| 2016年07月30日(土) |
心と外を同時に確かめることはできない |
【断罪の時間 〜スートラ最終章〜】 7月中(※blog時間です)、 ずーっと終わりの見えない日々でした― さすがは聖典ですw なにしろ覚え書きと差し込み数が、、 尋常じゃあなかった!!!(遠い目 実のところblog化できたものの3倍ありました。 書籍系では最も頭つかった気がしています 笑笑 本件に入る前にもう一度つたえたいのですが、 この『ヨーガ・スートラ』を課されたのは 前十字靭帯再建手術前日です☆ そして、、術後は少し開いただけで閉じましたw こんな真理に次ぐ真理… 自分のことだけでたいへんな時期に、 真理の探求とか― できんよッッ 無理ッッッ(爆) そう。当時はイジメかと思いましたw いや、マジで☆ 退院後、2年もの月日をまたいでの読破。 長く苦しいたたかいでありました。 ある意味でリハビリよりもキツイ時間ありました。 なにしろまったくわかりもしないのが満載ですw さぁいきましょう! 最後はサクッといきますよ☆
「そして、心と外にある対象の両方を 同時に確かめることはできないのである」
このblogは今から1年前にあたるものですが、 今回だけは飛び越えて、 現在(2017年8月)の視点で書きます。 いろいろ悩みましたが、今にこそ 当てはまる内容だったので初の禁じ手ですw 2017年1月28・29日におこなった、自身の 再復帰公演【The 3rd BIRTHDAY】を終えて。 リハビリに費やした時間があまりにも長すぎて そのぶんの苦しみやその痛み、乗り越えようとした 時間がキツすぎて、踊れるという今がどれだけの ことなのか、そんなものの混沌だったと思います。 公演を終えた数日後。 とつぜんわかったことがあります。
“その一切がまったくおもいだせない”
自分でもここまで何ものこっていないというのは 初めてのことです 自分が踊ったのか、、 あの日、公演があったのか、、 ほんとうにうたがいました それくらいなんにものこっていません 本番後ゾンビのように日々をおくってしまい、 今でさえみなさまへの感謝が遅れている次第。。 解き放ちすぎる、というのも甚だ問題です。 自分に何ものこっていなくて いなさすぎて いったい何をどうすればいいのかさっぱり わからなくなっていました このあたりはあらためてそのときにして(涙 自分の望み。 自分の望みってなんだろう― おそらく、“自分自身をたしかめたい” そのとき、踊っているときの自分が、 《ほんとうに自分だったのか》 イキイキとしていたか。 最高の自分でいられたか。 それを自分自身でたしかめたい。 《生きていることを実感したい》 ですが、これは最初から困難な話です― たしかめたいのはほんとうですが、 優先順位が圧倒的に低い。 優先順位というよりもそのまえに為さなくては ならないことが多すぎるからです。 なによりも相手のある職業です。 つたえたいことは何なのか 今の自分を、最高の自分にすること 特に。即興を踊るにはここに最大限の集中を 払わないとダンスになりません。
自分をたしかめるなんてそんな余裕は、、ない☆
このときの《最大限の集中》はヨガでいうところの 《瞑想》にかなりちかい気がしています。 なにしろ《自分自身でありつづける》ことに 全力を尽くしています。 おもしろいことに自分自身であろうとすると、 《我》がなくなっていきます。 このあたりは黒沢美香さんがいっていたものに ちかい気がしています。 「 “自分” よりも “カラダ” になる」 ここから先は “得体の知れない” ものなので つたわるかわかりませんが、 心は消えていって自分自身が《ダンスになる》 ここで初めてダンスになれる。 あとは “気づき” の連続です
自分に《気づいている》というのは、 もしかしたらおぼえられないものかもしれません
スートラ解説にはこう記述されていました
心を直接観察している意識と、 心を通して世界を観察することには 重要な違いがあるということである。 この違いは激しく劇的なものである。 極端な状況で、心による時間のシミュレーション が絶たれれば、この2つの違いを認識することが できるのである。 多くの人がこれに似た瀕死の経験を語っており、 その話から、心と世界を同時に確認することは できず、気づきは心に位置しているものではない ことが推測できる。
自分自身を納得させたいという気持ちはとても 難しいですよね。 言い換えれば《自己満足》ともなってしまう。 決してそう思っていなくても、 どこかにかすっている事態。 自分自身をたしかめたい気持ちは ここにつながっているのかもしれません。 スートラを読んでおもいました。
自分自身を発揮しつづけているというのは 自分自身を確認できない状態のことじゃないか
“自分自身である” というのはそんなものなんじゃ ないか、そうおもったのです “自分” というものは永久に 自分では確認できないものなのかもしれません 自分ではなく、相手 他者が認識するものなのでしょう 公演後、実感がまるでないことに ものすごい不安を感じていました。 しかし、あらためてこの章を読み返して。 今のところ これが今の自分のこたえです。 こたえはまた移り変わっていくとおもいますが 今の自分を精一杯 踊っていくには とても地に足のついたこたえだとおもっています
| 2016年07月29日(金) |
意識と心、自分の在処は |
「意識は、意識を支えるもの、 すなわち揺れる心について常に知っている」
心は対象のことを知っている場合もあれば、 知らない場合もある。 そのため、揺れる心と呼ぶのだ。 しかし、意識は常に心の状態について “気づいている” 。 このことから、意識の不変性、変化しないことが 確立されているのだとヴィヤーサは言っている。 そうでなければ自分の思考について知っている時 もあれば知らない時もあることになってしまう。 しかし、好むと好まざるとにかかわらず、私たち は常に自分の思考に耳を傾けなくてはならず、 これが意識は常に気づいているということなので ある。 遭遇するすべての現象を一日中観察すれば、 変わらないものがあることに気がつくはずだ。 私たちの中にある “気づき” である。 差し出される対象がすべて変わっても、それらの 対象に差し出される気づきが変わることはない。 この気づきは、意識の所有するものである。 もし気づきが心の所有するものであるなら、 心はすべての対象に関する永遠の知識を持って いなければならなくなる。 しかしそうではない。 心は対象について知識を持っていることもあれば 持っていないこともある。
もうこれまで何度も心についてふれてきました! 心を踊ってきた自負のあるわたしでしたが、 心ってなんなのか いつだって疑っていました。 踊っていていつもたしかなものでないような、 たしかなものを踊りたいのに常に変化してしまう そんな曖昧さや不安にかられていた気がします。 心=思考ともいえるのでしょう。 すべてがこうとは言えないかもですが、 おおよそ思考が心だと思えます。 この心というのはそのときの状況や好き嫌い、 いろんなものの上に乗ってくるものです。 そのときまでの生きてきた経験で、乗ってきたもの に自動的に色付けをしているのが心のようです。 この生きてきた経験が衝撃的であればあるほど、 決定的に色付けがなされるのだと思います。 この色付けをとろう!というのが自由への近道。 それが昨日の内容でしたw わたしたちは生きてきた年月がそのまま色付けに 直結しています。 ダンスは創造性にアタックする職業です。 だからこそ、ここに常に疑惑がありました!! 色付けはどうやったら取り除けるの?? そんな疑惑がスートラにはかるく載っていたww にくたらしい聖典ですッッ(爆) 長年かけて二足歩行で考えに考えて、こないだなん か歩けなくなって松葉杖になってさえ考えて考えて それまででどうやったら解き放てるか、を自分自身 のカラダでもって挑んできて、、、 そんな答えが、、かるく載っていた― これまで踊ってきて感じていたのはこうでした。
心の奥底には決定的に信じられるホンモノがある
これにどうやったら近づけるか。 ダンスで近づけるか。 それを一生懸命考えて踊ってきました。 わたしはスートラを読んでおもいました。 自分が悩んできたこと どうやら間違いじゃなかった みんな自分がなんなのか、同じこと考えてた人、 紀元前からいたよ☆(爆) 見てきたダンスでもっとも異様な部類。 これまでに感じたことのない《圧倒的ニンゲン》 どうやったらあんな踊りができるのか。 すべてを投げ捨てない踊りはどうすれば踊れるのか 自分本位をどうやったら超えられるのか どうやったら相手につたわるのか
つまるところ、簡単にはいきません。 はじめから “厳しい” 考えてみれば最初から奥底なんて突然異次元だよ! そんなのは “異様” に決まってるよ!! ◎そういうわけで これが究極の答えです◎ もし。 もしも何かが通っていたら。 浅はかなものでないのなら、、 肌で感じざるを得ません この異様さが常にとんでもない感動への鍵でした そもそも感じたことがないものなので、 初見は気持ちがわるいはずですw 拒否反応出たってなんらおかしくありません。 逆に最初から奥底を受け取れたりしちゃったら、 たいへんな感性 or 人間力。 これがダンスを “難しくしている” 理由のひとつ だとおもいます。 しかしここを目指すなら。 結局は生き方です。 こんな奥底は一朝一夕で踊れやしません。 今をどれだけ大事にしているか。 今どんな自分自身でいるか。 ここをいつも通っていなければ
「心は、気づきの光を持ってはいない。 それが見られるものの本質だからである」
意識は純粋な気づきであるということはまた、 私たちが意識を直接観察できないことも 意味している。 意識とは、観察できるすべてのものを非本質的で 一時的なものとして拒絶し、内へと向かう旅の 途中で発見されるものなのである。 私たちは体を観察することができ、 それゆえ自分は体ではないことがわかっている。 観察できるということは、外にある対象だと いうことだ。 心についても同じことが言える。 「心のために、私は気が狂いそうだ」とか 「私は心変わりした」 こうした台詞が存在するのは、心を所有し操作 する層、心の中に位置しないもっと深いところに ある層が存在していることを意味している。 気づきとはこの層のことである。 もし気づきが心の中に位置するのであれば、 私たちは何か動物のようなものであっただろう。 つまり、自分の外にある世界のみを意識し、 一日中自分の行為を省みることなく 衝動と欲求に従うはずである。
