長い長い螺旋階段を何時までも何処までも上り続ける
一瞬の眩暈が光を拡散させて、現実を拡散させて、其れから?

私は、ただ綴るだけ。
音符の無い五線譜は、之から奏でられるかも知れない旋律か、薄れた記憶の律動か。








2004年12月31日(金)

 一年を振り返ってみても「忙しかった」の一言に尽きるので、辞める。


 皆様、良い御正月を。一年間御疲れ様でした。



2004年12月30日(木)

 痛みを、吐露する場所は決めている。物理的な痛みも、心理的な痛みも。
 自分自身に対する枷は必要だ、何時だって。


 昨日から兄が帰宅している。其れ故の、何処と無く非日常。例年通り、多忙を極めていた日常から急に休みに入って気が抜ける所為だとは思うのだけれど、微熱と偏頭痛が続く。病院に行けば原因不明で血液検査の結果異常無し、という私にとっては既にパターン化された診察が待っているだけなので、病院には行かない。少なくとも自分の意思では。加えて私は基本的には薬嫌いだ。鎮痛剤だけは、欠かせないが。更に言えば、何処かで私の偏ったプライドが許さない。そうして通院するだけ時間の無駄だと、最終的には結論付ける。――日がな一日、蒲団に包まって過ごしたい。またそうした時間が年に一度くらいあったって、良いじゃないか。絶対不可能だと知っているからこそ、願ってみたくなる。祈ってみたくなる。神に。神に? 否、多分、違う。
 慌しくて、何かを記憶しておこうと朧に考えてはいるのに、其の瞬間から忘却は始まっている。一つ、二つ。そうして膨大な量の記憶を忘却して、暫く経過した後に既視感として、蘇る。断片的な記憶。思い出、ではない。もっと、パズルのピィスのような。其れは決して一つの絵として完成する事は無くて、ずっと、永遠に、ピィスはピィスの侭。何時しかピィスは断片として一つの山を形成し、其れを整理する事が出来なくなった時、意図的に処理される。処理する。忘却などという曖昧なものではなく、完全に記憶から排除する。此の意図というものが意識的なのか無意識的なのかは、然程問題ではない。少なくとも、恐らくは自分の為になると考えて為している行為であろうから。



 ところで。こんな年の瀬の多忙な時期に可也本気で退部を考えている。否、以前から考えてはいたのだけれど。其れこそもっと本格的に、考えている。日常の忙しさは、今までよりは解消されるだろうけれど。其れに伴って時間を確保する事は出来るだろうけれど。何かを書くことは、未だ続けたい。小説でも、詩でも、兎に角作品として作り上げる事は、辞めたくない。只、一つの思考として、――疲れている。



2004年12月27日(月)

 一言だけ書かせて。

 すっかり枯れたと思い込んでいた悩みの種が一つ、芽を吹いた。
 …………某友人の元彼J.T.
 二年よ! 二年間音沙汰無かったからもう無関係だと思っていたのに! アメリカでも何処でも勝手に行っていれば良いじゃないの、今更メェル寄越すな!


 ――乱文失礼。



2004年12月26日(日)

 部屋の片付けが捗らない一方、レポートの資料纏めに着手する。……後者も決して捗ってはいない。ただ何と無く、何かをしていないと不安になるだけ。落ち着かないだけ。或いは眠っている時にだけ、幸福を感じるだけ。
 資料を読みながら当該部分に付箋を貼り付ける。或いはネット資源の場合はコピーする。精々其のくらいしか、出来ない。今は。

 忙しかった此の一年を振り返る事も無くて、明日を夢見る事も無くて、スケジュールだけを只管、時計の針を見詰めながら、確認する。分刻みのスケジュールが自分を支配する日が来ようとは、思いもしなかったけれど、現実は確りと、長針の角度と共に過ごす日々。其処にある刹那さと、或る種の心地良さを、感じながら頑なに過ぎた一年だっただろうとは思う。或いはそう思わなければ救われないような、虚しさ。
 未だ五日ある、今年は。更に言えば新しい一年の始まりは四月なわけで、少なくとも期末試験を終えなければ学生としては何一つ「終わった」とも「始まる」とも言えない。
 来年は、今年より少しは、暇と呼べるような時間があれば良いと願うだけ。


