奇跡を信じて〜あれから〜
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 遠い昔

葬儀の事をまだ書く気にはなれない

Hが亡くなってから
あっと言う間に日にちが過ぎたと感じる時と
遠い昔の事だったように感じる時がある

朝、目を覚ました時は
再確認するように「Hは亡くなってしまった」と
つぶやいてみる

笑ってる遺影は昨年12月のもの
たった4ヶ月前の物である

私の心は冬のまま
明るい色の服を着る気にはとてもなれない
何かを食べても美味しいと感じてはいけない気がする
クライアントに笑顔を見せる事にも罪悪感を感じる

毎日、Hが息を引き取る日まで聞いていたCDを
聞きながら想い出に慕ってる

4月8日の日記の中で
こちら
『心の準備はできました
どうぞHを苦痛から解放してください 』
そう書きながら奇跡を望まなくなった私は
もしかしたら
「目を背けない」と言いながらも
目を背けてしまっていたのではないかと
考える事もある
その時は共に闘っていたつもりではいた

見返りを求めていたわけではない
ただ精一杯の事をさせて頂きたいと思っていた
それでも後悔する事が沢山ある
私は心のどこかで
報われなかったなどと思っているのではないか

様々な事を深く考えてしまう

人に「頑張って」と言われる事ほど辛い事はない
これ以上は頑張れないから

2002年04月28日(日)



 きのう見た夢

きのう見た夢はHが足をバタバタさせている夢
「歩ける様になったんだね。もう痛くないんだね」と
私は話していた

今朝の夢は
「お風呂に入りたい」と言ってる夢

Hが亡くなって2週間

2002年04月26日(金)



 手を合わさずには

車を運転していて後ろから救急車が走ってくると
「どうぞ助かりますように」と手を合わさずにはいられない

毎日、出勤前か後のどちらかに
Hの自宅に寄って遺影に向かい話し掛けてます



2002年04月25日(木)



 お通夜

13日9:00〜通夜と葬儀の打ち合わせの後
葬儀屋は大きな浴槽を運んだ
最後のお風呂
Hはシャンプーまでしてもらい
ほとんど抜けてしまった髪まで乾かしてもらう

とうとうHは棺の中に入ってしまった
まるで眠っているようだ

訪問客も落ち着いた頃
私はHの傍らに座りじっと顔を見つめる
覚悟が出来ていたとは言え
いつか又会えると思えても
やはり辛い

多くの弔電が届き始めた

Hが愛した家を出なければならない時刻になり
胸が張り裂けそうになる

会場に到着すると沢山の花が届けられていた

受付けは私のオフィスのスタッフにお願いした
張り裂けそうだった心が和らいだ
葬儀が無事終了するまでは
繰り返し起こる感情なのかもしれない

お通夜に参列して下さる方々も早い時間からいらっしゃり
Hが最も尊敬していた元上司にお会いした
新幹線で駆けつけて下さった
昨年末にHから手紙が届いたそうだ
そこには「お会いしたい」と書かれていた様

お通夜が終了してからも友人達は
名残惜しそうに会場に残り
Hの死を受け入れる事ができない友人は
ロビーで長い間座っていた

私は遺族室とHの間を何度も往復した
遺族室に戻るのだが又Hに会いたくなり落ち着かなかった
一度帰った友人達も戻って来ては
Hに話し掛けていた

14日3:00過ぎ
遺族室で休む事にした

2002年04月16日(火)



 眠れないまま

12日明方
自宅へ帰ったが眠れないままHの自宅へ向う
「Hおはよう!また会えたね」と挨拶する
8:00 葬儀の打ち合わせ
弟も眠れなかった様で睡眠薬を飲んだらしい

Hは帰りたかった場所にいると言うのに
13日の夕方には葬儀場に向わなければならない

打ち合わせも一段落し
私は2階のHの部屋から会社関係に
お通夜と葬儀の案内をFAXで送信

最後に私が出来る事は
できる限り多くの方々にお別れをして頂く事

Hは会社を経営しているが
私が代表取締役をしている会社の役員でもある
2つの会社関係数を考えると
果たして式場に入りきれるのだろうか?
悲しむ暇もないくらいに
私は段取りを進めていった

式場変更

一段落してやっとHの近くに座る
私がフラフラしているのか
まだHが息をしている気がした
「一緒にお茶を飲みましょう」と話し掛けると
頷いてくれる錯覚さえしてしまう

親戚の方の中には
「最後までよくして頂いて」と言われる方もいたが
私はこれを言われると恥かしくなる
私がしたくてさせて頂いてきたこと
けれど、もっと沢山何かができたのではないかと
考える時もあった

21:00
私は失礼させて頂いて自分のオフィスへ向った
静かな場所で過ごしたかった
13日は9:00〜葬儀屋と打ち合わせ
その後Hは棺の中に入ってしまう
誰もいない場所でしか泣けない自分がもどかしい

2002年04月15日(月)



