| 2023年01月31日(火) |
たんじょうびにきせきはおこる |
2023年1月28日。 ミュージカルクリエーションの 本番を聴きにでかける 例外なく自主トレは済ませた 最近ではいつも祈るような気持ちがある
「痛みがでませんように」
自主トレが、、いのりにもちかい それに気がついた日 複雑な気分になった まったく、、 おどり以前の問題じゃないか。。 これがいけない ここにむすびつけちゃいけない これが今の課題といえる
(あたりまえにすればいいだけだ)
電車にのりこむ たいてい最先頭にのりこむ 膝が良くないのをわかっているので 席に座ることはない いつもレールの先を見ている すると運転席には運転手と教官が見えた 指導官の腕章で丸わかりだw そして運転手は女の子だった 女性、と書いた方がいいだろうか 「がんばって一人前になるんだぞ!」 そんなことを思いながら 『アイヌ神謡集』をひらいた もう少しで読み終わる
コロナ禍で本番をやるのは 想像を絶するほどの困難を極める なにしろ やろうと思わなきゃけっしてできない上に やろうとしても出来なくなる可能性さえある 関わっている人すべてに迷惑をかけかねない そういうわけで、、
(ただ本番当日が迎えられるだけですごい)
会場は某教会ホール ギリギリで入館した手前、最後列になった 前に行こうにも席をえらぶ時間がない(爆) それにしても膝のこともある。。 最終選択は 《立ち見》 全部立ち見で聴いた 座る時間が長くなると伸びなくなる 近年では稀に見る自主立ち見だ 家を出てから一度も座っていない
曲目が変わって出演者ジョーさんとすれ違う 楽屋に去るのも客席を突っ切るため避けられない ジョ「お前、座れよ」 まったくもってごもっともの一言なのだが こちらも理由がある 怪訝な顔だったから あまり納得されてないかもしれない そう、これが結構ツライ なにしろ《わかってもらえないヤツ》だからだ 最後尾で最初から最後まで立ち見は、、 スタッフ以外、自分しかいなかった ステージから見たら もしかしたら相当浮いていたかもしれない
誕生日にミュージカルクリエーション 彼らのステージを数えきれないほど見てきたが 自分の誕生日には人生で初めてのことだ 教会が会場というのも何だか悔い改めたくなる とても厳かな気持ちになった
これからも歌いつづけてほしい
その帰り 電車にのりこむ たいてい最先頭にのりこむ 膝が良くないのをわかっているので 席に座ることはない いつもレールの先を見ている すると運転席には運転手と教官が見えた 指導官の腕章で丸わかりだw って、え? げええええええええええええええええええ
運転手、まったく同じ女の子じゃんw
こんなのは人生はじめてだ。。 いやいやいやいやいやいy この構図、、往復とも全部同じなんですけど… 爆 完全に小さい秋レベルの小さい奇跡w こちらが気付くくらいだ 向こう側も間違いなくそう思うにちが、、 いや、俺だけだろうな 笑笑
「お互いがんばろうぜ」
| 2023年01月30日(月) |
「劇場版 呪術廻戦0」 |
時がきた いよいよそれを視聴する時がきた きてしまった
『劇場版 呪術廻戦0』 呪い合え、全てを懸けて
幼少の頃、幼馴染の祈本里香を交通事故により 目の前で失ってしまった乙骨憂太。 「約束だよ! 里香と悠太は大人になったら結婚するの」 怨霊と化した里香の呪いに苦しみ、 自身の死を望む乙骨だったが、 最強の呪術師 五条悟によって 呪術高専に迎え入れられてしまう。 そして、同級生たちとの出会いから 乙骨はある決意をする。 「生きてていいって自信が欲しい」 「僕は呪術高専で里香ちゃんの呪いを解く」 一方で、かつて一般人のジェノサイドを企んだ、 最悪の呪詛師が現れる。 果たして、乙骨は、、 そして、里香の解呪の行方は—
呪術廻戦の原点。 愛と呪いの物語、、だそうです。 人間の負の感情から生まれる呪いと、 それを呪術で祓う呪術師との闘争スペクタクル。
最終盤。 そのセリフに その会話に 萎えるのとその直後に感動がきたのは 人生で、はじめてのことだった なんと完全に《萎える→感動》がほぼ一瞬だったw こんなのは ほんとうに はじめてだ
