ベルリンの足音

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2009年12月25日(金) クリスマスと長々しい失敗の告白

やっと静かな日々になった。

音楽の仕事を納め、子どもたちのプレゼント儀式も終わり、彼らは父親の家に行ってしまった。

離婚しているのに、父親と仲が良いなんておかしい。それなら離婚しなければよかったという声を時々聞く。

そうかもしれない。

けれど、当時あれ以外の選択はなかったのだ。

クリスマスは、欧州では紛れもなく家族の行事であるので、どうしても家族とか過去に思いがさかのぼってしまう。

私の前夫は、私の兄と同じ大学で同門であったため、欧州学生オケや仕事で日本に来る際には、必ず私の家に泊まっていた。
私は大学3年生で、将来は留学すると決めていたときであった。

そんな時分からの付き合いである。
兄と彼は、魂を分かち合うような時を共にし、兄は彼の才能を天才と呼び、

命を削って芸術をしているような奴だ。音楽をしないと死んでしまうような奴だ。そういう人間を前に、くだらない望みや期待をかけて結婚生活に不満を言うお前がわがままで完全に間違っている。

と、私が後に結婚したあと、何度もこういって私を叱咤した。

その言葉に、悔しさと絶望と孤独を感じながら、それでも納得して夏休みが終わると、ドイツへ帰ってきたものである。

あの日々のことはほとんど覚えていない。
10年以上一緒に暮らしたのだが、ほとんど具体的なことは覚えていない。
必死であった。

人をしのぐようなエネルギー、夜がさめても気がつかずに音楽をし続け、レッスンをし続けるそのエネルギーに感動し、付いていくのが精一杯であった。

彼のマスタークラスに行けば、そのカリスマ性に学生達がどんどん上達していく。その様を見るのは、まさに魔法と言っても良いほどであった。
どんな犠牲を払っても、共に生きる価値のある、すばらしい芸術家である。

ところが、日常生活は、孤独を極めた。
家にいないこともそうであるが、子供が出来てからは、演奏旅行に同行することも出来ず、演奏活動をやめてしまった私は、彼がその生き生きと踊るような音楽への奉仕の魂を他の音楽家と日々分かち合い、理解しあい、彼の本質を共有していることが、ほとんど恐怖のような焦燥感となって、私を苦しめた。

帰宅すれば、スコアを持って自室にこもるか、熟睡し続けるか、レッスンに行くだけである。
食事にも、外の景色にも、友人関係にも、何の興味もない。批判ではなくて、天才とはこれほどのものだといいたい。それほど、一つのことに精魂ささげなければ、凡人と同じである。生き様で人を感動させることは、まさに命を削るように日常とは逸脱した平面で生活しているということなのである。

音楽を刻一刻と分かち合えなくなり、日常生活の中に閉じ込められた私と彼の間に、断絶はなかったが、孤独が募っていった。
彼は、一瞬一瞬に、大きなドラマを必要としている人間である。それは事が大きいということより、常に感受性のアンテナが張り巡らされ、キャッチした情報をかみ締めてそれが不安を掻き立てれば、私に攻撃的になったり、同調を求めてきたりする。その情報が心躍るような喜ばしいものであれば、その感動を私と分けようと、夢中になって語り続けるのである。

24時間のうち、どのようなドラマが起こるか、その次の瞬間のことも誰も予想ができない。

このような生活は、ものすごく内容が深い。しかし、私の幸は、私もそのようなアンテナだけは立派にもっており、彼が何かをキャッチした場合は、目を見なくとも、その気配だけですぐにそれを察知できた点である。
しかし、私の不幸は、同様に鋭敏なアンテナを持っていた故に、二人の生活に安定が訪れることは決してなかったということである。

互いが、その鋭いアンテナで互いの心の動向を察知し続け、無意識のうちに常に影響しあっていた。
それだけ関係は、奥深かったのは事実である。本人達がわかるより、無意識下でのつながりは、非常に強かった。
孤独に対する感受性の強さが同様だったということもある。
その孤独とは、生きているがゆえの孤独というような、普遍的なレベルのもので、本人達に理解できていたわけでは決してない。


12二年ほどして、三人の子供達を授かって、家庭というものを立派に築いてきた私達であったが、その家庭の要求する安定した日常というものが重要になればなるほど、二人の関係には問題が生じた。

しかし、関係の不一致というような、何か実用的理由で説明できる類の原因はないのである。そうではなくて、すべてが二人の無意識下で起こっていたように、エネルギーとエゴも含んだ才能が、私と言う人間よりも何十倍も大きい彼は、彼のしらぬまに精神的にマニプレートしている部分があったのである。

これは私に大してとは限らない。仕事でも、常に彼は人を圧倒するような才能で、誰しも彼と舞台に上がることを夢に見たが、彼の意向以外の結果は絶対にないのである。それで多くの開催者と決裂したこともあった。
このようなエネルギーとエゴなので、私の生活も、本当に精神的に苦しいものであった。

終いには、雨が降ってもすみません。子供が泣いてもすみませんということになった。
私の魂は縮み上がって、すっかり萎縮していたのである。
この才能に歯止めをかけているのは私であり、家族である。
この人を解放しないといけない。
この人に、子供だの家庭だのを要求する私が間違っている。

心の底で、そんなことを確信していた私は、まるっきり彼を理解していなかったのである。

それで、彼にいかに私が彼を支えないか、そこから私のコンプレックスが来て、どれだけそれで私は子供達をだめにし、どれだけ人生で失敗し、どれほど問題を複雑にしているか、ということで散々説教されたあと、一度は子供を放り出して、車で高速道路に出て、どこか遠くへ行ってしまおうと思ったときに、ふっと死んでしまおうかなと本気で考えた。このまま私がいなくなれば、子供達は新しいもっと強く、もっと明るい母親を手にし、幸福な父親と新しくやり直せるのではと本気で信じたのだ。

二時間ほど走り回って、帰って来た私はぼろきれのようだった。


強度のパニック障害に侵され、車で外出スルのが怖くなった。彼の帰宅する飛行場に迎えに行くたびに、体中に蕁麻疹が出た。彼の帰宅前に、突然パニック障害に襲われた。

そうした中、精神科に行った。ご主人が原因なのは明らかだけれど、病気になるのはあなただから、あなたが自分を守らないといけない。
その言葉を聞き、セラピーを断った。
人に世話になってたまるか。自分で自分の心ぐらい守ってやる。

