観能雑感
INDEXpastwill


2002年11月14日(木) 都民劇場能

都民劇場能 宝生能楽堂 PM6:00〜
今最もチケットの入手が難しい友枝昭世師がシテの公演。見所は補助席も出て満席状態。

狂言 「萩大名」 (和泉流)
シテ 野村 萬
アド 野村 与十郎、野村 万禄

大蔵流で観たことはあるが、和泉流では初めて。
萬師は目だけで笑えるのだなぁと思った。口元に変化がなくとも、目元が綻んでいる。この方の大笑い、時に痛々しさを感じるのだが何故だろう。
失言を繰り返す大名を諌める際、大蔵流で見た時は太朗冠者は大名に近付かず、手の動きで知らせていたが、和泉流では大名の近くに寄って袖を引っ張る事で教える。大蔵流で太朗冠者は足の脛を示してから退場するのだが、和泉流では大名の物覚えの悪さにあきれ果てて、「こういう人は恥をかいた方がよい」と見捨ててしまう。
主人役の万禄師、初見だが、いかにもつくりましたという笑顔が不自然。これほど表情をつくる必然性はあるのか。カマエも腰高で不安定。
萬師、与十郎師は相変わらずで、まずまずの一番。

能 「景清」
シテ 友枝 昭世
シテツレ 狩野 了一
ワキ 野口 敦弘
ワキツレ 野口 能弘
笛 一噌 仙幸(噌) 小鼓 幸 清次郎(清) 大鼓 安福 健雄(高)

休憩時間中に隣のご年配の男性と少しおしゃべり。宮内庁に関係のあった方で、昭和天皇は能をよく御覧になられたと話してくれた。それに対して現在の天皇は、能に限らず日本の伝統文化にあまり興味を示されないのだとか。ちょっと寂しい。
囃子方、地謡は裃着用。
喜多流では景清の娘、人丸の従者はワキツレが務める。能弘師、こんなに上手かったかと驚いた。やはり父上に節回しなど似ている。ただ、視線が常に下向きかげんなのが惜しい。立ち姿にもう少し精彩があればと思う。
ツレの小面は頬がすっきりとして、ややきつめの印象。人丸の「強さ」を考慮してか。狩野師、腰高なカマエが気になるが、若い女性の香り立つ美しさが感じられる。腰高なのは若い能楽師に対する共通の印象。
作り物の中から有名な「松門独り閉ぢて〜」が聞こえてくる。長い年月風雨に晒され、錆付いたような声。景清の苦悩の日々を想起させる。引廻しをはずすと髭有りの面で大口着用。髭なし、着流し姿で下居している方を見たかったので、少し残念。前者の出立は、武将としての景清を示すというより、匂当(検校に次ぐ位)としての立場を強調するものだとか。
娘が訪ねてきたと知りつつも、現在の己のみじめな境遇から、名乗らない方が良かろうとそ知らぬ振りをする景清。二人は里人に事情を話し、里人はその人こそ景清だと言い、自分が呼びかければ返事をすると二人をつれて景清のもとを訪れる。呼びかける際、「景清、景清」と連呼して作り物の葦屋を扇で強く叩いたのには、予想していなかった激しい動作で驚いた。それにつられて「名前を呼ぶなと言ってあるだろう」とシテは作り物から出てくる。知った仲の里人に安心し、己の侘しい境遇を述べるのだが、抑制された表現だからこそ、哀しみが伝わってくる。里人から娘がいっしょに来ている事を知らされ、二人はようやく対面を果たす。席の関係で、下居しているワキに遮られてシテの姿があまり見えなくて悲しい。
娘から乞われて屋島の合戦話を聴かせる際、これが済んだら帰ってくれと前置きし、語り始める。有名な「錣引き」だが、武勲というにはあまりにささやかで、互いの腕力、首の骨の強さを称えるところは微笑ましくさえある。景清の実像はほとんど伝わっておらず、敗者側の平家の武将達を集約した形と見られている。また、中世の理解では景清は平家物語の成立に関係したとされ、本曲の中でも平家を語る者として造詣されている。武将としてより、社会の底辺で独り寂しく生きる者の哀しみに主眼が置かれているのだろう。
語り終えた父にすがる人丸の面は、涙でくしゃくしゃに歪んでいるように見えた。景清もこらえきれず涙をこぼしているように見え、能面の表情の豊かさに今更ながら驚かされる。
娘の肩に手を廻し、一歩一歩、短いその間を惜しむように、歩をすすめる景清。シテ柱で自らの想いを立ちきるように娘の背を押す。「ここに残る」「参ります」という短いやりとりの中に、相手に寄せる万感の思いが込められている。心情描写など一切なくとも、溢れるような感情が確かにそこにある。
娘を送ってまた独りになった景清の、沈鬱な、でも安堵したような表情。今度こそ彼は心静かに余生を過ごせるのだろう。
シテの動きがほとんどなく、囃子もほとんど鳴らない。滞りなく進む舞台のせいか、ところどころ半覚醒状態になってしまった。地は力強く安定していた。宝生の力強さと喜多の力強さは当然ながら異なる。稚拙な比喩だが宝生のそれが巌だとすると、喜多は重金属だという気がする。自分としては、どうやら巌の方が好ましく感じられるらしい。
卓越した身体技能で知られる友枝師、本曲は演じ映えがしない部類に入るのだろうか。動かない方が心身供に苦しいと解かってはいるのだけれど。最も心を動かされたのは、杖を突きならが橋掛りを帰るところだった。きれいにまとまってはいるけれど、不思議と物足りなさが残った。
二度ほど危うかったが、結局囃子方が橋掛りにかかるまで拍手がおきなかった。いつもこうだと良いのだが。
番組には附祝言の記載があったのだが、ないまま終了。何故?


