女の世紀を旅する
DiaryINDEXpastwill


2002年11月25日(月) 時代劇映画「海はみていた」はおもしろい

映画「海はみていた」(熊井啓監督)
                  2002.11.24


 近年,日本の時代劇がおもしろい。血わき,肉おどるのである。熊井監督はなにより江戸の風情や人情が感じられるいい映画を作ってくれた。清水美砂・遠野凪子らをはじめとした女優陣の存在感も光っており、皆それぞれ違う個性の粋な女を見せてくれる。やはり熊井監督の力量なのだろう。

 日本人が愛した「粋」という生き方は、言葉ではなかなか説明し難いものだが、それがこの映画では直裁的に伝わってくる。映像やセリフのはしはしに上手に表現されており,胸にこみあげてくる懐かしさがあった。

何とも言えぬテイストな映画であり、黒澤色というより熊井色が濃いものとなったが,黒沢色を意識したものも感じられた。

 舞台となる女郎屋の窓の外は葦が生い茂る草原、その向こうの広大な青い海。その四季を通じての美しい情景。娼婦たちのリアクション。こういった映像方法や集団演技の感じが黒澤風であった。
また、さすが黒澤脚本、ラストはかなり過酷な嵐の中で男の闘いが、、、。しかし闘いはさほど印象に残らないよう抑制されている。総じて男優陣は女達の存在感を際立たせるよう脇役として配慮されている。

 あくまで女性が主役の映画。「お新」役の遠野凪子はたしかに女郎というよりは農家の素朴な娘という感じではあるが,それがかえってこの映画を面白いものにしている。NHK連続ドラマ出身と聞いてなるほどの清楚な美。つみきみほも良い。
 女郎屋のおかみ役の野川由美子も粋で板についており,味わい深い。かつての映画「肉体の門」では、「海はみていた」のお新に相当する役だっただけに、まさに正当な継承が行なわれた感じだ。

ともあれ女優陣の大健闘が光った映画である。 映画自体は「赤ひげ」の山本周五郎作品と同じく、下町庶民の、特に女郎屋をめぐる人情噺が展開する。

そこでの庶民の哀感をほぼ清水美砂、遠野凪子の2人を軸に表現している。この2人が演技が迫真にせまっていて,観るものを飽きさせない。

あの恐ろしい洪水のラストシーンに持って行くため、出演者がひとり、またひとりと何となく退場していく。確かに人数が多いままでは処理できないクライマックスは、完全に黒澤風の力感のこもった場面である。最後のシーンの,熊井監督の言う「水と星空」のメルヘン風の描写に違和感を覚える人もいるかもしれないが,実はあれこそは黒沢明が映画「夢」などで好んで表現した現実と虚構のイマージュであり,その美的シュールさを伝えたかった熊井監督はこの映画のラストシーンに用意したとみるべきで,もちろん観客が驚くのは計算の上なのである。

 存在感が光る清水美砂の演技が黒澤作品に見られるような強さと美しさを醸成していて印象的であった。また脇役ながら石橋蓮司・奥田瑛二・永瀬正敏・吉岡秀隆などの個性的で,存在感がある男優陣の演技も,この映画を優れたものにしている。




熊井 啓 × 黒澤 明 × 山本周五郎


●監督 熊井 啓  Kei Kumai

1930年6月1日、長野県生まれ。
 旧制松本高校文科を経て、信州大学卒。独立プロから54年再始動した日活撮影所に入社。阿部豊、田坂具隆、久松静児ら実力経験共に豊かな監督の助監督につく。64年監督デビュー作『帝銀事件・死刑囚』を発表。

●脚本 黒澤 明 Akira Kurosawa

1910年3月23日、東京都生まれ。
 画家を目指し18歳で二科展に入選。36年、P・C・L映画(東宝の前身)に入社。 以後、伏水晃、山本嘉次郎、滝沢英輔らの名監督に助監督としてつく傍ら、『達磨寺の独逸人』など多くの脚本を手掛ける。38年『籐十郎の恋』(山本嘉次郎監督)でチーフ助監督、翌年『馬』でB班監督に昇進。43年『姿三四郎』で監督デビュー。

●原作 山本 周五郎−Shugoro Yamamoto

1903年6月22日、山梨県生まれ。
  横浜市の西前小学校卒業後、東京木挽町の山本周五郎商店に徒弟として住み込む。やがて関東大震災に遭い、一時期関西へ逃れる。26年4月「須磨寺附近」が文藝春秋に掲載され、文壇出世作となったが、この作品は関西時代の体験に基づいている。「日本婦道記」が43年上期の直木賞に推されるも受賞を固辞。58年、「樅ノ木は残った」完成。本作『海は見ていた』は「なんの花か薫る」と「つゆのひぬま」の2篇で構成されている。この2篇は周五郎の"岡場所もの"といわれる名作で、「なんの花か薫る」は56年、週刊朝日別冊で、「つゆのひぬま」は56年、オール讀物12月号で、それぞれ発表された短編である。 1967年2月14日他界。享年63歳。



●ストーリー

江戸・深川。将軍のお膝元である八百屋町の町の中でここは、大川(隅田川)の向こう“川向こう”と称され、吉原、辰巳の遊びに飽きた粋人や訳ありの衆が集う岡場所(私娼地)がある、葦繁る外れの町とされていた。
そんな深川のお女郎宿“葦の屋”で働く、まだ若く器量よしのお新(遠野凪子)は、女将さんやら姐さん方から「客に惚れてはいけないよ」と哀しい掟を教えられていた。