萎えたのは[解説的な台詞] この説明は、、サメる。 ダンスではこれこそ踊りたくないものに当たる。 自分が監督なら台詞にはしない。 (厳密にはセリフではない思考のものでも)だ。 だって、、萎えるだろーーー
「自らを生贄とした、呪力の制限解除! そうくるか!女たらしめ!!」
制限解除、、これが萎える。 わけのわからないところで数学的な文言は、、 萎える!! そもそもわけのわからない呪力で、 呪力で都合をつけてるんだろ!! だから度し難い言葉を選んでくれ!!頼むよ! しかし、しかしそんな文言を圧しても 直後のセリフは 直後のセリフには これにはさすがにことばがうかばない なんだかわからないくらいに 声のチカラをかんじてしまった たましいとも呼べるような声だった
「失礼だな、純愛だよ」
これは文字じゃ到底わかるまい もうこの作品は、この台詞だけのために あった、と言って差し支えない。 これがエンターテイメントだ、と言えてしまう! あの台詞でこの物語が完全に成立してしまった。 集約する、なんていうのは… よほどつくりこまれていなければ 決してできない芸当なのだ 自分もつくりてのひとりとして、、 うなりをあげてしまった
つくりものになにをこめるか つくりてには それがゆだねられている なにしろこの作品にどれだけの人間が かかわっているかしれない だってこれは娯楽商業映画なのだから
それにしても それにしても かなしいのは
祈本里香が消え去ってしまうときだった
いた誰かが いなくなるのは とてもさびしい
たとえ物語でもさびしい
年月を重ねていけば いろんな人のことが嫌でも想起されてしまう
超個人的なことを言うと なんだかわからない極太ビームで 片がつく、というのは嫌いだ だって間接攻撃じゃん!! 光線というのはどうしても幼稚だ だって人間に光線は出せない だから 大人は直接攻撃なんだ!! そうは言っても、 この《ビーム》みたいなヤツの正体は、 概ね、、わたしたちの《熱量》に相当する。 そしてそう それが感動をつれてくるのだ… ああ、、何なんだろう 《ひかり》っていうのは。。 ああ、、嫌いだなあ 笑笑
「ソノモノ」は自分がおどるもののタイトルです
その時 その場所で そこでしか成れない自分になること
それを わたしは《おどり》と呼んでいます。 つい「おどりをおどる」と言ってしまいますが、 どちらかというと、
(おどりになる)です
表現という言い方もありますが、 個人的には「表現」という言葉自体が 好きではありません。 否定したいわけでもないのですが、 表現をしたくておどってないんです だから、表現、と言ってしまうと 何だか決定的にベツモノになってしまう気がして。
わたしたちが行使していること、 それは誰かが名付けてしまったものです 自分の場合はダンス… ダンスですね それにしても「ダンス」って何なんでしょうねw ほんとうは誰も知らないんじゃないかなww だとすれば、踊り手がまずそれを見つけること そしてその日それを見てくれている人それぞれが 感じとってもらえること これはいつでも身に降りかかっています。 その時のダンスとは何なのか 何のためにおどるのか 闇雲におどりは踊れません おどりをおどるからにはそれを見つけたい ある意味では見つける行為そのものが (おどり)なのかもしれない、とも考えています コトバになる前のものだったり コトバにならないすべてだったり 時には意味があることを 時には意味じゃないことを うまくおどりに成れたらもう止まりませんw 止まれない、という方が正しい気もします。 見つかったら空気みたいになれる ただし、、見つからなかったら 結構な生き地獄です! なにしろ本番当日のド真ん中ですからね。。
さあそういうわけでソノモノです
わたしたちのように何かをしている人にとって (何か)が極めて重要です。 最近、こんなことを尋ねられました
「タイスケさんがおどっているのは 他のダンスとどう違うんですか?」
今回はこう答えました
「みんなに知られている(ダンス)というのは ダンス(が)踊りたい、と言われたりするもので 自分の場合は、、 ダンス(に)なる、ということでしょうか」
