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2010年12月19日(日)
アメリカで、加害者家族に対して社会はどのように向き合っているのか?

『加害者家族』(鈴木伸元著・幻冬舎新書)より。

【FBI連邦捜査局によると、日本に比べて格段に犯罪発生率が高いアメリカでは1年間の犯罪認知件数は1156件に上っている。そのうち殺人・強姦・強盗・暴行などの凶悪・暴力犯罪は139万件であり、日本の7万件に比べると、人口比を考慮しても圧倒的な多さである。
 犯罪が多発しているアメリカで、加害者家族に対して社会はどのように向き合っているのか。次に挙げるのは、にわかには信じがたい事例である。
 1998年にアーカンソー州の高校で銃乱射事件が起きた際、高校のキャンパス内で発生したという事件の重大性に鑑み、マスコミは加害少年の実名や写真を報道した。
 このとき、加害者少年の母親に対してアメリカ社会がどのように反応したのか、ジャーナリストの下村健一が驚くべきリポートをしている。
 実名が報道されたことで、母親のもとにはアメリカ全土から手紙や電話が殺到した。手紙は段ボール2箱に及ぶ数だった。
 だが、その中身は、本書でこれまで見てきたような日本社会の反応とはまったく異なっていた。加害少年の家族を激励するものばかりだったのだ。
 TBSの「ニュース23」で放映されたリポートでは、少年の母親が実名で取材に応じ、顔を隠すことなく登場した。下村が、受け取った手紙の内容は何かと訊くと、母親は「全部励ましです」と答えたのだ。
 下村は自身のブログで、その手紙の内容をいくつか紹介している。
 いまあなたの息子さんは一番大切なときなのだから、頻繁に面会に行ってあげてね」「その子のケアに気を取られすぎて、つらい思いをしている兄弟への目配りが手薄にならないように」「日曜の教会に集まって、村中であなたたち家族の為に祈っています」等々。
 下村は、アメリカでの取材生活の中で、「最大の衝撃」を受けたという。
 このリポートが放映された当時は、日本では和歌山毒物カレー事件が発生した直後であり、加害者とその家族が暮らしていた自宅への大量の落書きが取り沙汰されていた頃だった。
 作家の森達也はこの下村リポートを見て「激しく動揺した」といい、後に下村から詳しく話を聞いている(「僕らから遊離したメディアは存在しない」、JCA-NET)。
 そのとき、下村はこう語ったという。「民度といえばいいのか、犯罪や個人に対しての意識の持ち方が(日本とアメリカでは)まったく違います。日本でもし、神戸の少年の情報を公開したら、とんでもない事態になっていたでしょうね」。
 個人情報が正式に公開されなくても、どこからともなく流出してしまうのが日本の実態だ。そして、それが加害者家族への激しい非難に結びついていることは見てきたとおりだ。
 森は下村の言葉を受け止めて、こう書いている。
「問われるべきは僕ら一人ひとりなのです」】

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 この『加害者家族』という新書を読んでいると、加害者本人ではない、その家族・親族に対する「世間」「社会」のバッシングの数々には、「そんなものなんだろうなあ」と思いつつ、いたたまれない気分にもなるのです。
 「子どもの犯罪」であれば、ある程度親の責任が問われるのは仕方が無いのでしょうが、成人した「家族」や「親族」が罪を犯してしまった場合にも「お前の妻、兄弟は殺人者だ!」と責められるのは、怖くもあるんですよね。
 僕だって、自分の身内がそんなことをするとは思いたくないけれども、「家族」でも、お互いに一人の時間に何をやっているかを100%把握できるわけがないし(この新書のなかにも「夫が人を殺していたことを警察に逮捕されるまで知らなかった妻」の話が出てきます)、お互いに独立している兄弟であればなおさらでしょう。
 じゃあ、家族や兄弟だからといって、「未然に防ぐ」ことができたのか?