 ある夜、お新は町で喧嘩して刃傷沙汰を起こし逃げてきた若侍・房之助(吉岡秀隆)をかくまってやる。気丈で優しいお新の人柄に惹かれた房之助は、勘当された身の上ながら彼女の元に通いつめる。「惚れてはいけない」と思うお新は、会うことを拒み悩むが、房之助の「こんな商売をしていてもきっぱりやめれば汚れた身体もきれいになる」という言葉に心動かされる。その言葉を立ち聞きして感動した姐さんたちは、彼女のために一肌脱いでやろうと提案する。姐さん衆のまとめ役、菊乃(清水美砂)は、気のいい隠居善兵衛(石橋蓮司)の身請け話とヒモの銀次(奥田瑛二)との腐れ縁が断てず悩みを抱え揺れている分、お新の純な恋を暖かく見守る。

 そんな恋路にも終わりが来る。房之助が勘当を許された報告にやって来た際、お新と姐さんたちに自分の婚礼の話を晴れやかに告げたのだった。憤りを隠せない姐さん衆、突然の告白に動揺するお新。そんな彼らに房之助は当惑する。 彼はただ、お新を姉妹のように慕っていただけだったのだ。 一時は寝込むほど傷ついたお新も、徐々に立ち直りかけていた。 そんな彼女の前に一人の謎めいた青年が現れる。名を良介(永瀬正敏)と言い、寡黙な彼が少しずつ自分の厳しい生い立ちを語るにつれ、同じ境遇の宿命を背負った人間だと、お新は理解する。 不幸に打ちのめされ、自暴自棄になった良介を優しく励ますお新に対して、菊乃は「そんな男はヒモになるのがオチだ」と諦めるようにさとすのだが...


【CAST】

●菊乃:清水 美砂
 87年、山田大樹監督作品『湘南爆走族』でヒロインデビュー。91年、桑田圭祐監督作品『稲村ジェーン』で第14回日本アカデミー賞新人賞を受賞。

●お新:遠野 凪子
 小学生から子役として芸能活動を始める。大河ドラマ「八代将軍吉宗」(95)で近松門左衛門の子女役で話題になった。

●良介:永瀬 正敏
 83年相米慎二監督作品『ションベン・ライダー』で主演デビュー。89年のカンヌ国際映画祭で最優秀芸術貢献賞を受賞したジム・ジャームッシュ監督作品『ミステリー・トレイン』の1話に主演し国際的な知名度を得た。

●房之助:吉岡 秀隆
 4歳で劇団若草に入り77年野村芳太郎監督作品『八つ墓村』で映画デビュー。81年TVドラマ「北の国から」の純くん役で好演し注目を浴びた。

 




2002年11月21日(木) 《 米国の最終目標は北朝鮮の体制崩壊にある 》

《北朝鮮の体制崩壊を望む米国》
                 2002.11.21




 先週,日米韓3国はもしも北朝鮮が核兵器開発を放棄しない場合、重油供給を12月から停止することで合意した。これは大きな意味をもっている。そうなれば北朝鮮の電力供給は断たれ,北朝鮮の社会経済生活に大きな打撃を与えることとなろう。

 さらに建設中の軽水炉原発も今後の北朝鮮の出方次第で見直すことを決めた。ブッシュ大統領は金正日(キムジョンイル)総書記に対する嫌悪感を公然と表明しており,北朝鮮の体制崩壊も視野に入れて対応策を打ち出す構えだ。

 いよいよ北朝鮮体制にとって最大の試練が訪れようとしている。今後,数年の間に朝鮮半島の情勢は大きな激動期をむかえるので,目が離せない。





●フッシュ大統領の最終目標は北朝鮮の体制崩壊に存する

 ブッシュ大統領の北朝鮮に対する強い不信感はよく知られている。

 2001年3月米韓首脳会談で、金大中(キムデジュン)大統領が太陽政策への支持を求めたのに対し、ブッシュ大統領はあからさまに金正日総書記には「疑念(Skepticism)」を持っていると発言した。また今年の年頭教書では、イラク、イランと並べて北朝鮮を「悪の枢軸」と非難したことなどにもそれは窺える。この時、すでにブッシュ大統領は北朝鮮が核兵器開発を再開したとの情報を持っていたと思われる。


 米情報機関が北朝鮮の核開発再開の兆候を掴んだのは2年前である。その後も情報は増え続け、去年夏には動かぬ証拠を入手したという。だが、ブッシュ政権はこれを隠して表に出さなかった。「悪の枢軸」の筆頭、イラクのフセイン政権の大量破壊兵器に対する対応が第一の優先課題だったからだ。


 11月11日の朝日新聞によれば、米国の北朝鮮政策に詳しいキャンベル元国防次官補は同日、東京で朝日新聞記者と会見し、ブッシュ政権が北朝鮮問題を「イラク攻撃の準備のため先延ばししているが、最終的な目標は対イラク政策と同様、体制の改革ではなく、体制の崩壊を目指すことになろう 」と述べたという。ブッシュ政権はフセイン打倒を目指しているが、それと同じ程度で、北朝鮮の体制崩壊を視野に入れているとの見方である。


 米議会上院のヘルムズ議員、下院のマーキー議員など共和民主両党の5議員も10月30日、ブッシュ大統領に手紙を送り「同盟国と協力して北朝鮮のスターリン主義的政権の変革を積極的に進めるべきだ」と要求した。米政権内だけでなく、議会にも北朝鮮の体制変革が必要との主張が強まったことを示している。





●ブッシュ大統領は金正日に対する嫌悪感を隠さず

 ブッシュ大統領は8月20日、『ブッシュと戦争』の著者ボブ・ウッドワード記者のインタービューに答え、金正日総書記に嫌悪感を持っていると次のように述べた。

 「私は金正日を嫌悪している。国民を飢えさせるようなこんな男には心底から腹がたつ」。国際政治のリーダーがこのような感情的な発言をする是非はともかく、同様の嫌悪感がブッシュ政権のメンバーや議会内に高まっているのは間違いない。