手段のためにはおどってないんですよね… ダンスを道具みたいに、とか自己実現の手段、 表現として、、まったく考えていないんです わたしはこの目で見てきました おどりのひと ダンスそのもののひとを 歌の人 絵の人 音楽の人 あの(感じ)は似通っています 現実を、現在をスッと飛び越えてしまうあの
みんなわかってしまいますよね? これって無意識に、 みんな(わかってしまう)やつですよね? 歌でも絵でも音楽でも、 自分(が)している人のことを 自分(を)している人のことを そして— そんな(自分)を飛び越えてしまっている人のこと わかってしまいます
もちろん(自分)の人にはチカラがあります (自分のチカラ)を持つ人は尋常じゃありません 周囲の人を飲み込む強烈なものです
自分としてはそうじゃないチカラを引き出したい ちっぽけではありますが 揺らがない何か それを空気に通して空間に委ねたい いつの間にかその人を通しているような
再復帰公演『The 3rd BIRTHDAY』の感想に 古い友人のものがありました
「ダンスというよりも、 おどりというよりも、 タイスケさんなのがよかった」
これは 震えるくらいの最大の賛辞です しかし、もしかしたら、それと同時に 自分をこえられなかった事実とも読めます 考えようによっては 一周して自分になって戻ってきたのかもしれない
あの時は、それにまだ気付いていなかった いいおどりを踊りたい、そう思っていた気がします もしかしたら、 もしかしたら、 自分がほんとうになりたいのは、、 名付けられていないものかもしれない ダンスじゃないかも おどりじゃないのかもしれません
《自分をこえた自分》なのかもしれませんね
思い込み 自分にとっての《あたりまえ》 思い込みは強靭です
そのすべてを打ち砕かれたあの日
それまでのゆめが ほんとうのゆめじゃなかった、、 それを知ってしまったのは あの時あの場所にいたからです あの日がなかったなら、、 きっと永遠に気付けなかったかもしれない そこから始まる地獄に目を伏せれば 舞い降りた史上最大のギフトです☆ ただし、それに気付いたのは (その日)じゃありません それがわかったのは—
どん底を通り過ぎたある日
どん底は常に自分に張り付いていました コトバにすれば「絶望」になりますが そんなコトバでおさまらないほどの地獄です どうして通り過ぎることができたのか… これは未だにわかりません。。 この《わかりません》というのが、、 取り出せる唯一の実直な気持ちです
どうして 前を向けたのか
今となってはやっぱり (一生懸命おどってきた自分がいたから)に たどり着けてしまいますが、 あの時にそんなこと考えてやいません 自分のことだけで精一杯です なんとかしたい そう思えたのも通り越したあとです なんとかできる、と思えるまでが コトバにならないほど苦しかった 夜になると死にたくなるので、 夜に起きていられないほど 昼間に体力を根こそぎ奪います そうして毎日を乗り切っていました それを「一歩」と呼んでいいのか、、 なにしろ明日を迎えるためだけの努力です とにかく自分にできる最大の最低限でした あの時から出会った人たちが すべてのはじまりだった気がしています
なにしろ自分が自分でいるだけで苦痛でした 今までの自分じゃないカラダになっていましたし あたらしい自分を受け容れることができません 痛くて不自由で 完全に自分自身に 自分自身だけに呑まれていました
きっと誰もがそうなると思います 自分に、思いもよらないことが起こるなんて 思ってもいないはずだからです
明日しぬかも、なんて思ってやしませんもんね ところが これが自分自身に訪れたらどうだ 自分が変わってしまうのは「道理」です この世はいつどこで誰がどうなるかわからない ただの文章ではない、ホンモノが 自分自身に訪れたら認めないわけにいきません 世界の見え方が一変しました
今まで億劫に思っていたことが とつぜん急を要するものに昇華します 今できることを今やらないと永遠にやらない 誰かに会いたい 伝えたいことがある これが元凶で後悔のない人生がひらきました
今やれることをやったなら 全力でやれたなら 自分の力のなさがわかりこそすれ 後悔は来ません