付記
 後日喜多流には着流し、下居という形がない事が判明。某HPを閲覧中明らかになった(この舞台を観た時点ではまだこの点に触れた記載はなかった)。解説書にはここまで詳細には記されていないので仕方がない。正確な知識が増えた事を喜ぼう。


2002年11月10日(日) 宝生会 月並能

宝生会 月並能 宝生能楽堂 PM1:00〜

今月も喜多流の自主公演に行くつもりだったが、先月見た後考え直してこちらに変更。両方行くに越した事はないのだが、万年手元不如意の身としては、やむを得ない。
公演日まで2週間を切っていたので、電話でチケットを取る事にしたのだが、繋がった後先方は「はい」と言うのみ。名乗るべきなのでは?11月の月並のチケットが欲しい旨伝えると「今ですか?」との返答。これでは迷惑がられているようだ。席をが決まると、料金、支払い方法等の説明もなく電話を切ろうとする。宝生会は先払いである事を知っているためこちらから確認。銀行振り込みにしたい旨伝えるとそうしてくれと言うのみ。念の為口座番号を尋ねると待たされる事およそ3分以上5分以内。HP上でのチケット予約を利用していたので、口座番号は自分で確認できる。いっそ訊かなければ良かったと後悔する。しかし、誰がそんなに待たされる事を予想したであろうか。良い対応を期待しているわけではないが、これでは初めてチケットを買おうという人は混乱するのではなかろうか。素人弟子のみを相手にするのではなく、本当に能の普及を考えているのならこういう時の応対は大切だと思うのだが…。宝生会はチケットを郵送する際手書きで一筆添えられていて好印象だったので、残念。チケットはわざわざ速達で郵送され、恐縮した。
会場は6〜7割の入り。空席が目立つ。隣の席の方の体臭が結構気になる。三番立てなので、なかなか厳しい。

能 「放下僧」
シテ 亀井 保雄
シテツレ 亀井 雄二
ワキ 鏑木 岑男
間 野村 与十郎
笛 一噌 庸二(噌) 小鼓 幸 正昭(幸清) 原岡 一之(高)

兄弟が親の敵を討つ現在物だが、シテの芸尽くしが主眼。直面物はほとんど観た事がないので新鮮。
弟であるツレの謡が声こそ違えど子方のそれと似ている。何故?そういう心得なのだろうか。
兄弟の敵であるワキの鏑木師、やはり運足が困難なようで、痛々しい。下居するのも大変そう。ワキの供人が放下と放下僧に扮した兄弟を、主人の命に背いて招いてしまう。その際主人の名前を明かしてしまい、あわててごまかすも、兄弟に知られてしまう。橋掛りでの所作がしばらく続くのだが、嵐窓から御簾を上げてかなり長い時間舞台を見ている人影があり、気になる。アイの法被が動物柄で可愛い。
いくつか問答をした後、曲舞、鞨鼓、小歌と芸尽くしなのだが、その芸にどうも華やぎがない。なんとか隙をねらって敵を討とうとしているのだからそれでいいのかもしれないが、面白くない。大小が冴えなかった事も一因か。「面白の花の都や」の小歌が始まるとワキは切戸口から退場。緊急事態か?と思ったが、これで討たれる事を表しているのだ。室町時代の芸能の雰囲気を伝えるこの小歌、素朴でどことなく懐かしい。兄弟で残された笠を刺し貫いて、仇討ち完了。
後見が正座椅子を使用するのを初めて見た。

