断罪の時間 〜Dance!な日常〜

2015年03月31日(火) 退職!宇宙戦艦

今日は宇宙戦艦ちゃんが退職する日。
(故あって通称でも何でもない名前ですw)
宇宙戦艦ちゃんは、
わたしのファッションアドバイザーのひとり。
それも草分けのひとりです!
どこらへんがというと…

 “あり” or “なし” の選別眼が半端ない

その領域はSサイズかMサイズ、Lサイズにも至る。
服をどんな感じで来たら、その人に合ってるか。
そういうわけで、ないときは絶対に《ない》(爆)

 人間全否定する勢いです!!

わたしはその選別眼を “信頼” していますw
自信がなければそんな発言できやしないからです。
そんなヤマ…宇宙戦艦ちゃんの職場最終日。
会いにいってみると、なんだか涙目??

 「最終日だからだろ〜」

そう話しかけると…

 「今日◎理が始まっちゃって〜」

こんなざっくばらんすぎる返しがきちゃうのも、
はなはだ宇宙戦艦ちゃんらしい話ですw
わたしはそんな話もできちゃう人間だということ?
しかも “最終日” によ??

そんな自分を誇りに思いたい 笑笑

言いたいこと言える仲というのはそうそういません。
もちろん初めからそんな身も蓋もないこと言わないw
ゆっくりとお互いが不真面目になっていっただけだ!
単純に言えば、こうかな。

 “この人は害がない”

そんなものがわかったときお互いの緊張が解けたw
そもそもお互いにオープンな姿勢だったからだけどw
似ているとすれば、たぶん、
《自分に無理がない接し方でいたい》
ある意味、そんな我儘な人間感だからだろうなぁw
そんなヤマトちゃんの正体は―

 自分に嘘のつけないファッション大好き人間

見た目からリアルselfish美人。
そしてなぜか顔芸が得意。
変顔さえ封印すればマジで美人なのにッッ!!
さらに、その毒舌は美人特有のアレです 笑笑
わたしがヤマトちゃんから学んだ言語例は、
「ダープラ」とか「スーシルー」(爆)
でもきっと、その独走selfishが魅力なんだろうなw
そして、なんといっても

 フツーのファッションが似合わない女だ

本人も言ってた。
「どうしても奇抜な服装が決まってしまう」
ヤマトちゃんはわたしのこともそう言った。

フツーの衣服が甚だ似合わない―

そもそも、なのだが。
この二人はフツーのものを着たいなんて思ってないw
その気持ちがわたしたちをそうさせていると思う。

 生きているのなら 生きていることを
 いつも全力で主張していたい

衣服だって自分らしくいたいんです!!
わたしたちは本当に見た目で、その第一印象で、
決めつけてしまう《人間》です。
着ている服で中身まで疑うくらいの《人間》です!
しかし、面白いことに 人間性が伴っていれば、
どんなおかしな服装だとしても似合ってしまいますw

 実は、あくまで中身の問題

どんなにかっこいい服装をしても、うつむいて歩けば
かっこよく見えたりなんかしない。
かっこいい人なら何を着てもかっこよくなるのだw
そのためには先ず、堂々とすること。
自分自身を築くことです。
そうすれば、すべては自分が肯定してくれる。

◎これは《ダンス》にも通じる奥義です◎

ヤマトちゃんがいなくなればそういうものを聞ける人
も減ってしまいます!!
人間、たまに見てもらわないと間違いに気付けないw
こんな存在は見つけようとしてもなかなかいません!
世界の甚大な損失です 笑笑

さみしくなるなあ…



2015年03月30日(月) 正座記念日

◎術後、はじめて正座ができました◎
快挙、これは快挙ですッッ

 でもそれは、人がフツーにできることw

考えれば考えるほど複雑な気持ちになる!
だから… 考えない!! 笑笑
現実はこうです。

 8/22の手術からリハビリを重ねて
 7ヶ月経ってやっとできたこと

正座なんて遠い遠い技でした。
正座は全然フツーのことじゃなかった。
しゃがめって言われてもすぐにはできません。
これは激痛と鈍痛から這い上がってきた成果です!
正座したまま背中を後ろに倒せたときに思った。

 まるで打ち上げられたイルカみたいだw

たとえ打ち上げられたイルカだとしても、
生きているうちは死んでたまるか―
『タイスケ』 悲劇、6年目。


 『東京喰種√A』
  悲劇、2周目。

この作品は本当の強さがよくわかりませんでしたw
人の形をした、人間ではない人食い種族の話。
人を食べないと生きられない種族の話。
喰種(グール)と人間、その中間存在の主人公。
主人公・金木はどちらの世界も守ろうと孤軍奮闘。
劇中の台詞よりさっそく感想いってみます!

 「人って簡単に死ぬんだね…」

 「あんた、雫のお葬式来なかったね?
  悲しくないの?」

 「なんで?
  死んだだけでしょう。
  ご飯食べたり遊んだりするのと何が違うの?
  人なんていつもどこかでたくさん死んでる。
  そのうちの一人だろ??」

ご飯食べるのと遊ぶのと死ぬのが同列というのは
度肝を抜かれました!!
考えをひっくりかえされた気分です―

なぜなら、たしかに、わたしたちにとって
“死ぬ” のは “あたりまえ” のことだからです

知らない人が死んだところで
涙を流したりなんかしない。
どんなにその命が尊重されるものでも、
わたしたちは他人事にできてしまいます!!
じゃあ、じゃあ、その涙は一体何なのでしょうか??

わたしたちの身近な人の死は
“あたりまえ” のことじゃないからです

次はグールが自分自身を振り返ったときの台詞。

 「今まで自分が正しい選択をしてきたとは思わない
  正しいとか 間違ってるとか
  そんなの そもそも関係ないのかもしれない
  でもこうして自分の罪に出会えたことを、
  自分が今まで選んできたことを、
  今日誰かのために死ねることを、
  “よかった” と思うわ…」

正直に申し上げますと、グールが人間という種じゃな
いのなら人を殺めても何とも思わないんじゃないか。
生きるために殺すというならなおさらです。
わたしたちだってやっていることですよね。
ここで問題なのは《グール》が《人間》と同じ姿で、
《人間》と同じ思考をもっていること。
これは、グールが人としての “心” を大事にした結果が
もたらす不幸の物語です。
正しい選択というのも一体何なんでしょうね??
わたしたちも実のところ選択して今に至っています。
振り返ってそれが正しかったのか間違っていたのか。
考えてみると “正しい” とか “間違っている” とか、
そんなことじゃない事実にぶち当たります。
特に、大きな問題のときは選べる選択肢なんかない。

 「金木くん...
  そんなに強くなって、、
  そうするしかなかったのね
  選ぶしかなかったのね
  可哀想ね… 金木くん。。」

“そうするしかない” 状況や環境に身を置くと、
わたしたちもこんなことになりかねません。
そうなると、選択肢があることは
ただならぬしあわせと呼べるとおもうのです☆

 「君は2つの世界に居場所を持てぬ、
  ただ一人の存在なんだよ。
  人とグールの狭間で考えて、考え抜いて、
  孤独な人を救ってほしい」

自分が難しい立場にいると、
考えることはたいへんな苦痛になります。
でも、やっぱり、考えることが
人としてすごく正しいのだとおもうのです。
考えることは、相手と向き合うためには
避けてとおれません。 だとすれば、
考えないことは逃げることに等しいんじゃないか?
考えることで自分の意思が定まるのだし、
それをせずに自信をもった行動なんてできません。
思考停止はすべての可能性を奪います
もし “ダメ” だったとしても考えることで
そこからさらに先へ進むことができる。
これはほんとうに《成長》に直結していると思う
しかし『東京喰種√A』はその真逆を直撃します―
ヒデの台詞より。

 「あんていくの人達見てるとさ、
  みんなイキイキしてていいなぁ〜なんて。。
  お前もその中にいて、
  俺だけ取り残された感じがしてさ。
  だから俺は、
  俺の出来ることをしようと思ったんだ。
  でも結局こうなってしまうと、
  一人じゃ何にも出来ないんだなあ〜」

金木はあらゆるものを守ろうとしましたが、その
親友ヒデは金木を命を賭けて何とかしようとした。
ヒデは喰種との戦いで致命傷を受けてしまいます。
ヒデが目の前で死んで金木の張り詰めた糸が切れた
金木の思考はそこで停止。

すべてをあきらめた感じでした

考えに考え抜いても どうにもならない現実に
圧し潰された… これは、、バッドエンドです!!
以前のblog フランケンシュタインと同じ。
怪物と結末があまりにも似すぎています。

 「今は死ぬことだけが、おれの慰めなのだ
  さらば! おれは行く―

怪物とヴィクターがわかりあえなかったように、
金木も世界を変えることはできなかった
誰も救うことはできなかった

このままこのblogを終わるわけにはいきません!
なんとかしなければw
あらためてまとめてみると、
難しい問題は《今すぐ》には解決できないのです。
解決できなくてあたりまえ。
だから0か100かですぐに答えを出しちゃいけない!
続けることと時間に希望を…

 なんてこった

これ、、リハビリそのものじゃんッッ(爆)



2015年03月27日(金) 「音の展覧会」

3/24のblogも感想の都合で後回し―
またも先祖返り、大人の都合です(爆)

昨今は通信手段がありすぎて、
唐突に来るメッセージが怖いときがありますよね?
で、今回は良いお話ですw

 『音の展覧会』
  様々な音楽大学から若き演奏家が集結。
  クラシックからクラシカルクロスオーバー、
  ミュージカルまで!

