ヲトナの普段着

2005年01月26日(水) 男の夢、女の夢 /不惑の分岐点

 来月僕は四十三歳になります。不惑といわれる四十歳から丸三年。何をもって惑わずとしたのか、賢者の思惑がわかったようなわからないような日々を過していますけど、果たしてどこまで与えられているかわからぬ人生のなかでも、そろそろ折り返し地点には違いないでしょう。そんな頃合だからこそ、夢を語るんです。男と女の夢の違いを……。
 
 
 僕は、建設会社を経営する父の長男として生まれました。一度として父に「会社を継いでくれ」とは言われなかったものの、生まれ育った環境はごくごく自然に、僕を建築の道へと進ませました。大学の建築学科を卒業し、他人の釜の飯を食ってこいという父の言葉に押されて某建築家のアトリエに勤務し、父の会社社屋の建替え計画という餌につられて父の下で働くようになりました。
 
 世間の目は、僕のそんな成り行きをあたかも孝行息子のように囃し立てましたけど、それまでの紆余曲折は筆舌に尽くし難いものがありましたし、僕も人並みにどん底を味わい挫折の連続でそれまでの人生を歩んできました。けれどただの一度も、自分の道に疑問を感じることはなかった。親戚の紹介で知り合った女性と結婚し、ふたりの子を授かり、父が急逝した後をうけて会社をしょって立ち、地域の各種団体にも組して町のお手伝いをさせてもらうようになっても、それが僕にとっては自然な道であると思ってきました。
 
 しかし四十にして惑わずという年齢を迎え、どことなく自分の考えや生き方に道筋を見いだしつつあると感じ始めた頃から、「これでいいのだろうか」という思いが僕の胸中に去来するようになりました。いま僕が歩いているレールというのは、本当に僕というひとりの人間を「生かす」道なのだろうか。十年二十年が経過した未来において、僕は自分の人生を充分満足のいくものとして振り返ることができるのだろうか。そう思ったとき、僕のなかを一抹の不安がよぎると同時に、小さな夢が芽生えてきたんです。
 
 
 僕には、十年前にはなかった「やってみたいこと」があります。七年前にネットで書き物を公開するようになってから、はじめのうちこそそんなことは考えませんでしたけど、次第に、長い時間をかけて書き物に取り組んでいきたいと思うようになりました。それは行動として、昨年から書籍の公募に作品を投稿するというものにも現れていますけど、商業作家として生きていきたいという確たるものでもないように思えます。まあ、生涯に一冊くらいは本にしてみたいですけど。
 
 写真も同様です。創作という行為は若い頃から好きだったのですが、文字とは違った創作の面白さを、写真は僕に語りかけてくれていると感じています。書き物に疲れたらカメラを手に自然のなかにもぐりこむ。そういう生活が、いま僕が胸に秘めている将来の自分の姿であり、夢なんです。
 
 けれどそれは、いまの僕の状況を鑑みると、はなはだ現実離れしているような気がします。胸に秘めているだけでなく、妻に話してきかせたこともありますけど、僕が思っているほど真剣には取りあってくれませんでした。そりゃそうでしょう。日々の糧を得るための職場があり、育てねばならぬ子どもたちがいるのですから、何の生活の保証すらない夢の話など、そこに現実味を求めろというほうに無理があります。
 
 
 女の夢って何なのでしょうか。正直なところ、それを推し量ることはできても、男である僕に核心をつかむことはできません。夫婦愛和して暮らし、子どもを授かったなら彼らの成長を支えつつ自身の心の糧にもしてゆく。僕がイメージできる女の夢というのは、情けないようですけど、そういったものです。
 
 人間は生き物です。種の存続という本能がどこかにインプットされた生き物の仲間です。そういう観点からすると、僕がイメージする女の夢は、とても生き物らしく正しい道のように思えます。けれどそれは、社会という枠組みがあり、家族という単位が存在する上で成立しているものだという見方もある気がするんです。少々わかり難いですけど、そういういわば「しがらみ」とか「社会通念」のようなものがなかったとしたら、女の夢というのも、もっと別の形になっているかもしれないなということです。
 
 
 自分のために生きるのも道ならば、誰かの道を供に歩むのも道に違いないでしょう。男の夢と女の夢というのも、どこかそういうニュアンスのあるもののように僕には思えます。どちらがどっちとか、どちらが是であるということではなく、相互に絡み合ってひとつの道を作っていくものなのでしょうね。そう思います。
 
 だからこそ、僕は四十の分岐点で右と左を交互に見るわけです。何かに気づき悟ったような年齢に達したからこそ、これでよかったのだろうかと戸惑いも覚えるんです。そして同時に、本当の自分が生かされるであろう世界を夢にみて、そこに近づいてみようかと一歩足を前に踏み出すんです。
 
