ベルリンの足音
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いっそ、イタリアに移住してしまおうか。そんなことを考えている。この頃、鬱々とした感じはないのに、なぜか再び過去に対面している。過去とは、決着をつけずに抑圧していても、つけは払わないといけないってことらしい。
センチメンタルになっているつもりもないけれど、過去に向き合うのは難しい。強がっていたことを、少しずつ認めて、私も弱いし、私って孤独であると言うことを認めたうえでの前進と、否定し続けた前進とではやはり持久力が違ってくるのだ。
若かりしころ、根拠のない自信から、私だって捨てたモンじゃないと思っていた自分が、実は糞でしかなかったと思い知らされ、ゼロから立て直さなくてはいけなかった壮絶な戦いを思い出す。 流石に、あそこまであがく必要はないだろうが、いまひとつ、自分の立たされた状況に失敗や、後悔を認めるのは快くない。
後悔はないのだけれど、相変わらず、持ち前の行動力で飛び込みすぎたために、色々なところで曲がり角を曲がりすぎている自分の過去を認めないわけにはいかない。 行動力は私を支えるバイタリティーでもあるけれど、もらわなくても良い傷を自分で拾っている感もある。 それを無駄と思うか、強靭な精神を築く糧と思うか…。
自分の人生対処は問題ないし、ますます下り坂どころか、がんばろうと言う意欲に燃えているのに、過去を思うと、やはり心苦しくなるのである。私が捨てられたのではない。私が捨てた数々の現状。それを捨てるしかなかったから捨てたのだが、思い切りの良い破壊主義も、この歳になると自分に対する脅威となっている。 次は何を壊すのであろうか。
ものを大切にしないわけじゃないけれど、心にそぐわないものはことごとく切り捨てたい。少しも仮面をかぶって生きていたくないという、非社会的とも言える馬鹿正直さなのかもしれない。 勝手である…。
これだけ望郷の念があっても、私などどこで生きてもダメなのだ。 どこで生きても、探し続け、孤独をかみ締め、そして放浪するのだと思う。
幸い、どこに住んでも出来る仕事を持っている。 このまま、過去の震源地であるイタリアへ行って、思い切り対面して、思い切り切り裂いて、そして新しく生まれ変わりたいと言う気持ちもある。
しかし、私がこの町にいるのも、人間関係などという平面ではなく、もっと大きな平面で見た場合、ある種の運命なのだともう。 何をこの街でするべきなのか、考えあぐねて、わかってきたような、実行しているような、あいまいな段階である。
もう人間と深いかかわりあいになろうと思うのは中断しようと思う。 自分で歩くことは十分学んできた。これからは、歩きながら自分らしい道を固めて生きたい。
もう人に迎合して生きるのは中断しようと思う。 お人よしなんだ、自分が思っている以上に。 そういうことが見えてきた今、私は本当に自分の中心や核を保護できる力が出来るまで、人とは深くかかわらないようにしようと思った。
支離滅裂だ。
これもまた2日後には、収まっていくだろう。 最近は、ネガティブな状況が続くことがなくなってありがたい。思考に思考を重ねるエネルギーすらない。
本当は行きたいところもやりたい事もわかっているのに、実行できない。
寂しい人の文章を見ては、一緒に悲しくなって慰めているのか落ち込んでいるのかわからない。
打算が働いて、また決心を実行する際につきまとうもろもろもの問題に突き当たるのが嫌で、うずくまったままでいる。
ずるい生き方のできない自分が自慢だった。 大人になったなと自分でも思うのは、最近はずるい生き方を覚えてしまったことだ。
ずるい生き方をしている人のそばにいると、ちょっとはズルさを覚えないと、一気に食われてしまうという側面はある。 それでも、私は損をしようが傷つこうが、ずるく生きるということのできない女だった。 それが今は、相手の打算を見ては、こちらも同じだけ採算を取ろうと思うようになった。皆に対してではない。
結局私は迫られるとダメなのである。 ある種の距離感を常に保ってもらわないと、息苦しくていろいろと自分では驚くようなことをしてしまうのだと思う。
破壊主義といえばそうである。
そんな生き方をしていると、この年齢になって辛くなってくる。何かを決定的に変えないといけない。その答えももうわかっているのに、縮こまっているのも年齢だろう。
いっそのこと、すべてを打ち明けて、もう解放してくださいと懇願したい。それを言えた頃が懐かしい。 今は言えない…。
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ひとりで生き続けるのは、恐ろしく寂しいと思う。 悲しみなんか、一人で消化できる。いくらでも出来る。 でも、喜びを分ち合えない悲しみは、一人で悲しむよりずっと深い。 人に与えてあげたいと思ったとき、子供も育ち、一人きりで、与える個人的な相手もいないことを考えると、恐ろしい孤独だろうと思う。
それでも、一人でいる孤独の方が、打算でいる二人よりもずっと多くの真実に囲まれているのだ。 寂しいことも、悲しいことも真実で、覆い隠したり、気を散らしたりする生き方のなんと空虚なことであろう。
それに耐えるより、一人でいる孤独の方を自ら喜んで選択するということは、なにを見るより明らかである。
それなのに、なぜ前進できないのだろう。
愛されることは、愛することより全然大切じゃない。 愛し返せないなら、もらっているものも愛じゃない。
結局、人生は能動。愛さなければ始まらないということ。また真に愛されたなら、愛し返すしか道はないはずだということ。
チャンチャラおかしいままごとに終わりを遂げたい。
自分の中に新年も旧年もない。そういうこととは関係なく、リセットや抱負などとは全然関係のないところで、真実が常に渦を巻いて背中に押し寄せている。
真実の力は怖いから、早く正直にならないといけない。 打算も妥協も、なんと言う安易な道だろう。甘い道、とりあえず自分も世間もごまかせる道。
ああ、怖い。 ああこれからが怖い。
自分が強いことは承知でも、人を傷つけるのも嫌だし、人と議論するもの嫌。
嫌には理由がないのに、その嫌を説明する義務は過酷。
人間関係の責任はまじめに考えれば重いから、常に軽薄な気持ちで他人の人生に立ち入ってはいけないと、常に意識すべし。
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