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2003年09月30日(火) |
幸せになるためこの旅路を行く |
夏休みも今日で終わり。 (え、未だに夏休みだったのかよ、という気もするが)
最高の夏休みだったとはいわないが、 悪くない過ごし方だったと思う。 そして実は明日からこそが、 最高を目指さなければならないのだ。
最高というのは最も高いということなわけで、 そんなものを決められるはずもなく、 到達することはないのだけど、 「とてもとても高い」くらいの意味での、意気込みなのだ。
『高ければ高い壁のほうが上ったとき気持ちいいもんな まだ限界だなんて認めちゃいないさ』(Mr.Children『終わりなき旅』)
ここ半年ほどの間に撮った(撮ってもらった)写真をまとめて現像。
写真の中で笑っている自分。 そういった笑顔は、楽しそうに見える。 でも、本当に心の底から笑っていた笑顔なのだろうか。 写真を撮るからと、笑っていただけの笑顔ではなしに。 記憶の印象は書き換えられる。
俺の隣で一緒に笑っている人たち。 どこへ行ったのだろう。 一部は残っている。 そうでなければ、もったいないじゃないか。
『時代が変われば、いろんなことも変わる。でも結局はそれでいいんだよ。みんな入れ替わっていくんだ。文句は言えない』(村上春樹『羊をめぐる冒険』)
(でも、変わらないもの、変えずにいたいもの、もある)
2003年09月28日(日) |
Reconnection |
一週間と少し、ネットからDisconnectionしていた。
*
『どうしてインターネットなんて始めたの?』 『別に好きじゃないんでしょ、パソコン』 『他人とどこかで繋がっていたいから?』 『本当は繋がってないよ、人間なんて。コンピュータの点と同じ。一人一人バラバラに生きてる。そんな感じするな』 (映画『回路』)
インターネットを携帯電話に置き換えることも、可能だろう。
だが、別に、インターネットや携帯電話で繋がれるとは思っていない。 情報を得たり、連絡を取ったりするのに、便利だから、利用しているのだ。 ここしばらく、ネット環境がなかったのだが、何かから切り離されているとは感じなかった。 携帯電話は、所持していたので、何ともいえないが。 携帯電話があると連絡を取るのが便利なので、間接的には「繋がり」に一定の役割を果たしてはいるかもしれない。 が、浅い繋がりはともかく、深い繋がりは、携帯電話がなくても持続できる。
もっと、別のことで、「繋がっている」と感じられることがある。 それは物理的な繋がりというより、どちらかというと象徴的なものだ。
*私信*
象徴的な繋がりとは、たとえば、モネが描いたバニラ色の空をいつか見せてくれるという、君がしてくれた約束だ。象徴的な空を見上げて象徴的に君を思い出すこともあるだろう。まあ、でも、象徴だけではなく、たまには会おう。
*独り言*
当たり前のことだけれど、僕が誕生日を迎えて歳をとるというサイクルを経る間に、あなたも歳をとる。歳の差は永久に埋まらない、ということが、別の何かが埋まらないことを象徴しているかのように感じてしまう。そして、実際には埋まるどころかより遠くへと。 そもそも、あなたの存在そのものが、今の僕にとって、象徴的なものなのかもしれない。会うことはないけれど、この空の下、そのどこかで生きているという象徴。いつか、どこかで、また会えればとは思うけれど。
2003年09月19日(金) |
Disconnection |
自分は誰にも愛される価値がないのかもしれない。 そう思うときがある。
……などと、自分を卑下してみても、くだらない慰みにすらならない。
自分を卑下することは、楽な行為だ。 だから、何も産み出さない。
……何かが産み出されると期待して卑下するわけではないだろうけれど。
繋がっていない、と感じるときがある。 何か、大事なものに。
異性間だと、友人として一緒に遊びに行きたいと思って誘っても、デートの誘いだと勘違いされることがある。
……めんどくせえ。
そもそも、デートもデートじゃないもたいして区別ないけれど、本当は。 最初から友人止まりだとか恋人候補だとか決まっているわけでもなし、 相手がどんな人間か見極めるには、一緒の時間を試しに過ごしてみるもの悪くない。 デートしたから付き合うというわけでもあるまいし。 もちろん、見極めてみたいと思う相手であることが前提ではあるが。
(昔、異性の友人と恋人の区別が希薄だ、と指摘されたけれど…)
*
いくつかの事象のピースがぴたりと嵌まる、という衝撃。 ドラマの脚本でも書けそうな現実の出来事。 はたしてエンディングは? (といっても、俺はこれについては全く中心にはいないのだけど)
女になったあたしが売るのは自分だけで 同情を欲した時に全てを失うだろう (椎名林檎『歌舞伎町の女王』)