何かが変わった。
毎回トンネルの中でパニックがくるので、毎日トンネルを走りに行った。パニック障害で死ぬことはないという医師の言葉を固く信じたら怖くなかった。
パニックが襲ってくるのがわかったら、時間を数えた。絶対に30分以上からだの防御反応であるパニック症候群が続くことはない。どんなに長くても30分と言う言葉だけに支えられた。

私が、思ったことを行ったり、自分で自分を守るようになってから、私達を強くつなげていた無意識下のシステムが壊れはじめた。

もう雨が降ってもすみませんとは思わなくなった。
彼のエゴを許せなくなった。


そうして、絶え間ない喧嘩のあと、別居になったのだが、その間どれほどの孤独感が二人にあったか、どれほどの努力が私の側にも彼の側にもあったか、どれほどの子供達への愛があふれ出たか、それは計り知れない。

12月までと決めたり、死ぬまで、もう出来ないと悟るまで、和あT氏が精神病院に入るまでやると覚悟したり、それは精神的に壮絶と言って良いほどの日々であった。

なので、別居したときは、ホッとしたのである。
毎日毎日、彼が尋ねてきて、泣きついてきて、懇願されて戻っても、そこには私達の間にあるマニュプレートされる人間とする人間の関係が戻ってくるだけである。
私達のように、深淵でつながっていた人間が、そういう病理的な関係でしか存在できなかったというのは、非常に残念である。または、そういう病理的な関係だからこそ、依存関係となって切っても切れなかったのかもしれない。

とにかく、あらゆることを尽くし、あらゆるドラマを見て、暴力の寸前まで行き、病気の寸前まで行ったから分かれたのであり、修業が足りないなどと言われる筋合いはない。



ところが、

今、ここ何年かして思うのである。

私の唯一の失敗は、あの結婚を放棄したことであると。
もうどんな恋人が出てこようと、どんなに支えになる人がでてこようと、私は永遠に、私だけの家族を失ったのである。

家族全員でクリスマスを行うこともなければ、休暇にいくこともない。
子供達をどんなにかわいいと思っても、それを分かち合える片割れはいないのである。

どれほどの体験を彼にさせてもらったのか、それを思えば、自分の精神病も、自分の苦しかった日々も、自殺願望も、すべて帳消しになる。
私は彼の音楽に震え、彼に始めて音楽を生み出す姿勢を見せ付けられた。コマーシャリズムに自分を汚さず、成功を一切求めないで、音楽への絶え間ない尊敬を抱き続けて、自分自身を奉仕の手段として犠牲にする、その姿勢は誰にもまねできないからこそ、凡人とは一線を隔てていのである。

私は、自分の価値観を彼を見ながら、隣に体験しながら形成してきた。

今おもえば、礼を尽くしても足りないほどなのである。

私は彼よりも早くパートナーを見つけ、再婚した。
彼もその後、自分の学生と再婚した。

けれど、私は完全に失敗である。
彼のような人間と人間形成上最も大切な時をともにしたら、もう誰とも一緒になど住めないのだ。

別れてから2,3年は、酷かった。子供達を引き渡すので会う度に、お互いに涙が止まらないのである。
目を見るだけで涙がほとばしり出るのである。それでも、翻るように自分を引き裂くように、言葉も交わさずに子供を渡して帰ってくる。

4,5年しても同じである。
彼のコンサートに行ったときは、帰宅してなんと言う失敗を犯したのかと勝手に落ち込み、夫の顔も見れないのである。

今年に入っても同じである。
子供達を交えて食事をして、ワインで乾杯しただけで、涙がほとばしるのである。
彼も、酷くなるばかりだね、と真赤な目をしているのである。

でも、もうあれ以上できなかったことだけは、私達にはわかりすぎるほどわかっている。


彼の新しい奥さんは、日本人で私達のベビーシッターだった学生であった。
その彼女と一緒になったと聞いたとき、ショックを受けたが、彼女の屈託のない性格を知っていたので、安堵したところもある。
それでもその晩は、号泣した。再婚しても、一向に幸せではなかったからである。なぜかと言えば、当たらし夫のことを愛していなかったからだろうと思う。どこまでも勝手な女だ。

二年ぐらい前、彼らに子供が出来ると突然確信して、二週間ぐらい落ち込んで仕方なかったことがある。前夫は、毎回そんなことは僕は今は望めないと言って、私を毎日のように慰めてくれた。

しかし時は過ぎ去る。
今年の夏、彼女は妊娠した。
私の覚悟は出来ていたので、まったく平然とことを受け止めている。それどころか、彼らの幸せを真に望んでいる。

彼女に私の出来なかったことができる、などと考えたことはない。彼女と私は違う人間で、彼女とはそんな病的な関係ではないのであろう。
ありがたいことである。私は彼が何の心配もなく、音楽をしていられることが一番の望みである。


それでも、クリスマス、こうして一人きりで過ごすことは気楽で嬉しいのだが、書き始めてみれば、こんな長文になり、やはり私はのどから手が出るほど、家族を取り戻したいのだと勝手ながら実感するのである。
でも、勝手な通用しない。
自分の人生には、きちんと付けを払わなくてはならない。
私には、その力も意志も立派に備わっているが、幸福になれるのか、と問われれば、もう無理だと思うと、考えてしまう。

子供達の成長が嬉しく、楽しみで、小さな幸福はいたるところに見出すのだが、乾ききった魂の孤独は深く、普段は一切感じることはないのだが、いざ押し殺している自分の殻を取り除けば、本当は失敗したと認め、でも他にどういう方法もなかったという絶望に涙し、これから、精神的には死ぬまで一人で歩むのだと言う覚悟を決めている自分に、多少疲れを感じるのである。


以上のような経緯であるが、前夫と仲がいいというのが、故にまったく不思議ではない。自分たちの意志とは別なところで、ある意味何かが一致しているのである。
精神医学的だとか、心理学的だとか、そんな難しいことはさっぱりわからないが、目を見れば、さらには挨拶の抱擁をしただけで、互いに涙が出てくるというのは、別居後8年たっても一向にかわらないのである。