狂言 「佐渡狐」(和泉流)
シテ 野村 祐丞
アド 増田 秋雄、炭 哲男

佐渡に狐はいるか否かを越後の百姓と佐渡の百姓が争い、狐はいると主張した佐渡の百姓の嘘が最終的にばれる。
アドのお二人は初見。石川県在住のよう。
最初から最後まで淡々としたまま終了。佐渡の百姓は勢いで狐はいると主張するが、本当はいない事を知っていて、奏者に賄賂を渡して味方してもらう。この設定は、当時島と本土という両者の間にある種の差別が存在し、それゆえ佐渡の百姓の無謀な主張に繋がるのかもしれないと思った。新潟の者にはたとえ些細な事でも負けたくないという事なのだろう。
結局鳴き声について尋ねられて、嘘がばれてしまい終了。賭けた刀を取られてしまう。あまり笑わなかった。笑う笑わないの境界は何によって決められるのだろう。今回の場合メリハリがなかった所為か。

能 「葛城」
シテ 當山 孝道
ワキ 宝生 欣哉
ワキツレ 則久 英志、野口 能弘(番組に記載なく推測)
アイ 荒井 亮吉
笛 松田 弘之(森) 住駒 幸英(幸) 安福 光雄(高) 松本 章(金)

雪景色の中女神が舞う、私の好きな曲だが、舞台で観るのは初めて。
松田師、ヒシギがあまり鳴らなかった。珍しい。
欣哉師、実はあまり山伏装束が似合わないのではないかと個人的には思っている。大した問題ではないのだが。キレの良い謡は相変わらず。
幕内からの呼びかけに続いてシテ登場。雪のため笠が白くなっている。陰になって面は不明。
シテは雪に降られて難儀でしょうと、自宅に山伏達を招き入れる。笠を取ったところを見ると、面は曲見に見えたが深井かもしれない。「しもと」についてのやり取りは、シテが立ったまま行われ、若い欣哉師を年長の女性が諭しているように見える。ワキがもっと年長者だったら違って見えるはずで、これも味わいのうちだろう。火を焚く所作から、クセ、問答と淀みなく進行。ワキに正体を仄めかし、縛めを解いて欲しいと頼み、笛に送られて中入。この笛が神韻と響き、雪の降る中ゆっくりと消え失せて行く様を連想させる。こういうさり気ないところにも松田師の手腕を感じる。
アイ語り、なぜか下を向きがち。やはり正面を向いたほうがいいと思う。
葛を付けた天冠に黒垂、白長絹に緋大口の後シテ登場。面は増。前場からの感じていたのだが、シテが終始面をくもらせ勝ちなのは、己の容貌の醜さ(と自分では信じている)を恥じている葛城の女神を意識しての意図的なものなのだろうか。序ノ舞でもそれはかわらず、痛々しさまで感じる。思えば役の行者は強引にこの女神に橋を懸けさせ、一晩で完成しなかったからと言って葛で縛するのはほとんど言い掛りに等しい。女神であるのに山伏に助けを請わねばならないのはなんだが憐れである。縛めが解けても己の容貌を恥じるのは変わらず、夜が明けぬうちにと消えて行く。
宝生流で序ノ舞を観るのはこれが初めて。抑制された中にしっかり芯があるのを感じる。納得のいく序ノ舞を観たのは久し振り。
後見は舞台で胡座をかいていた。高齢のため致し方ないのかもしれないが、興ざめ。正座椅子の方がまだ良い。さらに途中で足を組み変えるのを見るとその感はいや増す。

能 「紅葉狩」
シテ 佐野 萌
ツレ 東川 尚史、小林 晋也、 山内 隆男
ワキ 宝生 閑
ワキツレ 森 常好、大日方 寛、御厨 誠吾(番組に記載なく推測)
オモアイ 橋下 勝利
アドアイ 山下 浩一郎
笛 寺井 久八郎(森) 小鼓 宮増 純三(観) 大鼓 大倉 三忠(大) 太鼓 徳田 宗久(観)

