女の世紀を旅する
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2002年10月27日(日) モスクワの劇場占拠テロ チェチェン紛争の背景 後編

チェチェン紛争の背景 後編            
                2002.10.27







※ 人質90人以上死亡,武装集団の死者は50人(18人は女性)

【モスクワ26日=瀬口利一】ロシア特殊部隊の突入で解決したモスクワの劇場占拠事件で、ロシア保健省は26日、800人以上いた人質のうち90人以上が死亡したと発表した。また、劇場を占拠していたチェチェン=イスラム武装集団の死者は、リーダー格のモブサル=バラエフ野戦司令官を含めて50人に達した。うち18人は女性。一方、ロシア連邦軍は事件解決を受け、26日、チェチェン共和国で武装勢力の新たな掃討作戦に乗り出した。

武装集団はこの日早朝、人質2人を殺害。さらに、逃げ出そうとした人質を撃ち始めたため、特殊部隊が突入した。地元テレビなどによると、特殊部隊は占拠犯の動きを封じるため、突入直前、エアコンの通気口などから特殊ガスを注入した。制圧作戦は約2時間で終わった。特殊部隊に死者はいなかったという。

劇場からは750人以上が救出されたが、その半数近い約350人が病院で治療を受けた。容体が重く、入院した人もかなりいる。ガス中毒の症状を示している人も多いという。人質に多くの死傷者が出たのは、制圧作戦に大量の特殊ガスを使ったことが原因との見方もあるが、治安当局はこの説を否定している。

殺害された武装集団メンバーにはアフガニスタン人やアラブ人がいたとの情報がある。生き残った3人は逮捕された。

内務省のウラジーミル=ワシリエフ次官は「人質が脅威にさらされていたため、作戦に踏み切った」と述べ、突入はやむを得ない措置だったことを強調した。



《チェチエン紛争 後編》


●ベレストロイカと1991年のチェチェン政変

 1987年にゴルバチョフがペレストロイカ(政治改革)を始めたとき、チェチェンの人々は、自由な時代の到来を期待して喜んだ。チェチェン人は、自分たちの信仰や生活を脅かすロシアの存在を嫌ったが、ロシア人が自らの体制を改革し、チェチェンに自由を与えるというのなら、別だった。

 チェチェンではペレストロイカの結果、1989年7月には、150年ほど前にロシアに併合されて以来初めて、チェチェン人のザガイエフ第一書記 Doku Zavgayev が、共産党によって政府指導者に任命された。

 91年8月、モスクワでクーデターに失敗した共産党が解体された直後、チェチェンでも共産党のザガイエフ第一書記が、ソ連空軍の将軍だったドダエフ(チェチェン人)のクーデターによって追放された。政権をとったドダエフは、チェチェンを西欧型の自由主義を持った国にすることを目指し、彼が提案したチェチェン憲法は、信仰の自由などがうたわれていた。




●地元の信仰と対立したイスラム原理主義

 ペレストロイカ後、チェチェンでは200以上のモスクが建設されるなど、信仰の自由化が進んだ。ロシア革命以来初めて、メッカ(サウジアラビア)への巡礼が許され、多くの人々が巡礼に行き始めた。

 オイルダラーで金持ちになったサウジアラビアの財界人たちが、チェチェン人の巡礼資金を支援することも多くなった。中東諸国から、多くのイスラム聖職者がチェチェンに派遣され、聖典コーランを教える教室が、各地のモスクに併設された。

 だがしばらくすると、中東からの聖職者の流入や、メッカへの巡礼や留学によって中東のイスラムを学んで帰ってきたチェチェン人が増えた結果、地元のスーフィズムの聖職者との衝突が始まった。

 サウジアラビアで主流のイスラム教は「ワッハビズム(ワッハーブ信仰)」と呼ばれ、伝統にのっとった厳格な生活習慣を信仰者に求めるイスラム原理主義の信仰である。これは、開祖ムハンマド(マホメット)の時代の信仰を維持すべきだと考える「原理主義」的な信仰で、「聖者」などの人間を崇拝することや、歌や踊りを宗教儀式とすることに反対していた。

 チェチェンのスーフィズムには、聖者崇拝や歌や踊りの儀式が不可欠だが、サウジアラビアからきたワッハビズムの聖職者は、これらを反イスラム的だと攻撃し、スーフィズムの聖職者と激しく対立した。




●若者の心を奪った「反ロシア・反西欧」のイスラム原理主義

 ワッハビズムの運動は、西欧諸国が中東に影響力を及ぼし始めた18世紀後半、西欧化への反発から出たイスラム教の原点回帰運動として、アラビア半島で始まった。この運動は、アラビア半島の豪族だったサウド家の政治力を広げるために使われた。この結果,イブン=サウドがアラビア半島を統一し、1932年にサウジアラビア王国を建国し,ワッハビズムを国教とした。「サウジアラビア」とは「サウド家のアラブ人国家」という意味だ。
 チェチェン人の多くは、新しく入ってきたワッハビズムよりも、伝統的なスーフィズムを好んだ。彼らにとっては、ワッハビズムを持ち込んだアラブ人も、チェチェンの支配をたくらむ外国勢力だったからである。

 しかし、若者たちは違った。チェチェンではソ連崩壊後、ソ連時代からの国営企業が次々と閉鎖され,失業率が増え、場所によっては成人の8割が失業していた。将来への希望を失い,暇を持て余す若者らは、新しく作られたワッハビズムのモスクに行くようになったが、そこで教えられることは「ロシアや西欧の異教徒(キリスト教徒)によるチェチェン支配を許してはいけない」という、ワッハビズムに立脚したイスラム原理主義の考え方だった。

