| 2012年12月31日(月) |
年越しフラストレーション |
やっと2012年を終われるときがきました!! 今年もなんと長かったことでしょう… 現実には、2013年の2月が終わろうとしているんですよ!?
思い出すだけでかるく失神してしまいそうです
そんな2012年も終わるころ。 わたしが通うヨガスタジオで最後に行われた年末イベントクラスの紹介文から。
「メディテーション」 2012年最後のクラスは、メディテーションを行います。 1年の締めくくりに自分を見つめ、 今ここに在る自分をうけいれて、新年を迎えましょう!
なんとすばらしい文面でしょうか☆ そんなクラスを受けなかったわたしは大晦日でさえ自分をうけいれられずにいましたw (このままではいかん!!) 〜こころからそうおもいました〜 わたしはろくでもない苦肉の策を2012年最後の日に編み出します。
「フラストレーション」 2012年最後の自首トレは、自分自身によるフラストレーションを覗き見ます。 1年の締めくくりに自分の出来なかったことに首をくくり、新年を迎えましょう!
わたしは25日、衰えた自分自身の筋力を知りました。 それは本気でやらなければ知りえるものではない種類のものです。
単なる言葉あそびのように見えるかもしれませんが その実まったくの本気です
呼吸のようにおどるには 息が切れるくらいにおどるには まだまだやらなきゃいけない、やっていないものがあるはず 与えられるものではなく、自分で探し出していくことは簡単にはいきません 自分自身のストロングポイントをもっともっと伸ばしてやりたい この世にはその才能で好きなことだけをやって成功している人がいます ほんの一握りでも、天才と呼ばれる人たちはたしかにいるのです わたしは天才ではなさそうなので好きなことだけじゃダメですからねw そんなわたしが今年とりくんできたことでわかったことがあります
苦手で嫌だとおもっているものこそが自分の最大の力になってくれる
自分がもっているものをもっと輝かせるにはその逆が近道だったんです!! そしてその近道は常に変化します。 “それだけをやっていればよい”という都合のよいオールマイティはありません。 土台である基礎力はいつだって必要ですがここで言ってるのはプラスアルファ。 近道を探し当てるには自分と真剣に向き合うこと もしかしたらそんな時間をつくることがなによりも大事なのかもしれません
◎2012年、当サイトblogを閲覧していただき本当にありがとうございました◎
| 2012年12月30日(日) |
「Les Miserables」 |
世界が泣いた。 ミュージカルの金字塔、遂に映画化! スクリーンで出会う、至高の感動。
『Les Miserables』 愛とは、生きる力。
愛があってもあっさり死んでいく物語― キャッチコピーとはまるで正反対じゃないですか。。 つらい現実ですね
劇場前売券付属特典は“明日への希望を灯す<LED>キャンドル”!! その実体は“電池で光る燃えないロウソクもどき”です。 〜ご使用方法〜 ◎底面のスイッチをONにしてください。 さっそくLEDキャンドルの力をためしてみました!! 点滅はあたかも本物のロウソクの炎のようです、よく出来てるなこれ… 翌日、とんでもない事実が発覚します。
電池が二日ともたないLEDって何??
どこがLEDなんだ―!? ふざけやがって あんまりLEDって堂々と書いてあるもんだから軽く信じちゃったよ!! こうして簡単にだまされてしまうのがわたしたち庶民なのだと知りましたw まったくろくでもない特典です。 電池いくらあっても足りないぞこのやろー これじゃあLED照明を真面目につくってる人たちに対してあまりに失礼です。 そういうわけで身内狩るクリエーションのFふじをさんに贈呈することに。 だって「それ欲しかったんだよね」って言ってましたからw こんなモノでもきっと泣いてよろこんでくれるはずです!! なんたって[Les Miserables]ってロゴ付きですからね☆ 2/9、身内狩るクリエーション最終版『レ・ミゼラブル』に期待したいところですw
間違ってこのキャンドルみたいにLEDって銘打たないことを切に願いたい
映画で3時間上映される物語を1時間30分でまとめようとしたら間違いなくLEDです!! ただでさえ3時間でも足りない感じですからねw
さあ映画の超個人的感想の開演です☆ 『英国王のスピーチ』 アカデミー監督賞受賞トム・フーパー監督。 『オペラ座の怪人』 プロデューサー キャメロン・マッキントッシュ。 二人が壮大なスケールで贈る『レ・ミゼラブル』!!
こんな暗い物語、新年早々見られるか!!
そういうわけで2012年、年末真っ盛りでしたが行ってきましたw この映画でわたしの2012映画人生は終わります。 期待しましたね 1985年の初演以来、世界43ヵ国、21ヵ国語で上演され、6000万人を超える観客を動員。 27年間、1日も休むことなく上演、人々の心をつかんで離さないミュージカル最高傑作。 鳴り止むことのない喝采は、舞台からいよいよスクリーンへ
「下請け〜」
始まりました!! 下請けじゃないってこないだ教えてもらったばかりです!! ヒュー・ジャックマン演じるジャン・バルジャンたち囚人が傾いた大型船を引っ張っ…
て、それ人数少なすぎだろ―
あんな巨大な船、いくらヒュー・ジャックマンがウルヴァリンでも無理― いや待て。 ウルヴァリンならできそうですよねw 不問にします そうこうしてたらファンテーヌがスクリーンに登場。
アン・ハサウェイ、あいかわらず顔の半分が目で出来てました
『ダークナイト・ライジング』では仮面しててちょうどよかったんですけどねw 目ぇでかすぎだよ!! そこまでいったらチャームポイント超えてるよ― 出稼ぎにきてるファンテーヌでしたがあっさりいじめにあって娼婦に身を落とします。
娘コゼットが自分の命よりも大切ならいつもそばにいろよ
第一、コゼットあずけてる夫婦こそが人でなしのろくでなしです。 そもそもそのことが信用にまったく足りてません。 そんなに遠くなくてもときどき会いに行けるくらいの距離にいればいいだろ!! 〜そう思ったらファンテーヌの人生はあっという間に大安売りです〜
ぜんぜん理解できないよ
バルジャンが経営する工場制手工業に勤めていたファンテーヌ。 いじめられて工場を追われ身を落とすファンテーヌ。 捕らえられてバルジャンに再会するのは既に病気で死ぬ寸前。
あっという間に“死ぬ寸前”です
物語が長すぎてすべては一瞬の風のように過ぎ去っていきます。 役者たちが底力で演じているのは見て取れます、見て取れるけどなんか“違う” ◎時間の流れが断片的すぎてその描かれ方はどう見ても他人事◎
ぜんぜん感情移入できないよ
だって俺は物語を見てるんじゃなくて人間を見にきてるんです 人間が物語をつくるのであって、物語が人間つくってんじゃあない
バルジャンとファンテーヌ自体には大きな接点などない一目見たことあるくらいの話です。 バルジャンはそんなファンテーヌに異常ともおもえる罪悪感を感じてしまいます。 その一つの疑惑はきっとファンテーヌが“美人”だったからでしょう。 外見とはこんなにも人のこころをとらえるのです なんてこった 見かけの行き過ぎた配役は虚構を助長してしまいます なんてこった 物語がフツーだとしても舞台や映画になると見せ方が重要になり、誇張表現になります。 それはエンターテイメントとして見てもらう商売にするためです。
これが夢を売る商売の正体です 商売はウソなんですよ
言うなればわたしたち舞台人がそれを圧してやる作業はウソをほんものにする努力です これがなければこころを揺さぶる感動など生まれることはないでしょう
結局人間はあらゆるものを美化したいのかもしれません。 だって、物語、特に舞台にはフツーの人間なんてほとんどいないじゃないですか。 極端な物語、極端な人物たち。 わたしたちが生きる世界はそんな極端にできていません。 フツーの人間こそが世界をささえているのです しかし極端であればあるほど人のこころをとらえるのはどうしてでしょう。 なんで?? そんなに現実逃避したいの??
エポニーヌのウエストはCG合成だよね?? あれ絶対人間技じゃないぞ―
わたしはアマンダ・政府ライドが苦手なんですが、今回は顔を手で隠す努力で鑑賞w それは超めんどくさい並々ならぬ努力でした。 この年齢でのコゼットは、どう見ても人間力はこれからの女です。 絶対に“その人間力で”マリウス君に運命を感じるわけがない!! 〜街中で偶然ぶつかったイケメンに運命を感じる〜 外見とはこんなにも人のこころをとらえるのです なんてこった 恋の経験ゼロ、コゼットは即日ジュリエットモードに突入。
あっという間に“永遠を誓い合う仲”です
なんとすばらしいw 自らの正義感が崩れたジャベールは濁流まみれる川にかかる橋の上に。 歌を歌いながら放心状態でふらふら歩きます。 いつ川に落ちてもおかしくない足取りです!! ところが、ところがジャベールは歌を歌いきります。 歌いきってから盛大に川にダイブ
俺だったら歌を歌いきる前に落ちてるね
なんというプロ根性でしょうか!! これが“ザッツ・エンターテイメント”です ラッセル・クロウの歌唱力からジャベールのいい感想はぜんぜん聞きませんけどね。 わたしはジャベールよかったとおもいます。 これまで無駄に悪人面の役者ばかり見てきたものですからw いい人だったなんて初めて知りましたよ
この映画『レ・ミゼラブル』で特筆すべきはマリウス君があまりに好青年だったこと。 わたしはここまで貴族的イケメンのマリウスを見たことがなかったのです。 かつて見てきたマリウスたちは一瞬のうちに消し飛びましたw
なんだかわからんがマリウスがイケメンであるだけで物語に納得できるのだ
それは、マリウスとコゼットが“未来を生きる二人”だからでしょう マリウスとコゼットが美男子と美女であればあるほど未来に期待できるからです 外見とはこんなにも人のこころをとらえるのです なんてこった
気合いでマリウス担いで戦場から離脱したジャン・バルジャン。 バルジャンはウルヴァリンですから少々銃で撃たれたところで死にはしません。 瀕死の長身マリウスを深手を負いながらも担げるんですからね。 娘同様のコゼットに「マリウスと共に生きろ」と手紙を残して姿を消すバルジャン。 市街地での戦闘でマリウスの友人アンジョルラスたちは憤死してしまいます。 奇跡的に生き残ってしまったマリウス君。 その現場で、いなくなった仲間たちに自責の念が突き上げます。 しかし時はあっという間に流れゆきます… 昨日「友よ!」って悔いていたのに、もう明日はコゼットとの結婚式!!! それぜんぜん懲りてないだろ―!? あんまりです ジャン・バルジャンが次にスクリーンに現れたときはもう死ぬ寸前でした。。 またかよ― あんなに元気だったウルヴァ…バルジャンがあああああッッ ウソだろ― これだから嫌だ あんまり極端すぎてまったく胸に響きません 情緒、情緒がないのです しかしそんなミュージカル映画には絶大な力がそなわっていました!!