当初シテは近藤乾之助師が予定されていたが、療養中のため事前に変更。病状はどうなのだろう。気になる。地頭は宗家の予定だったが、こちらも当たり前のように欠勤。
一畳台と紅葉の山の作り物が出される。その後まずシテとシテツレが登場。シテも着流し姿。シテはツレとは明らかに雰囲気が異なり、妖艶でさえある。シテは若女、ツレは小面。こうして並べて見ると、小面にもいろいろあるのだなぁと気付かされる。シテのカマエが前後左右に均等の力で引っ張られているがごとく緊張を保って安定しているのに対し、ツレ3人はいかにも腰高で不安定。押したらよろめきそう。下居してからもシテはしっかり美しく座っているのに対し、ツレはやはり不安定。ツレより遥かに年長のシテの方が力強く見える。
ワキ、ワキツレ登場。武士に扮する閑師、烏帽子に肩脱ぎで弓を持ち、旅僧や山伏とは全く異なる雰囲気。狩の途中、上臈がいると知って馬を下りて迂回しているところを女に呼び止められる。先を急ごうとするワキの袖を掴んで引きとめるシテ。舞台上ではシテが脇の袖に僅かに扇で触れるだけなのだが、それだけでも確かに媚態を感じる。その後二人は見詰め合いながら位置を変え、シテのいた脇座にワキはじりじりと退いていく。ただこれだけの動作に上臈の色香に抗えない男の様が見事に描きだされる。女は酒を勧め、舞いを舞うのだが、この中ノ舞が良かった。宝生流は「内に篭る」のを是とするそうで、動きは非常に少ない。サユウでも腕は僅かに動かされるだけである。しかしそこには強い芯のようなものが感じられ、目が離せない。この頃続けて観た喜多流は型は明瞭だがどこか空虚に感じられ、対照的。肉体と内面の在り方について考えさせられる。
ふと気付くとワキは目を閉じ前のめりになって、左手は扇を持ち腕枕をして寝ている風。相当に辛い姿勢であるはずなのに、そんな事は微塵も感じさせず、ぐっすり眠っているようにしか見えない。
中ノ舞が突如急ノ舞に転じて事態は一転、シテは作り物の中に消える。他流では急ノ舞はもっと激しく動いて緩急がしっかりつくのだろうが、これはこれで良し。
アドアイの末社の神が夢の中でワキにシテの正体を教え、刀を託す。この間もワキはずっと先の姿勢のまま。すごい。山下師、初めて見るが、声がよく出ていた。
夢から覚めたワキは鬼に変じたシテと対決。歌舞伎のような立ち回りを期待する人には物足りないのかもしれないが、能ならではの息詰まる対決。はっきりと刀で差す動きがあり、シテは切戸から退場。ワキが留拍子を踏み終曲。
これまで見た事のなかった閑師の新たな魅力を発見。芝居気のある人なので、こういう役も見事にこなすのだろう。カッコ良かった。惚れ直しました。

三番とも地謡が安定していて、流儀のもつ底力を感じる。最初はとっつき難かった宝生の能だが、慣れるにしたがってその魅力に気付くようになった。


2002年11月01日(金) 清経 音取 と武悪を観る夕べ 

清経 音取 と武悪を観る夕べ  PM6:00〜 杉並能楽堂

 番組名そのままだが、主催の山本東次郎師と塩津師両名とも凝り性のため、未だに会の名前が決まらないのだとか。
会場に向かう地下鉄の中、向いの席に柿原崇志師とよく似た方が座っていらしゃる。今日の会にはご出勤ではないはずだし、別人だろうと思いながら同じ駅で下車。会場に着いてから渡されたパンフレットにかの御仁の名前があり(事前に配布されたチラシには別の方の名前が記載)、やはり本人だったのだと思う。ネクタイこそされていなかったが、サラリーマンが着るような地味なスーツをお召しだった。
会場は住宅街にあり、迷いそうだと思ったので駅前探索倶楽部で地図をダウンロードして携帯。しかし、かえってチラシに掲載されたシンプルな地図の方が解りやすかった。複雑…。
見所は狭い桟敷で、一般家庭で使用するような蛍光灯がぶら下がっていた。背面は壁ではなくガラスサッシなので、圧迫感はない。雛壇状の桟敷に白い座布団が引いてある。時代を感じさせる舞台で、同じ桟敷でも銕仙会のモダンな雰囲気とは対極。
蝋燭能なのだが、灯は使用せず、蝋燭を模したライトだった。狭い空間なので、灯を使用すると酸欠状態になることが予想され、仕方ないのだろう。見所から舞台の位置が近い。指定席を購入したので、久々の正面席。笛座の延長線上で、好位置。