 仕事もなく、若い力を持て余す青年たちの渇いた心には、この「反ロシア・反西欧」の明確なイスラム信仰が、唯一の希望と救いに思えた。若者たちは、スーフィズムを守旧的な体制派の年寄りの信仰だとして攻撃するとともに、西欧風の自由主義国づくりを目指すドダエフ大統領の政策に反発するようになった。

 ワッハビズム勢力は、サウジアラビアのオイルダラーの後ろ盾があったから、資金も潤沢だった。ドダエフ政権の姿勢は、しだいにイスラム色の濃いものにならざるを得なかった。




●ロシア軍の進攻を黙殺した「国際社会」

 ワッハビズムのイスラム原理主義勢力は、スーフィズムを排除して自分たちの教えを導入した山村を、当局の力の及ばない事実上の自治区域にし始めた。ワッハビズムが導入された山村では、既存のロシアの法律を破棄し「イスラム法」を導入することが宣言され、それを止めるためにやってきたロシア連邦警察とは、銃撃戦も辞さない構えで対立した。

 このように、チェチェンの山岳地帯がイスラム原理主義の支配地域になっていくことに、ロシアは警戒感を強めた。チェチェンは1992年にロシア連邦への参加を拒否し、それに対する交渉が続いているうちに、チェチェンの反ロシア的なイスラム急進派の力が伸びていった。この傾向に終止符を打つため、ロシア軍は1994年9月、チェチェンに武力侵攻した。

 ロシア軍が侵攻してきたとき、ドダエフ大統領は、欧米諸国に助けを求めた。大国に抑圧されてきた民族の独立を、人権問題として世界中で支援している欧米の「国際社会」は、きっとチェチェンのことも支援し、ロシアを非難してくれると期待した。

 だが「国際社会」を主導するアメリカは、親米政策を貫いていたエリツィン大統領の肩を持った。アメリカがエリツィン政権を敵視して追い詰めれば、エリツィンのライバルである旧共産党勢力が復権する可能性があり、冷戦時代の米ソ対立に逆戻りしかねなかった。欧米はチェチェン紛争をロシアの内政問題とみなし、侵攻を傍観した。




●支援にかけつけた志願兵「アフガニー」とゲリラ組織「アルカイーダ」

 その一方でイスラム原理主義勢力は、チェチェンに対する支援を強めた。「アフガニー」と呼ばれる、アフガニスタンへ侵攻したソ連軍と戦った経験を持つベテラン志願兵たちが、中東全域から続々とチェチェンにやってきた。

 1979-89年の、ソ連軍とアフガンゲリラとの戦いは、強いイスラム信仰を抱く人々を「武装集団」に育てる最初のきっかけだった。ワッハビズムを広げることでイスラムの中心地メッカを擁する自国の地位を高めたいサウジアラビアと、中央アジアにおけるソ連の南進を食い止めたいアメリカとの思惑が一致した結果、サウジアラビアが中東で志願兵を募り、米軍が軍事訓練を施して、アフガニスタンの戦線に送り込む流れが作られた。今日のオサマ=ビン=ラーディン率いる国際ゲリラ組織「アルカイーダ」もこのときに結成された。

 志願兵「アフガニー」とゲリラ組織「アルカイーダ」は、アフガニスタン戦争が終わった後も、武力を使ってイスラム教を守る「聖戦」に参加することに意義を見出し、ボスニアやカシミール、スーダンなどの、イスラム教徒と異教徒間の戦場に登場した。そしてチェチェンも、彼らの行き先の一つとなった。ハッタブ(Emil Khattab)というヨルダン人の戦闘司令官などが、チェチェンに現れたアフガニーとして知られている。

 


●「天国へ直行」を利用する司令官たち

 アフガニーたちがチェチェンを武力支援し、ロシア軍が撤退した後の1997年になっても、チェチェンの多くの人々はまだ、イスラム原理主義を嫌っているか、敬遠していた。この年、ドダエフ大統領がロシア軍によって殺されたが、その後の大統領選挙で、イスラム急進派のヤンダルビエフが敗れ、ドダエフの政策を引き継いだマスハドフ(Aslan Maskhadov)が大統領に当選したことに、それが表れている。

 だが人々の意識とは裏腹に、1996年にロシア軍が撤退し、事実上の自治が確立したチェチェンでは、イスラム原理主義勢力がますます力を増していった。チェチェン政府(マスハドフ大統領)は1997年、旧ソ連の中で唯一、イスラム教を国教と定める宣言を行った。

 この背景には、ロシア軍との戦闘を通じて政治力を増したチェチェン軍の司令官たちが、イスラム原理主義を自らの信条として掲げていたことがあった。「聖戦で死ねば天国へ直行できる」というイスラムの教えは、死に直面する兵士を奮い立たせるもので、戦争を遂行する司令官にとって、原理主義は便利なものだったからである。

 チェチェン軍の最高司令官であるシャミール=バサエフ(Shamil Basayev)も、ワッハビズムの厳格なイスラム信仰を実践してはいないものの、イスラム原理主義の考え方を戦略的に使った。

 バサエフ司令官はチェチェンからロシア軍を追い出した後、1999年夏に、イスラム原理主義の勢力を広げるため、東隣のダゲスタン共和国に軍を侵入させた。武勇で知られるチェチェン人とは対照的に、ダゲスタンの人々はイスラム学習の熱心さで知られ、北カフカス地方のイスラム教区の中心は、ダゲスタンの首都マハチカラにある。