 北朝鮮が国際条約を守らず、国民が飢餓状況に瀕しているにもかかわらず強大な軍事力に力を注ぎ、約束を破って核兵器開発を再開したという反感である。

 実は、北朝鮮の核開発問題は、1980年代末ブッシュ大統領の父親ブッシュ元大統領の時代からだ。同元大統領はこれを抑えるために1992年、初めて北朝鮮政府を相手に米朝高官協議を始めたという経緯がある。同協議をクリントン政権が引き継ぎ、1994年に枠組み合意を結んだ。北朝鮮が核兵器開発を放棄する代わりに、日米韓などが軽水炉2基と重油年間50万トンを無償で提供するという約束がこの時成立する。


 しかし、共和党はこの枠組み合意が北朝鮮に譲歩しすぎているとクリントン政権を批判。ブッシュ大統領は就任すると直ちに北朝鮮政策の再検討を指示した。この背景には、合意内容への不満だけでなく、すでに当時情報機関が入手した情報から、同大統領は北朝鮮が核開発を再開、合意を破ったとの疑惑を持ったためだ。


 この疑惑は今年10月4日、北朝鮮自身が核開発を公然と認めたことで確認された。同時に、北朝鮮は「相手の侵略、脅威が現実化しているもとで、我々が各種兵器(化学・生物兵器)を製造し、武装するのは当然である」(11月2日、北朝鮮外務省スポークスマン)などと開き直り、合意違反を正当化して憚らない。こうした一連の北朝鮮当局の姿勢が、ブッシュ政権や議会内にまともに相手にできない国との不信感を一層つのらせている。





●重油供給停止は圧力の第一段階

 ブッシュ政権は重油の停止を11月分から実施する方針だった。だが、これを実施するには、11月14日にニューヨークで開催するKED0理事会で各国が承認する必要があった。このため、同政権は同月の重油供給分4万トン余りを積んで北朝鮮に向かっていたタンカーを東シナ海で停止させた。理事会の承認後タンカーを引き返させる積もりだった。


 しかし、理事国の日本と韓国が11月分からの停止に強く反対した。結局、11月分の供給は続け、12月分からの停止で合意した。金大中大統領の韓国政府内には、来年1月まで供給を続けるべきだとの主張もあった。


 朝鮮半島の厳しい冬に配慮しての要求だったが、これはブッシュ政権が強く反対して抑えた。韓国の「朝鮮日報」紙は11月16日の社説で、「北朝鮮に対する圧力措置の第一段階がついに発動された」と述べ、重油供給停止が本格的な危機に発展しかねないとの見方を示した。

 米国が枠組み合意に基づいて供給する重油50万トンは、北朝鮮の全エネルギー生産量の15%から20%に相当するといわれる。特に首都ピョンヤン(平壌)周辺の発電に重点的に使われ、首都機能の維持には欠かせないという。米政権はこの供給を1年に10回に分け、4万トン余りずつ運んでいた。北朝鮮が軍用に転用するのを防止する目的からだが、この結果備蓄がなく、供給停止はただちに発電量の大削減につながるとみられ,厳冬下の民生に大打撃を与えるのはまず間違いない。





●圧力の第二段階は軽水炉建設の中止

 KED0理事会は11月14日の声明で、北朝鮮が「核開発計画を完全に放棄する行動をとらなければ、その他のKED0の事業も見直されるだろう」と述べ、重油供給停止に続いて、軽水炉原発の建設も北朝鮮の出方次第で見直すことを明らかにした。圧力の第二段階の予告である。

 枠組み合意では、軽水炉1基を2003年までに提供し、もう1基をその後1年ないし2年以内に竣工するという約束だった。経費は46億ドル。日朝国交正常化で、日本の経済協力資金は50億ドル、ないし100億ドルと言われるが、その額に匹敵する巨大プロジェクトである。軽水炉経費は韓国が70%の32億ドル余りを負担、日本は10億ドルの負担が決まっていた。

 だが、この建設工事が大幅に遅れている。その理由は北朝鮮が軽水炉を韓国型とすることに反対した他、工事にあたる北朝鮮労働者に対して高額な賃金を要求、調整に手間取って着工が遅れ、今年夏ようやく基礎工事のセメント注入まで進んだ。今後、順調に推移しても最初の1基の完成は2007年で、予定より4年は遅れる。工事の遅れで建設費用がかさむ他、米政権の重油供給期間も長期化することになった。


 これに加えて核査察の問題もある。枠組み合意では、軽水炉の原子力関連部品の引渡し前、北朝鮮はIAEA(国際原子力機関)の完全な査察を受けることが決まっている。IAEAは完全な査察には3〜4年が必要だとして今年初めから北朝鮮に実施を要求しているが、北朝鮮はまだ回答していない。パウエル国務長官は2月13日、下院歳出委員会の証言で「北朝鮮が査察を受けなければ軽水炉事業を中断する」との方針を示した。


 米情報機関は北朝鮮が94年当時の核開発でプルトニウムを抽出、これを材料にして核爆弾1−2個を製造、現在保有しているとみている。それに今回のウラニウム濃縮による核開発の再開問題が加わった。北朝鮮がIAEAの査察を拒み続ければ、軽水炉事業の中断はもちろんのこと、問題は国連安全保障理事会に移ってさらに強い制裁が加わわることになる。





●外交手段による解決ははたして可能なのか

 ブッシュ大統領は10月17日の声明で、北朝鮮の今回の核開発問題を外交的手段で解決するとし,そのため日米韓と中国、ロシアの5カ国で「共通の戦略」を立てるという方針を表明した。重油供給停止はこの方針に沿って実施されたものだ。しかし、このあとの対応についてはまだ決まっていない。イラクと同じように、政権の打倒を目指すのかについても政権としての方針は出ていない。

 この点について、ブッシュ大統領は上記ウッドワード記者のインタービューで次のように語っている。
「私の周囲は北朝鮮に対して急いで行動する必要はないと言う。経済的負担も膨大だと言うのだ。しかし、この男(金正日総書記)を倒さなければならないのだとしたら、誰がそれを実行するのか。私は周囲の意見には組みしない。もし、君が自由を信じ、北朝鮮の人権状況を考えるなら、君もそうするだろう」。