気高く生きていきたい。
2003年09月16日(火) |
Something to make me feel alive |
小説書きたい。 映画撮りたい。 でもどちらも一番やりたいことじゃない。 だからいつまでたってもやらないんだ。 一番で手一杯だから。 趣味程度になら、できるだろうけれど、 そういう意味の「やる」「やらない」の話じゃない。
ただ、なんとなく、思いつき程度に、 「やりたいなあ」と思っているに過ぎない。 とくに映画はね。 まず機材がいるので、思いつき程度では、実践できない。 小説は、以前少し書いた。 今はもう書いていないけれど、文章を書くという行為は、この日記で続けている。 ただし、この日記が小説の代替だ、というわけではない。
Give it to me Anything to make me feel alive (AVRIL LAVIGNE『Anything But Ordinary』)
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一つだけはっきりと言っておく。 君は、今の僕にとって、非常に大切な存在だ。 愛とか恋とか友情とかいう言葉はどうでもいい。 素朴に、単純に、感じるままに。 しかし、立ち回るスキルが不足していると、上手くいかない。 今回のようにね……。 自分で手一杯で、余裕が足りない不甲斐なさ。
いくら階段を踏み外しても いくら迷っても言える こんな足でも歩けないはずはない (鬼束ちひろ『Rebel Luck』)
2003年09月15日(月) |
Perfect World(ただの傲慢でしかないもの) |
他人を思いやる、というのは、相手にPerfectを押し付けないで、相手の欠点も認める、ということでもある。 完璧を要求すると、相手は疲れてしまう。 自分自身の不完全さを思い出せば、そんなことはできないはずだ。 自分自身が不完全な部分を持っているからこそ、同じ不完全な人間である他人の心情を想像して、思いやることができる。
相手をPerfectに理解できたなどとは思い上がらないこと。 Perfectを目標として理解しようと試みるのはいいが、 それができないからといって悲観したり、相手を非難したりしないこと。 もつれた糸を試行錯誤で手繰り寄せていくしかないのだ。
Perfectな自己像を描いて、それとのギャップに苦しむなどしないことだ。 それは別に、目標を持たない、ということを意味しない。 ただ、Perfectでなくていい、と認めるということ。 Perfectなんてない、と知るということ。 どこにもいない、Mr. Perfect Myself。
Perfectを、ゴミ箱へ、ポイ捨て。(そして、今へ至る) 悪くはない、今のMyself。 まだまだ、満足は、していない、けれど。 Perfectかどうかよりも、満足できるかどうか。 自分を好きになれるか、だ。 友人くらいには、なれたかな。
(ところで、「Myself」の後を句点で終わらせるかピリオドで終わらせるか、少し悩んだ。英単語の後に句点と考えると違和感があるが、文章全体としては日本語なので、今回は句点にしておいた)
2003年09月14日(日) |
Innocent World(とうに壊れていたもの) |
平行して本を読んでいると、各々の本の読み終わる時期が重って一気に読む本がなくなる場合がある。なくなる、といっても、読もうと思えば読みたい本はいくらでもあるのだけど、今読もうと思っていた本が読み終わるということ。読み終わったということ。
『友愛はたしかに積極的な価値である。しかしそれだけに、人間の愛の総量には限界がある。フォースターによれば、それは「ポテトを買う行列に他人と一緒に並んだとたん、たいていは挫折してしまう」。それに比べて寛容の要求水準は低い。それは人々がある程度余裕を持ちさえすれば、生まれうる価値である。私はテクノロジーがもたらす「仮想の地球社会」の中で人々が理性に目覚め、人類愛によって結ばれて平和と幸福と長期の健康とを享受するようになる世界よりも、時に怒り争い、時に欠乏に不平を鳴らし、時に誤解をしながら、人生に希望を抱きつつ、幾人かの人を愛し、やがて死んでいく人間からなる社会に住んでいたいと個人的には願うし、そこにこそ人間的な秩序が存在すると信じている』 (中西寛『国際政治とは何か』)
Innocentな振りして他人を傷つけるより、他人のことを思いやれる汚れた自分の方が良い。
メール、ありがとう。
いくら凄いものでも、それを受け止める知識や経験がこちらになければ、ただのガラクタになってしまう。 あるいは、知識や経験がない場合でも、豊かな想像力があれば、柔軟に受け止めることが可能かもしれない。
今日、ある映画を観て、そんなことを思った。