このスートラは自分にとってたいへんな発見でした 自分が悩み抜いてきた《答え》だったからです “考えているうちは踊りになっていない” ◎ダンスに直結した瞬間でした◎
| 2016年07月28日(木) |
潜在印象を断ち切れば自由 |
「潜在印象は原因、結果、基盤、 裏付けとなる対象によって保たれている。 これらがやめば、潜在印象もなくなる」
最初に取り除くべき、わかりやすい要素が 裏付けとなる対象である。 自分の中に強い否定的反応を引き起こすような 状況を、可能であれば “避ける” のである。 これには、自分に否定的な影響を与えるような 人々、あるいは自分の否定的な性格を 助長するような人々を避けることも含まれる。
潜在印象。 潜在印象は “思い込み” に似ている気がします。 なにしろわたしたちは思い込みで生きてますw 世界のかたち。 自分のまわりのなりたち。 あの人が自分のことをどう思っているのか。 意外と決めつけていたりします(爆) たとえば嫌なことをされたりしたときのこと。 この気持ちがその人を全否定に追いやります! なにしろその人が存在しているだけで、 感覚がオートマティック再現してしまう☆ あのときに感じたどうにもならない気持ち。 この気持ちがある限り、心に残している限り、 わたしたちは世界を狭くしています。 気付きもしないところで世界閉ざしてるッッ あのとき感じた全否定したいほどのショック。 その強度がわたしたちの心を縛っています!! “あのとき” はとっくに終わっているんです!! おおよそ縛っているのは “自分自身” ッッ
潜在印象を解き放てば《自由》
こんなものが記載されているスートラに 度肝を抜かれました―
もうね、全然宗教じゃないと思いますw 物凄い探求だと思ったのです☆ ◎わたしたちはいつも自由、そして新鮮です◎ なにしろ今このときこそが一番ちかい未来!! 思い出に左右されてる場合じゃないッッ
あのとき感じた気持ち。 どうやらこいつがラスボスです!! わたしたち自身を明るい方へ解き放つには、 こいつとたたかわねば☆ もちろん簡単にはいかないと思います。 自分にとっては見たくもないラスボスですw しかしながら、、 蓋をしたところで潜在印象として常駐です☆ 自分自身と向き合うことでしか解決できない! 振り絞る勇気は―
◎なりたい自分になる◎
わたし自身 これまで嫌なことされたりしたこと たくさんあります。 自分がしてきたことも、 たくさんあるかもしれません。 でも、そうして成長してきました。 長い病院生活でわかったことがあります。 それは、 《生きてちゃいけない人なんて誰もいない》 ってことです。 だって《生まれてきた》んだものね☆ だって《生きている》んだものね☆ だから どんなに嫌いな人だって 生きてていいんですッッ 他人に不幸を撒き散らす人ッッ 避けましょう☆ 避けて避けて避けきってみせましょう☆ でもできるならそんなに撒き散らさないでねw ◎それだけはいつも祈ってます◎
しかしです。 こんな真理を勉強して。 勉強している人だって… 不和をまきちらす人がいる!! たくさんいるよ!! これ事実。 事実アルヨ! 笑笑 わたしはここにこそ人間の不思議を感じます。
美輪さんは言ってました。 「私には劣等感なんてない」 美輪さんは言ってました。 「劣等感をつきつめたら それが恥じゃないことがわかった」 美輪さんは言ってました。 「つきつめてない人は劣等感よね」
たしか そんな感じでしたw この “つきつめて” のところは、 おおよそ《自分》です。 自分のこと、どのくらい知ってるか。 問題はここなんだろうとおもうのです。 他人からよほど大事にされたいんでしょうか。 よくわかってない《自分》を押しつける人。 そして、そんな《自分》にやさしくしてくれる人 だけ《いい人》みたいなのにしてる人。 やばい。やばいですよね。 こんなのは一歩まちがえば、 わたしたちみんな同じです(爆) いつだってそうなる なれるんです☆ やばい。やばいですよね。 オートマティックに制御できないのなら、 自力で律するほかありません☆ この《律する》というのが《その人》です そんな《律する》の原動力はいたって明快。
◎なりたい自分になる◎
すなわちそれを実践している人です。 その人のカタチってきっとそんなものです 一目見ればわかるものです
ダンスはそれをとおすものだとおもいます
共感できる光はみんなそんなものだとおもうのです 何かが感じられる、もしくは何かが通っている、 強烈なものだけでなく、透きとおった何かだったり “いいな” って素直に感じられる何か。 私たちは自分にないものに憧れを抱きがちですが、 そのまえに自身の光を見出だしているか。 どんなに小さくともその光を大事にしているか。 自分を大事にしているか。
文章にするのは簡単ですが、 実践となるとそうはいきませんw なにしろ《毎日》です ◎二度とかえってこない毎日◎ 心の強さ、強度が常に試されているッッ
「生成された心は、 1つの私であることからのみ生じる」
いつもまちがえようのない自分でいたいですね! そんな自分でいられたら、 それだけで世界を照らしているはずですw 照らそうとしなくても照らしてるって 究極のダンスだとおもうのです☆
| 2016年07月26日(火) |
“時間” は人間の “技術” |
スートラはおどろきの連続でした… 読めば読むほどに《探求》です。 おおよそ宗教とかじゃないよw 【自己の正体を見つめつづけた集大成】 毎章こんなところまで掘り下げたのか、と 考えれば考えるほど唸りを上げましたww 「バカじゃないの!?」って叫んだほどです。 ええ、ええ、もう全然バカじゃありませんよ!! その裏返しです 裏返しッッ(爆)
「瞬間とその連続に対してサンヤマを行うことで、 識別から生まれる知識が生じる」
サンヤマとは(※注1) ダーラナー:心は1つの対象について考え、 他の思考を避ける。 対象への気づきは妨げられている。 ディヤーナ:同一の対象について、 絶え間なく気づきが流れる。 サマーディ:心の中は完全なる静寂であり、 もはや動きはない(心の止滅) まるで心は存在しなくなったかのようである。 対象についての完全な知識を得ることが可能。 対象のみが光り輝く。 ※これら3つを同時に行う、それがサンヤマだ!
何、この定義?! これがスートラの正体だ! ヨガをつづけていけば たぶん実感できる☆ と、、おもわれます \(^o^)/ なにしろ自分自身を見つめないわけには いかないのだw 《あとたったの3呼吸》でわかる真実ッッ 笑笑
原子が物質の究極の微粒子であるように、 瞬間は時間の究極の微粒子であると ヴィヤーサは説明している。 彼はまた、瞬間とは空間の ある1点から 隣接した点まで原子が移動するのに要した 時間であるという、第2の定義もしている。 このような瞬間の連続的な流れ、 “今” はつまり瞬間の連続である。 しかし、こういう連続は瞬間の蓄積ではない。 実際、ある瞬間が次の瞬間に変わり、 また次の瞬間へと変わるのである。 私たちはいつまでもただ1つの瞬間を 観察しているのである。 1時間であるとか1日であるとかの概念は 時間の観念を与えてくれるが、 実際には《時間などない》。 時間とは、時々刻々というものを 理解できない心が構成した概念にすぎないのだ。 誰も未来や過去を見たことはなく、 ただそこには現在がずっとあるだけである。 心は、“なぜ ある対象については 認識できないのか” を理解しようとするため、 未来や過去という概念を発展させているのだ。 何事も過去や未来に起こったことはない。 私たちの精神的活動では、すべてが現在に 起こっていることなのだと理解することが できないため、時間という概念を持ち始める のである。 しかし、時間とは心の中だけで存在するもの。 世界を理解することができないため、 次々と起こる現象を整理するために使う 技術なのである―
技術、、技術かーーーーーッッ(爆) あらためて《時間》を学んだ気がしました。 “時間は蓄積しない” “そもそも時間なんてものはない” そう思ったら突然世界がぐんとひろがりました。 解き放てることが ひどくあったんですw 意外なところで《時間に囚われて》いた―
臨死体験をしたことがある人は、 一瞬にして自分の人生が過去を映し出すのを 見たと報告している。 死にあたって心が静止するため、 こういうことが起こるのだ。 そして再び転変するまで 意識の中に休まるのである。 意識という点から考えると、 人生はそのまま全部 一瞬の中で同時に起こっていると言える。 瞬間を切り取り、後ろを振り返れば、 いつもそこにあって決して変わることの なかったものが自分の中にあることに気づく。 私たちの本来の姿、意識である。 意識には過去も未来もなく、 誕生と同時にあり、死に至るまで 意識は時間を費やしているのではない。 すべては一瞬に起こるのである。
スートラについてここまで小出しに更新してきまし たが、ヨガにおいてまず押さえておくことは、 《心の止滅》です。 最初に度肝を抜かれた “止滅” という響きw 止滅とは ころすことじゃありません! これは心のざわつきのことです。 ざわつきをなくし集中することで、 はじめてすべてのことに対して準備ができます。 スートラは聖典と呼ばれているだけに、 最初から真理しか登場しませんw しかしこれに面食らったままというのは 甚だもったないと存じます。 自分をつくっていくのは不断の意識です。 知識はいくらあっても困ることはないのです☆
つづく(爆)
伝統的にインドでは、すべての生命は30兆回の生 を経験した後に解脱すると考えられている、、 らしいw ふと思ったんですけど、、 30兆回も輪廻って転生を繰り返してるうちに―
人類は絶滅してる気がします
そりゃ解脱だわw 完全に別の意味ですけど☆ 30兆回を受け容れたらたぶんこんな人増えます。
(来世にまかせよう!)
こうして投げやりな人生が送れます(爆) 人生あきらめが肝心。 ですが、ですがね、、 本当に肝心なのは《あきらめかた》だと思います! “今” を存分にやりきったかどうか☆ 安易に来世にまかせる感じ… この感じはそう、、あれと同じ!!