 とはいえ、被害者、あるいは第三者の立場からすれば、「身内」が「あの人が勝手にやったことだから関係無い」という態度をとっていれば、やっぱり、「他人事みたいに振る舞いやがって!」と感じてしまうんですよね。

 ここで著者によって紹介されている、アーカンソー州の高校での銃乱射事件というのは、1998年3月に、アーカンソー州ウェストサイド中学校で11歳と13歳の男子中学生が銃を乱射し、5人が死亡したという事件のことです。その翌1999年には、マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画の題材にもなった「コロンバイン高校銃乱射事件」が起こっています。
 これらの銃乱射事件には、加害者側にも「犯行に至るまでの背景」があったようですが、それにしても、「学校内での無差別殺人」が許されるはずはありません。

 ここで著者が紹介している、アーカンソー州の事件の「その後」のレポートを読んで、僕も驚きました。

 【TBSの「ニュース23」で放映されたリポートでは、少年の母親が実名で取材に応じ、顔を隠すことなく登場した。下村が、受け取った手紙の内容は何かと訊くと、母親は「全部励ましです」と答えたのだ。】

 もちろん、アメリカでも「ネットの掲示板やブログでの非難」や「近所の人たちの陰口」がまったく無いとは考えにくいと思うのです。
 でも、「犯人の母親」に直接届けられたのは、「全部励ましの手紙」だった。
 「被害者の母親」じゃなくて、「加害者の母親」に、ですよ。
 日本で生活し、日本のメディアや社会での「反応」しか知らない僕には、信じがたい話です。

 ただ、こういう反応の違いに対して、「民度が違う」(日本人は民度が低いから、加害者家族をバッシングするのだ)という解釈には反発を感じます。キリスト教への強い信仰をバックボーンに持つ人が多いという宗教的な面や、凶悪犯罪が多いため、「身内から犯罪者が出ることを他人事とは思えない」というアメリカ社会の現実こそが、こういう反応の原因なのかもしれないし、僕としては、「まず被害者の家族を励ますべきだろう」と思わずにはいられません。
 過剰な「加害者家族へのバッシング」は不快だけれど、「加害者家族への応援」を賞賛するのにも違和感があります。

 しかしながら、日本の「加害者家族バッシング」は、世界共通ではないのだ、ということは、知っておくべきなのでしょう。
 ニュースで観ただけの人々が、加害者の家族をバッシングするのも、「励ましの手紙」を送るのも、民度云々というより、単なる「自己満足のための方法の違い」なのではないか、という気もするのですけど。



2010年12月09日(木)
「僕は小説を読むメリットは、あまりない気がする」

『君がオヤジになる前に』(堀江貴文著・徳間書店)より。

【学校の教師とか、やけに時代小説とかが好きなオヤジたちは、「活字を読みなさい」とうるさく言うけれど、あれはなぜだろう?
 知識を得るならネットが一番早くて確実だし、思考力をつけるのならツイッターのほうが手軽で効果的だろう。
 僕は小説を読むメリットは、あまりない気がする。
 思考をただ埋めるには、役立つかもしれないが……あれは長すぎる。
 小説に書いてある、もっとも重要なメッセージにたどり着くのに、延々ページをめくり続けなくてはならない。その間の風景描写や、キャラクターの心情の移り変わりがあまりに退屈で……少々うんざりする。行間を読んで楽しめるほど、僕は気が長くない。
 小説を読むなとは言わないし、役立つ部分があるのも認めるけれど。
 時間対効果が薄すぎはしないだろうか?
 読書にかける時間と、結果として得られる情報の価値が、僕の実感では釣り合っていないのだ。
 歴史大河小説を、読んだ経験がないわけではないが、どうも長すぎて……こんなことしているヒマがあるなら別の用事を片づけなくちゃ!と真剣に思う。
 時間対効果という意味では、マンガの方がはるかに高いだろう。つまらない小説より、きちんと取材して描かれたクオリティの高いマンガを読んだ方が、より早く賢くなれる。
 僕が書いた小説『拝金』は、この時間対効果をできるだけ高く設定することを意識した。
 普通の実用書には負けない、読めば役立つ情報を100個ぐらい詰め込んでいる。ディテールが甘いとか、こんな描写の薄いものは小説じゃないとか、厳しい書評もあったけれど、細かいディテールや描写の掘り下げに、何の意味があるのだろう? 正直、そんなものにこだわるのは送り手だけだ。武市半平太の切腹シーンに30分かける発想と同じで、受け手にとっては退屈きわまりない。】

参考リンク:『拝金』感想(琥珀色の戯言)

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 僕は活字も読みますし、ツイッターも含め、ネットのヘビーユーザーでもあるのですが、この堀江さんの話には、納得できるところもあれば、頷けないところもありました。

