気ままな日記
DiaryINDEXpastwill


2006年12月27日(水) せっせと消化

 職場の事務所には、ホワイトボードが設置されている。
各自の休暇、当番、出張などの予定をマグネットで表示するものだ。
休暇の色は赤。
今週は、赤のマグネットが目立つ。
来年に繰り越すことのできる有給休暇は、上限20日までと決まっているので、この場に及んで、残った休暇をせっせと消化しておこうというわけだ。
 かくいうわたしも、半日単位で、ちまちまと消化。使い切れなかった1日半に、未練が残る。
 隣の席では、来年3月に定年退職を迎える職員が、
「3ヶ月で、20日休まねえとな」などと言いつつ、早くも、来年の予定を組んでいる。
 とれる休みは、とっておこう、あるものは、使おう、休んどかなきゃ損、損……お叱りがとんできそうなムードが漂った週であった。


2006年12月24日(日) 転ぶ、転ぶ……

先日、友人が、発車間際の電車に乗ろうと走ったところ、コンクリートの上で転んで顔面に大怪我をした。年の頃は、わたしよりも少し上。その話を聞いて、
「そうそう、頭では、ああ、転ぶ転ぶって冷静にわかっているのに、からだの方はもうどうしようもなく、転んでいくのよね」と笑いながら言い合ったものだ。
 で、今日。
なみなみと注いだコーヒー片手に、さてバナナケーキでも食べようなどと思い、布団をまたごうとしたその瞬間。シーツを踏んづけたその足には、すべりやすいソックス。
「あああ、転ぶ」スローモーションのように、からだがゆっくりと傾いていく。
「コーヒーカップを持った手はどうしよう、放そうか放すまいか……」
転びゆきながらも、冷静な部分が考える。
結局、カップはぎゅっと握り締めたまま。布団の上にすべってころんで、起き上がってあたりを見回すと、ぶちまけられたコーヒが、あっちこっちに、茶色の水たまり、または染みを作っている。
 こんな時は、がっくりとして、すぐに行動する気も起きないものだ。なにから手をつけていいかさえわからなくなる。もう、慌てたところで仕方がなし。
 びしょびしょの洋服を取り替え、毛布を洗い、シーツを洗い、畳をごしごしとふき取る。部屋中たちこめるコーヒーの香り。
 ひとあし早い年末の洗濯騒ぎとなったのだった。 


2006年12月17日(日) もうすぐクリスマス

 テレビで、三浦半島に住む、アカテガ二の生態を放送していた。
 まだ一度も行ったことのない海めざして、カニが数キロの道のりを行進してく。途中家があろうと道路にはばまれようと、きちんと海に到達するというのは、もはや自然の力の賜物。方向音痴のカニなどというのは、いないのだろうか。

 父の叔母から暖かそうな靴下と手袋のプレゼントが届いた。
毎年この季節になると贈ってくれるのだ。彼女はもう90歳を超えている。耳は遠いが、ひとりで暮らしている。慕ってくれる甥っ子や姪っ子、そしてその子供たちへの贈り物、それらが彼女の生活を彩る楽しみのひとつになっているのかもしれない。


2006年12月09日(土) いい年

 職場の同僚が、先日20歳を迎えたそうだ。その少し前に行われた忘年会の時は、まだ19歳だったので、お酒を飲めなかったとか。
 20歳。確かにわたしにもあったはず。成人式には歌手のサーカスが来て、アルバムをもらって帰ったっけ。貸衣装の着物姿は、見るも滑稽な七五三だった。
 心の中はまだ当時の延長線上。なんら変わっていないのに、つい「近頃の若い人」などと言いそうになり、慌てて飲みこむも、言ったからとて、全く不自然ではない、いい年になったのである。
 その実、いつまでも、「近頃の若い人」でありたいという願望のみ強くなる一方なのでした。
 


2006年12月07日(木) 休みの過ごし方

 休暇をとる。せっかくのお休みなのだから有意義に、などと気合がはいるのはいつものこと。しかし、平日にお休みをとったからといって、急に感心するような過ごし方ができるというものでもない。
 かくして、土日には閉まっている銀行に行って所用を済ませたり、図書館に本を返したりと、あくまでも「用事」の域を出ない過ごし方になった。

 正岡子規の「病床六尺」を読む。死の床にありながら、食への執着、生への執着はすごい。「やけ食い」「拒食」「過食」「こだわりの味」……。食べるという行為は、良くも悪くも、メンタルなことと随分と結びついている。


2006年12月02日(土) 見方を変えると

 先日、職場の研修の一環として、「国際人権集会」に参加した。
 心身に障害をもった当事者の方の話の中で、興味深く感じたのは、「この子を遺して親は死ねない、とわたしたちの親は心配してくれるけれど、子供の立場であるわたしたちからすると、この親たちをどうしたらいいのか、そのことの方が心配だ」という話だ。
 確かに、自分が障害を抱えた状態で生活していくだけでも大変なのに、年をとり身動きのできなくなっていくお年寄りをどう介護していくか、という問題は、障害のあるなしにかかわらず、共通で切実な課題である。

 もうひとつ、これは聴覚障害をもたれた方の話。
4月から施行された障害者自立支援法によって、受益者負担になり、手話通訳をつけるのにも、費用がかかるようになった。しかし、手話通訳というのは、健常者も含め、コミュニケーションの手段。手話ができる彼らの方にのみ、金銭的な負担を強いられるのはおかしい。手話の出来ない大多数の健常者のほうにも、応分な負担があっていいのではないだろうか、という話。
 言われてみれば、本当にそうである。


TOMATO |HomePage

My追加