女の世紀を旅する
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2007年08月03日(金) 阿久悠と小田実が逝去

●【阿久悠さん(作詞家)が尿管がんのため死去.70歳 (8月1日)】


 「北の宿から」「勝手にしやがれ」「UFO」など、数多くのヒット曲を手掛けた作詞家・阿久悠さん(あく・ゆう、本名・深田公之=ふかだ・ひろゆき)が07年8月1日午前5時29分、尿管がんのため入院していた都内の病院で死去した。70歳。兵庫県出身。ジャンルを問わず5000曲以上を作詞し、70〜80年代に昭和歌謡の黄金期を築いた。葬儀は近親者のみで行い、後日「送る会」を開く。喪主は妻 深田雄子(ゆうこ)さん。

 ポップスから歌謡曲まで、ジャンルを問わない活動でヒットを飛ばし続けた阿久さんが、作詞家40周年の節目の年に旅立った。都内の病院でみとったのは妻雄子さんと1人息子の太郎さんで、眠るようにして逝ったという。

 関係者によると、阿久さんは2001年9月に腎臓がんを患い、都内の病院で摘出手術を受けた。退院後は創作活動を行いながら、自宅のある伊豆や事務所のある東京を行き来し、通院治療や短期の検査入院などを繰り返していた。ある時期にぼうこうにがんが見つかったが体調は安定。容体が急変したのは先月10日ごろで、緊急入院してそのまま帰らぬ人となった。

 最期の仕事は、今月22日発売の渚ようこのアルバム「ノヴェラ ダモーレ」に「KABUKU」「どうせ天国へ行ったって」の2曲の詞を書き下ろした。「どうせ−」では、死後のことを「どうせ天国なんて 誰もいないから イヤよ」とつづっている。当時、歌手の岩崎宏美(48)が車いすに乗った恩師に「どこか痛いところはあるんですか」とたずねると「痛くないところがないんだよ」と、寂しそうにつぶやいたという。常々「自分には見えっぱりな部分や、強がるところがある」と話し、教え子の和田アキ子(57)が見舞いを申し出ても「元気な姿しか見せたくない」と断っていた阿久さんも、最近は体調不良を訴えることも多かったという。

 阿久さんが作詞家を志す原点は結核を発病した14歳のころ。医者から「激情を抱くと、胸が破れて死ぬ」と宣告され「文書を書くか絵を描くかしかなさそうだ」と心に決めたという。

 作詞家デビューは67年にザ・モップスが歌った「朝まで待てない」だった。その後は、山本リンダ「どうにもとまらない」、森昌子「せんせい」、都はるみ「北の宿から」など、アイドルから演歌までジャンルを問わないヒットメーカーとなった。70年代からは沢田研二と組み「勝手にしやがれ」などをヒットさせたほか、日本テレビの歌手オーディション番組「スター誕生!」の審査員として、ピンク・レディーや山口百恵、桜田淳子を発掘、歌謡曲の黄金期を築いた。

 誰もが口ずさめる名曲の数々は5000曲にのぼる。ペンネームに込められた「悪友」どころか、多くの人々の親友だった。




▲ 昭和の象徴

 「昭和の歌謡曲はどこへいったんでしょう?」と聞いた。「それは、日本人の心がやせちまったんだよ…」。阿久さんはちょっと寂しそうな顔をした。

 取材手帳。今年1月30日。「午後2時半・六本木・阿久悠氏」とある。「流行歌はどこへ?」というテーマでインタビューをお願いしていた。

 当日、お会いをするにあたって、関係者から「病気のことは、もう治られていますが、あまり聞かないように」「写真は撮られますか? それでもいいのですが、こちらがご用意いたします。本人が少し気にしますから」という丁重な申し入れがあった。

 何度かに及ぶがんとの闘い。それを見事に闘い抜かれ元気な阿久さんを期待していた。少し心配になっていった。

 久しぶりに見た阿久さんは、自信に満ちた男っぽい顔立ちは相変わらずだったが、体全体が少しだけ小さくなっていて、つらかった。

 それでもサービス精神いっぱいによく笑われ、精いっぱいにお話ししてくれた。
 「男が男を歌い、女が女を歌える。そういう時代は昭和と一緒に、終わっちまったんだよ」。さまざまなジャンルの歌を書かれた阿久さんだが、本当に強かったのは、男なら男くさく、女なら女らしい歌だったのかもしれない。

 阿久さんは昭和との決別を「昭和最後の秋のこと」というタイトルで99年(平11)に書いている。阿久さんの早すぎる死。昭和がまた、駆け足で遠くなっていく。【馬場龍彦】




