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2009年02月26日(木)
『漢検DS』を大ヒットさせた、「戦略PRによる空気づくり」

『戦略PR』(本田哲也著・アスキー新書)より。

「漢字力低下」という空気を、店頭でも活用する 「漢検DS」の成功例という項から)

【「漢検DS」は、年間270万人もの受験者数を誇る検定試験「漢検」の公認ソフト。遊びながら漢字を学べる、ニンテンドーDS向けゲームだ。実際の試験と同じ形式で出題される「チャレンジモード」、手軽に漢字練習ができる「トレーニングモード」、漢字をテーマにしたミニゲームを楽しむ「ゲームモード」などがある。「漢検DS」は2006年9月に発売され、瞬く間に、約30万本を売上げるヒットとなった。このヒットを支えたのは、漢字検定に興味を持つ層やゲーム好きの人たちと推測できるが、「さらに売上を伸ばすためには、もっと一般的なより多くの人たちにアピールすべきだ」と、市場の拡大を狙うキャンペーンが設計、展開された。
 このキャンペーンで、戦略PRによる空気づくりは重要な役割を果たした。
 発売元のロケットカンパニーがとった戦略は、「日本人の漢字力が危ない!」という空気をつくって、それを「漢検DS」のニーズに結びつけようというものだった。
 まず、日本人の漢字力についての実態・意識調査を実施。その結果、「日本人の85%が、漢字力の低下を感じている」「4人に1人の大人が、子供に漢字を聞かれて答えられなかった経験あり」など、オトナたちにとっては耳が痛い事実が明らかになった。
 さっそく、これらの結果をまとめ、マスコミ向けにリリースし、PR活動を展開した。パソコンで文章を書く機会が増えたため、「漢字力が衰えたなあ」と、漠然と感じている日本人は多い。こうした漠然とした不安を裏付ける調査結果は、マスコミの注目を集める。その結果、新聞、テレビなど40以上のメディアが、この調査結果を紹介。12月12日の「漢字の日」(京都の清水寺でその都市にちなんだ漢字が発表される、毎年恒例のあの日だ)にリリースしたことも大きかった。
 こうして、日本中に「漢字力が低下している。どうにかしないとマズイ」というカジュアル世論をつくり、危機感を蔓延させる。これだけでも十分に、「漢検DS」の需要につながるシナリオだが、このキャンペーンがさらに戦略的だったところは、この「空気」を見事に、ゲームソフトを購入する店頭のプロモーションまで落とし込んだ点だ。
 店頭のプロモーションは、12月14日から開始された。実は、2006年12月14日は人気ゲームシリーズ「ポケットモンスター」の新作、「ポケモンバトルレボリューション」(任天堂Wii向けソフト)の発売日だった。一部には、「なにもこんな強力なライバルが新発売される日にぶつけなくても……」という反対意見もあったという。しかし、あえてこの時期を狙ったのは、子連れでゲームショップに来店した親に対し、店頭でプロモーションを展開しようと考えたからだ。
 ここで展開されたのが、「漢字力低下」の報道素材を活用した店頭POPだ。新聞などに掲載された記事を紹介し、「漢字ブーム到来!!」「各メディアが大注目!」と大きく謳った。つまり、世の中でつくった空気を、さらにお店に持ち込んでリマインドさせる作戦だ。これをゲームショップなどの店頭に貼ることで、「そういえば、新聞やテレビで、日本人の漢字力が落ちていると報道していたなあ」と、子どもを連れた親に思い出させようとしたのだ。効果は上がった。ポケモンなどのゲームを買いに来店した顧客に対し、「このままではマズい。子どもにゲームを買うついでに、自分は漢検を買って勉強し直そう」と思わせることに成功したのだ。
 これに、「漢検DS」を模したブログパーツのネット上での配布や、テレビCMなどの施策が連動したことで消費者の興味は高まり、再び売上は急上昇。ついに60万本を突破した。このキャンペーンは、危機感をあおるカジュアル世論づくりと、店頭プロモーションでの活用がキレイに連鎖している成功例だといえるだろう。】

〜〜〜〜〜〜〜

 ちなみにこの『漢検DS』の発売日は2006年9月28日。テレビ番組の影響による「漢検ブーム」があったのだとしても、売上60万本はかなりの大ヒットです。
 たしかに当時「こんな地味な『お勉強ソフト』が、なんだかすごく売れているな……」と『ファミ通』の売上ランキングを見ながら思った記憶が僕にもありますし、僕も「何かのゲームを買ったついでに」この『漢検DS』を購入したんですよね、実は。まさにメーカーの「戦略PR」の思惑にはまってしまったのです。
 買っただけで満足して、ほとんどやっていないのですけど……