神さまへのお願いごと
努力せずに願い事だけを念じるあれですww わたしは願い事に行くことなく年末年始も、 自主リハビリ自主筋トレをつづけています。
◎祈ったってなにも現状を変えられないからです◎
自分自身のカラダをとおして学んだこと。 めちゃくちゃある ありすぎるッッ 涙涙 こうしてここ数年、マジで。 マジで、、初詣とか行ってませんw(超実話です 祈る暇があったら筋トレしてました(超実話です 投げることではなく、わたしたちは自発的に ポジティヴにできる力があるのだと思うのです! ここに思い至ったのも偶然じゃありません。 わたしにはそんな人がまわりにいたからです☆ 病院で必死に “できること” をしてきました。 なにしろ “できること” を意識しないわけには いきません。
“できること” が少ないからです 前を向けば、努力しない選択肢はありませんでした
努力している人を見ると不思議と元気になります。 自分もがんばろう、そんな気にさせてくれます。 素直にそんな気になるんです。 できないこと、なんとかしたい。 できないけど、ここまではできる。 そんな気持ちが人を前向きにしてくれると思います そんな人の《できない》は単にできないことじゃ ありません。 とてもゆたかな《できない》だとおもいます。 そこにネガティヴな影はありません。 投げ出した人の《できない》はどこかに恥がひそん でいます。 だって、まだできることを知っているからです。
「心の清澄さから喜び、1点集中の状態、 感覚の制御、自己を知る準備が生じる」
心の清浄とは、嫌悪や欲、ねたみ、嫉妬、 自尊心などについての思考・感情と 同一化するのをやめること。 不幸や悪意、心が抱える問題に乱された状態で、 どうして1点集中できるだろうか。
これまで《準備》について深く考えていませんでし た。 準備。これってすごく大事ですよね?? 準備していないと受け取れないことばかりです!! とくに不意にわかる “たいせつなもの” それに気付ける準備がいるのだとおもうのです こころのどこかに常においているような感じ この章ではこう書かれてありました
感覚の制御によって、 必ず自己理解に対する準備ができる。 絶え間なくしあわせを外に求めている限り、 しあわせはすでに内にあることに 気づくことはない。 外ではなく自身を内観して 初めて、気づきがこちらを向いてくれるのだ。
聖仙ヴァシシュタはこう遺しているらしいです
「真に自己努力をする者には、運命などない」
| 2016年07月24日(日) |
正直を確立したならば |
このスートラは古代の聖仙が獲得した偉大な 能力に言及したものらしい。
「正直を確立したならば、 行為とその成果は言葉と一致する」
聖仙たちは強烈な苦行によって、自らの言葉 によって事の成り行きを変える力を得た。 彼らは完全なまでに正直であったため、 必要であれば彼らの言葉に合致するように 未来も変わる必要があったのだ。 聖仙たちは主に、自らの武器である呪いの言葉 を通してこの力を使用した。 呪いの中で聖仙は未来についての発言をするの だが、彼はそれまで不正直であったことがない ため、その言葉に従って未来が展開するので ある。 しかし、こうして未来を変えることに、聖仙は それまでの長い苦行で積み上げてきた多くの 徳を使ってしまった。 そしてそのため、弱々しくなったのである。
この解説では《呪い》と記述されていますが、 これはわたしたちにも大いに当てはまります。 呪いとかじゃなくてフツーに《正直》であれば おのずと夢は近づくはずです。
近づかないはずがない
自分のもっともたいせつなこと。 それを知っているかどうか。 知っていればいつも。 常にそれが片隅にあれば、行動を間違えません。 これはそのまま《その人がその人である》という ことに他なりません。 言葉や行為が一致しないはずがないのです
◎だって、その人がその人なんだものね◎
この文章でうかんできたのは― その《一致している》ということが《ダンス》 なんじゃないか?ということです。 一致してなかったら。 おそらく何も伝わってきません。 一致しているからこそ疑いがなくなるのです。
「正直を確立すれば、すべてがダンスになる」
未来を変える、というよりも 未来がそうなっていかないわけがない、 そういうことだとおもいます
ことばというのは甚だ不思議ですよね。 《誰かにつたえたい》そういった力を感じます。 そもそもことばとはそうやってできていったのでは ないでしょうか。 いろんなことを《共有するために》うまれてきたの ではないでしょうか。 スートラを読むと、、つたえようとすること自体が オーバーワークな気がしますけどねw “つたえようとしなくともつたわる” そんな得体の知れない何かを信じているからこそ わたしは踊っています☆ なにしろダンスはことばにする前のカラダです! しかし、ことばにする できるというのもまた ほんとうにすごいことですよね。 わたし自身、このblogで挑戦を続けていますが 毎回も毎回 迷走しています(爆) 適確なことば、文章にするにはまず。 ことばを知ってなくちゃいけません 汗 この感じ、なんだかダンスにするのと似てるッッ 意識的にダンスにするのと似てるんですッッ ◎そういうわけで今日もがんばろう◎ 本日は、気になった一文です☆
「どんな人間的、超人的努力も、 無限の意識の輝きを明かすことはできない。 その努力をやめてはじめて、 探している存在がまさに自分の中に 永遠にあることに気づく。 つかむことも閉じ込めることもできず、 追うことをまったくやめた時、 特別の計らいでやってくるものなのである」
これはなんと、そのまま《ダンスがやってくる》に 置き換えることができます!! 正直、度肝抜かれました。。 ただ 自分の場合 それに気づけたのは、 追って、追って、追いまくったからです(爆)
実は たいせつなのはここかもしれません
追いまくること。 ここを精一杯やってはじめてわかることです。 もうこれ以上できないくらいやってわかること。 だから、スートラのような偉大な聖典でも 単に《読んだ》だけで実感はむずかしいとおもうの です。 答えだけを知ってる人のことばでは 説得力がないのと同じでしょうかw ことばというだけでもそのことば自体に 何かが乗っているのだとおもいます。 ◎わたしはそれをダンスと呼んでいる者です◎ 何かが、景色が、その人が、わかるような、 うしろにある経験からくるゆたかなもの。 付け焼き刃ではそんなもの感じられません! 人生で重ねてきた年月は たいへんなゆたかさだとおもいます それをその人がどんな思いでつむいできたのか 見えるものは見えるのです できることならそれがあたたかいもので あったらなあ、とおもっています
ちなみに、“知っているだけ” の人の特徴は 《どこか高圧的》です!! ふしぎですがおおまかに言ってこれです☆
「縛られていると思っているのは、 ただ無知だからである」
この《無知》っていうのも勉強すればいい、 ってものじゃないです。たぶんw こんなの勉強しなくても解き放てるひとは 解き放ててますからねw (※解き放つと切り捨てるは別物) ただ、“なんとなく” にしないためにスートラは 今日まで引き継がれてきたのだとおもいます。 無知を減らすことができたら なにもかもゆたかさが湧き上がってきます どんな人のことばにも耳を傾けられるはずですし、 どんな人のことばにも動じないものもそなわって くるのだとおもいます
輝きがどんな人の前にも明るみとなる、 ダンスはその一助になれると信じています
『不盗を確立したならば、すべては宝石となる』
ここでは、粘土のかたまりを眺めるのと 同じように金を見るように言われている。 外見に対する先入観を捨てれば、 すべての瞬間が貴重であることが “突然” 自明となる。 恩恵や利益を求めることなく世界を見れば、 あらゆる美しさが明らかになる。 すべての状況から何かを得たいと望めば、 一瞬一瞬に受け取るはずの多くの贈り物に対して 自らを閉ざしてしまうことになる。
はい、スートラです。 だいぶすすみましたw すすんだはずですw 今日は。今日こそは。 すんなり終わりますよ☆
わたしたちの生きている時間。 その時間はけっしてもどってきません。 ほんとうにもどってきません。 8年前のあの事故からの最大の経験。 それは―
自分も死ぬ、ということです
自分が死ぬかもしれない それまで考えたことがありませんでした 不幸な事故でしたが あれほど真剣に死ぬことを考えたことがありません 死んだかもしれない経験は 途端にすべてを変えてしまいました 自分自身がいちばんたいせつなものにしていたこと も自分が考えていたものじゃありませんでした 考えていたものよりも奥に もっともっと奥に 自分では見えない奥にありました
おもしろいことに、わたしたちは 自分でも知らない自分がいるんです 上記のように「先入観を捨てれば」とことばに すると簡単なようにおもえますが、 これこそがまったく簡単じゃありません。 先入観を捨てられるようになるには、 それ相応の事件がなければ ほんとうにすてられはしない、そうおもうのです まず。なによりもまず、わたし自身がそうでした
わたしたちは毎日、死ぬのを忘れて生きています 忘れていなきゃ、、 いつだって “死ぬかもしれない日” です 笑笑 こんなおそろしいことはありませんw ですが、それこそ “厳然たる事実” です。 それを自らをとおして知ってしまいました 知ることはけっこうつらいです ですが知ってしまったおかげで ほんとうにたいせつなものが見つかりました まいにちほどたいせつなものはありません どんな一瞬もたいせつだと感じます なにしろかえってこないんです
大事じゃないものがなにひとつない
自分が生きていることに直面したとき とつぜんわかったことです
いのちをかんじる瞬間 その瞬間はどうやったら共有できるのか たいせつなひとをうしなうときではない うしなうとははんたいの ゆたかさがみちていくような
かんがえてかんがえてたどりつくのは まいにちです 毎日の中にすでにみちています
全然とくべつなものじゃありませんでした
いきているというのは たいへんな たいへんなことです あたりまえのことですが わたしたちがいちばんわすれていることです わたしたちは、生きていることに、 生きているということに対してだけは いつもいつでも胸を張れるとおもうのです
Q極の洞察力。 それは7段階にわたるらしい。 ことばにされるとたいへんなものになりますが、 ことばになってる時点でとんでもないことです。 だって、フツー、ことばにできないんですよそれ。 よほど深く見つめなけりゃ無理。 見続けなきゃ絶対無理ッッ だってみんなほとんど考えてもいないことです。 こんなこと考えなくてもわたしたちは死ぬからね! したがって《いい》とか《わるい》じゃないのだw これは探求なんだ! 自分が何者なのかの探求!! そんな知識が紀元前から探求されていたんだ!! だから聖典と呼ばれてんだ!! 知りたくない人はそのまま死んでいってください☆ だって、べつに、それで、いいのだ☆
◎知らなくたって生きて死ぬのは同じです◎
わたしは自分の心1stで ダンスをおどってきた自負がある者です。 ですが、この聖典で唸った部分は数えきれません。 なんたって、、心よりも奥があったんだ(爆) 《心=自我》じゃなかったッッ 自分でも違和感は感じていました。 それが何なのか「なんとなく」感じてました。 どうやったらそれを取り除けるか。 ダンスでさんざん試してきました。 それからのスートラです。
正直、度肝抜かれました
そんな紀元前とかで悩んでいた人たちと同じ道を たどっていたんだな…とおもいました。 ある意味で自分は “間違っていなかった” と感じて います。 心はいつだってざわついていてうるさいからです。 この “ざわついてうるさい” のもよくよく考えたら “人間” そのものだとおもうのです。 だってそこらじゅうの人が聖人だったら、 おそろしくないかな!? 笑笑 たぶん。ある意味で人じゃないと思う気がしますw そうおもったら人間がいとおしくなりましたww だってそんな混沌をかかえているのが人間なんだ!