もう記憶の彼方になりかけていた女の子から
突然メッセージを受信しましたw
一緒に踊っていた時代。 あれは、そう…
わたしが代表を務めていたジャズダンス時代です!
現在、その女の子はソプラノ歌手として在学中。
そんなことはまったく知りませんでしたが、
メッセージでわかった人生の選択肢w

 ◎その成長を拝ませてもらおうじゃない◎

わたしは久しぶりにDancing課長に連絡を取った。
お互いに見知っている女の子だからですw
そもそもその子はライオンキング・ヤングナラ役で、
舞台デビューを果たした過去を持ちます。
すべてはそこから始まったのでしょう。
舞台には人の人生を変える引力、感動があります。
今回の舞台はプロを目指す若者たちのものですが、
お金を取ります。
若い演奏家の場数修行とも言える本番。
たしかにみんな上手だった。

 だったのに感動がこない

感想は「上手」でよいのですが、
やはり舞台に立つにはそれだけでは不十分です。
このstageでは、それを痛切に感じました。
技術は感じても情緒を感じない。
その技術には並並ならぬ努力があるでしょう。
だけど「上手」で感動を呼び起こすには、
「圧倒的に上手」でないとむずかしい。
“圧倒的” とは、息もできないほどのものです。
これとは逆の視点、感動が技術ではないのなら、
ハートが歌に乗っていること。 これでしょう。
この世には下手でも涙が出る歌があるんです!!

 上手とか下手では量れない何か

その歌を聴けば情景を感じてしまいます。
そこにはその人から溢れるリアリティがある。
これはダンスでも同じです。

 何かを現出できるかどうか

これが必ず問われてきます。
キーワードは “何が伝えたいのか” や、
“どれだけ大切におもっているか”
やはりフツーでは足りないのです。
舞台では、その向き合い方が丸見えになるからです!

このstageではライオンキングメドレーもありました。
わたしはライオンキングを見たことがないので、
期待していたのですが、、まったく思い出せません。
Dancing課長は主役を張るようなミュージカル俳優
ですから、こう言ってました。

 「知ってたら楽しめる」

それを聞いて、わたしはこう思いました。

 知らないからこそ楽しませてほしい

歌だってダンスだって、
知っているから楽しいんじゃないはずです!!
初めて聴いたとき、見たときの衝撃
押し寄せる感動
わたしは、知ってるものを見に行きたいとは
あまり思っていません。
もし見に行くとすれば、役者・ダンサーの内実です。
だから、あくまでも《人》なんです!
そうなるとやはり舞台に立つには責任が伴います。

それだけの魅力を磨かなければ!!



2015年03月26日(木) Paul Smith IMS店 閉店

3/22 のblog更新忘れてたッッ 涙涙
ただでさえ遅れてるのにまさかの先祖返りです―
Paul Smith(IMS店)が突然閉店してしまいました。
告知後1ヶ月のスピード閉店!
っていうかそのスピードは閉店に関してでw

◎26年という長きにわたって営業してきた店舗◎

一体わたしはどこから顧客だったんでしょうね…
思い出せないけど、かなりお世話になりました!
閉店の裏にはひと悶着あったそうで、
わたしは なぜかその概要をも知ってます 笑笑

 これが常連の力だ(爆)

別に理由を尋ねたりしてないのに、
Staffが気さくにおしえてくれるんですよw
ちなみに、このブティックがショッピングビル内に
あるのは全国的にも稀。
どうやらこのビルでPaul Smith展をやって、
Paulさん本人が来たのが出発点らしい。 納得
そのおかげでお得なカードやキャッシュバックキャ
ンペーンとかが重複します。
特に、キャッシュバックがいつあるかなんてついぞ
知らないわたしは、Staffが事前に教えてくれると同時
にお取り置き行使されるオートマティック(超実話)
いやあ、ほんとお得でしたよ〜〜〜
さて、Paul Smithは路面店ががっつりありますが、
ほとんどそっちには行きませんでした。
なぜならあまり面白みがなかったからです。
そこいくと強烈なショーウインドーを展開していた、
IMS店に甚だ足が向きましたw
そもそも度肝を抜かれたあの時がはじまりです。

 ショーウインドーにそびえ立つフランスパン

ええええええええええええええええええええええ!?
なんだそれ?? 意味わ…
その隣には同じシルエットのショルダーバッグ!!
そう、、きたかッッ わたしは唸りました
食べ物を粗末に扱うそのギリギリのセンス!!
すごい。マジですごい。 こんなの見たことない―
わたしは《レジェンド》に刻みました。
写メ撮り始めたのはあれを見たときからです。
そして、わたしがディスプレイに
ダメ出しを始めたのもそれからです―(爆)

そんなものをこさえてる輩の一人 t永くん。
他店舗に移動した前担当m藤さんはこう言った。

 「あぁ〜アイツはそれしか能ないから〜」

聞けば聞くほど面白かったのは、
展示にはPaul Smith独自のルールがあるってこと。
4つ並べるときは左から2番目を変える、とか。
これはダンスにも使えるとおもったw
目を引く位置だということです!
何よりも、他の店舗にはない独創ユーモア。
とにかく近くを歩くようなときは必ず寄った。
それくらい面白かった。
SNSにそのような投稿をすると、わたし以外にも
意外とディスプレイ楽しんでた人たくさんいたw

 ダメ出し評議会とかつくれたかもしれん!

ちなみに、わたしは本場イギリスPaul Smithにも
寄って、さらに凄まGディスプレイを目の当たりに
しましたw

 本気で遊ぶと、途轍もない可能性がある

帰国したわたしは更に厳しいダメ出しを制定w
面白い発想が毎日をたのしくするんですッッ
ディスプレイ、、あまくないぞ!!
Paul Smith にはそういう感性を学びましたね。
そんな店の閉店です…
きっと毎日がつまらなくなるでしょう。

 これがひとつのディスプレイが与える影響です

通り過ぎることは簡単にできますが、
意外に見渡してみるとおもしろいものは…
ほとんどない! 笑笑

こんなお店がなくなるなんて資源の無駄、
つまりは、タイスケ存亡の危機です!!(爆)
ほんとうに惜しい店を失くしましたね。。
もうIMSに寄ることもないでしょう… 合掌



2015年03月25日(水) 「やがて哀しき外国語」(3)

まさかの3本目!!
小説家の考え方と自分を比較できる本だったので、
もうちょっといってみますw
いやもう、ほんとこれ最終章ね 笑笑
こんなこと考えるのもしばらくないだろうしw

“いちいち言い訳をしない” という項目にて。

 いささか大げさな言い方だとは思うけれど、
 たとえ世界中に誤解されたとしても
 それはそれで仕方ないじゃないか、と基本的には
 僕は思っている。 逆にいえば、
 “小説家というのは良くも悪くも、そんなにみんな
 にすんなりと理解されちゃかなわないだろう”
 ということである。
 「知は力なり」という言葉もあるけれど、
 小説家にとってはむしろ「誤解は力なり」
 という方が正しいのではないか。
 小説の世界では理解を積み重ねて得られた理解
 よりは、誤解を積み重ねて得られた理解の方が、
 往々にしてより強い力をもちうるのだ。

これはダンスでも同じかもしれない。
どちらも相手に投げかけるものなので、
その受け取られ方にすべては依存してしまいます。
世に出る者として、かるく全否定されかねない事実。
ある意味そんな極めて危うい職業だともいえるかも。
なにしろ、まもってくれるものがない!
わたし自身、最後は自分を信じて踊っていますが、
言葉を別にすれば、
誤解されても仕方ないという言い方だってできます。
誤解されても仕方ない、そう割り切らないと、
人前に自分自身をさらけ出したりできない。
だからこそ、誤解されない努力が必要だとおもう。
漫然と “誤解されても仕方ない” じゃないこと。
自分自身を肯定しすぎないこと。疑うこと。
これはどんなものでも等しく必要な心意気です!

しかし、わたしは “小説” の世界を踊っていません。
“現実” を踊りたいとおもっています。
わたしは、理解してもらいたいんじゃないのだと
今はそうなってしまいました。
理解してもらうよりも各々が何かを引き出せる踊り。
たとえわたしが踊っている内実とは別のものを感じ
てもらったとしても、たとえそれが全否定されるも
のだとしても、それが何にもならないものではない
ことを知っています。
感じてもらいさえすれば “何かになる” からです。
だから “理解されちゃかなわない” というよりも、
“わからないけど何かがある” 踊りを目指したい。
だって…

《わからないからこそおもしろい》!!

それは、わたしたちの
“わかろうとする何か” のはたらきかもしれない
理解したいとおもうこころがあるからなのかもw


 僕はどちらかといえば学究的な人間ではないし、
 学問としての文学というものに興味を持ったこと
 はほとんどないし、文学というのは結局は
 個人的な営みであり解析不能なものだと思って
 生きている人間

悪気はまったくないのですが、
これが文章の限界だとおもった
対して、ダンスは “その時間” にしかない
のこるものと、のこらないもの
その決定的な違い。
それは空間の共有の仕方です。
踊りにはその空間にエネルギーの循環があること
それを本番中、リアルに実感するんです
本はこれの逆かもしれない。
誰かと何かを分かち合うというよりも、
自分にとっての静と向き合って、
文章から何かを発見するよろこび。
空間から得るものじゃなく知能的な問題じゃないか?
そんな考えが突然まとまりましたw
そしてそれは文章でないとできないことです。

カラダで向きあうこと、文章で向き合うこと

体感するものと知覚するもの
その感動はやはり別次元だとおもいます

待てよッッ
もしかしたら知覚する踊りもあるかも!!
知覚するダンスってどんな…
たぶんあるな。これはある。
いや、ここで脱線したら戻ってこれない(殴)
踏ん張ろう自分ッッ 笑笑

人前で踊るダンスなら、解析不能は踊れない。
そんなダンスもたくさんあるとおもいますが、
すくなくとも自分には踊れません。
踊るなら、解析可能な余地があると信じたい。
どちらにしても、その踊りを一目見ればわかることw
逃げ場なんかどこにもありません!!

解析不能と書けば “ゼロ” のイメージわくけれど、
たぶんゼロじゃないんじゃないかなw
まったくわからないわけじゃないとおもう。
それが、なんとなくだろうとも、ほんのすこしでも
“わかる” ことがあるよね?