 ブッシュ大統領の本音が金正日政権の打倒だということがこの発言から読み取れる。3ヶ月前の発言だが、この考えは現在も変っていないだろう。問題は、外交的手段だけでそれを実行することが可能かどうかである。

 イラクの大量破壊兵器問題は、査察チームが作業を開始したが、まだ予断を許さない。ブッシュ大統領はイラク側の今後の対応次第で軍事行動の決断をすることになるだろう。その可能性が高いと思われる。

 それゆえ北朝鮮問題の本格的な取り組みはそのあとになる。今後も北朝鮮が核兵器開発の放棄に応ぜず、あくまでも拒否し続けた場合、外交手段だけで目的を達成できないだろうことは明らかである。

 いずれにせよ北朝鮮の金正日体制の延命は長続きしないだろう。今後,数年以内に異変が起こるのは必至である。


2002年11月06日(水) 拉致事件を放置してきた「ひよわな国・日本」

《拉致事件を放置してきた「ひよわな国・日本」》

                   2002.11.6






 なんと24年間も日本政府やマスコミは拉致事件にフタをし,証拠が数多くあるのにそれを放置してきた。国家が国民を守る意志がなかったといえよう。

 拉致された人々の多くが死んでいる事実に直面して事の重大さに気づき,大騒ぎしている。その対応があまりにも遅すぎるのである。

 拉致事件被害者の話は日本の安全保障の欠陥を明確にえぐりだした。沿岸に北朝鮮の工作船が接近、住民を拉致した。それが何度も何度も続いたのに、日本政府は何の対策も講じなかった。

 政府、警察、政党、いずれも動かず、新聞・テレビなどマスメディアも報道しなかった。こんな恐ろしい事件を単なるデマとしてしまったのだ。国民を守るという意識がまったくはたらかなかった。もし、沿岸警備を強化し、工作員の活動を警戒し、国民に情報が伝わっていれば、事件は防げたのではないかと思わずにはいられない。

 唯一,日本のタブーに挑戦した気骨のある記者がいた。産経新聞記者の佐伯浩明氏である。彼は,10年ぐらい前から拉致された人々を救済する報道キャンペーンをはり,ネットで拉致の真相を告発するなど孤軍奮闘してきた。その他のマスコミがこの事件を取り上げず,黙殺していた時期に「拉致は日本の国家主権の侵害である」と訴え続けていたのが印象的である。




●国民の安全を守る意識の欠如

 北朝鮮が拉致事件を認めたあと、関係者が手記や談話を出した。その中の一つ、拉致被害者有本恵子さんの母親嘉代子さんが雑誌に掲載した手記で、次のように書いている。1988年9月、同じ拉致被害者の石岡享さんから札幌の実家に有本さんら3人と北朝鮮にいるとの手紙が届いた直後のことだ。

「石岡さんのご家族は手紙をすぐに札幌の社会党に持っていき、私たちはコピーを警察に持っていきました。恵子は、あの手紙が何らかのかたちで北朝鮮にばれたので殺されたのかもしれません。警察が漏らすはずはないと思います。北朝鮮に言ったのは、当時の社会党ではなかったかと思っています」。

 嘉代子さんは続けて書いている。「外務省に行った当初は、国交がないからどうしようもないで終わりでした。・・・大阪の弁護士会、日弁連にも行きました。でも、政治家も役所もみな隠蔽しようとするばかりでした。マスコミにも内容証明付きの手紙で訴えていましたが、ほとんどが無関心でした」。国民の安全を守るべき機関が機能を果たしていない、というより、危害を加える存在とさえ認識されているのだ。

 それは、日経新聞の元記者杉嶋岑氏が9月20日朝日新聞のオピニオン欄に掲載した次のような文で一層鮮明になる。同氏は1999年12月、北朝鮮を訪問中にスパイ容疑で逮捕され、今年2月釈放された。「私はスパイ容疑で抑留された直後、ズボンのベルトを首に巻いて死のうとした。日本国に迷惑を掛けてはいけないという思いからだった。が、私が日本で公安関係者に提供した情報が北朝鮮側に筒抜けになっていたことを知り、自ら命を絶つことも、黙秘することもやめた」。

 日本の公安関係者が国民から提供された情報を相手国に筒抜けにするという、何とも言いようのない状況の指摘である。国民を守る立場の公安関係者がその国民を危険に陥れるようなことをする。政府は何のために存在するのか、もう一度原点に戻って考え直してもらいたくなる。考えてみれば、国民の安全確保という原点を忘れた、この公安関係者の意識は彼らだけの特異なものではない。国民が拉致されていることを知りながら、何の手も打たなかった政府、警察、政党など、すべてに共通するものと言わざるをえない。




●朝鮮半島情勢に現れていた拉致の前兆

 拉致事件は、1977〜78年と1980〜83年の2つの期間に集中している。このほかにも、まだはっきりしない事件が多数あるが、この発生件数の集中が当時の朝鮮半島の状況を反映したものであることは疑問の余地がない。

 1960年代後半、北朝鮮はいわゆる武力南進の方針を推し進め、ゲリラを韓国に進入させる。68年の韓国大統領官邸襲撃では、31人の特殊部隊が38度戦を越えて侵入、ソウルの大統領官邸にあと2キロまで迫った。また、東海岸一帯にはゲリラ部隊が侵入し、韓国軍と激しい戦闘を展開する。一方、ソウルなど主要都市には多数の政治工作員が潜入して反政府活動を組織した。

 この頃は、38度線や東海岸から直接侵入する例がほとんどだった。これに対し、当時の朴正熙政権は韓国全土で警備態勢を固める。38度線の南には鉄条網と地雷原、要所にコンクリートで高い防壁を築いた。また、海岸を立ち入り禁止とし、軍と住民が民間防衛隊を組織して交代でパトロールする。ゴルフ場は夜になると数メートル間隔で鉄線を張り、飛行機の着陸を防ぐ工夫をした。