 ソ連崩壊後、ダゲスタン共和国でもワッハビズムの浸透が進み、バサエフ司令官は、ダゲスタンの村々とチェチェンとの連携を強め、ダゲスタンをイスラム共和国としてロシアから独立させようと動いたのだったが、これは再びロシア政府の懸念を強めることとなった。

 この緊張状態に加え、チェチェンの「テロリスト退治」によって支持率を上げたいプーチン大統領のロシア政府の思惑もあって、99年10月、ロシア軍が再びチェチェンに侵攻し、今に至るまで戦闘が続行している。

 モブサル=バラエフ野戦司令官が今回のモスクワの劇場占拠事件のリーダーであっが,ロシア特殊部隊の突入によって射殺された。


 犯人側は,首都モスクワの人気ミュージカルを乗っ取ることで,内外への強烈なアピールを狙ったが,その手法はチェチェン武装勢力と関係があるテロ組織「アルカイーダ」の手法に酷似しており,恐らくその支援をえて敢行したものと思われる。

 リーダーの若きモブサル=バラエフはオサマ=ビン=ラーディンをまねるように,カタールの衛星テレビ「アルジャラータ」に,「モスクワで敵の魂を奪って自爆する」とアラビア語で語ったビデオを送りつけている。

 今回の事件といい,先の280人の死者を出したバリ島のクタのディスコ爆破テロなど,いよいよ世界は暴力的な様相を増しており,イスラム過激派による一連のテロは今後も頻発するだろう。まさに「文明の衝突」が顕在化している状況にあるのではなかろうか。


2002年10月26日(土) モスクワ劇場占拠テロ事件とチェチェン紛争 前編 

《 モスクワの劇場占拠テロ チェチェン紛争の背景 前編 》
                   2002.10.26





 今朝,史上最悪の人質事件であるモスクワの劇場占拠が解決したが,
ロシアにとってチェチェン紛争の根は深く,サウジのイスラム原理主義が浸透しているチェチェン共和国のロシアに対する独立闘争の解決は容易なことではない。反ロシア・反西欧のイスラム原理主義の武装組織が関与しているだけに,ロシアの苦悩は深く,試練は今後も続くだろう。
 チェチェンの歴史と,今回のチェチェン人のテロ行為の背景にある国際テロ組織「アルカイーダ」との相関関係を探ってみた。




●特殊部隊が突入し、劇場を制圧,人質を解放

 【モスクワ26日共同】ロシア政府の特殊部隊が10月26日午前6時半(日本時間同11時半)ごろ、チェチェン独立派武装グループが約700人の人質をとって占拠していたモスクワの劇場に突入し、約1時間で劇場を制圧、人質を解放した。

 インタファクス通信によると、ロシア政府は特殊部隊との交戦で武装グループのリーダー、バラエフ野戦司令官が死亡し、約50人とみられていた武装グループのうち36人を殺害したと発表した。ロシア政府の対策本部は人質の死者は多くとも10人程度との情報を明らかにした。

 大量の爆発物を保持した武装グループがチェチェン共和国でのロシア軍撤退を求め特殊部隊とにらみ合っていた劇場占拠事件は、23日夜の発生以来、4日目、約60時間ぶりに全面解決した。



●強制移住されても反抗し続けたチェチェン人の闘争心

 ロシアの作家、ソルジェニーツィンの有名な著作「収容所群島」は、ロシア革命(1917年)からスターリン批判(1956年)までの、ソ連の強制収容所での人々の様子を、自らの収監体験と他の人々からの聞き取りなどによってまとめた、ノンフィクションの大作である。

 その、日本語版(新潮社)で全6巻のうちの最後の巻に「諸民族の強制移住」という章がある。ロシアでは1937年以降、ソ連国家に反感を持ちそうな民族を丸ごと、中央アジアのカザフスタンなど遠隔地に強制移住させる政策がスターリンによって行われた。本国(朝鮮)が日本の植民地なので、日本の味方をしそうだ、と疑われた極東・沿海州の朝鮮人や、ナチスのスパイになる懸念を持たれたカスピ海北部のドイツ人などの移民が、カザフスタンに送られた。この章では、その人々のことを描いている。

 この時代、強制移住地に送られた人々の多くは、服従の中で生きる心理が身につき、移住当初の最も厳しい状況がその後わずかに改善されると、服従する状態に慣れる傾向が強まった。そうした状態は、強制収容所に送られた人々や、その他一般の、ソ連で抑圧された人々に共通しており、ソルジェニーツィンは「またしても同じことの繰り返しではないか?」と、従順になってしまう人々の姿に対する苛立ちを書き連ねている。

(「服従」どころか、ことさら一生懸命に働いたのは、朝鮮人やドイツ人、それから敗戦とともに満州からシベリアに抑留された日本兵の集団など、その後、高度成長を遂げた国を故郷とする人々だった)

 とはいえ、そんな服従の精神をまったく受け入れなかった民族が、一つだけあった。それは、チェチェン人であった。彼らは個人としてではなく、民族全体として、「当局に取り入るとか、気に入るようなことはいっさいやらず、いつも胸を張って歩き、その敵意をかくそうともしなかった」。「あえて言えば、特別移住者の中で、チェチェン人たちだけが精神的に正真正銘の囚人だったのだ」と、ソルジェニーツィンは書いている。

 このチェチェン人こそが、ロシアをてこずらせ、世界の注目を集めている、あの誇り高きチェチェン人である。



●非服従の背景にあるイスラム神秘主義スーフィズム

 チェチェン人の特異性は、彼らが住んでいる地域の地理的な状況に由来する部分が大きい。チェチェン共和国は、モスクワから1500キロほど南に行った、黒海とカスピ海の間、カフカス(コーカサス)地方の北側にある。