自分が自分に呑まれている時は 本物の地獄です 自分に起きた不運、不幸は 誰にも受け止めてもらえません どんな人にとってもその人それぞれの地獄です 病気や症状に差がどれだけあっても同じ地獄です 自分自身が感じる痛みは、誰にも同じもののない、 共有することができない正真正銘の苦痛だからです わたしがそんな地獄から抜け出せたのは、、、 他人がいたから、です 他人というと語弊が生まれかねませんが 「誰か」と言えます 誰かがいることで自分がわかる 誰かがいるから今の自分がわかる 冷静になれる 自分を打ち払えるのは(誰かがいるから) そんな気がするのです 自分だけの世界では、 誰からも干渉されない世界では、 すべてを受け入れてくれる友人や親族だけでは 自分はいつまでも変わらずにいられます ただし人の間にいつまでも入ることもありません なりたい自分にならなくていいのなら もしも他人がいなかったなら こんなに怠惰な世界もありません 自分からそこに行きたいならまだしも 行きたくなくて行ってしまった自分には 最初から抜け出せるチャンスがあったのも事実です あの時、会いたい人に 片っ端からメールを送ったのを覚えています 自分のことをわかってほしかったからかも しれませんが、今思えば鼻血でそうですねw
過去にも記していますが、 ミキさんは自分を変えてくれた人です あれほど生きようとした人をわたしは知りません 生きるためにすべてのことをした やりきった人 人間にはあれだけの力があることを知っています いつも圧し潰されそうな恐怖と共にあった人 長く話していると(いつも)恐怖が滲み出てた ミキさんと出会って自分の痛みの小ささを 自分の地獄の小ささを思い知ったとき (自分)が吹き飛びました (自分)を抜け出すことができた (自分)じゃない(誰か)のことを、 はじめて、はじめて考えることができた日 今のわたしがあるのはミキさんのおかげです そんな人が今の自分を見たらどう思うでしょうね 「タイちゃんまだまだね☆」 なんて笑顔で言われそうで、、身震いします まだ元気に見えていたあのときに ダンスを、おどりを、見てもらいたかった リハビリ、、めちゃくちゃ頑張りましたよ! 今も終わりのないリハビリ人生ですけれど! ミキさんのいのちには間に合いませんでしたが まだ自分には間に合うひとがいます
どうやったらどん底から光が見出せるのか それも自分じゃない誰かに よしんば知り合いでもない人たちに 自分自身にもなかなか見出せない微かな光 理由のわからない 生きていることそのものに
そんな おどりに なりたい
ARTってなんだろう? 常々こんがらがってくる問題です。 今日はグーグル先生に訊ねてみよう。
artはラテン語のars、 ギリシャ語のtechnに由来し、 《学問》と《技術》 二つの意味を内包していた。
学問と技術、、なるほど。 そういえば答えをよくよく見てみると、、、 西洋から来ている観点に帰結する。 その長い歴史からか、どんなものも 西洋の考え方が、知識が(ただしい)と 思い込んでいるふしがあるかもしれない。 (それも無意識に) 無意識というのは非常に危険だ。 いつも思うけれど 世界遺産なんてのは誰かが決めるものなのか そんなものは規定されるべきとは思えない だが、どうだ 「◎△■を世界遺産に!」なんて 結構見たり聞いたりしないだろうか? 知られることによって 利する何かが生まれるんだろうな 遺跡。遺跡は、遺跡でしかない。 世界遺産はもともとそんな場所じゃない、 そんな気がしてならないんですよね。 でも、もしかしたら、もしかしたらこれが 《人間の正体》かもしれない 押し売りのようなことをしなくても それを知っている人がいる、 ただそのことの方がずっと大事な気がします
ARTについても やっぱり言葉では説明つかない何か そんなものだと思うのです なにしろARTの許容範囲が人智を超えてます☆ どんなものもARTでカタがつくかもしれないw 総称としてでも言葉にしておかないと 誰にも伝えようがない、 枠がないと(わたしたちは認知できない)
誰かの本が言ってました 言葉が使えるようになってから 私たちのすべてが始まる だって説明できませんからね! そうなると《ことば》がとんでもない代物に 昇華してしまいます。 言葉に支配されてる、と言っても過言じゃない!