それは “歌”
その力は役者の演技や大掛かりな舞台セットもまったく関係ありません 歌だけで涙が流れてしまうのです これはどういうわけなのでしょうか 〜もう理屈じゃない〜 映画でなくても、舞台でなくても、歌を聴けば泣ける 謎ですね これがミュージカル『レ・ミゼラブル』を最高の舞台のひとつにしている理由でしょう
わたしは“映画”で泣くことはありませんでした それは“物語”に泣くことでもありませんでした 配役の熱演、細部に至る世界観の構築、衣裳、大掛かりな撮影セット。 どれもすばらしいものだったと思います。 ですが、わたしの個人的な見解では不思議なくらいにおもしろくなかった 正直、映画については大変な出来映えだとおもいます ただ わたしには響かなかった、ということでしょう なぜかまったく心がうごかなかったのです 客席からはすすり泣きも聞こえるのに わたしは本当に不思議な気分を味わいました
『レ・ミゼラブル』 生身の人間が演じるのでなければ面白く感じないんじゃないか、そうおもったのです
つくりこまれるものよりも生身の人間の本気がみたいんでしょうね
11月『サクリファイス』から今日までいろいろあったけど地味に読んでましたw 実在の人生のお話でしたから時間もかかるはずですよね!! ちなみに時間的にはわたしが生まれるぜんぜん前の昭和48年に発行された小説ですw
『孤高の人』(上)(下) 新田次郎 加藤文太郎は、山の特権階級に挑戦するために山へ行くのではなかった。 記録を作るためでもなかった。 彼はいまや山そのものの中に自分を再発見しようとしていたのである。
昭和初期、ヒマラヤ征服の夢を秘め、限られた裕福な人々だけのものであった登山界に、社会人登山家としての道を開拓しながら日本アルプスの山々を、ひとり疾風のように踏破していった“単独行の加藤文太郎”。 その強烈な意志と個性により、仕事においても独力で道を切り開き、高等小学校卒業の学歴で造船技師にまで昇格した加藤文太郎の、交錯する愛と孤独の青春を描く長編。 日本登山界に不滅の足跡を遺した文太郎の生涯を通じ“なぜ山に登るのか”の問いに鋭く迫った山岳小説屈指の力作です。
目的地につくまでは、休まないこと、立止っても行けない、 したがって歩調は、かなりゆっくりと、汗の出ないていどに歩きつづけること
最初にうなった文章でした… 目的地までは休まないこと、立ち止まってもいけない。 わたしは子どもではないので酷使しすぎてカラダを壊すわけにはいきません。 カラダを壊せば回復に大きな時間がかかり、それだけ夢が離れてしまうからです。 選ぶのは歩きつづけること
「加藤君どうだね、ヒマラヤは」 外山三郎は微笑をまじえながら加藤に話しかけた。 「行けない山のことなんか興味はありません」 加藤はそっけなく答えた。 「行けない山だって?」 藤沢久造の眼がきらりと光った。 それまでずっとおだやかな顔で外山と話していた藤沢とは別人のようだった。 「行けないのではない、行かないんだ。 行かないから未征服の山がそのまま残されているのだ。 八千メートル級の山だって、いくつあるのかも、 ほんとうはまだ正確には分っていないんだ。 まして七千メートル級の山になると、地図にない山、 あっても名前のついていない山が数え切れないほどあるんだ」 藤沢久造は加藤の眼をとらえたまま更につづけた。 「行けないんじゃあない、行かないんだ。 日本人はまだ誰も行こうとしないのだ
息が詰まりました… こんなに突きつけられる感じはひさしぶりでした だってこれは誰にでも、何にでもあてはまるじゃないですか ダンス・踊りもそうだし、ヨガでも同じなら仕事だって同じはずです。 “行けないんじゃあない、行かないんだ” その文章に歯軋りした
いわゆる登山家という奴の中には、にせものが多い。 こういうおれもにせもののひとりだ。 きみもけっしてほんものではない。 ほんものの登山家というのは、 すべてを自らの力で切り開いていく人間でなければならない。 加藤文太郎といったな、あいつは。 彼はそう遠くないうちに日本を代表するような登山家になるだろう
加藤文太郎の生い立ちは加藤文太郎の根底をつくっていました。 それはほとんど、他人をあてにしない“信じられるのは自分だけだ”というものです。 いかなることがあっても、自分のことは自分で処理する。
偏屈にも思われるほど、妥協性を欠く独立精神が、結局は山における人間に通ずる
わたしはほんとうにそうなのかかんがえました 人間の最期がひとりで死んでいくというものならまったく間違いじゃない気がする 目標を打ち立てて遂行するその圧倒的な急進力はとんでもない境地へ誘います でも、でもさ、偏屈で妥協性を欠くのが“孤高”って言えるのかな?? わたしにはわかりませんでした むしろわかりたくないともおもった しかし圧倒的な力をもつ人間には同じ性質があるのをわたしは知っています これまで出会ったそんな人たちに共通するのは“偏屈で妥協性を欠いている”ことです 加藤文太郎にはそういう生き方しかできなかった
言うことができるのは、偏屈で妥協性を欠いている自分LOVEではないということです 自分を超えなくちゃ、ほんものの力ではないのでしょう それは“切り開く”種類の力ではないからです
(はたして、生涯の目的をヒマラヤにかけていいだろうか) あらゆるものを、場合によっては、青春さえも犠牲にしてヒマラヤをのぞむことが、 意義あることだろうか。 彼は机上の鉛筆を取って、紙の上にヒマラヤという字を書いた。 頭の中のヒマラヤを字としてそこに書くと、ヒマラヤはやはり、 彼とは関係のない外国の山に思えてならなかった。 加藤は、ヒマラヤの字を憎んだ。 彼と関係のないヒマラヤがこうまで彼をとらえて放さないことに憤りを感じたのである。 ヒマラヤという字は無限に書けた、またたく間にレターペーパーの一枚はヒマラヤで 一ぱいになり、二枚目も三枚目もヒマラヤで満たされていった。 レターペーパーの最後のページが残った。 そこに加藤文太郎は数行の文字を書いた。 和田岬まで歩いて通う 洋服なんかいらない 交際費は使わない 下宿代、昼食代、小遣銭― 彼はその四行を書いてから、下宿代、昼食代、所要小遣銭を頭の中で加算して、 その合計を月給の六十円から差引くと二十二円五十銭のおつりが出た。 加藤は彼の俸給袋の中から二十二円五十銭を取り出して、ヒマラヤの落書きで いっぱいになった紙片に包んでから更に、レターペーパーの余白で、 こまかい計算を始めたのである。 もし毎月二十二円五十銭ずつ積み立てていったら十年かからずとも、 二千円の貯金はできる。 そのことがヒマラヤへ行くこととつながるならば、ヒマラヤは夢でなくなるのだ
加藤文太郎は愚直にその積み立てを重ねてゆきます もう一度いえば、これは実在の人物のお話です 山を登るため、リュックに15kgの石を入れて出勤するし、家があるのに野宿するんです 紙に書くという行為は夢を叶えるための決意ではないでしょうか 現に、夢を叶えたひとたちのドキュメントには必ずそんな場面が登場しますよね “ひとりで生きていく”そのことに沿えば山ほど試される場所はないのかもしれません 一歩間違えば命を落としかねない山 しかし、単独行がきわめて危険であることを加藤文太郎は知っていました
「つまらぬことはやめたらいい」 加藤はぽつんといった。 つまらぬことというのは、宮村健のやっている単独行をさしているのではなかった。 もし、宮村が加藤のやったとおりのことを真似しようというのならば、 それはつまらぬことだといったのである。 (単独行なんてけっして楽しいことではない) 加藤はそういってやりたかった。 苦しいことの方が多いのだ。 その苦しみに比較して得られるものはなにもないのだ。 あの山を登ったという、自己満足以外にはなにもないのだと教えてやりたかった。 (なんのために山へ登るかという疑問のために、山へ登り、その疑問のほんの一部が 分りかけたような気がして山をおりて来ては、そこには空虚以外のなにものもない のに気がついて、また山へ行く… この誰にも説明できない、深いかなしみが、お前にはわからないだろう) 加藤は宮村にそういってやりたかった。 (きみが、おれのあとを追うことは勝手だ。 だが、おれと同じように、山という、 得体の知れないものの捕虜になることをおれは決してすすめはしない) 「山はひとりで歩くものではない」 「でも加藤さんは―」 「おれは、ひとりでしか、山を歩けない男なんだ
読めば読むほど複雑な気持ちになりました 誰しも“ひとりで生きていく”強さがほしい なによりも驚いたのは、その志がけっしてくじけない崇高なところにあったことです しかし加藤文太郎のことをかわいそうだとおもえてしまったのも事実です
それは“ひとりでしか山を歩けない”からです
踊りでもなんでもきっと同じではないでしょうか 舞台でソロを踊るときには自分だけに押し寄せてくる恐怖心を超えなくてはなりません 人前に立つことがどれほど怖いか “しなければならない”ことはどれほど恐怖を生むかわからないのです これは誰にも説明できません ダンスにはお芝居のように役があるわけでもないし、虚勢を張ることもできません ウソがつけないのです ウソはたちまちばれてしまうからです 相手があれば“しなければならない”ではなく相手に集中しなくてはなりません そのことがダンスに、踊りだけに集中できるスタンスを生みます 『孤高の人』を読みながらわたしが自分に感じたものはこれでした
ひとりじゃなく、みんなで切り開いていきたい
すべてを自分の力だけで切り開くよりも、助けあって何かを成し遂げたい それがどんなに平凡なことでも他人と喜びをわかちあいたい
それは加藤文太郎がひとり命がけで切り開くものであるなら お友だちごっこではまったく到達できるものではないでしょう
| 2012年12月28日(金) |
「ファースト・ポジション」 |
ニューヨークで開催される世界最大のバレエコンクールの涙と感動の舞台裏。
『ファースト・ポジション』 夢に向かって踊れ!