だって同じ人間のやることなんだもの。
同じならどこかにそんな衝動もきっとあるw
わからないわけがないじゃない! 笑笑

感じるって、人がもつ物凄い力だとおもうのです
ここに希望をもっていいんじゃないか
それを信じなきゃ、踊ってないとおもいます



2015年03月24日(火) 「やがて哀しき外国語」(2)

つづきですw

 世間にはちょっと想像もつかないような面白い経験
 をしている人が少なからずいるものである。 僕は
 昔から他人の話を聞くのが大好きで、そういう人た
 ちをつかまえては、話をよく聞かせてもらう。 べ
 つに小説のネタに使おうとかそういうのではなく、
 ただ単に聞いて楽しむのが目的である。 実にいろ
 んな話がある。 唖然としたり、感心したり、腹を
 抱えて笑ったり、背筋がぞっとしたり、一晩聞いて
 も飽きない。 事実は小説よりも奇なりというけれ
 ど、まさにそのとおりだ。 しかしそんな面白い経
 験をした人たちが、そのエキサイティングな経験に
 匹敵するだけの面白い小説を書けるかというと、必
 ずしもそうとは限らない。
 これは僕の個人的な意見にすぎないのだけれど、自
 分が一度何か圧倒的な経験をしてしまうと、それが
 圧倒的であればあるほど、それを具体的に文章化す
 る過程において人は何か激しい無力感のようなもの
 にからめとられてしまうのではないだろうか。
 どれだけ努力しても、そのときに自分がありありと
 感じたことを他者に向けて再現することができない
 というストレスは、その当事者にとってかなり切な
 いものであるにちがいない。
 これは僕の経験からも言えることだけれど、
 「俺はこれこれこういうものをこういう具合に書
  きたいのだ」という気持ちが強いと、いざ机に向
 かうと文章はなかなかうまく出てこないものである
 それはあまりにも鮮やかでリアルな夢を、思い出し
 ながら他人に説明するときの苛立ちに似ている。
 どれだけ一生懸命言葉をつくしてそのときの感覚を
 誰かに伝えようとしても、本当にそこにあったもの
 はどんどんこぼれ落ち、裏切られていく。
 それとは逆に、これといってたいした経験はしてい
 ないのだけれど、ほっとしたことに面白みやら悲し
 みやらを、他人とは違った視点から感じとれる人た
 ちもいる。 そしてそれらの体験を何か別のかたち
 に置き換えて、わかりやすく語ることのできる人た
 ちもいる。 どちらかというと、こういう人たちの
 方が小説家に近い場所にいるような気がする。

うわッッッ これ…
振付をつくるときいつも苦しめられてるのに近い!!
ひとつの方法として、振付は《再現》です。
繰り返しても再現できる《作品》です。
自分のダンスを発表するときにたたかってること。
感じたことをなんとかして再現したい
すべてをつたえたい
これは、命題ともいえる一大事です!!
そのクリエーションの最中、
自分に裏切られる感覚を何度も味わうことになります
ああでもない、こうでもない、これじゃない、
こうきたら、こっち? いや、こっちか…
マジでダンサーに向いてないんじゃないかって。。
もうほんとうに無力感のど真ん中です!!
海の苦しみですねw  日本海見たことないや

でもね、遠くてもやります。


 僕は29になって、とつぜん小説を書こうと思った。
 僕は説明する。 ある春の昼下がりに神宮球場に
 ヤクルト vs 広島 戦を見に行ったこと。
 外野席に寝ころんでビールを飲んでいて、ヒルトン
 が二塁打を打ったときに、
 突然「そうだ、小説を書こう」と思ったこと。
 そのようにして僕が小説を書くようになったこと。
 僕がそう言うと、学生たちはみんな唖然とする。

 「つまり…その野球の試合に何かとくべつな
  要素があったのでしょうか?」

 「そうじゃなくて、それはきっかけに過ぎなかった
  んだね。 太陽の光とか、ビールの味とか、
  二塁打の飛び方とか、いろんな要素がうまく
  ぴったりとあって、それが僕の中の何かを刺激し
  たんだろうね。 要するに…

  僕に必要だったのは自分というものを確立するた
  めの時間であり、経験であったんだ。

  それは何もとくべつな経験である必要はない。
  ごく普通の経験でかまわないんだ。
  でもそれは自分のからだにしっかりしみこんでい
  く経験でなくてはならないんだ。
  学生だったころ、僕は何かを書きたかったけど、
  “何を” 書けばいいのかわからなかった。
  何を書けばいいのかを発見するために、僕には
  7年という歳月とハード・ワークが必要だったん
  だよ、たぶん」

 「もしその四月の午後に球場に行かなかったら、
  今小説家になっていたでしょうか?」

 「Who knows?」

 そんなこといったい誰にわかるだろう?
 もしあの午後に球場にいかなかったら、僕は小説を
 書くこともなく終わっていたかもしれない。
 そしてまあとくに文句もない人生を送っていたかも
 しれない。 でも何はともあれあの春の午後に神宮
 球場に行って人けのない外野席に寝ころびながら、
 デイヴ・ヒルトンがレフト線に綺麗な二塁打を打つ
 のを見て、それで『風の歌を聴け』という最初の小
 説を書くことになったのだ。 それはあるいは、僕
 の中では唯一の《extraordinaryな》出来事だったの
 かもしれない。

 「ムラカミさんは、それと同じようなことは誰の
  人生にも起こると思いますか?」

 「僕にはわからないな」僕にはそう言うしかない。
 「でもまったく同じとはいえなくても、それに似た
  ようなことは多かれ少なかれ誰の人生にもいつか
  起こるんじゃないかと僕は想像するな。 そうい
  ういろんなことがパッとうまく結合する啓示的な
  瞬間がいつか巡ってくるはずだと思う。 まあ少
  なくとも、そういうことがきっと起こると思って
  いた方が、人生は楽しいじゃないか?」

これは夢を掴む人の話です。
自分のやりたいことを知っていて、いつもどこかで
そういう瞬間を受け取る準備がある人の話。
これがなければ、行動には移せないはずだからです。

啓示は自ら探していないとおりてきたりしない

どんなに奥底にしまっておいても忘れてはいない。
すくなくとも探そうとしていないとダメだと思う。
実はどんなときも “進行形” なんじゃないかな??
そうじゃなきゃ、その瞬間がきても気付けない。
目の前にあっても見えない。
わたしは漠然と “踊りたい” と思っていました。
だけど何を踊ればいいのかわかってなかった。
しかし、“踊りたい” という気持ちがあったから、
いろんな作品を踊って、踊らせてもらいながら、
自分が踊りたいものを探してきたんだとおもいます。

これは “年齢” ではないとおもいます

人の思い、何かをしたい衝動、こころは
年齢なんかで止められるものじゃないからです
◎自分を突き動かす何か◎
これがあればいつだって始めることができます!!
実際、“踊りたい” という気持ちがあって はじめて
作品の中に自分の役割を見出だすことができます。
たいていその役割をおしえてくれる先生はいません。
ダンスは感覚的なもので進んでいくからです。
“ただ踊る” のなら考えなくてもいいとおもいます、
ですが… 踊る理由があるのなら考えないわけには
いきません。

何よりも見てくれる人がいるからです
踊りを踊りたいからです

趣味程度ならいつでもやめられるけど、
ほんとうにしたいことならやめられません。
“これしかない” っていう強迫観念にもなりえますw
ほんとうにしたいことを知っている人の行動は速い。
迷いがないからです!

 もし君が心の底から切実に何かを書きたい、
 誰かに何かを伝えたいと思っているのなら、
 仮に今うまく書くことができなくても、
 《何かを書ける》ときはいつか必ず訪れると思うし
 “そのとき” までは現実の経験をひとつひとつ、
 レンガを積み重ねるみたいに大事に積み重ねていく
 しかないんじゃないかな。
 たとえば…そうだな、一生懸命 恋をするとかね―


人間、“ほんとうにしたい” ことをやってる人って
どれくらいいるんでしょうね。 毎日の1秒1秒を
さすがにそんなことできてる人なんていないよね?
全力生活で1秒に挑んだらかるく寿命尽きるよねw
でも、全ての1秒ではないなら… います!
陸上の短距離走や水泳でもそうかもしれない。
みんなタイムを見てるじゃないですか。
それって、そんな1秒をすごしたいからじゃないかな
そんな濃い時間のために毎日をすごしてるのかも。
密度が濃い=充実した時間です☆
ちなみにそんなことができる人間が、一概に
すばらしい人間ってわけじゃありませんw
別に、ほんとうにしたいことを見つけられなくても、
平等に生きて死ねますからw
◎ただの生き方の問題です◎
自分自身に悔いをのこさないためには、
すべてに全力を投じる姿勢がいるのだとおもいます


あ! そうだ、ここでもスナフキンの一言いけるなw
どんなに文章にしたって、スナフキンに負ける(爆)

「一番大切なのは、自分が
 ほんとうにしたいことを知ってるってことさ」



2015年03月23日(月) 「やがて哀しき外国語」(1)

かおちゃんから借り受けた本、最終回!
やっとここまできたぜ―

 『やがて哀しき外国語』  村上春樹
  初めてプリンストンを訪れたのは
  1984年の夏だった。
  F・スコット・フィッツジェラルドの母校を
  見ておきたかったからだが、その7年後、
  今度は大学に滞在することになった。
  二篇の長編小説を書きあげることになった
  アメリカでの生活を、2年にわたり日本の
  読者に送り続けた16通のプリンストン便り

村上春樹を読んだのは『ノルウェイの森』のみ。
しかも。『ノルウェイの森』がどんな作品だったか、
まるで憶えていません。。
なんだろう、、この記憶にない感じ―
自分にとって大きな衝撃がなかったのかな。。
日本文学の名著にもあげられる本かと思いますが、
ほんとうに憶えてない!
ノーベル文学賞にノミネートされるほどの人物よ?
さあ、わたしにとってそんな作者の二作目です。
どれほど記憶に残るのかはわかりませんが、
おもしろかったw
差し込み数は、、、8!! いってみよーう☆

ってか差し込み以前に、まずはタイトルについて。
本にはこのように書いてある。

 それは外国語を話さなくてはいけないのが
 辛いとか、あるいは外国語がうまく話せな
 いのが哀しいということではない。 もち
 ろん少しはそれもあるけど、それが主要な
 問題ではない。 僕が本当に言いたいのは
 自分にとって自明性を持たない言語に何の
 因果か自分がこうして取り囲まれていると
 いう、そういう状況自体がある種の哀しみ
 に似たものを含んでいるということだ。