 この地域は北にロシア、南西にトルコ、南東にペルシャ(イラン)という、昔から強大だった3つの帝国の境界にあたり、いくつもの勢力が、この地を支配しようと攻めてきては去る、という歴史が繰り返されてきた。
 だが、そこには5000メートル級の高峰が連なる険しいコーカサス山脈があり、古代からここに住む人々は、強国が攻めてくると山に篭もり、難を逃れたり抵抗運動を展開したりしてきた。

 チェチェンの人々は、イスラム教徒である。この地域にイスラム教が入ってきたのは18世紀ごろだったが、入ってきたのは、それまで信仰されていた地元の宗教儀式と混じり合うことを容認する「イスラム神秘主義(スーフィズム)」だった。
(※ スーフィズムは神への愛・神との合一を説くイスラム教の神秘主義で,12世紀以降,インドなどのイスラム教の世界的拡大に大きな役割をはたした.恍惚のうちに神と一体化する点や,知性を超越した信仰の絶対性を説く点に特色がある)

 イスラム教では本来、生きている人物を崇拝の対象にすることを禁止しているが、スーフィズムでは修行を続ける聖者たちを崇拝し、聖者は「奇跡」を起こすとされ、厳格なイスラムでは禁止されている宗教儀式の踊りや音楽などもあり、人々を恍惚とさせることで宗教意識を高める。

 スーフィズムは8世紀ごろから存在し、現在までイスラム世界の周辺部を中心に広く信仰されているが、旅をする行者たちによってチェチェンにもたらされたスーフィズムは、14世紀に中央アジアに起こった流れを組んでいた。

 チェチェンでは、シャイフ(shaykh)と呼ばれる聖人を中心に、その弟子たちが各地の村々の指導者となり、宗教的な強いつながりが、チェチェンの氏族社会を覆うようになった。この同族的なつながりに加え、山の民としての自尊心の強さが、非服従の姿勢のベースとなった。



●200年前に始まったチェチェン人の「聖戦(ジハード)」

 18世紀後半、チェチェンの南のオスマン・トルコ帝国が衰退し始めると、北方のロシア帝国(エカチェリーナ2世)が南下政策を展開した。ロシアの軍隊は、チェチェンなどカフカス地方の無数の小さな民族を征服していったが、その際に大きな抵抗戦争を展開したのがチェチェン人だった。

 チェチェンでは、シャイフ・マンスールという聖人指導者がロシアに対する「聖戦」を宣言し、チェチェン周辺の北カフカス地方の人々全体を束ね、抵抗戦争を始めた。1785年にはロシア軍を撃破したが、その6年後にはロシア軍に捕らえられて殺された。

 その後もチェチェン人はロシアに抵抗したが、1859年、ついにロシア(アレクサンドル2世)の支配下となった。この激しい抵抗戦争によってチェチェン人の3分の2が死んだといわれるが、その武勇は有名になり、マンスールは今もチェチェン人にとって民族的英雄である。

 ロシアの支配下となった後、チェチェン人はオスマン帝国に内通するスパイという疑いをかけられ、モスクの破壊などの宗教弾圧が行われた。だが、チェチェン人のスーフィズム信仰は、モスクが礼拝に不可欠な中東のイスラムと異なり、モスクが破壊されても、村の家々で礼拝や儀式が続けることができた。信仰には差し支えなく、支配者の目の届きにくいところで、信仰と同族の団結が維持された。

 この時期、ロシアの圧政を逃れ、南のオスマン・トルコ帝国領内に移住したチェチェン人も多かった。当時のオスマン帝国は現在のシリア、ヨルダン、レバノンなどを含んでおり、これらの国々には今も多くのチェチェン人がいる。

 ロシアのエリツィン大統領が1999年大晦日に辞任し、代わりにチェチェン弾圧推進派のプーチン首相が大統領に昇格することになった直後、レバノンの首都ベイルートでロシア大使館が攻撃された。レバノンはロシアからずいぶん遠いが、歴史を振り返ると、ロシアとレバノンとの間のチェチェン・コネクションが存しているのである。



●人口の半分が強制移住

 チェチェンがロシア領となってから60年後の1917年にロシア革命が起きた。この機に乗じて、チェチェン人とその周辺のイスラム教徒たちは「北カフカス首長国」の建国を目指し、ロシア軍と戦った。

 その最中、チェチェンにやってきたロシア共産党の代表は、大幅な自治権を認めてやるから、自分たちに味方するよう求めた。当時ロシアでは、皇帝の勢力(帝政派)と共産派との間で全面的な内戦になる可能性があり、共産党はイスラム教徒を味方につけておきたかったのだった。

 結局、北カフカスはソ連邦の中に組み込まれることになり、約束は守られて1922年にチェチェンは自治州となった。だが、それは形だけのことだった。ソ連の統治が始まると、スーフィズム信仰は「迷信」から「反革命」となり、それに反発する多くのイスラム宗教家たちは、犯罪人として逮捕、処刑された。

 チェチェン人の結束の固さが、村々をつなぐ宗教のネットワークにあると知ったソ連政府は、村を解体して集団農場にすることで、結束を崩そうとした。しかし、どこに連れて行かれても、民族とスーフィズム、血縁と信仰が絡み合ったチェチェン人同士の強いきずなは保たれ、ロシアに対する憎悪も止まなかった。

 ソ連の他のイスラム地域でも、信仰は事実上禁止され、ほとんどの人は非宗教化されてしまったが、広いソ連の中でほとんど唯一、イスラム信仰が生き残ったのがチェチェンであった。それは内々の信仰で、外から察知されにくい地下的なものだったが、ソ連の公安警察は状況を細かく把握していた。