それをダンスで謳歌しようじゃないのッッ
生きている痛みや苦しみ そしてたいせつなもの そのすべてをダンスにつめこんだら―
そりゃあ混沌ですよ。。確実に混沌だよ(爆)
一言で言えば “わけわからん” だよッッ ですが、ですがね。。 ◎この “わけわからん” っていうのが真実です◎ そもそもほとんどわたしたちは通じ合ってなんて いません。
通じ合えることのほうがよほど奇跡です だからこそ それをたいせつにしたい 全力でその “わけわからん” をたいせつにしたい わたしはそうおもっています
ダンサーによっては、ジャンル種類に特化しては、 どうしたって制約が生まれます。 《こうじゃなきゃいけない》 わたしでさえ思うときがあります 《こんなのはダンスじゃない》 この聖典を曲がりなりにも読み終えてわかること。 ◎そんな思考がわたしたち自身を不自由にする◎ 結局、わたしたち自分自身を解き放てるのは 自分しかいません。 この聖典にはその方法が書かれています。
心からの自由
自分自身を縛っているのはおおよそ自分です
昨日のつづき。
これまでのスートラを通じて、 自分にとっての《ダンスの表層って何?》まとめ。 やはり自分にともなっていないダンスでしょうか。 やりたくもないものを踊れば、 見ている人には確実に違和感が生じるはずです! その違和感を見せないのもプロの技ですが、 自分自身の内に “これだ” という信念がなければ まるで伝わらないのではないでしょうか? やらなければならない、そんなものが大抵の 《仕事》ですので、こんな考えにもなりますが、 見方を変えて好きなものに置き換えると すっきりします。 その人が何かに対して《好きだ》という気持ちが あれば、自然とそういったカラダになっています。 前向きであったり、心地良いなにかが通っていたり それがすっと伝わってくるのです。 《好きなもの》にはすべからくそんな力があるよう です。 だから、好きなものをもっている人は あまり疑う余地がありません。 その好きなものに対する情熱がその人のことを 間違えなくするのだとおもうのです。 好きなものがない人は総じて捉えどころがないため “わからない” 気がしてしまいます。 何を考えているかわからない、って結構恐怖ですw その人のことが “わかる” ってそういうものじゃ ないでしょうか―
それを踏まえたら、、毎度の公演で こっぱずかしい告白を毎回やってるわけです それも全力で(爆)
あとで思い返していつも感じるのは― 「あんな恥ずかしいこと、、よくやれたよね」 いつもそのときの最大ってそういうもののようです そのときにはそれしかないからです
毎回一度も話したこともない人に「好きだ!」って 言ってるようなものかもしれませんw でも、どうやら自分にこれ以外はないようです。 そのために踊っているのでしょう。 したがって、踊りがフツーのダンスじゃないです。 見映えとかそんなのを踊りたいんじゃないからです カラダが動くことではないことはどうやったら つたわるんでしょうか 考えれば考えるほどダンスにならないようなダンス です。 人によってはダンスと思えないもの。 もしかしたらダンスじゃないのかもしれません。 ですが、わたしはここに身を置いていたいのです。 どんなに見苦しくともここにこそダンスの可能性、 その本質があるとしんじています
| 2016年07月19日(火) |
識別知からの究極の洞察力 |
わたしは決して宗教を学んでいるわけじゃ ないのですがw ◎ヨーガスートラ。聖典です◎ そもそもヨガ発端は、、 単にリハビリではじめたことでしたw ドクターにすすめられただけなんですね(超実話 座学とか全然。どうでもよかったんです。 踊れるようになりさえすればッッ しかし、クラスを受けつづけることで ヨガが単なる運動でないことをそのうち知って しまいます(爆) なにしろたいてい訓話から始まりますからねw 結局、心とか生き方とかそんなこと☆ これが!おおよそダンスに通じてた― なにしろ《心》とか《生き方》とかですよ?? ダンスと同じやんかッッ 笑笑 そして心とか生き方とかって、 そのままある種の宗教的要素ッッ 捉え方によってはいかがわしさ感じるよッッ 結果。こころを学んでます 自身のうちでそれを区別するんです☆ これさえできればなにもおそれるものはないw さあ昨日の続きいきますよーーー(爆) よーく読み返したら、、昨日のblogで、 スートラのこと書いてなかったんですよ!! 笑笑 そういうわけで《識別知》ですw
「解脱のための手段は永続的な識別知である」
このスートラの解説では― 本物と本物でないもの、 本質的なものと本質的でないものを 区別する能力を《識別知》と呼び、 その識別知を永続的フツーにしよう! っていうことでした☆ 考えれば考えるほど、心はスクリーンに投影されて いるもので心の奥にはスクリーンがあるんです! 最大の気づきはこれでした。
心よりも奥があった
これまで踊ってきて心はいつも騒がしかったように おもいます。 感じていたのはこういうことだったかもしれません 心は、いつだって変容していってしまうため それに振付をつけようとしても振付自体も変容しつ づけてしまうのです わたしは特に固定させていくことに拒否反応が出ま す。。 もちろん振付の場合は決めてからの勝負に なるのですが、それまでに膨大な時間を費やして しまっていました… なにしろ心が変容しつづけるからです(爆) たぶんね、考えちゃダメな部分があるとよね! でもそれわかってても自分では困難なんですよね☆ そういうところに昨日からのスートラが 突き刺さったわけですッッ
「心とか “表層” だからね」
心が、心が表層だったとか知らんかったとです― 自己とか意識をたどっていくと《気づき》しか なかったとです!!
《自分》って《気づく》ことだけだった―
スートラにはそう書いてありました。 自分=意識 心は意識の上にのってくるものらしい。 甚だとんでもない書物です。 正直、自分自身の雑念がどこから出てくるのか ダンスを通して疑惑をもっていました。 その犯人は、、 “心” だったんです(爆) 心1stで踊ってきたのにね。。 なんてこった。。
犯人に踊らされてきた部分が否めない
そして気づきました。 《気づき》をもっと深く見つめてみよう それをカラダに伝えればすなわちダンスじゃ ないか。 おもむろに心に集中することで本質的なもの が抜け落ちていたかもしれません 心こそが伝えたいものをさまたげていた そしてとどめの一言。
「心からの自由」
わたしたちは自分の心に苦しめられています。 意外にも心は自身の思い通りにはなりません。 しかし、面白いことに この解説では、 《心は表層である》って書いてあったんですね。 だったらそれは自分で解決できる! 心はこれまでの経験によって色づけされてきます。 したがって、それに気づいてしまえば、 いつだってあたらしいんです!! そうやすやすと色づけさせないぜ!! たぶん、そんなことだと、、おもいました☆
《識別知》ッッ
あたりまえのことですが、時間は戻ってきません それに、時間は常にあたらしいものです これまでの経験がそのあたらしさを阻害している可 能性があるということでしょう
「解脱のための手段は、永続的な識別知である」
はい。スートラですw もうね、この本には自分の注意書きが、、 めちゃっくちゃあるんですよ☆ 終わりが、、みえない(爆) ですが はじまりには終わりがあります。 あるはずなんですッッ 涙涙 す、すこしでも前へ― すすもう!
パタンジャリ(もとはヘビのひと)は煩悩の形態 煩悩の原因、健全な状態について述べた後、 治療法を説明している。 それは、永遠で純粋で自由で本質的なものと 一時的で不純で縛られた非本質的なものとを 区別する《不変の能力》である―
ここでは映画のスクリーンに比喩られていた。
意識と自己をすべての像が映し出される スクリーンにおきかえてみよう。 スクリーン上の画像は絶え間なく変わるが、 スクリーン自体はそのまま何も変わっていない。 同様に、自己は永続的なものだが、 心、体、そして映し出される対象は、 すべて一時的なものである。 過去の経験を通して形成される潜在印象は、 体や心、そして対象に固く結びつけられて 離れないため、汚れたものと言われる。 私たちは映画を見れば、登場人物の行動によって 潜在印象がかたちづけられていく。 そうして登場人物にイメージがつけられていく。 その対象はすべて、無知、自意識、欲望、苦痛、 恐怖に基づく潜在印象で汚されているのだ。 映画の最後に純粋で汚れていないのは、 印象の投影されたスクリーンだけである。 同じように自己は純粋で、現象は汚れたものだ。
わたしはうなりました。 わたしはダンスで心の研究を静かにしてきました。 この本に気づかされたものはかなり大きいです。 以前に課してもらった書籍にはこんな文章が ありました―
「体が痛くて、苦しくても、 心をそれらに引きずらせることはない」
心と体、一心同体ともいえるものとおもって いましたが、これは思考の転換でした! わたし自身 苦しいことの連続でした。 身動きもとれず寝たきりだった時期。 手術してまるで気持ちが上がらなかった日々。 体が動かないことは極めて心に影響していました
今でさえそうです
ですが、こんなわたしでも明るくいられます。 それは周りにたすけてくれる人がいたからです。 たすけてくれる人に向き合えばいつだって明るく いられました。 何よりも、たすけてくれている人に対して、 嫌な気持ちにさせる理由が何ひとつない☆ どうせなら、生きているなら、 みんな明るくいられたらどれだけ素晴らしいか 確かに体は痛いです。 痛いものは痛い! だけど、最後にはポジティヴでいられます!!
◎だって生きているんだものね◎
そういうわけで心1stで踊ってきたわたしです。 ところがその心自体が汚れているとわかったときが ありました。 それは振付をしている最中におきました。 どうにも一番最初に感じたことがいつのまにか こうしたほうが見栄えがいい、とか これをこうすれば技術が示せる、とか 妙なヤツに気づいたときです! わたしはかたちにならないものをダンスにしてます しているはずなのにカタチにしようとしている 自分に気づいて、 「これはおかしい」ということになります ちなみにこのことは即興で踊っていても出現して しまうときがあります。 そのときは総じて《力を示さなければならない》 《ダンスを対価にする》そんな責任感から どうしたって逃れられないときでした。 ここに陥ると自分のダンスには決して届きません まったく自由になれないのです 心をからっぽにしなくちゃダンスにならない そう感じたのです この “しなければならない” というものに、 おおよそわたしたちは縛られているのでしょう 一番たいせつにしなければならないものを すっかりわすれてしまうほどです 自分にとって “汚れている” というのは これにあたりました ただ、汚れているという表現をしていますが、 決してわるいことばかりではないようにおもいます ここはひとつ置いておかなければいけません。 その印象が大事なときだってあるはずです! ここにこそ、その人のうつわが問われるように おもうのです。 なにしろ、わたしたちが生きている《社会》という やつはほとんど《しなければならない》です。 あたえられた仕事をまっとうすること。 そこにこそ想像力は欠如していく気がするのです。 たいへんむずかしいことですが、 いつだってここにぶつかっていくのがダンスだと、 Artだと感じるのです。 《しなければならない》よりもたいせつなものが、 この世には、、あるッッ!!!
理屈抜きのいきているあたたかみ 空気のようにかるくて海の底のようにおもい何か 相手につうじる、つたわってしまう何か
そういうものを踊りたいとおもったときに、 ここでいう汚れをとりのぞきたいとおもいました スクリーンだけの自分にどうやったらなれるのか 『The 3rd BIRTHDAY』にはそのときの思いが つまっています それまでの経験はつらいことばかりでした わたしにとってはきわめてしんじつです しかしそれを伝えたいわけじゃないのです それをどうやったらつたえられるのか かんがえてもかんがえてもたりません かんがえるものじゃないのかもしれません そうおもったときにカラダのほうが それを知っている気がしました カラダのほうが憶えている気がしました わたしの先生・黒沢美香さんも言ってました “からだにききなさい” カラダがきっとおしえてくれる わたしたちが頭でかんがえることよりも カラダのほうが知っていることがあります それをしんじておどってみよう、 そうおもったのです
純粋なものをとりだすことは極めて困難です とりだそうとすればするほど いかがわしいものに変容を遂げてしまいます そして、とらえかただって人それぞれです これはまことにむずかしいものです そんなむずかしいとおもっているものでも その実はひどく単純で明快です なにしろ《つたわってしまう》んです
自分ひとりで完結できないもの それがわたしのおどりたいダンスです
| 2016年07月17日(日) |
無知がなくなることで |
「無知がなくなることで、見る者と見られるもの との混合は止む。 この状態は《独存》、 見られるものからの独立と呼ばれる」
こんにちは。 スートラです(爆) 今回もまことに興味深いところですので是非w
《孤独》(aloneness)が意味するところを 考えると、興味深い。 これは幾分寂しさ (loneliness)と似ているところもあるが、 実はまったく違う。 寂しいというのは誰かと一緒にいることを欲し、 切望しているにもかかわらず、 それが奪われた状態にあることをいう。 寂しさとは何かが欠如した状態であり、 単に一緒にいる人がいないというだけなのだが、 それを受け入れることができない。 ここでは某歌手の話が書かれています。 某歌手はこう言ったらしい 「寂しさとは愛がないことである」 孤独は、これとはまったく逆である。 これは《all-one-ness》(すべてはひとつ) という言葉が一緒になって作られたものである。 最も深いところでは、すべてが1つの現実、 無限の意識を表現しているのである。 これを認識した者は孤独であり、 同時にすべてとひとつである。
これまで、孤独という言葉・漢字には なんとなくネガティヴな印象を感じていました。 が! この文章を読むと違うかもしれない、と ちょっとおもいましたw なにしろ、わたしたちはそれぞれ間違いなく 孤独だからです。 命をまっとうした暁に、死ぬのはひとりです。 たぶんわたしたちのいきつく場所はここです。 わたしたちは死ぬからこそ寂しさを感じる気が するのです。 でも、よーく考えると死ぬことはあたりまえ。 あたりまえのことなのです。 わたしたちは失うことを約束されているのです。 これを土台におくと世界の見え方は一瞬で変わり ます!