おどりをつくろうとすると テーマは外せません じゃあそのテーマは何?と頭で紡ぎだすと、、 (言葉)の方が先んじてしまう恐れがある。 そうなると、ダンスは(説明)に成り果てます。 これはおそろしい罠です 説明のダンスほど退屈なものはない。 説明のおどりにはまず心が動きません!
ただ、そうでなくとも、 言葉のチカラを使わずにはいられない事があります それは、言葉にならないものすぎて どうにも捉えようがないものを扱うときです。 その時は(言葉)によって無理矢理カタチにする。 そうやってなるべく近似した言葉を選び出して、 イメージの力にする場合があります。 あくまでも言葉を踊っては本末転倒です。
これこそ自らのチカラが問われるところでしょうね
| 2023年01月26日(木) |
感性をつたえようとしたことがあるか |
ダンス。 おどりには、感性のものがある。
おどり=感性
これをおどりとするなら、娯楽とは決定的に違う。 それを楽しいと思うひともあるかもしれないが、 一般的な楽しさで言えば、 おおよそ見ていて(楽しい)ものじゃない。 しかし、楽しいとは異なる、 もっと深い、密度の濃い(何か)がある。 感性のおどりをおどる際は、 おどりを見ていてくれる人に、 その(何か)を発見してもらわなくては始まらない なにしろ説明できないものをおどっているのだ
度々、授業をしてくれと依頼がくる学校がある。 いつも1時間ではとても時間が足りない。 早巻きで進めてしまうと、 伝えたいことがどうしても曖昧になりかねない。 そうしないためには、 まずは何よりも面白いと思ってもらわなくちゃ。 自分が美香さんにおそわってきたのはこうだ。
小学生でもおどれるような簡単な踊りでも、 わたしたちは《おそろしく》おどれるでしょ?
ある種、これは明快なダンサーの資質だ。 投げかけられた声は今でも唸り響いています。 そう、そうだ、その通りだ おどり、おどりは、そういうものなんだ
わたしが与えられた時間内では、 おどりの《技術》は到底おしえられない。 そういうわけで、毎回。 創造力ともいうべき想像力にすべて振っています。
おどりを自分自身でクリエイトする
依頼が来るたびにおどりのことを再考します。 いつもいつでもその時に伝えたいおどりが、 今の自分には何なのか。 自分が勇気づけられてきた、その、
おどりの正体を
この断罪blogでも幾度となく記している。 すべてを伝えたい、そう思ったら、 言葉には代えられません。 感情や感性はことばに置き換えられない。 言葉ではまったく(足りない) どうにかして言葉にしようとすると 言葉ばかりが膨大に増えていって 結果、明快とは程遠い《説明》になってしまう。 精査すればするほど 言葉に(できない)(ならない) それでも伝えたい、受け渡したい、 そう思ったらおどるしかなかった! 笑笑 これは今でもおなじ。
ただ、考えて導き出るのは
《感性をつたえようとしたことがあるか》
例えば、、ボールがビュンと飛んできた。 その「ビュン」がどんなものだったのか。 例えば、、 自転車に初めて乗れた時のあの気持ち。 自転車の乗り方はおしえられても、 あの気持ちのほうはどうだ
ダンスでは、 おどりでは、
それができる。
