女の世紀を旅する
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2011年02月23日(水) NZのクライストチャーチの地震.死者75人、不明約300人に 

NZのクライストチャーチの地震.死者75人、不明約300人に 

ニュージランド南島のクライストチャーチで大地震.邦人3200人が滞在,短期留学生らを含めると4000人近くが滞在しているという。

市のシンボルのカテドラル(大聖堂)が半壊した映像をみたが,日本と並ぶ地震大国ニュージランドでは10年に1度の割合でマグニュチュード7ぐらいの地震が発生していて,昨年も同地でその規模の地震が起こったばっかり。

イングランドのキリスト教会が19世紀中葉に築いた都市であり,クライスト・チャーチの名前も「キリスト教会」の意味。ガーデンシティと呼ばれているだけに緑に囲まれてきれいな都市だが,なにしろアンティークを好む国民性だけにレンガ造りの建物が多く,地震の耐震性がないためかんたんに建物が崩壊してしまっている。

地震大国の日本の常識では考えられない100年以上前のビクトリア式のレンガ建築が多く,多くの市民が瓦礫に埋められているようだ。それにしても,こんな小さい都市に日本人が3000人以上も住んでいるというから,よほど日本人に気に入られた庭園が多い魅力的な都市なのだろう。



●【オークランド(ニュージーランド北部)=塚本和人】当地のキー首相は23日記者会見し、クライストチャーチ市を襲った強い地震で、死者は65人から75人に増えたと述べ、国家非常事態を宣言した。「クライストチャーチでの惨事が次第に明らかになってきた」と語った。また、同市のパーカー市長は同日、行方不明が約300人に上っていることを明らかにした。

 被災地では同国軍や消防当局などが懸命の救出作業を続けている。同市周辺では余震が断続的に50回以上発生。雨も降り続いており、作業は難航しているとみられる。地震発生後から閉鎖していたクライストチャーチ国際空港は同日、国内便の運航を再開した。

 ロイター通信によると、富山市立富山外国語専門学校の学生らが閉じ込められているビルには民放テレビ局も入っており、学生のほかにも多数が生き埋めになっているという。救助隊員は「テレビ局内にカメラを入れ、(がれきの中の)空間に15人が生存しているのを確認した」と語った。

 クライストチャーチ病院には、骨折した人らが大勢運ばれている。AFP通信によると、学校や集会場などに避難した何千人もの人たちは不安な夜を過ごした。

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●NZ地震、学生ら計23人不明 富山の学生2人救出

クライストチャーチの「キングスエデュケーション」が入っているビルの倒壊現場で22日、犬も使って生存者を捜す捜索隊=AP
 今回のニュージーランドの地震で、クライストチャーチにある語学学校に研修や留学で訪れ、いぜん連絡が取れていない日本人学生らは、23人に上ることが外務省の対策本部などへの取材でわかった。富山市と京都市の外国語専門学校の学生・元学生計11人のほか、東京や京都の留学支援会社のあっせんで留学中だった12人の所在がわからないという。専門学校や支援会社などは現地に教員やスタッフを派遣するなどして安否の確認を急ぐ。

 また、富山市に23日午前に入った情報によると、倒壊した建物内に取り残されていた同市立富山外国語専門学校の学生2人が新たに救出された。同市内の男子学生(19)と女子学生(19)で、男子学生は右足にけがをしているという。男子学生については、現地の搬送先の病院から家族に連絡が、女子学生については、本人が「無事」と家族に電話してきたという。

 同校では、クライストチャーチにある語学学校「キングスエデュケーション」で学生ら23人が研修を受けていた。これで同校で救助されたのは13人で、残り10人の安否が不明という。

 一方、留学支援会社「ワールドアベニュー」(本社・東京)は23日未明、キングス校などに学生や看護師ら17人が留学中で、うち10人と連絡が取れていない、と明らかにした。

 京都市右京区の留学支援会社「マドレ・インターナショナル海外留学」も、クライストチャーチに留学している盛岡市の早坂美紀さん(37)と、神戸市垂水区の大坪紀子さん(41)の2人と連絡がつかないと発表。2人はともに看護師で、キングス校に通っているという。早坂さんは2月2日から約半年間、大坪さんは1月8日から5月末までの予定で滞在しているという。


2011年02月16日(水) 幕末から明治時代の日本の庶民は幸福だった(2)

幕末から明治時代の日本の庶民は幸福だった(2)







■1.「地球上最も礼儀正しい民族」■

 フランスの青年貴族L・ド・ボーヴォワールは、明治維新の前年、慶応3(1867)年に、世界一周旅行の途中で日本に立ち寄
り、横浜から江戸、箱根などを回った。その見聞録『ジャポン1867年』の中に、次のような一節がある。

 われわれが馬からおりるとすぐに、二、三人の娘がやさしく愛らしくお茶と飯を小さな椀に入れて持ってくる。老婦人が火鉢と煙草をすすめる。他の小径(こみち)を通ってやって来た日本人の旅人も、われわれと同じように歩みをとめる。彼らはわれわれに話しかけるが、たいそう愛想のよいことをいっているに相違ない。当方としては彼らの美しい国をどんなに愛しているかを伝えられないことが残念であった。・・・

 それから一同は再び出発し、湾の奥深い所に見える遠い村まで下りていく。----そこでは、これはどの道を通る場合も同じだが、その住民すべての丁重さと愛想のよさにどんなに驚かされたか、話すことは難しい。「アナタ、オハイオ」(ボンジュール、サリュ)、馬をとばして通り過ぎるわれわれを見送って、茶屋の娘たちは笑顔一杯に叫んだ。
・・・思うに、外国人が田舎の住民によってどのように受け入れられ、歓迎され、大事にされるかを見るためには、日本へ来て見なければならない。地球上最も礼儀正しい民族であることは確かだ。


■2.「日本人の微笑」■

 アイルランドからやってきて日本に帰化したラフカディオ・ハーンは、日本の友人から次のような質問を受けた。

 外国人たちはどうして、にこりともしないのでしょう。あなたはお話しなさりながらも、微笑を持って接し、挨拶のお辞儀もなさるというのに、外国人の方が決して笑顔を見せないのは、どういうわけなのでしょう。

 ハーンは、この質問を受けた時の感想を次のように書いている。

 この友人が言うように、私はすっかり日本のしきたりに染まっていて、西洋式の生活に触れる機会を持たなかった。
そう言われて初めて、自分自身がどこか奇妙な振る舞いをしていることに気がついたのである。・・・

 日本人が言うところの「怖い顔」をした外国人たちは、強い侮蔑の口調をもって、「日本人の微笑」を語る。彼らは「日本人の微笑」が、嘘をついている証拠ではないかと怪しんでいるのである。

 ハーンは長年の日本生活を通じて、自ら「日本人の微笑」を身につけてしまった。その経験から「日本人の微笑は、念入りに仕上げられ、長年育まれてきた作法なのである」と結論する。

 相手にとっていちばん気持ちの良い顔は、微笑している顔である。だから、両親や親類、先生や友人たち、また自分を良かれと思ってくれる人たちに対しては、いつもできるだけ、気持ちのいい微笑みを向けるのがしきたりである。そればかりでなく、広く世間に対しても、いつも元気そうな態度を見せ、他人に愉快そうな印象を与えるのが、生活の規範とされている。たとえ心臓が破れそうになっていてさえ、凛とした笑顔を崩さないことが、社会的な義務なのである。

 反対に、深刻だったり、不幸そうに見えたりすることは、無礼なことである。好意を持ってくれる人々に、心配をかけたり、苦しみをもたらしたりするからである。さらに愚かなことには、自分に好意的でない人々の、意地悪な気持ちをかき立ててしまうことだって、ありえるからである。

 こうして幼い頃から、義務として身につけさせられた微笑は、じきに本能とみまがうばかりになってしまう。


■3.上機嫌な労働者たち■

 他人に対して愛想の良い挨拶をし、微笑みを向ける日本人は、自分の仕事に対しても、上機嫌で取り組む。アメリカの女性旅行作家イライザ・R・シッドモアは、明治20年代の日本を『日本・人力車旅情』の中でこう描いている。

 日も暮れて郊外を走る車夫たちは、いろいろと注意を促すことばを口走って進む。道のわだち、穴、裂け目などがあったり、交差点が近づいたりする時である。こうした叫び声は車列の前から後へと駆け抜けていくが、それはちょっと音楽的でさえある。にこにこして礼儀正しく、愛きょう
もある小馬のような車夫。

 つらい仕事をしながらも、上機嫌に愛想良く振る舞う日本の労働者たちの姿は、外国人旅行者たちの興味を引いたようだ。
明治11(1878)年に日本を訪れた、オーストリア=ハンガリー帝国の軍人で地理学研究者・グスタフ・クライトナーも同様の光景を描いている。

 荷物を担いでいる人たちは、裸に近い格好だった。肩に竹の支柱をつけ、それにたいへん重い運搬籠を載せているので、その重みで支柱の竹筒が今にも割れそうだった。彼らの身のこなしは、走っているのか歩いているのか見分けのつかない態のものである。汗が日焼けした首筋をしたたり落ちた。しかし、かくも難儀な仕事をしているにもかかわらず、この人たちは常に上機嫌で、気持ちのよい挨拶をしてくれた。彼らは歩きながらも、締めつけられた胸の奥から仕事の歌を口ずさむ。喘ぎながらうたう歌は、左足が地面につく時、右足が大股に踏み出す力を奮(ふる)いたたせる。


■4.労働のリズム■

 仕事に励む我が先人たちの姿をもう一つ紹介しよう。明治初期の東京大学で生物学を講じたエドワード・S・モースの『日本その日その日』から:

 どこへ行っても、都会の町々の騒音の中に、律動的な物音があるのに気づく。日本の労働者は、働く時は唸ったり歌ったりするが、その仕事が、叩いたり、棒や匙でかき廻したり、その他の一様の運動であるとき、それは音調と律動を以て行われる。・・・鍛冶屋の手伝いが使用する金槌は、それぞれ異なる音色を出すように出来ているので、気持ちのよい音が連続して聞こえ、四人の者が間拍子を取って叩くと、それは鐘の一組が鳴っているようである。労働の辛さを、気持ちのよい音か拍子で軽めるとは、面白い国民性である。