 自分がどれ程怠惰であるかは私が一番良く理解しているから、そういう事に関して此処に書くのは多分間違っているし、私自身が認めていない。他者とは異なる微妙な感覚は誰しもが持っているものだろうと思う。此処には何度も書いてきたように、私は其れを敢えて誰かに理解して貰おうとは思わないし、理解して欲しいとも願っていない。吉増氏の言葉を借りれば「たった一人制」であるわけで、躍起になって恋人探しに勤しむ周囲の人々を見て彼らを理解出来ない私は、矢張り現時点で他者を必要とはしていない。同時に以前ほど強く在りたいと願うことは少なくなった。強くなりたくなくなったのでも、強くなってしまったのでも、ない。現状に満足しているのでもない。デカルトの言葉を中学高校の頃に比べて意識しなくなった事と、其れ以上に自分自身が何処か縹渺としている事を、知っただけ。他者に認知される事だけが全てなのかそうではないのかと、考えるようになったとき、全てが如何でも良くなったことがある、ただ其れだけ。


 丁度一年前の今頃も聞いていたなあと思い起こしながら、ラヂオから流れるタンホイザーを今年も同じように聞いている。パソコンに向かいながら。去年も今年も、配役は知らない。



2004年12月24日(金)

 世間ではクリスマスイヴと言って騒いでいるらしい。国道は車の流れが悪いし、地下街は混雑しているし、地下鉄も乗車率100%超。一寸、迷惑。

 例年通り自宅で一人静かな聖夜を過ごそうとも思ったのだけれど、迷った挙句、結局行って来た。詩人吉増剛造氏のカルチャーライブ。言い換えれば朗読会。でも普通の朗読会じゃない。費用3000円(学生半額)で、中心部から少し離れた場所に位置する花器店の一角で、吉増先生(敢えて先生と呼ばせて貰う。……少なくとも私は氏の講義を受けたという意味も込めて)の他、学生とか院生とか卒業生とか、舞踏家の中村達哉さんとか、吉増先生と十年来の御付き合いの方々とか、様々に、プログラムも無く、セッション? 本当に、滅茶苦茶と言ってしまえば其れまで。面白いとか興味深いとか、言えなくもない。ただ、少なくとも、秩序は無い。
 途中で振舞われたシャンパン(一本3500円だったらしいのだけれど、其れが高いのか安いのか私には解らない)を先生と乾杯する為だけに少しだけ頂戴して、然しお酒を飲まない私には(飲めないのではないらしい、という事が判明したのはつい最近の事……)其れが美味しかったのかどうかすら解らなかった。皆は、美味しいと言っていたので、多分、美味しかったのだろう。
 結局二時間ほど居て、挨拶も其処其処に帰って来た。良いものを見た、若しくは良い経験をした。其れくらいには、思っている。其れ以上にならないのは、しないのは、あまり深入りしたくないからという事が一つと、抜け出せなくなりそうで怖いからというのが一つ。だって、独特だもの。吉増先生の交友関係。舞踏家の故・土方巽とか、写真家のアラーキーとか。……考えるだけでも恐ろしい。

 深入りするのは好くない。私にとっては。一線引かなければ、近く壊れてしまう、と、思う。
 本当は、きっと如何でも良いのよね。今日赴いたのだって、気紛れか昨夜の夢の所為かは知れないけれど、本当はきっと如何でも良かったのよ。或いは好奇心が少々、有ったにしても。学生でいる間に学生らしく、という或る種の気負いが有ったにしても。そんな事は、多分あまり関係無い。


 毎年毎年良い感じにWhite Christmasの北国。偶にはGreen Christmasも良いと思うのだけれど、此処数年はずっと白、若しくは銀とでも言うのかしら。
 ところで最近男性恐怖症が再発しているのよ。……年も暮なのに、厭だ。本当に、引き篭もりたいね。其れでも世間の波に流されて、書くべきことだけは書いておこうと思うのだけれど、こういうのって本当は如何なのだろう。宗教(意に反して主に仏教だったけれど)を一年学んだとはいえ、難しくて解らない。

 Happy Christmas to you....