 夢は見果てぬものともいわれます。叶わぬものへと突進していく姿を、ときに嘲る人もいるようですけど、僕は自分が自分であるために、自分が本当の自分になるために、夢はいつまでも胸に抱いていたいものだと思っています。それが男の夢ではなかろうかと、そう思っています。



2005年01月21日(金) 作者徒然抄 別冊コラム /チャトレの花道

 ブログが大流行しています。僕がブログを知ったのが〇三年の秋。当時はまだ、海外のブログシステムを入手し、独自に自分のサーバーに移植せねば使えませんでした。とてもじゃありませんが、ネット初心者に扱える代物ではなかった。それが今はどうです。レンタルブログがあちらこちらにできて、簡単な登録と設定で使えるようになりました……


【この続きは「ヲトナごっこ」の作者徒然をご覧ください】



2005年01月18日(火) 大人的冬乃奏鳴曲2 /女はモノだ

 女はモノだ、と言われて「はい」と応える女性は、この現代日本にはもういなくなってしまったような気がします。良いとか悪いとかではなく、間違いなくこの国にもそういう時代があったのは事実でして、冬ソナの三角関係には腹立たしい場面が少なくないのですが、なんとなく、なんとなくわかるような気もしてしまいます。
 
 
 物語を知らない方にはとんとピントがつかめない書き方になりますけど、主人公の女性ユジン(チェ・ジウ)の幼馴染であるサンヒョク(パク・ヨンハ)が、恋敵であるチュンサン(ペ・ヨンジュン)に対して向ける言葉には、常に「ユジンは俺のモノ」という認識がまとわりついています。取られたから奪い返す。取られないように既成事実で周囲を固める。露骨なまでにユジンをモノ扱いするその態度に腹を立てたのは、きっとわが家族だけではないはずです。
 
 けれど当のユジンは、そのことにまったく触れようとしません。自分がモノ扱いされていながらも、まるでそんなことは脳裏をかすめもしないかのように振舞っているんです。まあ演出というものもあろうかとは思うんですけど、やはりその根底には、男と女という異なる性を持つ生き物の立場というか位置関係についての認識差が、見事に露呈されているということなのでしょう。
 
 冷静に考えれば、そのようなまるで男尊女卑的扱いは、現代社会では愚の骨頂はおろか下手すると犯罪者扱いされかねませんけど、男女関係、とりわけ夫婦や恋人という間柄においては、いまだこの日本でも、そういう意識が根強く残っているのではないでしょうか。
 
 
 何度もコラムに書いてますけど、結婚して夫婦となった瞬間に豹変する男も少なくありません。結婚という名の契約で檻に女を囲ってしまったら、あとは自分の好きなようにやれると考える手合いです。彼らは明らかに女をモノと考えていますし、自分と対等もしくはそれ以上の存在であるなどと、考える思考回路すら持ち合わせてはいないでしょう。
 
 面白いのは、冬ソナでサンヒョクがそうであるように、そういう男たちは揃って、獲物を手にするまでは世界で一番優しい男でありつづけます。自分の愛はきみひとりだけのためにあると、恥ずかしげもなく訴え心を伝えようとします。結婚という既成事実、契約を手にするまでは。
 
 しかしもしも、そのような「女はモノだ」という認識が「違うんだよ」という意味でのサンヒョクの人物設定であったとしたならば、この冬ソナの監督ユン・ソクホという人は、凄い人なのだと思います。あれほど露骨にモノ扱いすれば、パク・ヨンハのファンであっても眉をしかめるでしょう。それほどまでに差別的認識を表現し、「それじゃいけないんだ」と訴えたのだとしたら、僕らは冬ソナを見直さねばなりません。
 
 
 人はとかく「証」を欲しがります。それはきっと、人がとても弱い生き物だからなのだと僕は思います。愛されてる確証がつかめないから、言葉や態度で表現して欲しいと願う。少しでも相手との関係を堅固なものにしたいから、勇み足で既成事実を構築しようとしてしまう。なるようにしかならないよと友達に言われても、なんとかならないかと思ってしまう。それらはいずれも、証が欲しいからなのでしょう。
 
 人と人との繋がりは、じつは目に見えないものの積み重ねなのかもしれません。言い換えると、形がないものの積み重ねです。惚れたはれたばかりではなく、そのなかには、言葉にするのも辛いような経験もあるでしょう。そういうひとつひとつの積み重ねが、人と人とを堅固に結びつけ、夫婦や恋人という間柄を成立させていくのだと僕は思います。
 
 そう考えると、既成事実で周辺を固めていこうとするサンヒョクの行動は、とても理にかなったものだとも思えます。もちろん、方法は間違っています。けれど「ありがちだ」という一点において、彼は物語のなかでとても重要な存在価値を手にしているようにも感じられるわけです。
 
 
 女はモノなどではありません。女だけじゃない。子どもだって同じです。親の所有物などでは決してない。されど人の心に巣食うなにものかが、やもすると心をそういう方向に持っていってしまうことはままあるように思えます。サンヒョクは腹立たしい男ですけれど、どこか哀しい男でもあるのでしょうね。