それがもう決して起こらなければ良いと願って8年たったが、それだけは変わることない。
兄弟のような、家族のような、そんな気持ちなのである。
私はそんな立場にいないが、彼の命に何かがあったときは、礼を言うために駆けつけたいと思う。
また私が死ぬときには、他の誰でもない、彼に来てもらって、最後に礼を述べさせてもらいたいと。それだけである。


今年の締めくくりとしては、いかにも情けなく、自分でも嫌気がさす。
しかし、これが現状であり、失敗ばかりの人生を見つめ、それでも歩き続けなくてはならない自分の人生に対面するのが、やっぱり宿題ではないかと思うのである。

来年は、後悔のないように、子供達に思い切り時間を割き、たくさんの思い出を作って、家庭らしいことをたくさんしてみようと思う。それが、間違いなく、私を少しでも幸せにしてくれると信じている。


2009年12月07日(月) ほろり

明日は、レノンが亡くなって29年目である。信じられない歳月が流れていると思う。
中学生のとき、レノンが殺されたニュースを帰宅後母から教えられた。
ショックで、ショックで、世界が終わりになるような感覚に陥った。

ファンクラブに追悼文を何通も投稿して、何回も掲載された。
平和について、国語の宿題でかいたら、賞をもらって学内で発表された。

こんな思いでも、レノンへの思いが強いからできたのである。

早く大人になりたくて仕方なかった。レノンを本当に理解するには、大人にならないと無理だと言うことは本能的にわかっていたのだ。

洋子の運営するHPに行った。毎年彼女は、そこに思いをつづる。
彼女の平和キャンペーンも、イベント狂いも、メディアの利用才能も、みんなどれも納得がいかない部分がある。

けれど、毎年その文章を読むと、そこにはやっぱり彼女の寂しさや孤独や苦労がにじみ出ていて、ほろりとくるのである。

アレだけの存在感の夫を失ったら、どうなるだろう。アレだけ密着していた夫が、突然あのような形でいなくなってしまったら、立ち直るのは容易ではない。

息子が、明日はママのことを考えて、みんな愛を送ってあげて

とTwitterにつぶやいていた。
その後、彼女の文章を読んだので、やはりつらいものがあった。


毎年毎年、私はメランコリックになる。今でも、彼の当時の写真を見ると、胸がジンとくるのである。一体何がどうなって、そんなにファンなのかは口では言い表せない。
バッハを尊敬して止まず、モンテヴェルディに魂をささげたこともあり、様々なクラシック音楽から、深遠な精神世界へと導かれるような感動を味わっているはずである。
しかし、まったくそれとは別の次元で、私はレノンにただならぬ敬愛を注いでいる。それも、もう30年以上。

そして、それは衰えることを知らない。


明日、私は蝋燭をともして、また彼のことを思い、彼の曲を聴き、ほろりとなって、人生の無常を考え、それでも私なりの日常を過ごすのであろうと思う。


でも、レノンを考えない12月8日は、私には無い。


私の青春を象り、私の人生観を固めていく基礎となったレノンは、今でも私の心の中で、純粋に、ただただ、自分であろうともがきながら生き続けている。

彼も、不幸な生まれの犠牲であり、不幸な運命から早くに命を失った。

人間は、所詮自分の力では、人生などに立ち向かえないのだ。
できるだけ自然体に、できるだけ自分に正直に、他に振り回されず、少ない時間を自分とその周囲に有効に使って、世界や社会とバランスよく生きて生きたいものである。



2009年12月06日(日) 第二降臨節 ・ Julian Lennon雑考

そういうことで、第二降臨節となった。
その関係で、息子のギムナジウムのコンサートが教会であったり、明日締め切りの翻訳に追われたりと、なかなか忙しい日曜日であったが、気持ちはなんとか静かであったと思いたい。


全然関係ないのだが、ちょっと思ったことで、それをどこに書いていいやら、ブログなき今となっては、ここに知るしかないので、記録する。


私がレノンファンであるのは、周知の事実である。
なぜ、彼の前妻の息子が、音楽活動をしていたにもかかわらず、突然その活動を止め、世界から姿を消し、レストランなど経営し、マイスペースあたりでしか、声を聞くことができなくなったのか、私にはなかなか理解できずにいた。
彼は、私より3歳年上だが、ほぼ同世代である。

それなりの才能を授かって、デビューで花開いたにもかかわらず、かなりたってからインタビューで、父親を許せないと言うようなことを堂々と語っていたのには驚いた。その頃、彼はもう40過ぎていたのではなかろうか。

ここのところ、おそらく2005年ごろ、母親が再び、JOHNという題名で当時のお互いのバイオグラフィーのようなものを執筆出版したのをきっかけに、息子のJulianもメディアに顔を出すようになった。

母親を全面的に支えており、レノン所有物の展示会だのなんだの、そういったイヴェントも、レノンの故郷リヴァプールにて協力して企画してるようだ。


彼女の本を読んだが、正直な人柄と素直な性格がにじみ出ており、批判に値するような毒を持たない彼女は、メディアでも彼女に対する扱いが温厚である。
しかし、文章そのものは、作文に近く、心に響く部分は多くあるのだが、自分お思考や苦しみ、悩みを深く掘り下げて見ると言う経験が少ないのか、能力が少ないのは、果てはそういうことはしないと言う合理主義なのか、あまり作文以上の力量を見せることはできなかったと言うほどの内容であった。

レノンのような人間と離婚劇をしたからには、もっと精神的葛藤や、精神的やり取り、修羅に至るようななじり合いさえあったっておかしくない。それほど彼は複雑であるし、自分勝手であり、しかし非常に傷つきやすく、不安定な精神状態を抱えている男であった。

それが、彼女は始終何も言わないで時が過ぎていくのである。レノンが勝手に洋子を連れ込んで、彼女は怒りで出て行くが、彼にそれをぶつけないのである。最初に出会った頃から、彼のことを恐ろしいと思っていたという反面があったが、それは、終わりに至るまでそうであったらしい。
と言うことは、彼女自信、あそこまでドラマチックな人生劇の裏で結婚生活を送っていたにもかかわらず、一緒に、共に歩まなかった、あるいは歩めなかったのではないかと言う感じがする。

