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2007年10月30日(火)
ある郊外型書店の「本好きを唸らせるコミックス売り場の工夫」

『本棚探偵の回想』(喜国雅彦著・双葉文庫)より。

(喜国さんが、某ブッ●オフなどの新古書店におされて「新刊が売れない」ことに悩んでいる日本の出版業界を救うために「1日で5万円分の新刊本を買う」という企画を実行したときの話です)

【ここまで税込み38207円。あと1万円ちょっと。
 連れ合いを車で拾って事情を説明する。自分の買いたい本はみんな買ってしまった。お願いだから君の欲しい本を今日中に1万円分買っておくれ。
 やはり本好きの彼女がこの申し出を断るワケがない。少し離れた場所にある郊外型チェーン店に車を向ける。チェーン店の場合、本部から言われるまま、何も考えずに本を並べる店が少なくないのだが、この店には独自のアイデアがある。
 例えばコミックス。立ち読み防止にビニールパックをしてある店は多いのだが、ここは1冊は中が見えるようになっている。それだけならば普通。この店のユニークなのは、パックしてあるコミックスの表紙すべてに発売日が明記してあること。何気ないけれど、この効果は大きいと思う。近頃めっきり記憶力が落ちて、自分がどの本を買って、かの本を買ってないかさっぱり覚えていない僕が、本を買うときに頼りにしているのが奥付の発売日。「おっと、この作者の新刊がもう出たのか。早速買わねば。いや、表紙に見覚えがあるぞ。もう買ってたかな」と内容をパラパラしたって判るはずがない。だって読んでないもの。そこで奥付を見る。2001年6月発行。なんだ新刊じゃないじゃん。なら買ってるわ。2002年2月発行。あ、出たばっかだ。んじゃ買ってない。
 長編コミックスの表紙はどれも似ている。本来なら買ってくれるべき人が、中身が見られないせいで「もう買ったかも」と、スルーしている場合は多いと思う。そしてコミックスの場合、買うことを習慣にさせるのが商売の秘訣だったりするので、一度スルーしたまま読者でなくなる可能性は低くないのだ。逆に、同じ本を買って怒ってる人もいるだろう。腹を立てて「二度と買うかい!」なんてことになってる場合だってあると思うのだ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 この文章を読んでいて思い出したのですが、僕のお気に入りの郊外型書店も、これと同じことをやっているのです。その書店、けっして広くもなければ、書籍点数も大きな街の中心部にある紀伊国屋とかジュンク堂などに比べれば、本当に「微々たるもの」なのですが、そこに行くと、なぜかいつもたくさん本を買ってしまうので、「この書店は、きっと僕と相性が良いのだろうなあ」と思っていました。

 でも、あらためて考えてみると、あの書店が僕にとって気持ちよく本が選べる場所であるのは、こういうコミックスの売り方のちょっとした工夫に反映されているような、「本好きの心理をよく知っているスタッフがいるから」なのでしょうね。「相性の良さ」は、単なる偶然の産物ではないのです。
 僕はそんなにたくさんの種類のコミックスを買うほうではないので、喜国さんのこの文章を読むまで、「何気ないサービス」の本当の価値を理解していませんでしたし、多くのお客さんは、「こんなのわざわざ書かなくても、新刊だけ平台に置いておけばいいのに」あるいは「間違ってダブリ買いしてしまうお客さんもいるかもしれないんだから、勿体ない」「そもそも、これって何の意味?」と感じていたのではないでしょうか。
 ほんのちょっとしたサービスなんですけど、書店に置いてあるコミックスの数を考えれば、実際にこれをやるのは、けっこうな手間のはずです。おそらく、大書店で同じことをやるのは難しいでしょう。

 零細書店には厳しい時代ではありますが(実際、家族経営レベルの小さな書店でも、ここまでのサービスは難しいだろうし)、こういう「ちょっとした工夫」というのは、本好きにとってはけっこう「書店選びのポイント」になるのかもしれません。僕がよく行く書店も、おそらく、僕が気づかないところに「本好きが本を選びやすくなるような工夫」が張り巡らされているのです。そういうのって、スタッフも本が好きじゃないと、思いつかないし、そのメリットも理解できないんですよね。
 日頃コミックスをあまり買わない人にとっては、「『ONE PIECE』の最新刊がいつ出たかなんて、みんな知ってるに決まってるだろ!」って感じでしょうし。
 僕もそういえば『美味しんぼ』を何巻まで買ったか忘れてしまって、途中から買わなくなってしまったのだよなあ。ちょっと間隔が空いてしまうと、ああいう100巻もあるようなマンガの場合、自分がどこまで読んだか忘れてしまうんですよ本当に。
 ダブリ買いになるのは悔しいし、さりとて、途中を飛ばしてしまうのは、もっと悔しい。このサービスを考えた人は、たぶん、ダブリ買いで何度も悲しい思いをしたのではないでしょうか。