そうです。 村上春樹の文章は “超明晰系” です!
この文章だけで このblog見ない人が現れそうw
だけど、わたしは実はこの文章のようなものを
踊りにしていますw  たいへん興味深い
そしてその後にはこう続いてます。

 「僕らがこうして自明だと思っている
  “これらのもの” は、本当に僕らにとって
  自明のものなのだろうか」

 たぶん自明性というものは永劫不変のものではない

その分析にはかなり度肝を抜かれました。
なるほど。 そうかもしれない
この本は日本を離れた作者が、日本にいないからこそ
自分自身を問うような作品です。
日本人にとってはあたりまえのことでも、
海外ではあたりまえでもなんでもないのだw

それから、あとがきの最初になりますが、
この本についてはこう綴ってあった。

 通り過ぎる人には通り過ぎる人の視点があり、
 そこに腰を据えている人には腰を据えている人の
 視点がある。
 どちらにもメリットがあり、死角がある。
 かならずしも、第一印象でものを書くのが浅薄で
 長く暮らして じっくり ものを見た人の視点が
 深く正しいということにはならない。
 そこに根を下ろしているだけ、
 かえって見えないというものだってある。
 どれだけ自分の視点と真剣に、
 あるいは柔軟にかかわりあえるか、
 それがこういう文章にとって
 いちばん重要な問題であると僕は思う。

この文章に、わたしはたいへんな共感を覚えました。
人前に出すということはこういうことだろうと思う。
“わたし”には、わたしなりのダンスしか踊れません。
だからこそ 自分自身の視点に、真剣に、
柔軟にかかわりあわなくてはならない。
それがダンスにとっていちばん重要な問題だと思う。

なーんだ、同じじゃんw

わたしには伝えたいことがあります。
伝えたいことがあるからこそ、その伝えたいものを
出来るだけはっきりさせなくては。
立場は違えども何かを世に出す職業であれば、
自分が何をしている者なのか、
真剣にならざるを得ませんw
ここに責任をもたなければならないのです。
これは、自分から発信する職業のプライドだと思う。

◎決してあやふやなことはできない◎


 地域的な環境保全だってずいぶん重要な問題である
 「そんなことよりもっと大きな問題があるだろう」
 と非当事者が言うのは簡単だけれど、まず自分の庭
 の樹木一本から始めていくというのは、それなりの
 ひとつの見解ではある。「問題が大きすぎる」と言
 って初めからあきらめて何もやらないよりはもちろ
 んずっとましだ。 やれるところから地道にひとつ
 ひとつやっていけば、いつかその先に突破口が見つ
 けられるかもしれない。 そういうアメリカ版団塊
 の世代に比べて、日本における僕らの世代が今何を
 いちばん問題にして、何を実行しているだろうかと
 考えると、もう一つ明確なイメージがわいてこない
 まあ世の中にはいろいろと頑張っている人もいるだ
 ろうし、何もしてない人もいるだろう。 でも実際
 問題として、大多数の僕と同世代の男性は毎日の仕
 事がとにかく忙しすぎて、余計なことなんて何もで
 きないという実情ではないだろうか。 そういう僕
 だってあちこちふらふらしているばかりで、ものを
 書く以外にとくに形のあることなんて何もやってい
 ない。 でも僕も今度日本に落ち着いたら、何か自
 分にできることを身近に探してみようという気には
 なっている。 いちばんの問題は、
 自分にとって何ができるか、自分は何をしたいのか
 というのを見つけることだと思う。
 別の言葉で言い換えれば、どこまで自分の疑問を小
 さく具体的に絞り込んでいけるかということに
 なるのかもしれない。


頭のおかしいおばさんについての記述がありました。
スティーブン・キング氏の『ミザリー』を
盗作である、と訴えでた人の話。

 「あれは実は私の作品です。ほとんど一語一句
  私の書いたままのものです。
  少なくみつもって90%まではそうです。
  家に押し入って、原稿を盗んでいったんです」

 あるとき彼女は「自分の家の上空をスティーブン・
 キングが盗聴装置を積んだ飛行機に乗って飛んでい
 て、盗み聞きをしているので、それをやめさせて
 ほしい」という訴えを起こした。
 その訴えを聞いたスタッフは述懐している。

 「でも彼女は真面目なんです。自分の言うことは
  隅から隅まで真実だと心の底から信じきって
  いるんです。 私もなだめようと説得はして
  みたんですが、そんなことをしているとですね、
  なんだか自分が悪人の側についているみたいに
  感じられてくるんですよ」

 僕も同じような種類の “ちょっと変な人” からの
 手紙を受け取ったことがあって、それで個人的な
 興味を持ってこの事件の経緯をスクラップしていた
 のだが、あらためて記事を通して読んでまず思った
 のは、《こんな人が実際に近所に住んでいたら
 きっと大変だろうな》ということだった。
 こんな人に下手にかかわったら何を言われるか、
 何をされるかわかったものではない。
 偏執狂的なしつこさがあるから、一度何かをはじめ
 たらとことんやめない。 本人は自分が正しいと
 信じているから、他人の言うことになんか一切耳を
 傾けない。 確信を持っているから、知らない人は
 言われたことをそのまま信じてしまうかもしれない
 こういう人の近くには住みたくない。

こういう人。。 怖いですよね
でもいるもんね、こういう人ッッ
話してみると 概ねその傾向は顕著です。
話が一方通行にしかならないし。
話すことが断定的だから、会話にならない。
印象がキツイ(どう見ても器量の狭さからだと思う)
逆にいえば一途とも言えますが、一途だからこそ怖い
一途な思い込みこそが事件にはつきものです!
だからといって自分自身もなりえること。
一歩間違えば誰にだって。
その行き過ぎた考えは上のスタッフみたいな気持ちに
もなるかもしれない。
説得しようとする自分がわからなくなるほどです!
その思いの力、引力こそはただならぬもの。
その思いにも善悪がないのならいいのですが、
現代社会ではかなりむずかしい問題になります。
問題はこの “一途な力” の使いどころなんです!!

◎人間にとって、実はこの力こそが最大の輝きです◎

しかしその輝きの使いかたは誰もおしえてくれません
災厄をまき散らすことにもなりかねない諸刃の剣。
そんな人と関わりにならないことは簡単に選べますが
自分だけなら、自分を守るためにはできても、
問題のほんとうの解決にはなりません。。

どうやったら、
みんながその力を明るい方向に示せるんでしょうか
どうすれば、そんな社会が実現できるんでしょうか
避けることは簡単ですが、関わることは困難です。
まず、他人にあたるより前に、自分自身ですよね?
“自分にとって何ができるか、自分は何をしたいのか”
これを見つめて、そしてやってみなくちゃ。
その先に相手との距離が必ず見えます。
そうすれば、きっと力をあたたかくつかえるとおもう


ダンスにまるであてはまる文章にも遭遇w

 自分が流暢に話せないことを弁解するわけではない
 が、すらすら外国語が喋れてコミュニケートできる
 からといって個人と個人の気持ちがすんなりと通じ
 合うというものでもないと僕は思う。 すらすらと
 コミュニケートできればできるほど絶望感がより深
 まっていくということだってあるし、つっかえつっ
 かえ話し合えばこそ気持ちが通じ合うということだ
 ってある。 楽器の演奏にたとえるなら、超絶的な
 テクニックがあるからといって必ずしもより明確に
 音楽を表現することができるわけではない、という
 のと同じだ。 もちろんテクニックはないよりはあ
 る方がいい。 だいいち楽譜が読めなければ演奏も
 できない。 でも極端なことを言えば、ばしゃばし
 ゃミスタッチがあっても、途中でつっかえて演奏を
 中断してしまっても、こころを打つ演奏というのは
 あるはずだ。 僕はそう思う。
 僕の経験から言うなら、外国人に外国語で自分の気
 持ちを正確に伝えるコツはこういうことである。
 (1)自分が何を言いたいのかということをまず
    自分がはっきりと把握すること。
    そしてそのポイントを、なるべく早い機会に
    まず短い言葉で明確にすること。
 (2)自分がきちんと理解しているシンプルな言葉
    で語ること。 難しい言葉、
    思わせぶりな言葉は不必要である。
 (3)大事な部分はできるだけ
    パラフレーズ(言い換える)こと。
    ゆっくりと喋ること。
    できれば簡単な比喩を入れる。
 以上の三点に留意すれば、それほど言葉が流暢じゃ
 なくても、あなたの気持ちは相手に比較的きちんと
 伝えられるのではないかと思う。
 しかしこれはそのまま《文章の書き方》にもなって
 いるな。

自分自身を踊ることにも実はこれがそのまま通じます
自分をはっきりと把握する、自覚すること。
ハートがきちんと乗っているダンスにすること。
思いにそぐわない技術、
思わせぶり、すごいダンスは不必要。
大事な部分はゆっくりと踊ること。

どんなことも “伝える” には素直さが不可欠です
そしてその場所、タイミング。
考えれば考えるほどすべてが大切になる。
かといって全ては制御できるものじゃありません!!
だから、できることを精一杯やったあと。
やっとこの言葉になります

《自分を信じる》

人と正直に向き合うことがどんなに困難なことか
自分が人前で踊りたいダンスとは一体なんなのか
いつもこれが立ち返る原点です☆

つづく。



2015年03月21日(土) Romancing 佐賀2

3 2 1… 3/21ッッ

 『Romancing 佐賀2』
 ここに始まるは 遥かなる時空の詩
 偉大な大地と麗しき海の詩
 そして、歴史ある地域と そこに暮らす人々の詩
 この詩を詠い終えられるよう
 精霊よ、我に力を与えよ!