レノンは、家にいる時間は、初期の頃はほとんど無かったし、サテリコンのような様で、酷い遊びを行っていたと言うことにも、ビートルズの女性陣は、納得ずくで我慢せねばならないと言う面もあったろう。
しかしながら、大人に成長していく二人が、本当に精神的につながっていたのなら、共に歩んだ軌跡というものがもうちょっと見えてもよさそうなものであるが、彼女の言葉からは、傍観し続け、我慢し続け、おとなしくし続けてきたという時間しか見えない。おそらく、彼女には物申す内容すら浮かばないほど、素直な人間で、捨て去る努力を要するような、プライドの高さすら持ち合わせていなかったのであろう。

だから、若かりし頃のレノンと共に、暮らすことが可能であったのだろうし、レノンも彼女をかわいらしいと感じていたに違いない。

しかし、猛々しい若者も、年齢と共に成長していくのは止むを得ない。レノンは、基本的に恐ろしく内向的なので、実は内へ内へと考えを深めていくタイプである。社交家で、華々しい成功を求め、真のエンターテイナーと呼べるマッカートニーとは、根本的に違うのである。

ヒットソングをかけないと暫し悩んだこともあったレノンだが、彼の曲はもっと食いついてくるように語り掛けてくる。同じ感性を持った人間には、たまらないほど鋭い力で、問いかけてくるのである。
彼の音楽の軌跡を見ても明らかだが、彼自身の心の動きと彼の創作活動がシンクロしている。彼の音楽は多くの場合、カタルシス的に自分の療法として現れていることがほとんどである。それに対しマッカートニーは、常に安定して世の中の需要にぴったりと適したヒットソングを書いてきた。

単純に言えば、価値の中心が、外にある場合は外向的であるし、価値観が内面に向いている場合は、内向的といえる。その意味で、レノンとマッカートニーは、対極にあったといっても良い。

さて、その前妻が、ドラッグや、インドへの傾倒を通して、レノンの内向的な精神的活動が深まていく様を指を加えてみているしかなかったと言うのは、信じがたいのだが、事実かもしれないと思うようになった。
彼女は、自著の中で、ドラッグさえなかったら、私達はまだ一緒だったかもしれないと言うことを言っているが、それを読んだとき、私はその短絡的な解釈にほとんどショックを受けた。
いかに当事者だとしても、それほどまでに関係の終焉を簡潔化して納得するのは、なかなか難しい。
私も離婚経験者だが、その前後につむぎだした思考の糸は、無限に近く、ああでもない、こうでもないと自分に原因を探し、相手に原因を探し、世代に答えを求め、文化背景に影響を探し、果てはさかのぼって互いの育ちに埋められぬ穴を見つけ、また自分の身に帰ってきて、二人の成長線を心に描き、どこでそれてしまったのかと、その思考趣向の相違にまで思いをめぐらせた。
それは、決して解けることのないこんがらがった毛糸のようなカオスであった。

決して、あそこがこうでなかったら、とか、あの時ああしていたら、出とめられるような、または方向転換できるような、そんな問題ではなかった。それなら離婚などしなくてすんだのだ。

問題は、複雑で入り組んでおり、様々な要素が絡み合って、そうならざるを得ないからこそ、離婚に至ったのである。彼女のように、ドラッグさえなかったらと、離婚後40年たった今でもそう信じているとしたら、やはりそのシンプルな考え方や、ナイーブな性質にこそ、離婚の原因があったのではないかとまで言いたくなってくる。

レノンは、複雑怪奇でインテリな人間であったことを肝に銘じたい。



さて、話が飛んでばかりいるが、今日はこのことに関して書きたいと思い、その気力があるのでどんどん書いてしまいたいと思う。



その息子は、この母を全面的に支えているとは書いた。二人で肩を組んで、母の著書を紹介し、サイン会や講演に出席し、レノンの思い出話を語る。
そして、彼らのファンは、洋子を忌み嫌っている場合がほとんどである。

はっきり言って、私は洋子に対して色々と思いがあり、決して彼女のことを認めたいとは思わない。
でも、この二人の姿を見ていて、微笑ましいと思っても、応援したいとは思えないのである。

そんなに君達は傷つけられ、虐げられたのか。だとしたら、今のその姿も理解できるが、実際人生を通して、未だにそのテーマにしがみついて、本を書いたりインタビューで父を許せないと語るほど、トラウマになったのであろうか。
その辺が、私にはいまひとつ理解できなかったのである。

もちろん、伝記と言う伝記は、全部読みつくし、記事という記事も読みつくしていると言う事実があっても、理解できない。


今晩、携帯のプッシュ機能が鳴り、JulianのFacebookがアップされたと言う知らせが入る。見に行ってみると、新曲が掲載されており、聞いてみると、これまた有名なBeatlesの曲、Lucy In The Sky With DiamondsのLucyが、Julianの当時の幼馴染であったのだが、そのLucyと言う名前を題名にした新曲なのである。

またかよ…

思わずそうつぶやきたくもなる。
まあ、この実在Lucyさんは、この秋若くして亡くなったばかりなので、彼女にささげた歌なのかもしれない。
それにしても、そのコメントにもう父を許せると言うようなことが書いてあって、彼は46だかなんだかになるはずなのだが、そこまで時間がかかるものかと唖然としてしまった。

しかし、ネックになった理由と言うのがごく簡潔に書かれている。


父はインタビューで語った。

洋子との息子Seanは、はっきりと望んだ子である。
Julianは、望まれた子ではなかった。事故だったんだ。

この後、NYに渡ったレノンは、洋子との生活、洋子とのファミリーに心身共に費やし、Julianに会ったのは、離婚後暗殺されるまで、7回だったと言う話もある。
それが、彼のトラウマになっているということらしい。
それは、何度も何度も読んでいたことだったが、今晩、突然、