 チェチェン人が崩れないのをみて、警戒したスターリンがとった次の手が、民族ぐるみの中央アジアのカザフスタンへの強制移住だった。1944年2月、当時のチェチェンでは人口の半分近くを占める25万人、北カフカス全体では100万人が、突然の命令で、家族ごと強制移住させられた。



●恐怖政治の共産主義者も怖じ気づいた「血の復讐」

 ところが、この民族の苦難もまた、チェチェン社会を解体することはできなかった。強制移住先のキャンプでの生活が始まると、間もなく民族とスーフィズムのネットワークが復活した。人々の受難は、かえって信仰心を強化することにつながった。

 チェチェン人が、強制移住先でも伝統を維持していたことは、『収容所群島』の中にも描かれている。ソルジェニーツィンが教師をしていたコク=テレクの村である時、酔っ払って喧嘩をしていたチェチェン人青年が、喧嘩を止めようとしたチェチェン人の老婆を、刺し殺してしまった。イスラム法(シャリーア)を維持していたチェチェン人社会では、殺された老婆の一家は、殺した青年一家の誰かを殺し、あだ討ちを果たさねばならなかった。

 青年自身は、殺されたくないので警察(内務省)に逃げ込んで自首し、監獄に入った。知らせを聞いた青年の家族は、食料をかき集め、窓とドアを釘付けして閉じこもったが、間もなく老婆の一族が、武器を持って青年の家を取り囲んだ。

 この事態に対し、人々に恐れられていた共産党地区委員会や内務省は、怖じ気づいて何の介入もしなかった。「野蛮な古い掟が息づくと、コク=テレクのソビエト政権は一ぺんにふっとんでしまったのである」。結局、チェチェン人の尊敬を集めている長老たちがやってきて、殺人者の青年に呪いをかけることで、復讐の行為をしないよう命じることで、事件は解決した。

 ソルジェニーツィンは、「血の復讐というこの風習は、それほど多くの犠牲者を出さないが、周囲の人々にはたいへんな恐怖感をいだかせる。風習をわきまえている山岳民族の人びとは、私たち(ヨーロッパ人)のように、酒酔いや放蕩のため、何の理由もなく他人を侮辱するような真似はしないだろう」と、このイスラム法を評価して書いている。

 そして彼は、チェチェン人はこの風習によって、他の民族から復讐を恐れて敬遠される状態を作り出し、自分たちの立場を強化している、と書いている。「他人を恐れさせるために、仲間を殺せ! これが、山岳民族の祖先が大昔に見つけた、民族を結束させる最良の方法なのである」



●今のロシアは「最も弱い敵」

 強制移住が終わり、人々がチェチェンに戻る許可をもらったのは、1957年のことだった。だが人々が十数年前に自宅だった場所に帰ってみると、そこには見知らぬロシア人たちが住んでいた。チェチェン人が去った後、彼らの土地は、当局によって所有者不在とされ、政策によって移民してきたロシア人に割り当てられてしまっていた。

 今もチェチェンの人口の2割を占めるロシア人の多くはこの末裔で、1994年と99年にロシア軍が独立を求めるチェチェン共和国に侵攻した際は、彼らロシア人を守るという名目もあった。

 ここまで迫害され続けたチェチェン人が、ソ連崩壊の後もロシア人の支配下にとどまり続けようと思うはずがないだろう。ソ連が崩壊した1991年、チェチェンは独立を宣言し、翌92年には、新しいロシア連邦共和国を結成する条約への調印を拒否した。調印しなかったのは、ロシア内の21の共和国(少数民族地域)のうち、チェチェンとタタルスタンだけである。(タタルスタンはロシア憲法裁判所で係争中)

 この反抗に対して、ロシア政府は2年間、チェチェン人代表と交渉したが、チェチェン人の独立意思は固いため、1994年9月、手段を再び暴力に切り替えて、ロシア軍をチェチェンに侵攻させた。ロシア軍の戦車部隊は、やすやすと首都グロズヌイに進軍し、勝利したかのように見えたのだが、その直後、市内各所でのゲリラ軍の待ち伏せ攻撃が始まり、ロシア軍は壊滅してしまった。

 チェチェン共和国の公式サイトとおぼしき「Chechen Republic Online」に「The Religious Roots of Conflict」という記事があるが、その文の締めくくりには「ロシアとチェチェンのイスラム教徒との、長い戦いの歴史の中では、エリツィンのロシア連邦など、敵として最も弱い相手なのである」と書いてある。

 ロシア軍は1994年、3回にわたってグロズヌイを攻めたが、いずれも似たようなやられ方をしてしまい、勝てなかった。1996年にロシア軍は撤退し、チェチェン共和国は事実上の独立を勝ち取ったが、1999年8月、今度はチェチェン人の軍隊が西隣のダゲスタン共和国に侵入したことをきっかけに、ロシア軍が再び侵攻した。

 99年の侵攻にいたった経緯については、ソ連崩壊後、チェチェンの宗教界に、伝統的なスーフィズムとは別の、原理主義的な「ワッハビズム」が、サウジアラビア方面から入ってきたことが、ロシア側の事情としてある。

次回に続く


2002年10月05日(土) 《 老いこそ冒険の時 》 対談 石原慎太郎・曾野綾子

《老いこそ冒険の時》
               2002.10.5


   【対談】 石原慎太郎(70歳.作家.東京都知事)
                 『老いてこそ人生』

        曾野綾子 (71歳.作家)『戒老録』
              (文芸春秋.2002.9)





石原 曾野さんは,もう古稀は超えましたか?