バレエ界の現実を切り取った映画でした。 ドキュメント秀作映画です!! サンフランシスコ・ドキュメンタリー映画祭2011 審査員最優秀映画受賞 トロント国際映画祭2011 ドキュメンタリー部門観客賞受賞 NYドキュメンタリー映画祭2011 ベストドキュメンタリー観客賞受賞 ポートランド国際映画祭2012 観客賞受賞 ダラス国際映画祭2012 観客賞受賞 レビュー満足度は96%!! 是非その動画で確かめてみてください。 検索推奨ですw
驚いたのは11歳のアラン君。 イタリア在住の米海軍医の息子。 アラン君は片道2時間かけてクラスに通います。 師事するのはオペラ座エトワール、マチュー・ガニオの父 デニス・ガニオ!! 11歳のアラン君はすでにバレエテクニックがほとんど完成していた―
俺、何歳よ??
まったくやる気なくすよねw わたしがまっとうに苦しんでるところをあっさり魅せてくれちゃいます。 そう、彼は努力していたんですよ。 見たこともない道具たちを使ってw ドラえもんも真っ青です 足の甲、つま先を矯正するフットストレッチャー。 アラン「これ、痛いんだよ?」 (わたしが通うスタジオの奥深くにもあるらしい、見たことないけど) 特殊なターン補助板で回転の感覚を養ったりしているんです。 その器具を見てその板欲しいっておもったもん。
足りないのは感覚を養う努力だな
感覚を新しく手に入れるのは生半可にいきません。 今でもシェネなんて端から端まで右左やったら三半規管からか一日中具合わるい。 こんなこと誰がわかってくれるんでしょうか。 誰もわかりません 吐き気が止まらないんです 嫌なものはやりたくない、だからといって何もしなければそのままです やるしかない 11歳のガキにできて大人にできないわけがない。 わたしがここでいうのは意識の問題です “上手に”とか“美しく”とかの話じゃありません。 意識は子どもよりも大人のほうが強く出せるはずじゃないですか。 子どもの頃しかできないことがあるのなら、 世の中を知っているからこそ強くできることもあるはずだ。
あたらしい自分のカラダをもっと自由にしてやりたい
ひとりひとりの努力は決して同じじゃない、同じじゃなくていいのだ。 ひとりひとりのカラダが違うからこそ最終的な努力は同じにはいかないはずです。 この映画は“バレエ”という種類のお話です。 試練を乗り越えなければ踊れる場所に出られない世界のお話です。 それは、踊りというものの一つの方向性。 決して“絶対”のものではありません だからといって世界を知ろうとしないのもおかしい。
あらゆる意味で、踊るということに変わりないからです
彼らの想いは情熱を超えています 踊るために必死な姿はわたしたちに限界がないことをおしえてくれます
この映画に出演する未来のダンサーたちはほとんどセレブリティな家庭のようでした。 学校で勉強するのをやめてまで練習に向かうくらいの。 そのカラダに寸分違わぬ衣裳をつくるだけで100万円を超えるような実情。 映画では“そうじゃなきゃ踊りはやれない”みたいなものも見受けられますが違う。 ◎わたしが師事する先生のクラスに通う子がこのYAGPで金賞を現実に獲得した◎ リアルファースト・ポジションです!! 世界各地で5000人以上が挑み、ファイナルに進めるのは200〜300人。 その頂点の一人をこの眼で見知っているんです!!
こんな身近に“世界”がいた
これほどわかりやすい指針はありません。 カラダの才能こそ大きく違うかもしれませんが、努力だけはそれを超えることができます その子の努力が間近で見れるなんてのはまったくありがたい話です。 乗り越えるべき壁がこの目でわかるんですから。
より短い時間で先にすすむためには目標をより具体化するしかない
あらゆる才能で負けたとしても、踊りたい気持ちだけは負けるわけにはいきません。 この世界ではそれがフィジカルと技術だということも事実です。
ここではフィジカルですべてを量られますが、その真逆も踊りにはあります
洋舞の世界では自らを踊るものをほとんど見ることはできません 全力がつかえるフィジカルを養い、全力で振付に挑んだ結果自らが現れる 自分を超えた自分 ところが自らを踊ることをやればやるほど簡単ではないことがわかります 自分を超えなければならないことに気づくからです 両極でありながらどちらも通るのは同じ、命の燃焼ではないでしょうか わたしたちは生きて死ぬだけです そのことに優劣はないように、好き嫌いでこころを閉じるべきではないでしょう 考えてみれば誰しも好き嫌いでどれだけ世界を狭くしているかわかりません 触れてみたらその奥深さに驚き、これまでの世界が一変するチャンスがあります ただそれには“本物”に触れる必要があります クラシックダンサーは自らを踊るダンサーを卑下するふしがあるし 自らを踊るダンサーはその逆を言うふしがある 本当はどちらもすばらしいことなのに なぜそのようになってしまうのかわたしには理解できません もしかしたら自分がいる“世界”が絶対のものになってしまうからかもしれない いや、それよりも中途半端すぎる踊りがあふれているからかもしれません 力があればある人ほどそれを区別できてしまうからです
わたしは伝えたい“今”を踊ることがしたい 伝えたい気持ちが大きいものでも小さくても、どちらも素敵なものに違いはありません なぜ踊るのかを見つめることがダンスを引き出すのです
この日、ひさびさに、そうとうひさしぶりにクラシックのクラスいきました! なんせ別府に滞在して、帰ってきて風邪なおして、一度もいけてません。。 ◎下手すりゃ先生の記憶からわたしの存在が消し飛んでる可能性さえあります◎ そして、先生のクラスですから筋力トレーニングしてなくちゃ行けるものも行けない。 わたしは来るべきその日のために体幹トレーニングだけは毎日しっかり積んでいた。
クラスに行くとなんだか先生が優しい いつもの罵声なのになんだか優しいのである
その優しさが…なによりも怖かったw こんなに優しい先生 初めてじゃないの―!? この日本で世界へ何人ものすばらしいダンサーを育て輩出してきた先生です。 生半可な気持ちでこのクラスには行けません。 こんなわたしでも先生にとっては「気持ちがぜんぜん足りてない」部類です。 自分で全力を尽くしているつもりでも、先生から見れば足りてない。 失敗がないクラシックダンサーの厳しい仕組み。 おそろしい現実です
あっという間に両足がパンパンに
あれっ!? そんなはずはない。 体幹はしっかり… それは“体幹”だよw 脚力の話じゃなかった 上半身はよくてもクラシックのための脚力がまったくおだやかではない!! そう、酷使、酷使なんです。
酷使に耐えうる脚力がなくなってた
なんてこった― 先生が優しくてたすかった!! いつもだったら両足が攣って悶絶してたな 床を這うようなコンテンポラリーと格式のクラシックではカラダのつくり方が違う おなじ“踊り”共通点は大いにあっても、まずもって踊り方自体が違う クラシックでまず考えなければならないのは流動的ではない、一点集中です なんとか最後までやりきりましたがこのクラスで改めてわかったことがあります。
今まで培ってきた“ここまでは力が入る” 全力を要求されてその意識伝達力は鍛えられてきました 鍛えてきたその力は絶対です しかしここで問題が生じます 衰えた筋力にそれを命じるということ それは、意志力>筋力 その極端な差が大きなケガにつながります 力があればあるほど強烈な意志力で筋を切りかねない!!
普段鍛えているダンサーによく聞く甚大なケガ その毎日は一般人からは考えられない負荷がかかっています そんな負荷を“あたりまえ”としているのです つまりは毎日その負荷をもっていなければならないということでしょう カラダがどこも痛くないダンサーなんていないとおもいます
この日、わたしは両足がパンパンでしたが一日中踊りましたw そしてその最中、右ふくらはぎが激しく攣って立ち上がれなくなりました 〜終了〜 輝かしい夜の街中を右足ひきずって帰りましたねw ☆ Merry Christmas ☆
世の中はX'mas一色。 街はまるまるまるでネズミーランドのようでした!! 人波、波、波!! 人が集まる中心地へ その人波は流れています。 それとはまるで逆方向 わたしは新幹線に飛び乗りました! いつも通り、危なく乗り遅れるところでしたねw 新幹線 その圧倒的なスピードにX'masイヴのすべてが吹き飛んだ!!
