気ままな日記
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2006年02月25日(土) |
コラージュ技法・続き |
コラージュ技法の講座2回目を受講。 4週間ほど前に作成したコラージュ作品について、講師の方との対話形式で行われた。 大きな画用紙の右下に貼るものは、母性や家庭を表すのだそうで、わたしの場合は、どんぶり鉢に盛られたごはんが、みごとに貼り付けられている。つまり、わたしにとって、母性=食事ということなのだろうか。
受講生の方たちが切り抜いたものを見ると、本当に人間の感覚や好みは千差万別であることが今更ながらわかる。ともすると、自分の推測や思い込みから、相手の気持ちを推し量って、わかったつもりになることがあるが、ところがどっこい、画用紙1枚の上にだってこんなに多様な世界が広がるのだ。人の気持ちを邪推するだけおこがましいというものかもしれない。
絵を描くのは苦手なわたしであるが、プロの撮った写真なり、描いた絵なりを、じょきじょきと切る作業はとても楽しい。また折りを見てやってみたいものである。
体重を測ったら1ヶ月で、2kgも増えていた。 甲状腺のホルモンの分泌を抑える薬が効きすぎると、こういうことになるらしい。最近はいろんな情報をネットで調べられるからありがたい。そういえば肌もカサカサしているし、体全体のエネルギーが落ちている感じ。 ちょっと神経質過ぎるとは思ったけれど、病院に念のため電話した。 受話器の向こうから医師の声。もうめちゃくちゃ忙しいんだよ、こっちは!という雰囲気のせわしない返事だったけど、処方を変えてから4日しか経っていないので、しばらく様子をみてくださいという答えをじかに聞くことができて少し安心。 インターネットで、情報はすぐに得られて便利になったようだけど、あまりにあふれていると、どの情報が自分にあてはまるのか、どれを信じていいのか、かえってわからなくなる。で、結局はこのように、ナマの人間に電話することになる。 冷静に考えてみれば、今回わざわざ電話してしまったのは、体調云々よりも、 「食べ過ぎたわけでもないのに、太ってしまった」ということに合点がいかなかっただけのような気もする。 「忙しいところ本当にすみません」と携帯に向かってペコペコしながら聞いてしまった自分の姿がちょっと情けなく思えたのでした。
今日はバレンタインデー。 駅までの道すがら、明らかにチョコレートがはいっているとわかる紙袋を提げた女性を多く目にした。 クラスの男の子全員に配るのか、小さな小袋にシールを貼ったのを紙袋ぎっしりに詰めて両手に提げた女子高校生。紙袋が二重になっているところを見ると、相当持ち重りがしそう。 手作りのマドレーヌがこぎれいな紙袋から数個、顔を出している方もいる。 本命チョコなのか、ひとつだけ、リボンをかけたシックな色合いの包みが、小さな紙袋にはいっていたり……。 いちいちチェックしているわたしも、随分怪しいおばさんだけど、巷ではやはりこの風習は相変わらずすたれていない。 夕方、大きな紙袋にいっぱいのチョコレートを詰め込んで歩いている男性の姿はさずがに見当たらなかったけど、それぞれのビジネスカバンや学生カバン(っていう言い方しないのかしら、今は?)の片隅にこじんまりとおさまっている小さなハートマークの小袋は、3月のホワイトデーまで、その存在を主張し続けるであろう。
病院へ行ったら、主治医が3月一杯で退職する旨を知らされた。病院の近くに開業するらしい。 「良かったらここに」と、新たに開業するクリニックの地図が載ったチラシを渡された。わたしの場合、今の病院の方が便利がいいので、彼にくっついて転院するつもりはないけれど、こういう知らせはいつもいきなりやってきて、少なからずどぎまぎする。 折りしも、甲状腺ホルモンの分泌を抑える薬が効き過ぎたようで、明日からは、分泌を抑える薬と、増やす薬をなぜか両方1錠ずつ飲むことになったという微妙な時期。こういう大事な時に去って行かれると、こちらの勝手な言い分ながら、ちゃんと見届けてから去って欲しいなあ、などと思ってしまうのである。まあ、ちょっとした、見捨てないでくれえ〜って気分。 今回は薬の調節がうまくいかなかっというか、彼曰く、薬の効きが良すぎた、ということを、次に赴任される医師に、よく引き継いでいって欲しいなあ、と願うばかりである。
「博士の愛した数式」を映画で観て以来、小川洋子さんの小説に嵌っている。 今日読み終わったのは、「偶然の祝福」。短編を貫くテーマは「失ったもの。」 大きなものからささいなものまで、毎日毎日なんて多くのことをわたしたちは失いながら生きているのだろう。そしてその喪失が、失いっぱなしにされたりせずに、代わりの何かを残していく、という設定に救われる思いがする。
昨日、3日間にわたる定期監査が終わった。 監査が近づくにつれ、ぴりぴりとした雰囲気に包まれるのは毎度のことながら、今回はどういうわけか、管理課長が、直前になって、あれこれ慌てふためき始めた。 会計の仕事なので、ミスは許されないが、探せばなにかしら不手際は見つかるもの。それを指摘されたらこう説明しよう、ああ説明しようと、念入りに打ち合わせ。どう言い訳するかの口裏あわせと、この場に及んでの、まちがい探しにやっきになり始めたのである。 そのたびに呼ばれる我々下々の者。わたしの前の席の同僚は、返事こそいいものの、あまりにも細々としたことを指示されるので、しまいには、「ったく、うるさいおやじなんだから」と、コピー室でキレる始末。 結局、監査委員の方たちは、こちらが準備していたようなことはなにひとつ指摘せず、せっかく作った監査資料も、あまりめくりもせず、あっけなく終了したのだった。 その昔、「右の絵と左の絵で、違っているところが7箇所あります。それはどこでしょう」という、その名も”まちがいさがし”という遊びがあったが、課長はきっとこういう遊びが好きだったのかもしれない。
2006年02月01日(水) |
コラージュ技法・椅子の下の猫 |
先日コラージュ療法を受講した。 雑誌などから、写真や絵を切り抜いて、画用紙の上に好きなように貼り付けていくものだ。心理療法のひとつで、手軽な箱庭療法とも言われているらしい。以前やってみて夢中になったので、今回近くの文化センターで再度やってみたのである。 あらかじめ4冊ほどの雑誌を用意。切り抜く写真の部分に付箋。時間制限があるとあせってしまうので、一応用意をしておいて、あとは当日の気分に任せることにした。 どんなふうにできたかというと、洋風のパソコンデスクと和風のちゃぶ台などの家具と、珈琲カップ、白黒の本の写真……。わたしとしては、自分にとって居心地のいい空間や好きなものを集めたつもりだったが、ちょっと雑誌クロワッサンなどに出てくる「くつろぎの空間」そのものの様を呈している気も。 その中で、当日急に気になって切ったのは、厚手の白いマフラーがかけられた椅子の下にもぐりこんでこちらを見ている猫の写真。椅子にすっぽりと隠れた様は、その時のわたしの気持ちとどこかつながっているような気がしたのだろうか。 コラージュに解釈は不要とのことだが、この作品を通して、2月の末に、講師の方と感想を話し合う機会があるので、今から楽しみである。
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