 『漢検DS』は、発売後2ヵ月で、「想定の10倍以上」という55万本を販売したそうなのですが、この新書では、『東京新聞』に記事として掲載された「漢字力 85%が低下実感」という記事が紹介されていました。『日刊スポーツ』にも同様の記事が掲載されており、Googleで検索してみると、現在でもかなり多くのネット上の記事が見つかります。
 僕もこの記事をどこかで読んで、「自分の漢字力に、なんとなく危機感を抱いた」記憶がありますが、この「調査」を行ったのが、『漢検DS』を発売しているメーカーだったとは、当時は意識していなかったなあ。記事のなかには、ちゃんと「ロケットカンパニーが調べた」と書いてあるのですが、新聞や雑誌に広告ではなく「記事」として採り上げられていると、こういう「ゲーム会社のプロモーション戦略」というのを意識しなくなってしまうんですよね。
 もし同じことが『ファミ通』の広告欄に載っていても、僕はたぶん「あー宣伝宣伝」としか思わなかったはず。

 もちろん、「漢字力調査をすること」も、「それをニュースとしてメディアに売り込むこと」も悪いことではありません。調査内容も事実なのだと思います(「漢字力低下」は、大部分のパソコンを使っている人間にとっては、日々実感していることでしょうし)。
 それをアピールして『漢検DS』というソフトを売るのも、責められるようなことじゃないのです。
 それでも、いまの時代というのは、「記事」と「広告」の境界がどんどん無くなってきているのだなあ、ということを考えさせられる話ではありますね。
 この『戦略PR』という新書を読んでみると、「広告」そのものではなくても、「その商品に消費者が興味を持つようなデータをメディア経由で戦略的に流布する」ことは、もう、「斬新な方法」ではないのです。

 もしかしたら、某超有名RPGの新作の「発売延期」も、「『ドラ●ンクエスト9』で遊びたい!」という空気を盛り上げるための「PR戦略」の一環なのかもしれませんね。あまり効果が出ているとは思えませんが……



2009年02月23日(月)
鈴木慶一、『初音ミク』を語る。

『ユリイカ 詩と批評』(青土社)2008年12月臨時増刊号の「総特集・初音ミク」より。

(鈴木慶一さんへのインタビュー「初音ミクがあぶりだすプロフェッショナル」より。聞き手は冨田明宏さん)

【鈴木慶一:やっぱり、「自分じゃ歌えないけど初音ミクだったら歌えるんだ」っていうことは、音楽をやろうと思ったときに非常に有効だと思う。バーチャルなアイドルというのは昔からあったと思うけど、それが歌も唄えるというところで完成されたなという感じだね。ただし、今後どうなっていくかというと、人間の性としてみんなそのうち飽きるだろうから、別の「人」がまた出てこないといけないんだろうね。初音ミクとは違う声を欲していくのかもしれない。

冨田明宏:ということは、ボーカル・ソフトのなかで――今までのバーチャルじゃないアイドルと同じように――たまたま初音ミクというアイドルが登場し、そのアイドルをみんなが情報ごと共有して楽曲をオリジナルとして発表しているのが今の状況ということですね。

鈴木:それに、自由自在に操れるということは、やっぱり人間にとって非常に快楽的だと思いますよ。

冨田:ある種フェティッシュを充たすというところもありますよね。

鈴木:どんな言葉でも歌うんだったら、いやらしい言葉って俺ならまず考えるしね(笑)。

冨田:透明人間になったら風呂場を覗くのと同じことですよね(笑)。

鈴木:大体のものはそういう風に、不純な動機から発達していくんです。

冨田:初音ミクは声優さんを使ったアニメ声ですし、だからそういったものが好きなオタクみたいな人たちが女性とのコミュニケーション不全を補うために使っているんじゃないかという意見もあるんですけど……

鈴木:どうだろう? そこまではちょっとわかんないけど、でも望むものが作れるわけだからそういった欲求も充たすかもしれない。かつての育成ゲームのようにね。ただ重要なのは不純な動機から始まったのに、感動して泣くほどの事になる。私は、育てた子供がうちはお金がないから、炭坑で働くってエンディングで泣いたよ。
 ごく普通に、音楽を作る場面でも需要として、デモテープを作るようなときに初音ミクを使うことで女性のボーカリストを呼ぶお金がかからないというのは考えられるね。Digital Performerでもそういった機能――要するに男性が歌った声をソプラノにするとか、女性が歌った歌をバリトンにするとか――はあったけれど、ボーカロイドではボーカルに特化した分だけみんなが飛びついたんだろうな。