 同じような規模の「郊外型書店」であっても、入ってみるとついつい買い込んでしまう店もあれば、店内を何周しても、買いたい本が見つからない店もあります。そんなに大規模ではない書店がこれから生き残っていくためには、こういう地道だけど本好きには確実に伝わるサービスって、けっこう大きなヒントになるんじゃないかな、という気がするのです。



2007年10月29日(月)
鉄道マニアの屈折した「男らしさ」

『麗しき男性誌』(斎藤美奈子著・文春文庫)より。

(『鉄道ジャーナル』を紹介した項の一部です)

【鉄道マニアに関する研究はあまり見あたらないのだが、ひとつ紹介しておきたい文献がある。社会学者の鵜飼正樹氏による論考「鉄道マニアの考現学」(西川祐子・萩野美穂子編『共同研究 男性論』所収)である。
 鵜飼氏によれば、鉄道マニアは圧倒的に男性が多い(ついでにいえば風采の上がらない男が多い)。あらゆる分野に女性が進出している昨今、なぜこの分野だけは男性偏重なのか。若い女性に質問すると「進出したいとも思わない」。
 ジェンダー論の見地から氏は鉄道マニアの屈折した「男らしさ」を分析するのだ。男らしさを特徴づける性質に照らすと、鉄道マニアはかなり「男らしい」趣味だという。人よりよい写真を撮りたい等の情熱(優越志向)、コレクション熱(所有志向)、仕事や家庭も犠牲にしかねぬ我の強さ(権力志向)。これらはあらゆる「マニア」に共通の志向性だが、鉄道マニアには「男らしさ」が挫折せざるをえない事情がある。鉄道は、それを所有することも運転することもできないからだ。彼らが所有できるのは、写真(二次元)、模型(ミニチュア)、グッズ(部分)、時刻表(データ)、乗車体験(記憶)といった二次的なものにすぎない。鉄道趣味は「中途半端な男らしさ」を体現した世界だと鵜飼さんはいうのである。
 一方、政治思想史が専門で、同時に鉄道ファンである原武史氏は、『鉄道ひとつばなし』(講談社現代新書)の中で、鉄道マニアに女性がいないのは歴史的要因が大きいと書いている。近代日本の牽引役であり、もっぱら国家的、軍事的使命を帯びていた鉄道には、女性を排除する構造があったというのである。そういわれると、たしかにバスや飛行機に比べ、鉄道会社には女性の職員が極端に少ない。客室乗務員が女性だったら、事態はもうちょっとちがったのだろうか。
 その原武史さんに直接うかがったスペシャル情報によると、鉄道マニアには3つの属性があるそうだ。第一に圧倒的に男性ばかりの世界であり、しかも彼らは孤立している(これは鵜飼分析と同じ)。第二に「ぷちナショナリスト」(日本が好き。海外の鉄道には興味がない)。第三に現状追随型(地方の新幹線建設に反対したり、ローカル線廃止に反対するなど、地域の運動と連帯することはない)。】

〜〜〜〜〜〜〜

 斎藤美奈子さんがこの文章を書かれたのは2001年の12月。現在では「鉄道好き」をカミングアウトする女性も増えてきていて、だいぶ時代の流れは変わってきているようではあります。鉄道アイドル、略して「鉄ドル」なんていう女性もいるみたいですし、エッセイストの酒井順子さんも「鉄道好き」なのだそうです。
 それでも、全体的にみれば、「鉄道」というのは、やはり「男の趣味」だといえると思います。酒井順子さんに『女子と鉄道』という著書があるのですが、このタイトルが成り立つのは、「女性の鉄道好きに希少性があるから」なのです。
 『男子と料理』とか『女子と競馬』というようなタイトルでは、もはや「意外性」を感じる人はほとんどいないはず。

 ここで斎藤さんが紹介されている「鉄道マニアの男性の特徴」というのは、鉄道マニアではない僕でさえ、「ここまで言わなくてもいいのに……」と感じてしまうくらいで、この人たちは、単に「鉄道マニア」が嫌いなだけなのではないかと疑ってしまいます。「風采の上がらない男が多い」なんて、どうやってそんな統計とったんだよ!と言いたくなりますよね。