相手に正しく伝わるかどうかは不明だが、 自分ではそのすべてをおどることができる。 わたし自身はこの(正しく)を、 努力してきたのを自負している。 おどりはどうしても一方通行になるために、 この一方通行の壁をどうにかできないか、 公演ではいつも挑戦している者だ。 感性は、自分で感じた感性は、 まず自分の中にしかない。 自分だけのものとも言えるので、 誰からも理解されないものかもしれない。 だから、ダンスは、おどりは、、
ツタエタイ勇気
これは、つたえたいものがあるおどりの ひとつの答えと言える。 おどりは決して自己中のものじゃない。 なぜなら《相手がいる》からです。 たとえ出どころが自己中なものだとしても 相手がいるのだから勝手なものは、、 決して踊れない。
どんな仕事も相手があるからこそ その仕事は丁寧になるはずですよね 仕事とはそういうもののはずだ
好きなことを好きなだけやっている、 と言えば聞こえはいいかもしれない。 だけど、やっていることはいつだって やりたいことはいつだって 片足が崖から落ちていたりしますw
おどりのタイトルを決めるとき、、 これが決まらないときは—
決定的に決まらない
内容が定まっているからこそ決まらない もしも答えをタイトルにしてしまえば、 もうほとんど見なくてもいいじゃないか それにしてもちょっとくらいは かすらないと、、 告知すらできない なにしろ意味をおどっていないのだ
おどりを見てくださる人に すべてを委ねる覚悟がいる
そうしてタイトルを決めあぐねる 黒沢美香さんの元で 研鑽を積んでいたときにつくった作品は 『ソノモノ』とした。 今でもつづいているタイトルのひとつだ。 美香さんに見てもらった後には、 タイトルの話になった。
美香さん「タイスケ、タイトルは『のの』 でもよかったわね」
たしか『ソノモノ』がストレートすぎる、 そんな話だった。 あのときのことを思い出すと まったく今に通じている。 尊敬する大先輩もきっぱりと言った。 《作品の解説をしてはいけない》 見てくれた人の想像力を奪ってはならない、 そうおそわったのだ。
まだあの頃は、受け取ってもらいたいものを 間違わずに受け取ってもらいたい意志があった これもまた非常に大事なことだったと 自負しているけれど、 おどりを想像力の世界とすると、 誰にも穢されない崇高なものともなり得てしまう。 ここが非常にむずかしい。 わたしたちの想いがここにあればこそ 人生で初めて見にきてくださる方に説明できない。 すくなくとも、、 手がかりにできる言葉でなければ。。 こうして延々とループする。 もともと《おどり》は 誰にでも受け取ってもらえるものじゃない それでも、 誰にでもほんのちょっとは胸をうちたい そうして言葉にするのを躊躇う なにしろ言葉は強い。 その《意味》が誰にでも受け取られるほどに。
初めて見てくださった人の感想を 人づてに聞くと 「なんだったのか全然わからなかった」 このセリフはいつもいつでもある。 そして、そのとおりだ。 《わかる》ものじゃないはずだからだ そして、その先に行ってもらえなかったのは なにかを受け取ってもらえなかったのは、、 完全に自分の力不足だ。
どんな公演でも(身の程を知りつづける) そんな震える話だ
ズボラとガサツについて 意味の違いをあらためて通説を調べた(マガさして
ズボラ=だらしない様子 ガサツ=荒っぽい様子
検索で「ズボラ」と入力すると、 予測で「ズボラ女子 モテる」が出現する 笑
対してガサツはどうだろう?
