気ままな日記
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中学校の体育祭を見に行く。 小学校の頃は朝も早よからシートの場所取りをし、あくまでも家族単位で盛り上がる場で少し肩身が狭かったけれど、中学校ともなると、学校側の用意した見学席は、ほとんどお母さん同士、およびおばあさんおじいさんの社交の場となっている。
手作りゲートには『めざそう完全燃焼』の文字と、メラメラと燃え上がる炎の絵が絵の具で書かれている。 生徒にも、このスローガンのように率先してイベントを盛り上げていこうとするタイプと、「けっ」と冷めた目で椅子にふんぞりかえり、応援団の合図なんかにも全然反応しようとしないタイプ、そのどちらにも属せず、何となく周りに合わせて拍手なんかするものの心の中では、あと何種目で閉会式だわ、ともてあまし気味におとなしく座っているタイプ……とさまざまいることだろう。 わたしは中学校の時も高校のときも3番目のタイプだった。ただ、そのときはわからなかったな。わたし以外の生徒はみんなメラメラと燃えているように思えていた。まっただなかに居る時って意外に周りと自分が見えていないのかも。
今日はとりあえず出勤しよう、でも明日からは休むからね!っと思いながら日々暮らしているみたい。近々こういうことが起こりそう……って予感している時の方が、その真っ只中にいる時よりもしんどい。
自責の念が強い時は、口に出すのもおぞましい気がするけれど、とりあえず口に出して、聞いてもらうのがいいみたい。「な〜んだ、そんなことなの!」と笑いとばしてもらえればそれで良し。
ちょっと自分の価値観に凝り固まってた。自分を追い込んでる。
相手に対するイメージの喪失 自分への関心の喪失 会えない予感 戻ってくることはない人 壊れちゃった― いろんな失い方はあるけれど なくしたものについて書き、語り、思いをめぐらせている限り、わたしはずっとその人(もの)といっしょに居られるような気がする。 むしろ本物を目の前にしている時よりも、生々しく、それらはわたしに近づいてくる。
だいじょうぶ。 何がなくなっても、わたしはずっとここに居るから だいじょうぶだよ。
個人的興味から、職員の血液型を調べている人たちから、「ええっ、A型かと思いました」と言われた。 落ち着いていて几帳面そうに見えるからということらしい。 びっくり。実は、落ち着いているのではなく、「かたまっている」のであり、几帳面なのではなく、「不安感に満ちている」だけのことなのである。 他人から見た自分と、自覚する自分とでは、見方に随分くいちがいがあると今更ながら思う。 配属にあたって、いちいち血液型を考慮する暇はないだろうが、確かに会計の仕事は、「きちんと」が当たり前のこととして身についているA型向き。たまたまその時、どんな仕事をしているかによって、印象が左右されるらしい。 彼女たちの調査によると、この職場では、福祉職にB型が多いのだそうだ。 それにしても、A型は褒め言葉として、B型は幾分、自嘲気味なニュアンスを含んだ言葉として伝わるというのも微妙である。
帰りがけの電車で見かけた吊り広告。雑誌「AERA」の特集記事が、「雅子さま世代」壁越える、とあったのでタイトルに惹かれて購入した。 まだ読んでいないけどどんな壁だろう??
ところで― 隣席の同僚は、ひとつひとつの作業に伴う物音を、やたらに大きくたてる。 書類の束は、「バサッ」「ドサッ」とたたきつけるように机に置き、 缶々やスタンプ台のフタは「バチャンッ」と何かの仇のように閉め、 シャチハタ印の押し方は、まるでくさびを打ち込むかのようである。 引き出しの開け閉めは言うに及ばず。 パソコンのキーボードを叩く音にいたっては、一体どのくらいの勢いでキーを打てば、あのような大きな音が出るのだろうかと、家に帰ってひそかに試してみたら、指の先がめりこみそうなほどだった。 それらの音がピシッ、キリキリッとした空気とともに伝わってくると、こちらの神経もビリビリと逆立つのがわかる。 大きな音は怒りの表現を思い起こさせるのでとても緊張するのだ。 せめて袖机ひとつ分のスペースは欲しいと思うのだが、狭い事務室内、それは叶わぬことである。
地下鉄駅構内での風景―。
若いお母さんと3歳ぐらいの男の子。 彼女は、明らかに不機嫌だった。 とても怒っていた。うんざりだわという気持ちがはたからも見てとれた。 どうやら抱っこをせがまれているようだった。
精一杯両腕を伸ばし、手のひらを広げ 欲しいものは全部お母さんからもらえると思っている男の子
そう信じないと生きていけないから―
子供って哀しい
そして母親もまた哀しい
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