 人力車夫のかけ声、荷物を担ぐ人夫の歌、鍛冶屋の金槌を叩くリズム。賑わしい労働の姿がここにある。古事記に登場する神々からして田植えや機織りにいそしんでいるが、それも田植歌や糸繰り唄を歌いながら働いたのであろう。


■5.「陽気の爆発」■

 働く女性の姿も見ておこう。クライトナーが染料の藍(あい)を作る工場を訪れた時のこと。

 工場の建物を出る前に、わたしたちは女工が朝食を食べているところを見物した。およそ100人が、ふだん着姿で、椅子や木机に腰掛けて飯を食べていた。わたしたちが入っていくとひとりの女工が笑い出し、その笑いが隣の子に伝染したかと思うと瞬く間に全体にひろがって、脆い木造建築が揺れるほど、とめどのない大笑いとなった。陽気の爆発は心の底からのものであって、いささかの皮肉も混じっていないことがわかってはいたが、わたしはひどくうろたえてしまった。

 箸がころんでも笑う年頃の娘たちにとって、初めて見る西洋人の姿は、可笑しくて仕方がないものだったのだろう。

『女工哀史』は一面の事実を伝えていようが、哀しい生活ばかりだったら、こんな心の底からの「陽気の爆発」もありえない。

 マルクスは19世紀ロンドンの悲惨な労働者階級を見て、階級闘争史観に基づく共産主義思想を生み出したが、同時期の日
本の労働者の姿を見ていたら、もっと明るい平和な思想を生み出したかもしれない。


■6.「アングロサクソン人にとっては驚異と羨望の的」■

 働くときでさえ楽しげな日本人は、遊びの時にはもっと上機嫌だ。シッドモアは、花見の光景に目を見張る。

 日曜日は休息日なので、川面は小舟で一杯となり、岸辺では、しかつめらしい表情をした小柄な巡査が花見客の流れを整理する。・・・妙なかぶりもので変装をした男たちを乗せた小舟が次から次へと川堤沿いに、櫓(ろ)やさおで進む。この男たちは、叫んだり、歌ったり、手を叩いた
り、三味線をつま弾いたりで、全くの自由奔放----アングロサクソン人にとっては驚異と羨望の的である。

 酒盛りに加わる者は各自、酒びょうたん、つまり小樽を持っていて、これを肩からつるす。ひょうたんの中身を飲み干せば、手持ちのお金と意識がある限り補充する。友人、隣人、赤の他人、だれに向かっても、「一杯いかが」とこの元気づけのアルコールをすすめる。出店も三軒に一軒は
酒場だし、どの茶屋の前にも、こもでくるんだ酒樽がピラミッド式に積まれる。

 120年以上も前の光景だが、現代の花見とあまり変わらない。シッドモアは「アングロサクソン人にとっては驚異と羨望の的」と言ったが、最近の在日外国人の間では花見の宴が流行っている、という。


■7.子供が可愛がられる国■

 子供達の姿も見てみよう。モースはこう書いている。

 世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供の為に深い注意が払われる国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい。彼等は朝早く学校へ行くか、家庭にいて両親を、その家の家庭内の仕事で手伝うか、父親と一緒に職業をしたり、
店番をしたりする。彼等は満足して幸福そうに働き、私は今迄に、すねている子や、身体的の刑罰は見たことがない。
・・・

 小さな子供を一人家へ置いていくようなことは決してない。彼等は母親か、より大きな子供の背中にくくりつけられて、とても愉快に乗り廻し、新鮮な空気を吸い、そして行われつつあるもののすべてを見物する。日本人は確かに児童問題を解決している。また、日本人の母親程、辛抱強く、愛情に富み、子供につくす母親はいない。だが、日本に関する本は皆、この事を、くりかえして書いているから、これは陳腐である。

「日本に関する本は皆、この事を、くりかえして書いている」という点の例証として、イザベラ・バードの記述を挙げておこ
う。

 私は、これほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない。子どもを抱いたり、背負ったり、歩くときは手をとり、子どもの遊戯をじっと見ていたり、参加したり、いつも新しい玩具をくれてやり、遠足や祭りに連れて行き、子どもがいないといつもつまらなそうである。・・・

 彼らはとてもおとなしく従順であり、喜んで親の手助けをやり、幼い子どもに親切である。私は彼らが遊んでいるのを何時間もじっと見ていたが、彼らが怒った言葉を吐いたり、いやな眼つきをしたり、意地悪いことをしたりするのを見たことがない。


■8.おんぶ天国■

 赤ん坊をおんぶして育てる日本の母親の姿は、特に外国人たちの興味を引いた。英国の初代駐日総領事として安政6(1859)年に来日したラザフォード・オールコックは、『大君の都』の中でこう書いている。

 子供は歩けるようになるまでには、母親の背中に結びつけられているのがつねである。このばあい、子供は母親が家事をするさいにも彼女につきまとうわけだが、彼女の両腕は自由になっている。不幸なことには(これは、見る人によりけりだ)、かわいそうな赤ん坊は、頭が自由になるだけで、そのからだは一種のポケットのようなものにいれられて、それだけでささえられている。その結果、親のからだが動くごとに赤ん坊の頭が、まるでくびが折れそうなほど左右に曲がり、前後にゆれる。

 だが、心配は無用である。母親はよく知っている。子供たちは何十世代にもわたって、代々まさしくこのように育てられてきたのだ。・・・たしかに、赤ん坊はそれをいやがって泣いたりすることをしない。

 このほぼ一世紀後に来日したアメリカの日本文学研究者・ドナルド・キーンは『果てしなく美しい日本』でこう書いている。

 生まれて最初の何年間を、子供はほとんど母親の身体の一部として暮らす。母親はどこへ行くにも子供を連れて行く。彼女はしばしば子供を背中に背負い、特にそのために作られた衣服を着ける。子供が空腹になれば、場所がらも気にかけず、ただちに乳房を吸わせる。日本の母親は息子を独立させることに関心がなく、いつどこでも好き勝手が許されるわけではないことを子供に教えようともしない。
それどころか、彼女の努力は息子の幸福な幼年時代を長くしてやることに集中される。


■9.幸せな共同体を作る知恵■

 1850年の時点で住む場所を選ばなくてはならないなら、私が裕福であるならばイギリスに、労働者階級であれば日本に住みたいと思う。

 アメリカの歴史家スーザン・B・ハンレーの言葉であるが、以上、引用した欧米人の見聞録を読めば、その理由もよく分かる。

 我々の祖先は物質的には豊かではなかったかもしれない。しかし、富はなくとも幸せな共同体を作る知恵を持っていたのだ。

 微笑みをこめて挨拶をする、元気に愛想良く仕事に取り組む、笑いやユーモアを大切にする、子供に愛情を注ぐ。そういう簡単な事が幸福な共同体を作る近道であることを、我々の祖先たちは教えてくれているのである。


2011年02月15日(火) 幕末・明治時代の日本の庶民は幸福だった

幕末・明治時代の日本の庶民は幸福だった




江戸時代の庶民は幸福だった.貧しくとも、思いやりと助け合いの中で人々は幸福に暮らしていた。




■1.「彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである」

 黒船によって武力でむりやり日本を開国させたアメリカが、初代駐日公使として送り込んだのが、タウンゼント・ハリスだった。ハリスは安政4(1857)年11月、初めての江戸入りをすべく、下田の領事館を立った。東海道を上って神奈川宿を過ぎると、見物人が増えてきた。その日の日記に、彼はこう書いている。

 彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない。----これが恐らく人民の本当の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、疑わしくなる。

 私は質素と正直の黄金時代を、いずれの国におけるよりも多く日本において見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる。

 ハリス江戸入りの当日、品川から宿所である九段阪下の蕃書調所までの間に、本人の推定では18万5千人もの見物人が集まったという。その日もこう書いている。

 人々はいずれも、さっぱりしたよい身なりをし、栄養も良さそうだった。実際、私は日本に来てから、汚い貧乏人をまだ一度も見ていない。



■2.「だれもかれも心浮き浮きとうれしそうだ」

 幕末から明治にかけて、日本を訪れた外国人がほとんど異口同音に語っているのは、日本人がいかにも幸福そうであったという点である。
 明治17(1884)年頃からしばしば来日した米国の女性旅行家イライザ・シッドモアは、鎌倉の浜辺でのこんな光景を描写している。ハリスも下田から江戸に上る道中で、似たような光景を見たのではないか。

 日の輝く春の朝、大人は男も女も、子供らまで加わって海藻を採集し、砂浜に広げて干す。

・・・漁師のむすめたちが脛(はぎ)を丸出しにして浜辺を歩き回る。藍色の木綿の布きれをあねさんかぶりにし、背中に籠(かご)をしょっている。子供らは泡立つ白波に立ち向かったりして戯れ、幼児は砂の上で楽しそうにころげ回る。

・・・婦人たちは海草の山を選別したり、ぬれねずみになったご亭主に時々、ご馳走を差し入れる。あたたかいお茶とご飯。そしておかずは細かにむしった魚である。こうした光景すべてが陽気で美しい。だれもかれも心浮き浮きとうれしそうだ。・・・

 熱いお茶とご飯とむしった魚が「ごちそう」というから、決して物質的に豊かではないが、「だれもかれも心浮き浮きとうれしそう」に生活できる社会だったのだ。


■3.欧米の貧民たちの暮らしぶりと比べて

 日本を訪れた西洋人たちが、日本人の幸福な生活ぶりに驚いているのは、当時の欧米社会と比較してのことであろう。たとえば、フリードリッヒ・エンゲルスは19世紀中葉のイギリスの貧民街の有様を次のように描写している。

 貧民にはしめっぽい住宅が、すなわち床から水のはいあがってくる地下室か、天井から雨の漏ってくる屋根裏部屋が与えられる。
・・・貧民には粗悪で、ぼろぼろになった、あるいはなりかけの衣服と、粗悪で混ぜものをした、消化のわるい食料品が与えられる。
・・・貧民は野獣のようにかりたてられ、休息も、安らかな人生の享楽も許されない。[1,p133]

 工場主は子供をまれには5歳から、しばしば6歳から、かなり頻繁となるのは7歳から、たいていは8歳ないし9歳から、使い始めること、また毎日の労働時間はしばしば14時間ないし16時間(食事のための休み時間を除く)に及んでいること、また工場主は、監督が子供をなぐったり虐待したりするのを許していたどころか、しばしば自分でも実際に手をくだしていたことが語られている。[1,p133

 当時、来日した欧米人はみな母国におけるこのような悲惨な下層階級の生活ぶりを知っていたはずだ。それに比べれば、海岸で大人も子供を一緒に海藻集めにいそしんでいる日本の庶民の光景は、いかにも幸せそうに見えたはずである。



■4.貧しくとも幸福に暮らしている人々

 明治10年代に東京大学のお雇い教授を務めたアメリカの動物学者・エドワード・モースは、日本とアメリカの貧困層を比べて、次のように書いている。

「実際に、日本の貧困層というのは、アメリカの貧困層が有するあの救いようのない野卑な風俗習慣を持たない」。日本にも雨露を凌ぐだけという家々が立ち並んでいるが、しかし「そのような小屋まがいの家に居住している人々はねっから貧乏らしいのだが、活気もあって結構楽しく暮らしているみたいである」。

 欧米では、貧乏人はスラム街に押し込められ、悲惨と絶望の中で生きていくしかないが、日本では貧しくとも幸福に暮らしている人々がいる、というのが、彼らの驚きであった。どうしてそんな事が可能になるのか?