 奇跡のコラボから1年。
 “サガ” シリーズと佐賀県がふたたび連携。
 その名も『ロマンシング 佐賀2』
 ロマンシング 佐賀 ラッピング列車や
 観光スタンプラリーなど
 歴史ある佐賀の地で、県民の皆様と
 新たな閃きと物語をお届けいたします―

わたしが少年だった頃、遊びに遊んだゲーム。
その名は【ロマンシング サガ 2】。
数多くの悪しき魔物を倒して世界を救い、
その後 何処かへ消えていった “七英雄” …。
いつの日かこの世界に混乱が訪れる時、
彼らは再び現れ世界を救うであろう。
伝説は今、恐怖となって人々の前に姿を現した―

遊んだことのある人なら、その七英雄の凶悪な強さに
何度も全滅を味わったことでしょう…w
対策立てなきゃ 確実に全滅でした 涙涙
最終ボスがマジ強すぎてクイックタイム使わないと、
勝てなかったあの記憶は、もはやトラウマです 笑笑

◎そんな伝説的ゲームとリアル佐賀県のコラボ2◎

東京で大反響となったコラボレーションの第二弾。
それは、親友がわたしを誘ってくれたイベントですw
今日から始まる6/28までの佐賀県イベント。
ゲームと都道府県の連携なんですよ!?
こんなイベントもう二度とないでしょうッッ
いいや、マジで奇跡だろ!!!
わたしたちは意を決し佐賀へと向かったのでした―

 【ロマンシング佐賀 ラッピング列車 出発式】

いち観客として乗車すべく、式に出席w
佐賀県知事&ゲーム生みの親・河津さんも出席。
朝早くから並ぶなんて何年ぶりでしょうか!?

その前に、退院して他県に行くのが初めてだッッ

自分にとっても記念すべき日だといえる☆
会場には全国からファンが集まっていました。
まるで総勢数百人の同窓会みたいですw
みんなどれくらいやりこんだ人たちでしょうか。
わたしはゲームイベントに参加したことないけど、
あんな過去のゲームでこんなに盛り上がれるなんて
とんでもないことです!!
さて、ともあれ これはおおよそ過去のゲームの話。
一般社会的には、
おおいに “オタク” だとか烙印を押されかねません。
実際にイタい方々もいましたがw
しかしここは声高に叫んでおきましょう。

 一生懸命 遊んだ記憶を侮辱される覚えは無い

もうあの時と同じ感動が味わえることはないんです
毎日が楽しかったんですよ
あんなふうにゲームを楽しむこともないでしょう
懐かしいなあ… ほんとうに。。
ここでは声高に叫べるわたしですが、
実のところは大いにコソコソしてました 笑笑
こんなところ誰かに見られでもしたら、たいへ…

 「タイスケさんじゃないですか!?
  なんでここにいるんですか?!」

って、フツーにマヤさんが歩いてきたあああああああ
お友だちヨガマスターが目の前にっっ
何で!? どうして!? うわああああああああああ
隠れる場所もなく、あっけなく目が合いました。。

いちゃダメですか― 冷汗

っていうか、こっちが聞きたいわッッ
なんでマヤさんがここにいるの??
まさかマヤさんもロマン… 全否定されました(爆)
なんと式の司会がマヤさんのお友だちだったのだ!!
応援?見守り?お茶?に来たのだと言ってたかなw
なんてこった。。
これでますますマヤさんに弱みを握られてしまった

◎一事が万事です◎

しかし、マヤさんは楽しそうに動画撮影。
おかげさまで大変な思い出になりました!!感謝ッッ
Romancing 佐賀 ラッピング列車に乗り込んで、
その出発まで。
動画に映ってる自分が甚だ笑顔でwww
ほんとうに楽しかったんでしょうねw

この笑顔は遊んだ時間の結晶かもしれません

どんなことでも、一生懸命やることが
ほんものの人生を生み出すのだとおもいます



2015年03月18日(水) 働かざる者でも食えた

注射の日。 膝に高濃度ヒアルロン酸の注入です!
美容にはまったく影響のでない注射です 笑笑
限りなく潤滑油です

 更新のないこの1週間… 風邪ひいてましたw

これは、風邪が完治するまであと4日のお話です。
風邪の治りかけだったからか、
おそろしくトレーニングに集中できてしまった。

 さすがにちょっとブレイクしよう

売店に寄ると、ちょうどパンが運ばれてきました。
すると患者のf野さんがパンを奢ってくれました!!

 なんということでしょう

入院患者に奢ってもらうなんてありえない。。
しかもf野さんは明日退院される人ですw
気楽に「ナイスタイミング!」とか叫べない!!

 かなり不道徳な感じだッッ

が、f野さんが奢ってくれるだなんて初めてです
悩みましたが、素直に受けとるべきだとおもっ…
その直後、f野さんが言った。

 「私が奢るなんて二度とないわよ??」

合掌。 f野さん ありがとうッッ
そのパンを取り置いて、トレーニング再開。

 さすがにもういい

トレーニングの集中力が切れて受付会計へ。
リハビリカードを提出し、売店へ向かいました。
お約束のコースともいえる日課です(爆)
会計へは大概 汗だくで向かう習慣が定着。
そして 売店のお姉さんが毎日嫌な顔でおもてなし。

 「汗くらいふいてからきなさいよ!!」

ってなんと、今度は別の常連患者のおばさまが
ジュースを奢ってくれました!

 さっきのパンと合わせて昼食が完成(超実話)

◎売店に寄る度に誰かが奢ってくれる日◎
なんだかわかりませんが、次々と。
次々と、誰かがおごってくれるんです!!
そういえば食堂で総師長さんと遭ったときには、
必ずコーヒーを奢ってもらってますねw
わたしは悟りました

 働かなくても食える日があるのだと―

病院ってほんとうに特別な場所ですw
もうこんな日は、二度と。 二度とあるまいッッ☆



2015年03月10日(火) 浸水の巨人

プール歩行するときは考えながらです。
どうやったら正しく歩けるのか。
どう踏んで、どう蹴るか。
理学的にいうと “効率よく歩くこと” でしょうね。
“効率よく” とは伝える力を無駄にしないことです。

 ん!? 伝える力かッッ

それならダンスにも通じるじゃん!! 笑笑
右脚と左脚の差をなるべく自分で理解しようとして、
力の通る感覚を徹底的に探る。
地上での癖にしないためにも完璧な歩行を目指す。
要するに単純な運動として《歩行》をしていません。

 結局、行き着くところは美しさといえる

正直言って、左が崩れれば右も崩れます。
左で出来ないことを右がかばうからです。
だから、まずは腰を動かないように安定させる。
腰をずらさないことで踏み出す足の向きを整える。
すべては右左に差を出さない作戦です。
さらに意識的に行うために腰に手を当てます。
その上で、どれだけ速く歩けるかに挑む。
歩いてみればわかりますが、
プール歩行で速く歩くには決定的なコツが要ります。
そしてそのコツをつかんでしまうと、
“効率のよい歩き方” しか出来なくなってしまいます
その歩き方じゃないと “速く” 歩けないからです
それに気付いたとき、複雑な気分になった…

 これまで踊ってきたことで、
 “効率がいい歩き方” を思いきり手放してきたのだ

ダンスは決して正しいカラダの使い方をしてません。
カラダに無理を強いる特殊な訓練といえます。
見ている人に何かを伝えるために、
全身全霊で可能性に挑んだ結果なんです!!
だって気が付いたら効率がいい歩き方じゃないのだ!
リハビリをしながらおもった

 いい歩きができるようになったら、
 また効率わるいことをしていかなきゃいけない

なんだろう、このせつない感じ。。(爆)



そんなときでした―
山のような男性が歩行用プールにやってきたんです!
圧倒的横幅の巨漢。
その歩行を見て足がすくみました…

 めちゃくちゃ速いんですよッッ!!!

何で!? この時 わたしはダッシュ中でした
全力ダッシュなのにまったく追いつけません!!
荒波が、荒波が重いッッ
そんなバカな… こんなのは初めてだ

 おそらくは その体重による安定感だろう

まさか足が地についた生き方ってこういうこと!?
まるで、まるで、地上を歩いてるみたいなんです!!
直感した。

 そうか!! これがゴジラか―

映画ではゆっくりに見えますが、
そのリアルはとんでもない速度ですよ たぶんッッ
なんてこった。。
この人の浮力はどこいったんだ…
後ろから追われることがこんなに怖いとは!!

それは、完敗したおじさんとはまた違う恐怖でした―

できるなら今すぐこの恐怖を踊りで伝えたいッッ
タイトルは… 『浸水の巨人』ww

この世はでっかい宝島です☆



2015年03月09日(月) プール歩行の怪

わたしほど勤勉なプール歩行者は稀ですw
基本メニューは歩行30分、ダッシュ5分、
後ろ歩き5分、サイドステップ5分の合計45分。
気が付いたら周囲には誰もいません…(超実話)
それから最後のシメにバタ足15分を課しています。
そんな中で、歩行中すごく厳粛にトレーニングしてる
女性がいました。
やってたのは、後ろ歩きケンケン(片足ジャンプ)
これが意外にも速い。 なかなかやるな! 笑笑
目的がなければしない行為ですw
これは面白い。 わたしは話しかけてみました。

 「それ、結構速いですね〜」

 「何か私 迷惑かけました!?」

その言動には陰険な鋭さがありました。
さすがは後ろ歩きケンケンです!!
いきなり不快な声が返ってきて度肝抜かれた。。
わたしは間髪入れずに返答したのを憶えています。

 「いや? ぜんぜん」(爆)

嫌な感じで声が返ってきたのは久しぶりでした
にこやかに話しかけたはずなのに。
めちゃくちゃ気落ちしてしまいました
わたしはこの日、目の調子がわるくて
コンタクトしてなかった。

 顔を思い出せないのがせめてもの救いです

なんでこんなことになったんでしょうか。。
そのイメージに囚われたくはありませんが、
ちょっとした一言で陰鬱になるのは確かな現実です。
その女性によほど嫌なことでもあった日だったのか
それとも男子に抵抗があるのか… あの感じじゃ
男性に虐げられてる日常でもありそうです
わたしの素行がわるかったのなら、
きちんとおしえてほしいですよねw
顔が気に入らん!とか??
まあそれ言えても相当上から目線ですねw

あのときはもう金輪際、人に声なんかかけない!
そう思ってしまいましたが 今では消失しました。
その後、そんな人はいなかったからですw
声をかけなければ傷つきはしませんが、
声をかけなければまるで世界は動きません。
よって、声をかけよう! 笑笑
そのときは嫌な気持ちになったとしても、
絶対あきらめないぞッッ
ちゃんと話せば相手のことわかるのに。
それを最初からしない、ってどういうことなのか
まるでわかりません。
別に嫌いなら嫌いでもいいじゃありませんか。
それでもその人は生きていていいじゃないですか。
すくなくとも生きてることに敬意は払っていいよね。
だって、わたしたちは生きているんです!!