▲ ピンク・レディー未唯「戸惑いと喪失感」

 阿久悠さんが生み出した国民的アイドル、ピンク・レディーの未唯(mie=49)と増田恵子(49)は1日、悲報に言葉を失った。阿久さんとコンビを組んで2人を育てた作曲家都倉俊一氏(59)は、都内事務所で「2人でまた何かできる時代が来ると話していた」と、早すぎる死を悼んだ。デビュー以来の恩師という和田アキ子(57)ら、多くの歌手が阿久さんを語った。

 阿久さんが審査員を務めていたオーディション番組「スター誕生」から巣立ったピンク・レディーは、76年のデビュー曲「ペッパー警部」に始まり、「UFO」「サウスポー」「渚のシンドバッド」、そしてラストシングル「OH!」まで、阿久さんの作品を歌い続けた。そして、実働5年で、社会現象を起こし、歌謡史の記録も数多く作った。

 未唯は「戸惑い、喪失感でいっぱいです。お顔を拝見するまでは、とても信じる気持ちになれません」とコメントした。一方の増田は、担当マネジャーから連絡を受け、言葉を失った。担当者は「絶句して、とても受け止められない状況です」と代弁した。増田は40周年記念アルバムの制作中で、先日、阿久さんからも祝福コメントが寄せられたばかり。「お元気そうで良かった、と話していた」(担当者)だけに、気持ちの整理がつかないようだ。

 ピンク・レディーの人気は、子供たちが歌や振り付けをまねたことから爆発的に広まったが、歌詞に子供もウキウキするような遊び心をちりばめたのは「従来の流行歌をどう壊すか」をテーマにした阿久さんの狙いでもあったという。本塁打世界記録の巨人王を歌い、モンスターもUFOも飛び出すなど、夢の世界が詞になった。

 作曲家都倉氏も、阿久さんの言葉や時代への敏感さを「よく『僕は時代の上を満たすんだ』と話していました。時代のにおいをかぎ分け、時代に言葉を投げ掛けて語り、時代に生きた人」と振り返った。阿久さんと最後に会ったのは2カ月ほど前だった。ピンク・レディーという時代を作った阿久さんは、その時も「また何かやろう。2人でまた何かできる時代が来るだろう」と意欲的だったという。



▲ 萩本欽一
 「スター誕生!」で阿久さんと共演した萩本欽一(66)は「春に会った時には元気だったからビックリした。とっても悔しいし、残念」と悲しんだ。71〜80年に初代司会者を任され、同番組の企画と審査員を務めた阿久さんと山口百恵、小泉今日子ら多くのアイドルを発掘した。「当時から阿久さんは偉大で近寄りがたかった。会話することは少なかったけど、逆に気持ちよく近づいてくれた人でした。行動力があって、視聴率20%を超えた時には『欽ちゃんは真っすぐを貫いてるね』と褒めてくれて即座に『拝啓 おかあさん』って曲を作ってくれた」。

 年に2回開かれる会合で必ず阿久さんと会っていたという。萩本は「いつも『時代を変えたい』と言ってた阿久さんの話はワクワクしたね。最近は熱い野球の話もしてくれた」と振り返る。今月も同席する予定だったが、悲報に阻まれた。阿久さんの功績については「詞を提供する人の人生が見えた人じゃないかな。『拝啓−』を歌った当時、忙しくて母親のことを思い出す暇もなかったけど、阿久さんは僕の状況を察して『たまにはお母さんを思い出せよ』ってメッセージを込めてくれた」と話した。

 ◇「スター誕生!」 71年10月3日に始まった日本テレビ系オーディション番組。萩本欽一が初代司会者を務め、タモリ、故坂本九さんらが歴任。阿久悠さんら審査員が採点して合否を決める。山口百恵、桜田淳子、ピンク・レディー、中森明菜、小泉今日子らを輩出。合格者がレコード各社の担当者を集めてデビュー枠を争う決戦大会が行われた。放送は83年9月25日まで。視聴率は全盛期に25%を超えた。

▲ ソフトバンク王監督
 阪神ファンで小説「瀬戸内少年野球団」を発表するなど野球を愛し、関連する仕事も多かった阿久さんの死去を野球界も追悼した。ピンク・レディーの「サウスポー」で「背番号1のすごいやつ」と歌われたソフトバンク王貞治監督は「才能豊かな人だった。時代を共有した人が亡くなるのは寂しいね」。球団歌「地平を駆ける獅子を見た」の提供を受けた西武は日本ハム戦の5回終了後に同曲を流し、追悼のメッセージを電光掲示した。阿久さんは、高校野球の選抜大会歌「今ありて」やテレビ朝日系「熱投甲子園」のテーマ曲「ああ甲子園、君よ八月に熱くなれ」の作詞も手掛けた。