いや、それもわかるかもしれない。それももっともかもしれない。

そんなことを思ってしまったのである。
なぜだかは自分でもわからない。なぜ今だからわかると言う心境なのか、私にはわからない。

しかし、これはやはり重大なことである。直球でど正直なレノンは、しばしばこのような発言をした。しかし、これが彼の息子の人生最大のトラウマになろうとは、彼自身思いもしなかったことであろう。

結局、こんなことではないだろうか。
私には常々、考えてきたテーマがある。自分では決して左右することのできない運命の一つに、生まれと言うものがある。
そして、もしその生まれそのものに、不幸の種がまかれていたとしたら、具体的に言えば、望まれなかった命としてこの世に生を受けた場合、人間には、根本的に生きていく力を授かっているのかと言うことである。

子供の教育は三歳児までと言うし、生まれてきた子供が3歳になるまでは、愛情をしっかりと与え、自己意識を安定させることが大切だとはよく言われているが、そういうことではなく、もし3歳児まで溢れるような愛情を受けて育ったとしても、その生まれが実は望まれていなかった場合、その子が逆境にぶつかったときに、まるで自分では理解できない地の底から湧き出るような、いわば人生を生き延びていく生命力が、本当に望まれた子供達と同じように備わっているのか、ということをずっと問い続けてきた。

そして、今晩私は、やはり自分の生を父親から、こういとも簡単に公で、Julianは望んだ子じゃなかった、などと言われたら、もしかしたら地面にどんどんひびが入って、自分が恐ろしく小さく思え、周りの人間の顔もまともに見れないような、恐怖感を覚えるかもしれない、そんなことがあってもおかしくないと、感覚的に理解できた。

どんなに自分より劣った子でも、醜い子でも、恵まれていない子でも、彼らには、おそらくその子を望んだ親がいる。
しかし、僕にわかっていることは、僕は親に望まれなかったと言うことだ。

もし、これが事実なら、自分の存在価値を一体なにをものさしにして計っていいのかわからなくなるだろう。生まれるということは、自然界の現象で、そこに望むも望まれるも、そんな倫理的解釈はもともとする必要の無いものである。でも、原始人じゃあるまいし、核家族のなか、小さな子供が育っていくときに、父親がインパクトの強い女性とさっさと外国に行ってしまい、インタビューで自分のことを望まなかったと答え、新しい女性と、不妊治療を重ねて念願の一人息子をもうけたという話を聞いて育ったとなれば、46のいい歳をした男が、未だに父を許すの許さないのと言うのもわかるような気がしてきた。

結局、私の話題はまた、レノンの前妻のCynthiaに戻るのである。
彼女は、前述したような通りの女性で、何の罪も無い、まさに無実の人である。息子にも愛情を注ぎ続けて、立派な大人に育て上げたのである。彼女が、弱い人間なのかといえば、決して弱いのではない。言うべきことを言わずに、そのまま「離婚されて」来た女性というと、まるで弱弱しい影の薄い人間に聞こえるが、彼女は決してそんなに弱い人間ではないのである。

どこかそれでも芯が通っていて、経済的も自立し(レノンからは信じられない微々たるお金しかもらっていなかった)、再婚相手も見つけるほどのバイタリティのある女性なのだ。話し方も、若干静かだが、抑揚があり笑ったり、泣いたり、とても豊かな感情のある女性だなとすぐにわかる。

しかし、生き延びる力と、自己意識の高さ、安定感は違うのだ。結果から言うと、ナルシスティックな母親が子育てをすると、難しいと言うことである。ナルシズムと言う意味は、決して自己愛が強いと言う病理学的な意味じゃない。そうじゃなくて、他人の補償作用がないと、自分に自信が持てないという意味で。

自分が安定するために、または自分がこれでいいのだと思うために、他人の感情や、他人の言葉によってそれを一々確認しないと、確信できない人が多くいる。
私もそんな一人である。
子供は鋭く母親のそういった心情を察知して、母親が必要としている感情のみ表示し、それ以外の感情を抑圧したりする。母親のききたい言葉をさっと言って、本当は言いたいことを我慢していたりする。
それは良い子でいたいという欲求からなのであるが、良い子でいたいのはなぜか。
なぜなら、母親自身が自分の精神状態や、人間形成や、人生の問題で手一杯で、子供のことを愛しいと思っても、子供からもママはこれでいいのだろうか、ママのこと好き?、ママはがんばっている?などと無言の質問を突きつけていることがあるのだ。
そして、このような母親もまた、同じような母親に育てられた犠牲者といってもいいらしい。

Julianの母には、最低限の性格的強さや、人間としての張りは備わっていたが、自信の無さにかけては、トロフィーものといっても良いほど、セルフエスティームが低かったことは間違えない。それはレノンの度重なる浮気もあったろうし、アイドルとしての夫を失う不安もあったという様々な背景が複雑に絡み合って、彼女のセルフエスティームの低さは改善されることが無かったのであろう。そういう母の元に、大切に育てられたJulianは、父親の発言を知って、俺にはそんな発言、どうだって良いと言える地盤が無かった。一年、二年で消化できる地盤が無かったのかもしれないと、ふっとひらめいたのだ。

地盤がないといえば、まるで彼も軟弱ひ弱な感じになってしまうが、あの父とそれなりに人生を乗り越えてきた母親との子である。簡単につぶれるような貧弱な性格ではないはずだ。しかし、結局感受性が強いから、つまり非常に繊細な人間だから、一言一言が余計に突き刺さるのであろう。そして一々貴人の価値と結び付けてしまうのである。
それこそが、ナルシシスティックな母親に育てられたことの証であるし、無神経な子供なら、そんな母親の無言の問いかけを踏み潰すように、無神経そのものに図太く育っていくのであるが、才能があったり、繊細で利口な子供ほど、そのコミュニケーションの「裏側」にある言葉、行間のようなものを本能的に読み取るのである。

Julianは、自分の生まれに付随した「傷」に深く傷ついた。そんなにみすぼらし子供でも、親に望まれたなら胸を堂々と張って生きていけば良い。しかし、僕は、父親にも母親にも望まれなかったと悟りきってしまったら、それは思春期の子供には、突き刺さるような痛みであろうと思う。子供時代に一回終止符を打って、思春期、青年期に移行する際、子供時代を締めくくれない子供がおり、中には自殺してしまう子供達も多くいるという。