 ◎相手があることに、拒絶だけして、
  自分本位で戦争をしかけるのはやめよう◎

戦争が終わらないことを悩むより、
戦争を始めないことがむしろ大事かもしれません!

おそろしいことに、きっかけはたったの一言です☆



2015年03月08日(日) 「えいぶるダンス vol.5」

仲間たちの出演する舞台を見に行ってきました!

 『コンテンポラリーえいぶるダンス』vol.5

わたし自身も出演してきたマニシア団w
そこには毎回度肝を抜く何かが待っています 笑笑
たとえば…

 バレリーナ衣裳の女の子が
 突然地べたを這いずり回ったりw

クラシックバレエを学んでいたりしたら、
タブーともいえるその振付に、
息が止まりそうになること数知れず(爆)
でも、そのときですッッ
わたしは見てしまいました!!
ダンスにとっての一大事。 決定的なものを!!
それは―

 そんな女の子たちが “踊っている” ことです

やらされているんじゃない。 一目見ればわかる
踊りたくて踊っているそのすべてが!!
ジャンルで見ようとしていた自分がアホでした。
マニシア団は《ダンスを踊る団体》であって、
《ジャンルを踊る団体》ではないのだ!!

ジャンルとは、しきたりや決まり事の世界です。
“この踊りはこうでなきゃいけない”
その決められたものを踊れば一様に踊りに見える。
じゃあ “ダンス” は?
ダンスとは一体なんなのでしょうか??
ダンスには制限などありはしません。

 踊りは “衝動” です

タブーよりも本人たちの踊りたい気持ち
そんなものがカラダから湧き出ていること
これがなければ “ダンス” にはなり得ないのです
何かがつたわったりしない
ジャンルでなければなおさらです

女の子たちの表情はすごくよかった いきいきしてた
決められたものをやりきることが
どれだけ大変な世界かも知っています
大変とかいう言葉で済まないことも。
けれど、、
そうじゃないところでしか見れないものもある!!

これが、きびしさ、その努力が、
一概に《偉い》ことにならない証拠です

きびしいものをやればやるほど
きびしさのないものを否定したくなります
きびしいものは苦しいからです

そして、自己満足で踊っている者からは
震えるような、涙する感動は起こりません
これはほんとうにおもしろいところです
大人であればあるほどに。

その点、子どもたちは純粋です。
大人のやましい部分が無く、
純化しているダンスを感じるからです。

わたしたち大人はバカになりすぎないことが
大事なのかもしれません
すべてを解き放つことも重要ですが、
それはバカになることじゃありません

解き放てたなら、きっと大切なものが見える
見えないはずがない、そうおもうのです



2015年03月06日(金) 診察の行く末は

本来の診察日は11日でした。
先日、病院から電話がきて6日 15:30に変更。
そして更に昨日、11:30に時間変更。

 二度も変更されたのは人生ではじめてです

靭帯再建もはじめてですけどねw
病院着 10:00
レントゲンが言い渡されレントゲン室へ。
超音波治療開始 11:00
超音波20分。 これくらいなら診察に間に合う!
毎日、できることを全力疾走です☆

 ドクター、病院到着せず

先生が来ないなんてのも人生ではじめてです!!
ナースから平謝りされました。
「ドクターは今こちらに向かってますが、
 手術患者控えてますので、
 診察が何時になるかはわかりません。。
 が、今日中には絶対診察します!!」

えええええーーーーーーーーーー

わたしはこの病院の患者になってから、
いろんな知り合いができてしまいまして、
人知れず 情報が耳に入るのでした…
「まだ診察は10:00予約の患者だよ」
聞きにいかなくても誰かが教えてくれますw
なんだろう、、このオートマティック感。。

 診察はかるく13:00 に―

そして診察時間は、ものの3分w(爆)
体感時間でいえばたったの5呼吸くらいです!
3分のために3時間かかったわけですね 笑笑
sドクターの神速さが残虐におもえました
そのあまりにもご無体な予定の変わりように、
ただただ唖然呆然誹謗中傷でしたッッ
診察直前に詰め込んだ努力すべてが徒労でした

 「タイスケく〜ん、注射撃ってる?
  注射撃ったほうがなおり早いよ??」

いや、それ、今はじめて聞きましたよ 先生w

 「今日もプール行くので」

 「じゃあ注射の手配しといたげるよ!
  プール行かない日に撃ちなさい」

わたしは心で叫びました「そんな日はない」
CYBEXでいい数値を叩き出せなかったわたしは、
ドクターストップの解除は不可能です。

  泳ぐしかない

診察待ち3時間のうちに、やる気は完全に消失。
おかげさまでリハビリはまったく終わってません。
唯一終わっているのは超音波だけ(爆)
これが今日の診察の行く末です。。

しかし、その行く末もここまでだ!!
病院でしかできないことは終わらせようッッ
気持ちを切り替えるんだ!!
やる気を振り絞り、
電気治療しようと思って荷物置いた矢先。
少し席を外した隙に、かるく奪われていた―

 どれだけタイミングわるいんでしょうか

途方に暮れるカウントダウンが正に始まろうとした
その瞬間、マッキーに呼ばれました 笑笑
リハビリ施術開始ッッ
二転三転が度を超えて もう何が何だかw

 そのあとは、、
 がむしゃらに泳いだことしか思い出せません

blog更新中、つらい気持ちが押し寄せてきました
5ヶ月も前のことなのに(爆)
思い出は決していいことばかりじゃないですねw



2015年03月04日(水) 壱、弐、サイベックス

【CYBEX 第二回戦】ついにこの日がキタ。
前回の第一回戦。
その悲惨な結果を経て、今日まで地味に。
地味にやってきました!!
プールが休みの日以外、毎日プールに行きました。
もうぜんぜん。 ぜんぜん楽しくない。。

 前回のサイベックスは 1/23
 今回のサイベックスは 3/4

なんだろう… この数字の並びッッ(爆)
やはりこりゃ、アレだな。 運命 笑笑


そんな前日のこと、スポーツジムのRESTROOMで
一息いれていたわたしの世界は突如一変した。

 目の前にいた美人OLがいきなり
 超激しく納豆をかき混ぜ始めたのだ

ってか、ここで納豆?! うそォ??
納豆にもおどろいたけど その前に…
かき混ぜ方が激しすぎるよ それッッ!! 涙涙
いや待て、フツーかもしれん。。
わたしは納豆を食べる習慣がないからねw
わたしには腐りかけを食べる理由はないのだ。
そしてわたしはタイムセールで100円均一となった
セレブおにぎりを取り出すのでしたw

 ごぼうてんむす&ちりMEN青菜 超美味い!

それにしても、わたしという男子を目の前にして
あんなにも激しく混ぜるものだろうか…
もうそれはもう!!
ガッチャガッチャのグッチャグチャですよ!?
恥ずかしくないの?? ないかw
最近は、そんな女しか見ないもんな。。
なんだろうこの感じ…
「お前なんか知らねえし!!」みたいな?
もしくは…「そこにいるお前がわるい」かなw
だいぶ絶望に満ちてますね☆

 恥じらいをなくしたときが《女子》の最期です

静かにかき混ぜる女子を見てみたいものですね!
内心めちゃくちゃ恥ずかしかったと祈りたいッッ


〜さあ話を戻します〜
前回も記述しましたが、CYBEXとは筋力測定です。
罵声を浴びながら《蹴る》《曲げる》をやらされて、
その数値でそれまでの努力が裁かれる日。
その数字は決定的なものです。
叫ぶPT「蹴る!曲げる!蹴る!曲げる!蹴る!」
こないだとの違いを見せつけてやるッッ
鍛えてきたその努力の力を思い知れッッ
前回同様、脳の血管がブチ切れるくらいにやった。
ブチ切れるくらいにやっても意外に切れません。
◎たぶん、切れないってことはまだやれるな◎
然してその結果は―

 左右差は、埋まるどころか
 かるく前回を上回る数値で
 全体の筋力が上がっていただけだった

そんなバカなッッ
左右差はそのままに、力が底上げされただけ!?
な… なんてこった―
これじゃ左右差は永遠に埋まらないじゃないか!!