▲ 評論家・富沢一誠氏
 阿久さんの死を「すべてにおいて最強の作詞家を失った」と言うのは音楽評論家の富沢一誠氏だ。
 「ヒット曲の数、セールスにおいても、書いた詞の数においても、これ以上の方はいないでしょう。それだけに史上最強と言っても過言ではないと思います」。

 特徴は、企画力の見事さにもあるとも言う。

 「スター誕生」に企画者としてかかわった時から、単なる作詞家ではなくプロデューサーの仕事もした。それまで、歌手、作曲家、作詞家の序列がなんとなくあった世界で、阿久さん以降は、同様にプロデュース的な役割を担う作詞家も出てきた。

 「それは、彼の斬新な企画力であり、また豊かなアイデアマン、戦うチャレンジャーの姿勢によったところが大きいと思いますよ。だからこそ、あれだけ多くの詞が書けたのだと思います」。
 そして、富沢氏自身が阿久さんの作詞の中で、一番衝撃を受けたのが尾崎紀世彦が71年に歌った「また逢う日まで」だという。

 「<歌詞>ふたりでドアをしめて、ふたりで名前消して…とあるでしょう。それまでの男女の別れの歌と違うシチュエーションを描いている。それは時代的にも非常に新しいメッセージだったように思います。阿久さんの作詞には、時代の先端のメッセージを乗せたものが非常に多いんですよ。言葉にメッセージがあった。それは時代、時代の若者には常に刺激的だったように記憶しています」。

▲ 歌手・和田アキ子
 実は、私の上京を東京駅で出迎えてくれたのが阿久さんだったの。私は新幹線を1本乗り遅れていたのに待っていてくれてね。今じゃ笑い話だけど、当時「絶世の美女が来た」って宣伝してくれたのも阿久さん。まだ作家で、私のデビュー曲「星空の孤独」から本格的に作詞家活動し始めた。

 阿久さんの歌詞はそれまでのものとは全然違ったの。「星空の孤独」の歌い出し「胸に広がる孤独の辛さ…」って歌詞は、18歳に見えない私にだから書けたって言ってた。シングルだけで13曲も書いてもらってる。中でもやっぱり72年のレコード大賞最優秀歌唱賞の「あの鐘を鳴らすのはあなた」よね。GS、演歌ブームの当時は、歌詞といったら「雨、酒、男と女」なんかが定番のフレーズだった。なのに阿久さんは「あなたに会えてよかった…」ときた。「誰に向けて歌えばいいですか?」と聞くと「アコが今まで出会ってきた人すべて、生きてきた街すべてを想像して歌うんだよ」って助言してくれた。最初はスケールが大きすぎて私には理解できなかったぐらい。女性が歌う歌でこんなに壮大な曲は、それまでなかったから。

 「私たちホント悪友よね」って言いながら、赤坂辺りでよく飲んだ。悲報は楽屋で知らされて、ぼうぜんでした。私の神レイ・チャールズが逝ったときと同等のショック…。

 ピンク・レディーや沢田研二の歌の方が売れたけど、私は80歳になっても堂々と歌える曲をいただいた。紅白のトリでも阿久さんの作品を3曲も歌わせてもらってる。継承とでも言うのかな、それだけ大きな財産なの。歌手和田アキ子をつくってくれた大の恩人なんです。

▲歌手・八代亜紀
 先生は一見怖そうですが,実際はとても優しかった。話をしていると,泉のようにわき出る言葉で浄化されていくような感じだった。日本人の美学,時代のメッセンジャーとして,誰しも納得する詞を書かれた。「歌が迷子になっている。大人の歌がないので,王道に導いて欲しい」と言っていたのが
印象深い。


◆阿久悠(あく・ゆう) 本名・深田公之
 1937年(昭12)2月7日、兵庫・淡路島生まれ。明大文学部卒。ドラマ「月光仮面」にあこがれ、広告会社「宣弘社」に入社。59〜64年まで勤務後、放送作家を経て65年ごろから作詞活動。71年「また逢う日まで」(尾崎紀世彦)や75年「北の宿から」(都はるみ)などヒット曲を量産。日本レコード大賞受賞曲は「UFO」(ピンク・レディー)など5曲。手掛けた曲は5000曲を超え、99年に紫綬褒章を受章。著書には映画化もされた「瀬戸内少年野球団」など。30周年を迎えた97年に14枚組CD「移りゆく時代、唇に詩」を発売。家族は妻雄子さんと1男。


 ◆阿久悠さんの代表曲◆

69年 白いサンゴ礁(ズー・ニー・ヴー)

70年 白い蝶のサンバ.笑って許して.ざんげの値打ちもない

71年 また逢う日まで(尾崎紀世彦)

