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2013年05月31日(金)
アメリカの玩具メーカーの重役全員に爆笑された「リカちゃん」

『人生ゲーム 人生は1マス5年で考えよう』(佐藤安太著・マイナビ)より。

【私は、リカちゃんを米国でも発売しようとして、マテル社に話を持ち込んだことがあります。しかし、そこで玩具というのは、それぞれの国の文化に深く根ざしているのだということを思い知らされます。マテル社の重役が並ぶ前で、私はリカちゃんの実物を出して、特徴などを説明しました。
「リカちゃんにはわたるくんやいづみちゃんという友だちの人形もあります」
 マテル社の重役たちは、みな怪訝な顔をしています。
「さらに、リカちゃんにはお母さんとお父さんの人形もあります」
 リカちゃんママとパパの人形を見せると、重役たちは目を丸くして驚いています。
 そして、どなたかが尋ねました。「これは日本で売れているのか?」と。「大ヒットです」と答えると、重役全員が腹を抱えて爆笑しだしたのです。「人形にパパとママがいるって? そんな遊びをする子はアメリカにはいない」と言うのです。
 後でどういうことかがよくわかりました。人生ゲームの話のところでも少し触れましたが、日本とアメリカでは子どもに対する文化がまったく違っていたのです。日本の社会では、子どもは貴い存在で、親はできれば子どもはいつまで経っても子どもであってほしいと願っています。お子さんが成長して、立派な大人になり、家庭を構えた後でも、親はついついお小遣いを渡したくなってしまいます。親にとって子どもは永遠に子どもなのです。
 しかし、米国の社会では、子どもは「できるだけ早く大人になるべき存在」です。最初から子どもを”未成熟な大人”として見ているのです。
 ですから、親は子供がいち早く自立することがうれしい。幼いときも、自分でトイレに行けるようになるとうれしい。自分で着替えができるようになるとうれしい。自分で歯磨きができるようになるとうれしい。高校生になると、恋人を作って(健全な)デートをするようになるとうれしい、社会活動に参加するようになるとうれしい。卒業して、仕事を始め、経済的に自立をするようになるとうれしい。米国の親は、子どもがひとつひとつ大人になっていくことに喜びを感じるのです。
 一般的に、身体が大人と同じ大きさになる高校生のころには、社会全体が子どもを大人として扱い、それに伴う責任も求めるようになっていきます。
 子どもがリカちゃんで遊ぶときは、リカちゃんに自分自身を投影します。そこにお父さん、お母さんの人形が登場するというのはありえないというのが米国人の感覚です。米国の子どもたちが、ごっこ遊びをするときは、子どもたちだけで大人の社会を模した遊びをするべきという感覚なのです。
 米国ではバービー人形に人気があることがよくわかりました。女の子たちは、大人の女性であるバービーに美しい洋服を着せて、自分がいずれそうなるべき姿をそこに見ていたのです。リカちゃんのような等身大の着せ替え人形は、米国人から見ると、成長を止めてしまい、いつまでも子どもの状態に留まらせるよくない玩具という印象を持たれてしまうのです。】

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 ダッコちゃん、リカちゃん、人生ゲーム、ミクロマン、チョロQ、トランスフォーマーなど、数多くの定番玩具を世に送り出したタカラの創業者、佐藤安太さんの自叙伝。佐藤さんは1924年生まれの現在89歳で、まさに「戦後の日本のおもちゃの歴史をつくってきた人」です。

 僕の感覚からいうと、リカちゃんに比べて、バービーは「かわいくない」のです。
 周りの女の子たちも、「なんでアメリカでは、あんなケバい人形がウケるのだろう?」と首をひねっていた記憶があります。
 まあ、「かわいいと感じるものの違い」なのかな、ということで、なんとなく結論づけていたのですが……

 この佐藤さんの話を読んでみると、「なぜ、かわいくないバービーが人気だったのか?」という発想そのものが、どうも間違っていたみたいです。
 アメリカの親の感覚からすると、「おもちゃとは、子どもを成長させるためのものでなくてはならない」のですね。
 だから、子どもにとって「現状維持」を促進することにしかならない、かわいいリカちゃんは、むしろ「害悪」だと感じるのです。
 リカちゃんによる「ごっこ遊び」だって、それなりに社会性を向上させるのではないか、と僕は思うのですが、一般的なアメリカ人は、「促成栽培」を望んでいるのです。