冨田:確かに、仮歌であれば音符どおりに唄ってくれさえすればいいんですものね。おそらくボーカロイドを製作する最初の意図というのもそこにあったと思うんですね。

鈴木:たぶんそうだろうね。それに別の意味を与える人たちが出てきて広がっていく……これが新しいものが生まれる瞬間なんです。

(中略)

冨田:おそらくそこから先のこととして、発表する場があるということとそれでご飯を食べていくのかというのは全く別の問題ですよね。今でも一夜にしてネット上でスターになる楽曲のクリエーターって確かに存在するんですけど、そういった人たちが音楽で飯を食っていこうと思っているのか、それともただ趣味の一環でやっていくのかというところで、けっこう趣味としてただ皆がワーっと盛り上がればいいってところもあると思うんです。

鈴木:そうかもしれないけど、でもやっぱり基本的にはどこかでお金が入ってこないと駄目なんじゃないかと思う。やはり、インターネット上はすべてタダっていう印象があるのは、これから再検証しなければいけないことではないかと思いますけどね。逆にプロフェッショナルとして音楽をやっていると、無料では配りにくい。まあ一曲ぐらいならいいかなっていう発想はあるだろうけど。

(中略)

冨田:でもあらためて考えると確かにレコード会社、音楽業界はだんだん時間をかけられなくなってきていますよね。仮歌であるとかボーカル録りというのは、本当は一番曲の中では生の部分というか肉の部分だったのが……

鈴木:そこにお金をかけなくてよくなったってことだよね。

冨田:鈴木さんはボーカロイドがより人の声に近づいていくような技術革新が今後なされていくと考えてらっしゃいますか?

鈴木:ボーカロイドの発展形としては、今はプログラムされた初音ミクという声しかない段階から、それが誰の声でも成り立つというようなソフトにまでいくでしょうね。そうなるともっとすごいことになるでしょう。あなたの声であなたの作った曲が歌えるということだからね。

冨田:要するに声を音として分解して、どの音をどの域で足せばある特定の「この人」の声になるという次元の話ですよね。

鈴木:そうですね。声紋みたいなものです。それで、自分の声をジョン・レノンに近づけたいんだけど、という風になったとして、その場合そのキャラクター/個性というのはどうなっていくのかという非常に根本的なことを考える時期が来ると思うんです。これは面白いといえば面白い。私とは何でしょう?ということを常に考えないといけないわけですね。具体例としての声を聞いてね。

冨田:そうだと思います。ボーカロイドというものがバーっと流行ったおかげで、いろんな一般ユーザーも含め「声って音なんだ」というすごく当たり前のことに気づかされた。その延長上で「自分の声って何だろう?」「個性って何だろう?」という問題をボーカロイドに投影し、見つめていく時代かもしれないですね。

鈴木:他の楽器は既にシミュレーションがなされちゃってどんなサウンドでもつくりだせるわけだけど、同様に、自分の声でマイ・ボーカロイドみたいなものができるようになったとすると、皆さんどうするだろうね? 他人の女性の声だからこそ良いっていう人もいるだろうし、まあ多様性をもって進んでいくんだろうね。初音ミクとデュエットするとか(笑)、そういうのも出てくると思う。

冨田:例えばそういったかたちで、鈴木さん自身の声をいろんな人が流用する状況になったとしたらどう思われますか?

鈴木:まあ、良いんじゃないかな(笑)。使用料はどうする?(笑)利用するという状況においては、他にもまだいろんな要素がたくさんあるからね。音楽というものは声とかの音じゃなくてリズムだったりメロディーだったり歌詞だったりといったものが混合した、非常にカオスな中で個性が現れるもので、だからその一個だけをどうにかしようとしてもなかなか上手くはいかない。例えば自分の歌を直すときでも、「ここまで直すとちょっと俺の歌じゃない」とか、「こんな歌いかたはしていないなあ」っていう場合があって、その時には別の修正方法を工夫したり、そのままにしたりという選択があるからね。だから、今後はすごく整頓されたものとしての音楽もどんどん出ていくんだろうけど、整頓しすぎると非常につまらなく、画一的になってきちゃう。80年代の終わりから90年代にかけて、値段の安いシンセサイザーが巷に出てきたとき、みんな良い音になって、みんな同じ音になったという現象が起きたんだよね。プリセットの音を使うことのつまらなさはあるよね。でも、そこは個人の工夫でどうにでもなるし、個人のキャラクターの問題でもある。だから、話は面倒くさくなってくるけど、ここ10年くらいはキャラクターがなくなっていくのと、キャラクターが立っていくのとが同時に行われていきそうな感じがする。具体的には説明しずらい感覚なんだけど、それとさっき言った、音楽を作ることがお金を生むということと無料であるということが、オーバーラップするような具合でそれぞれをせめぎあいつつ続いていくような気がしますね。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕は音楽一般には疎くて、「初音ミク」に関しては動画サイトにアップされているものを聴く程度で、自分で音楽と作ったり、歌わせてみたりはできないのですが、この『ユリイカ』の特集記事は面白く読めました。
 なかでも、この鈴木慶一さんのインタビューは、僕が鈴木さんの音楽のファンであることも含めて、とても興味深いものでした。正直、僕にはちょっと難しいなあ、と感じたところもけっこうあったのですけど。