Julianは自殺こそしなかったが、精神的にその代わり、彼は父親を殺したのだと思う。オイディプスのようであるが。その父親と今和解することができると、そう彼は語っているのだとわかってきた。

それにしても、悲劇的な話である。大スターの息子だからゆえもあるし、離婚後、母子家庭ではないが、母だけが肉親であるという家庭に育った男児の問題でもあるし、もっともいけないのは、実父が養育に関する一切を経済的なことを除いて、拒否したと言う点であろう。


ところで、無駄話だが、この離婚で彼女がもらった慰謝料というのは、レノンが洋子の前夫に払った慰謝料の3分の1とも4分の1とも言われている。Julianへの養育費も、スーパスターからは考えられないほど、微々たる物であるらしい。


Julianの歌声を聴いた。それは張りを失い、つやを失い、ほとんど震えているように不安定な歌声であった。彼の顔は、父親よりもいっそう母親に似ており、声色も父親とは根本的にかけ離れたものである。

その男が、父親の歌を題材に、今和解できると銘打って、小気味良い明るいポップソングをリリースしたという。
私は、なんとも言えない心苦しい気持ちになって、ほとんど同情の気持ちがわいてきて、これを書いているという次第である。

ご苦労様でした。
親にされた仕打ちというのは酷い言い方だが、親が偉大なのも楽ではない。また、レノンもそんな発言を世界に向かって発言するようなナイーブな面を持っていたのだからしょうがない。こういうときこそ、抑制、自己制御という言葉を思い出さないといけないと思う。
自分に正直で、心に正直に洗いざらい言えば許されるということは、大間違いである。

正直さゆえに傷つく人が多くいる。
息子はある意味、この言葉の犠牲になって、生まれを検証する作業に入ってしまった。そこで母親が安定して、精神的に極めて健康な人間でなくとも、せめて無神経な図太さでも持っていてくれたならまだしも、繊細で感受性が強い上、息子の自己肯定の答えを与えられるような土台など持っているはずもなかったのである。彼女こそ、私はこれでいいのかと、更に問い続ける人生に突入しており、Julianが青春時代多かれ少なかれドロップアウトしたのは、もっともな結果だったといえる。

50を前に、彼はオイディプス同様、放浪のたびを終えたらしい。失明こそしていないが、オイディプスがテゼウスに保護されたように、彼にも聖林のような、聖家があるのであろうか。
ちなみに、彼は結婚もしていなければ、子供もいない。無論、そこはオイディプスと違うのであるが、Julianがそこに至れなかった理由、つまり彼の放浪の旅の全面が、今晩パーッと視界に広がった。

ある意味、これからも、こうして皺を増やしながらも、父親の影との戦いをまだ続けていくのかと思うと、落ち込むのだが、運命は本当に厳しい。

父親を殺した後の旅は終えたのだ。
早く、聖林に入って、女神達となぞの死を遂げるような方向に進んでもらいたいと思う。



洋子のこと、レノンと彼女の息子Seanにことにも、こうして綴ってきたこと以上の思いがある。

また体力と気力があるときに、書いてみたい。

レノンファンじゃなかった人、長々と無駄口をたたき、まことに申し訳ありませんでした。

また日記でも普通に書いて行きたいと思います。





2009年12月05日(土) 再び日記について

昨日は、古巣に帰ってきて、久しぶりにまた日記を書いた。携帯から書いたので打つのが面倒くさかったし、書いた内容を大画面で読めないので、全然文章がまとまっていなかった。尻切れトンボのような文章ばかりだったことにげっそりしている。


今日も日記を書く予定は無かった。取り立てて何か起こったわけでも、書きたいと思ったことがあったわけでもない。
でも、今仕事を終えて、夜中の二時、もういい加減寝ないと、と思うには思うのだが、やはり一筆書いてから寝たほうが、すっきりするような気がしてこうして綴っている。


ブログを書いてきて、そのほとんどは好きなことを書いてこれたと言えるし、もらったコメントには励まされていた。
しかし何でも続けていると、だんだんこなれてくるもので、ただ書いているという状態に満足が行かなくなった。
個人的な心の動きばかりを書き記してきて、それを好んで読んでくださる方もいたが、私自身、もう少し上達とか、目的を定めた文章を書きたくなった。

なぜかと言えば、自分の心の問題や悩みを切り売りしているようで、そんなこと万人にだってできるだろうと思ったんのである。
ただ、思ったことをそのまま言葉にしていくことを難しいと思ったことが無い。つらつらと書きなぐっていけば、それでその日のブログはおしまい、と言う感覚であった。

なので、まるでちょっとトリミングするように、ブログのスタイルを決め、特徴付けて、自分のアイデアを盛り込み、これとこれがこのブログと言えるようなものを作らないと、書きなぐりだという意識があったのだと思う。

それに先立って、私のプライベートの人生に、色々と変化がおき、振り出しに戻るような形になり、それを機に、今まで自分がどんなことも恥ずかしげも無く書き綴ってきたことに終止点を打ちたくなった。
もうこういうことはあまり書かない。そうではなく、本来のブログ機能として、私にできる情報を発信すればいいと、好きな音楽のことや、本のこと、さらには仕事や住む街のことも書いてきた。

私の心が、その文章にはこめられていなかったわけではない。ただ、プライベートでの姿勢もものすごく割り切って生活すると決めてしまった部分があったので、書く文章も心を前面に出すスタイルになることは無かったと言えばいいのだろうか。

そのせいか、過去のブログで、鬱々とした気持ちを書いていた時代にも読んでいてくれた読者が、新しいブログに移った途端、活動し始めた。私が外に向かって、語りかけ始めた証拠だったのだろう。内に向かって話す文章を書いているとき、彼らはそれに興味を持って読んでくれはしたのだが、決してコメントを残すことは無かったらしい。そのブログをプライベートとシンクロして、引っ越しますといったとき、彼らは突然姿を現し、読者でしたとコメントしてくれた。