興味のない議題の会議でも、会議に出席している限り、しっかり聞いて、意見を問われれば答えられるようにしておかなくてはいけない。 そのような会議にも、出席しておいたほうが良い場合がある。(たとえ出席強制がなくとも) そう判断して、今回、出席したわけなのだが、判断ミスだったかもしれない。
*
何かに失敗したときに、どこが悪かったのか、ということがわからないのが一番困る。改善のしようがないからだ。
たとえばそれが人間関係の場合、相手が自分の欠点を指摘してくれれば良いが、そんな親切なことはだんだんとしてもらえなくなってくる、大人に近づくにつれて。 大人になってしまったら、なかなか変わりようがない、というのは、そういうことも関係しているのかもしれない。
これで、君は一つ選択肢を手に入れた。 単純に、僕は嬉しい。 それを選択しようとしまいと。
*
『AとBの付き合いで主導権を握るのは、その付き合いに無関心な方だ』 (村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』)
『オレたち、もう終わっちゃったのかな』 (映画『キッズ・リターン』)
今日は、某所であまり意欲の出ない雑用に追われる予定になっていたので、 せめてその場所に向かうまでに小さな冒険をしてみようと思い、 電車で行く距離にあるところを自転車で見知らぬ裏道などぐるぐるしながら向かう。 結果、そこにたどり着くまでに2時間ほど自転車をこぎ続けることに。 時間と体力の無駄といえば無駄だが、「愛すべき無駄」だ。 子供じみた冒険心、それは楽しいものだから。
現地では、予定通り雑用に終始する。 同じ作業をしていた人の中には、こんなことをしている場合じゃない人もいる。 俺だって、好んでやるほどに暇ではない。 でも、やらざるを得ない。 無駄ではあるが避けられないこと。 上述の愛すべき無駄とは異なり、これはネガティヴな無駄だ。
子供から大人になるにつれて、そういうネガティヴな無駄がどんどん増えていくように感じる。 無駄なことでたいていの時間が消費されていくようになるのかもしれない。 無駄なことが少なかった(であろう)子供の頃、どのように時間を使っていたのだろう。 それとも、覚えていないだけで、子供の頃も無駄なことはたくさんあったのだろうか。 どうなんだろう。 どうなんだろう。 そんなことを考えること自体が、無駄だろうか。
子供の頃に戻りたいとは思わないが、 子供の頃どんなことを考えていたのかを、 どんなことを感じていたのかを、 捏造なしに思い出してみたい。 でも、それが実現できたかどうかを証明する手立てはないのだから、 いつでも実現可能ともいえるし、不可能ともいえる。 ただ、現在の知識から判断するなら、不可能だろうと思う。
子供の頃、今ほどの知識はなくても、 今より輝いていた部分があったはずだ。 それを今、取り戻すことができれば、 おそらく、今よりも不安定な人生を送ることになるだろう。
打ちのめされて、 何もできないときには、 映画でも観て元気だそう。 歌でも唄って元気だそう。 友人と話して元気だそう。 そして最後に、 自分で考えた答え出そう。
『バカやろう、まだ始まっちゃいねえよ』 (映画『キッズ・リターン』)
今日は高校時代からの友人と卓球をした。
「マシーンのようなラリー(失敗)」 「これが天井レシーブだ」 「フェイクサーブをくらえ」
まあ、こんな感じ(謎)
その後、ビリヤードに挑戦。 実は以前に一度だけしたことがあるのだけど、 そのときは何もわからずにキューを動かしていただけだったように思う。 今日はビリヤード経験のあるその友人に基本から教えてもらった。 まだまだきちんとした形でできるようになるには程遠いけれど、面白そう。
で、夕飯はパスタ1kg…を二人で食べる。 満腹。おいしかった。
努力した者が報われないというのは、クソだ。 だからといってその可能性を理由に最初から努力しないのも、クソだ。
【ソナチネ(sonatine)】 ソナタの特徴は残しながら、小規模で、しばしば技術的にも易しい曲。教材用のピアノ独奏曲に多い。(広辞苑より)
ソナチネまでは進むことができるが、その先にいけるかどうかが、ピアノを弾きこなせるかどうかの分岐点となるらしい。
誰もがなりたい自分になれるわけじゃない。
映画『座頭市』(北野武監督)を観に行く。 殺陣のシーンは切れ味があって良かった。 だが、脚本の切れはイマイチ。冗長で中弛みする。 総合的には面白かったが、良い場面とダメな場面の差が激しい。 もう少し練り込めば……。
過去の北野武作品、『ソナチネ』を観たとき、ある場面で鳥肌が立った。 あのような「絵」を魅せてくれることはもうないのだろうか。 あるいは、同じく過去の作品、『キッズ・リターン』のラストの台詞。 あのような脚本はもう書けないのだろうか。