 「初音ミク」がこれだけのブームになった理由として、「作曲に興味はあるけれど、発表の場がなかった」人たちが潜在的にたくさんいて、彼らがこのツールに飛びついたのではないかと僕は考えているのです。
 「それならば、無理にボーカルを入れないで、インストゥメンタルで発表すればいいじゃないか」と思う人も多いかもしれませんが、「素人が作ったインストの曲」に興味を示してくれる人はそんなに多くありません。
 それが、「初音ミク」という「共通のツール」を媒介にすることによって、多くの人の耳に届けることが可能になったのではないか、と。
 「自分が作った曲です」と動画サイトに投稿しても誰も聴いてくれなかったのに、「初音ミク」が歌うことによって、とにかく「聴いてもらえるようになった」。ブログ時代になって、「日記」を書く人が増えたのと同じことなのだと思うのです。

 「アニメ声が好きなオタクみたいな人たちが女性とのコミュニケーション不全を補うために使っているんじゃないかという意見」というのは、まさに「一部の人の先入観」に満ちているような気がします。
 そういう「女性とのコミュニケーション不全の解消」であれば、もっと直接的なツールはたくさんありますからねえ。
 まあ、確かに「好きな歌詞を『歌わせる』ことができる」というのは、市販のビデオなどで「その言葉を使っているのを受動的に耳にする」よりもずっとある主のフェティシズムを充たすのかもしれません。
 その話題に対する鈴木慶一さんの「大体のものはそういう風に、不純な動機から発達していくんです」という反応も、それはそれでけっこう率直なものですし。
 PCエンジンのCD−ROMの発売初期に、当時アイドルだった小川範子さんが登場するゲームがあって、そのゲームはクリアすると最後に小川さんがユーザーが登録した名前を呼んでくれるのですが(当時はそれがすごく斬新だったんです)、その最後の「一言」のために、ちょっと卑猥な名前を登録して、一生懸命何度もクリアしていた人もけっこういたみたいですから。

 僕は自分の声が嫌いで、昔は留守番電話のメッセージも自分の声で吹き込むのが嫌で嫌でしょうがなかったのです。
 仮に作曲ができたとしても、「自分で歌おう」とは思いません。
 だからといって、誰かに「この歌を歌って」と頼むのもなかなか敷居が高い。
 そういう人間にとって、「初音ミク」のようなボーカロイドの存在は、ものすごく心強いのではないかなあ。

 このインタビューを読んでいて、僕がいちばん考えさせられたのは、「声」とはいったい何なのだろうか?ということでした。

 「声」って、もっとも身近に接することができる「個性」のひとつですよね。声とか喋りかたで、第一印象はかなり変わってきます。「声や喋りかたが嫌い」な人と恋をしたり結婚生活を維持するのは、なかなか難しいことのように思われます。
 もっとも、「昔はそんなふうに感じなかったけど、だんだんイヤになってきた」ということはありそうですが。
 まあとにかく、「声」というのは、ある意味「顔」以上に「その人固有のもの」だったわけです。
 
 ところが、「初音ミク」のようなボーカロイドがどんどん進化すれば、最終的には、「誰のどんな声でも出せる」ようになっていくはずです。
 「鈴木慶一と全く同じように歌えるボーカロイド」が登場したとき、その歌はいったい、誰のものなのか?
 やっぱり「鈴木慶一のもの」なのか、それとも「誰のものでもない、機械の声」として扱うべきなのでしょうか?
 そういう場合に、鈴木さんは「歌唱料」を求められるのかなあ。
 「ライブは迫力が違う」といっても、究極的には、「ライブのときの声を分析して再現したボーカロイド」だってできるはず。
 鈴木さんは、「歌というのは、リズムとかメロディーとか歌詞だとか、いろんな要素がまじりあっているものだから」ボーカロイドが歌手の仕事をすぐに奪うことはないだろうと仰っておられますし、たぶん、僕も実際はそうなのだろうな、とは思うのですけど、いつか「完璧なボーカロイド」ができるのではないかとも予想しているのです。
 そうなると、「プロの歌手」は必要なのか?