曾野 ええ,昨年。


石原 僕はこの9月なんだ。


曾野 お互い,「老い」を話し合うようになったのねえ(笑)。


石原 そうですね。昔,歌にあったじゃない,「村の渡しの船頭さんは,今年六十のおじいさん,年はとってもお舟を漕ぐときは,元気いっぱい櫓がしなる,それ,ぎっちら,ぎっちら,ぎっちらこ」って。もう二人とも六十をはるかに超えたんだ(笑)。


曾野 「船頭さん」ね。石原さんのお書きになった『老いてこそ人生』(幻冬舎),とても面白かったんですが,ジョギングとかヨットとか腰痛体操とか,ほんとうに色々な運動してらっしゃるのね。


石原 ええ,本気でジョギングを始めたのは30歳を越した時なんですが,そろそろ峠を越したような気がして,「うーん,このままではいかんな」と思って。曾野さんの『戒老録』(祥伝社文庫)は随分若い時に書き始めたんですね。


曾野 その当時の平均寿命が74歳で,私は37歳になって,ちょうど人生の折り返し点に来たと思って書き始めたんです。


石原 それは備えがいいなあ(笑)。老いというものは肉体的な老いだけではなくて,色々なコンセプトがあると思うけど,曾野さんはどういう時に老いを感じました?


曾野 六年前(65歳)に足を骨折したときですね。全治9カ月もかかったんです。


石原 エッ,どこを折ったの?


曾野 お墓参りに行ったときに,右足のすねのところを縦,横に。治ったんですが,足の踏み込みは悪くなって,今でも転びやすいんです。歩くことは,ギリシア語で「ペリパーティオー」と言って「生活すること」と同義なんですね。それで,人間は何か障害を持つ状態が当たり前なんだと思うようになったの。


石原 そうなんですか。老いの自覚は相対的な感覚だと思う。年齢とはもちろん関係ない。他人との比較で感じることではなくて自分自身の内側の問題なんですね。僕なんか,最初に老いを感じたのは,20代の始めなんだ。大学2年生のときに,母校の高校のサッカーの夏合宿に行った。あの頃は練習している間は水を飲んではいけない,というディシプリンがあって,それでやっていると,高校のときは体が持ったのが,2年しか経っていないけれど体がもたない。そのときに「あー,年だ」と思ったね。


曾野 そういう厳しい生活だったからきっと早く老いを感じたのね。


石原 26,27のときにヨットで死ぬ思いをして式根島から大島の波浮港へ逃げ込んだときも全身綿のように疲労して,「やっぱり年をとったんだなあ」と思った。でもそれから後は,50になっても,60になっても全然年をとったとは感じないんですよ。

「健全な精神は健全な肉体に宿る」と昔から言いますね。でも同時に,肉体を鍛えることで培われた精神が,老いて肉体が衰弱してくると,逆にその人間を支えてくれる。


曾野 健全な肉体しか知らなかった魂は,肉体が健全でなくなるとたじろぐんじゃありませんか?


石原 それが逆なんだなあ。小説家なんて,感性とか情念とか,もっとクリスタライズされた精神でもそうだけど,肉体が衰弱すると弱ってくる。そういう小説家が多いでしょう。逆に三島由紀夫さんのように,ボディビルで人工的に作った変な肉体を持っちゃうと,それが感性を歪めてあんなことになってしまった。若い時に肉体を鍛えることによって培った精神が,老境の肉体を支えてくれるのは,人生の一つの公理だと思うな。


曾野 私は学生の頃居眠りばかりしていたの。それである日の午後,すやすや気持ちよく寝ていて,パッと起きたら,フランス人の神父が,「健全な肉体に健全な精神が宿ると日本人は言うけれど,健全な肉体にはしばしばどうしょうもない単純な精神が宿っている」って言ってらした。嬉しくなった覚えがあるわ。


石原 うーん,そうかな(笑)。


曾野 健康とか健全とか,どこかではっきり分かれるものではなくて,いいも悪いもない,それがその人なんだと思うようになったんです。


石原 肉体と精神の相関性についてのとらえ方は,男と女で多少違うのかもしれないなあ。


曾野 私はこれまで,運動らしい運動ってしたことがないから,若い頃と比べて肉体が衰えたという感じがよくわからないのね。


石原 チャンドラーの有名な言葉で,「男はタフでなければ生きていけない。男は優しくなければ男でない」ってあるでしょう。僕はあれはとってもサジェスティブで,男としては,年を取って初めて分かる言葉だと思いますね。


曾野 それは女だってそうよ。女もタフでなければ面白くないし,優しくなければ人の心に触れられない。ヘンなところで男女同権主義者なの,私(笑)。




●老いは第二の冒険のとき

曾野 この間,テレビをつけっ放しで寝てて,夜中にふっと目がさめたら,BBCで作家のスティーブン・キングが喋っていたの。これが実に面白くてね。母親がガンで死の床にいたときに,死んだ父親の話をしたそうです。
「あなたのお父さんは掃除機を売り歩いているセールスマンだったのよ」と言って,「それも,未亡人のところばかり選んで夜中に売り歩くような人だったけど」って。


石原 ハハハハ。


曾野 父親については,「父親というのは,いいも悪いもない存在だ」と言ってた。これはすごく高等な大人の表現ですよ。日本人は,いいか悪いかどちらかに決めたがるでしょう。私はこういう自由なものの言い方ができるのが老年の特権だと思うんです。「父親は無きに等しい存在だ」とも言っていたけど。


