気ままな日記
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2004年12月28日(火) 仕事納めだぞい

 仕事納め。
なんだか今年は、異常気象や不穏な事件、大災害……と、個人の力ではどうにも防ぎようのないようなできごとが次から次へと多く起きた年であった。
昨年の年末年始の休暇は9日間もあり、飽きた。が、今回は6日間。これは短い。
 明日は大掃除と大洗濯。「やろう!」と思うとガシガシと脇目もふらずにするたちなので、きっと1日で終わるだろう。
年が明けたら鎌倉八幡宮に初詣。来年早々息子が高校を受験するので、さすがに自分自身のことを祈るのは気がひける。彼の合格を祈ろう。


2004年12月24日(金) 推測するということ

 巷はクリスマスイブ。サンタに化けたのも今は昔。
お店で売られているお菓子のはいった長靴も、年々巨大化しているような気がする。長靴の奥底は、あんまり好きではなかったマシュマロやラムネがはいっているとわかっていても、チョコレートに見せかけたキャンデーだったとしても、なんだかいいものが一杯詰まっているような感じは、捨て難い。だから何十年も売られ続けているのだろう。


 話は全く変わって―。
「怒ってる?」と、それほど親しくもないのに尋ねることは、相手に失礼なのだそうだ。一見、相手の気持ちを推し量っているように聞こえるけど、そういうたぐいの質問をされた時に感じた妙な感じを思い出したら、なるほどそうかもしれない。
本当に怒っていたとしたら、不機嫌がすぐ顔に出るんですね、と言われたようなものだし、もし怒っていなかったとしたら、そんなに不機嫌に見えるのかなあ、と思うだろう。いずれにせよ、聞かれたほうは面白くない。
 わたしは、率直に相手の機嫌を口に出して尋ねたりはしないけれど、気がつくと、心の中で勝手に、相手の感情や気持ちを推測していることが多い。
それは、相手の好意や寛大さみたいなものを全然信じていないことでもあり、やっぱり失礼なことだったのかもしれない。 
 他人の感情は他人の所有するものであり、こちらには責任はないっていうのはこういうことなのだろう。


2004年12月20日(月) ものの言い方

 9月の人間ドックで、イエローカードが出ていた、肝機能の再検査に行く。
人間ドックの検査結果を一瞥したドクター、せせら笑いながら曰く、「ふふん、こんなの大したことないんじゃないの?」とひとこと。
あ、そ。わたしもそんな気がしていましたとも。でも一応、要再検査ってことになってることだし、素人判断で、太鼓判押すのもなんだと思ってわざわざこうして来たわけです。
 こういうドクターに限って、深刻な所見があったりすると、「なぜもっと早くこなかったんですか!」と怒鳴ったりして……。
まあ、「ふふん、手遅れですよ」と言われなかっただけ、ずいぶんとマシであったとしよう。


2004年12月16日(木) 祖母の歌集

父方の祖母の遺した歌集を久々に読んでみる。
生前、彼女が折にふれ、5.7.5.7.7.の形に詠んでしたためたものである。
タイトルは『うさぎ』。わたしと彼女は同じうさぎ年。わたしが24歳の年女の時に、この冊子を渡されたのだった。
縦書きの罫線に沿って、万年筆で書かれた歌のひとつひとつには、孫や息子娘たちとのなにげないやりとり、ベランダに咲く小さな花や訪れてくるノラ猫、朝に偶然見た茶柱などが登場する。それらの内に、死者との思い出をつむぎ、老いの孤独を感じ、また明日へのささやかな希望をつなぐ。
彼女はいつも、人の好意に対して素直に、ありがとうという感謝の気持ちを持っていたように思う。

 空虚の穴を埋めようと、あれこれ買いあさったり、片っ端から新しいことに手をそめたり、人さまのためだと走り回り(実は自分のため)、その昂揚感に一時満たされたような気がしたりすることの愚かしさについて、彼女の歌は教えてくれているようでもある。
何も特別なものはいらない、今あるもので充分なんだよ、そのままでいいんだよ、と。
からっぽでもないが、でも完全に満ちることもないのだ。
空虚の穴はふさぐべきものではなく、抱えて生きるものなのかもしれない。