 たしかに、小説を読むという行為は、マンガやネットに比べると「時間対効果」に乏しい面はあると思います。
 僕が小説を読み始めたのも、小さい頃は、マンガより小説が好きだったというよりは、「マンガだとすぐに読み終わってしまうので、お金がもったいない」と感じていたからでした。
 いまは、あの頃に比べると、自分で好きに使えるお金は増えましたから、「読みたいだけマンガを買う」ことも、やろうと思えばできないことではありません。
 外でお酒を飲むとか、旅行をすることに比べれば、マンガを含む「読書」というのは、お金のかからない趣味ですしね。そういう意味では、「テレビゲーム」なども、費用のわりには時間を潰せる趣味ではあります。

 たしかに「時間対効果」というか、「かけた時間と得られた情報」についてだけ考えれば、小説を読むより「よくできたマンガ」を読んだり、新聞を読むよりネットニュースを見たこうが「効率的」ではあるでしょう。
 でも、実際には、「効率的」であることが、必ずしも「正しい」「楽しい」とは限らない。
 堀江さんは、「武市半平太の切腹シーンに30分かける発想」を切り捨てていて、僕も「30分はちょっと長いな」とは思うのです。
 これを「武市半平太が切腹した」という、ひとつの「情報」として考えるならば、30分は「冗長」だとしか言いようがないでしょう。
 しかしながら、その「冗長な描写」のなかには、「人がなぜ自分の腹を切って自殺するのか?」というのを考えるための情報がこめられているのです。

 「歴史年表を覚えたら、歴史を学んだことになるのか?」
 いや、テスト対策としてはそれで十分なのかもしれないけれど、そういう勉強のしかたこそ、「ネットがあれば勉強しなくていいことを頭に詰め込んでいるだけ」のようにも僕には思えるのです。

 最近、僕はこんなことを考えているんですよ。
「ニュースなんて、ネットで読めば十分」「小説よりもマンガのほうが効率的」だという人が増えれば増えるほど、逆に「新聞や小説を読んでいる人」の相対的な価値は高まっていくのではないか、って。
 読み比べてみるとわかりますが、短くまとめることが要求されるネットの記事に比べて、紙の新聞には、さまざまな「ネットには配信されていないこと」が書かれています。
 「みんながネットでしかニュースを読まない時代」であればこそ、「新聞を読んでいる人」は、「みんなの知らないことを知っている人」になれる可能性が高い。
 小説にしても、書いてある「テーマ」みたいなものって、そんなにバリエーションがたくさんあるものじゃない。小説を差別化しているのは、むしろ、「細かいディテールや描写の掘り下げ」ではないかと思うのです。

 その一方で、「小説ばかりを読むこと」は、個々の作品の細かい違いにばかりこだわる読みかたに陥りやすくて、たしかに「時間対効果に乏しい」ような気もするんですけど。
 でも、本を読むことそのものが楽しい、っていうのも、やっぱりありますしね。

 大事なのは、その時代に合った「バランス感覚」だし、「みんながネットでニュースを見て、マンガばかり読んでいる」からこそ、「あえて、新聞や小説を読む」という戦略で「差別化」ができる時代になってきているのではないでしょうか。



2010年12月02日(木)
ケンタッキーフライドチキンで、「妥当なサービスの範囲」について考える。

『週刊ファミ通』2010/12/2号(エンターブレイン)のコラム「桜井政博のゲームについて思うこと」より。

【台風がやってきたある日。素早く昼食を取るため、某所のケンタッキーフライドチキンに入りました。いわゆる店内お召し上がりで。
 あんまりフライドチキンは食べないけれど、ケンタッキーには”和風チキンカツサンド”などがある。これはハンバーガー感覚でいただけておいしいのです。
 そこで、やってしまった。
 会計を済ませ、トレイを手渡された直後のこと、手に提げていたカサが、レジカウンターに引っかかり、トレイが傾いた。滑り落ちるMサイズのコップ。バシャンと音を立てて、散らばるコカコーラ・ゼロと氷。あ〜あ、やってもうた!
 しかしすかさず店員さんが「申し訳ありません! すぐに替わりをご用意いたしますので!!」と言う。いやいやいや。いまのはわたしのせいですから! 申し訳ないのはこちらです。お代は払います。お店を汚してしまって、どうもスミマセン。しかし、「本当に申し訳ありませんでした!」。「お召し物は大丈夫でしょうか!?」と店員さん。何度か支払いを申し出たのですが、速やかにコーラの代わりを用意され、禁煙席に着いたのでした。
 お客に明らかな過失があっても、速やかにフォロー。サービス業として、行き届いているんだなぁと感心しました。こういった対処はガイドライン化されているのでしょう。少なくとも、わたしの中では、ケンタッキーフライドチキンの好感度が上がりました。
 ……と、ここまで読んでみていかがでしょう? サービス業だから当然、と思った方、手を挙げて。
 これからヒジョーに当たり前のことを書きますが。
 もしスタッフ側なら、サービスに全力を傾けるのは良いことだと思います。予測できる限りの可能性を考えておくのが良いでしょう。
 逆に、サービスを受ける側なら、お客だからと横柄に、何でも提供すべしと思うべきではありません。
 お金を払ったのだから、王様のように対応されて当然、と思い込んでしまうと、けっきょく自分で楽しみの幅を狭めてしまいます。現に、わたしは今回のことでいろいろ感心し、コーラ1杯の価格を超えた価値ありと思っているのですが、これがふつうだ、あるいはけしからんと思ってしまうようであれば、誰にも何も生み出しません。】