 これと並行して、国民の生活も戦時態勢になった。夜は外出禁止、自宅は外部に光がもれないように灯火管制、国民ひとり一人が写真と指紋入りの身分証明書を携帯、買い物や映画館の入場にも提示を義務づけた。そして、週1回敵の攻撃を想定した避難訓練を実施し、国民全員の参加を義務付けた。こうして、ゲリラや工作員が潜入しても活動できないようにすることを狙ったのだ。

 日本ではこのきびしい警戒態勢を朴正熙政権の強権政策と批判的にみた。だが、70年代になると、北朝鮮工作員が38度線や海岸から侵入する例は次第に少なくなり、代わって日本経由で、日本人になりすまして入国する例が増える。韓国の警戒態勢が効果をあげる一方で、無防備な日本が狙われたのだ。それを示すのが、1974年8月15日に起きた朴大統領狙撃事件である。その後の拉致事件につながる数々の動きがこの事件の背後ですでに起きていた。




●狙撃事件が示唆した日本の工作基地化

 8月15日、日本は終戦記念日だが、韓国は独立を回復した光復節だ。政府は毎年記念式典を催し、大統領が正午に全国向けの演説をする。この日も、朴正煕大統領が演説中、在日韓国人青年の文世光がピストルを構えて演壇に突進し、大統領を狙撃。弾はそれて演壇脇の大統領夫人が犠牲になった。

 韓国警察の発表によれば、文世光は大阪で北朝鮮の工作員に誘われ、反韓国活動のグループに入った。そして、大阪府警高津派出所でピストルを盗み、複数の工作員の指導で射撃やゲリラ訓練をし、日本人のパスポートを使ってソウルに来た。この彼の自供に基づいて、韓国警察は日本が北朝鮮の対南工作の拠点になり、それに朝鮮総連が関係しているとの調査結果をまとめる。

 そして、韓国政府は日本政府に対して、朝鮮総連の活動規制、工作員の出入国監視の徹底などを要求した。しかし、当時の田中角栄内閣は狙撃事件に日本警察のピストルが使われたことを謝罪したものの、朝鮮総連や工作員の規制は日本の国内法に基づいて処置すると回答し、明確な姿勢を示さなかった。

 国内では、北朝鮮と友好関係にある革新陣営が規制に強く反対した。田中首相も、自民党実力者の福田、三木両首相候補が政権から離脱して指導力を失い、反対を押し切って朝鮮総連を規制する政治力はなかった。

 一方、日本の警察は、文世光がピストルを盗み、日本人のパスポートを不正に使って出国したことを捜査で裏付けた。さらに捜査を進めるには、韓国政府に対して文世光を直接取り調べる要求を出す必要があった。

 しかし、日本政府はそれをしない。事件から4ヵ月後の12月、韓国は文世光を処刑した。日本が北朝鮮工作員の活動を直接確認する機会は失われ、対策もたてられなかった。




●マスコミが看過した最初の重大な拉致事件

 警察が確認している最初の拉致事件は、朴大統領狙撃事件から3年後の1977年9月19日に起きる。三鷹市役所警備員久米裕さん(当時52)が石川県能都町の海岸からボートで拉致された。警察は久米さんと旅館に同宿した在日朝鮮人男性を逮捕。男性の自宅から乱数表、暗号解読表などを押収。その男性は北朝鮮から「45〜50歳の独身男性の拉致を指示された」と自供した。

 しかし、警察は男性を起訴せずに釈放する。被害者久米さんの被害届や供述がなく、公判を維持できないという理由だった。地元ではうわさが立ったものの、大きな関心を集めなかったという。新聞は2ヵ月ほどして「久米さんが工作船で北朝鮮に運ばれた」という趣旨の記事を出しただけだった。

 事件はその後も連続し、1977〜78年に警察が認定しているだけでも9人が拉致された。いずれも地元の関係者以外は関心を持たず、マスメディアも取り上げない。ただ、証拠となる材料は増えている。

 78年8月15日、富山県小杉町で起きたアベック男女拉致未遂事件では、ゴム製のさるぐつわ、手錠、布袋が現場に残されていた。犯人は4人の男で、彼らが話す日本語は明らかに外国人の発音だったという。

 警察の調べでは、これら証拠品のうちさるぐつわに使われたゴムは国内の製品ではないことがわかった。この未遂事件の前1ヶ月余りの間に、新潟県柏崎市、福井県小浜市、鹿児島県吹上浜など3カ所で、2人連れの男女3組が拉致されていた。しかし、この一連の事件に関連があることを地元警察が気づき、市民が沿岸警備に協力する態勢を組織するのはなんと10年後のことである。




●頻発した拉致事件,それなのに対応が遅れたのはなぜなのか

 韓国の厳重な警戒態勢にくらべ、日本はほとんど何の対策もとらなかった。皆無にひとしい。しかし、日本が北朝鮮の工作基地に利用されていることは半ば公然の事実だった。

 毎晩、短波で不思議な放送が流れることはラジオを聞く多くの人が気づいていた。外国語の数字が繰り返し流される。このことばが朝鮮語であることは容易に想像できたのだ。警察庁も郵政省電波管理局ももちろん知っていた。

 最初の拉致と記録されている久米裕さんの場合、逮捕された在日朝鮮人は乱数表と暗号解読表を自宅に隠していた。これらの証拠と放送の内容を照合すれば、事件の背景に何があり、どこから拉致の命令が出たかわかったはずだ。

 しかし、警察庁はそのような捜査をしたのかどうかも公表しない。電波管理局も怪しい電波を規制しない。冷戦時代、自由陣営と共産陣営はお互いに相手側の宣伝放送に妨害電波を出した。しかし、日本は工作員向けの電波と知りながら放置したのだ。

 海上保安庁は最近の不審船には目を光らせるようになったが、当時の工作船の侵入は警戒の主な対象ではなかった。一方、外務省も工作員が日本人のパスポートを不正使用しているのを知りながら何の対策もとらなかった。発給したパスポートの追跡調査くらいはできたはずなのにである。