「ガサツ女子 モテない」
おお… おおお…
検索するだけで人生が豊かになった気がした☆
ズボラは関西地方で使われていたようで、 「ずべらぼう」「ずんべらぼん」「ずんぼらん」の 慣れ果てらしい。 現在では「ズボラ飯」「ズボラストレッチ」などに 応用されている。 ズボラストレッチは激しく動くものではないらしく それを言ったら、、 ヨガもある意味で相当するんじゃないだろうか? ただしこれはヨギーには言えないw 度合い。度合いがそれを許さない可能性だ。 でも、それでも、いつも思うのは ダンスが踊れるからといって 別に上下があるわけでも優劣も決まらない たとえ、心に効いたとしても カタチのない心に カタチのある結果が訪れるわけじゃない。 そういうわけでいつもいつでも 神聖視は危険だ もちろんやればやるほどその深度は極まるが 極まったところで、なのだ 深度は自分自身だけで完結しよう。 決してヨガに見えないポーズをしている、 有名人女子にツッコミを入れてはいけない。 むしろ他の人の深度の話を聴く。 こっちの方が圧倒的にゆたかになれる。 ヨガはカフェオレの話になってから、である。
ズボラの対義語としては 「律儀」「几帳面」「丁寧」などが相当するようだ
………
なんだかどれも長く忘れていた気がします(爆)
| 2023年01月09日(月) |
ピルクル ミラクルケア |
◎今回は2023年初の断罪をお送りします◎
…かつて かつてこんなにつらい気持ちになった飲み物が、、 あっただろうか
今を溯り昨年末のこと。(いつもかw それは、 おすすめ作品を騎士くんに貸したお礼に、 いただいた飲料であった。
ピルクル ミラクルケア 睡眠の質を改善し、 日常生活の疲労感を軽減 腸内環境を改善 生きた乳酸菌600億個
そうです☆ 生きたまま腸に超届く乳酸菌NY1301株ッッ ランニング自主トレの騎士くんらしい。 ありがたいなあ ……… そして時を超え、時を超えすぎて 冷蔵庫に入れたまますっかり記憶の彼方へ
2023年。ふと開眼した おいおい、、せっかくくれた物を 飲まないのは失礼だぞ☆ 一気に飲み干した 一気に、飲み干してしまっ、、た…
賞味期限(開封前) 22.12.28
あれっ、、これって、、、 もしかしたら 睡眠の質が改善されたり、 日常生活の疲労軽減とかいうよりも もっと別の、真逆のかたちで 腸内環境が激変するのではないでしょうか??
うっ 頭が、、、
乳酸菌、600…億個。。 ほとんど◎んでたりしませんかね? とつぜんR.I.P.飲料に変容を遂げていた— (注※ピルクルに罪はありません) すぐさま騎士くんに謝罪メッセージを送信。
「すまん… 飲むのおそすぎた(爆)」
「60個くらいは生きてるんじゃないですかね」
騎士くんの即答が地平の彼方に響くw まるで雲ひとつない澄んだ青空みたいデス 別の意味でおそろしいくらいに効いたな。。
2023年 まったくミラクルだぜ!!
公式サイトで情報をかき集めてみたら これがまた、、自分がおどるときに 思っていることそのままだった—
Sonny Boy 夏目監督コメント
自分にとって「Sonny Boy」は、 好きなものを詰め込んで、 全て出しきった私小説的な作品になりました。 ストーリーも映像も思うように わがままに作らせてもらえて、 こんな事はもう最初で最後だなと思います。 その分、普通ではないある種 ユニークな映像作品になっているはずです。 制作現場も勢いのあるスタッフが揃っていて、 熱のこもった映像が出来上がっています。 色々と振り切っているが故に、 説明が少なく 余白の多い内容になっていますが、 どう解釈してもらっても大丈夫な作品です。 自由に受け取ってもらえたらと思います。
皆さんそれぞれ、 キャラクターたち彼らの行く末の中で 何かを感じてもらえたら、 その何かが見終わったあとに 一つでも心に残っていてくれたら嬉しいです。
これ、もう、、ほぼおなじだぞ!!涙 言葉を借りると、わたしは この(最初で最後)をいつもおどっています とくに人様の振付ではない、 自分のおどりに関しては ダンスにこたえはなく、 見る人の見えようで 心模様で 心眼で どのようにもなり得るものです だからそれを、 そのように《なり得るおどり》にすることにこそ 全てを注いでいます
ただ、文章や言葉にしてみると心がざわつきます。 「何かを感じてもらえたら」 これは想像力に振りきっているからこその ことばだとも思えるのです。 裏を返せば、 「何かを感じてもらえない」可能性が あるということです。
もちろんつくりてからすれば そんなことは《絶対にない》という気持ちで 臨んでいるはず。 そうでなくちゃカタチになんてできない! (そうでなくちゃおどりなんて踊れない) 不確かで曖昧なもの、とも受け取られかねない何か で決定的な何かを伝えようとしているのが真実です ここから先は、 そんな不確かで曖昧なものに そうじゃないものがある、と信じている者の話です
◎信じていなくちゃ何も始まらない◎
洋舞は止まることがない、《移動のおどり》です。 だからこそ想像を巡らせる余地がほとんどない、 忙しいものとも言えます。 その本質はどちらかというと、 (想像)よりも(圧倒)なんでしょうね。 おどりには洋舞にはない、別の角度があります その《移動》を《余白》にかえて わたしはおどりをおどっています
変な話にも聞こえるかもしれませんが、 一見動いているんだか動いていないようなおどりに 目が離せない集中を強いられるとき、 別の何かが感じられてくるのです カラダから何かが溢れ出しているのに気づいたとき おどりが、変容していきます もともと以前から、いや 今でも 「おどりの正体」について いつもいつでも目を見張ってきました 「この人のおどりは何なのか」
おどりは、、振付じゃない いつだって振付を超えたところにあります
再現とかそんなものを足がかりとしない、 むしろ、、再現不可能なものなんじゃないか おどりの余白は、
その人の「いま」そのものです
◎2023年もよろしくお願いします◎
2023年 はじまりは、 2022年でもっとも心にのこった作品の紹介から いきます!!