とても嬉しかった、目には見えないが、影ながら読んでくれる人がそれでもいたのだと実感した。
その彼らは、新しいブログで頻繁にコメントをくれ、どれも私の内容に上手に対応して答えてくれ、時に温かい言葉もかけてくれた。
でも、昔なじみの友人が、あまりコメントを残さなくなったと言う気がしないでもなかったのだ。

結局、私と言う人間を知る人、つまり過去からの長い間の読者を含めた人々にとって、その新しいブログでの私は、なにか話しかける糸口の見つからないような存在であったのだと思う。
その代わり、新しい読者の人々は、私に話しかけやすい、つまりそれだけ、私が他に向かって発信する文章を書いていたということになるのだろうと、今になって思う。

けれど、突然、本当にある日突然そのブログに意味がないと思ってしまった。
こんなもの、後で読んでも、私の生活のいったい何がそこに垣間見れると言うのか。
私は、やはり日記書きのスペシャリスト(長いと言う意味で)であり、ブログ著者には向いていないのである。

ミクシィで、外部ブログのアドレスを消した途端に、過去に一時期書いた日記が出てきた。もう2006年とかのものである。

ある悲しい小説を通して知り合い、何度かメール交換をして、その彼のやはりどこかもの悲しい過去を知ったという人がいる。
その彼は、当時大学院に所属し、博士号を目指すと言う、若くバイタリティに溢れている生活をしていたのだが、色々悩みとおして博士号を断念し、地元の新聞記者になってしまった。

その彼は秀才で、経歴を見るだけでもびっくりするのであるが、そのある小説というのは、実は彼の書いた文章のことであり、それを発見した私が感想を書いて知り合ったわけである。
なので、彼の文章に関する感性は、とても優れていると私は信頼を寄せているのである。しかし、彼は博士号を目指す、いわば学者の卵でもあったわけで、論理的に物事を考えることがいわば商売ともいえる人間であるため、人の心の中、しかも女性のぐだぐだという心の声などに興味を抱くはずが無いとも思っていたのである。

その彼が、過去のミクシィの日記のコメントに、

僕は、○○さんの、鬱鬱として日記の方が好きです。そちらを読んでいる方が、息遣いが聞こえてくるようです。

書き残して行ってくれた。
すると、そのコメントに便乗して、友人達も皆、鬱のようなことを書いてばかりいるからと言う理由で止めないでくれ、みんなそれを読みたがっているとコメントを続けてくれたのである。

私には意外であった。人の暗い話を聞いて、エネルギーを吸い取られてしまったら、とんでもないというのが、本音ではないだろうか。そんなことを考えていた。

しかし、今から思えば、答えは簡単である。

結局、私は私でしか有り得ない。
私と言う人間は、正直に、赤裸々に、恥ずかしいことも、普通はなかなかいえないようなことも、洗いざらい書いていくという性格であり、それを書いているときの文章が、一番私らしいのである。

私には、とてもこんなことは書けないということまで、公開で書いてくれるので、それを読むことができる。

と書いてくださった方もいた。
それをトリミングなどして、内容を形付けようとしても、そこに私と言う人間の本質を垣間見ることはできないのだろうと、だんだんわかってきた。
私は、書きなぐる方で、校正もなにも一切しないという杜撰さであるが、その書きなぐりこそ、私の話かただし、私の行き方なのである。

色々な要素が一つとなって私と言う性質になるのだが、そこに一つ何かしっくり行かない文章を形作ったところで、近しい友達こそ、遠ざかってしまうというのが、事実だったのだろう。


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この日記サイトを知ったとき、私は人々の、それこそ数え切れない人々の内なる声を読むことができる事実に、文字通り感動した。

ラーメンを食べただけの人いれば、自傷行為を続けている人の日記もあった。サラリーマンの方のも読んだし、悩みなんかこれっぽっちもないという楽しい外国暮らしの方の日記も垣間見た。
それはすごい世界だった。地球のあちこちで、つまらない日常が、来る日も来る日も繰り広げられている。男が女を好きになり、女が男に振られ、またはその逆も起こっているのである。子供が病気になったり、家族が増えたり、それは色々な人間の営みが、一日の出来事として、様々な日記にちりばめられている。
そして、なにか人間の生活のミクロコスモスを一つ一つの日記に発見したような、宇宙的な感覚まで覚えてしまったのである。大げさではない。
その多くは、自分に対して書いている、自分のための「日記」である。
ブログを持っているが、こっちには日記を書くという、まめな行為をしている方もいるようだ。

ブログサイトを巡ったとき、このような思いを感じたことは無い。
この日記サイトだけである。そして、いくつかお気に入りがあり、その日記は今も欠かさずに定期的に読んでいる。
ブログ世界から来ると、非常に閉鎖的で、ここはまったく違った世界なのである。
しかし、読み応えは、その内容や、長さにかかわらず、こちらのほうが深い。
それは、日記と言う性質が、結局自分のために書く行為であることから、その人自身が、他を意識することなく、そのまま書き綴っているからなのだともう。何のトリミングも無ければ、何の躊躇もいらない。後悔も、苦悩も、個人的喜びも何もかも、生活の記録として、自慢とか、謙遜とか、一切そういう次元とは関係なく、とつとつと綴られているのである。

ブログをしてると、自慢に聞こえたらまずいな、とか、あまり謙遜しすぎるのも嫌だとか、でもここには多少自分のライフスタイルを垣間見せるようなことを書きたいとか、常に他者を意識しているのである。そうして書くのも、また楽しい。しかし、心に響くものではない。

人間が小説を読むのは、心を動かされたいからだったり、自分の人生以外の人生を擬似体験したいからである。読み応えというのは、共感であり、自分の人生と重なる部分や、心の中に重なる部分を発見して、その文章内の感情と自分の感情が共鳴したとき、一番読み応えが強くなるのだと思う。