こんな速さで成長できたらな
そして一息に死ねたら (※それも事故死じゃなくて)
一点を貫く強い力と速度。 風のようではなく、空気が、空気が重い感じ 時間の濃さ、密度。 生きること 必死に生きること
それは舞台上にある
“舞台で生きる”というよりも、むしろ舞台がおしえてくれるものかもしれません ステージが輝かしいものであればあるほど舞台を神聖視しがちですが、 ほんとうは舞台上ではなく、いつものわたしたちの日常がそのはずだからです
街並の流れに逆らった人波の真逆の遅さが、感じる力を助長させたのかもしれない。 ちなみにX'masイヴを祝うのは日本くらいのもんですw 海外にイヴなんてものはないのだ。 この日、わたしは友人が出演する舞台を見に行きました。 奇遇にも以前舞台で一緒だった桑さんと見ることにしていました。 某高校教師の桑さんはたいへんな知識人。 『詩のボクシング』で全国大会にまで挑んだひとです。 高校では『たたら製鉄』を生徒に教えています。 全国高等学校演劇についての桑さんの感想コメントを見て即座にメール撃ちました! すると以下の返事がッ
コピーができないので タイスケさんが、僕の自宅に観に来られる以外は手段が無いのです。 来ていただくのは全然構わないですよ。 歓迎します
そういうわけでご迷惑なところをおしかけましたw こんなチャンスはあるときじゃないかぎり“ある”もんじゃあないのだ。 あらためて申し上げますが、この録画を見ることがこの日の焦点じゃありません。 友人が出演、踊る舞台を見に行くことですw 桑さんのご自宅に到着。 興味深い録画演劇を見せていただきましたよ☆
◎第58回全国高等学校演劇大会◎ <最優秀賞>青森中央高等学校 『もしイタ』 〜もし高校野球の女子マネージャーが青森の「イタコ」を呼んだら〜
桑さんの奥様から東京スカイツリー土産チョコをいただき、食べまくりました!! クリスマスイヴその日、わたしは『もしイタ』テレビ画面に集中していた―
もし現実的にこの日を捉えれば痛い話です… 個人的には『もし痛』なんじゃ!?
高校生が高校生で高校生のときしかできない高校演劇。 唸りました!! スカイツリーどころじゃまったくありません
相手チーム【あーせーこーせー学院】って学校名に吹いてしまいましたw うまいなーーーーーwww わたしはこーゆーのが大大大好きです!!
この演劇には大道具がいっさいありません。 すべて人間、役者がこなしています。 台詞とカラダの空間演出 夕方の三羽のカラスでさえ、3人が演じています! 桑さんによると、どこへいっても演れるようにつくられているとのこと。 それには被災地も含まれています。 なるほど
主人公はもともと弱小高校野球チームにいた生徒。 津波により転校を余儀なくされ、青森の高校に転入していたのです。 しかし主人公が現在通うこの高校ではそもそも野球メンバーが足りてなかった。 そこにやる気の塊のようなマネージャーがいたのです。 マネージャーは主人公に目をつけ、度重なるストーキングの果てに入部させますw
マネージャーは過去槍投げの選手だったが肩を壊して投げられなくなっていた 主人公には野球をやりたくてもやれない理由が、迷いがあった
マネージャーは主人公に問いただします 「君はまだ“投げられる”んだよね!?」 この台詞はこころに直撃しました まだ“踊れる”んです!!
主人公の仲間たちは津波で亡くなっていた
主人公はこころを苛まれていました 「こんな俺が笑って野球をやっていいのか」 この葛藤は苦しかった よくある“みんなの分まで”なんて軽い台詞は幻想です 現実に、そこにたどりつくにはまったく簡単じゃない 演劇ですからその時間は描かれませんが、現実はそんなもんじゃないはずです もし自分がそうだったら“みんなの分まで”というのは言葉にできないと思います 言ってしまえば別ものになってしまう気がするのです それはそれとして、演劇はつづきます! マネージャーは甲子園に行くために力がある監督を探します。 もう一人のマネージャーが連れてきたのはそこら辺にいそうなおばあちゃんでした。 しかし、ただのおばあさんではありません!! 恐山のイタコだったのですw
それ “別の力” だよ―
マネージャーは目を丸くしておばあちゃんに訊ねます。 「甲子園行けるんですよね?!」 おばあさんは答えます 「んだ」
おばあさんはメンバーの一人に1ヵ月?の山篭り修行を要求
主人公はおばあさんに「絶対に甲子園に行けるんだな?」と確認して山へいきました。 その気迫に感化されたのか、弱小チームは初めてまともな練習に励みます。 自分たちのために一人で山へ向かった主人公。 こころが折れていくナインたちでしたが、主将のご無体な発言で各個奮起します!! 苦しい修行から帰ってきたらしい主人公はおばあさんのもとみんなの前で力を発現。
戦前の伝説のピッチャー沢村を自らに降霊
その投球にキャッチャーは5mくらい吹き飛びます!! スゲー☆ 地区予選、その圧倒的投球によりあっという間に決勝戦w 甲子園を目前にして相手高校【あーせーこーせー学院】はまさかの全員バント作戦!! ピッチャーの体力を奪う残酷な作戦です!! その激闘はスローモーションを交えてたいへんな息を飲んでしまいましたw おもしろい☆ 試合は延長戦にw
毎試合の沢村選手降霊で主人公のからだは限界をむかえてしまいます
沢村は戦争時、投げたくもない手榴弾を投げさせられていた そんな沢村選手は降霊で投げる機会をあたえられ、主人公の限界とともに成仏します 降霊を解かれた主人公は「もう投げられない」とナインに叫びます。 しかしチームはすべてを主人公に託した。
全員が納得するなかで試合は終わりました
エンディング 夏休み期間中は練習もなく、療養する主人公は呼び出されることもありませんでした。 ひさしぶりに練習する、と連絡を受けた主人公はグラウンドへ。
グラウンドへ行くとマネージャーを含め全ナインがイタコ技術を修得していた―
つぎつぎと主人公の友だちが降霊されていきました その最後は― 主人公が一度も口にしなかった“おかあさん”でした
さすがに最優秀賞。 ほとほと馬鹿げた内容なのに泣きそうになりました この演劇が見ることができてほんとうによかった
クリント・イーストウッド主演映画。 エイミー・アダムスはちょっと個性が強すぎるとおもった―
『人生の特等席』 スカウトマン、娘1人。キャリア最後の旅に出る。
家庭を顧みず、メジャーリーグ・スカウトマンとして生きてきた父。 視力が衰え、目がかすみ始めた彼の最後のスカウトの旅に手を貸したのは、父との間にわだかまりを感じ続けてきたひとり娘のミッキー。 妻を亡くし、男手ひとつで育てようとして育てられなかった父娘の旅の最後に、それぞれが見つけた人生の特等席とは―
稀代の名優の見納めと思われた『グラン・トリノ』以来、クリント・イーストウッド4年ぶりの主演作である本作を監督するのは、20年近く彼のもとで共に映画を作り続け、生涯でただひとりの弟子と認められた、イーストウッドDNAの継承者ロバート・ロレンツ。 見る人を心の底から幸せにする、父と娘のハートウォーミング・ストーリー。
「ダメなら解雇だ」
「野球は変わった。 彼はパソコンどころかタイプも使えない」
「お前に野球の何が分かる? パソコンなんかに若い奴らの才能は見抜けん!」
「分かってないのね… パパと一緒に野球を観てた場所は― 私の特等席だった」
イーストウッド演じる主人公ガスにはある秘密があります。 その秘密こそが娘との距離を生み出す最大の原因でした。 そして、娘ミッキーは父と一緒にいることがしあわせだったんです。 ガスはミッキーを親戚にあずけてしまいます。 父に捨てられたと思い込んだ幼いミッキーは心を病んで精神科にかかってしまいます。 実は捨てられたのではなかったわけですが。。 スカウトマンは移動を強いられる職業のため娘を常に連れていること自体が問題でした。 父、ガスは娘に人並みの生活を送らせたいとおもっていた。 最後に選んだのは“自分の手から手離す”だったのです。 しかしここに至るまでには秘密→決定的な事件こそが引き金になっています。 ミッキーは父と積極的に会話しようと迫りますが、ガスは取り合いません。 そんなやり取りの繰り返しを見ながら考えたことがあります。
“実の親子だからこそ言えないこともある”
自分自身に置き換えても、母にはなんでも話せるけれど父とはできません。 そのわだかまりがどんなに取るに足らない小さなことだとしても、です。 考えれば考えるほど悩んでしまいました… 男とはプライドあるいきものだからかもしれません。 ものすごいデリケートな問題です。 不思議ですね 父に思うことは“強くなくてはならない”というものを感じるというものです。 そこには子に対する親、その責任というものもありましょう。 “こうあらなくてはならない”そういう種類のものです。
うちの父の場合は、完全なる理詰めです
物事をどれくらい知っているか、そしてそれをどう考えているか。 すこしでも甘い分析で会話を組み立てると、たちまち叱責されてしまいます!! 一番気をつけなくてはならないのは社会的な地位と立場の問題です。 特に社会的な見られ方の上での言動には厳しいものがあります。 事実、そういう立場で仕事をしてきた父ですから考えれば当然でしょう。 わたしは“最終的には自分の生き方だから誰にどう見られてもいい”と思っています。 が、これが父には通りません!
“どう見られてもいい”を回避する努力をしろ
そして、最後にぶちあたったのはこれでした。 “父はわたしを子どもだとおもっているのではないか” きっとまだまだ子どもに“見える”んでしょうね。。 わたしの父が考える「大人と子供の境界線」がどこにあるのかわからないけれどw なぜか思い当たるふしだけはたくさんあるw
なんてこった―
見る人を心の底から幸せにする、父と娘のハートウォーミング・ストーリー。 →「心の底から」って言い切るのはどうかと思いますがw 物語のラストは痛快でした! もうちょっと痛快にしてもよかったとおもうけどね! でも痛快にしすぎないところが現実リアル志向だともおもえますw
クリント・イーストウッドは死ぬまでカッコイイのだということは確かそうです☆
| 2012年12月20日(木) |
「FINALFANTASY XIII-2」 |
買ったはいいけれど、ほったらかして1年くらい?のゲームを解きました!
『FINALFANTASY XIII-2』 未来を紡ぐ、彼女の眼差し
続編とはいえ、かつてこれほど放置したFINALFANTASYはない気がします。 今更感はありましたが、風邪でしたから“今しかない”っていうのが真実w
風邪自体はなおったのに咳がまったく止まらない!!