 英国公使ヒュー・フレーザーの妻メアリは明治23(1890)年の鎌倉の海岸で見た光景をこう描写している。

 美しい眺めです。----青色の綿布をよじって腰にまきつけた褐色の男たちが海中に立ち、銀色の魚がいっぱい踊る網を延ばしている。その後ろに夕日の海が、前には暮れなずむビロードの砂浜があるのです。

 さてこれからが、子供たちの収穫の時です。そして子供ばかりでなく、漁に出る男のいないあわれな後家も、息子をなくした老人たちも、漁師のまわりに集まり、彼らがくれるものを入れる小さな鉢や籠をさし出すのです。そして、食用にふさわしくとも市場に出すほどの良くない魚はすべて、この人たちの手に渡るのです。

・・・物乞いの人にたいしてけっしてひどい言葉が言われないことは、見ていて良いものです。そしてその物乞いたちも、砂浜の灰色の雑草のごとく貧しいとはいえ、絶望や汚穢(おわい)や不幸の様相はないのです。

「あわれな後家」も「息子をなくした老人たち」も、このように思いやりのある共同体の中でしっかり守られて、その平等な一員として生きて行けた。この思いやりと助け合いこそが、貧しくとも幸せに暮らせた理由であろう。



■5.「自分たちが彼の分まで頑張るから」

 海辺に住む漁師たちは海の恵みを共有しているから、こういう分かち合いも可能になるのだが、町中に住む人々の暮らしはどうか。

 明治11(1878)年に、東北地方から北海道、その後関西地方を日本人通訳一人を連れて旅したイギリスの女性旅行家イザベラ・バードは、奈良県の三輪で、3人の車夫から自分たちを伊勢の旅に雇って欲しいと頼まれた。

 推薦状も持っていないし、人柄もわからないので断ると、一番年長の男が「私たちもお伊勢参りがしたいのです」と訴えた。この言葉にほだされて、体の弱そうな一人をのぞいて雇おうと言うと、この男は家族が多い上に貧乏だ、自分たちが彼の分まで頑張るからと懇請されて、とうとう3人とも雇うことになった。

「人力車夫が私に対してもおたがいに対しても、親切で礼儀正しいのは、私にとっても不断のよろこびの泉だった」と彼女は書きとどめている。
 町中でも思いやりと助け合いが弱者を護っていたのである。これなら物質的には貧しくとも、欧米のスラムにあるような孤独、絶望という不幸とは無縁で暮らせただろう。



■6.「口論しあっている日本人の姿を見かけたことがなかった」

 このような社会では、喧嘩や口論もほとんどない。維新前後に2度、日本を訪問した英国人W・G・ディクソンは、こう述べている。

 私は日本旅行のすべてにおいて、二人の男が本当に腹を立てたり、大声で言い争ったりしたのを見たおぼえがない。また、中国では毎日おめにかかる名物、つまり二人の女が口論したり、たがいにいかがわしい言葉を投げつけあったりしているのも一度も見たことがない。

 明治7(1874)年から翌年にかけて、東京外国語学校でロシア語を教えたレフ・イリイッチ・メーチニコフもまったく同様の体験を記している。

 この国では、どんなに貧しく疲れきった人足でも、礼儀作法のきまりからはずれることがけっしてない。・・・わたしは江戸のもっとも人口の密集した庶民的街区に2年間住んでいたにもかかわらず、口論しあっている日本人の姿をついぞ見かけたことがなかった。

 ましてや喧嘩などこの地ではほとんど見かけぬ現象である。なんと日本語には罵りことばさえないのである。馬鹿と畜生ということばが、日本人が相手に浴びせかける侮辱の極限なのだ。

 口論や喧嘩は、利害の対立から生ずる。思いやりと助け合いに満ちた共同体では、各自が自己主張を自制するので、利害の対立は少なく、その結果、人々は互いに争うこともほとんどないのであろう。



■7.「われわれはみな同じ人間だと信ずる心」

 思いやりと助け合いの根底をなすのは、人々の平等感であろう。明治6(1873)年に来日して、東京帝国大学の外国人教師となったバジル・ホール・チェンバレンは「この国のあらゆる社会階級は社会的には比較的平等である」と指摘している。

 金持ちは高ぶらず、貧乏人は卑下しない。・・・ほんものの平等精神、われわれはみな同じ人間だと心から信ずる心が、社会の隅々まで浸透しているのである。

 冒頭に紹介した初代駐日公使タウンゼント・ハリスは、江戸での将軍家定との謁見については、こう書いている。

 大君の衣服は絹布でできており、それに少々の金刺繍がほどこしてあった。だがそれは、想像されるような王者らしい豪華さからはまったく遠いものであった。燦然(さんぜん)たる宝石も、精巧な黄金の装飾も、柄にダイヤモンドをちりばめた刀もなかった。私の服装の方が彼のものよりもはるかに高価だったといっても過言ではない。・・・

 殿中のどこにも鍍金(めっき)の装飾を見なかった。木の柱はすべて白木のままであった。火鉢と、私のために特に用意された椅子とテーブルのほかには、どの部屋にも調度の類が見あたらなかった。

 日本の最高権力者である将軍は、米国の一公使よりも質素な服装をしており、逆に一般民衆には欧米社会のような貧民はいない。将軍から町民まで、「同じ人間だ」という意識が浸透していたのである。



■8.幸福な共同体のありようを継承、再生する責務

 このような幸福な共同体は、過ぎ去った過去の幻影として、現代の日本では完全に失われてしまったものだろうか? 実は、現代の日本を訪れた外国人も、幕末・明治に日本を訪れた外国人と同様の体験を語っている。

 たとえば中国から来て日本滞在20年、今では帰化して大学で中国語を教えている姚南(ようなん)さんはこう語っている。

 これは民族性の違いだと思いますが、日本では一歩譲ることによって様々な衝突を避けることができます。例えば自転車同士がぶつかったときなど、中国ならすぐ相手の責任を求めますが、日本ではどちらが悪いという事実関係より、まず、お互いに「すみません」と謝ります。その光景は見ていてとても勉強になります。

 ある日、混んだ電車に乗っていたときのことです。立っていた私は、揺られた拍子に後ろに立っていた女性の尖った靴先を、自分のヒールで踏んでしまったのです。すぐ「ごめんなさい」と謝ると、その人は微笑んで「靴先は空いているから大丈夫ですよ」と言ってくれました。

 こうした日本人の特性を姚南さんは「民族性」と呼んだ。思いやりと助け合いという「民族性」は、薄れつつも、いまだ現代日本に根強く残っている。

 しかし、こうした社会の徳性は、自然に生じたり、勝手に続くものではない。家庭の中で親が子をしつけ、共同体の中での大人の振る舞いが青少年を無言のうちに教え諭す。そうした一つ一つの行為の所産なのである。

 とすれば、我々の先人が築き上げた幸福な共同体のありようを、しっかり継承し、現代にマッチした形で「大いなる和の国」を再生するのは、我々、現代の日本国民の責務であると言える。


2011年02月13日(日) エジプト,ムバラク大統領辞任がもたらす歴史的影響

エジプト,ムバラク大統領辞任がもたらす歴史的影響

                   2011/02/13




世界には12億人のイスラーム教徒がおり,その数は20年後には15億人になるという。東南アジアのイスラーム国家には人口2億人をかかえるインドネシアや,マレーシアがある。フィリピン南部のミンダナオ島もイスラム圏に属するし,カリマンタン(ボルネオ)北部のサバ州・サラワク州(マレーシア領)や南部(インドネシア領)もイスラーム圏に入る。東南アジアの半分はイスラーム圏なのである。

またインド東部(ベンガル地方)のバングラデッシュやインド西隣のパキスタンもイスラーム国家として両国の人口は3億人にせまりつつある。

イスラーム国家は,石油・天然ガスがとれる国をのぞけば総じて貧し
い。北アフリカの多くの国はイスラーム国家であるが,今回のチュニジア革命
に始まった民主化運動はエジプトにも波及し,米国の支援を受け30年間も軍事独裁を続けてきたムバラク大統領を辞任に追い込んだ。

このことがなぜ国際政治にとって重要な事件であるのか,多くの日本人にはわかっていない。世界の歴史を変えることにもなるかもしれない重大な政変なのである。
親イスラエル政策をとってきたエジプトがイスラーム路線にカジを転換したらどうなるか? 欧米諸国が恐怖するイスラーム原理主義が台頭しないか?