と言いつつ、次回作が来ればまた期待して観に行くのだろうと思う。
最近、いくつかの本を平行して読んでいる。 ただし、本を読んでばかりいるのではない。 よって、ペースが遅い。
今日、 ここのところ勉強していた本を読み終わった。 ここのところ読んでいる新書を数十ページ読んだ。 ここのところ読んでいる短編小説集の中の二話を読んだ。
上に挙げた三冊はそれぞれ読む興味のベクトルが異なる。 でも、ねじれの位置にあるわけではないと思う。
今日は、新たな世界(やや大げさだが)を体験する入口となった日かもしれない。 これからどう発展していくかによるけれど。
2003年09月05日(金) |
Someone who motivates me |
用事で大学へ。すぐに用事は終わる。 その後、ある教授にばったり会う。大学院からお世話になる教授だ。
「(院から)期待してるから」
というお言葉を頂く。 実際に期待しているのかただの激励の言葉なのかはわからないが、どちらにせよ嬉しい。 それは、俺がこの教授に憧れているからだ。 同じ言葉でも、誰からかけられるかによって、感じ方が違う。
誰かに認められたり褒められたりするために生きているわけではない。 でも、認められることも褒められることもときに自分の活力となる。
期待(されていると解釈して)を裏切らないように、来年度に向けてがんばらねば。 もとからがんばるつもりではあったけど。
2003年09月04日(木) |
youthful days |
「あの頃に戻りたい」と言う台詞を聞くことがあるが、俺自身は全くそう思わない。 これは、今のほうが昔よりも充実していると思うからだ。 しかしながら、それは相対的な評価だ。 はたして、今が輝いているのか、昔がつまらないものだったのか。
「あの頃に戻りたい」と言う台詞に含まれるもう一つの意味として、 「あのときもっとこうしておけば…」と今にしてわかることがあるから、というのもある。 でも、今の記憶をそのままもってあの頃に戻れるのならともかく、記憶をリセットしてあの頃に戻っても、また同じことを繰り返すだけだろう。そうすることで初めて、「あのときもっとどうしておけばよかったのか」がわかるのだから。
思い出は大切なものだが、懐かしむもの以上でも以下でもない。 過去の失敗は、そこからフィードバックできたものがなければただの記録でしかない。
取り戻したい(しかしおそらくもう取り戻せない)ものというのは確かに存在するが、それらを代償として今の俺がある。
2003年09月03日(水) |
I'll be where I wanna be |
何度ヘマしたっていいさ 起死回生で毎日がレボリューション (Mr.Children『I'll be』)
2003年09月02日(火) |
個人的な日常の裏側で進行する他者の非日常 |
ちょっとした用事で大学へ行く。 用事の終了後、何日か前から、新たに勉強し始めている本を図書館で読む。
夕方に約束していた友人と会い、カラオケ&夕飯。
俺にはとくに何もない一日だったが、 今日が特別な日である友人もいる。 しかも、二人いる。 明日も、その二人にとっては特別な日の続き。 だが、その二人の間には何の関係もない。 世の中、特別なことに面している人はいろんなところにいる。 いつ自分の番が来るか、という順番の問題だ。
今日は映画を二本立て続けに観る。
まずは、『ゲロッパ!』(井筒和幸監督)。 井筒監督は、映画は笑って泣ける娯楽であるべきという信念があるらしいが、まさに有言実行、「楽しい映画」だった。良い意味で、エンターテイメント! (まあ、キレの悪いシーンも所々あったのだけど、とくに気にするほどではなかった) ところで、以前に日記で映画『踊る大捜査線2』も面白かったと書いたが、共通する要素として、「日本語による笑い」がある。日本映画は、俺にとって母国語の映画なので、笑いが伝わりやすい。言語だけでなく、感覚的なものも影響しているのだろうと思う。笑いというのは、それを受け止める共通の感覚があって成り立っている場合が多いから。
二本目は、『パンチドランク・ラブ』(ポール・トーマス・アンダーソン監督)。 同監督の前作『マグノリア』が良かったので、観に行った。 やはりというか、音楽の使い方や演出が上手い。 だが、主人公のキャラクターに好感が持てない。 そもそも好感を持てるようなキャラクー設定がなされていないのだけど。 パンチドランクなクラクラ感・激しさを感じるシーンはあったが、映画全体としてマグノリアには及ばない。でも、誰にでも撮れる映画でないことは確か。(資質として)
二作品を比較すると、 今回の満足度では『ゲロッパ!』のほうが高い。 「才気」は『パンチドランク・ラブ』のほうが溢れている。
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