だからこそ、失うことをおそれない生き方がしたい
わたしはそうおもっています
なのでスートラもひとつの考え方であるという真意 のもとにすすめます☆ この本にいかがわしいとおもうところもあるかも しれませんが、それはわたしも同じですw でも、どこかで何かの役に立つかもしれません!
すべてが1つであるというのは、 最も深いところではすべての生命は1つの意識 であると認識したことを意味する。 こういう人物が孤独だと呼ばれるのは、 自分の魂の中にすべての人間の魂を見出だした からである。 幸福を経験するのに、誰かと一緒にいるような 外的接触はまったく必要ない。 この状態では、寂しさと呼ばれる深い傷が 癒されている。 実は、誰かと一緒にいることは継続できることで はなく、そのため寂しさを癒すことはできない。 いつの日か、私たちも、目の前にいる友も死ぬ。 そうなれば、一時的に隠されただけの傷口は 再び開くのだ。
いつの時代も何かが欠如していると思っている人が 常にいたのかもしれません。 どこかに寂しさや空しさをかかえている人。 わたし自身はリハビリでヨガをはじめましたが、 そんな欠如をかかえているときに、 クラスできいたことば 「私たちは生まれたときから満たされている」 たりないものは何ひとつない、というものです。 この言葉にはおどろきと発見がありました! なにしろそんなこと考えたことがなかった。 人と比べて自分にたりないものが多すぎて。 比べることは無意識に「だからうまくいかない」に つながっているのかもしれません! その言葉は欠如をかかえている人には大きな救いと もなる偉大なものです。 ですが、これは捉え方なのですが、 「すべてが満たされている」ことにあぐらをかくと 成長できなくなります。 成長しなくたって満たされているからです(爆) 下手すると《私は私でよい》で完結してしまいます これはまことに問題ではないでしょうか。 だからこそこのスートラは聖典なのだろうと おもいます。 受け取り方をまちがえない人に教えられていった 伝えられた真理。
肝心なのは間違わずに受け取れるか
やはりこればかりはわたしたちの成長が必要です。 そのときの感情や思いに のみこまれてしまうのが人間だからです もしかしたら《悟り》というのも、 寂しさと背中合わせのものかもしれません。 考え方。これは考え方ですが、 すべてを知ってしまうことはたいへんな退屈かも しれません。 知らないことがあるからこそ驚きや発見があるのだ とおもうのです。 わたしたちも年齢を重ねれば重ねるほど 《すべてを知っている》気がするものですw そしてあたらしいことをしないようになります。 知ったような気持ちは老いに直結しているように 感じるのです
いつも。今も現在も、すべて新鮮です 自分自身でさえ細胞はめまぐるしく入れ替わって いるくらいです いつまでも驚きを忘れずに生きていたいですね☆
つづく。
| 2016年07月16日(土) |
解脱しようがしまいが人間死にます |
「見られるものは、まさしくその本質からして 見る者の目的のためだけに存在する」
世界は、やがて解脱へとつながることになる意識 に経験を与える以外、目的を持たないのである。 意識は、永遠に活動をしないものである。 ただ、観照するだけなのだ。 意識を描写できる数少ない言葉に《気づき》が ある。 しかしシャンカラは復注書で、対象が 差し出されている間に限り気づくことができる、 と正しく指摘している。 つまり気づきの質は、主体となる意識と気づく ために出された対象との関係に《関連》するもの なのである。 これは私たちの理解のために欠くことのできない ものだ。
まあ、、むずかしいよね☆ 笑笑 意識は永遠に活動しない、とかw すこし立ち止まらないとなんとなく拒否しそうなw でもね。これがね。 ◎立ち止まると見えてくるわけです◎ さて、このところは放っておいてw ヨガのたいへんわかりやすい記述がありましたッッ
身体的なヨーガ実践者にとっては、 人間の体はそれ自体が目的ではないことを 理解しておくことが大切だ。 体の存在意義はただ、意識に対する行為の 乗り物となることだけなのである。 つまり、ポーズはそれだけではさして有益な ものではないので、何百もの素晴らしいポーズを 取ることにそれほど執着する必要はないのだ。 解脱に向かっていて初めて目的を成し遂げるので あり、正しい方法で行われなくてはならない。 自我を強め、自己満足のためにポーズの実践を 行うのでは、真のヨーガにとって障害となる。 本質的に、見られるものとは意識のためだけに 存在するのであり、この目的が達成されるならば 見られるものは当然表に現れなくなる。 世界の目的は、経験と解脱を与えることにある。 これが達成されたならば、世界と体が表に現れる こともなくなるのである。
まあ、、断定してる文章は、ひくよね☆ 笑笑 ドン引きしておかしくないですw だからこそ、解説よりもスートラだけのほうが なんだか真理的です!
「見られるものは、まさしくその本質からして 見る者の目的のためだけに存在する」
わからんもんね(爆)
ただ、ヨガをしているときには自分で出来てると 思っていることに関しては自信があります。 そして出来ないと思うことに関しては自信はないも のですw そして著しくポーズが美に近づいてると感じたら、 ほどなく自己満足の気持ちが差します。 なにしろ《出来る》んです☆ しかしそこに なぜだか慢心が忍び寄るッッ!! 自信とは違うヤツっっ!! これが人間の正体です。 よって、この慢心とやらの撲滅運動をします。 この撲滅運動がヨガです(爆) どっちにしたってポーズができても、 えらいわけでもなんでもないんですねw これはほんと最初におさえておくべきです。
できなくたっていいんです
やってればそのうちできるようになりますw そんなことよりもむしろ呼吸です。 呼吸が深くできるところでポーズをとる。 呼吸を意識できるようになると日常にも応用が きいてバランスがとれるようになります! 真理とか解脱とか、考えても考えなくても わたしたちは死にますからね☆ ◎解脱できなくても経験はしておこう◎ もったいないです。たぶんw
生きてるうちは死なないように生きましょう!
つづく。
| 2016年07月15日(金) |
それでも地球は丸かった |
(※今日はスートラじゃありません)
この日、たいへんなことがおきました。 まさか… あんなことになろうとは―
今日もいつも通りの地味トレをこなし、 日課ラストであるバタ足の最中、スタッフ岡田君が 泳いでいるのを発見した。 わたしがプールに入るのはほぼ営業終了直前です。 本日のプールエリア ラストスタッフはBIG塚君。 水球マンです。 1日に4000とか泳いでる人間w ここらへんはもう、、アレだよね 笑笑 プールの後片付けはいろいろとたいへんです。 階段をとりはずすのをはじめ、保温シートを プールの全面に張ったりしなきゃなりません! 先日は美人のU里ちゃんがラストだったんですが、 本人よりもおおよそ他のスタッフが働いていたw この2年、ずっとプールでリハビリしていますが 手伝ってもらってる人間とかはじめて見た!(爆) こんな景色、、見たことないぞッッ
美人って有利だ!!
たすけてもらえるのも才能です。 だけど。 だけど ズルいだろそれ― U里ちゃんは笑顔でこう言った。
「なんかみんな手伝ってくれるんですよ〜」
勤勉なスタッフを見てきたわたしは思います。 「チッ」 “それ、キミだけだからね” さあそんなわけで今日です。 そんなプール事情から岡田君に吹っかけてみた。
「やさしい先輩の岡田君だから最後は手伝って あげるとよね?? やさしいね〜 笑笑」
岡田は言った。
「手伝いたいのはヤマヤマですけど、 後輩のために涙をのんでかえります! ちゃんと仕事をさせるのも先輩の務めなんで☆」
まあ、、こんなヤツですw なんだかんだ言いながら結局手伝わない(爆) たいていだったら、なんだかんだで手伝うでしょ? そう思ったら微妙中の微妙なところを手伝う岡田! 立て札だけ撤去ww
それだけか岡田!!
それを見たBIG塚君は俺にこうこぼしたのです
「あれじゃあ、、ただの邪魔ですよ… 」
なんてこった
よかれと思ってけしかけた言葉だったのに、、 真実。 相手がわるかった― 自分の読みではBIG塚くんの仕事がたすかるはずで あった。
これじゃあテロ行為か
よかれとおもって放った一言で、 まさかこんな結末をむかえてしまおうとは!!! 俺はBIG塚君に心で詫びました
岡田めッッ(爆)
「見る者は純粋な意識である。 それは観照する現象の形を帯びているように 見えるが、実は何の影響も受けていない」
注)観照:主観を交えず、その本質をとらえること
このスートラは瞑想についての記述がありました! かなりわかりやすかったw ヨガクラスではいつもやってることだし!? 笑笑
瞑想の道を歩き始めるには、まず粗雑な対象を 選ぶ必要がある。 なぜなら粗雑な対象は瞑想しやすいものだから である。 アシュタンガ・ヴィンヤサ・ヨーガの瞑想の やり方では、私たちはまず粗雑な対象である、 動く人体に瞑想する。 人間の動きには、外呼吸も含まれる。 この段階はアーサナと呼ばれるものである。 集中を切らすことなくアーサナ(ポーズ)の 練習ができるようになれば、 次は内呼吸(プラーナ)の動き、つまり微細な 対象に集中することになる。 この段階がプラーナーヤーマである。
呼吸。呼吸です! まあたぶん、やったことない人はよほどのことが ないと気づくこともないようなことかもしれんw ヨガクラスではこの呼吸が常に途切れることのない ように気をつけながら動きます。 呼吸が苦しくなったりしないトレーニングとも 言えます。 (呼吸が苦しくなる=がんばりすぎ) 古典ヨーガのクラスではポーズをとったところから マントラ詠唱までするくらいです。
苦しかったら歌なんて歌えません(爆)
続けていけば嫌でもわかってきますが、 いつの間にか柔軟性は増しています。 増したことに気づくまでがたいへんなだけです。 どんなことも最初がいちばんつらいのです。 自分自身が変革するのはたいへん地道だからね。 続けて初めてわかること。 自分のカラダが応えてくれることを知ってしまうと あとはもう戻れませんw ◎どんどんカラダは応えてくれるからです◎ これを知らないでやめる方、お疲れさまでした! 人間には嫌いなこともあるので即座に別のことを してくださいね☆ わたしなんか、医者に「ヨガでもしたら?」って リハビリの足しに言われただけですからねw 哲学とか宗教的なこととか打ち捨てても、 確実にカラダが応えてくれることがわかります。 呼吸。呼吸です!