狂言 「武悪」
シテ 山本 東次郎
アド 山本 泰太郎 (山本則直師の代演)、山本 則俊

 プログラムでは太郎冠者に則俊師、武悪に則直師となっているが、実際は太郎冠者に泰太郎師、武悪に則俊師であった。
主の東次郎師、登場から機嫌が悪いのが解かる。後に控えた太郎冠者が主の呼びかけに対しすぐに答えないのが、本来答えるべき人間が他にいることを暗示する。
何かと理由を付けて出仕しない武悪に業を煮やし、成敗しろと命じられる太郎冠者、主とのやり取りに緊張感があり、深刻な展開となる。泰太郎師、主に真正面からぶつかっていき、切迫した状況がよく伝わる。もう少し緩急があっても良いかとも思うが、これはこれでよし。
武悪の家に赴き、言いくるめて魚を追っているところを後から切ろうとするが、果たせず。子供の頃から知っている間柄なので、太郎冠者は躊躇する。結局主には殺したと嘘を付く事に。ここまでは正にシリアスな展開。だからこそこの後の滑稽さが際立つのだ。
報告を受けて安堵した主は気晴らしに外出するが、鳥部山で太郎冠者はなぜか武悪を発見。遠くに行けと言っただろうと問い詰めると、最後に主に会っておきたいと答える。こうしてみると、武悪と主は本気で憎みあっているわけではなく、ちょっとした行き違いのため、このような状況に陥ってしまったのだという事が分かる。太郎冠者の案で幽霊に変装して主の前に現れる武悪、前半剛直そのものだった主の驚き様が、存外傷心者であることを示して面白い。東次郎師の剛と柔の対比が見事。この後は武悪が死後に主の父に会ったとして刀や扇をまきあげ、家が狭いからいっしょに死後の世界へ行こうと父上がおっしゃっていると主をおどかし、橋掛りを追いかけ終曲。この間のやり取りは前半の深刻さとは対照的にコミカルで、思わず笑いがこぼれる。武悪がシテ柱に寄りかかって寛ぐ姿が妙に可愛かった。
主人と武悪の間に挟まれた太郎冠者の苦悩と機転がこの曲の主軸。武悪の人物像は豪快かと思うとひどく未練がましく、あまり好きになれない。泰太郎師が難しい役を体当たりで演じ切った。これからますます期待できそう。

能 「清経 音取」
シテ 塩津 哲生
シテツレ 大島 輝久
ワキ 森 常好
笛 一噌 仙幸(噌) 小鼓 北村 治(大)
大鼓 柿原 崇志(事前のチラシでは佃 良勝)

 清経の家来であるワキの淡津三郎がツレの清経の妻のもとを訪れ、清経の死と遺髪を渡す。大島師、声も姿勢も良いのだけれど、戦いに赴いた夫を待つ若き妻という雰囲気が伝わってこない。役者本人の肉体をまず感じてしまう。何故だろう。死の知らせを聞き、討ち死にならともかくも、供に生きると約束した自分を置いて死ぬとは情けないと嘆く様も、不思議と心を打たない。
笛が前に進みでて、橋掛り方向を向いて座る。半幕が上げられるのは、シテの準備が終了した事を示すためか。幕上げは、後方にスペースがないのか、後に跳ね上げるのではなく、垂直に持ち上げていた。
高く低く、断続的な笛の音に合わせ、橋掛りを立ち止まりながら少しずつ歩むシテ。笛が行くべき場所を示しているかのよう。この音取は、鹿の雌雄が互いを恋しがって鳴く様を表していると、どこかで読んだ記憶があるが、官能的でさえある。仙幸師、体調不良が伝えられているが大丈夫なのだろうか。外に発散するというよりは、内省的な音色、余人に替えがたいものがある。ご自愛願いたい。
美しい演出ではあるが、一曲の構成を考えるとこの音取、どうなのだろう。常の形を観た事がないので何とも言えないが、やや冗漫な印象を受けた。
ここからはシテとツレの掛合いで、違いの主張はずっと平行線のままである。自分としては妻の心情より清経のそれを理解しやすいが、妻の立場を考えると責めずにはいられないというのも解かる。このでのやりとり、もっと心に響いてくるものがあるかと思ったが、なぜか平板な印象。塩津師、謡は若干弱いかとも思うが、しっかりした身体技能の持ち主である事が解かり、気になるところもないのだが、不思議と心が動かされない。神からも見放され、死を選ぶまでの仕方話も、修羅道の苦しみも、なぜか私には届かない。ツレがシテから死を選ばざるをえなかった状況を説明されて、「それでもやはり恨めしい」と言い放つところは胸を突かれた。
地謡は当初若干バラついたものの、後半はしっかりと物語を形作る。友枝師の手腕か。
それにしてもこの空虚さは何なのだろう。先週の喜多流自主公演でも同種のものを感じた。となりの観客(塩津師の素人弟子らしい)は泣いていたのだが。私の感受性はさしも鈍磨しているのか。それとも喜多流の主張と合い入れないのか。やはり演者側に何かが不足しているのか。


こぎつね丸