晴れも褻も 〜ハレもケも、と読みます。私らしいかなと。

2009年04月24日(金) 風に舞い上がるビニールシート

表題作以外は、あたたかくてやわらかくて
小さな出来事を丁寧に丁寧に描写していてとても好きだ。
けど、表題作を読み始めて、
ちょうど電車が大手町に着いたところで本を閉じて、
・・そして、そのままその先は読みたくない、と感じている。

まだトラウマなのか、と思う
いまだに涙が出そうになって怖いとか、どこの子供だ、ほんとに
たぶん、だけど、なんとなく恐れているのは、
その短編を読み終わったときに救われたように感じることなんじゃないかと
そんなぬるい感覚じゃないんだ、みたいな
なんだろう、変なプライドになってしまったのかな
あんたなんかに分かるわけ無いって相変わらずどこかで思ってしまっている
なんなんだ、これ。

腫れ物なのは、そのまんなかにあるものじゃなくて、
そのまわりにこびりついてしまった余計なもの
そういうことを感じるのが嫌だ。
里佳の描写を読みながら泣きそうになる、そんな自分に安心したりもする
救急車のサイレンを聞くと思い出す出来事が重なってくる
どっちに転んでも悔しい思いをしそうで、
続きを読もうか、読むまいか悩む。










・・・逃げちゃえ、というわけで、逃げちゃうことにした


2009年04月10日(金) -

[http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20090410:title]
はてぶはしたくなかった。
(その理由は感覚的なものでうまく表せない。
 自分のブックマークに素直に受け入れられなかったものが入るのが
 いやだったからだと思う)
はてなにID持ってるからはてなダイアリーで書いてもいいし
増田に書いてもいいけど、それもなんとなく「違う」と思った。
どこに書くか迷った末にここで書くことにした。

悼むことと社会的殺人者になることを共有することは同義じゃない。
すくなくとも、故人から一歩はなれたところにいる人間にとっては。
どんなに故人を好きだと思っていても、
社会的に認められた縁者でなければ、故人に会う機会はもう与えられない
葬式がなければ。

死んだ人のためではなく、遺族のためでもないのであれば、
お葬式はかなりボランティアの要素を含むかもしれない。
しかし、その場で、亡くなった人に会うということで
亡くなった人が友人に見える(まみえる)ということで
互いに、(会えないよりは絶対に)嬉しい、のではないかと思う。

非常に中途半端な立ち位置だったということが
良くもあり、つらくもあり、良いということが悲しくもあり

*
この文章には反発して思わず書き散らしてしまったが
奥様を亡くされた筆者の方には申し上げる言葉もない。


***南の島の写真をアップしました。→こちら***
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