呼吸に集中することがそもそも一番かんたんな 瞑想の方法です。 ひとりじゃやらないことでもクラスに出れば イヤでもしなきゃなりませんw ◎でも、やってたら自ずと集中がキます◎ 集中ってほんとうに興味深いもので、 なによりも雑念が根こそぎ消えます☆ 運動をしても同じですが、ちょっとした嫌なこと・ 印象はかるくどこかへ行ってしまいます! 要は何かに集中するからです 考えることでないことに集中すること 自分のカラダのことが一番の最速です!! もし、もしもそういうことをしなかったら、、 ずーっと雑念は消えません。お疲れさまでした! 呼吸からはじめてカラダ全体まで細部まで 全体にいっても呼吸にはすぐにもどれます 結果として心のバランスがとれるようになるのかも しれません。
瞑想ってとってもダンスに近い気がしています
踊りに向きあうと、かなり瞑想と同じ感じなのです
とんだりはねたりよりも、もっと何かが伝わる感じ
とても繊細で圧倒されるような自然体
想いも、きっとそんなふうに空間にただよっている 気がするのです
つづく。
「記憶が浄化されれば、 心の本来の状態がなくなってしまったかのように 対象だけが光り輝いて現れる」
ヨーガスートラです。 もうすこし続けさせてください。 自分にとってもかなり困難なところではありますが なんとか頑張って伝えてみたい。 正直言って自分でもここまで言語化されているもの には一種のいかがわしさを感じてしまうところも あります。 ですが、やはり言語化されているというのは物凄い ことです。 考え方のひとつとしてそれを知っているだけでも 現実世界で自分自身を見つける手助けになる。
それを実感しているからこそ頑張りたいのです
私たちの記憶には、過去の出来事、読んだもの、 人から聞いたこと、推論から達した結論などから 得た見解が詰め込まれている。 記憶の浄化とは、瞑想対象に関してこれまで 私たちが蓄積してきた状況や見解、データを 次々と出すことのない状態にまで心を集中させる ことである。 対象を認定するためにこういう知識をすべて持ち 出すのは、心の持つ性質である。 しかし、このようなとめどない考察は、より深い ところに進んで対象の深層にある核心、対象の 何たるかを認識するには妨げとなる。 このように対象の模倣が続く限り、 対象の何たるかは認識できないのである。
思い込み。 これは《思い込み》です。 過去の経験から勝手に決定してしまうようなヤツ。 この感じは、、そう!あれです☆
聞く耳をもたない人
《思い込み》とそれからの《決めつけ》 これはある種の「この人には何を言っても無駄」と 思わせるようなアレですw ばっさり切り捨ててる。空前絶後のバッサリ感! 決めつけるということは世界を狭める効果がある。 わかったような気になる、とか。 旅番組やインターネットで行った気になる、とか。 実際にその土地に足を降ろすだけで、まったく 新しい驚きがうまれます! ですが、切り捨てているために新しい何かを発見で きなくなります。 会話の中でそういったものに出くわしたとき、 わたしは常にこう考えています。
柔軟になれないほど、この人には何かがあった
過去の出来事、特につらいことがあればあるほど 人間は切り捨てることが多くなるからです 裏切られたりした過去はなかなか浄化できない。 過去を繰り返さないために全否定にかかるのです。 これがその人をつくっている場合がある。 世界が狭くなるのも道理です。。 感情的になればなるほど爆発的に増幅します。 記憶ってとてもおそろしい もどします。
この専心は、蓄積された知識を現在の瞬間に 投影するという心の本来の状態がなくなって しまったかのように見える。 これが記憶の浄化である。 過去は記憶に印象を残し、そのため記憶は 「染みのついた」とか 「純粋でない」とか言われる。 記憶が浄化されるというのは、記憶が消された ことを意味しているのではない。 過去を現在に永続的に投影していたのが、 《随意》になったということである。 ※随意:束縛や制限のないこと ヨーギはこの段階において、叡智に入るのか、 あるいは記憶を使って結論に至るのかを 《選択》できるのだ。 記憶を意のままに使うこともできるが、 瞑想の時のように必要でなければ使わないでいる のもまた自由なのである。 つまり、常にくだらないおしゃべりをするという 心の本来の状態が取り除かれるのである。 その結果 初めて心の中には瞑想の対象だけが 輝き現れる。 こうであるに違いない、と信じるものと一緒に ならなくとも、それだけで目に見えるのである。 重要なのは、初めてその対象そのものを見ること ができるという点である。 これは、真に生きていることを意味するものだ。
大事じゃないものはひとつもない、生きること。 恋をすると世界の色が変わるとか言いますが、 恋をしなくても世界の色は変わります(爆) ドキドキとかワクワクとか心躍るアレw
◎箸が転がってもほんとうにおもしろい◎
そんなことを “自分が生きている” と自覚したとき に初めて知りましたw 生きてる!!っていう実感。 なにものにもかえられない実感です
私たちが職場からの帰途についているとしよう。 何度も通ったその道は、過去を通して知っている ものに思われ、退屈に感じられる。 しかし、毎日の日の光は違うのではないだろうか 空の色、空気の匂い、木々の葉や花々の変化、 空飛ぶ鳥たちはどうだろうか。 これらはすべて一瞬一瞬完全に新鮮であたらしく それに気づかないのはただ昨日を今日に投影して いるからに他ならない。 このため頭の中の小さな枠組みに従って、 生命から絶えず与えられる多くの呼び声が聞こえ ていないのである。 もし死が近く、この道を車で通るのもこれが最後 だと思えば、状況はまったく異なるだろう。 突然、すべてのものを鮮明に知覚するようになる はずだ。
これは誠にそのとおりで自分もそうでした 明日しぬかもしれない あのとき初めて生きていることに感謝しました 感謝しかなかったのです
あれほどまで感謝したことはありません
あのときを経験してから人同士が争ったりするのが まったく理解できなくなりました 生きているって、ものすごいことです 光り輝いていないものなんてひとつもないんです!
どうやったらそんなものをひとりひとりから引き だせるのか、うけとっていただけるのか、 わたしのダンスの原点はここしかありません。 わたしが踊るダンスに疑問を投げかける方もたくさ んたくさんいらっしゃいます。 ですがわたしはどうやらダンスを踊りたいわけでは ないということです。 なにがしか得体の知れない何か どんな人にもとどくであろう何か
みんな死ぬとおもって毎日を生きていません。 っていうか死ぬとおもったら怖くて外でれません。 忘れてるからこそ毎日やっていけるのかもしれない でも、ふと立ち止まると確実に死ぬのです そのことを頭の片隅にあるのとないのでは、毎日が 激変します。 先ず、受け容れることに関して確実に寛容になる。 どんな人をみても人だなあっておもいますし わけのわからない人を見たって生きているんです そんなすべてをいとおしいなあ〜っておもうのです
◎毎日は、最初で最後◎
つづく。
| 2016年07月12日(火) |
まるで汚れのない水晶 |
「心の波が少なくなれば、知覚されるもの、 知覚する過程、知覚する者のいずれであろうと、 まるで汚れのない水晶のように 目を向けた いかなる対象も、 心は正しく映しているように見える」
“心の波が少なくなれば” 、心は集中し一点集中 の状態になる。 この状態では、対象をありの まま知覚できるようになる。 つまり対象を正しく認識し、対象に関わる すべての知識を得ることができる
このスートラにはおそろしいことが書かれていた。 それは、、《心のはたらきの仕組み》!! マインドは感覚の入力したものを整理する役割。 本著ではこのように書かれていますが、 感覚の入力したもの、、ってかなりわかりづらい。 これはたぶん、、“感じたもの” だと思われます! マインドは【感じたもの】を整理する。 もうね、ほんとうにこの本は咀嚼できるかが 特に問われてきます。 咀嚼できなかったら、、そこで試合は終了ですww 本題に戻そう! このマインドというものは以前に起こった経験に 色づけされるため、現在の状況をそれに当てはめ ようとするらしいのだ。 つまり、過去の経験に影響を受けて “現在” を 正しく知覚することができない、というもの。
現在の状況は過去の経験にとらわれる
特に嫌だったときを考えるとわかりやすいです。 嫌だったことに近い状況になるとわたしたちは それを無意識的に避けようとするからです。 その表情、なんとなく受け取っていますよね。 そういうときは《その人には何かあった》のだと 漠然とわかります。 特にそれが嫌なことだった場合、 如実に顔色にあらわれるからです。 一目見ればそれが明らかな方もいます。 最初から《ごにょごにょ》する感じがするのです! 明快でない、陰鬱さ。そんなものでしょうか。。 これは感じるものです。 感じる、ってとても不思議ですよね 本著はこうつづきます。
マインドがこのように働く理由は、それが生存の 手段だからである。 マインドの任務はできるだ け早く、できる限りの正確さで真実の複製にたど り着くことである。 目の前にある対象は食べられるだろうか? 今見ているものは脅威を与えるものであり、 逃げる必要があるのだろうか? マインドにとって、対象の奥深くにある真実、 対象は、どのようなものなのかを理解すること など重要ではない。 それに携わる器官は “知性” である 知性の伝統的な定義は、同一の対象について 3時間以上 気をそらされることなく 考えることができる、というものである。 ヨーギの課題で大きな部分を占めるのが、 《マインドを知性に変化させること》である―
マインドと知性の記述に度肝抜かれました!! 《過去を断ち切れば… 自由》 ほんとうに、ほんとうにそのとおりです☆ できたらねw 現在は常に変化しているので過去と “同じ” じゃ ありません。《むしろ常に “あたらしい” 》 ですが、感覚は「またあれか」になりがち。 経験を重ねれば重ねるほど、 どうやらそれを忘れてしまうようです。 まずは《現在をありのままに見る》ことが先決☆ 実は、この部分はダンスでもおこり得ます。 黒沢美香さんのクラスを初めて受けたとき。 わたしはそれまでに踊ってきたものをダンスと 認識しており、それを踊ればすなわち《ダンス》 だと思っていました。 美香さんに言われました。 「それだったら立ってるだけのほうがまだいい」 美香さんには《らしきもの》を徹底的に指摘され ました。 それは《ダンスのようなもの》でしかなかった。 わたしはダンスを《ダンスらしきもの》としてしか 踊っていなかったのです。 わたしはあのとき初めてダンスが何なのか疑いまし た。 それまで疑ったことがありませんでした あのとき わたしのダンスがはじまりました。 そもそも自分のダンスを探していたはずなんです。 しかし、ジャンルのダンスを学ぶたびに、 それをすっかり忘れてしまっていました― もどします。
心についても同じことが言える。 過去のすべてを持ったまま次の環境に進んだので は新しい対象を心に正確に複製できない。 心が澄んで汚れのない状態であれば、 対象の真実をより深く知ることができる。 心が過去の経験で汚れていれば、瞑想の対象に その経験を投影することになるだろう。 こうして心は、過去に集めたデータによって 修正された対象の複製を作り出す。 これは明らかに瞑想の対象そのものとは程遠い。 心が完全に安定して初めて、複製品と原型とがほ ぼ同一に思われるまで対象を再現できる。 こうした状態の時のみ、 心は対象の真実を知ることができるのだ。 この状態の知識を《叡智》と呼ぶ。
まるで汚れのない水晶のように、いつも新しい 《今》に向き合っていきたいですね!