 


●拉致を放置した責任は政党と政治とマスコミにある

 安倍官房副長官は10月19日の講演で、民主党の菅直人前幹事長、社民党の土井たか子党首を「間抜けな議員」と批判した。理由は、韓国が1985年北朝鮮工作員辛光洙に死刑判決を言い渡したのに対し、両議員が釈放の嘆願をしたためである。

 辛は80年6月17日、大阪の原敕晃さん(当時43歳)を拉致し、5年後に原さん名義のパスポートで韓国に潜入して逮捕され、拉致も自供した。

 菅前幹事長、土井党首がこの嘆願書に署名したのは死刑判決確定から4年後の1989年だという。

 菅前幹事長はインターネットのウェブサイトで、「辛容疑者が含まれた政治犯釈放の要望書に名を連ねていたとすれば私の不注意。おわびをしたい」と述べている。また、社民党は,安倍氏の発言に対し,衆院議員運営委員会で、自民党に対して「公党の党首に対して由々しき発言であり、謹んでいただきたい」と主張した。

 この両議員の反応には原さんという日本国民が拉致されたことに対する責任がまったく感じられない。議員は国家の目的を遂行するため国民から選ばれている。一方、原さんの拉致はその国家の目的の一つ、国民の安全が守れなかった例だ。

 両議員が辛死刑囚の釈放嘆願をしたことは、その責任を認識せず、逆に日本国民の安全を犯した辛死刑囚に組したことを意味する。不注意ではすまされない行動である。

 この両議員の行動はかつての日本の革新陣営の政治家と政党の拉致事件についての認識をよく示している。1989年当時、両議員が所属した革新陣営は北朝鮮との友好を重視、韓国には距離を置いていた。

 冷戦時代から日本国内に強く根付いた政治状況だ。この陣営にとって、拉致事件などありえないことであり、辛死刑囚が韓国警察に原さんの拉致を自供しても、それを信じることができなかったのだ。

 菅前幹事長がインターネットの釈明で、「辛容疑者が含まれた政治犯釈放の嘆願書に名を連ねていたとすれば私の不用意」と述べているのは、革新陣営のいわば「皆で渡れば怖くない」的な動きに菅氏が深い考えもなく便乗したことを正直に告白たものと受け取れる。政治家としてはこれも無責任と言うほかないだろう。




●もっと拉致疑惑を政治問題化していたら事件の幾つかは防げたはず!

 阿部官房副長官は10月25日、衆院議員運営委員会の理事会で間抜け議員と発言したことを「不適切だった」と釈明、民主党と社民党が了解して決着した。日本の国会運営の典型的なパターンだ。野党が噛み付けば、たとえ正しいと思っていても引き下がるのだ。

 重要法案を会期中に成立させるための妥協である。この日本の政治パターンが安全保障問題の議論を敬遠する風潮をつくった。野党を刺激するからだ。そして、拉致を安全保障の問題として真剣に取り組まない結果を招いたのだと思う。

 日本は憲法で軍備を否定し、国の安全は平和的手段で達成すると誓っている。戦後、幸いなことに日本を軍事力で攻撃する国はなかった。しかし、北朝鮮の対南工作の拠点となり、日本国民が拉致されている。国民の安全は保障されていないのだ。日本はこのギャップに早く気づくべきだった。

 政府が拉致を正式に認めるのは1988年3月、参院予算委員会で共産党の橋本敦議員の質問に対し、当時の梶山国家公安委員長が「恐らくは北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚でございます」と答弁した時だ。

 久米裕さんの事件から11年後である。警察は公安事件として一連の事件を捜査していたが、それまで公表はしなかった。北朝鮮と友好関係にある革新陣営の存在が公表を控えさせたとみてよい。その間、対策をたてることもなかった。また自民党にも北朝鮮との友好を積極的に推進する金丸派(野中幹事長)の影響力があったことが,事件の公開を隠蔽する方向に働いた。

 もし、日本が1974年の在日韓国人による朴大統領狙撃事件の時から事態の重要性に気づき、対策をたて、マスメディアがそれを大々的に報道していれば、その後の展開はまったく違っていたでだろう。国民が恐怖心と警戒心を持つこともできたはずである。その結果、事件の幾つかは防止しえたと思えるのだ。


2002年11月03日(日) 韓国探訪 (1) 「トウガラシの韓国,ワサビの日本」

韓国探訪(1)「トウガラシの韓国,ワサビの日本」

                      2002.11.3




韓国人の激情的な気質はどこから来るのか?
彼らの自己主張の強烈さは多くの日本人を辟易(へきえき)させる.
それに比して日本人はなんともおとなしい気質をもつ民族である.
負けず嫌いで,自負心の強い韓国人気質を醸成した背景を探ってみた.








●赤い「コーリガン」

 サッカー・ワールドカップで韓国チームが快進撃を続けた。
  敗れたポルトガル、イタリア、スペイン各チームは不審な
審判に激しく抗議していたが、競技場を埋め尽くす真っ赤なT
シャツの「激烈」な応援の前には、はかない抵抗だった。フー
リガンならぬ「コーリガン」という言葉まで登場したそうだ。

 韓国に長年駐在しているジャーナリストの黒田勝弘氏
は次のような韓国日報の記事を紹介している。

「わが歴史において初めて見るようにわれわれは一つにな
った。嫉妬、排他、口論、貪欲、疑い、陰謀、阿諛(あ
ゆ)、邪悪、憎悪、倦怠、野卑、侮蔑、醜悪…そのすべて
をわれわれの心から削除するという戦利品を、われわれは
決勝トーナメント進出から胸にした。(もはや)恥ずかし
がるな、嘆くな、寂しがるな、憎むな、冷笑するな。今日
の荘重な喜びを永遠に心に刻み、忘れまい。」

