まろやかな日々
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2004年12月26日(日) 浮上

昨晩は、眠れなかった。

思い出す度、苦しくて
涙があふれて、どうにもならなかった。

彼が慰めてくれても
気を紛らせてくれても
一時的に気が逸れるだけでしかなかった。

すぐに自分を責めてしまう。

あの日、罪を犯さなければ
あの生命を守れていたならば
ピルを使っていなければ
ピルを止めてからも、病院通いを止めていなければ・・・。

さらに、これからの不安もある。

今まで行っていた病院で、もう一度診てもらうと決めたものの
きちんと相談に乗ってもらえるかということも、心配だった。
彼は、大丈夫と言ってくれるけれど。
今度こそ、付いていると言ってくれたけれど。

朝、診療時間の1時間半前に家を出て病院に向かった。
それでも、17番目の診療。

こんなに混んでるなんて・・・。
昨日のようになるのではないかと、不安が過る。

そして、診療開始から1時間半後に名前を呼ばれた。
彼と一緒に診察室に入った。

昨日のことを、子宮のエコー写真や
もらった資料を見せながら話す。
次々と不安な気持ちや恐怖感が蘇ってきて、涙が出てきてしまった。
それでも、どうしても伝えたくて
解って欲しくて、泣きながら訴えた。

昨日
医師が言っていることが、全然解らなかったこと。
よく解らないまま、検査を受けたら
筋腫が不妊の原因の可能性が高く、手術をほのめかされたこと。
そのことの説明もロクになかったこと。
今後の検査のことも、紙を渡されただけで説明がなかったこと。
不安や恐怖でやり切れなくて、ここに相談に来たこと。

センセイは、まず
「急に手術のことや、たくさんの検査のことを言われたら混乱するよね」
と言った後、説明してくれた。
私が安心するよう、解りやすい言葉で。

筋腫については、確かにちょっと大きくなっているけれど悪性じゃないし
8センチの大きさでも、そのままで妊娠して普通分娩で出産した人がいるから
すぐに手術が必要なものではない。
ただ、妊娠しづらいのは本当だし
妊娠中は流産の危険など、母親に負担がかかる。
手術は、開腹しなくても出来る場合がある。
薬で治療も出来るが、半年以上は妊娠できなくなってしまう。
昨日提示された検査は、不妊治療のための基本的なもの。
でも一度にするのではなくて、様子を見ながら行なった方がいいかもしれない。
まずは、基礎体温をつけること。
それから、思いつめないこと。

その言葉で、どんなに気持ちが軽くなっただろう。
ここでも検査は出来ると言われ、昨日の病院での検査予約はキャンセルしようと決めた。
彼も、またここに通おうと言ってくれた。
一緒に行くからって。

とりあえず、筋腫による影響を押さえるための漢方薬を処方してもらい
基礎体温をつけて、2週間後にまた診てもらうことになった。

「大丈夫だから。思いつめないで。ストレスを溜めないように」
センセイと看護士さんに繰り返し言われ、励まされた。
なんだか、元気をもらった気がした。

昨日は、辛くて悲しくて
このことは誰にも話せないと思っていた。
でも、夜の忘年会で友だちカップルに話すことが出来た。
前を向けた証拠。

コミュニケーション。
信頼して身体を全面的に任せる患者と
預かって最善の治療を施す医師の間には
一番大切なこと。
それが、改めてよく解った。

頑張ろう。
頑張ろう。
だって、彼の子どもが欲しいんだもん。

絶対、乗り越えるんだ。


あの頃私は。。。
2002年12月26日(木) ボーナス

2004年12月25日(土) 不妊

不安要素が、ないわけではなかった。

一度流産しているし、筋腫があることも知っている。
ピルも飲んでいた。
でも、大丈夫だと思っていた。
タイミングさえ合えば、妊娠しうる身体だと。

正午に予約した病院は、行ってみると30人近く待っていて
結局1時間以上待つことになってしまった。
不妊外来で来る患者の多さに驚いた。
ここにいる人たちのほとんどが、妊娠を望み治療を受けているだろうということに
少しだけ安心と親しみを感じた。

でも彼は、一緒にいてくれると言っていたものの
読めない待ち時間の長さに耐え切れず、出ていってしまった。
圧倒的に女性が多い空間は、やはり落ち着かなかったのかもしれない。
1人になった途端に、緊張してきた。
直後に名前を呼ばれた。
ケータイは持ってこなかった。
連絡できずに結局、1人で受診することになった。