2005年01月14日(金) 大人的冬乃奏鳴曲1 /冬ソナにみるHugの論理

 昨年、わが家族全員が目一杯馬鹿にしていたドラマ「冬のソナタ」。ペ・ヨンジュンがCMに登場すると、一斉に顔を背けて「ペだよペ!」と声を揃えていたわが家族。それが昨年末、「完全版を放送するらしい。一度見ないことには批判もできないから」という妻のひとことで渋々テレビに向かった一族は、見事にミイラ取りのはずがミイラになりました。
 
 冬ソナがどうであるとか、なぜこれほどまでにブームになったかなどという論点には、じつはさほど興味がありません。そういうことはおそらく、もはや言い尽くされているでしょうから。むしろ僕は、「変なの」とか「あ、そうか」と少なからず胸に引っかかったポイントを軸に考えてみたほうが、よりヲトナらしい楽しみ方ではなかろうかと思ったんです。まさか冬ソナをネタに書くことになろうとは思いも寄りませんでしたけど……。
 
 
 冬ソナは恋愛ドラマです。複数の登場人物が、「こいつら絶対におかしい」と小五の息子にも言わせるほど変幻自在な人間性の不一致(平たく言えば、言ってることとやってることが支離滅裂)をもって、恋愛模様を展開していきます。全二十話という長さですが、くっついたり離れたり、とにかく忙しいドラマです。
 
 そんな大河恋愛物語ですけど、見終える以前、まだ物語の途中の段階から、僕の中にはひとつの「興味のポイント」が生まれていました。それは「果たしてどこまでラブシーンが展開されるのか」というものでした。恋愛ドラマにはラブシーンがつきもの。ラブシーンがない恋愛ドラマなど、海老天がのってない天ぷらそば、具のないカレーライス、炭酸が抜け切ったソーダー水のようなものです。
 
 それなのに冬ソナでは、全二十話のなかで、軽いフレンチキスのキスシーンが三度あったきりでした。もちろんそれ以上の展開などありません。まあナントいやらしい。性風俗花盛りの日本国民にとって、キスを終着点とする恋愛ドラマのしらじらしさは察するに余りあるはずなのですが、それが逆に受け入れられてしまったのですから、日本人もまんざらでもないのかもしれません。
 
 と、あまり小莫迦にすると批判の嵐を受けそうなので本題に戻しますが、不自然なほど少ないキスシーンとは対照的に、物語のそこここでみられたのが「ハグ」でした。何も言わずそっと抱き合う、というあれです。なにかにつけ「ふたりはそうして愛を確かめ合った」とでも言いたげに、硬く抱き合うシーンが連発されます。
 
 文化の違いというのは間違いなくあると思います。親子関係や恋愛というものの認識も、日本と韓国とでは微妙に異なるでしょう。モラルの違いが、キスシーンを減らしハグシーンを増やしているとも受け取れる気がしますし、ハグを意図的に恋愛関係の象徴と結び付けようとしている風にも、僕の目には映ったんです。
 
 
 じつは先日、一冊のエッセイ集を読みました。直木賞作家の山本文緒さんが書かれた「日々是作文」という本です。そのなかの一節に、「スキンシップ」に関してのものがありました。人は生まれて幼いうちは親にスキンシップを求めるけれど、成長するにつれて異性にそれを求めるようになる、という内容でしたけど、読みながら思わずうなってしまいました。
 
 男と女の構図を頭に思い浮かべると、不埒な僕はその最終形態として「セックスでひとつになる」という姿を思い浮かべてしまいます。たしかにセックスもスキンシップには違いないのですが、なにも全裸にならずともスキンシップは成立するわけで、そう考えるとなんとなく、冬ソナの不自然なまでに繰り返されるハグも、崇高な恋愛の至上形態なのかもしれないと思えてきました。
 
 求めるものが何なのか。求めるものが激しさや官能ではないのなら、それが安らぎや安定であるのなら、ハグはセックスに勝る愛情表現となりうるのかもしれません。両の手で相手を包み込むということ、心と心を少しでも至近距離に置こうとすること、それは紛れもなく、誰もが持ちうる恋愛感情に違いないでしょうから。
 
 
 冬ソナのハグでひとつ面白いのは、お互いが望んで抱き合うハグとそうでないものとがあったということです。不本意なままにハグされる瞬間の表情は、いかなる科白にも勝る効果があったと思えます。とかく科白やト書きで雁字搦めにされがちな風潮にあって、あのようなしらじらしいまでの演出というのもときに、無垢な人間を見せてくれるのかなと思ったりもしました。
 
 ハグを見直し、ハグを至高と思えるようになれば、もしかするとそこには、人として望まれた姿が見えてくるのかもしれませんね。無言の愛情のやり取り。ハグは単純なようでいて、じつに奥の深い愛情表現なのかもしれません。


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ヒロイ