石原 まあ,それは父親によるだろうな・・・・(笑)。


曾野 だから,私,老年って冒険の時だと思う。


石原 まさに老いは第二の冒険の時ですよ。ほんとうにやろう思えば若い頃より何でもできる。


曾野 人間て,子供が小さいと,「この子のために生きてやらねばならない」とまともなことを考えるんですよ。だけど,老年は子育ても終わったし,いつ死んでもいいの。だから冒険すればいいのよ。


石原 ものの味わいというのは,年を取って始めて分かってくるという気がしませんか? 味覚にしろ,性愛にしろ,たとえば街でいい女に出会って,「はァー」とため息つきながら眺めるときのとらえ方が,若いときと違って,もっと深くなってくるんだなあ。

 ボードレールの詩に,「都会の雑踏のなかで女とすれ違って,実はこの女を俺は求めていたんじゃないかと思って,向こうも同じことを感じてくれたということは分かるけれども,交わす言葉もなくて,すれ違ったまま永遠に別れてしまう」というような詩があるけれど,あれはやっぱり若い時代の思い込み,若さの自惚れでね。年をとってくると,もうちょっと余裕をもって,幅をもって,こう・・・・まあ高齢の人でもいい女っているじゃないですか。そういう人に会うと嬉しいね。


曾野 ハハハハ,そういう方がいるの?


石原 たとえば私の通っている東京ローンクラブにかつてウィンブルドンに日本代表で行った87歳位のおばあちゃんがいるんです。その人は綺麗で,とても可愛いんだ,テニスをした後,一杯お酒を飲みながらいろんな人の話しをしてて,「お気の毒ねえ,あの方,早く亡くなって」「幾つでしたか」「まだ81歳よ,あなた」ってさ(笑)。そういうときがとても魅力的なんだ。

曾野 面白いわね。




●年寄りは酔狂でなきゃ

曾野 私の老年の楽しみは,ヘンな土地を旅行することなんです。都知事はなかなか出掛けられないんですよね。


石原 そうでもない。時々出ますよ。


曾野 私は最近よくアフリカに行くんですけど,「あーっ,今晩おまんまが食べられるのはありがたい」と新鮮に思えるのは,アフリカのおかげです。


石原 アフリカは僕も何度か行ったけけど,曾野さんみたいな体験はなかなか出来ないな。あなたは信仰からの奉仕精神のせいもあるんだろうけど。


曾野 私たちは水道と電気が通っているという前提でものを考えているけど,アフリカにはそれもない。日本に生まれさせていただいたことがありがたくてしようがなくなりますよ。年をとると感謝の気持ちがなくなる人が多いわね。日本の老人は幼稚だと思いませんか?


石原 福田和也が書いた「なぜ日本人はかくも幼稚になったのか」という小論文はなかなか良くて,幼稚というのは,IQが低いのでなくて,何が肝心かということが分からない,肝心なことについて考えたがらないことだと言っている。同感だな。


曾野 それに付け加えると,「人生はいろいろあらぁな」ということが分からない。「あらぁな」と思うことと,わが胸の底の「これだけは譲れない」というものが両立するといいんですけど。


石原 日本人には「垂直の情念」みたいなものがなくなってきた。それこそ,「いろいろあらぁな」ということが,「なにやったって同じだ」になってしまった。何でこんな風に駄目になってしまったのかね。


曾野 私,新派の「滝の白糸」が好きなんです。あれは好きな男に貢いだ水芸の女がいて,それが殺人を犯す羽目になって,金沢の法廷で検事に追及される。それで,「どうして三百円も好きな男に貢いだのか」と尋問されて,「だからさっきから申したじゃありませんか。それは私の酔狂だったんでございますよ」って言うのね。


石原 あ,いいねえ。


曾野 年寄りは酔狂でなきゃ。その酔狂って言葉がなくなっちゃったの。生きていることなんてみんな酔狂なのに。


石原 いや,ほんとうにそうだね。


2002年10月01日(火) ついに米国株7500ドル割れ,日本が金融危機を克服するシナリオ


《世界同時株安,世界金融危機の到来の秋相場、日本は再生できるのか》

                    2002.10.1





 昨9月30日,小泉首相は内閣を改造し,銀行への公的資金投入に反対してきた柳沢金融担当相を更迭し,竹中平蔵・経済財政担当相に金融担当相を兼任させた。首相は「あらゆる手立てで不良債権処理を進め,金融機関の健全性を取り戻す処置をしてほしい」と述べ,今後の不良債権処理は,従来の銀行の体力の範囲で処理を進める漸進的な政策から,公的資金の投入も視野に厳格な資産査定で銀行の健全性を見直す強硬策へ転換した。





 ニュヨークダウの下落は世界同時株安を引き起こしているが,まだまだ下落は続くだろう。やがて6000ドル台に下落すると思われる。しかし,すでに18年前の株価水準に戻っている日本は,今開始した米国株の暴落の余波を受けるだろうが底値は浅いのでないか,すでに日本の株価は大底圏にあることに留意したい。




※ドイツ証券チーフストラテジストの武者陵司(むしゃりょうじ)氏は今秋の日本マーケットを次のように予想している。


●当局が不良債権処理を進めれば,日本の底値は浅く,日経平均8000円で世紀の底入れか


10月1日,ニューヨークダウ一時7500ドル割れ,しかし底入れは見えない.世界市場に暗雲が垂れ込めている.この秋,不良債権などの金融問題を日本は乗り切れるのか。日本経済は正念場にさしかかっている。


 イギリスFT、ドイツDAX、フランスCAC、米国NASDAQのいずれも、バブル形成前の1996〜97年の安値を更新した。世界金融危機が勃発しつつあることが明らかとなっている。
 