センセイは、不妊治療では
それなりに実績のある人らしかった。
HPで見た限りでは、誠実でこざっぱりした男性という印象を持っていた。
でも、上ずった声で早口に用件だけ話す様子は
私が持っていたイメージとは、全く懸け離れていた。
しかも、何を言っているのか全然理解できない。
話は一瞬で終わり、検査の順番が来るまで外で待つように言われた。
私の不安はピークに達した。
涙を堪えるのに必死になった。

彼に連絡を取りたくて、公衆電話の場所を聞いたが
駅に行かないとないと言われた。
とても惨めな気持ちになった。

順番が来て、エコーと触診を受ける。
筋腫が、内側にはり出して5センチになっていると言われた。
「これが不妊の原因の可能性が大いにあるね。
 他に原因がなければ切った方がいいね」
あっさりと言うセンセイ。
私は、不安と恐怖でどうしていいか解らなくなった。
でも、頼れる人は誰もいない。

その後、さらに待った後
今後の話をされた。
「検査するのは、丸をつけたやつね。
 次の生理はいつ?・・・じゃあ、5日に予約を取って」
検査内容の用紙と基礎体温表を渡された。
5日って、平日?
こちらの都合も聞かずに。。。
でも、「次の時に全部の検査をするんですか?」と聞くのが精一杯だった。

これで、診察って言えるんだろうか。
不安と恐怖を募らせるだけだった。
話を聞いて納得のいく治療をするんじゃなかったの?
「不妊・筋腫・手術・・・」これらがグルグルと頭の中を回る。

お会計を済ませ、彼に連絡を取るために駅へ向かう。
もう、涙を我慢する必要はなかった。
彼を待って帰った。

私は欠陥商品だった。
これも罰なんだ。

彼の子どもを、抱けないかもしれない。
こんなに待っているのに。
みんなも、待ってくれているのに。

周りは次々と子どもが出来ている。
こんなんじゃ、喜べないよ。
嫌な人になってしまうよ。

帰ってから、ずっと泣いて
泣きつかれて眠って、起きてまた泣いた。

彼が、今までのところでもう一度診てもらおうと言った。
ちゃんと話を聞いてもらおうと。
私は、ちょっと迷った。
同じ検査をもう一度することに抵抗があった。
それに、また恐怖を味わうことになるかもしれない。
でも、今日の病院にはもう行きたくない。

思い出す度に苦しくて、助けてほしくて
明日、今までの病院に行くことに決めた。

諦めたくない。
今は、その一心だけ。



あの頃私は。。。
2002年12月25日(水) 大掃除
2004年12月23日(木) 残酷

職場で、1月にも異動があるそうで
私が10月までいた係が、またも被害にあったそうです。

4月に,丸8年勤務していた私の同期が。
11月に、丸7年と7ヶ月勤務の私。
それに加えて、1月に
丸4年と3ヶ月勤務の年輩の方が異動となるそうです。

同じ係で3人、相次いでの異動は
悲劇としか言い様がありません。
1年も経たないうちに、係の半分が入れ代わってしまったのです。
そのシゴトは、1月からの半年が殺人的に忙しいのに。
さらに、専門的な知識が必要となる上
年単位のシゴトなので、全てが新規になるのです。

私が7年目を迎えた春、新規採用の男の子が入ってきました。
同期もまだ異動していなかった時で
でも、私も同期もいつ異動してもおかしくない状況だったので
そうなった時に困らないように、1年のうちにやる全てのシゴトを
1年で満遍なく教えることにしました。
そのコはとても優秀だったので、教えた大体のことを理解してくれました。
私の後に係に来た誰よりも、シゴトを把握するまでになりました。

今年の春、私は異動できなかったけれど
そのコと一緒に、安定したシゴトができるはずでした。
ところが、思わぬ内部異動で
そのコは係にいながら、別のシゴトを担当することになりました。
新しく来た後輩に、また最初から教えなければならない。
でも私にはもう、去年のような熱心さは残っていませんでした。
出来ることをやってもらえばいい。
そんな淡白さで指導していました。

そこで、度重なる異動です。
私がいなくなったことで、シゴトが一番見えているのは
そのコだけになりました。
でも、彼の担当は違うのです。
なのに、係のシゴトも背負わなければならない。
他に、解る人がいないから。

1月の異動の知らせを持ってきてくれたのは、リーダーでした。
「お前がシゴトをやり過ぎたからいけないんだ」と言われました。
でも、だったらどうすればよかったのでしょう。
出来る人は誰もいなかったのに。