―などと、知った風に言ってみるものの、ポッカリとあいた時間をもてあまし、その中にあれこれ何か入れたくなってしまうのはいつものことなのだけど。


2004年12月11日(土) 月火水木金土

 おとといは、午前中で用事が済んだので、午後から神田神保町へ出かけた。いわゆる「古書店街」。ずらりと並んだ本屋さん。
『どれでも100円』と書かれたワゴンごと、無造作に店先に並べられた古本。よく見ると、以前、ベストセラーになったり、著名な作家が書かれた本もずいぶんと安売りされている。
不思議なもので、ジャンルの区分もされず、半分ホコリまでかぶってもうどうでもいいように扱われているのを見ると、なんだかその本の価値までさがったように思われ、買う気がしないものである。
こういうところで、掘り出し物を見つけるのが醍醐味ということがよく言われるが、本を読んでいる割には、その価値について無頓着なわたしにとって、いったい何が掘り出し物なのかさえ判別がつかず。天井までぎっしり詰まった本の数々を見て、震度7クラスの地震がこの界隈をおそったときの、ありさまについて思いを馳せるだけに終わった。
 帰りは御茶ノ水駅に出た。ここのホームからは、川が流れるのを眼下に眺めることができ、目の前には医科大学の建物がそびえたち、ほかの駅にはない雰囲気をかもし出している。

 昨日は忘年会だった。ここの職場の親睦会は、やたらに行事が多い。
最近は、あまり友達とも会いたいという気力が湧いてこず、ましてや宴会に出る心境ではないのだが、幹事なのでいたしかたない。
いつも幹事役を自らかって出る人がいるが、生来、世話好きなのだろう。みんなの喜ぶ顔がわたしの喜びなんです!と言い切れる方なのかしら。イベントがうまく進行して当たり前、もし不行き届きがあれば、アルコールに飲まれたおやじに喚いて責められる役柄。なんだか報われない仕事である。
 ビンゴでスリッパが当たった。普段、100円ショップで買ったすごくはきにくいスリッパをはいていたので、これはうれしかった。

 そして今日は土曜日。休日。
月曜日にしなくてはいけないことは月曜日になってから考えたりしたりしよう。
火曜日にしなくてはいけないことは火曜日に。
今日あれこれ考えてみても、前にすすむことではないのだったら、せめて今日は自由でありたい。
……と頭ヒートアップ気味の自分に言い聞かせてみている。


2004年12月04日(土) 落書き

 緊張感を自力で解くことがむずかしいと思ったので、久しぶりにチューハイを飲む。
2ヶ月前の人間ドックでイエローカードが出て以来、お酒は控えていたが、よく見てみれば、検診結果のコメント欄には、栄養と休養を充分とるように、3ヵ月後に再検査を受けるようにとだけ書かれていて、お酒は飲むなとは書かれていなかった。……と都合のいいように解釈して、週に2,3度だったら飲んで良しとしたのである。

伊集院静氏の本『母の男言葉』を読む。
自分自身のあれこれを思い起こさせてくれるエッセイは面白い。
読んでいて思い出したのは「落書き」。
わたしの教科書やノートは落書きだらけだった。
ほとんどが女の子の絵。授業中、自習中、とにかく気がつくと手が動いて落書きをしていた。落書きばかりはどんなに練習しても、落書きの域を出ず、いつまでも上達はしなかった。
 現在仕事中に、ちょっと一息という時には、お茶やコーヒーを飲むより、やっぱり落書きをしている。散歩が趣味の課長、その他通りかかった同僚たちに、目撃されるやもしれないので、さすがに絵は書けない。
そこで専ら文字。ここに載せる日記の下書き、今度人と会って話す時の話題、帰りに買って帰る物のリスト、などを、米粒を半分で割ったような小さな文字で細々と書く。
それで脳みその休憩をする。

 小学生の時に、国語だったか算数だったか、答案用紙の解答欄に、女の子の絵を書いて、先生にひどく怒られていた子がいた。どういうわけか、その子の友達まで呼ばれて、一緒に怒られていた。国語の授業のたびに、作文を原稿用紙に1枚書かせ、給食は毎日全員が残さず食べるということをノルマと課している先生だった。
「答えが女の子だと思って書いたんならそれでいいのよ!」と、明らかに、そんなはずはないという勢いで、きびきびと叱っていたさまを思い出す。
のちに校長先生になられたと聞いているがご健在だろうか。そして、「正解は女の子だと思って書いたんです」とも言えずに先生の前でメソメソと泣くしかなかった、おかっぱ頭のその女の子も元気でやっているだろうか。


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