『SONNY BOY -サニーボーイ-』 新しい、ぼくらを見つける旅が始まる。
誰もいない空っぽの教室、退屈な日々。 それはいつもと変わらない夏休みのはずだった 突如、異次元を漂流し始めた学校と、 そこに取り残され、 超能力に目覚めた36人の少年少女。 なぜ? どうして? …次々と浮かぶ疑問の渦の中、 理不尽に満ちた世界での サバイバル生活が始まる
「少年少女」たちがたどり着くのは地獄か、 それともユートピアか。 忘れられない「夏」が幕を開ける。
なぜ1月1日にここからなのかは… この作品が第25回文化庁メディア芸術祭、 優秀賞を受賞してしまい、 そしてなんとあろうことか、、 それを記念して? 元日に全話一挙放送しやがったからです— なんという暴挙!!(爆) 一挙放送なんて そんな録画領域、、 自分の録画機に残されているわけがない☆ 視聴はもちろん2回目になります、、が、、 あまかった 300分もの内容を(一気に)みると、 一気にみないと整理できていないことが 自分のなかにままあった。。 そう気付かされるのも 作品の内実がおそろしく複雑で、 シンプルで、繊細なことに起因して、 それを受け取ることができる仕掛けも 一瞬のうちだったりして見逃したら終わりだったw 続きで見ないと残滓が途切れてしまうものがある 現代の子たちにそれが響くかわからないけれど、 それをしんじる《何か》をしんじているのを 映像から感じずにはいられなくなる
この《何か》が 自分にとって外せない 自分のダンスを踊っている理由に ほとんどちかかった
瑞穂の最後の台詞
「まあ、だいじょぶだよ! あの島でのアンタが まだ少しでも残ってるなら 大丈夫だ」
震えてドッとなみだがこぼれる ふしぎなかんかくが襲ってきた SONNY BOYは、、すごい おしえてもらえるものじゃないこたえが 各々の ひとりひとりの 心のうちにきっと見えるだろう
この台詞にはみんなに響きうる、 物語をとおしてはじめてつうじる《何か》がある! もし、人生で躓いたことがある人なら 大きな変化に身動きできなかったときがあるなら 苦しさをとおってきたひとなら
自分にとっての《島》は 《病院》にあたるのかもしれない
あの時の、自分の変わり果てた姿から いまの自分になった、 なっていった時間を、 まだわすれてない
あの時の あの時代の自分に 今の自分になっていった《何か》がある
あの時が、あの時代が 今の見るもの感じるものに息吹を与えてくる おもしろくない、とか うまくいかない、とか きれい、とか きたない、とか うまい、とか へた、とか そういうものでくべつできないなにかを
そうだ、この作品もおなじじゃないだろうか だって この気持ちは
ことばにしようがない
言葉にできない 適切な言葉に変換できない だからそれを映像に託してあるのだ 最終話だけ見ても決してわからないだろう、あの 主人公・長良の最後の表情に
ああ、これは、、 これはもう、おどりじゃないかな
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