 冷たい雨

4月11日
全ての仕事をキャンセルし
私は朝病院へ向った
看護婦のSノちゃんから
「昨夜から血圧が低下してきています」
そう伝えられた
右の足には自動血圧測定器を足に付けられ
左の足からは点滴の針が刺さっていま
左手からはモルヒネの静脈点滴

夕方6時頃Hの母と交代して私は帰った
その後、弟が母と交代

夜10時過ぎに地震

雨が降り始めた12日0時を過ぎた頃
胸騒ぎのする気持ちに従い私は車を走らせ病院へ向った
到着する数十メートル手前で弟から
血圧が低下していると偶然、連絡を受けた
Hの自宅へ母を迎えに行き病院へ向った
母を正面玄関で降ろし駐車場へ車を置いた後
私は必死で走った

無我夢中で走り病室へ向った

「お母さん手をさすってあげて!」とHの左手を母が
私は右手を握った
看護婦さんに「もう苦しくないんですよね?」などと
私は口走った気がする
応急処置して下さっていた医師が
「これより御自分の力で呼吸をして頂きます」と
言ったか定かではないが酸素マスクは外された
Hの名を母が呼ぶ
弟は病室を出た
私は手をさすりながら顔から目を放す事はなかった
どの様な状態でも目を背ける事はしてこなかった
痛みを変わる事も苦しさを解放する事もできなかったけれど
その時間を共に過ごしている以上
目を背ける事ができなかった

マスクを外された
ほんの数秒、Hは自分で呼吸をした
最後の一呼吸の後、小さく首が垂れた

医師の言葉は「ご臨終です」だったのかは記憶にない

その後、待合室で待つように言われた
弟が親戚に電話を入れたのだと思う
多くの人達が駆けつけた

病室に戻りHの頬に触れると温もりが残っていた
「もう苦しくないでしょ?」と話し掛けた
私は混乱しているのかHが呼吸をしている錯覚に陥った
そして
多くの親戚の方達により病室の片づけが始まった

主治医が到着し
「残念な結果となってしまい・・・」と涙を流された
医師と看護婦さんがHをストレッチャーに乗せはじめた時
私は思わず
「痛くない様にお願いします!」と叫んでしまった
エレベーターに乗り霊安室に向った
そこへは初めて行く場所のはずなのに
私の足は記憶していた
なぜだろう?

2:00
迎えの車が到着し私は車を病院に置いたまま
Hの横に乗っていく事にした
もう1人誰かが乗って行ったが
弟でもなければHの母でもなかった
記憶にない

Hの自宅に到着
「帰ってきたよ」と話し掛ける
Hが自宅で過ごせる僅かな時間
38時間
13日にはお通夜の会場へ向わなくてはならない

4:30
私は自分の自宅に一度戻る事にする
8:00〜葬儀の打ち合わせがあり
着替える為だ
Hは会社を経営しているが
私が代表取締役をしている会社の役員でもある
葬儀は私が一切の責任を持ち行う事にした

2002年04月14日(日)



 みなさんありがとうございました

みなさんBBSのメッセージありがとうございました

13日 お通夜
14日 告別式です

たくさんのメッセージを本当にありがとうございました

2002年04月13日(土)



 ありがとうございました

Hは12日0:41他界致しました


2002年04月12日(金)



 目を背けない事

弟はHが苦しむ姿に絶えられないときがあると言う
もっともな事だと思う

私は苦しむHの姿に目を背ける事はけしてない
病室にいない時間帯に胸騒ぎする事を思うよりは
見ていた方が安心する
しかし弟の方が優しくてデリケートなのかもしれない
Hの苦しさを受け取っているのかもしれない

今晩は弟が病室へ泊まる

2002年04月10日(水)



 

水分を経口で補う事が難しくなってきていたが
「シャーベットはどうだろう」と思い
スプーンを口の近くに持っていくと
余程喉が渇いていたのか
1時間で四分の1食べる事ができた

「奇跡の水」と言われている物を
Hの母は飲ませているが
それをストローの先につけ少しだけ入れてみたが
美味しく感じないからか飲まなかった

売店で良い物を発見!
ペコちゃんのペロペロキャンディー
これを唇や舌にチョンチョンとつけてみる

他にも変わった物が何かないか
探している途中

2002年04月09日(火)



 桜が散り・・・

桜をゆっくり見てる余裕がないまま散ってしまった
オフィスの庭の桜は結局咲くことはなく
緑の葉っぱでいっぱいになってしまいました

今日は4月8日
お寺へ行ってきました
お経を唱えた後、大勢の前で法印さんのお話がありました
泣く暇もないほどの毎日を送ってきましたが
お話を聞いている内に涙が止まらなくなりました
今回話された内容は私の事だったのです

オトキを頂いている時に法印さんにHの状態を聞かれました
その時に私がお話させて頂いたのは
今のHの状態
今現在起こっている事は私自身に与えられた試練だという事
覚悟させて頂ける時間を与えられている事にさえ
感謝している事
医師からは桜の咲く頃までは無理でしょうと言われたが
桜の季節が終わっても生かさせて頂けている事
など