中東・北アフリカ・中央アジア・東南アジアのイスラーム諸国にどういう影響を及ぼすか,21世紀はイスラーム・パワーが爆発する世紀でもあり,今回のエジプトの政変とその影響から目が離せない。



★やがてイスラム主義の国になるエジプト

 2月11日夜、エジプトのムバラク大統領が辞任した。ムバラクは辞任の前日、かねてから親しかったイスラエル労働党の国会議員ベンエリエゼル(Ben-Eliezer。元国防相)と電話で20分間話した。その中でムバラクは「米政府は中東の民主化を支持すると言うが、彼らは、自分たちが言っていることの意味を理解していない。中東を民主化すると、米国を敵視するイスラム過激派の国ばかりになってしまうのに、米政府はいつまでもそのことに気づかない」と述べ、米国を非難するとともに、自分が米国から疎んぜられていることを嘆いた。


 米政府は1979年のイラン革命で、民衆が蜂起してイラン国王を追放することを「民主化」として支持したが、それは結局、ホメイニ師らイスラム主義勢力がイランの政権をとって親米的なリベラル派や軍幹部を粛清し、今に続く反米的なイスラム主義政権ができることにつながった。また米政府は2005年、ブッシュ政権が推進した「中東民主化」の一環としてパレスチナで民主的な選挙を行わせた。イスラエルやパレスチナ自治政府(PA)は「真に民主的な選挙をやれば、反米イスラム主義のハマスが勝ってしまう」と反対したが、米政府は聞かずにPAに選挙を実施させ、その結果ハマスが大勝した。事後になって、米国やPAは何とかハマスに政権をとらせまいと画策し、ヨルダン川西岸地区の政権交代を阻止したが、ガザ地区をハマスにとられてしまった。


 ムバラクは、これらの例をふまえて「米政府は、中東を本気で民主化すると
イスラム過激派の国ばかりになることを、過去の教訓から理解できるはずなの
に、理想主義にふけってそれに気づかず、今またエジプトの民主化運動を支援
し、自分が大統領職から追い落とされることを容認しようとしている。エジプ
トの政権転覆を容認したら、政権転覆が他のアラブ諸国に飛び火し、エジプト
だけでなく中東全域が反米的なイスラム過激派の国になってしまうのに、米政
府はそんなこともわかろうとしない」と米国を非難したのだった。

 ムバラクは2月11日、エジプトの軍部によって大統領職を追われた。3週
間におよぶ民衆の反政府運動がムバラクを追い落としたことになっているが、
実際には、この50年間エジプトの権力を黒幕的に支えてきた軍部がムバラク
を支持する限り、何百万人の群衆が集まろうが、ムバラクは無視して大統領に
とどまり、そのうち群衆はあきらめて帰宅する。軍が反政府の国民運動に同調
し、ムバラクに辞任を求めた結果、ムバラクは権力を失った。

 それでは、軍はなぜムバラクを追い出したのか。ムバラクの独裁に嫌気がさ
したから?。民意を尊重したから?。いずれも違うだろう。独裁をやめて民主
化したら、イスラム主義のイスラム同胞団が与党になり、革命後のイランのよ
うに、イスラム主義者が世俗的な軍部を潰しにかかるだろうことを、軍は良く
知っており、軍幹部はムバラクと一緒にイスラム同胞団を弾圧し、選挙不正を
良いことと考えてきた。

 軍部が民衆運動を支持してムバラクを追い出したのは、エジプトの軍隊を育
成した「軍部の親玉」である米政府が民衆運動を支持し、エジプト軍に対し、
民衆の味方をしろと裏で圧力をかけたからだろう。米オバマ政権は、エジプト
の民主化を支持すると繰り返し表明し、そのたびに民衆運動は扇動されて大胆
になり、ムバラクが辞めるまで運動をやめないと断言した。軍部はそれに引き
ずられ、最初はムバラクに政治改革を約束させ、それでも米国に扇動された民
衆運動が納得しないので、最後には軍はムバラクを追い出した。ムバラクの追
放は米国の差し金なので、ムバラクは米国を非難したのだった。


▼米国の理想主義でアラブ親米諸国政府は存亡の危機に

 イスラエルの議員はムバラクの愚痴の聞き役だったが、単なる聞き役ではな
く、米国の頓珍漢な理想主義に迷惑しているのはイスラエルも同じであり、イ
スラエルもムバラクと同じ気持ちのはずだ。イスラエルのネタニヤフ首相は、
エジプト革命について、79年のイラン革命のようにイスラム主義に席巻され
ていき、最後はイスラム同胞団が権力につくだろうと警告している。サウジア
ラビアやヨルダン、パレスチナ自治政府の権力者たちも、イスラエルやムバラ
クと同じ気持ちだろう。サウジ国王は「米政府は(民主化という理想主義にふ
けって)後のことを全く考えず、ムバラクの追放を支持しようとしている」と
再三にわたり、米国の戦略を批判していた。



 サウジ政府は「米国がムバラク政権を見捨てても、サウジが金を出してムバ
ラク政権を助ける」とまで言っていたが、ムバラクの辞任が不可避になってき
た2月10日以降、態度を「ムバラク支持」から「中立」に転換し、ムバラク
辞任の巻き添えでサウジ王家のイメージが悪化することを避けた。


 サウジやヨルダン、イエメン、クウェートなど、アラブの親米国の政府は、
いずれも独裁的な王政か終身的な大統領の政権だ。エジプト革命の映像は、ア
ルジャジーラやアルアラビアといったアラブ全域をカバーする衛星テレビ放送
によって即時中継され、アラブ諸国の人々を「自分の国の独裁政権も転覆でき
るのではないか」という気持ちにさせている。米政府は、エジプトだけでなく
アラブ全域の民主化を歓迎しており、アラブ諸国の反政府活動家は、自分たち
も頑張れば米国に支持され、独裁政権を転覆できると奮起している。サウジや
ヨルダンなどの親米アラブ諸国の権力者たちは、米国の理想主義が自分たちを
破滅させかねないと苛立ち、ムバラクやネタニヤフと全く同じ気持ちだろう。

 イスラエル政府は少し前まで「ムバラクが辞めたら、イスラム同胞団の政権
が不可避となる」という見方をしていたが、米国の「専門家」の間では「エジ
プトでは今のところ、イスラム同胞団が最も良く組織された野党勢力であるの
は事実だが、今後時間をかければリベラル派の野党が育ち、同胞団をしのぐ勢
力になる。民主化してもイスラム主義の政権ができる懸念は低い」という見方
が強い。「イスラエルは同胞団の脅威を過剰に見積もり、エジプトの民主化を
阻害している」と、親イスラエルだったはずの米共和党系のネオコン(ブッシ
ュ政権で中東民主化やイラク侵攻を推進した勢力)がイスラエル批判をしている。


 ネオコンに非難され、ムバラクの辞任も不可避と知ったイスラエル政府は、
数日前から「ムバラクが辞めても軍部が政権を握る限り、エジプトがイスラム
主義に陥ることはない」という言い方に変えた。しかし実際には、イスラム同
胞団についての見立てについて、米国のネオコンは間違っており、従来のイス
ラエルの方が正しい。米政府は、エジプトで軍部がずっと政権を握ることを許
さず、真に民主的な選挙を求めるだろう。そうなるとイスラム同胞団が与党も
しくは連立与党の一角を占めることになる。

 イスラム同胞団は、エジプト政府によって政党組織になることを禁じられて
いるが、同胞団員は無所属として議会に立候補できる。05年の総選挙では、
投票の前半の段階で、イスラム同胞団系の勢力が改選議席165のうち88議
席をとっていた。だがこの事態をみた当局は、同胞団の支持者が多い選挙区に
警察を繰り出し、投票に行こうとする有権者を抑止して投票を阻害し、同胞団
の当選者の増加を止めた。結局、エジプト議会の全454議席のうち88議席
が同胞団となるにとどまったが、それでも同胞団は事実上の野党第一党となっ
た。もし当局が選挙の後半戦で同胞団の支持者を抑止する不正をしていなけれ
ば、同胞団の議席は200以上になっていたかもしれない。


 ムバラク政権を支持してきた米政府は、長くイスラム同胞団を嫌っていたが、
05年の選挙後、在エジプト米大使館がイスラム同胞団の議員らと交流を開
始した。ムバラク政権は米政府に対し、イスラム同胞団と接触しないよう求め
たが、米側は「野党議員との懇談はどこの国の米国大使館もやっていることで、
やめるわけにはいかない」とうそぶいていた。今回のエジプト革命の勃発後、
米政府は「エジプトの民主政権には、非世俗系の主要勢力も含まれる必要が
ある」と表明し、同胞団の政権入りを歓迎している。



▼自分を弱く見せているイスラム同胞団

 イスラム同胞団は1928年に結成された、近代の政治的枠組みに沿った世
界最初のイスラム政党だ。独立直後のエジプトで設立されたが、アラブ全体を
イスラム主義の政治体制で統合して一つの国家(カリフ)にすることを目標に
掲げ、すべてのアラブ諸国に支部組織を持っている。同胞団は、世界最大規模
のイスラム政党でもある。ガザのハマスは、イスラム同胞団のパレスチナ支部
の一派閥である。


 エジプトを含む全アラブをイスラム主義政権にして統一するという同胞団の
目標は、歴代のエジプト政府に警戒され、同胞団は弾圧され続けた。ムバラク
政権では、先日副大統領になって権力を握ったオマル・スレイマンが、諜報機
関のトップとして同胞団の弾圧と解体に注力した。同胞団は、当局による弾圧
の中で組織を維持する戦略を身につけ、暴力を非難し、穏健な言動につとめ、
イスラム主義を標榜していることすら強く打ち出さないようにしてきた。

 カイロの市街地にある同胞団の本部には、イスラム主義を象徴するものは何
も置かれておらず、エジプトの多くのイスラム教徒の家庭の居間に飾ってある、
メッカのカーバ神殿の写真すら掲げられていない。同胞団は、今回のエジプト
革命における主要な推進役の一つだったが、彼らはイスラム主義のスローガン
や横断幕を全く出さず、リベラル系の運動組織と同様、ムバラクの辞任と民主
的な選挙を求めただけだった。エジプトのリベラル派は、同胞団の支持者数を
エジプト国民の2−3割と概算しているが、同胞団自身は、非合法政党なので
党員数を数えたこともないが400万人(国民の6%)ぐらいだろうと言って
いる。


 エジプトにおける同胞団の支持率が、05年選挙の前半戦が示す「165議
席中の88議席」つまり単独与党になれる規模なのか、それとも同胞団自身が
言っている「6%」なのか、今は判然としない。だが、今回の革命の中で、同
胞団が自分たちの力を意図的に小さく見せようとしていることは確かだ。

 報道によると、タハリル広場の入り口で武器持ち込み規制の検問をしていた
同胞団員は、へジャブ(スカーフ)をかぶっていない女性たちが来ると歓迎し、
積極的にテレビに映るようにしてくれと女性らに頼んでいた。デモ隊がへジ
ャブ姿ばかりだと、同胞団の影響力が強いのだと世界の視聴者に思われかねな
いからだった。同胞団は、非常に良く組織され、都会の貧困層が多く住む地域
に無償の病院や学校を建てて運営したり、食料支援をするなど地道な努力によ
って、広範な草の根の支持を得ている。