2004年12月20日(月) 引き篭もりのすすめ

……昨日の日記、中途半端ね。



 今日から三日間は集中講義に出席している。講師は、詩人の吉増剛造氏。厚かましくも吉増氏の助手という"地位"に就いて、講義の御手伝いをさせて貰っている。と言ってもプリントの配布と出欠確認、それから"小冊子の作成"くらいなものなのだけれど。
 話は、やや冗長。然し其れが何だと言うの。大学教授の中には、と言うより寧ろ其の多くが、冗長なのだから。冗長ではあるけれど、氏の話は、興味深い。我が大学で集中講義を行うようになって十年近く経つそうだけれど、講義内容は変わらない。但し、毎年テェマが違うのだとか。今年は、「たった一人制」がテェマ。佐世保で起きた例の事件から、思い浮かんだのだとか。

 書名は忘れてしまったけれど、最近だと思う、引き篭もれ、みたいな本が出版されている。出版社も著者も、覚えていないけれど。つまり、現代人は「自分と向き合う時間」を奪われている、だから引き篭もる事は何も悪い事ではない、自分と大いに対話せよ、其の為に大いに引き篭もれ――というような内容、だったと思う。因みに私は未だ読んでいないのだけれど。
 成程、現代人は「自分と対話する時間」を確かに奪われているだろう。誰に、何に、奪われているかという事は此の際問題ではない。世間に、世界に、或いは自分自身に、奪われているのだろうと予測は出来るけれど。……話題にしたい事は、こんなことではなくて。つまり、一寸引き篭もりがちに、或いは引き篭もりがちになりたいと願っている時に、引き篭もって良いよと言われた時の、安堵と焦燥と虚脱と、そういう心情と言えるかどうかさえ判らない情の、満ちる感覚。
 引き篭もりの推奨なんて社会的には言語道断だろうし、私も敢えて此処で賛成するつもりは無い。ただ、何と無く脱力してしまったというだけの事。

 終わりが見えないという恐怖。読書は、後どれだけ頁が残っているのか直ぐに解るし、映画は、半日かかる作品なんて無い訳だし、時計を手放す事の出来ない私にとっては、終点が見えているという事は只管に大事だ。今日は、其れが裏切られた。土方巽という名を聞いて直ぐに思い当たる人は、相当芸術に造詣の深い人か、若しくは此の手の作風を少なからず愛好している人だと思う。つまり、三島由紀夫や澁澤龍彦を含めた作風が。土方巽は舞踏家で、暗黒舞踏なるものを構築した人物なのだけれど。其の、暗黒舞踏のヴィデオを、今日、見た。暗いというよりは黒い背景、つまり舞台上に、白い人影が、奇怪な動きを、する。奇怪と言っては失礼だろうけれど。兎に角眼に焼きついて離れない。延々と、暗幕に囲まれた講堂の中で上映されるヴィデオに、暗黒舞踏に、私は多分汚染されていた。感染、と言っても良い。
 北国というのは非常に特殊な土地であると時々思う――風土、と言うよりは、風と土と空と水と、そういうものが。或いは、海に閉じ込められた大地という意味も含めて。冬の寒さも暗さも、多分"本土"では解らないほどに。

 どうせ、人間は産み落とされる時も死ぬ時も、一人よ。一人きり。たった一人。



2004年12月19日(日)

 気が付いたら一週間以上のブランクを開けて、何か書かなければと思いながらディスプレイには向かうのだけれど、何かを書き上げるだけの気力は無く。レポートなんて以ての外。
 そうは言うものの、こうして日記だけは何とか書いているわけで、不思議で堪らないのだけれども。……何か、厭だ。