止まらなさすぎて、電車に乗るのも難しかった… もちろん病院には行きました そういうわけで時間を無駄にしない方法を編み出したというわけです! とにかく時代を行ったり戻ったりするゲームシステムが面倒でたまりませんでしたね… でもこれまでに見た時間や次元を超える系を見てきてやる気がでたんですよ!! 『まど☆マギ』の時間を繰り返してでも変えたい未来とか、 『エウレカセヴンAO』のパラドクスを解決する展開。 機運はこれ以上ありませんでした、っていうかここでやらなきゃ二度とやらないねw
「ノエルの願いは何?」
「みんなが生きてる未来」
最後の旅、実のところわたしたちは最初から“最後の旅”の真っ最中です。 時間をもどすことはできないのです。 XIII-2では、なんと未来を変えると過去が書き換わる世界でした。 そんな物語終盤。
「なんで信じないんだあああああぁあああぁぁあああああぁあああッッッ」
この台詞に動揺が激しく襲いました そう、なにもかも信じなければ始まらないんです 信じるものは希望です どんなときも信じる先なら後悔はないはずです
「真の歴史を決めよう」
「そう、君は人を殺せない。滅びの世界に生まれた君は命の重みを知りすぎている」
「時を変える者は、誰が血を流すかを選ばねばならない」 「君の負う罪こそ― 永遠のパラドクス」
この場合、パラドクスというよりも“矛盾”に変換したほうがよさそうです。 永遠の矛盾。 …そうです、ノエル君はカイアスを殺しちゃいません! カイアスが自らしたことですからね。 でもその結果、ノエル君は永遠に苦しむことになりました。 まったくもって矛盾、パラドクスです!!
それに関わってさえいれば、影響を受けるのが“人間”なんです
ゲームの話から現実の話をするのはまずいかもしれませんが、 わたしには出会って数日後、自殺してしまったひとがいます そのときに初めて出会った人でしたが、今でもなにかできなかったか考えるのです 自分自身にできたこと
死ぬなんておもわせないくらいに生きる輝きをもっていたら
あのときの自分にそんなものがすこしでもあったかどうか考えるのです 嫌々ながら上司に使われていた時代でした そしてその人は仕事で出会った人でした 表面だけでは消し去れない根底 ウソはウソでしかない
人と関わる仕事であったからこそ、たのしくなくてはならなかったのです
今は一目見ればわかる。 誰もがしていることが、どれくらい好きなのか 理屈じゃありません。 もうあんな想いはしたくないのです
まずは自分を信じること できないと思えばできないままです 自分を信じることが強さを生んで、できなかったことができるようになる それはわたし自身が肯定してきました 動かなかった腕がすこしずつ動くようになったんです もうダメだと最初はおもいました それでも信じてやってきた結果が“今”です
今の自分にどれだけ輝きがあるかわかりませんがあの頃とは決定的に違う
失ったものは戻りません、それでもできることはある。 技術がはいらなくて今も罵声を浴びる毎日ですが先生の言葉はただしい。
「やりすぎくらいやらないと変われないわよ」
ダンサーとしての再出発はこの言葉にあります
別府滞在中、美味しいものだけを食べることに集中していたわたしですw 食べないと力が出ないからです。
◎豊後牛ステーキの店 そむり◎ 開店時間に入店するあたりに気合いが伺えますw しかしそれは大正解でした。 〜瞬く間に満席〜 満席なのに次々とお客さんがやってきます! おいしかったです
◎手のべ冷麺 六盛◎ この真冬に冷麺を注文するあたりに気合いが伺えます、が! さすがに凍えましたw 明らかな失敗です
◎チョロ松◎ ここの“かも吸”は本当においしい!! ちゃんぽん麺入りで注文。 土鍋に鴨肉、鴨の内臓、ごぼうが炊かれます。 出汁が、出汁が半端じゃないッ ネギしょった鴨肉がマジでやってくるんですよ―
◎居酒屋 より道◎ とり天はどこで食べてもほんとに美味しい
◎ぎょうざ専門店 湖月◎ 現代アート作家さんからこのお店を教えられ行ってきました。 って、店休日でもないのに閉まってました。 その表通りにあるジェラート店 ジェノバで聞いてみると… 「あぁ、寝てるんじゃないかな? 平日だしね」 別府平日おそるべし、あぁおそるべし!!
こないだの本番では“廃材を使う”という大いなるテーマがありました。 ところでみなさん、チューブを振り回したことありますか?? チューブを振り回すと音がだせるんですよ!! それは『Void the Fill』葬列の場面。 廃材を生まれ変わらせる、そんな舞台は閃きとアイデアに満ち溢れていました。 チューブを振り回して風斬音を出しながらゆっくり練り歩く。
なんとチューブは舞台上で楽器として使われます!!
その使い方に度肝抜かれましたね。 おなじくギリギリまで進化しつづけたものがあります。 わたしが葬列で担いだファナコ御輿(通称)は二日でつくりあげられたものです。 それは本番直前ギリギリまで手が加えられていた御輿でした!! これには驚きました。 だって装飾なんて一切がなかった巨大鍋蓋だったんですよ!? 見るたびにとんでもない御輿にwww ところで何故“ファナコ御輿”と呼ばれていたのか、余談ですがおしえましょう!
生贄?ダンサーのお名前がマリ・ファナコちゃんだったから☆(超実話
その名前に度肝抜かれましたねw 〜名刺ももらっちゃったよ〜 趣味?でお面をつくる商店街のおじさんから大量にお借りしたお面群もありました。 こんなにあやしいものからあんなにおそろしいものまでw
かわいい女の子たちの顔がたちまち妖怪に!!
そのお面群の何とも言えないほくそ笑んだ表情が、表情があああああッ なんてこった… 明らかに趣味超えてるぞ それ― その練り歩く様子を見てしまったら、、確実に呪われる勢いです!! ダンサーのはけ口通路なんて半日で完成してました… それも発泡スチロールの組み合わせでできたものです! 怒涛の製作です これがなかったらダンサーの移動が観客に丸見えでしたw 歩行者用の通路柵なんて一日のうちに竹に作り変えられていました。 プラスチック通路柵・三角コーンでなくなったのは舞台芸術をそこなうからです。 その仕事の速さに度肝抜かれましたね。
それぞれがそれぞれの役割を果たして『Void the Fill』公演はおこなわれました。 寒い中、そして雨の中、二日間の観客数はかるく2000人を超えたそうです。 その事実は喜ばしいかぎりです!!
かくいうわたしは役割を危なく果たせなくなるところでした… 本番二日目、風邪ひいてまともに歩けないだなんて誰よりも度肝抜かれましたね。。
からだづくりよりも大切なのは健康ですw
| 2012年12月13日(木) |
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」 |
2012年11月17日の公開から9日間で観客動員200万人超をマーク。 シリーズ史上最高のスピードで大ヒットを収めている『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』最新12月6日付の成績では動員284万人、興行収入39億円超え。 わずか3週間にして、前作『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』の最終興行収入40億円を超える可能性も出てまいりました―
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』 希望は残っているよ、どんな時にもね。
この世でどれだけ長いことやっているアニメーションなんでしょうか? いくらなんでも伝説つくりすぎですよね。 〜これが商売だ〜 ところで、QがQuicklyのQだってどれだけの人が知っているんでしょうか?? 〜わたしはもちろん知りませんでした〜 早いとこ終わってくれと思っているわたしは『破』で裏切られ、もはや物語は別物ですw 今回にいたっては『破』のラストが思い出せないくらいになってからの絶賛公開! もうぜんぜんわからん。 っていうか忘れた 記憶をたどるとシンジ君が男らしくキメたとこくらいしか出てこないぜ。
キメたおかげで世界は壊れていた―
自分が知らないうちに世界を破壊していた件。 その原因が純粋だったからこそ、その罪悪感は大きくなるのかもしれません 14年が経過したからといって知らない罪を教えないのはどうかとおもった
アスカなんかほんとうにヒドイね 個人的には人間のクズだとおもったよ
あそこまで底なしの暴力的な文句はないだろう 他人のことをガキだと決めつける本人自体がガキじゃないか 14年も経過してるのならお前のほうが大人になっとけよ 真実をなにも知らないシンジに果たし状だけふっかけてどうする 怒りをそのままぶつけるなんてことしたら世の中殺し合いだぞ っていうかアスカはシンジを殺したくてたまらないってことか じゃあ14年間もその“殺したい”が煮えたぎっていたってことか シンジが生還したってことは殺せるってことか でもアスカがシンジを最後に殺さないことはなんとなくわかるつもりだ
だからこそアスカはガキなんである
たしかに世の中には知らないほうがいいこともある だけど成長するためには知らなくちゃ始まらない 極端に真実を知ることがどんなにつらいことかわかりますか 病院で目覚めたときの自分がそうでした 歴史的に見ればマリー・アントワネットはどうですか? 気がついたら殺されなきゃならないなんてどうなんですか? 知らなければ罪を償うことなんてできない 知らないことが罪か 知ろうとしないことが罪か ひとりでは気付けない、気がつかないことのほうが多いのではないでしょうか 他人がいることで、比べることで、自分を知ることができる Qではカヲル君の台詞が大変興味深かった。
「償えない罪はない。 希望は残っているよ、どんな時にもね」
これは本当でしょうか? 人間のエゴじゃないのか? Qのアニメーションはめちゃくちゃ凄かった。 日本人が誇っていいものだとおもった 物語の内容を置いといても、その描き込みは尋常じゃない、異常だ。 だって内容ではなく、おおよそその描き込みで『Q』は成り立っているんだものね。 エヴァ本体をはじめ、世界観からのあらゆる機械メカニック。 わけわかんないのが動いてるだけで目が奪われるんだからさ。 だから、それを楽しめなければおそらく面白くはあるまい。 会話は終始曖昧。 会話だけ聞いてもきっと面白くないw 想像力がないとあの会話は無理だ、聞いているだけでは無理なつくりだ そういうわけで、わけわからん展開を終始聞かされることになります “知りたい”という気持ちを完全に操られてるねw
なんてコンテンポラリー商売だ
答えを知りたがる日本人への“答えおあずけ商法”の確立です。 凄すぎるぞ、この明らかにしないやり口w わからなくすればするほど知りたくなる人間の心理を突いていやがる!!