 結局のところは、「データ上は同じもの」であっても、人間というのは「生の声」「現場で体験すること」になんらかの幻想(あるいは妄想)を抱いてしまうのかもしれませんけどね。
 シンセサイザーが発達して「どんな音でも出せる」時代にもかかわらず、現在のところ「バンド」のスタイルの主流は、昔とそんなに変わっていないみたいですから。



2009年02月19日(木)
「ホンダのために働くと考えること自体、すでにホンダウェイじゃない」

『カンブリア宮殿 村上龍×経済人 社長の金言』(村上龍・テレビ東京報道局:編、日経ビジネス人文庫)より。

(番組中の村上龍さんと福井威夫さん(本田技研工業社長)のやりとりの一部です)

【村上龍:本田宗一郎の言葉に、「技術者は技術の前で平等である」というのがあるぐらいですからね。そういった社風、企業文化は、ホンダが半世紀以上培ってきたものだと思います。参考にしたいと思う方も多いと思うのですが、それを一朝一夕でマネするのは無理じゃないですか。

福井威夫:まあ無理だと思います。大部屋を見て、他社の方が大部屋にしてもダメなんですね。目指しているものが何かということをしっかり考えて、自分の状況に置き換えて、自分なりの方法でしていかないとダメだと思います。

村上:ただ大部屋にすればいいという問題じゃないですもんね。

福井:それは我々自身も同じです。創業者の考えた思想というものも大切なのですが、それをそのまま継承したのでは、この会社は潰れると思うんです。創業期のホンダと今のホンダでは、もうまるで違う。世の中の環境も違う。考え方はものすごく重要だけれど、そういうものに合わせていかないといけないといけないと我々は思っています。いろいろと伝継すべきことはありますが、その中で一番重要なことは何か、相当突き詰めて、二つとか三つとか四つにしていき、それ以外の部分では捨てていくものもあるんです。「もうこういう時代じゃないね、捨てていこう」という考え方も当然あります。

村上:ある精神を継承するというのはそういうことなのかもしれません。そのままお題目みたいに守っていればいいというものではないですもんね。
 福井さんがホンダに入ってきた人たちに向けて話したことを紹介したいと思います。
「入社してホンダウェイを学ぶのもいい。しかし君たちが何かもってくる。何かしなければ、明日のホンダはない。ホンダを変えることに自分たちの価値があるんだ。ホンダのために働くと考えること自体、すでにホンダウェイじゃない。人が何のために働くのかというと、会社のためじゃない、自分のために働くのだ。それは、いつの時代でも世界中、どこでも共通だ」
というものなのですが、すごい言葉だと思うんですよ。

福井:これは私の本音であり、創業者の本音なんですよ。本音で楽しまないと、本当の仕事はできない。それが会社のためにはなりますよ、最終的に。それから世の中のためにもなる。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕もこの「ホンダを変えることに自分たちの価値があるんだ」という言葉には、ちょっと感動してしまいました。

 まあ、これはキレイ事なんだろうけど、と思いつつ福井さんのキャリアを眺めていたら、福井さんは1969年に本田技研工業に入社後、エンジン開発や二輪レースに携わり、1987年にはホンダ・レーシングの社長に就任されています。レースに関わるというのは、夢がある仕事であるのと同時に、常に限界を超えようとするハードワークを要求される仕事ですから、この言葉には福井さんのホンダでの経験が強く反映されているのかもしれませんね。

 「ホンダウェイに従え」と言われるより、「何かしなければ、明日のホンダはない。ホンダを変えることに自分たちの価値があるんだ」と言われたほうが、なんとなく「自由で創造的」な感じがします。
 しかしながら、実際にそこで働く人にとっては、よほどのモチベーションがなければ、「会社の伝統に従え」と言われるほうがラクなのではないかな、とも思うんですよ。「新しいことをやる」というのは、やっぱり、大変なことだから。
 それが、ホンダのような大きな会社であれば、なおさらのことです。

 「人が何のために働くのかというと、会社のためじゃない、自分のために働くのだ」
 たしかにそうだよなあ、そうでなくてはならないよなあ、と僕も思います。
 そしてそれが、めぐりめぐって世の中のためにもなる。

 実際にそういう「やりがいのある仕事」に出会える人生というのはそんなに多くないのでは、と僕はつい考えてしまうのですが、それは、「本人のやる気の問題」なのかなあ、うーん……



2009年02月16日(月)
「教室で本を読むこと」の危険性

『書店はタイムマシーン〜桜庭一樹読書日記』(桜庭一樹著・東京創元社)より。

(直木賞作家・桜庭一樹さんが読んだ本を中心に書かれている日記を書籍化した本です。巻末の特別座談会から。参加者は、桜庭さんと担当編集者のK島さん、F嬢さん、K浜さんです)

【K島:またちょっと話を戻すんですけど、米澤穂信さんが書いていたことで、一般論なのか個人的経験なのかわからなかったんですけど、「教室で本を読んでいると、非常に変わった人だと思われて浮くから、教室では読まない」という主人公が出てきまして。たしか『さよなら妖精』だったような。最近はそうなのかなと思って。

K浜:それは昔からそうじゃない?