 エジプトの軍部は、イスラム同胞団の台頭を何とか抑えたいだろう。しかし
米政府は「真の民主化」を求め続け、エジプト軍部に対し、同胞団を抑圧する
なと求め続けるだろう。軍部が米政府の意に反して同胞団を弾圧したら、米政
府はエジプト軍を公式に非難し、軍事援助の打ち切りなどの経済制裁をするだ
ろう。エジプトの混乱が長引き、国民が困窮するほど、同胞団の貧困層に対す
る支援活動が重要なものとみなされ、同胞団に対する支持が増える。米国から
の圧力に屈して、軍部が民主的な選挙を許すと、同胞団が与党または連立与党
の重要構成員になる。イスラエルが懸念していた「エジプトの民主化はイスラ
ム主義化になる」という事態が実現する。

 エジプトがイスラム主義化していくと、エジプトとガザを一体化しようとす
る動きが双方から強まる。エジプトとガザの国境には、幅500メートルのイ
スラエル領(フィラデルフィア・ルート)が挟まっており、イスラエルがそこ
からの撤退を拒否すると、エジプトとイスラエルの間が険悪になり、最悪の場
合、戦争になる。ガザのハマスとイスラエルが戦争になり、そこにエジプトが
巻き込まれる展開もあり得る。こうした紛争と平行して、パレスチナ自治政府
やヨルダンの王政がイスラム主義勢力によって転覆させられるかもしれない。
エジプト革命を受け、ヨルダンで国王が内閣を改造したが、国民の評判は悪い。


 米国が「中東民主化」を容認し続けると、ヨルダンとパレスチナがイスラム
主義に転換し、イスラエルは戦争になり、政権転覆はサウジアラビアにも波及
しかねない。サウジ王政が存続できるとしたら、米国を非難してイスラムの大
義を支持することが必要だろう。これはサウジ王家が親米から反米に転向し、
イスラム同胞団やイランと仲良くすることを意味する。イスラム勢力が原油価
格を決める態勢になって相場が高騰し、1970年代の石油危機のように、イ
スラエルを支持する国に石油を売らないという宣言が出るかもしれない。


▼イスラム帝国が復活する?

 こうした流れがどこまで進むか予測できないが、サウジアラビアがイスラム
主義に傾くと、ペルシャ湾岸諸国やパキスタンやアフガニスタンもイスラム化
の傾向が強くなり、アラブ全域がイスラム主義で統合的な動きを示す。イスラ
ム同胞団の目標である「カリフ」に近いものが出現するかもしれない。インド
ネシアやマレーシアなど東アジアのイスラム諸国も、何らかの政治転換をする
かもしれない。

 すでにイスラム的な協調をみせているイランとトルコという2大勢力と合わ
せ、中東はアラブ、イラン、トルコという3つのイスラム勢力が協調する新体
制になりうる。米国の影響力は排除され(米議会で台頭する共和党の茶会派は、
すでにイラクとアフガンの占領を無意味とみなし、撤退を求めている)、
イスラエルは国家存続できない可能性が高くなる。

 このようにエジプトのムバラク辞任は、世界的に巨大な影響を与える事件で
ある。欧米や日本の多くの人々が「エジプトがリベラルな民主主義に転換して
欧米化し、みんなハッピー」と思っているかもしれないが、それは幻想だ。欧
米人が嫌うイスラム主義が西アジアを席巻する可能性の方が高い。

 米国のマスコミや右派(ネオコン)は、同胞団は大したことないと分析して
いる。だがそれは、03年のイラク侵攻の前後に、彼らが「米軍がフセイン政
権を倒すだけで、イラクはリベラルな民主体制になっていく。イラクがイスラ
ム主義化することはない」と言っていたのと同様の、少し考えればすぐにわか
る大間違いである。米国のマスコミや右派の中には(ユダヤ人が多いだけに)
中東情勢に詳しい人が多いのに、なんでこんな基本的な大間違いを繰り返すのか。

 それを「民主化という理想主義に目がくらんでいるから」と単純化して考え
る人が多いが、米国の上層部の人々は、非常に現実的な世界支配の体制を何十
年と維持しており「中東民主化」の部分だけ過剰な理想主義に走ると考えるの
は無理がある。間違いの大きさから考えて、プロならやるはずのない「未必の
故意」に相当する。




2011年02月08日(火) 古典に学ぶ 「年をとる技術 3 」

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《年をとる技術 3》 (アンドレ=モロワ)
  



 『人生をよりよく生きる技術』( アンドレ=モロワ) 講談社学術文庫











経験をつんだ人間たちは,彼らがかつてきわめて愛した地域や人物へと立ち帰ることを好まない。

幸福と別離とは,結局は結び合わされることになっている。人々は宝を携えて立ち去るのだ。(ニーチェ)









●不幸と病いが,老年には必ずつきまとうものだと考えるのは間違っている。


【肉体の鍛練を不断に続けること】


動物たちを見てみたまえ。その多くは,大きな変化はなしに,生から死へと移っていく。よく訓練された肉体は,柔軟さと美しさを,長期間失わずにいることができる。秘訣は,決して投げ出さないことだ。昨日できたことは,今日もできる。しかし,一度やめたら,それは永久にだめになる。不断の訓練は,驚嘆すべき成果を生むものだ。70歳になってもまだ毎日,剣術やテニスや水泳やボクシングをしている老人はたくさんいる。最後まで体を使うのをやめないことこそ,賢明な道だ。



ただし,気まぐれにときたま思い出してやるのでは何にもならない。いったん始まった老化を食い止めることは不可能である。しかし,老いが我々の肉体の中に入りこんでくるのを防ぐことはかなり容易であるし,またその方がどれだけ望ましいかわからない。




【感情生活と情緒を失わないにようにすること。】




肉体と同様,心も訓練を必要とする。ただ年寄だというだけの理由で,本当に心に感じるものを抑える必要がどこにあろう。老人の恋愛は滑稽だからか? だがそれは,自分が老人であることを忘れるからこそ滑稽なのである。心から愛し合っている老夫婦は,いささかも滑稽ではない。お互いの中に,かつて若いときに愛したものを,いまも見続けているのだ。心くばり,優しさ,情愛,尊敬の気持ちには,年齢はない。のみならず,嵐の時期が過ぎてこそ,かつて不完全なところもあった愛が,年とともに不純物を洗い落とし,地味ながらも美しい味わいを帯びるということがよくあるのである。官能の誤解は,官能とともに消えて行く。嫉妬心も若さとともに失せる。暴力も肉体の力とともに過ぎ去る。



歳月は,激情に身をまかせていた2人を,魅力ある老人にすることもできるのだ。夫婦の人生とは,ゆえに川の流れのごときもので,水源を出たばかりのところでは,水しぶきあげる危険な急流だったものが,河口近くまでくると,流れもゆるやかな澄みきった美しい河となり,その鏡のような広い水面には,岸辺のポプラや夜空の星がすがたを映すのである。




【子供や孫たちの活躍を応援する】


感情生活は,何も恋愛だけに限ったものではない。むしろ多くの場合,子供や孫への愛情だけでも,
老人の生活をみたすのに充分である。自分の息子あるいは娘が,今度は彼らの番となって人生の道を歩むさまを眺めるのは,いかにも楽しいものである。彼らの幸福を喜び,彼らの苦しみを苦しみ,彼らの恋を恋し,彼らの闘争に参加する。彼らがわれわれの代わりに人生ゲームをやってくれているのに,どうして試合から引き下がる気持ちになれよう。彼らが快楽を味わっているかぎり,どうしてわれわれは快楽を断たれたのだなどと思えよう。




●老人が必ず孤独になるというのも,やはり真実でない。


守銭奴で,自分のことばかり考え,いばりちらし,たわごとばかり繰り返すような老人なら,そうでもあるだろう。しかし逆に,自分の中にある老人特有の欠点によく気づき,それと闘い,いち早くその悪い芽を摘みとってしまうような老人,気前がよく,謙虚で,かつ親切にしようとみずから努める老人には,若者は友情を求め,その経験に学ぼうと近づいてくるものだ。老人にとっての難しい問題は,自分の経験を,いかにして,青年が自然にいだくあの熱情を傷つけることなく伝えるかということとにある。とはいうものの,経験は,熱情はすべて愚かしいと教えているわけではない。ただ,すべては実行如何にかかっていると教えているのである。大げさな言葉ではなく,大きな美徳をきちんと行なえと教えているのである。



●生きる理由を持ち続けること。


「老化にともなういちばん悪いことは,肉体が衰えることではなく,精神が無関心になることだ」と先に述べたが,そういう風に無関心になる自分と闘うことはできるし,また闘わなければならない。生きる理由を持ち続けている人は,老いこんだりはしないものだ。
波乱にみちた人生とか,大きな感動とか,学問,研究とかいったものは,疲労と消耗のもとだと思われがちであるが,実はその反対なのである。クレマンソーやグラッドストンは,ともに80歳をこして一国の首相となったが,驚くほど元気であった。老いこむというのは,一つの悪い習慣で,忙しい人は,そのような習慣をもつひまはない。


ところで多忙な人であり続けるためには,どうすればいいのか? 