私は、結局他人の文章にそういった共感を探し続けているし、自分の文章にそうして共感してもらえたと実感するときが、一番嬉しく思うのである。

だから、私はブログに、急に意味を見出せなくなったのだと思う。

前回の日記にも書いたが、それでは一人で日記帳を書けと言われそうだが、それは私は嫌なのである。
他人の日記を大量に読んだ経験が、まるで宇宙感覚みたいに、多くの人々の人生を垣間見たと言う感覚を得たのと同様に、私自身も、しがない一個人としての日記を後悔することで、その数え切れない人間の日常に参加したいのである。私の取るに足らないような、実際何も起こることのないであろう、実に平凡な人生も、立派な一つの人間の営みの断片である。それを収集して、人間社会が成り立っている以上、私自身の声も、是非そこに反映させたいと思うのである。
それは、おそらくバベルの塔のブロックのひとかけらにしかならない、つまりそれだけでは何の意味もなさないほどの存在でしかない。
しかし、そういう一つでは意味を成さない物が集まって、複雑で人間特有の社会が出来上がる。
こうしてそういう日記を公開することで、確かに共感したり、励まされたりすることがある以上、万人が文字を公開したいということを制限する必要はないような気もする。

私自身は、ブログより、日記の方に、ずっと問いかけの威力を感じるのである。それが、情報としてはブログより、ずっと価値がないとしても。


ということで、ちょっとある形でお問い合わせをいただいたので、間接的にお答えしますが、ここの日記サイトのお気に入りの方々の日記は、今後も読み続けるだろうし、お気に入りに登録してくださっている数少ない方々が、私の日記を読んでくださるのは、実に歓迎なのです。
ここで書くことは、私が、思ったことをそのまま書きなぐっています。それを読まれて困るようなつながりは、少なくとも、このサイト上では有り得ない。むしろ、書きなぐるというか、思ったことに一切装飾しないで書く、と言う行為だからこそつながっているわけですから、これからも私はPさの日記を読み、自分の悩み、痛み、喜びに、必ず共鳴させて心を動かされ、自分のなかに新しい心の動きが生まれたり、心が静められたりと、何かの形で影響されるのであると思います。

正直な文章で、心の底から自分を見せる、作るという考えとはまったく関係のない次元で書かれた、心の声を通してつながってきた人とは、今でもまだどこかでつながっています。
上記の悲しい小説を発見して知り合った彼とも、会った事はないのに、静かにまだ文章を読みあうという行為で、つながっています。

ブログでみつけた表面的な共通点でつながった人は、訪れたり、また離れたりして、あまり一定しない。

不思議なものです。

さて、ここまで書いて一時間。
私は書き始めると、どうも一時間書くのが癖のようです。

これも、ブログ管理のように時間をとられるので、本当はもっと手短に、言いたいことをかける訓練をしないといけない。
そういうことも合わせて、ここにくるか、どこかで書くか、今後も考えて生きます。

しかし、書く舞台がないのが、これほどつらいとは思わなかった、
私は本当に、書きなぐっていないとダメなのだと実感します。


2009年12月04日(金) 日記の価値を見直した

ここで日記を書き始めたのは、もう5年以上まえのことになる。2年ぐらいかいて、使いかってが良く、興味を惹かれてブログサイトに移った。いくつかのブログを管理してきて、幸いなことに、嫌なコメントをもらって不快な思いをしたこともなければ、誹謗されたこともない。

けれど突然嫌になった。友人と繋がっていることさえ煩わしい。
皆一応に愛情のあるコメントを残してくれるのにである。
結局、そういうバーチャルな関係、というか、関係でもないような繋がりを煩わしいと言えば弊害があるが、必要ないと実感したのであろう。

ブログには、詳細に書いてあるが、ウェブ世界に支配されているという感覚、また支配されているのかという疑問すら抱かない万人に、突然嫌気がさした。
ウェブスペースは、私がその程度と範囲を決めるのであって、あちらの世界の管理と情報に自分が振り回されたり、気が散って集中力が欠乏するのは、後味が良くない。まさに日常生活が軌道を離れつつあるという感覚だ。

大体、交流を求めて発信する文章を書くことに、嫌悪感を覚える。
無論私は書いたことはないが、「皆様お元気ですか」で始まるブログには吐き気をもよおす。一体どんな関係の誰に問いかけているのか。そして内容のあまりにもないブログを読む時間の無駄。素晴らしい情報提供、オピニオンを発している優れたブログをいくつも購読しているが、限られた書き手である。
遠方の家族のためのブログをとやかくいうつもりはないが、主婦や若い女性が、下品に自分のプライベートライフやインティミティを恥ずかしげもなく暴露して人気を誇るサイトなどに突き当たった際は、良い大人の品性と知性を疑ってしまう。

そんなピンからキリまでのウェブ世界に、やっと出来た暇な時間、何故か振り回されている自分を発見した時の感覚は、冷や汗に似ている。

そんな折、日記サイトの価値を再発見した。
文章は書きながら自分と対話して行くから発見があり、人柄が出る。人の反応を意識して書きつつ、自分の本性をしっかり植え込むのは難しい。
私はそれなら一主婦が、日々思い悩み考えを重ねて、うんざりする自分探しをしている文章を読む方がよっぽど面白いと思う。
本質のない抜け殻のような、ひどいものは程度の低い笑を狙ったような卑しい文章は、なんの意味もないどころか、不快である。

更に、質の良い文章と内容でも、コメント管理の煩わしさと、時に過剰に和を強調したコメントのやりとりをみると、結局他の中で書くからには、制限があると実感する。
私が書くのは、自分を戒め反省し、なんとか真っ当に生きるために、考えを整理したいからだ。友人にすらみせたくない葛藤や個人的プロセスがある。
しかし紙にはかけない。

このサイトでブログ風の内容であるものも多くある。しかしやはりブログでは無いため、多くの文章は内向性である。そういういくつもの、普通の日常から生まれる正直なこころの声を読むと、共感を得ることが多い。自然体に正直に綴られる日常がいかに退屈でも、それが人生であり、細かいつまらない積み重ねが、私たちの毎日なのだ。
私が非公開にしないのは、そうしたつまらぬ地味な日常の数々が織り成す人間模様の一片でありたいからである。マクロに属するミクロコスモスとして参加したいからである。

子供たちの写真を記録し、文章を書き、簡単に日記にできるのは嬉しい。
しかし、私のように時間がないと、出先から思ったことを書留めるには、携帯からのアップができると、最善なのだが、流石にそこまで便利さを追及する方が間違っているのだろう。

今後どこで隠れて日記を書くか未定である。


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