これが『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の正体だ!!
さあ、そんなエヴァQを踏まえてダンスへの活かし方を考えましょう。 知りたくするためには、まず何よりもすべてを肯定できるカラダ、フィジカルです。 そして、見ている人の想像力を引き出すには踊り続けることよりも踊らないこと。 お客さんに敢えて答えを明らかにしないことが想像力を育てるのです!! 大事なのは余地、余地です。 余地を埋めてしまうと漠然と“見る”だけにおさまってしまうのです。 これが続けるための無限の可能性を秘めているのだと思われます。
だからこそヱヴァンゲリヲンは終わらないのです
| 2012年12月10日(月) |
「エウレカセブンAO」 |
空のアオ 海のアオ 地球のアオ 私のアオ 新たなる神話、再び― 『エウレカセブンAO』は2005年より放送された『交響詩篇エウレカセブン』の続編。 2025年の沖縄に暮らす新主人公、少年アオの新たな物語。 沖縄の離島・磐戸島で老医師トシオと共に島で暮らしていた少年“アオ”は中学校の入学式を目前に控えていた。 そこへ突如現れた謎の存在“シークレット”は、島に出現した“スカブコーラル”を狙い容赦のない攻撃をしかけてくる。 巨大なモンスターを前に為す術もない島民たちは、混乱に陥り逃げ惑うことしか出来なかった。 “アオ”は、島を守りたい一心で、偶然手にした鍵を使い日本軍の輸送艦に積まれていた軍用FPを起動させる。 それはかつて“ニルヴァーシュ”と呼ばれたIFOだった…
前作『エウレカセブン』ではエピソード25「World's End Garden」が特に好きでした。 一番たいせつなものは何か、それに主人公が気付く回です。 そんな続編ですので見ないわけにはいきませんw って、今度は時間とか次元超える系!? もうなんでもありな様相w この日、ようやく最終話へたどりつけました。
「ありがとう 父さん母さん 俺は、俺たちは、この世界でなんとかやっていくよ だからせめて二人は送り返してあげないと… 俺のからだがいつまでもつのか それは誰にもわからない だけど俺は信じる! 父さんと母さんが選んでくれたこの時代の、 この星の人たちが選び、勝ち取る未来を!!」
アオの言葉は共感できる 強く共感できるんです 実はまったくわたしたちにあてはまることだからです
わたしたちのからだがいつまでもつのか それは誰にもわからない
この物語では、アオがフツーの人間ではないことでそれを教えてくれました。 さて、興味深かったのはTRUTHの劇中変遷ですw その最後がすがすがしいものだっただけに外せません!! 後半はその存在がすべてから拒絶された者として世界を焼き払おうと君臨します。 しかし次の回では突然味方になってる!! いいね!いいね!いいね! 暗いものから解き放たれているだけでもほんとうによかった この物語で素晴らしいのは―
“あったことをなかったことにしないこと”
善悪や正義の名の下に一方を断罪しないことです。 そして、大人のあやまちを子が受け容れるものです。 〜こんなことなかなかできることじゃない〜 これはまったく原発にもあてはめることができます。 過去のことを悪だと叫んでも未来は変わらないのです。 大事なのはあることを受け容れて未来をどうするか。 選ぶのは今を生きているわたしたちだということなのです。 わたしたちは今を生きるとともにその未来に責任を負っているのだとおもいます
「まだまだ見たりないな、この世界は」 「そうか、行くのか…」 「ああ! お別れだ」 「じゃあな! またいつか どこかで」
これまでぜんっぜん見たりてなかった。 “見たりない”というよりも、景色は変わるんです! 今まで見ていたものの、色が変わる 違って見える
初めて自宅に戻れたとき、すでに世界は変わっていました
それがわかったとき、毎日が違うということに気付きました。 毎日はあたらしいんです。 繰り返しじゃないんです
待ち受けてる運命に立ち竦み 怯えてた もう決して迷わないように強くなってゆくよ 二度と戻れない過去も明日からの糧にして そうやって乗り越えてゆくのさ そうして僕は僕になる
エンディング曲の歌詞はほとほとよく出来ていたとおもいます。 物語の終わりと一緒だとその効果はパーフェクトです!!
畏れることなく、堂々と生きて、そして死にたいですね
素直さがきっと導いてくれる、そんな気がします
| 2012年12月07日(金) |
「アンジェラ・アキ Concert Tour BLUE」 |
風邪はほぼ完治しようとしていました。 しかしすんなり治らないことをこのときのわたしは知りませんでした。 全曲オリジナル・アルバム『BLUE』、アンジェラ出産後LIVEに行ってきました☆
『アンジェラ・アキ Concert Tour 2012-2013 BLUE』 全国を網羅する5ヶ月間の大規模ライブツアー
1階 10列 31番 これ以上ない、ど真ん中サンター!! いいや違ったセンター!! 毎回ほとほと感謝です。 X'masは目前です!! 満席の会場。 空席が漠然とあるのは同列のみ。 おそらくわたしは関係者席を購入しているのだとおもいます。 会場後列で声をかけられました。 「タイスケじゃない!?あんた席どこ?」 隣の席は空いているのでタイミングはばっちりです!! ◎スペシャル席一名様ご案内◎ 姉さんよかったねw
「Rain」 開演前にちょうど聴きたいと話したばかりでした。 だって「Rain」は、ファーストアルバムだぞ?? 聴けると思ってなかったw あーなんだか来てよかったよ。 これだけで来てよかった 今回のライブでアンジェラ生声を聴きながらわかったこと、それは―
全部歌える
自分でも驚きました… だってほとんど回してなかったアルバム『BLUE』も歌えたんだから!! それに今回は以前の曲をガンガン歌ってましたからw それでもアルバム『BLUE』の曲が歌える自分を知りました。
改めて自分がアンジェラ・アキのファンなのだとわかった
これがこのライブで得た事実です。 一緒に行きたい人から最後まで返事は来なかったけど行ってよかった Tシャツとパーカー買えてよかったw
「告白」で始まったライブの最後はまさかの「This Love」でした! 超しんみり終演― 本人は『BLUE』を渾身の出来だと言ってました。 次々に曲が浮かぶって言ってた BLUEの曲たちは“満たされている”のを理屈抜きに感じます。 歌詞は空に浮きそうに軽いのです。 もしかしたらわたし自身が満たされていないから共感できないのかもしれない。 ひとつくらい満たされてもいいじゃないか 最近ではそう考えるようになっていました。 程度に差はあれど、毎日自分自身に負荷をかけて生きている自負があるからです。 ところが何ひとつ上手くいきません。 「Kiss Me Good-Bye」の歌詞が突き刺さるのがそれを証明しているようでした。
あなたは迷っていても ドアは開いてるよ
もうダメでした… 切実な歌詞だけが心を揺さぶるんです それには苦しさが前提ではないでしょうか 初めて聴いたとき わけもなく涙でボロボロになりました あの頃のあたらしい自分になりたい自分がまるで変わらない、変わっていないんです 変わっていないのは“変わりたい”と願う強度です 初ライブに行ってからのわたしは一つの人生の激しい波をこえました。 どちらにしても答えは同じです。
信じる力が私を自由にする
周囲で口開けて歌ってたのはたぶん自分だけです。 身長高くてやたら姿勢のいい男が客席で歌ってる姿はステージから丸見えかもしんない… 考えてみたら恥ずかしい所業です。 でも一緒に歌いたいんだから歌いますw
歌ったらいろいろすっきりした
アンジェラ・アキと凄い席に感謝ですね 今回のLIVEの超個人的総括。 ◎石碑を建ててもらうのを待つより、自分で建てる気概◎ なかでも特に面白かった局地トークがこれ↓↓↓
「あなたたち日本で一番おいしいもの食べてる自覚あります??」
わたしは自覚してますよw
| 2012年12月06日(木) |
覚悟と理由がいる踊り |
別府永久劇場では混浴温泉世界開催中、毎週スペシャルゲストが来ていました。 3回?くらいは見に行ったかな。 ここでわたしはおそろしいダンスを見ることになりました。
〜これを見れただけで別府に来た甲斐があった〜
元ストリップ劇場、そこに集まる者はみんなエンターテイメントを求めているのでした。 どうやらそれは理屈じゃありません。 みんな現実から離れて、余興を楽しみたいのです。 この劇場はそんな場所でした。
ところが黒田育世さんや北村成美さんはそんな空気をぶちのめします
この二人は日本コンテンポラリーダンス界の草分けのようなパイオニアです。 北村さんとは面識ありますが、黒田さん本物を見るのは初めて。 その力は圧倒的でした 特に黒田さんのダンスは大変興味深いものでした。 エンターテイメントが求められる劇場で踊るのはまったくお客に媚びないダンス。 カラダを殴りつけ痛めつけたり、叫んだり。 相手は観光客ですよ?? おおよそ、見て気分がよくなるものではない種類です。 観光客に痛ましいダンスを見てもらえるには“目を離せなく”しなければなりません。 唸りましたね…
全身のカラダの張り、緊張感からくるリアル
苦しくておぞましいもの。 そのダンスからはまったく希望を見出せません すごかった、最後までそんな感じでした ただ、わたしが感じたのはこのダンスが“暴力的だ”というものです わからない人をわからせる、力で捩じ伏せるダンスだと感じました これこそがプロの力だと言えます すべてを壊してでも踊るという意志 その力は本当に強大でした だけど、だけどどうしても納得できない、したくなかった
わたしたちが生きているということは、一方通行じゃあないはずだ
見せ方、ダンスのあり方としてはまったく理解できます。 すべては良し悪しじゃないこともわかっています。 だけどどうしても怒り、激情がわいてくるのです。 今から考えるとそれは個人的な葛藤からきていたのかもしれません。
自分も同じくらい踊れるのか、という不安 あらゆるものを敵にまわしても踊りたいのか、という意志 見てもらいたいものはダンスだという観点
この元ストリップ劇場であんなダンスが踊れること自体に驚いたのです (ここで言う“ダンス”の性質は技術的な踊りとはまったく異なります) 会場は静まりかえりました あれだけ集中力を強いられるのは何かを全力で伝えようとする意識からだと思います 宣伝では楽しく踊っている写真が載せられていたのでそのように考えていました、が どうやらそうならなかったのは黒田さんが東北に行ってからではないか?、 と終演後、芸術祭運営関係者の知人から聞きました。 ウソか本当かはわかりませんが、聞く限りまったく納得がいきます。 最後まで希望を踊らなかった理由 希望は見つかりませんでしたがそのカラダからは生きる強さを感じるのです どんなに打ちのめされてもカラダには生きようとする力があるように見えた 強さがカラダに内在しているように見えたのです
わたしだったら最後は踊りを変えます 最後まで一貫して絶望を踊りたくない
あのダンスを踊りきるには相当の覚悟がないとできないのではないかと思います もし事象を踊っていたとするなら一方通行こそがリアルだからです
〜病状は深刻です。 まだまだ別府滞在中のお話w〜
滞在中、“金粉ショー”を初めて見ました!! それも元ストリップ劇場でw 80年代は温泉旅館やキャバレー、ストリップ劇場にダンサーはいたらしい。 舞台活動だけではなく、生計をたてるために稼いでいたのである。 現在、「A級別府劇場」だった名前は「永久別府劇場」に改名。 舞台は縦長、客席の中心に円形の舞台が突出しています。 そして、その円形は時計回りに自転するのでしたw
こんなの初めてだ
ここで踊るなんてことになればあらゆる角度から見られることになります。 どうお客さんと向き合うかが問われることになる。 これはフィジカルだけでは肯定できません、頭脳が必要です。 つまり、ストリップな人たちは見られることに対して相当頭を使っていたはず。 どう魅せるか、がそのまま稼ぎになっていたはずだからです。
一般常識から来るこういう場所だからこそ付きまとうある種の“いやらしさ” しかし金粉ショーはすごかった 照明効果を受け、パフォーマンスは驚くほど崇高なところへいきました ぜんぜんいやらしくないよ―
完全に偏見を覆されましたねw もう首下全身金色ボディーが目の前にいるだけですごいのだ 金色なだけで別世界が現出!!