人を指揮することにかけては,老人は若者にまさる。ローマをカルタゴの名将ハンニバルの攻撃から救ったのは老ファビウスであった。年とった外交官や医者は,経験と分別に富んでいる。加えて,若者特有の情念から解放されているので,出来事や主義主張を,より正確に,かつより冷静に判断することが出来る。古代ローマの散文家・雄弁家のキケロは述べている。「偉大な仕事が成しとげられるのは,力や敏捷な肉体によるのでなく,助言,権威,成熟した智恵による。老人はそういったものを失うどころか,逆により豊かに身につけているものだ。







●上手に年をとるための2つの異なった方法。


要するに,上手に年をとるためにには,2つの方法があるということである。
第一の方法は,年をとらないことだ。先に述べたように,活動によって老化をまぬかれる人たちがそれである。
第二の方法は,老いを受け入れることである。老年は煩悩を絶った心静かな年代,したがって幸福な年代にもなりうる。闘争の時代は過ぎ,試合は終わった。死の休息も近い。新しい不幸に襲われることももうない。私は,夢想の哲人にも似た賞賛すべき老人に何人か会った。彼らは,愛欲の嵐のみならず,未来への責任からも解放され,若者たちをうらやむどころか,若者たちがこれから人生の荒波を乗りこえなければならぬことを,むしろ気の毒がっているくらいだった。




●下手な年のとり方。


最低なのは,自分を去っていくものにまだしがみつこうとすることだ。
あと何日かしたらあの世に行かなければならないのに,まだ嫉妬や後悔にとらえられて,人生最後の時を台なしにしてしまう野心家もいる。年をとる技術とは,あとに続く世代の目に,障害ではなく支えであるとうつる技術,競争相手ではなく相談相手だと思われる技術である。



退職ということに関しては,言うべきことは多い。退職が死につながる人間もいる。心の準備が出来ていない人間である。旺盛な好奇心を持ち続けている人なら,それは人生のもっとも楽しい時なのだ。
退職がうれしいことになるためには,何が必要か? 栄光の空しさを知り,無名の人である安らぎを求める気持ちである。自分の村や家や庭で,自分の小さな仕事を持つことである。



賢者は,世間の仕事に時間をついやしたあとでは,自分自身のことと自分の教養のために時間を使うものだ。まだ職についているときから,すでに詩歌や美術や自然に親しんでいる人だったら,それはいっそうたやすいことである。

私のことをいえば,人生の最後をいちばん美しく過ごすのは,いつの日か,田舎,といっても町からあまり離れていないところに隠居し,今までに愛読した何冊かの本を,もう一度,書き込みなどしながら,読み返すことだと考えている。



「あたかもやどり木が枯れた柏(かしわ)の木に生えるように,人間の知性は老年にこそ花咲かなければならぬ」とモンテーニュは『随想録(エッセー )』で述べている。


五十代に影の線をこえたあとで,十年または二十年後に,今度は光りの線を横切ることになるだろう。


初めて老いを自覚したときは,とてもつらかった。まだ自分の世の中だと思っていたのに,世間はもう新しい思想や新しい人々の方を向いているのがショックだったのである。だが今は,もはや自分に属さなくなった時代を,無私無欲な慧眼の観察者としてうち眺めることに,落ち着いた幸福感をしみじみと味わうのである。
    


2011年02月07日(月) 古典に学ぶ 「年をとる技術 2 」

《年をとる技術 2》 (アンドレ=モロア )

  

      

   

 《「我は若く,汝らは老いたり,ゆえに我恐る」》




●肉体が年をとるとは、モーターが疲弊するようなものである。しかるべきときによく点検して、手入れし修理すれば、まだまだちゃんと役に立つ。だがついには、もう元の体ではない、という時が必ずやってくる。そうなったらあまり無理をしてはいけない。ある年齢に達すると、体を動かすのがつらくなる。往々にして手先の仕事は不可能となり、頭を使う仕事も出来あがりにムラが生じるようになる。なるほど、最後まで自分の才能をフルに生かすことが出来る芸術家もいる。ヴォルテールは65歳で『カンディード』を書いた。ヴィクトル=ユゴーは晩年に非常に美しい詩をつくっているし、ゲーテも『ファウスト』第2部の見事な終章をその晩年に書いた。ワーグナーは69歳のとき『パルシファル』を完成している。これと反対に、霊感の泉がずいぶん早く枯れてしまう芸術家もいる。それは多くの場合、才能を苦悩にみちた青春時代の情熱に負うており、外部の世界に一度も関心を示さなかった人々である。彼らは、心が沈黙したとき、精神もまた沈黙したのである。




●「老いは暴君だ。死でもっておどしながら、青春のあらゆる快楽を奪いあげる」と、ラ=ロシュフーコーは言っている。



まず第一は、快楽のうちでもいちばん強烈なもの、恋の快楽だ。年老いた男や女が、若い人から愛されるということは、ほとんど望めない。バルザックは恋する老人の悲劇をいくつも書いている。かつては、何もしないでも女からちやほやされたのに、今はプレゼントを絶やさず、何かと特別な便宜を計ってあげて、やっと愛想よくしてもらえるという有り様だ。だから老人は、手練手管の娘が現れて、気違いじみた希望をいだかせでもしようものなら、彼女のために身を滅ぼしてしまうのだ。ユロ男爵(『従妹ペット』の主人公。若い娘に恋して家庭を破壊し、身を破滅させる)のように屈辱と人格喪失にまで至る。



この苦しみをなめつくしたシャトーブリアンは、『恋と老い』という恐ろしい小説を残している。どういう風にして年をとったらいいのかを知らない老いた恋する男の、悲痛な嘆声であり、苦しみの叫びだ。「女が大好きだった男のこうむる罰は、いつになっても女が好きだということである」。そして男が大好きだった女のこうむる罰は、時々若い男が自分の方を振り返り、本当に驚いたというような声で、「あの女性は昔は美人だったろうなあ」というのを耳にすることだ。




●心そのものが老け込む人も少なくない。年をとると不思議に心がかわいてしまうものだ。おそらくそれは、肉体の欲望が衰え、情熱をおのずと力強く支えるものがなくなるからであろうか。あるいはおそらくは、人生のはかなさを知ったため、欲望も愛情も弱ってしまったからであろうか。いずれにせよ、ある種の老人たちの自己中心主義にはおどろかされる。こういった老人の自己中心主義は、たくさんの友情を遠ざけてしまう。もし彼に人間的な暖かみといったものがあれば、それが人生経験と結びついて、若い人をひきつけるでもあろうに、しかしそれはないのだ。



守銭奴根性は老人の病である。



それも一つには、生活に窮するのを恐れるからである。老人は、収入を得るのがもう難しくなるであろうと、あまり激しい労働はもうつらくて出来なくなるだろうと感じている。だからいま持っているものにしがみつくのだ。あらゆる突発的な出来事を想定して、数えきれないほどの隠しどころをつくり、幾重にも仕掛けをして金が見つからないようにする。だが、生活の不安だけから守銭奴になるとは限らない。人間みな何らかの情熱を持たずにはいられない。ところで金をためるという情熱は、あらゆる年齢の人間が持つことのできるものだ。この情熱には、激しい快楽もあるらしい。金を数え、いじりまわす。株価の動向や貴金属の値動きを追う。肉体は衰えても、まだ何かの力を手に握ることが出来るのだ。けちけち根性から、出費のもととなるものを次々に削っていくとき、情熱的な守銭奴は驚くほどの陶酔感を味わっているものである。以上のことについては、『ウージェニー・グランデ』(バルザック作。女主人公ウージェニーの父であるグランデ爺さんの守銭奴ぶりを描く)を読まれるとよい。






●ラ=ブリュイエール(17世紀.『人さまざま』)は次のように書いている。



「老人は、いつか入用になるだろうと思って金をためこむのではない。なぜなら、そんな心配はまずないと思えるほど蓄えをすでに持っている老守銭奴もいるからである。この悪徳は、むしろ老人という年齢と気質にその原因がある。実際老人たちは、青春時代に恋の快楽を追い求めていたように、また壮年期に野望を追いかけていたように、いまはごく自然に吝嗇にふけっているではないか。守銭奴になるためには、力も、若さも、健康も必要ではない。ただ財産を金庫の中にしまって、一切を断てばそれでいいのだ。だからこれは老人向きの情熱である。老人とても人間であるからには、何かの情熱が必要なのだ。」




● そして最後に、精神の欠点が、容姿の欠点と同様、非常にしばしば年とともに大きくなる。新しい思想はもうそれを咀嚼する力もないから、受け入れようとはせず、頑固に意地を張って老人の先入観にしがみつく。自分は経験があり、偉いのだと思っているものだから、どんな問題にも自分の考え通りに行くと確信する。反駁されたりすると、長上に対する礼を欠いたといって、まっかになって怒る。ところが実は、自分が若いときにちょうど同じことを、祖父からいわれたのは忘れてしまっているのだ。いま目の前に起きていることには興味が持てず、ゆえに新しい考え方を持つことなどできないものだから、話すことといったらいつも同じだ。なるほど、それは彼の青春の楽しい逸話でもあろうが、何度も繰り返して話すものだから、彼のあとに続く人々の青春をうんざりさせてしまっている。寄りつかなくなってしまう。すると、孤独という、老いの病の最たるものが始まる。人生の友を、ひとりまたひとりと、ついにはみな失ってしまう。老人のまわりには、しだいに砂漠が広がる。しかし、死は彼のすぐ近くで何とも言えず彼を脅かしているものだから、やはりそれも怖いのだ。




●老いの危険を要約しておこう。それは、われわれを衰えさせること。次々と快楽を奪い上げること。肉体と同時に心をもひからびさせること。冒険と友情をもう遠いものにすること。そして最後に、死のことを考えて世の中が暗くなることである。


それゆえ,年をとる技術とは、以上のような苦しみや病いと闘う技術であり、また、そういった苦しみや病いにもかかわらず、われわれの人生の終わりを、幸福な時期として過ごすことにある。




●人間の文明と経験は、老いそのものに対してではないにしても、少なくも老いの現われに対して闘う技術を教えている。装身具の主な役割は、まさにそこにある。年をとった女性は、多くの場合若い女性たちよりも、衣服やアクセサリーを重要視するものだが、これはごく当然のことである。きらきら輝く宝石は、人の目をそれに引きつけ、容姿の欠点が目にとまらないようにする。指輪の輝きはしわだった手をかくし、腕輪は手首の衰えをかくす。若者と老人の違いに目につかないしようとすることは、すべて文明的な営為である。洗練された世紀である17世紀は、かつらを考案した。白粉や口紅は、若い女性とその祖母を近づけ、病人を健康人に似せる。洋装店や美容院が一発あてようと思ったら、年とった女たちに何らかの希望を与えるような流行を生み出すに限る。どんな服を着ようかということは、どんな風にして自分の醜さをかくそうかとすることにひとしい。そしてそれも文明の一形式なのである。




●人間の年齢は、生年月日によってではなく、動脈や関節の年齢によって決まる、としばしば言われる。50歳の人が70歳の人より老いこんでいるということが、実際にありうるのだ。したがって細胞を生理的により若い状態に戻せば、全身を若返らせることも出来るはずだ。単純な生物、たとえば大西洋に棲息する被嚢類をとってきて、少量の海水の中に閉じ込めると、自分自身の排泄物で中毒をおこし、急速に老化する。ところが毎日、水を入れ替えてやると、老化は停止するのである。われわれの細胞の老化も、おそらく排泄物の蓄積によるもので、しかるべき間隔でそれを洗い流せば、われわれの寿命はもっと長くなるかもしれないのだ。