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 桜井政博さんは、『星のカービィ』や『大乱闘スマッシュブラザーズ』などの人気ゲームを手掛けたゲームデザイナーです。
 この引用部のあとには、三波春夫さんの「お客様は神様です」という言葉の「真意」が紹介されています。

 話を戻しますが、このケンタッキーフライドチキンの対応を読んで、僕も以前、映画館(有名シネコングループW)で、似たような経験をしたのを思い出しました。
 上映前、妻と2人で飲み物とポップコーンを買って席につこうとしたのですが、誤ってトレイをひっくり返し、ジュースとポップコーンを床にぶちまけてしまったのです。
 映画が始まるまで、あと10分あまりという状況で、僕たちは、映画館のスタッフに「床を拭くための道具を貸して欲しい」と声をかけました。
 すると、スタッフの若い男性は、手早くその場を綺麗にしてくれて、そのうえ、新しいポップコーンと飲み物まで「どうぞお召し上がりください」と持ってきてくれたのです。
 「いや、こぼしてしまったのはこちらですし、掃除をさせて、新しい商品までいただくわけには……せめて、新しい商品のお金くらいは払わせてください」とお願いしたのですが、「お気になさらずに、映画をお楽しみください」と、結局、お金は受け取ってもらえませんでした。
 もちろん、僕たちのなかでは、「感謝」の気持ちが強かったのですけど、それと同時に「本当にこれで良かったのだろうか……そこまでしてくれなくても……」という違和感があったのも事実です。

 桜井さんの場合は、「トレイを渡された直後」でしたから、店員さんも「自分のトレイの渡しかたが悪かったのではないか」と思った可能性はあります。実際に、そういうシチュエーションでは、とりあえず店員さんにクレームをつけるお客さんだっているのではないでしょうか。
 アメリカみたいに、「コーヒーが熱くて火傷したから損害賠償」というレベルの話は、幸いにして日本ではまだ耳にしませんが、店側だって、「コーラ1杯」ならば、余計なトラブルの種になるよりは、新しいものを出して(自分たちに責任が無い場合でも)、お客さんに謝っておいたほうが「無難」でもあるはずです。
 僕が聞いた話では、ファストフード店でのコーラなどのソフトドリンクの値段は、「限りなくタダに近い」らしいですし、ポップコーンも、そんなに原価が高い商品ではないでしょう。
 店の掃除だって、慣れない客がダラダラ掃除するよりは、手馴れた店員がサッとやってしまったほうが、はるかに「手がかからない」のかもしれません。
 そういう「サービス」によって、店のイメージは、間違いなく良くなりますしね。
 人は、困っているときに優しくされると、やっぱり嬉しいものだから。

「じゃあ、ドリンクやポップコーンなら『交換』してくれても、ハンバーガーやチキンだったらどうなのか?」とも思うのですが、まあ、そういうことを試してみて、仮に新しい商品をもらえたとしても、気まずさ以上に「お得」ということはまずありえません。

 僕個人としては、「掃除する道具を貸してもらえれば十分」ですし、鉄の斧を落としたら、金の斧がもらえるようなサービスは、なんとなく「居心地が悪い」のですけど、桜井さんが書かれているように、そこで、「店のサービスに感動する人」が多数派だからこそ、店側も、そういう対応をしてくれているのも事実なんでしょうね。
 
 しかし、「どこまでがサービスとして妥当なのか?」というのは、かなり難しい問題です。「際限のないサービス競争」は、結果的にはあまりみんなを幸せにしないような気がするのです。
「お客さま」だって、自分が仕事をしているときは、「店員さん」になることもあるわけだし。