 ありえないありえないありえないありえない
 ありえないありえないありえないありえない

わたしは悟りました
もっと左脚だけに負荷をかけることが重要だ、と。

右左をバランスよく鍛え上げたばっかりに、
すべからく総合力が上がってしまったのである。
ちくしょう!!
まさかこんな結果が出ようとはッッ
CYBEXおそるべし!! 筋力測定おそるべし!!
実は、何よりもおそろしいのはPTの発言ですw
わたしの努力はその一言に集約してしまうからです

 「まぁこんなもんじゃないですか〜」(爆)



2015年03月02日(月) 「フランケンシュタイン」(2)

つづきw
実は、容量OVERでエラー表示出たッッ(爆)
やむをえずの二部化です。。涙涙
長いですが、是非(1)からお願いします☆


怪物はド・ラセー一家と親しくなりたいという思いを募らせていました。 しかし、かつて村で人間と遭遇したときに醜い姿ゆえに迫害された経験から受け入れてもらえないかもしれない、と悩んでいた― そこで怪物は、盲目の老人が一人きりの時を狙って家を訪ねます。
“通りすがりの旅人” と名乗る怪物を老人は招き入れてくれます。 怪物は孤独に悩んでいること、そして、心から愛する友だちに嫌われそうだ、という悩みを告白。
その友だちとは老人の家族のこと。

老人は言います。
 「私は目が見えず、あなたの顔はわからないが、
  あなたの言葉には、
  何か誠実だと思わせるものがある。
  私は貧乏で追放の身だが、
  何かの形で人の役に立つことができれば、
  こんなに嬉しいことはない」

 「立派なお方!
  寛大なお申し出を、ありがたくお受けします。
  いまのあなたのお情けで、
  これから会おうとしている友達とも、
  きっとうまくゆくような気がしています」

 「そのお友達の名前とお住まいを伺えますか?」

  おれは黙った。
  この一瞬で決まるのだ、と思った。
  幸福が永遠に奪われるか、
  それとも与えられるかが。
  気力を奮い起こして返事をしようともがいたが、
  その努力が、
  残っていたなけなしの力を崩してしまった。
  おれは椅子にくずおれ、声をあげて泣いた

  その瞬間、若い庇護者たちの足音が聞こえた。
  一刻の猶予もなかった。
  おれは老人の手をつかんで叫んだ。

 「いまです! ―私を助けて守ってください!
  あなたがた一家こそ、
  私が求めている友達なのです。
  この試練のときに、私を見捨てないで!」

 「なんだって!?… あなたは誰なのですか?」

 その瞬間、家の扉が開き、
 フェリックスとサフィー、アガサが入って来た―

「あなたは誰なのですか?」
その問いに答えられない怪物

先生は言います
「名前が無いわけですから答えようがないわけですね。
 名前もないし身分もないし身寄りもない。
 名前が与えられないということは、
 存在が認知されていないということですよね。
 文学作品としてのフランケンシュタインで
 忘れてならないのは、
 この怪物が正に、人間としての苦しみを、
 苦しみぬいたということですね。
 存在に関わる苦しみですよね」

この老人との会話が、怪物が人間の共感に出会える最初で最後の場面でした

老人が盲目であったことは、怪物の醜さが人の目を偏見で曇らせる決定的な要因になっていることを皮肉な形で露呈した。 怪物が見られる存在である限り、他者の理解や共感を得るのは不可能だということを悟った。

 創造主への怒り

希望を失った怪物に残されたのは、
ヴィクターへの強い怒りだけだった

 呪われた創造主よ!
 おれはなぜ生き長らえたのか?
 無数の人間が存在するのに、おれを哀れみ、
 支えてくれる者は、そのなかにひとりもいない。
 それなのに、
 敵に対して優しい気持ちを持てというのか?
 いや、そうはいかない。
 おれはその瞬間、人類と永遠に戦うことを決めたのだ
 とりわけおれを創って、
 こんな耐えがたい不幸な目に合わせた人間と、
 戦うのだ―

その後、怪物は自分を創ったヴィクターと会うことを決意。 ヴィクターの故郷へと旅立つ。 偶然、ヴィクターの弟(幼い子ども)と出会い、友達になろうとするも、「醜い」と罵られてしまいます。

 小さい子供でも《醜い》といって
 偏見をもつわけですよね

ヴィクターの弟はついフランケンシュタイン姓を名乗ってしまいます。 それを聞いた怪物の心に激しい復讐心が巻き起こり、殺してしまった。
(その殺意に至る直前、川で溺れていた女の子をたすけた怪物でしたが、その側にいた父親らしき男から銃で撃たれてしまいます。。 この怒りの衝動が殺意を助長していた可能性も否定できない)

これで中身まで《本物の怪物》になってしまった

先生談
「怪物がなぜ凶悪化したのかっていうのは
 そこへ行き着くまでの
 プロセスがあったということですよね?
 これは、あらためて考え直すべき
 非常に重たい問題を含んでいるのではないか」

社会から疎外された者が邪悪な存在となる

しかも疎外された者が徹底的に疎外される話

ヴィクターの前についに怪物が現れます。 これまでの不遇とヴィクターへの恨みを語りだした怪物は、ある提案をもちかけた―

 おれのために、女をつくるのだ。
 いっしょに暮らし、おれが生きていくために
 必要な共感を分かち合う相手を。
 それはおまえにしかできないことだ。
 もし誰か、おれに好意をもってくれる者が
 いたとすれば、おれは百倍、
 二百倍にもして返すだろう。
 ああ!創り主よ、おれをしあわせにしてくれ。
 たったひとつでも恩恵を受けたと感謝させてくれ!

報復を恐れたヴィクターはしぶしぶ承諾。 女の怪物完成間近、窓の外を見ると怪物がいた―

 そのときふと見上げると、月の光に照らされて、
 窓のところにあの悪魔がいた。
 ぞっとするような笑みを浮かべて口元を歪め、
 私のほうをじっと見ていた。
 自分が頼んだ仕事がいまや完成しようと
 しているところを、見張っていたのだ。

ヴィクターは衝動的に女の怪物を破壊。
絶望した怪物はこんどこそ復讐を誓います

 人間にはみな、胸に抱く妻があり、
 獣もみなつがいなのに、
 おれにだけはひとりでいろというのか?
 おれがもっていた愛情の心は、
 毛嫌いされ蔑まれただけだった。
 おれが不幸のどん底で這いずり回っているとき、
 おまえだけ幸せになるつもりか?
 ほかの感情は潰されても、
 復讐心だけは残っているぞ。
 復讐こそ、これからは光よりも食料よりも大切だ―

科学者側からだと《壊した》ですが、
怪物側からすると《殺された》になります。
ヴィクターは怪物の立場からは見ていない

先生は言いました
「作者メアリ・シェリーは運命を決める要因として《性格》が大きな役割を果たすということを考えていたはずです。 といいますのが、主要人物だけでなく全ての端役に至るまでその性格が丁寧に描かれている特徴があるからです」

性格が運命を決める

科学者として英雄になろうとしたヴィクターだが、早く業績を上げたいと焦るあまり近視眼的になりがちだった。 そんなヴィクターに怪物が言ったこと

 創造主であるおまえが被造物のおれを嫌って
 踏みつけにするのか?
 おれを殺そうというのだな。
 どうしてそんなに命をもてあそぶことができるのだ?
 おれに対する義務を果たすがよい。

これは、子から親への痛烈な批判です。 ヴィクターが科学者としての責任に気づいたのは女の怪物の製作中でした。

 三年前に、これと同じ仕事に取り組んで、
 悪魔を創ってしまい、
 そいつの並ぶもののない残虐さのせいで、
 私の心は荒れ果て、永遠に苦い後悔の念で
 いっぱいになってしまったのだ。
 私は今また、もうひとつの生き物を創ろうと
 していたが、それがどんな性質をもっているのかは
 今度もやはりわからなかった。
 彼らがヨーロッパを去って、新天地の荒野に
 住んだとしても、あの悪魔が渇望する
 共感なるものが得られたら、その結果、
 子供が産まれてくるわけだ。
 それがなれば悪魔の一族が地上にはびこり、
 人間の存在そのものが、恐怖に満ちた危険な状態に
 なりかねない。 自分だけの利益のために、
 後々の世代にまでこんな呪いを負わせる権利が、
 私にあるのだろうか?
 いま初めて、自分のした約束が
 いかに不道徳なものだったかに、思い至った。
 後の世の人々から、
 私が災厄をふりまいた元凶とされ、
 何のためらいもなく全人類を犠牲にしてまで、
 自分の平穏を買い取るような利己的な人間として
 呪われるのかと思うと、身震いした。

先生談
「科学によって作られたものが予期せぬ結果を招くSFの常道的筋書き。 生まれる側が負わされるものは、まさに怪物が味わった苦悩であるわけで、怪物っていうのは生まれる側の立場を予言的に代弁しているといえるかとおもいます」

ウォルトンに看取られながらヴィクターは船の上で息を引き取ります

 さようなら、ウォルトン!
 平穏のなかに幸せを見つけてください。
 野心は捨てたほうがいい。 たとえそれが、
 科学や発見によって名をあげるという
 無邪気な野心にすぎなかったとしても。
 しかし、なぜ私はこんなことを言っているのだろう?
 自分はそれを望んで身を滅ぼしたとしても、
 ほかの人は成功するかもしれないのに。。

そこへ怪物が現れます
ヴィクターの亡骸を前に嘆き悲しむ怪物

 おれに命を授けた男は、死んでしまった。
 自分がいなくなれば、おれたち二人の記憶も、
 たちまち消え去ってしまうだろう。
 もう太陽や星を見ることも、
 そよ風が頰に触れるのを感じることもない。
 光も心も感覚も、消えてしまうのだ。
 だが、そうなることを、
 おれは幸せだと思わなければならない。
 いまは死ぬことだけが、おれの慰めなのだ。
 さらば! おれは行く―


正直、番組で涙するとはおもいませんでした

先生は言いました
「人間であると認可されていない者のほうが、かえって《人間とは何か?》とか《生きるとは何か?》ってことを真剣に考えるのではないか??」

瀬戸際に立たないと、人は
ほんとうに真剣には考えないのかもしれない
そんなことを感じます
わたし自身、身を以て知ったことでしたが、
文章を読んであらためてそうおもった

 《怪物》が一番ほしかったのは
 《親》の愛情ではないか?

  それが叶わなかったときに、
  人はいかに歪んでいく可能性があるか。

ヴィクターは自分が生み出した怪物がどんなに人間的であったのか、気づかずに、見出だそうともせずに、死んでしまったことが最大の不幸だった
番組は最後に、あのシーンに戻ります

 「私は目が見えず、
  あなたの顔はわからないが、
  あなたの言葉には、
  何か誠実だと思わせるものがある。
  あなたは誰なのですか?」

先生談
「他人に自分を認めてもらいたいと必死になっているときに「あなたは誰なのですか?」という言葉はいわば、絶壁に立たされたときに私たちが突きつけられる究極の問いでもありますよね? そういうのを、怪物は私たちよりも厳しい立場で《自分とは何か》という問題を真剣に考えたのではないか? そういうことを感じさせるシーンです」


自分自身を知ることがどれだけたいせつなことか
そして、自分がうまれてきたことによろこびが
あったことをしっていること
これこそが怪物にならないための最大の力です
わたしたちがうまれてきたことは決して
蔑まれるべきではありませんよね
この世界は、誰もが生きていていい世界のはずです

舞台はそんな世界の縮図です
舞台に立つことは恐怖です
自分をさらけ出す行為ですし、
全否定されるかもしれない
それでも踊ろうとするのはそこに何かがあるからです
それを見つけるためには、
いつも自分のことを知ろうとしなければ。
その姿勢こそが、この老人の言葉を
現実にできる唯一のものじゃないでしょうか?

