
財布をまず持たない人がいる。俺の知る限りではごく少数ではあるけど、ポケットに小銭やお札をじゃらじゃら。とにかく便利であればそれでいいと考えるのかもしれない。財布にレシートがどんどんたまる人がいる。(俺もそう)ポイントカードとか。捨てられないんだよね。なんかいつか使うんじゃないかと思うと。性格が出る気がする。
財布はファッションの中核だ。常に持ち歩かなければならないから、おのずとその人のファッションの中心的なものとなる。どの服装に合わせても、別に変じゃない財布を持つ。といってもいつもそう思って見るわけじゃないけど、今財布のこと考えていたら、そう思った。そういえばそうだな〜って、ね。
財布は愛着がわく。今使っている財布は、もう3年近く使っていると思うけど、千鳥格子で、中が皮になっている。皮は使えば使うほどアジが出るから好きだ。小銭入れが小さく、前に小銭入れの部分がやぶけてしまったんだけど、買った店でリペアしてもらって、今でも大事に使っている。
せっかくだからちょっと財布の中をチェックしてみよう。何気に人の財布の中を見るのって楽しくない?見ていいと言われれば、見てみたくなるものだよ。ちょっと整理して、レシートも捨てなきゃ。
カラオケのカードが3種類に、CD屋のカードが5種類、スポーツ関連が4種類に、ぼろぼろになった音楽ギフトカード(まだ使えるんだろうか・・・)、本の取り寄せ注文書控え(もう随分経つけど、忘れられてる?)、クレジットカード、学生証、運転免許証、あと100円くらい残ってる図書カード、元旦にひいた大吉のおみくじ、お金。
以前Voice.42で話したことだけど、やっぱりポイントカード類はなんとかして一つにまとめる手を考えたい。なんとかならないもんだろうか。また財布が壊れちゃうよ・・・。
2004年02月08日(日)

146 ムーミン+スナフキン÷2

俺はなぜかよく「ムーミンっぽい」とか、「スナフキンっぽい」とか言われ、また「ムーミンとスナフキンを足して2で割った感じ」と言われる。結構こう言われることが多いからびっくりする。
もちろんこれは内面的なことでね。ぼーっとしたとこがムーミンっぽいらしく、一人が好きなとこがスナフキンっぽいようだ。こう言われることはちょっと嬉しい。ムーミンもスナフキンも大好きだから。
どうしてそうなのか考えてみた。でもよくわかんなくて、ふとしたとき母親にその話をしたら、母親は「あたしがほったらかしてたからよ」という。なんてこと言うと悪い母親のイメージになっちゃうかもしれないけど、そういう意味ではなく。俺が生まれてちょうど1年半後に妹が生まれたため、出産と育児のため、まだ幼い俺は、一人で遊ばなければならない時間が多かったらしい。これは以前Voice.27でも書いていたことだけど、だから俺はずっとパズルをやっていたんだ。一人で遊ぶには最高のおもちゃだったから。一人が好きになったのはこのころからだろうな。
またどうも俺は普段から眠そうなイメージを人に与える。目がそうなのか、声がそうなのか。たぶん両方だろうな。それもムーミンのイメージのひとつだろう。のんびり屋でマイペースだから。
2004年02月03日(火)

145 不思議な老人のシルエット

うちから見える不思議な景色がある。うちの向かいにある家(といっても10メートルくらい離れたところにあるんだけど)に、昔からまったく変わらず人のシルエットがある。だいたい夜暗くなってから帰ってくると、ほぼ必ずその人はそこにいる。「ほぼ」というのは、気に留めたときには必ずということ。
その人はおそらく俺の予想では老人なんだけど、いつも逆光で、どんな人なのかはわからない。部屋の明かりで部屋の中は丸見え。いつも同じ窓際の椅子に座って、体の位置、頭の位置は数センチと変わってない気がする。ほとんど動かない。昨日の夜から・・・、いや、俺が昔見たときから、ずっと動かずそこにいるんじゃないか?と思えるほどだ。ただほんのかすかに頭が動くのをみたことがあるから、死んでるわけではないと思うんだけどね。(もしかしたらあれは錯覚だったのかも・・・)
よくうちに来る友達もそれに気がついて、「ねぇ、あの人いつもあぁじゃない?」って不思議がってた。
スキンヘッド(というか単なる坊主!?)みたいで、逆光だからおそらく部屋の中にあるテレビでも見てるんだろうけど、もしかしたら顔はこっちにむいて、こっちを見てるのかもしれない・・・。ほんと逆光だからシルエットしかわからないんだ。本当に不思議。
2004年02月02日(月)

VOICE / マッキー

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