桜庭一樹:暗いやつだと思われるかも。私は休み時間には絶対に本を読みませんでした。女の子だから、友達とトイレに行って鏡の前で髪をいじりながらおしゃべりしたり、だらだらしたり。授業中に読むのは……”クール&ストレンジ”だからOK。不良だぜ、授業聞いてねえ! みたいな。

F嬢:休み時間に本を読んでると、それだけで”話しかけるなバリア”になるますよね。だから変わった人だと思われちゃうかも。

K島:でも、たしかに授業中に読む本って面白いんですよねー。

桜庭:”クール&ストレンジ”ですよ”クール&ストレンジ”。

(中略)

桜庭:本を読むって行為が、世の中ではマイノリティのすることなんだなって、直木賞をいただいたあとインタビューを受けながらすごく感じました。ふだんはまわりがみんな本読みばっかりだから意識しないんだけど、テレビに取材されると、「すごく本を読む人らしいです」と、ちょっと変態みたいな扱いで。

K島:ある意味”物語の申し子”みたいな存在にしたてたいのかも。

桜庭:わかりやすい特徴を、ということだと、”読書家”になるんだと思う。空手のことも訊かれますけど、「やってみて」と言われても断っているので、読書家の部分を推したがるのかなと。いつだったか取材でブックカフェに行ったとき、「桜庭さんここに本棚がありますよ」と言われて、「そうですね」とだけ返事したんだけど、そのあとまた「ここに本棚がありますよ」。三回言われて、さすがにああ「本が大好きな人なんで、本を見ると飛びついちゃいます」ってところを撮りたいんだなと察せられて。だから根負けして、かぶりついて本をにらんだ。

F嬢:ふふふ。

桜庭:それを撮ったあと、「ここ本が買えるんですよ」ってやっぱり三回くらい言われたので、これは「なんか買え」ってことかーと思って。根負けして「じゃあこれ」って差し出したら「さっそくお買い上げ」みたいな感じに撮られました。ほかに特徴ないから、そういうふうにセッティングされてるんだし、そこに乗らないのは悪いかなと思って……。とにかく本読む人は変わってると思われてるんですよ。

K島:他業界の人にとっては単純に本を読む女性が珍しいと思うんですよ。で、出版界の中で考えると、これほど翻訳文学を読んでいる人は珍しい。しかも、この年代の女性となると、ほとんど唯一の存在ではないか、という話が出たことがあります。】

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 これを読んで僕は自分の高校時代のことを思い出してしまいました。
 僕は「休み時間に教室で本を読む人」であり、その理由の半分は「時間がもったいないから」で、残りの半分は、「授業の間の10分とかの短い時間に、軽い世間話なんてくだらないことに付き合って気を遣うのがイヤだったから」(あるいは、「誰も話しかけてくれない自分を確認するのがつらかったから)なんですよね。
 まさに”話しかけるなバリア”として休み時間に本を読んでいたんだよなあ。
 それはそれで、「お前何読んでるの?」とか訪ねられたりして、けっこう面倒なこともあったのですが。
 小心者なので、授業中の”クール&ストレンジ”は、ほとんどなかったけれど。

 桜庭さんの日記を読んでいると、「世の中には、(まともに仕事をしながら)こんなに本を読んでいる人がいるのか!」と驚かされるのですが、この桜庭さんの「取材体験」を読むと、僕が日頃イメージしているよりもはるかに「本をたくさん読む人」というのは、世間では「希少種」として認識されているのだということがよくわかります。
「ここに本棚がありますよ」「ここ本が買えるんですよ」なんて、もし僕が取材される側だったら、「そんなの見りゃわかるよ!」と怒ってしまいそうなんですが、そういう「ものすごく本を読む人というイメージ」もまた、作家としての商売道具として桜庭さんは受け入れている、ということなんでしょうね。
「読書」というのは、「趣味」としてはもっともありふれたものだと思うのですが、世間一般の認識としては「本を読むって行為は、マイノリティのすること」なのかもしれません。あるいは、「人前で本なんて読むものじゃない」とか。