あきらかにこの世じゃなかった
うっとりしそうになる瞬間、葛藤とともに現実へ引き返しました。 その葛藤は“ある意味で、立ってるだけでお金がもらえる”事実です。 もちろん金色に塗るだけではダメですよね。 引き締まった身体、引き締まったおしりは不可欠なんです。
“丸見え”ですからね
わたしたちが汗流して挑むところを汗一滴かかずに終われる。 飛んだり回ったり床を這ったりしなくていいのだ 夢のようですw
生身でその域にいくことは究極のダンスです
照明効果もなく、生身で立っているだけなのに押し寄せてくる景色。 そんなダンスを見たことありますか?? いつか、いつかそんなダンスが踊りたい そのためにはそんな生き方をしなければなりません これが、ダンサーという職業が素晴らしいその理由です。
さて、あとから聞いた話じゃ身体を塗ることで皮膚呼吸ができなくなるとのこと。 「20分が限度」とか聞きました! これはもう塗ってみなけりゃわからないw ほんとうにそうならたいへんなお仕事です!! だって呼吸できなくなったら過呼吸間違いなしだよ!! 前言撤回だよ!!
パフォーマンスが終わると写真撮影会が執り行われました。 みんな激写してるのを見ると複雑な気持ちになりましたね。 最後には金粉女拓(にょたく)を採る人までいます! どこまで好きなの!? さすがについていけませんでしたね ついていきたくもありませんでしたね
ひとつわかったのは、身体に何かを塗ることで、 踊る人の精神や、それを見る観客の気持ちも変わるのかもしれないということ 舞台ってほんとうに面白い!!
| 2012年12月04日(火) |
別府タワー 僕だけの秘密 |
〜風邪の病状悪化に伴い、別府滞在中の出来事や気付きをblog化分割公開中〜
◎別府タワー◎ リハーサルが終わって、ひとりで別府タワーに赴いたときのこと。 もう宿泊場所も三つめ、その近くにタワーあったw 展望台に着くとお姉さんがひとり鎮座してました。 展望台で思ったこと
低ッッッ
その高さは90m、現代高層マンションの方が明らかに高いぞーーーッ しかし夜景は綺麗でした。 しかしお客はわたし一人なのでした。。 〜完全な貸切状態です〜 お姉さんの死角に入ったとき、わたしは勤務態度をこっそりチェックしてみましたw するとそこには想像をはるかに超える衝撃の実態がッッッ!!!
お姉さんはクロスワードパズル誌を解きだしました 驚いたのはそのスピード 設問を解くその速さは神速の域です!!! 瞬く間にめくられていくページたち!! そ、そんなバカな…
あ…ありえんわ。。 人間ってそんなスピードでクロスワード解けるの―!? 目をいくらこすっても事実は変わりません。 思わずお姉さんに駆け寄ってこんな質問をしてしまいました(超実話
「一日に何冊終わるんですか???」
まるで鶴が機織してるのを見てしまった気分です!!! おかげさまで一瞬で仲良しになれましたw
これが秘密を共有する力です
さて、そんな展望台には興味深いお土産が大量に売られていました。 ありがちな[かぼすキティーちゃん]をはじめとしたキーホルダー群に見つけたのは…
【かぼすミッフィー】
それは、かぼすとミッフィーのありえないコラボレーション!! 〜レアだ、これはレアだよ〜 オランダ生まれのミッフィーが、かぼす、かぼすですよ?? かぼすを悪くいうつもりはありませんがこれはもう盛大なミスマッチです☆ 即購入w でもその先には更に不可解なコラボレーションがッ!!
【かぼすスパイダーマン】
だっ、誰が買うの?! 意味わからん!!! ついに出ました「意味わからん」、それは伝説の罵り文句ですw アメリカンヒーローとかぼすですよ? かぼすとアメリカンヒーローですよ?? ええええええええええっ???
わたしは悩みました、とても悩んだんです
まるで『AKIRA』の激しく苦しむ鉄雄みたいだったとおもいます。「か、金田ァ…」 そして見出しました。 そうだ、別府は京都の次に外国人観光客の街!! 納得できるな、これはw 最後は地元の人もまるで知らない大分限定キャラクター【カボスモェ〜】ストラップ☆
なんの迷いもなく即買いですw
それは…カボスちゃん?がメイド服着てるという想像を絶するキャラクターでした。 その可愛さは“くま●ん”をかるく凌いでいます☆ まずもって、別府の人間が誰一人として知らないっていうのがイイね!! 大分限定超えてどこまで“限定”してるんでしょうか― 今ではk野先輩とすずねちゃんのストラップとして大活躍しているはずです。 しっかし見れば見るほどレア物でしたね、是非たいせつにしてほしいものですw
わたしが登ったタワー展望台には必ず“ある物”が供えてありました。 それは“神社”。 別府タワーにも例にもれず“別府タワー神社”がありました! そしてその隣には大抵[開運おみくじ]が売られているのですw 京都タワーにもたわわちゃんたわみくじがあったし、札幌テレビ塔にもあったよね。 別府には更にもうひとつ“恋みくじ”が!! 〜これは予想以上です〜 もちろん引いてみましたよ、恋みくじ!
テンションが下がったときに開封することにした
しかしそのときはすぐさまおとずれますw そして、その最初の一文に期待は一瞬で打ち砕かれました。
“二人で初詣に行った甲斐あって”
2012年初詣行ってないよ!! 〜終了〜 いきなり二人を前提としたおみくじなんて初めてだ こんにゃろw
売られてた別府タワー土産を最後にもう一つだけ紹介したいとおもいます☆ それは…
【東京スカイツリー クリスタルイルミネーションペン】
ていうか、東京スカイツリーって何?? ここ別府なんですけど― 同じタワーでも634mと90mじゃその差は7倍ですよ!? 時間間隔でイルミネーションの色が変化するって何!? 別府タワーの点滅灯は“アサヒスーパードライ”“アサヒビール”だよ― そんな東京スカイツリー イルミネーションペンは、大分限定かぼすのお風呂(天然カボスオイル配合)とか薬用入浴剤 別府温泉気分とかと同じ棚に置いてあるんですよ!?
それは、景色を超えた絶景です
まさか別府タワーがこんなに面白いなんて思いもしませんでした☆ 別府タワー、そこは未知なる世界です
あなたも是非クロスワードが解かれていくさまをこっそり覗いてみてください 腰が抜けますよ
| 2012年12月03日(月) |
パンの選び方が人生を変える |
しばらく外出できない療養生活がつづきます。。 別府滞在中での出来事や気付きを一挙公開blog化してみようw
一挙に後悔しようと思いましたが、やはり無理でしたので分割します
◎友永パン屋◎ 創業大正五年!! 別府の超有名パン屋さん。 まずはレーズン、バターロール、メロンパンを購入。 うまい、うますぎる
かなり通いました 全種類たべました 思い残すことなし
時間がたっても美味しいパンってあるんだね!! 知らなかったよ― 繁華街にある店じゃないのにひっきりなしに人が混み合う店内!! ガンガン売れていくパンたち!! かるく異常だと思いますw
おいしいんだから当然の結果でしょう
さて、k野さんは過去大分在住、その温泉経験からの楽しみ方が果てしない大先輩です。 そんなひとに友永パンについて最初の報告をしたときのこと。 以下、返事をミスると体育館裏が確定されてしまうk野大先輩より(一事が万事です)
「ところで餡パンは食べたかね?」 「ここの餡パンを食べて餡パンに対する固定概念が根底から変わったのだよ」
今だから言えること。 そのとき餡パンまだ食べてなかった!!(爆 実はわたし自身が餡パンを好んで買うタイプの人間じゃなかったのだw k野さんの粛清を避けるため、即座に二種類のアンパンを購入www
「って…あんぱんうまああぁあぁあああッッッーーー」
たちまちおとずれる幸せでした 固定概念が根底から崩れ落ちた瞬間ですw さぁ復唱してください 「選ぶのは、あんぱんから」 数あるパンの中で何故アンパンマンが最強のヒーローなのか考えたことありますか? カレーパンマンが吐きかけるカレーをきたないと思ったことありませんか??