 最近、偶に、否、事在る毎頻繁にと言うべきか、切りたくなる。無性に。荒んでいるわけではない、断じて。そうではなくて。只、本当に、何かが重く感じるだけ。其れを如何する事も出来ないのは今に始まった事ではない、だから、結局最後には切りたくなって終わる。実際に其れを実行するか否かは、其の時の状況次第。家に居て、直ぐにでも実行出来る状況に在れば、そうするかも知れない。外に居て、直ぐに実行出来ない状況に在れば、そうせずに終わるかも知れないし、帰宅して思い出したように切るかも知れない。其れは、解らない。解るのは、如何してカッターを持ち歩いていないのだろうという、何処か悔しい気持ちだけ。
 嗚呼、久しく、こういう思いに駆られている。



2004年12月11日(土)

 例えば或る一つ一つの小さな事に恐怖する。
 後ろの席に坐った人の大きな声。
 向かいに立っている人の鋭い視線。
 身近な人のストーカー染みた行為。
 何処からとも無く漂う煙草の匂い。
 前触れ無く震え出す携帯電話。
 滑降する鴉。惚け顔の一匹鼠。崩れた本の山。
 坐っている私の横を颯爽と歩き去って行く人が起こす風でさえ、私にとっては完全なる恐怖の一つだ。

 気分が悪いといって無断欠席する友人に対し、三十八度あっても登校した私を慰めて欲しいのでも憐れんで欲しいのでもない。
 誰にも知られることが無いと理解しているからこそ、こういう場所に書き残したくなるだけ。
 私は自分自身の状態を他の誰よりも適正に理解していると信じているし、制御し、また甘えは許されないのだと知っている。

 愚かだとは思わないか?
 莫迦な惚気話を大声で暴露する隣人を。
 同じ行為を数え切れぬほど繰り返し誤る隣人を。
 自分の存在を誇張するかのように声を張り上げる隣人を。

 土曜日は不快だ。何も、したくない。



2004年12月07日(火)

 寒い。
 わさわさと雪が降って、次の日には何故かしらしとしとと雨が降って、路面は綿雪に覆われたりつるつると滑る氷になったり、大忙し。忙しいのは解るが、歩く此方の身にもなって欲しい。……先ず道幅が狭い。早く除雪して欲しい。バスに乗って、何時対向車とぶつかるだろうかと思わずにはいられない。バスの運転手さんの運転技術には、何時も驚かされる。……でもきっと何時かぶつけると思う、今日此の頃。

 寒いのは、物理的に冬に向けて気温が低くなっている事は勿論、其れだけではなくて、兎に角寒い。北国で生まれ育った私では在るけれど、寒さには滅法弱いものだから、某友人Tのように「気合!」の一言で御洒落出来る程頑丈な作りはされていない。着膨れしようが何をしようが厚着が基本、重ね着が基本。
 でもそうではなくて、兎に角寒い。
 背筋がざわざわとするような寒さ。其れは風邪とは少し違って、否、同じなのかも知れないけれど、肌の表面を冷気が蠢いているような、そんな感覚。夏だろうと冬だろうと関係無く、私はほぼ常にこういう状況下に居るのだから、寒さの所為だけではないのだろう。真夏であっても、暑さとは別に寒さは寒さで存在している。少なくとも、私の中では。

 地震。北国は、結構頻繁に、と言っても過言ではないほどには地震の多い地域だから、私の住む街では震度3くらいでは別段驚かないし、昨夜のように最大震度が5強でも、嗚呼津波が来なくて良かったね、くらいなもので。慣れとは非常に恐ろしい。何時かまた、そう遠くないうちに、大きな被害が出るかも知れないけれど。其れまでは、ずっと、多少の地震には落ち着き払った様子で対処するのだろう。


 授業が年内は残すところ後一週間程。集中講義とアルバイトを含めても、年内大学に行くのは23日が最後の予定。新年は8日にバイト、授業は11日から再開。
 宿題だけは何とか遣っているものの、其れ以外のものには未だ手を付けていない。レポートとか、レポートとか、レポートとか。早く終わらせた方が良いに決まっている、そんなことは理解しているけれども、意に反してモチベーションは上がってくれない。そういう自分に減滅して、絶望して、でも深い眠りに落ちる事も無く、冬の朝は早く、また辛い。清少納言は言ったでしょう、冬は早朝が素晴らしいと。確かに、晴れた冬の朝は、特に気温が低ければ低いほど、美しいということには賛成だ。しかし、其の美しさだって価値は失われつつあるのだろう。誰が、冬の朝を「をかし」と思うか。ただ寒いだけの、ただ眠いだけの、憂鬱な朝に過ぎない。其れを寂しいと思うか、当然と思うか、時代の流れは無情かも知れない。