それらを法印さんは多くの皆さんにお話されました

私は奇跡を望まなくなった
心の準備はできました
どうぞHを苦痛から解放してください

2002年04月08日(月)



 蘇生

昨夜、医師からの話とは
Hの最後の事であった
それは呼吸停止の場合
心臓停止の場合の処置についてだった

もし呼吸が停止したら
心臓が停止したら
どこまでの処置をして良いのかを問われた

私はもちろん弟の意見に従いたいと思った

弟の答えは
自然のままにHを見送る事だった

その後、Hの家に弟と寄ったが
居間で母は眠っていた
弟に「最後の姿は見たくないでしょ?」と聞かれた
私は「NO」と答えた
病室でたった一人ぼっちで逝かせてしまう事は
想像できない
せめて私達が到着するまでは・・・
その気持ちを弟に伝えると
「そうだよね。明日訂正しよう」と弟は言った

そして私は病院へ戻った

Hに水を飲まそうとしたが
長い間口に含むが上手く飲み込むことが出来ず
看護婦さんに鼻から管を通してもらう
それさえHは苦しそうに涙目になる
呼吸停止の場合に口から異物を入れるよりは
Hが苦しまない方法を・・・
それでも最後の時には側にいたい

2002年04月07日(日)



 これからの事

朝、看護婦さんから電話があり
今晩、主治医よりこれからの話があるらしい
どしゃぶりの雨の中、病院へ向う

これからの事について弟と二人話を聞く

これからの事

それは最後の事であった

Yさんメールありがとうございます
とても勇気のある方なのですね
Yさんに励まされ嬉しかったです

2002年04月06日(土)



 今日も胸騒ぎ

Hの状態も特別悪い変化はなさそうだと考え
夜は早めに眠った

私はどちらかと言うと睡眠は短い方で
早めに眠ることは少ない

目が覚めるとまだ深夜だった
そして胸騒ぎが始まった
Hに呼ばれる気がして病院に向う

最近は昼よりも夜起きている事が多い様で
特別にたくさん話せるわけではない

看護婦さんに
「これからの事を早い時期に先生がお話されたいらしいです」と言われ明日の夜Hの弟と話を聞く事にした

これからの事・・・
残りわずかなこれからの事

2002年04月05日(金)



 胸騒ぎ

深夜、胸騒ぎがした
呼ばれてる気がして病院へ向う
いつもは病室は開けたままの状態になっているが
ドアは閉められていた
薄暗い病室に入るとHの友人がいた
Hはうわ言のように友人の名前を呼んだらしく
Hの母は電話をし
「よかったら来て欲しい」と言ったらしい
友人は
『Hが「もうすぐRが来る」ってずっと言ってたよ
電話があったの?』と言った

電話があったわけではない
ただ、胸騒ぎがしただけ

私の顔を見るとHは目を見開き大きく頷きながら
「待ってたよ」と言った

しばらくするとHは眠りに入り
Hの友人と私は帰る事にした

2002年04月04日(木)



 静脈点滴

塩酸モルヒネを点滴してからもHは痛みを訴える
今までの量の1.3倍増加する事になった
「眠る時間が今までより多くなります」と伝えられる
稀に起こり得る副作用として
呼吸抑制の説明も付け加えられた

以前はHの姿を見る事が辛いからと
病院に顔を見せる事が少なかった母も
最近ではHの様子を毎日見に来てる

病室の冷蔵庫の上に1冊のレポート用紙を置き
私がいる時は私が
母がいる時は母が
お互いの伝言やHの様子を書く事にしている
弟とは携帯メールでのやりとりが主になっている

少し前までは
お腹に力を入れる事が困難な為か
羞恥心からかHは便秘になっていた
痛みに敏感になっている為
オムツのテープさえ違和感があり
パジャマやシーツのシワにも違和感を訴える
その為、裸のままタオルケットを上からかけているだけである

Hの話す声も少しづつ小さくなり聞き取りにづらくなってきた

2002年04月03日(水)



 現状

塩酸モルヒネを静脈の点滴に変更して1週間
痛みを取り除く事は完全にはできないのは理解できるが
目を覚ますと痛みが増すようだ

Hは非小細胞肺がんで組織型に分類すると腺癌である
男性の肺がんの40%
女性の肺がんの70%以上を占めているらしい
医師が告知した時
「小細胞癌でなくて良かった」とHは言ったが
腺癌は抗がん剤が効きにくいものである
30代のHにとって癌の進行の方が早く
抗がん剤の効果は見られなかった
Hが望んだこととは言え苦しいだけの
治療法となってしまったのかもしれないと
弟と話す事もある

悲しみの寄せ所が欲しいと感じた事はない
そんな余裕さえないほど時間だけが過ぎていく

2002年04月02日(火)



 いつかは

この日記を書かなくなる日が来るのだろうか
いつかは

それは奇跡が起こらなかった時なのでしょうか

Hが苦痛から解放される時

奇跡を信じたい気持ちが薄らいできている

2002年04月01日(月)
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