2011年02月06日(日) 古典に学ぶ 「年をとる技術 1 」

《年をとる技術 1》  (アンドレ=モロワ)  
                  フランスの歴史家.文芸評論家
                                     

 『人生をよりよく生きる技術』から.講談社学術文庫 (中山真彦訳)










● 「老いていかにあるべきかを知るものは少ない」(ラ=ロシュフーコー)


年をとるということは、不思議なことである。あまりに不思議なので、ほかの人と同じく自分もまた老人になるのだとは、なかなか信じられないのである。

プルーストは『失われし時を求めて』の中で、お互い青年だったときに知り合った一群の男女と、三,四十年をへだてて突然再会した時の驚きの気持ちを、見事に書きあらわしている。「人生の入口で彼を知った私にとって、彼は昔のままの彼だった。なるほど、彼がもう年相応に見えるということは、風のたよりにも聞いていた。だが実際に彼の顔の上に、老人のあのあからさまなしるしを幾つか認めた時、私は本当に驚いてしまった。しかし私は納得したのだ。それは彼が実際に老人だからだということを。長いあいだ青年のままでいた人間も、やがて老人にならなければならないということを。」




そうなのだ。自分と同年輩の男女の上に時の作用を読み取ってはじめて、「あたかも鏡の中」をのぞくかのように、われわれ自身の顔や心に生じているものを知るのだ。なぜなら、われわれの目もまた時間の流れにそって移動しているものだから、自分がまだ青年のすがたをしている気でいるし、心の中にも青年のはにかみや夢が残っている。若い人たちが、われわれをどの年の世代の中において見ているかを、想像してみようとはしないのである。ときおり、どきりとするような言葉を聞く。ある娘さんのことを噂して、「ばかだよ、あの娘は、年寄りなんかと結婚しちゃって。55歳で、頭はもう真っ白だぜ」と人々がいうのを耳にする。すると、ああ自分もまた55歳だ、と思うのだ。頭は白く、ただ心だけが年をとりたがらずに。




《影の線》



老年はいったいいつから始まるのか。長い間、われわれは年なんかとらない気でいる。心はいぜんとして軽やかだし、力も昔のままだと思っている。


青年から老年への移行は、とてもゆるやかなものであるから、変わっていく当人がほとんど変化に気がつかない。秋が夏に続き、そして冬が秋に続くのも、やはりごくゆっくりと移り変わるので、一つ一つの変わり目は、日常目にとまらない。ところが秋は、マクベスを包囲した軍勢のように、夏の木の葉に身を隠しながら、そっと前進しているのだ。そして11月のある朝、突然風が巻き起こる。すると、黄金の仮面が引きはがされ、そのあとに、骸骨のようにやせ細った冬が顔を突き出すのだ。まだ若わかしい緑色をしていると思っていた木の葉が、もうすっかり枯れてしまって、何本かの細い筋だけで枝にぶら下がっている。突然の嵐は、冬をつげた。だが、それが冬をつくりだしたのでない。



病気は、人間という森を襲う突然の嵐だ。年のわりにまだ若い男女がいる。その活動力、その頭の回転の速さ、その生き生きとした話し方に感嘆する。ところが、若い人ならばせいぜい風邪か頭痛ですむ程度のちょっとした無茶をしたその翌日、肺炎あるいは脳溢血という嵐が、彼らをおそうのである。そして数日のうちに、顔がしわだらけになったり、背中が曲がり、目の光りが消える。われわれはたった一瞬のうちに老人になるのだ。でもそれは、そうとは気づかず、そうとは知らぬまに、もうずっと前から老化しつつあったからにほかならない。



人間にとってこの秋の季節はいつから始まるのか? コンラッドにいわせれば、40歳をこすやいなや、「人はだれでも目の前に細長い影が一本横たわっているのに気づく。そしてそれを横切る時、冷たい戦慄を感じ、自分はもう青年の魅惑の世界を去りつつあるのだとつくづく考えるのである。」今日この細長い影の線を引くとしたら、むしろ50歳前後のころであろう。だからといって影の線がなくなるわけでない。そしてそれを横切る時、どんなに元気溌剌として丈夫な人でも、コンラッドが語っていた冷たい視線をかすかに感じ、たとえつかの間であれ、絶望感に襲われるのである。




「私はやがて50歳になる」とスタンダールは、なんとズボンのバンドの上に書きつけた。そして同じ日に、かつて愛した女性たちの名前を、丹念に書き並べる。この世のだれにもまして、女性を結晶作用のダイヤモンドで飾ることの出来た彼であったが、しかし、思ってみればかなり平凡な女たちだった。20歳の彼は、自分の恋愛生活には素晴らしい出会いがあるに違いないと空想していた。そして彼は、恋の機微を知る心といい、愛を大事にする気持ちといい、そのような出会いに値する男だった。しかるに、彼が愛することを望んだ女性たちはついに現れなかった。



老いとは、髪が白くなったりしわがふえたりすること以上に、もう遅すぎる、勝負は終わってしまった、舞台はすっかり次の世代に移った、といった気持ちになることである。老化にともなう一番悪いことは、肉体が衰えることではなく、精神が無関心になることだ。細長い影の線をあとに消えていくもの、それは行動の能力ではなく、行動の意志である。青春時代の、あの旺盛な好奇心、ものごとを知り理解したいというあの欲求、新しい世界を知るたびに胸をふくらませたあの広大な希望、夢中で恋をする情熱、美には必ず知と善がともなうというあの確信、理性の力に対するあの信頼、そういったものを、50年間様々な体験と失意を重ねたあとでも、なお持ち続けることは出来るだろうか?




影の一線をこえると、人は柔らかい穏やかな光りの地帯に入る。



欲望の強い日光に目がくらむこともなくなるので、人や物がありのままの姿に見える。美しい女は心も立派であると、どうして信じることができよう。女のひとりを恋してみたではないか。世の中は進歩するのだと、どうして信じることができよう。多難だった生涯を通して、いかに急激な変化も決して人間性を変えることは出来ないこと、ただ昔からの習慣や、古びた儀式だけが、人類の文明をかろうじて守っていることを、つくづく思い知らされてきたではないか。「それが一体何のためになる? 」と老人は考える。そしてこの言葉が、恐らく老人にとって一番危険なのだ。なぜなら、「がんばってみたって何になる」といった人は、ある日、「家の外に出て何になる」と言い出すだろうし、そして次には「部屋の外に出て何になろう」「ベッドの外に出て何になろう」というようになるからだ。最後は、「生きていて何になろう」であり、この言葉を合図に、死が門を開く。



ゆえに年をとる技術とは、何かの希望を保つ技術のことであろうと、見当がつくのである。




2011年02月02日(水) 柄本明(えもとあきら)の役者人生

柄本明(えもとあきら)の役者人生



この役者には人間存在の哀愁が光っている。

シリアスな演技づくりからお笑いコントまで幅の広い才能と,独特な存在感で知られる柄本明を特集してみた。

志村けんとのコントは笑える。両人とも気質はまじめながら,その対極として天衣無縫な性格があることに注目した

い。スケールの大きい素質こそが役者には必要なのだろう。





●映画『春との旅』予告編
http://www.youtube.com/watch?v=BLXyR5zgfzg&feature=fvw




●仲代達矢が暴露! 柄本明には本当に腹が立った
http://www.youtube.com/watch?v=9aYcDkI7by8&feature=fvw




●志村けん 柄本明 トーク
http://www.youtube.com/watch?v=AOcU7L0M46k&feature=related




●志村けん 柄本明 定食屋コント1/2
http://www.youtube.com/watch?v=q7xWouFLmjk&feature=related




●志村けん 柄本明 定食屋コント2/2
http://www.youtube.com/watch?v=4r5GliVXu04&feature=related




●志村けん 柄本明 屋台コント
http://www.youtube.com/watch?v=eeru1P4LCz4&feature=related




●志村&柄本の芸者コント '09.flv
http://www.youtube.com/watch?v=hk0S2e7kxXU&feature=related





●柄本 明 の来歴

柄本 明(えもと あきら、1948年11月3日 - )は、東京都中央区出身の俳優、コメディアン。東京都立王子工業高等学校機械科卒業,身長175cm、血液型はB型。愛称は「えもっちゃん」。



生年月日 1948年11月3日(62歳)
出生地 日本・東京都中央区
血液型 B型
職業 俳優、コメディアン
ジャンル 映画、テレビ番組

●活動内容
1974年:自由劇場へ参加
1976年:自由劇場退団、劇団東京乾電池を結成
1992年:『空がこんなに青いわけがない』で映画監督デビュー

配偶者 角替和枝
家族 長男:柄本佑
次男:柄本時生


●映画
『カンゾー先生』
『座頭市』
『油断大敵』
『タカダワタル的ゼロ』
『ニワトリはハダシだ』

●受賞
日本アカデミー賞
最優秀主演男優賞
1998年『カンゾー先生』
ブルーリボン賞
助演男優賞
1982年『男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋』、『道頓堀川』
その他の賞
第23回報知映画賞最優秀主演男優賞
第35回報知映画賞最優秀助演男優賞
第11回日刊スポーツ映画大賞主演男優賞
キネマ旬報1998年度ベスト・テン主演男優賞
キネマ旬報2010年度ベスト・テン助演男優賞
第58回毎日映画コンクール男優助演賞
第26回ヨコハマ映画祭助演男優賞など




●来歴

印刷屋の父親の息子として聖路加国際病院で生まれた。父親は、殿山泰司の小学生時代の親友であった。母方の祖父は東京・銀座で箱屋(芸妓斡旋業)を経営していた。生家が歌舞伎座の裏手にあったこと、映画や演劇好きの両親・家族に囲まれて幼少期を過ごしたことが、俳優を志すきっかけとなる。