心の探究は― つづく。
「心の清澄は他人の幸福への親しみ、不幸への あわれみ、徳への喜び、不徳への無関心を 抱くことで生じる」
障害の存在する散漫な心は、成功している人に 対してうらやみの気持ちで反応するという傾向 があるという。 現代の《成功した人をねたむ風潮》は、この 現象のよい例だ。 どんな点にしろ際立つ人がいれば、現代人は その人を平均的なところまで低くして見る方法が ないか探す傾向にある。 パタンジャリは、そういう傾向に従うのではなく 成功した人に出会ったら親愛の深い気持ちで瞑想 するように、と提案している。 一方散漫な心は、しいたげられた人に出会えば、 苦境の原因は本人にあり、その人物が引き寄せた カルマ、あるいは間違ったことを考えたり 信じたりすることにあると捉える傾向がある。 パタンジャリは、この散漫な心の展開にそのまま 溺れるのではなく、あわれみの気持ちで瞑想する ように提案している。 また、素晴らしい徳を持ちスピリチュアルな道に 従う人に出会えば、私たちはただちに(実際は そうでないのだが)自分もそうでなくてはならな い、と思い起こす。 そして、ねたみの気持ちを抱き、そういう人の 評判を下げる方法を考える。 これに対してパタンジャリは、もし心が清らかな 状態にあれば自然な反応として湧き起こるであろ う喜びをもって瞑想することを提案している。 最後に提案されていることは、おそらく最も 難しい。 不道徳あるいは邪悪にすら思われる人物に出会っ た時には、そういう人を嫌う傾向にある。 このような反応をするのは、うまく隠しては いるものの自分自身の中にもそういう面がある ことを思い出してしまうからである。 自分自身が持つ暗い面への拒絶でしかない嫌悪感 を持つより、こういう人へは無関心でいることを パタンジャリは提案している。 これら心の状態の悪化を和らげる方法が、 心を清澄にして静めるための瞑想技法である―
ここで記述されている《傾向》には、、 唸り声を上げてしまいました!! これ、、深すぎるよね?? 際立つ人がいれば、その人を平均的なところまで 低くして見る方法がないか探す傾向にある、とか …唸るしか、、ないw 評判を下げる方法を、、考える!? …唸るし、、か、な、くな、いですか??(爆)
俺はおそろしくなりました
今日ふれている教義はわたしたちが日頃《黙殺》 しているようなことです。 無意識におこなっているかもしれない思考。 その《傾向》ってどうやって生まれるの!? まったくわからない!! しかしそのいくつかの傾向にしっかりと提案が なされているのだ☆
マジかーーーーー
わたしは感動してしまいました 最終奥義が《無関心》だなんてねw ジハツテキにわたしたちが実行できる奥義! この聖典は《自発的にできることがあること》を おしえてくれます。
スートラ... ほんとうにすごい
知ってしまえば自分自身で変えていける方法を 見出だすのみです☆ 無意識におこなってしまう《傾向》に向き合うこと が必要になりますが、向き合うことができれば 修正・打破していけるところに身を置けます。 わたしたちはほとんど無意識にまで考えをめぐらせ ることがありません。 なによりも通り過ぎているものです。 それについて注意深く、どうしたら心を清澄にでき るのか、こんなにも書いてある書物がこの世にある だなんてね。。 ほんとうにすごいとおもいます
なにしろ紀元前とかなんだかそこらへんですよw
わたしたちのあたりまえ《傾向》を打ち砕くには、 その瞬間を注意深く観察しなければなりません。 向き合うというだけでも圧倒的困難です! なぜなら自分自身のことほどおろそかにできること はありません!! 考えないのが一番楽なんだものね(爆) しかし。 この《傾向》をほんとうに打ち破れたら、、 まちがいなく《自由》です 確実に世界は変わってしまうとおもいます
つづく。
「実践とは、止滅の状態にとどまるための努力」
パタンジャリは、心の波を止滅するための二重の 方法を説明した後、ここでまず2つのうちの実践 を定義している。 私たちはすでに止滅の心を 垣間見たことがあるかもしれないが、それは 十分ではない。 安定して止滅の心の状態に とどまっていなくてはならないのだ。 ヴィヤーサによると、安定とは止滅の心が穏やか に流れていく状態を指す。 その穏やかな流れの中にとどまろうとする努力が 実践である。 この努力は、力強く熱意に満ちた ものでなければならない。 ヴィヤーサが、穏やかな流れの中にとどまるため の努力や精神や熱意を勧めているということには 驚くかもしれない。 しかし、もう一人のヴェー ダーンタの師・シャンカラは、ここでは努力、 精神、熱意は同じことを意味していると述べて、 ヴィヤーサの著述を確認している。 パタンジャリのスートラとヴィヤーサの注釈書 によって、シャンカラの次の詩が思い出される。
「大志を抱く者は、瞑想を注意深く実践しな くてはならない。 そうすれば自分でうまく統御でき、 自然に湧き上がるように本来の歓喜が現れる」
3人の師は皆、努力・実践・精神を実行すれば 《本来の歓喜》、《穏やかな流れ》、 《止滅の状態》が自然に現れ出ることについて 繊細で深遠な理解を示している。 これは2つの事実を示すものである。 1つ目は、昔はヴェーダーンタとヨーガの間に 現代のヴェーダーンタの師が主張するほどの差 はなかったということだ。 2つ目は、《自然なままでいるだけであり、 人工的な努力などまったく必要ない》という、 現代の師たちによる教えにありがちで、 ヒッピー世代の考えに大変心地よく適合する信念 は、ヴェーダーンタ学派の創始者たちである、 ヴィヤーサやシャンカラの教えを基にしたもので はないということである。 ただありのままでいるというのは、何年もの実践 と探求を積んだ後の大変高度な状態なのだ。 ただ、心の気まぐれに従っているという心に服従 するだけの状態とは違う。 内なる自由は外的な枠組みと規律、つまり実践に よって到達されるものなのだ。 外的な枠組みや規律は必要ないとする現代の師た ちの主張は、多くの人々を惹きつけるが、 そうした態度は内面における独断的姿勢や限界へ とつながるものである。
この聖典に目を通して最初の台詞はこれでした! 「なんじゃこりゃあ!!!」(爆) ヨーガとは心のはたらきを止滅させることである。 心1stでおどってきた自分にとって「止滅」の 文字に驚きを禁じ得ませんでしたw でもよーく読んでみたら、、 心を殺すことではなかった!! 笑笑 ヨガに取り組めばわかりますが、ああそうだ、 これはダンスに取り組んでも同じことですが、 心の止滅というのはおおよそ雑念を払うことです。 上記での「私たちはすでに止滅の心を垣間見たこと があるかもしれない」は《集中》でしょう。 集中すればおのずと雑念は消えますw だから、たぶん。 みんな垣間見ているものだとおもわれます☆ 垣間見たことない人なんて、、 この世にはいないんじゃないかなw そういうわけで、今回はその先です。
《垣間見つづける》 笑笑
正直言って笑えません。 これを意識的におこなうのは甚だ困難なのです! 垣間見るのはできても垣間見つづけるというのはね これはね、努力と根性いるとよねッッ そうしてその先はその状態の《あたりまえ》ww
かなり遠い境地です(爆)
でもね、まあできるよね、たぶんww がんばれば(爆) この教義はおそろしくダンスです。 本番は《垣間見続けている》からです 雑念があるうちはおどりじゃありません。 得体の知れない何かがとおっていないからです。 上に書いてあるものを読んで まことに痛快でした!! なぜなら、ダンスに集中するとたしかに 《本来の歓喜が湧き上がってくる》んですッッ その衝動は自動的にキます ドッとあふれる何かを感じるのです 言葉にされているのを見て深く感じ入りました。 そんな “何か” が文章にされていただなんてね! ほんとうにすごいと思いました。 集中というのは純粋さをひきだします。 かざらないその人自身をひきだします。
それは、ダンスになる瞬間だとおもうのです
これはもう技術とかの話じゃあありません!! なんとも言えない感動です!! わたしはそれを見てダンスをやめられなくなりまし た。 ダンス、、ダンスは、ほんとうにすごい☆ どうやったらそれを共有できるのか。 わたし自身はここに挑戦している者です。 いいとかわるいとかじゃない何か。
生きてるってすごい そんなダンスが踊りたいのです
さて、わたしの周囲にはヨガマスターの知人友人が 怒濤のようにいます。 おかげさまで本書『ヨーガ・スートラ』を課されて いるわけです(爆) そんな知人友人の中にたまに垣間見える人がいます 《自然なままでいるだけであり、 人工的な努力などまったく必要ない》 ありのままをよし、としすぎるとここに着地します スートラなど大変なものを学んでいる人だろうのに 突然切り捨てるような台詞が聞けるときがある。 わたしはいつもそれを疑問におもっていました。 “そこは成長したほうがいいんじゃないか” ヨガを実践している人たちは受け容れることを 学んでいるため、当然話しかけやすい人たちで オープンマインドです。 《そのままでよい》というのは心乱れている者に とって救いの光のような一言です。 《私たちには欠けているものはなく、 最初から満たされている》 この教え自体にはかなり気づかされました。 ほとんどの人が “たりない” と思っているのでは ないでしょうか。 満たされているのを土台にすると、 世界は一変します。 なにしろ《たりているんです》!!! ところがこの気づきが行き過ぎると大変です。
別に成長しなくてもいい
なにしろ生きているだけですごいことなのです そのままで物凄いことなんです!! そのことにはまったく間違いはありません でも成長はしたほうがいいんじゃないかな― そんな疑問にいきなり答えが書かれている聖典!