 しかし、この話を読んでいると、たしかに、僕も含めて、日本人の親は、子どもに対して、順調な成長を願うのと同時に「子どもらしくあってほしい」「子どものままでいてほしい」という気持ちがあることを再認識させられます。
 子どもの「子どもらしい悪戯」に、怒りつつも、ちょっと安心してしまう。
 そして、子どもが成長することに「寂しさ」すら感じてしまうこともあるのです。
 もちろん、全く成長してくれなかったら、それはそれで困るには決まっているのですが……


 これはもう、どちらが正しいか、というのではなく、文化の違いだとしか言いようがありません。
 日本では、子どもと大人の社会が比較的クリアに分かれているけれど、アメリカでは、子どもは「未熟な大人」なのです。

 とはいえ、日本の父親としては、バービー人形みたいになってほしいかと問われると、やっぱりちょっと悩ましいところではありますね。




2013年05月01日(水)
フェイスブックで「等しい自分を伝えること」の難しさ

『ダメをみがく〜”女子”の呪いを解く方法』(紀伊國屋書店)より。

(深澤真紀さんと津村記久子さんとの対談集の一部です)

【深澤真紀:フェイスブックは非常によくできているけど、あれが大変なのは、実名なので、「濃淡があるいろんな人間関係の相手に、等しい自分を伝えなきゃいけない」ってこと。仕事の友だちも、幼稚園の友だちも、大学の友だちも、すべてに同じ情報や感情を伝えるのは無理じゃないですか。それぞれの共有しているものが違うから。
 私もフェイスブックは使ってるけど、交流はグループごとですね。小・中学校のグループ、大学のサークルのグループ、仕事のグループ……って。そのグループの中なら、たとえば大学のサークルグループで、「村上春樹ってうちのサークルの先輩なんだね」って投げかけられる。それは仕事のグループとか小中学校のグループには関係ないですから。だから、フェイスブックがむずかしいのは、実名ですべての人間関係を均質化して、全員に同じ自分を等しく伝えなくちゃいけないということですね。誰もが「同じ私」を知ったら逃げ場がなくなると思うんです。人間関係って平等じゃないからね。大人になるって人間を上手に差別することだと思うんです。】

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「平等じゃない」とか「差別する」なんて言葉だけを採り上げてみると、なんだか感じ悪い話ではあるのですが、現実問題として、人と接する場合、相手によって「見せる面」を使いわけている人がほとんどなんですよね。
仕事仲間には「いまの仕事の顔」をみせるし、中学校の同級生とは「中学校時代の思い出」を語る。
家で野球中継をみながら、贔屓のチームの選手が三振したときに罵声を浴びせている姿を見せられても、「どうリアクションすればいいんだ」って話ですし。

「匿名での罵り合い」に疲れていたとき、「知りあいと、素の自分で接することができるフェイスブック」は、なんだかとても素晴らしいもののように見えました。
しかしながら、実際に使ってみると僕の場合は「素の自分」とは何か?という問題に、かえって直面してしまったのです。
 「フェイスブックって、食事と旅行と子供の話題ばかり」と揶揄されることが少なくないのですが、ある程度の「友だち」がいると、「自分をアピールすること」よりも「自分を誤解されたり、嫌われたりするリスクを冒したくない」という気分になるのです。
 「ここには、自分の『友だち』しかいない」と思えばなおさら。
 フェイスブックを自分の「ショーケース」にできるような立場の人は、あえて、かなり思い切ったことを書くことにもメリットがあるのでしょうけど。

 人というのは自分で思っている以上に自分の「背景」や「立場」で物事をみてしまいがちです。
 いつも平日にしか休みがとれない人が平日に出かけていても「僕は働いているのに、羨ましい身分だなあ」なんて、つい考えてしまいますし、何気なくアップロードした子供の写真や豪華な食事の写真も「家族自慢」「贅沢自慢」に見られる可能性もあります。
 
 「友だち全員に同じ内容を公開」していても、これまで、あるいは現在の関係や背景によって、受け止められ方は変わってしまう。
 とはいえ、あまりにも個別に情報統制しようと思うと、何のためのフェイスブックなのか、ということになってしまう。
 それなら、知らせたい相手に、直接メールしたほうが「安全」だろう、と。

 フェイスブックというのは「実名だからこそ、相手が友だちだからこその難しさ」があるんですよね。
 twitterであれば、面識のない面倒な相手は「ブロック」すればいいけれど、フェイスブックでは、実生活とリンクしているから、なかなかそういうわけにもいかない。

 「実名には、実名の難しさがある」のは間違いありません。
 実名=その人のホンネ、みたいに思われがちですしね。
 本当は「ホンネ」だって、相手によって違うものなのに。