 このような「激烈」な文章、というより檄文は日本や欧米の
  新聞には見られまい。「激烈」と言えば、韓国からやってきて
  日韓の歴史や民族性に関する評論で活躍している呉善花さんは
  次のように書いている。

「欧米の人たちに韓国人と日本人の印象を聞いてみると、
韓国人はとにかく気性が激しく、日本人はおとなしいと言
う。確かに韓国人は一般的にきわめて感情が激しく、何を
するにも情熱的だ。恋人に対しては言うまでもなく、友だ
ちに対しても、親や子に対してもその愛は情熱的だ。した
がって、それだけ嫉妬心も強く、恨みの意識も根深いもの
になる。感情の起伏もきわめて激しいのだ。」


 日本企業のA社が国際学会での見学団を受け入れることにな
った時、韓国の同業者はお断りした所、学会の事務局宛に、A
社を学会から除名すべきだ、という激烈な調子のFAXが送ら
れてきたそうだ。A社はその学会でも幹事企業として長年の貢
献を続けており、韓国企業の方はまだ新入りであったにもかか
わらず、、、

 結局、A社と事務局で相談して、見学を差し障りのない部分
に変更することで、その韓国企業を受け入れることにした。当
日、どんな激烈な人が来るのか、と身構えていたら、現れたの
は人の良さそうなビジネスマンばかりで肩すかしをくった、と
いう。

 個人的につきあう限りはとてもいい人ばかりなのに、意見の
対立ともなると、想像もつかない激烈さを発揮する。この突然
の激烈さに面くらい、辟易して嫌韓感情を抱く日本人も少なく
ない。日韓での交流の場面が増えても、この韓国人の激烈さが
どこから生まれているのか、よく理解しないと摩擦も増える一
方であろう。




●「トウガラシの韓国、ワサビの日本」

 呉善花さんは、韓国人の激越さを「トウガラシの韓国、ワサ
ビの日本」という卓抜な比喩で説明する。

「トウガラシを食べたときの人間の血液は身体全体をめぐ
りながらも、とくに頭部の方へかたよりを見せる。したが
って、トウガラシを食べると神経に刺激を与え、血液の循
環をよくし、・・・精神的に興奮しやすい作用を生みだし
ている。」

「一方、ワサビを食べたときの血液は、トウガラシとは逆
に心臓の方へかたよりを見せている。そのため、ワサビを
食べると鎮静作用が働き、精神に落ち着きをもたらしてく
れる。」


「おおむね、日本に対して神経が逆立ちしているような社
会が韓国のものである。日本の社会は、事が起こればどう
鎮めるか関係者が努力する社会である。「興」を好む社会
と「鎮」を好む社会と言ってもよいかもしれない。」


 サッカーの応援ぶりだけでなく、歴史教科書問題や慰安婦問
題などでの韓国の「興奮」ぶりを見ると、なるほどと思わせる
指摘である。しかしこのトウガラシは一体どこから来たのか?




●朱子学が生んだ派閥抗争と神学論争

 トウガラシは朱子学から来た、というヒントを与えてくれた
のが、田中明・拓殖大学海外事情研究所客員教授である。
朱子学とは儒教の一派だが、司馬遼太郎は次のように説いてい
る。

「朱子学は、宋以前の儒学とはちがい、極端にイデオロギ
ー学だった。正義体系であり、べつの言葉でいえば正邪分
別論の体系であった。朱子学がお得意とする大義名分論と
いうのは、何が正で何が邪かということを論議するのだが、
こういう神学論争は年代を経てゆくと、正の幅が狭くなり、
ついには針の先程の面積もなくなってしまう。その面積以
外は、邪なのである。」

 1392年に成立した李朝朝鮮では、仏教を弾圧して、朱子学を
国教とし、科挙という試験を通って官僚となった両班(ヤンバ
ン)と呼ばれる特権官僚層が政治、経済、文化のあらゆる面で
  実権を握る中央集権的官僚国家となった。
政治権力を握る一派が富も独占するので、凄まじい派閥党争
が引き起こされる。そしてそれが朱子学の妥協を許さない大義
名分論の形をとる。




●服喪期間の長さで10数年も抗争

 党争の典型例が、1659年、第17代の孝宗が死去した時、そ
の継母の慈懿(じい)大妃の服喪期間をどうするか、に関して
起きた論争だ。1年を主張する西人党と、3年を正しいとする
南人党が十数年も論争した。カトリックとプロテスタントの神
学論争のようなものだから、論理的な決着がつくはずもない。
最終的には国王の鶴の一声で西人党の勝利に終わったが、負け
た南人党を待っていたのは、「邪説」を述べた敗者として賜死
(自殺を命ずる刑罰)、杖死(杖で殴り殺す刑罰)、流刑、蟄
居(ちっきょ)、罷免などであった。

 こうした党争の歴史を分析した韓国の学者の論文では、22
3件もの党争のうち、政策に関するものはわずか3件であり、
他の大部分は、職務上の過失・腐敗・怠慢、人品上の欠陥、儀
礼上の過ちにより、政敵を攻撃してその職を奪おう、というも
のだったという。

 呉善花さんは次のように述べる。

「彼ら(高級官僚)はいくつかの派閥のどれかに必ず所属
して、派閥間での官職獲得闘争に血道をあげた。その闘争
は陰謀と策謀に満ち、互いに血を流し合うまでに至るすさ
まじいものであった。この闘争が何百年間にもわたって繰
り返されてきた。そのため、派閥間、各一族間の敵対関係
がほとんど永続化してしまったのである。・・・」

「しかもこうした憎悪の関係は父から子へと世襲されたか
ら、果てしない闘争の繰り返しとなるしかなかった。李朝
では、先祖が受けた屈辱を子孫が晴らすことは、子孫にと
っては最も大きな道徳行為であった。」




●朱子学が韓国人を変えた

 こうした党争が韓国人の民族性というより、朱子学によるも
のである、という理由は二つある。一つは、日本でも朱子学は
同様な現象を起こしていること。そして、二つ目は、朱子学が
入る前の韓国人は、こうではなかったことだ。