答えはあなた自身が見つけるものです
是非あなたも根底から人生を歪めてみてください!!
| 2012年12月02日(日) |
「Void the Fill」 二日目 |
その朝、わたしは起き上がれませんでした。 体中の力が入らないんです 毎日風邪対策はしてきたはずでした。 毎日温泉生活をenjoyしてきたんです!! まさか本番に風邪ひくなんざダンサーとして最悪の醜態。 っていうか本番は今日もあるんだよ!! 現状を嘆いてもしかたありません。 「今」はできることをするときです
本番ギリギリのギリギリまで寝た
みんなになんと言われようとすべては本番のため 自分の名前がある以上、その責務だけは絶対に果たしたい 〜なんのために別府まできたのか〜 会場へ向かう途中、血眼で薬局を探しました。 でも今日は日曜日、薬局とか開いてるの―?? もうふらふらでした。。 いつ倒れてもおかしくない感じだったとおもいます 薬局、薬局… あ、開いてる!開いてる!開いてたよ!! 商店街の入口に薬局を見つけました!! 入店。 声はガラガラ、ゾンビみたいな足取りで一言いいました
「一番効くやつ…下さい」
薬局のおじさん「きみ、銀天街で踊るひとでしょ?」 なぜかピンポイントで当たってました。
「練習してるの見てたよ、今日も本番じゃないの?」
そうか、なるほど納得です。
「まずは体温測りなさい」
38.5度― なんてこった!!!
立っていられなかったわたしは椅子を用意されて自分の体温に絶望しました 薬局のおじさんは顆粒風邪薬を売ってくれました。 その上で「飲む前にうどん食べてきなさい」と近所のうどん屋へ行かされます。
そして、なんと売り物の箱を破っていろんな薬をくれたのです
生姜湯をはじめ、いろんなサポート薬、一杯のかけうどんですよ!! 驚きました ここまでしてくれる薬局にこれまでの人生で入ったことがない 人、人ですね。 わたしは黙って従いました
その甲斐あってか本番はなんなくこなせたのです
わたしは軍服を着た男の役でした。 オープニングでは娼婦と一緒に出てくるところから始まります。 楠銀天街では事実そういった時代を刻んできた場所だそうです。 そんな時代へのオマージュのような役でした。 この作品でわたしに許された自由はオープニングだけでした。 たぶん娼婦役の女の子がいなければ自由気ままに踊りまくっていたはずです。 しかし二人でいる以上、“二人”を成立させなければなりません。 娼婦役の女の子にはかなりかわいい女の子があてがわれていましたが、 踊る場がほとんど与えられていなかったわたしには苦痛でした 自由にはいかないのが二人だからです 女の子にまったく悪気はありません、これはあくまでも個人的な事情です
もっと踊りにしたかった
さてその薬局は日曜にもかかわらず、11時から深夜2時まで開いているのでしたw これが、これが別府です。 ◎夜の街の特性でしょう◎ そのおかげでわたしはたすかったと言えます。 本番を終えて、お礼を述べに薬局へ行きました。 入店。
「まずは体温測りなさい」
38.8度― なんてこった!!!
おもいきり悪化してる― おそらくは本番を終えて一気に気が抜けたからでしょう。。 ちょっと考えれば当然の事態ですw またもいろいろくれる薬局のおじさん!! ◎いくら感謝してもたりません◎
ありがとう薬局のおじさん! 今度は病気じゃないときに来るよ
この日は別府現代芸術フェスティバル最終日。 わたしたちが出演した「Void the Fill」は、フェスティバル最後を飾る公演でした。 そういうわけで全体の盛大な祝賀会と打ち上げが深夜までおこなわれる予定でした。 公演後、東野さんに風邪と発熱の件を伝えてわたしは別府を去りました。 なによりもカラダで生きるダンサーに伝染したくない。 宿を引き払ってひとり電車にのりました。
正直、その後どうやって帰ったかおぼえていません
まわりのダンサーと歓びをわかちあえなかったことは本当に残念でした そして自分がVoid the Fillでどういった役割だったか、その結果を知りたかった
舞台とは“誰一人欠けても成立しない”ものだからです
舞台上では誰にも頼らない自分が必要です そして頼れるのは舞台上にいる人と共有していること
これはそのままわたしたちが生きている世界に相当します
利用するされる世界ではなく、生きることにただただ正直でいること 人と一緒に生きていることを共有すること
わたしは東野さんの作品の中で生きること、生き抜くことを考えてきました それは東野さんに従うことではありません あらがうことです それが作品をよりいきいきとするものだと信じています
後日、打ち上げにいった同胞からひとこと聞けましたw 「タイスケさん いろいろ言われてましたよ!」
「軍人チックなイケメンダンサー打ち上げに来てないですよね!?」 「あの人しか見てなかったよ〜」
冗談でも誰かの印象に残ったことはほんとうに嬉しいものです 出演できてよかった、そうおもえる確かなもの できることなら外見や容姿ではなく踊りをいわれたい
あの人、ではなくあの人の踊り、にしたい
2013年の目標ができました! 永遠のテーマのひとつですね
| 2012年12月01日(土) |
「Void the Fill」 初日 |
別府現代芸術フェスティバル2012『混浴温泉世界』 会期:2012年10月6日〜12月2日 会場:大分県別府市内各所
Dance Performance “Void the Fill” 振付/演出:東野祥子
Voiding The Fill... 埋め尽くされた世界の解体が始まる。 Endscaping... 混沌は空虚に帰し、現実的でなくなっていく。 Dead Machines... 壊れても壊れても、まだ動いているその機械。 Blue Skies and Black Waters... 空は青く、水は黒かった。 Nothing for Nothing... 惑星の到来と虚無。 Burials... 埋葬。 Horizon... 進化の終点に生きる。
2012.12/1(土)18:00開演 12/2(日)17:00開演 会場:楠銀天街
照明・映像効果により、楠銀天街はとんでもない様相を帯びました。 商店街アーケードがまるで『まど☆マギ』魔女空間です!! っていうかリアル魔女空間だろこれッッッ!!
衝撃的舞台空間の現出でした
もうまったくの異空間です、異空間でした! 照明に輝く二ヶ月間つくられてきた廃材から生まれた巨大モニュメント群! 戦後、別府で一番華やかだった楠銀天街には多くの店が立ち並び、 賑やかな音楽と笑い声が溢れていた。 しかし、時代の移り変わりと共にかげりが見えるようになっていったという。
廃材を使いたい
混浴温泉世界旅ガイドには東野さんのコメントが記載されています。 会期中、廃材などを使うことで楠銀天街劇場として再生させたかった。 3.11後の意識の中で、廃材を使いたいという想いがあった。 チューブとか、ペットボトルとか、 物自体は珍しくなくても廃棄されたということに意味がある。 Yoko Higashino
実際わたしが初見したときは“怪しい”“異様”など、おどろおどろしさが突出。 以前のblogでも小学生が「怖いよ」といったのもここで踊ればきっとそう見える。 しかし照明・映像が加わった今、それはまた違うところへシフトした―
おぞましくも美しい、混沌だとおもった
正直、自分が出演するよりも“見たい”気持ちが完全に勝ったほどです。 このような舞台は、まず踊れる機会もなければ見れる機会もない。 わたしは長い間局所でこの芸術祭に、別府に関わってきました。 商店街で踊るなんてことは以前のproject人たちの相当な努力によるものです。 そんな場所でわたしはこれまで踊ってきました。 だからこそわかる。
こんな舞台は“見たことがない”
屋外です、人が住んでいる、生活しているんです。 芸術祭として文化庁の支援を得ていたって苦情はくるんです。 しかし爆音は鳴り続けます、本番中は完全な治外法権ですw 12月。 海に面する別府市内には強烈な風が吹いていました。 初日、ジョーさんと美佐子アニキが見に来てくれました!
歩いたり担いだり、わたしは立ち姿にすべてを懸けましたw
お客さんはさぞや寒かったでしょう。 わたしたち以上に寒さを感じたはずです わたしは汗一つ流れないダンス作品に出演したのははじめてでした 踊ることによる疲れがまったくなかったのです しかし人前に立つことはすべてが問われるものです 個人的な思いはあれど、その作品は凄い領域に達したようです ある意味でダンスを超えていた 見ていた人の声がそれを証明しました。
ダンスというよりもすべてに対する感想だったからです
ジョーさんの感想もまた全然イイ感じでしたw 「ワルプルギスの夜」 「焚き火にあたる」 「暖かい」 「コンテンポラリーやけん意味考えちゃいかんっちゃろ??」 初日公演後、無情にもわたしの声が変容を遂げていきます。。
ま、まさか… 風邪!?
ジョーさんと食事に行って梅園温泉にも行って… 「お前、完全に声変わったな…しょうがない、これ飲んどけ」 ラスト痛み止めくれました。 コンビニで栄養剤と飲みました。 どうなる明日―!? あーしーたーはーーー この劇的な感じはまるで某痛ミュージカルです!! なんてこった―
つづく
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