工業高校卒業後、商社に就職。だが、俳優にあこがれ、金子信雄が主宰する劇団「マールイ」の演劇教室の生徒となり、同じ教室にいた松田優作と知り合う。

NHKの大道具のバイトをしているうちに、1974年に自由劇場へ参加、俳優として起用されるようになった(佐藤B作、笹野高史、吉田日出子などが当時在籍)ものの、串田和美の作風に肌があわず、1976年退団し、同年に自由劇場時代に知り合った、ベンガル・綾田俊樹らと共に劇団東京乾電池を結成する。その後、やはり自由劇場時代に知り合った、高田純次、岩松了らが入団。1976年4月〜1978年3月頃までベンガル・綾田と『ひらけ!ポンキッキ』のお兄さんを務めたことがある。

特異な容貌と、独特の存在感で、テレビ、映画等にも出演するようになる。

24歳からは下北沢に引越し、本多劇場のこけら落しにも出演、下北沢ザ・スズナリでも活動した。そうした縁もあり下北沢の再開発に反対する住民運動のSave the 下北沢にも招かれている。

1998年、『カンゾー先生』で第23回報知映画賞最優秀主演男優賞や日本アカデミー賞最優秀主演男優賞などを受賞。2004年『座頭市』などで第58回毎日映画コンクール男優助演賞を受賞。

1992年、映画『空がこんなに青いわけがない』では監督を務めている。これ以降、監督作は無く産経新聞の「わたしの失敗」で「もう二度とやりません」と語っている。

2006年、NHK大河ドラマ『功名が辻』で親子共演を果たした。『スタジオパークからこんにちは』でゲストとして呼ばれたときには、収録の最中だったのか受け狙いだったのかは定かでないが、豊臣秀吉役の格好のままで登場。その姿で東京乾電池30年の歴史などを語った。

シリアスな演技だけではなく、笑いを呼ぶ演技も得意とする。『志村けんのだいじょうぶだぁ』や『志村けんのバカ殿様』などにおける志村けんとのコントは息がピッタリで印象深いが、本人は「コントは志村さんとしかやらない」と明言している。コントでは、柄本が強烈な個性を持つボケ役を演じ(婚期を逃した四十路女性、挙動不審なサラリーマン、年増の芸者など)、志村がツッコミに徹する形で笑いを誘発するパターンが一貫して取られている。



●映画
下落合焼とりムービー(1979年) - 山田一郎助教授 役
ヒポクラテスたち(1980年) - 加藤健二 役
セーラー服と機関銃(1981年) - 黒木刑事 役
男はつらいよシリーズ
男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋(1982年) - 近藤 役
男はつらいよ 寅次郎心の旅路(1989年) - 坂口兵馬 役
疑惑(1982年) - 秋谷茂一 役
道頓堀川(1982年)
天城越え(1983年) - 旅の呉服屋 役
ダブルベッド(1983年) - 山崎徹 役
二代目はクリスチャン(1985年) - 神代 役
生きてみたいもう一度 新宿バス放火事件(1985年)
キネマの天地(1986年)
ベッドタイムアイズ(1987年) - 大黒 役
敦煌(1988年) - 呂志敏 役
もっともあぶない刑事(1989年) - 前尾源次郎 役
バカヤロー!2 幸せになりたい。 第三話「新しさについていけない」(1989年) - 寄貝やすし 役
ファンシイダンス(1989年)
バトルヒーター(1989年)- 浜利一 役
北京的西瓜(1989年)
幕末純情伝(1991年) - 桂小五郎 役
ラスト・フランケンシュタイン(1991年) - 三枝二郎 役
グッバイ・ママ(1991年) - 長谷部義治 役
シコふんじゃった。(1991年) - 穴山冬吉 役
空がこんなに青いわけがない(1992年)監督
あひるのうたがきこえてくるよ。(1993年) - 梶良介 役
ゴジラvsスペースゴジラ(1994年) - 結城晃 役
夏の庭 The Friends(1994年) - 長友 役
Shall we ダンス?(1996年) - 三輪徹 役
釣りバカ日誌8(1996年) - 湯川省平 役
身も心も(1997年) - 関谷善彦 役
うなぎ(1997年) - 高崎保 役
誘拐(1997年) - 橘警視 役
ラブ・レター(1998年) - 伊藤常夫 役
カンゾー先生(1998年) - 赤城風雨 役
麗猫伝説 劇場版(1998年)
セカンドチャンス(1999年) - 中島慎太郎 役
生きたい(1999年) - 君塚長太郎 役
天国までの百マイル(2000年) - 曽我真太郎 役
アナザヘヴン(2000年) - 赤城幸造 役
NAGISA(2000年) - 神主 役
淀川長治物語・神戸篇 サイナラ(2000年)
陰陽師(2001年) - 藤原元方 役
ウォーターボーイズ(2001年) - ママ 役
仔犬ダンの物語(2002年) - 古澤常男 役
ふくろう(2003年) - ダム男B 役
ゼブラーマン(2003年) - カニ男 役
解夏(2003年) - 黒田寿夫 役
ドラッグストア・ガール(2003年) - 鍋島浩次 役
座頭市(2003年) - 居酒屋の的屋の主人 役
さよなら、クロ(2003年) - 花園修造 役
魔界転生(2003年) - 松平伊豆守 役
花(2003年) - 鳥越弘 役
鉄人28号(2004年) - 大塚雄之助 役
ウイニング・パス(2004年) - うどん屋店主 役
レイクサイド マーダーケース(2004年) - 藤間智晴 役
理由(2004年) - 片倉義文 役
月とチェリー(2004年) - 阪本 役
ニワトリはハダシだ(2004年) - 朽木泰三 役
妖怪大戦争(2005年) - 牛舎の農夫 役
蝉しぐれ(2005年) - 磯谷主計 役
容疑者 室井慎次(2005年) - 津田誠吾 役
スクラップ・ヘブン(2005年) - 薮田刑事 役
嫌われ松子の一生(2006年) - 川尻恒造 役
日本沈没(2006年) - 福原教授 役
神童(2007年) - 菊名久 役
リアル鬼ごっこ(2007年) - 医者(王様) 役
やじきた道中 てれすこ(2008年) - 喜多八 役
東京タワー オカンとボクと、時々、オトン(2007年) - 笹塚の診療所の医者 役
魍魎の匣(2007年) - 美馬坂幸四郎 役
世界で一番美しい夜(2008年) - ジャーナリスト 役
花影(2008年) - 不動産屋主人 役
ラストゲーム 最後の早慶戦(2008年) - 飛田穂洲 役
築地魚河岸三代目(2008年) - 真田正治郎 役
タカダワタル的ゼロ(2008年、ドキュメンタリー)
シャカリキ!(2008年) - 校長 役
ぐるりのこと。(2008年) - 安田邦正 役
石内尋常高等小学校 花は散れども(2008年) - 市川義夫 役
きみの友だち(2008年) - フリースクールの校長 役
ICHI(2008年) - 長兵衛 役
イキガミ(2008年) - 参事官 役
ハッピーフライト(2008年11月) - 斉藤直輔 役
旭山動物園物語 ペンギンが空をとぶ(2008年)
レイン・フォール/雨の牙(2009年公開予定) - タツ 役
ジョン・ラーベ(2009年日本未公開) - 松井石根 役
ぼくとママの黄色い自転車 (2009年)
余命1ヶ月の花嫁(2009年) - 長島貞士(花嫁の父) 役
ゴールデンスランバー(2010年)- 保土ヶ谷康志 役
花のあと(2010年)- 永井宗庵 役
春との旅(2010年) - 中井道男 役
孤高のメス(2010年)- 大川松男 役
昆虫物語 みつばちハッチ〜勇気のメロディ〜(2010年) - ドクモ 役(声の出演)
悪人(2010年、李相日監督) - 石橋佳男 役
死刑台のエレベーター(2010年) - 柳町宗一(横浜署刑事) 役
桜田門外ノ変(2010年) - 金子孫二郎 役
雷桜(2010年10月22日公開、東宝)- 榎戸角之新 役
脇役物語(2010年10月23日公開)- ホームレス 役


2011年02月01日(火) フランスの歌姫エマ・シャプラン

フランスの歌姫エマ・シャプラン





エマ・シャプラン Emma shapplin

出生名 Marie-Ange Chapelain
出生 1974年5月19日(36歳) フランス パリ

活動期間 1997〜
エマ・シャプラン(Emma Shapplin、 1974年5月19日生まれ)は、フランス出身のコロラトゥーラ・ソプラノ歌手。

母国語のフランス語ではなく、イタリア古語で歌うことが多い。

日本では2001年に日産・セドリックのCMで「フィフス・ヘヴン」が、テレビ東京の『美の巨人たち』のエンディングテーマとして「果てなき夜」が使われた。

◎ 来歴
14歳の頃にクラシック音楽からキャリアをスタートさせ、両親に反対されながらも『魔笛』の夜の女王を目指してトレーニングする。

19歳の時に家を出て、ジーン・パトリック・カプドゥヴィエにデモ・テープを渡すチャンスを得る。これによって認められ、共同でソロ・アルバムの制作を開始する。この過程でクラシック音楽にはない表現の自由を求めて自分だけの表現方法を見出していき、古典オペラと現代トランスやポップスを融合させる。デビュー・アルバム『カルミネ・メオ』(1997年)はフランスで10万枚を売るヒットになり、ゴールド・ディスクになった。

グレーム・レヴェールが作曲し、映画『レッド・プラネット』(2001年公開)のサウンドトラックに収録された「フィフス・ヘヴン」がヒットする。この曲は日産・セドリックのCFにも使用された。レヴェールはアルバム『エマ・シャプラン Eterna』のプロデュースも務めている。






●la notte etterna - Emma shapplin
http://www.youtube.com/watch?v=yovvY8AVnW0&feature=related






●Emma Shapplin - La Notte Etterna (English Subtitles)
http://www.youtube.com/watch?v=Q3DWFHUWBgw&feature=related






●Emma Shapplin - 'La Notte Etterna'
http://www.youtube.com/watch?v=hVKh_LcqzLU&NR=1





●Emma Shapplin - Spente le Stelle
http://www.youtube.com/watch?v=v66JFjwgxIo&feature=player_embedded





●Emma Shapplin - Cuor Senza Sangue
http://www.youtube.com/watch?v=lt4kEpUeUT0&feature=related





●EMMA SHAPPLIN - DIVA DA OPERA / 映画「The Fifth Element」から
http://www.youtube.com/watch?v=aXt3Wn25_D0&feature=related


カルメンチャキ |MAIL

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