 朱子学が妥協を許さぬ方向へ人を駆り立てる思想だというの
は、日本においても実証されている。水戸学は朱子学的名分論
を主流としており、幕末の志士たちに大きな影響を与えたが、
維新後の明治政府内に水戸出身者の有力者の姿は見えない。そ
れは水戸藩内部で佐幕派の諸生党と勤王派の天狗党との間で血
みどろの内部抗争が続き、惜しい人材はみな殺されてしまった
からであるという。

 逆に朱子学導入以前の古代の韓国では、武人が勇壮な活躍を
して、宮廷官僚の党争とはまったく違った世界を見せる。たと
えば6世紀末に来襲した隋を大いに打ち破ってた将軍の乙子文
徳(いつしぶんとく)は、敗北を装って平壌城近くにまで敵を
誘い込んだ上で、次のような詩を送った。

(貴下の)神策ハ天文ヲ究メ 妙算ハ地理ヲ極ム
戦勝ノ功既ニ高シ 足ルヲ知リテ(戦いを)止メラレヨ

(お手並みのほど驚き入る。もう手柄をたてたことゆえ、
 この辺で引き揚げられては如何か)

 敵将への武人の情けは、あたかもわが国の源平合戦の一幕を
見ているようだ。李朝期の官僚同士の陰惨な抗争とは、まった
く違う世界がここにあった。




●歌手を弟に持ちながら、なぜ政治家になれるのか?

 日本の江戸時代には士農工商の4階級があったが、士は刀、
農は鍬、工はかんな、商人は算盤と、それぞれ具体的な道具を
持って、現実と格闘する必要のある職業である。口先でいかに
大義名分を主張しようと、刀や鍬、かんな、算盤で負けてしま
えば意味はない。口舌の徒、空理空論の徒に対する侮蔑と、優
れた技術・技能に対する尊敬が生まれる。

 それに対して、李朝朝鮮で富と権力を握った「士」とは朱子
学を極めた文人かつ宮廷官僚、いわば言葉の世界だけで生きて
いる人々である。そんな官僚達が政治、経済、文化のすべての
実権を握り、朱子学の大義名分論だけで政敵を倒そうとする。
現実とは関わりのない大義名分に関する空理空論が幅を利かせ、
自らの腕一本で生きる職人や商人への侮蔑を生む。

 呉善花さんが来日して驚いたのは、石原裕次郎が亡くなった
時、一流の政治家、芸術家、企業家たちまでが、しきりに哀悼
の意を表している事だった。さらにその兄の石原慎太郎が政治
家だと知って、驚きは呆(あき)れに変わったという。

「アメリカではあるまいし、歌手を弟に持ちながら、なぜ
政治家になることができるのか、いずれも私の理解を絶し
ていた。」

「韓国では、身内に歌手や俳優がいようものなら、それは
とても恥ずかしいことなのである。とくに家柄を重んずる
現代のヤンバン(両班)である上層階級の人間にとっては、
それはとうてい許すことのできないものなのだ。」




●「氏より育ち」

 韓国人が個人的にはとても良い人が多いのに、ひとたび、議
論になると、激烈な主張をして日本人を辟易させる。この激変
ぶりは、まさに現実を無視した大義名分論で頭に血を上らせる
朱子学という「トウガラシ」によるものではないか。

 俗に「氏より育ち」という。双子でも違う家庭に育てば、価
値観も立ち居振る舞いもまったく異なる人間となる。日本人と
韓国人は有史以前からの血縁は相当に深く、また古代には文化
的にも相当に親近感を持てるものであったが、近世に至ってシ
ナから輸入された朱子学が、5百年以上かけて韓国人の民族性
を根本的に変えてしまったと思われる。

 この点の理解は、韓国との付き合いを進める上で重要だ。単
に地理的・民族的に近いからお互いに理解し、仲良くできるは
ずだ、というナイーブな期待だけでは、韓国人の激烈な自己主
張ぶりに面くらい、嫌韓感情を生むだけだ。しかし朱子学とい
う外国製トウガラシの後遺症だと理解し、また我々には我々な
りのワサビ(それが何かは、今回は触れないが)があるのだと
分かれば、相互の国民性を相対化して、もっとねばり強い付き
合いも可能になろう。




●日韓の「異質ぶり」を目撃

 日韓の歴史摩擦についても、トウガラシの影響がある、と理
解すれば、その対処も変わってくる。妥協を許さない朱子学の
大義名分論では、歴史もまた事実を解明する科学ではなく、自
らを正とし他を邪と言い負かすための道具なのである。

 第15代の光海君時代の高官・鄭仁弘は、実権を奪った反対
派から、「廃母殺弟」(光海君の継母にあたる先王の后を廃位
幽閉し、幼弟を殺害)の首謀者の一人として1623年に処刑され
た。しかし実際には彼は「廃母殺弟」には反対だったことが、
当時の史書にも書かれており、これは明らかに政敵による意図
的な濡れ衣であった。

 鄭仁弘の子孫一族はこの汚名をそそごうと、多年に渡り苦労
を重ねたが、反対派が実権を握っている間は聴き入れられなか
った。ようやく一族の願いが叶って罪名が除かれたのは、それ
から280余年も後の1907年であった。歴史の歪曲をも辞さな
い党争の凄まじさ、そして3世紀近くにもわたってその汚名を
雪(すす)ごうという一族の執念。日韓での「歴史観の共有」
とは、こういう激烈なる民族が相手である事を覚悟した上での
ことであろうか。

 韓国民の激烈なる熱狂ぶりを報道する黒田氏は、こう結んで
いる。

 「日本はそうした隣国とW杯を共同開催したのである。そ
の意味では隣国、隣人のわれわれとの「異質ぶり」を目撃
できたということが、相互理解をめざすW杯共催の最大効
果かもしれない。」


カルメンチャキ |MAIL

My追加