 それにしても、本棚見つけるたびに近づいていったり、本が買えるところでは必ず買ったりする人は、「本好き」というより「変態」だと僕も思いますけどね。



2009年02月10日(火)
「ゲーム&ウォッチ」で、もっとも売れたタイトル

『オトナファミ』2009・February(エンターブレイン)の特集記事「ゲーム&ウォッチ・コンプリート図鑑」より。

【ゲームウォッチ版『ドンキーコング』の紹介記事より。

もっとも遊ばれたオレンジ色のG&W

 人気アーケードゲーム初の移植作。アーケード版をうまくアレンジし、下画面ではタルを飛び越え、上画面ではクレーンのワイヤーを外していき、ドンキーコングを落としてレディを救う。ちなみに主人公の名前は、”マリオ”ではなく”救助マン(海外版はMario)”と取扱説明書に表記されている。また本作で初めて採用された十字ボタンは、ファミコンを初めとする後世のゲーム機のコントローラーに欠かせない存在となった。国内だけでも120万台以上を販売した、G&Wでもっとも売れたタイトルでもある。】

参考リンク(1):「ドンキーコング」(週刊電子ゲームレビュー)

参考リンク(2):YouTube - ドンキーコング ゲーム&ウォッチ版

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 懐かしいなあ、ゲームウォッチの「ドンキーコング」。
 発売当初は、ものすごく品薄で、なかなか手に入らなかったんですよね。
 ゲームセンターのゲームが、ゲームウォッチで遊べるなんて!
 ……でも、やっぱり「本物」(アーケード版)とは全然違うな……
 などと思いつつ、当時はかなり遊んだ記憶があります。

 ちなみに、この『ドンキーコング』が発売されたのは、1982年6月3日。
 あの「ファミコン」ことファミリーコンピューターが発売されたのは、1983年の7月15日のことでした。
 エポック社の「カセットビジョン」が1981年に発売されており、当時小学生だった僕たちにとっては、ゲーム&ウォッチ版の『ドンキーコング』というのは、ある意味「がんばってもゲーム&ウォッチでは、このくらいが限界なんだよなあ……」と痛感させられたゲームでもあったのです。
 ビデオゲーム版の『ドンキーコング』は、4つの異なるタイプの面をクリアしていくのが特長だったのに、ゲーム&ウォッチ版は、所詮、「同じ面の繰り返し」ですし。
 120万台という驚異のセールスを記録したこの『ドンキーコング』は、ゲームウォッチにとっては、まさに「最後の大きな花火」だったのです。その花火が大きかっただけに、その後のゲーム&ウォッチ人気の終焉も、かえって急激なものになったように思われます。この図鑑を見ても、『ドンキーコング』以降のゲーム&ウォッチには、ほとんど記憶がありません。
 任天堂のゲーム&ウォッチの第一弾『ボール』が発売されたのが1980年4月28日。いまから思い起こすと、「ゲームウォッチの時代」というのは、その後の「ファミコンの時代」に比べたら、ものすごく短かったのですよね。

 それにしても、「十字キー」って、このゲームではじめて世に出たんだなあ。そのことだけでも、これは「歴史的なゲーム」だと言えるのではないかと思います。
 ちなみに、記事によると、この『ドンキーコング』の現在の推定市場価格は6000円だそうですよ。



2009年02月05日(木)
お祭りのテキヤで売られている食べ物は安全なのか?

『週刊SPA!』2008/12/23号(扶桑社)の特集記事「スーパー&飲食店・普段食べてる食事のヤバすぎる話」より。

【スーパーのヤバい話でダントツだったのが、最近の”中食”ブームで需要の高まる総菜売場だった。その現場は凄まじいの一言だ。
「売れ残りや放置で変色した魚肉類や野菜は、すべて総菜になる。断面がカビて黒くなったキャベツも丸洗いしてサラダにするし、ウジが湧いた魚もその部分だけ切り取ってフライにする。さらにヤバいのが調理現場。調理場のハエ捕りリボンにはハエがビッシリ。それが何本もぶらぶら垂れ下がっている。ハエの中にはウジの状態で産む種類があり、リボンに捕まったハエが苦し紛れに産み、床にウジがポトポト落ちる(Jさん・女性・41歳)
「ウチの店舗は24時間営業で、一日4回調理があるので、清掃している暇がない。前日、床に落ちた魚の頭を長靴で踏んづけながらアジフライを作ってるし、厨房も狭いので、肉も魚も野菜も、同じ場所で調理する。あと肉や野菜以外でも、バックヤードで高温放置されてた練り物類も総菜にしてました(Bさん・女性・33歳)
 Jさんの勤めていた店舗では、夜中に警備会社から緊急連絡が来ることがたびたびあったという。
「昼間、知らぬ間に厨房に猫やイタチが入ってそのまま閉じ込めてしまい、センサーに反応。ここぞとばかりに食品を齧られますけどね」(Jさん)
 これはもう現場の管理不備としか言いようがないが、専門家が指摘するリスクも大きい。
「調理済みの商品、サラダなどの生食ものと調理前の魚肉が接する環境なのは、絶対アウトです。練り物は、加熱で菌自体は死んでも、増殖の過程で出した毒素が残っている可能性がある」(T氏)
 とはいえ、現場の環境改善はままならぬようだ。Yさんが嘆く。
「地域型店舗は売り場面積を優先するので、厨房面積の確保が難しい。半面、総菜商品が欠けた状態は売り上げに直接響くので、ハイリスクな作り置きの再加熱をしてでも棚は充実させたい。衛生管理は二の次。総菜売場は『スーパーの最終処分場』なんですよ」
 こんな状況を知ってしまえば、総菜売場にはもう行けない!?】