 夏枯れ相場が終わり、世界恐慌の懸念を織り込む秋相場が始まっている。世界的に実物経済の好転が期待できない以上、事態を転換させる力は政策変化しかない。しかし、世界の経済・金融当局は、日銀を除き現状直視拒否のスタンスであり、当面政策の新機軸は期待できそうもない。底入れはさらなるディザスター(災い)の後(当局の姿勢変化があってから)であろう。


 年末にかけ世界株式の急落場面が続こう。米国主導の世界株式は今年11月から来年1月にかけて、世界的緊急事態宣言、政策提起により、一番底を付けてリバウンドする(大底ではない)だろう。その転機は、(1)ドル防衛協力、(2)グローバル・ケインズ政策、(3)金融緩和――が柱となろう。

 同時期に日本株は、日経平均8000円台で大底を付ける可能性がある。


その理由は、
(1)日本株のバリュエーションが、国際比較でも歴史的にも非常に魅力的となっていること(益回りは社債利回りを30年ぶりで上回り始めている。またPBRは1.4倍と米国の半分の水準である)、
(2)日本はデフレに慣れ、政策当局、企業、消費者、ともに低速警戒運転モードに入っており、ネガティブサプライズがほとんどないこと、
(3)ユニットレーバーコスト(賃金/労働生産性)の低下、労働分配率の頭打ちなど、徐々に企業収益底入れの条件が整ってきたこと――などである。


 日本株のパニック的下落を回避し大底入れを確かなものにするには、毅然とした政策が必要である。それは平時に求められる一般的構造改革ではない。

(1)コンフィデンスクライシス(信任危機)回避のための預金保護、銀行株主保護を柱とする金融安定化策(ペイオフ延期、銀行への資本援助など金融不良債権問題の最終処理)、
(2)需要政策(減税、公共事業など大規模な財政出動)、
(3)株式への資金流入策(証券税制改正の棚上げと、より強力な優遇措置)が求められる。

 金融不良債権処理は、その核となる。この点で、日銀新政策は最大限の英断と評価できる。小泉純一郎首相が日銀の敷いた路線(銀行改革最終決着)に毅然と乗れば、すべての先進国当局が behind the curve (後手に回っている)なかで、日本の先進性が際立つ。日本株が底入れし、世界のベストパフォーマーとなる可能性も出てくるだろう。
 

 日銀の、中央銀行としては前代未聞の主要行保有株式取得の決断は、「金融政策」というより「金融システム対策」である。この対策の狙いは、(1)銀行の株式保有=資本減少のリスクの肩代わり、(2)それを通した間接的株価支持、である。金融政策といえないのは、(1)株式取得が市場からの購入ではなく相対であること、(2)ベースマネーの供給増加をうたっていないこと、から明らかである。それは日銀の役割というより、金融庁や財務省の責任領域に属することである。しかし、金融庁、財務省、首相が動かないなら(銀行等保有株式買取機構、整理回収機構が機能しないなら)、日銀は多少の領域侵犯を犯してでも、自らイニシアティブを採るという姿勢である。


 もし失敗すれば円の信任、日銀の存続にすら関わる、劇薬的政策である。日銀当局は、悲壮な決意をもって不退転の意思決定をしたものと思われる。これを、従来のPKO(株価維持策)と同列に評価するべきではない。従来のPKOは、払うべきコスト、犠牲、痛みを回避する甘い便法であった。今回は日銀の信認・存続・正当性という最も重いコストをかけた対応で、失敗は赦(ゆる)されない。
 

 この決断が一連の金融不良債権処理、公的資金投入、部分的・一時国有化など、抜本的対策の突破口となる可能性が高い。そうでなければ、日銀ははしごを外されることになる。小泉政権にとって、そのような事態は許されないし、小泉首相は十分にそのことを認識し、抜本的対策を取る姿勢にある。例えば、ブッシュ米大統領に金融不良債権問題の解決を約束したこと、柳沢伯夫・金融担当相にペイオフの延期を求めたこと(つまり、金融庁の主張している金融安定化は実現していないとの認識を示した)などから、それはうかがわれる(昨日,柳沢金融担当相は更迭)。仮に小泉首相が従来の金融庁路線を踏襲・サポートし、問題隠蔽と先送りを続けるなら、日銀の非常時政策で既にシステム破綻の危険を感じ始めている市場は、さらに大きく下落するだろう。


 よって、小泉首相の自発性にせよ、市場のさらなる下落に後押しされるにせよ、今後数カ月以内に金融不良債権問題の最終決着策が打ち出される可能性は強い。同時に需要政策、株式投資奨励策(証券税制の改正が柱)が出されれば、展望は明るさを増す。株価は世界株安の影響を受けて再下落するだろうが、底値は浅い。日経平均8000円台で、世紀の底入れをする可能性が高いと判断される。(武者陵司)



★しかし,武者陵司氏のコメントはそうであってほしいという希望的観測にすぎない。アメリカのバブル崩壊は今も進行中であり,大底はまだまだ先のことであり,日本と同じようにデフレ経済におちいるだろう。ニュウヨークダウがいずれ5000ドル台まで下落したなら,日経平均の7000円台も覚悟しておく必要がありそうだ。最悪の事態を予測しておくことが肝心だ。なにしろ今の日本経済はアメリカ経済の景気回復に一縷の望みを託しており,そのアメリカ経済がコケてしまったたら,日本経済再生のシナリオも破綻してしまうのは明らかなのだから。2002年秋はイラク攻撃と米国株の下落という不安要因を国際社会はかかえ,すぐそこにある危機に呻吟している。







カルメンチャキ |MAIL

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