 何か誠実だと思わせるものがある

その《何か》を、引き出すこと
それは、この世で一番シンプルな《何か》です!!
これはもう、毎日の生き方を磨き抜くしかない

 自分がほんとうに自分らしく生きているか

それでも、どんなに “誠実に” 生きたとしても、
わたしの外見が一目でダメだという人もいるでしょう
フランケンシュタインがそれを教えてくれています

だからこそ、“ダンス” が踊りたいのだとおもいます



2015年03月01日(日) 「フランケンシュタイン」(1)

それは、偉大な作品でした―

 『フランケンシュタイン』  メアリ・シェリー
  本当の “怪物” は誰だ

死体からつくられた人造人間の物語。
映画や舞台が有名すぎて原作にまつわる誤解を解く!
出版当時のリアル時代背景は産業革命で、
急速に近代化したイギリスです。
作者はメアリ・シェリー
執筆時は結婚したばかりの19歳!? マジかッッ

 私は幸運を祈りつつ
 醜い我が子を世に送り出そうと思っている

その、小説としての真価を明らかにしよう☆
今回のblogは4回にわたる某番組のまとめです。
わたしが唯一録画を欠かさないというw
しかし、感動したのでやります。
たいへんなボリュームになっていますが、
これは避けられないたたかいですw
最後まで見ていただければ、
かならずや大事な何かに気付くはずッッ
それを信じないとダンスなんて踊れな…
blogなんてできないや!!(爆)

 ,泙査能蕕慮躄
 フランケンシュタインは怪物の名前ではない

フランケンシュタインとは、
怪物を作った科学者ヴィクターの名字なんです!
怪物は「怪物」であって、名前はないのだw
ほとんどの人がこれを誤解しています。
つくった人よりも つくられたモノのほうが、
有名になってしまうという状況です!
(※誤解されていること自体が有名だ、
 と辞書にまで書かれているほどです)

 ▲札ンド誤解
 怪物は読書家で雄弁
 ミルトンやゲーテなどの古典に感動

 サード誤解
 本当は美しい文学

先生は言いました。
「死体からつくられた人造人間が次々と殺戮を繰り広げるという筋立てで有名なんですけど、それだけじゃないんですね。 アルプスの山々や湖といった自然もたっぷりだし詩情豊かな作品なんです。 美しさへの憧れとか命の大切さとかそういう輝かしい世界が書かれていて、その一方で陰鬱な暗い世界がある。 そのコントラストが美しさと醜さの両方を際立たせているという、そういう文学的効果が生まれていると考えます」

 小説だと《怪物》の内面を読むことができる
 原作を読んでみないと正しく理解できない作品

これは “小説だからこそ” の内実のようです。
作者 メアリ・シェリー
父は政治学者、母は女性の権利を主張する文学者。 しかし母は出産した数日後に死亡。 16歳で駆け落ち。 スイス レマン湖畔にある別荘へ旅行。
この滞在中、退屈しのぎにつくったのがフランケ...

退屈しのぎかよーーーッッ

科学者 ヴィクター・フランケンシュタインは、ジュネーヴの名家出身。 愛情深い両親のもと何不自由なく成長。 やがて生命の謎と向き合い、生理学や解剖学に夢中になり、死体を集めて人間を作りたいという野望が芽生えます。 研究を始めて2年が経過した11月のうら寂しい夜。 ヴィクターは死体をつぎはぎして2m半に及ぶカラダを作り命を吹き込んだ―

先生語り
「実験に成功して人造人間に命を
 吹き込むことができた瞬間、
 予想もしなかった結果に出会うんですね」

 ああ! あのぞっとするような顔の恐ろしさに
 耐えられる人はいないだろう。
 ミイラを生き返らせても、
 あいつほど醜悪ではないはずだ。

「こういうことを言って、ヴィクターは
 恐怖に駆られて実験室から逃げ出してしまう。
 怪物を作っておきながら創造主としての
 責任を放棄してしまうんですね。
 ここに科学者としての傲慢さが見える」

科学者フランケンシュタインから見捨てられた怪物は、もともとは善良な存在でした。 怪物はある家族との出会いや読書を通じて人間性も芽生えます。 しかし、姿が醜いというだけで迫害を受け、怪物は人類に復讐を誓うようになるのです。

 おれはその瞬間、人類と永遠に戦うことに決めたのだ

いったい何が怪物をうみだしたのか

 自分が生まれた最初の頃のことを思い出すのは、
 かなり難しい。 その時期に起こったことはみな、
 おぼろげで混沌としている。
 奇妙ないろいろな感覚に襲われて、
 おれは同時に見たり、触ったり、聞いたり
 匂いをかいだりした。
 実際、さまざまな感覚の作用が区別できるように
 なるまでに、かなりの時間がかかった。

怪物は赤ちゃんとは違い、思考能力があります。
最初から考えることができる。
それは、想像するとたいへんなことだとわかります。
わたしたちのようにゆっくりとさまざまな感覚を
統率していく “過程” がないんです!
ちなみに、上記の文章は《言語》を学んだあとに、
自らのことを振り返った怪物談ですw

わたしの膝の感覚も実際こんな感じで…
かなりの時間がかかっています。。 わらえない!

ヴィクターに見捨てられた怪物は森の中をさまよった末、みすぼらしい小屋に住むことにした。 隣にはドラ・セー一家が暮らしていた。 盲目の老人と息子のフェリックス、そして娘アガサの3人家族。 貧しい中、互いを思いやって暮らす隣人の姿に怪物は魅入られます。

 銀髪の老人の慈悲深い顔は、
 おれの尊敬の念を勝ち得た。
 娘の優しい物腰は、おれの愛を誘った。

やがてフェリックスの恋人でアラビア人のサフィーも一家と共に暮らします。 サフィーはフェリックスから言葉を習っていた。 怪物はその様子を盗み見て人間の言葉やさまざまな知識を身につけます。

 フェリックスがサフィーのために使っていた
 教科書は、ヴォルネーの『諸帝国の廃墟』だった。
 この本のおかげで歴史の知識がざっと身についたし、
 いま世界に存在するいくつかの帝国のことを知った。
 それに、さまざまな国々の風習や政治、
 宗教についての見識も得たのだった。
 こういう驚くべき話を聞いて、
 おれは奇妙な思いに誘われた。
 どうして人間は仲間を殺そうとするのか。
 そもそもなぜ法律や政府などというものがあるのか。
 おれには、しばらく理解できなかった。
 だが、悪徳と流血の話を聞いているうちに、
 驚きはなくなり、
 おれは嫌悪感のあまり、むかついて顔をそむけた。

わたしは怪物の表現にかなり《ダンス》を感じました
それは知らないことを、自分が知っているすべてで
全力で伝えようとしているのを感じるからです

 薄暗い不透明な固まり → 暗闇
 木々の間から昇ってくる光った形のもの → 月
 天蓋のように覆っている光る屋根 → 空
 地面を覆う外の冷たい湿り気 → 雪

怪物の表現力やばい。
これ、ぜんぶダンス作品タイトルみたいだ!!

 ある日、寒さに凍えていると、浮浪者が残して
 いった火を見つけて、その暖かさに、
 おれは嬉しさでいっぱいになった。
 喜びのあまり、燃えている残り火に手を
 突っ込んだが、痛さに叫び声をあげて、
 すぐさま手を引っ込めた。
 同じひとつの原因がこれほど正反対の結果を
 もたらすとは、なんて不思議なのだろうと思った。
 そこで火の材料を調べてみると、嬉しいことに、
 木でできているではないか。
 おれは急いで木の枝を集めたが、
 湿っていて燃えない。
 がっかりして、おれは座り込み、
 火の作用をじっと見ていた。
 すると、火のそばに置いてあった濡れた木が、
 乾いて、燃え始めたのだ。

「観察」から「類推」へ
って… 怪物マジやばいw  もうこれはダンスです
人間の経験とまったく同じじゃないかッッ
生きることは、《発見》だからです!!
知ることのよろこびだからです!!

 老人は、楽器を手に取って奏ではじめ、
 ツグミやナイチンゲールの鳴き声よりも
 甘い音を出した。
 それは、これまでに美しいものを見たことがない
 自分のような哀れな者にとってさえ、
 うっとりとするような光景だった。
 おれは奇妙な圧倒されるような感覚を覚えた。
 それは、空腹や寒さ、暖かさや食べ物からも、
 いまだ味わったことのない
 痛みと喜びの混ざり合ったものだった。
 この感情に耐えきれず、
 おれは思わず窓から身を引いた。

怪物はすごい。
これは《人間》そのものです
わたしはこの “思わず窓から身を引いた” 感覚を
何度も味わったことがあります。
あの耐えきれない感じ…
いいこともわるいことも。
それは《感動》そのものです
生きていることは痛みと喜びの混沌なんです

怪物は人間を理解しようと努力した

怪物が人間らしくなるために励んだのは読書です。 森で拾ったプルタルコスの『英雄伝』やミルトンの『失楽園』。 中でも夢中になったのはゲーテの『若きウェルテルの悩み』でした。

 『若きウェルテルの悩み』を読むと、まず、
 その単純で感動的な物語に心を引かれた。
 だが、何と言ってもウェルテル自身が、
 これまでおれが見たり、想像したりした人間よりも
 崇高な存在に思えた。
 彼の性格には、ひけらかすようなところがなく、
 それが深く心に染み入った。
 死と自殺について論じた部分は、
 おれを驚きの気持ちでいっぱいにした。
 自殺の是非については立ち入るつもりはなかったが
 主人公の考えに同調して、
 彼の死に、なぜとは知らず涙を流した。

怪物は主人公に心を寄せて感動して泣くほど人間的。
孤独で愛情に飢えていた怪物はついに行動に出ます!

つづく。


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