(「お祭りのテキヤで売られている食べ物は安全なのか?」という項より)

【昭和の時代には、食中毒の温床のような扱いを受けていた「テキヤ」だが、実態はどうなのか?
「神農会(テキヤの組合)のヤクザ離れは進んだとはいえ、食中毒を出したらペナルティがあるから、変なことはしないよ。昔は金魚すくいの水で溶いた小麦粉でタコ焼き作ったり、虫のついた粉をフルイにかけて使ったりめちゃくちゃなのがいたけどね。今は野菜にせよ肉にせよ食材はその場で調理するし、すべて加熱するからね。でも、あえて言うなら、客が来ない場所に店を構えてるのはヤバい。神社だったら参道の入り口付近と神殿から離れてる場所。神農会はタテ社会で、いい店は好条件の場所に陣取れる。悪い店は刻みキャベツひとつにしても刻んだ状態で持ってくるし、ショボいクーラー使ってるから肉やイカなんて数時間で溶けちゃうんだ。食って死ぬことはないけど、何よりマズいよね、彼女に食わせちゃダメだよ(笑)」(現役テキヤ業・男・41歳)
 意外とマトモな業界なのだ。】

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 何年か前にベストセラーとなり、映画にもなった『県庁の星』という小説にも、この「スーパーの総菜売場の舞台裏」が紹介されていたのですが、総菜売場というのはスーパーの看板のひとつであるのと同時に、売れ残った商品を効率的に「活用」するための売場でもあるのです。「違法」ではないとしても、総菜にするために仕入れたものではなく、余ったり、賞味期限が迫っていたり、生で食べるのは危なくなってしまった「生鮮食料品」を「加工」して売っているのは事実ですし。

 この記事のなかで、インタビューに答えている「Jさん」の発言にどの程度の信頼性があるのかは疑問ではあるのですが(こういう記事だと、本当にインタビューしたのかどうかもわかりませんしね)、これを読むと、正直なところ、「スーパーで総菜を買うのを控えようかな」という気分にはなります。
 でもまあ、「食べ物を扱う現場は、そんなに清潔なところばかりじゃない」というのは、スーパーに限らないんですよね。
 このあいだ入ったラーメン屋では、食事中に丸々太ったゴキブリが、僕の目の前の床を悠々と駆け抜けていきましたし。

 『ミシュラン・東京版』でも三ツ星に輝いている鮨の名店「すきやばし次郎」の小野二郎さんは、「食べ物屋は掃除がいちばん大事」だと常々おっしゃっておられ、店内はいつもピカピカなのだそうですが、やはり、値段もそれ相応です。

 食べ物の舞台裏を気にしすぎても、不安になるばかりで、あまり良いことはないのかもしれませんね。

 ここで紹介されている「テキヤ」の話なのですが、文中では「意外とマトモ」と書かれていますが、それはどちらかというと、衛生的な環境であるというよりは、「その場で調理して、すべて加熱する」というように、「供される食べ物がリスクの低いものばかりになっている」からなのだと思われます。
 「どこで食べるか」だけではなく、「何を食べるか」というのも大事なことなのでしょうね。
 
 ちなみに、この特集記事で紹介されている「安全な飲食店を見分けるポイント」では、「スタンドアロン(店舗独立)」「上場している」「加工済みを提供(ファストフード店など)」「創業者がオーナー」という店が「より安全な可能性が高い」のだそうですよ。
 うーん、要するに「マクドナルドに行け!」ということなのだろうか……
 「あんなに安い牛肉が安全で衛生的なわけがない!」と、以前、小林よしのりさんがどこかで書いていたけれど……

 いろいろ考えてみると、「美味しくて安全な高級店」に毎日通えるわけではないし、毎日ファストフードというのも味気ないですから、「まあ、火が通ってれば大丈夫だろ」というくらいのスタンスがいちばんバランスがとれているのかな、という気がします。
 調理現場のことは、あんまり想像しないことにして。