72年 あの鐘を鳴らすのはあなた(和田あき子).どうにもとまらない(山本リンダ)
   .せんせい(森昌子)

73年 ジョニーへの伝言(ペドロ&カプリシャス).個人授業(フィンガーファイブ)

74年 宇宙戦艦ヤマト(ささきいさお)

75年 ロマンス(岩崎宏美).北の宿から(都はるみ)

76年 青春時代.ペッパー警部(ピンク・レディー).津軽海峡・冬景色(石川さゆり)

77年 勝手にしやがれ(沢田研二).UFO(ビンク・レディー)

78年 林檎殺人事件(郷ひろみ.樹木希林)

79年 舟唄(八代亜紀)

80年 雨の慕情(八代亜紀)

81年 もしもピアノが弾けたなら(西田敏行)

84年 北の蛍(森進一)

85年 熱き心に(小林旭)

86年 時代おくれ(河島英五)

88年 港の五番町(五木ひろし)

94年 花のように鳥のように(桂銀淑)

95年 美し都(うましみやこ)〜がんばろやWe Love KOBE〜





●【 小田実さん(作家)が胃がんのため死去.75歳 (7月30日)】


 ベストセラー旅行記「何でも見てやろう」やベトナム反戦活動、テレビ朝日系「朝まで生テレビ!」の論客としても知られた作家小田実さん(おだ・まこと)が07年7月30日午前2時5分、胃がんのため東京都中央区の病院で死去した。75歳。大阪府出身。今年4月に末期がんであることを公表し病室からも平和への発言を続けた。護憲を訴え続け、改憲路線をひた走る安倍晋三首相(52)率いる自民党の参院選惨敗を見届けるようにして逝った。

 小田さんは亡くなるその瞬間まで護憲の闘士だった。今年4月、知人らにあてた手紙で末期がんであることを公表。翌月に都内の病院に入院してからも、抗がん剤の化学療法を受けながら、病床から護憲平和の大切さを訴え続けた。だが、先月中旬以降からがんの進行と体力の衰弱が激しくなり、最期は眠るようにして逝ったという。

 昨年9月に発足した安倍政権の掲げる改憲路線には、徹底して反発した。公式ホームページでも「現行の憲法を『改憲』してまで、『改憲』を彼の政策の『公約』に掲げてまでして彼の『美しい国』を実現しようとする政治姿勢」への批判を貫いた。くしくも亡くなった30日は、安倍氏率いる自民党が歴史的大敗を喫した時だった。作家沢地久枝さんは「自民党の惨敗を見届けるような時間に亡くなったのは、いかにも小田さんらしい。作家、市民として存分に闘い、見事な人生でした」と悼んだ。

 小田さんの平和を求める原体験は、13歳で体験した大阪大空襲にあった。そこで、目の当たりにした死者を「難死」(無意味な死)と呼び、国から見捨てられた「棄民」の怒りから、平和活動に生涯をかけた。

 61年の著書「何でも見てやろう」では、欧州や中近東、アジアなどを旅行した体験をつづり、多くの若者の支持を得た。帰国後の65年には「ベトナムに平和を! 市民連合」(ベ平連)を結成。代表として反戦デモの先頭に立ち、ベトナム戦争で北爆を開始した米国を批判。その後も「行動する作家」の姿勢を貫き続け、韓国の反体制詩人金芝河さんの救援活動も展開した。04年には、平和憲法を守る「九条の会」の呼び掛け人になった。テレビ朝日系討論番組「朝生」のパネリストとしても積極的に出演。日本で護憲を語れる数少ない論客として、ブラウン管を通じて「戦後」を知らない若い世代に平和を訴え続けた。


◆作家 藤本義一さん 
2人とも大阪で空襲の現場を見た経験がある。おれは戦争とはそんなものと思うところもあったが、彼は強い怒りを持って記憶していた。そういう違いがある。1本筋を通した男。おれとは生き方が違うが立派だったと思う。


◆作家 瀬戸内寂聴さん 
お医者さんからもう駄目だと言われてからも、納得できず「死にたくない。どうしても生きたい」と話しておられた。まだ書きたいことがあったのだと思う。常に行動して走っていて、同じ戦線に立つ同志という意識を持っていた。



◆小田実(おだ・まこと)
 1932年(昭和7年)6月2日、大阪生まれ。東大大学院在学中に、フルブライト留学生として米ハーバード大学で学ぶ。61年の旅行記「何でも見てやろう」はベストセラーに。ベ平連や「九条の会」の活動で、行動する作家として平和活動に取り組み続けた。88年、小説「HIROSHIMA」でアジア・アフリカ作家会議のロータス賞。97年には「『アボジ』を踏む」で川端康成文学賞。


カルメンチャキ |MAIL

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