「実践とは、止滅の状態にとどまるための努力」
ただありのままでいるというのは、何年もの実践 と探求を積んだ後の大変高度な状態なのだ。 ただ、心の気まぐれに従っているという心に服従 するだけの状態とは違う。
“ありのまま” って、、 単なるありのままじゃあなかったのだ!!! スートラ… すげえ 笑笑 実のところ自分もありのままでいい、っていうなら もう踊らなくてもいいんじゃないか?ってなります 他人様のまえでおどる理由がない。。 だってすでに満ち足りているんだものね。 みんなありのままでいいっていうのなら、、 もう呼吸してるだけでいいじゃない☆ いつもここにたどりついてしまいます(爆) しかし、わるく言ってるわけじゃありません。 ほんとに実践している人のとなりにいると、 不思議とそんな気持ちになるのですw なにしろ圧倒的に自然体なんです!! なぜあれほどに穏やかな空気が流れているのか、 まったくわかりません。 圧倒的幸福感ッッ そんな人の近くにいると “つまらない衝動” が ほんとうにつまらないものだと気づきますw そんな高度な人たちがまわりにいればいるほど つまらないものはおどれなくなる―(爆) うおお!! つまらないものたまにはおどりたいッッ つまらないものにだってきっと何かはある!! できません。。知ってしまうとかなり無理w
つまらない衝動ではない、ほんものの衝動を いつも見つけなくてはなりませんw ダンスってほんとうにヤバい☆ ◎オートマティック努力◎
いつも見つける努力を土台に、 おたがいにその努力をあたりまえにしていけたら もっともっとゆたかになれるとおもうのです ひとりで完結できない何かをダンスにこめて おどっていきたいとおもっています
つづく。
| 2016年07月09日(土) |
恋じゃ愛はわからない |
どうすれば、心の迷いとそれに伴う症状を 排除することができるのだろうか。 スートラでパタンジャリはすでに、オーム、 つまり至高の存在の意味を念想することで 障害に打ち勝つことができると言っている。 このスートラでは、すでに障害が生じた状況 について語っており、どうすればそれをなくせる かが問題となっている。
「もし障害が本当に生じてしまったら、 1つの方法を貫くことで 障害をなくすことができる」
とパタンジャリは言っている。 すでに心が乱され障害が生じている場合、 すべてのヨーガの方法を同時に実践して混乱を きたすのはよくない。 それよりも1つの方法に集中し、心が1点集中の 状態になれば、もっと高度なヨーガを用いた 手の込んだ計画に変更すればよいのである。 そうでなければ、井戸を掘りたいと思っている人 が鋤を地面に1回突き刺すたびに別の場所に移動 するようなものである。 そしておそらく、ある流派から別の流派へと移り 次には禅からチベット仏教へ、そしてスーフィー 教や老荘思想へと変わるのだ。 おそらく、どのやり方でも目的地にたどり着く だろう。 異なる人々の気質にふさわしいそれぞ れの方法がある。 しかし1つ共通しているのはフツーの人間が目的 に到達するには数十年を要するということだ。 新しい方法を発見することには、新しい相手と 恋に落ちるような興奮がある。 方法を変え、相手を変え続ければ、数年間は興奮 したままかもしれないが、それではヨーガにして も愛にしても、本当はどんなものかを知ることは 決してない。 人間関係を持つ目的は、他者の中に意識を認識す ることである。 ヨーガの目的は、自分自身の中に意識を認識する ことである。 ともに、同じ相手、 同じ方法を貫くことで到達できるのだ―
文章にしてある、というのは本当に凄い。 おそろしく明快です! ほんとうに自分に障害がおきたとき。 わたしたちは確実に心を乱します!! 現状だけを見てしまってどうしても散漫になる! どうすればいいの?どうすればいいの? どうすればいいの?どうすればいいの? どうすればいいの?どうすればいいの? 特に、失った場合。 喪失感に満たされると 《できること》をわすれてしまいます わたしの場合はスートラと逆をたどりました。 いろんなことを考えに考えて考えすぎて、 何も手につかなくなりました。 陥るというのはたいへんな危険です。 “それでもなんとかしよう” と思えたとき、 (自分の場合はたすけてくれた人がいたから) 《できることをする》人になれました! 考えに考えて考えることは苦しかったけれど、 決して自分にとってわるいことではありません でした。 考えたからこそ《これしかない》に たどり着いたのです。 《これしかない》にたどり着けば、 あとは何一つ考えることはありません。 《実行する》だけです
わたしの場合、 選べる選択肢・方法をもっていませんでした。 1つの方法《できることをする》にたどりつくまで べらぼうな時間を要してしまいましたが、 自分にとって、あの時間こそが今の自分を そだててくれた全てのはじまりです。 あの時があったおかげで今では選択肢と方法を 見出だすことができます。 振り返ると、おそらく、わたしたちは最初から 《選択肢と方法》をもっているわけじゃありません もっている人のほうが圧倒的に少ないと思います。 その最初はどんな人でも迷って苦しむはずです。 そして、その迷って苦しんだ回数だけ 選択肢と方法を得るのです。 それを通じて、迷わない1つの方法を取り出せるよう になるのではないでしょうか 《今回はこれでいく》 その迷わない方法はおおよそ経験を通すことで 選択肢にできるのだとおもいます。
◎問題なのはいつだって経験にないこと◎
実は起きる問題はすべて “別物” です。 同じものなんて何一つありません! “今” という時間があたらしいからです。 それは常に心を散漫に乱してきます☆ だから、いつも “今” を逃げずに向き合う姿勢が すべてのはじまりだとおもうのです
つづく。
| 2016年07月08日(金) |
安定していて、なおかつゆったりの根源 |
哲学の時代が始まると、大多数の人間は集中する 能力を失い、散漫な心を持つようになった。 散漫な心を持つ者には、止滅の心を持つ師を理解 することはできない。 散漫な心は、混乱して揺れる心とも呼ばれるが、 こうした心を持つ者は、1点集中の心を持つ師に 何をなすべきかを体系的に説明してもらう必要が ある。 散漫な心の持ち主には、 もはや真実を自然に把握することはできないのだ―
『現代人のためのヨーガ・スートラ』 グレゴール・メーレ
序章:ヨーガの歴史と系譜におもしろい話発見! すこぶる眠気のおきない文章ですw ヨーガ・スートラの作者・パタンジャリについて
アナンタ(千の頭を持つ蛇) 人間がその容貌に恐怖を抱くため、 シヴァ神はアナンタに人間の姿を取るように 勧めた。 この忠告に従ったアナンタはパタンジャリという 名を使い、その後 人間に快く受け入れられた。 アナンタ自身、 完璧なヨーギであったと考えられている。 アナンタの仕事の1つはヴィシュヌ神の寝床の 役割を果たすことだが、ヴィシュヌは時に信じ 難いほど重く、その寝床は非常に頑丈でなくて はならない。 同時に、神には大変柔らかな寝床が必要である。 これら両方の役割を果たすために、柔らかいと 同時に頑丈なとぐろを持つアナンタはまさに 適任であった。 こうしてアナンタは、ヨーガ・スートラ
「アーサナ(座法)は安定していて、なおかつ ゆったりしたものでなければならない」
が意味するところを体現しているのである―
ヨーガ・スートラって、、 そんな人が作者だったのねw あっ、人じゃなかったね(爆) しかし最後の教義にはほとほと納得できました! だって蛇だったんだもんね!! ◎安定していて、なおかつゆったり◎ これはまことに輝くカラダです☆ 力強いのに自然体。 がんばっているだけではカラダはこわばってしま うものです!! 苦しいところではない、ゆったり呼吸できる場所、 それがアーサナ(ポーズ)らしい☆ いやあ学んだッッ ※まだスートラには全然入ってません(爆
つづく。
| 2016年07月07日(木) |
「ヨーガ・スートラ」 |
ついに。ついにこのときがきた― あの本の感想を書くときだ!! あれはそう、長い病院生活再開のとき。 それも入院手続きが終わったそのときくらい。 ◎前十字靭帯再建手術【前日】◎ その日、k野さんがお見舞いに来ました! 早すぎです!! まだ手術してないしッッ(爆) だからたぶん「お見舞い」ではなーい 笑笑 そのお見舞いの品をわたされたとき。 わたしはそれを確信した―
『現代人のためのヨーガ・スートラ』 グレゴール・メーレ
ヨーガの古代聖典、パタンジャリの 『ヨーガ・スートラ』についての真の解釈。 古代の主要な注釈に、著者自身の見解。 従来難解と言われてきた『ヨーガ・スートラ』を 現代人向けに解明する―
表紙を見た瞬間、わたしはおもいました
入院中に読める代物じゃないぞこれーーーッッ
さすがはk野さん。 間違いなくお見舞いじゃあ、、ない!! 笑笑 入院中ですら【学べ・学ぼう・学びやがれ】の 疾風怒濤の三段活用ですッッ そんな人生の先輩を持って俺はしあわせだわー☆
術後。マジで。ほんとうに。 読めませんでした… 激痛とか。鈍痛とか、、ね… 古代聖典ですよ!? こ・だ・いw 並の集中力じゃ確実に即寝だよッッ メガとじかけたら鈍痛くるしッッ 本をひらいたら、、混沌の幕開けでしたww 地獄です☆
生半可な気合いで読める本じゃあ…ない!!! 術後、おもいました。 ここで読むのは《拷問》じゃないか、って。。 その後の入院生活は正に2014年のblogですw なんと、、入院生活の全日を記録しています!! 正直言って、点滴、食べる、寝る、診察、お見舞い 以外は病室にいることはありませんでしたw いただいた本はまことにありがたかったのですが、 本を読む余裕はまるでなかったのです
左脚のことだけで精一杯
こうして、退院後3ヶ月以上経って開きましたw いただいたり課してくださった本はすべて。 10数冊読むまでかるく1年以上かかりました☆ なかでもこの『ヨーガ・スートラ』に至っては、、 足掛け2年かかっています!!!(超実話 その圧倒的な心への探求の叡智。 1日に “ただ” 読むだけでも、、 見開き2ページくらいが限界でした… ぜんぜん進めない!!(爆) 自分の理解できる範疇を超えると、、次の日どこを 読んでいたかも忘れてしまうくらいの内容ですw なにしろ “読んでもわからないことだらけ” !! 根性とか超えないと読破なんてできません。 しかし、読破したところで理解じゃあない☆
とんでもない聖典でした
今でも表紙を見るだけで悪寒がしますw さて、そんな古代聖典ですが。 これが、、ほんとうに物凄い本です! 人が、紀元前から心の探究をこれほどまでにして いただなんてまったく知りませんでした 現代よりもよほど進んでいます。 よほどレベルじゃないんですけどねw
おそらく。聖典サイドから我々を見たら “ただのバカ” レベル
それほどまでにわたしたちは心を学んでない! それが漠然とわかる本です。 読破まで相当たいへんでしたが、読んでみたから こそわかったことがたくさんあります。 それを差し込みの数だけはなんとか紹介したい、 そう存じています☆ わたし自身も再度この本を開くのにはたいへんな 勇気が問われるので、がんばりたいとおもいます。
第一章 サマーディ 1.2 ヨーガとは、 心のはたらきを止滅することである。
1.2の時点で卒倒しそうになりましたw 読み出してからの早速ww だって今まで心模様をダンスにしてきたんです!! 何よりも心を一番たいせつに踊ってきたんです!! それを、、【止滅すること】!?
なにそれッッ 意味解らんッッ(爆)
つづく。
| 2016年07月04日(月) |
その半分じゃなかった |
行きつけのひとつ。美容室に寄りました! 近くに通りかかっただけだけど。
用事はありません! 笑笑
そんな自分をもてなしてくれる気さくなスタッフw まず、外の湿度がスゴすぎて汗だくだったわたしに タオルを持ってきてくれました!
「いやいや、、それ汗かきすぎでしょ…」
気さくというよりも見るに堪えなかったのでしょう 代謝いいですからb
「せっかくだから冷茶もあげますよ」
いやいやながらなところが興味深いですよねw 過剰な親切サイコー! 店が忙しいか尋ねてみると騎士くんは言った!
「半分やすんでますからね」
瞬間、わたしの頭脳で爆発が巻き起こりました こんな感じです
《えっ!?カラダの半分?!それ凄い技術だわ》
今のところダンスはもちろんとして、ヨガでも カラダはキツイことしてても心はひらいていくよう な本番や練習を重ねていますが、が、さすがに。 さすがに《カラダ半分だけ休む》とか…
そんな訓練、、したことないぜッッッ
それは凄い技術だよ騎士くんッッ!! マジかよ― 騎士くんは言った!
「いや、その半分じゃなくて。。 スタッフ数の半分なんですけど…」
半分が、、違った(爆) 我が身の半分を休ませる技術じゃあなかった―
◎人の想像力は無限大です◎
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