 眠たくて眠りたいと望んでいるのに眠れない時ほど辛い時があるだろうか?
 そうして眠りたくないと望んでいる時に限って眠りに誘われるときほど虚しい時も無い。



2004年12月04日(土)

 初冬の、土曜日の、朝。
 体調不良というだけで遅刻や欠席が許される人を見ていると、多少、羨望もしたくなる一時。私にとっては、許される筈も無い事。遠くに居る兄ばかり気遣い近くに居る私を無視する親が傍に居るものだから、捻くれたくもなる。――十分捻くれているという意見もあるだろうけれど、日頃から友人宅に無断外泊するような先輩を見ていると矢張り私は其処まで捻くれていないとも、思う。というか寧ろそうであると信じたい。

 あらゆる事に現実味を感じないのは、時々ある事で、別に珍しいことではない。今回のカナダ留学だって、申込は済ませたけれどホームステイ先はまだ決まっていないわけだし、他大学のプログラムだから詳細情報も未だ知らされていないわけで、本当に二ヵ月後には「合法的な家出」を完了しているのかどうか、まるで解らない。日本を発つのも初めてだから、想像だに出来ない。
 晩秋から初冬に掛けては、其の季節柄かどうか知らないけれど、現実味の薄い季節のように感じる。自然界では冬眠に入る準備期間であるだろうし、夢の世界への入り口とかいうように考えれば、寧ろ当然、現実味の無い季節なのかも知れないけれど。

 雪混じりの雨か、雨混じりの雪か、そういう霙らしきものが灰色の空から降ってくる土曜日。色彩が薄いから余計に、思考も覚束無い。色彩鮮やかであれば眼が痛くなるだけ。私の視覚が捉えてくれるのは、所詮其の程度のことで、其れ以上のものは何も無い。
 最近、土曜日が嫌いになりつつある。



2004年12月03日(金)

 一日にして、真冬になった。冬が訪れた、のではない。そうして数日もすれば雪は解け、また積もり、其れが何度か繰り返されて根雪になる。毎年同じ事。冬将軍は、何時だって暴れている。
 大地に雪が積もる、其の最初の一片を見てみたいと、エッセイか何かで其のような言い回しをよく見かける。北国に長年住んでいれば初雪だの積雪だのが珍しくないように、最初の一片を見ることも難しくは無い。大気の温度が下がり、吐息が白く濁り、アスファルトが一定温度以下になった時、雪は溶けずに其の侭残るだけ。草地はアスファルトより少し早く、積もる。只、其れだけ。
 そうやって、少しずつ、無感動になっていくのかも知れない。

 冬の、灰色の空は好き。曇天。蒼穹の下、雪の上に落ちるブルーグレーの影も好きだけれど。灰色の空は、如何にも冬という雰囲気を醸し出し続けている。太陽が傾き掛けた時に5階や6階の高さから北を臨むと、白い建物が朱色に染まっている瞬間も、好き。秋に木々が葉を落とすよりもずっと、寂しげだ。
 そうやって、何か美しいと感ずるものを記憶していようとする。

 全てに対してやる気が起きないのは、単に忙しいからだと思い込む。多分実際其れが一つの要因なのだろうから。疲れた。そう感じるのは、今が忙しい事以上に、明日は之をしなければならない、来週は其れをしなければならない、冬休みはあれをしなければならない――そんな風に近い未来が潰れていく事が、途轍もなく空虚に感じられる瞬間があるということ。
 暇なら暇で時間が有り余っていることを空虚に思うのよ、きっと。だから之は、無いものねだり。そうとは理解しているのだけれど――鬱なものは、如何しようもない。










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