残されたそのコからもメールが来ました。
「もうギブアップです」
その言葉が痛々しくて、やり切れない。
係内で一番下のそのコが、背負うものは大きすぎる。
私が見せてしまったんだろうか。
知らない方が、苦しまなかったんだろうか。

私が助けに行くことを、みんなが受け入れてくれるだろうか。
冷たい、課の中で。
かえって、やり難くなったりしないだろうか。
私は、どうすればいいんだろう。

あまりにも、残酷すぎます。


あの頃私は。。。
2002年12月23日(月) 年賀状
2004年12月18日(土) お祝い

今日は、毎月集まるメンバーと
鍋パーティーでした。

双児を妊娠した夫妻と
地元の友だちカップルと、私たち。

友だちカップルは、双児妊娠のニュースを知りませんでした。
何度も連絡しているクセに
直接聞いた方がいいからって、私が言わないでいたので。
でも、期待通り
そのビックリニュースで、2人はかなりのハイテンションになって
鍋パーティー兼お祝いパーティーは、とても楽しいものになりました。

途中、最後の1人を駅まで迎えに行くのに
双児妊娠夫妻と私の3人が留守番することになって
その間に、思っていることを素直に言うことが出来ました。

うらやましいって。

誤魔化さないで言えたことに、正直ホッとしました。
うれしい気持ちだけじゃなかったから。
それと同じくらい、大きな気持ちだったから。
妊娠するまでの苦労を知っていても。
言えたことで、先日よりももっともっと喜ぶことが出来たと思います。

彼女は、いろいろ考えた結果
シゴトを辞めることにしたそうです。
それは、とても寂しいけれど
苦渋の選択だったんだろうな。
これからのこと、本当にココロから応援しています。

そして。
後に続くぞぉ☆って思った。
今からでも、同じ学年に間に合うし。
子育ても、協力しあえそうだもんね。

そのためにも
25日、頑張らなくちゃ。




あの頃私は。。。
2002年12月18日(水) この日から始まった
2004年12月13日(月) 悦堂先生

10月以降、ずっとご無沙汰だった習字教室に
久しぶりに行きました。

センセイは優しく迎えてくれました。
でも、新しい本も来ていました。
その本を見たら、表紙に「悦堂追悼号」とあって。。。

悦堂先生が亡くなられていました。
10月の終わりに。
以前から、よくないとは聞いていたけれど
思いもかけないことで、とてもショックでした。

悦堂先生は、私が所属している書道会を立ち上げた人です。
私が習字を始めた時にはもう、会は50周年を迎えていて
支部もいっぱい出来ていて、悦堂先生は雲の上の存在でした。
だから、悦堂先生と話したことは殆どないし
悦堂先生も、私のコトなど全く知らなかったと思います。

でも、忘れられないことがあります。
私が所属する支部で毎年書道展を行なっているのですが
開催期間中、台風が上陸しているにもかかわらず
遠方からはるばる見に来てくださったのです。
その時に「約束したからね」って笑ったのが、とても印象的で。
熱心に見てくれたのが、とてもうれしかった。

風貌が、ちょっとおじいちゃんに似ていた悦堂先生。
86年の生涯。
いろいろなことがあったんだろうな。
ココロから、お悔やみ申し上げます。

高野切を基にした、のびやかで美しいお手。
独特の作風が、大好きでした。
ずっと忘れません。
ありがとうございました。




あの頃私は。。。
2004年12月06日(月) 挑戦

結局、夢は叶わなかった。

悲しいというよりも、諦めにも似た感情が沸きあがった。

そんな中、3日に参加した忘年会で
お世話になっている男の人から、不妊治療をしていたという話を聞いた。
なんだか、背中を押してもらった気がして
病院に行ってみようって決心がついた。

以前から気になっていた婦人科に電話してみることにした。
不妊治療に力を入れていて、家からも近い。
でも、前回のこともある。。。
不安な気持ちも大きい。

でも、ここままじゃ前に進めない。

えいっと気合いを入れて電話をした。
彼が後ろで、運動会でするように応援してくれていた。
ちょっと照れくさかったけれど、うれしかった。

電話に出た看護士さんは、感じのいい人で
希望が見えた気がした。
まだ、スタートラインに立ったばかり。
どうなるか解らないけれど
彼と一緒に頑張ろう。

ずっと、側にいてください。


あの頃私は。。。

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