 しかしながら、「鉄道趣味は『中途半端な男らしさ』を体現した世界」だという言葉には、けっこう説得力があるような気もするのです。
 確かに、鉄道っていうのは、普通に生活している人間にとって、まず「自分のものにはできない」し、「自分で運転することもできない」ですよね。
 同じ「乗り物趣味」であっても、車であれば、F1で使われるフォーミュラーカーなどは別として、「それなりの高級車」なら、手に入れて自分のものにする、それが無理でも自分で運転してみるチャンスは誰にでもあるはずです。逆に「カーマニアだけど、車の写真を撮ったり、走っているのを見たりするだけで満足」という人はほとんどいません。
 飛行機でさえ、さすがに誰にでも運転できるというわけにはいかないかもしれませんが、ある程度のお金とやる気さえあれば、僕のような中年男でも、今から免許をとることは不可能ではありません。もちろん、ジャンボジェットは無理だろうけど。

 それに比べて、「鉄道を運転する」というのは、本当に敷居が高いことなのです。鉄道会社の運転士になる以外の「方法」は思いつかないし、ある程度年を取ってしまうと、運転士に転職することは不可能です。もちろん、ビル・ゲイツさんくらいの大富豪であれば「自家用鉄道を造り、自分で運転する」ことだってできるかもしれませんが……

 まあ、それが「『中途半端な男らしさ』を体現した世界」なのだとしても、僕はそれが無価値なものだとも思わないのですけどね。それが「男らしさ」だという信念のもとに、猛スピードで走ってきて前の車にパッシングをしまくる人とか、ボクシングの世界タイトルマッチで相手陣営を恫喝する人とかに比べたら、はるかに無害だし、正直なのではないかと。そういうのが「平和ボケ」なのかなあ。

【第三に現状追随型(地方の新幹線建設に反対したり、ローカル線廃止に反対するなど、地域の運動と連帯することはない)】なんていうのを読むと、「何かが失われてしまうことに対して、お祭り騒ぎをして寂しがってみたりはするけれども、それをひとつのイベントとして消化していくだけで、身を挺して反対するわけではない」という「鉄道ファン」って、実は、「日本人そのもの」のような気がします。
 僕にとっては、極端に「男らしい国」よりは、よっぽど住みやすい国ではあるんですけどね。



2007年10月27日(土)
「学校保護者関係研究会」で紹介された、驚愕の「保護者からの苦情例」

『となりのクレーマー』(関根眞一著・中公新書ラクレ)より。

【本来、苦情には簡単に解決できる他愛のない事柄から、解決の糸口がなく、クレーマーの疑い濃厚というケースまでたくさんあります。
 大阪大学の「学校保護者関係研究会」という会の合宿で、講演をする機会がありました。その会は、阪大を中心とした各大学のさまざまな領域の教職員を中心に、精神科の医師や弁護士、市の教育委員会参事、高校の教師、それに阪大の研修生10名ほどで構成されており、初等・中等教育に属する学校に寄せられる苦情への対応を検討することを、目的としています。
 そこで紹介された保護者からの苦情例を挙げてみましょう。(小野田正利『悲鳴をあげる学校』より)

「窓ガラスを割ったのは、そこに石が落ちていたのが悪い」
「けがした自分の子どもを、なぜ、あんなやぶ医者に連れていったのか」
「学校へ苦情を言いに来たが、会社を休んで来たのだから休業補償を出せ」
「運動会はうるさいからやめろ」
「野良犬が増えたのは、給食があるからだ」
「今年、学校の土手の桜が美しくないのは、最近の教育のせいだ」

 この申し入れを見たとき、多くの人は首を傾げるでしょう。
 しかし、いずれも実際に学校に寄せられたクレーム、苦情なのです。もちろん、これらのレベルでは、クレームを情報資源にしよう」などと考えられるものではありません。
 また、ある県の公立学校では、近在の住人から「風で校庭の土ぼこりが舞うから何とかしろ」と言われ、スプリンクラーを取り付けたそうです。そして、その後統合された新学校にも、最初から取り付けたとのことです。
 これらは、サービス業の現場で起こっている苦情とは少し違います。保護者と学校だけの関係をも言い切れない問題のようです。学校に寄せられる苦情の特徴を挙げれば、対象が広範囲であり、焦点を絞り込むことが難しいものもあり、必ず返事をしたり、しかるべき対応をとったりする必要があるのかどうかも疑問だと思います。
 学校の苦情の難しさは、単に学校の先生方が苦情対応に慣れていないというだけでなく、「プロの苦情対応者でも判断に困るような内容である」というところにあるようです。落としどころが見つからないという側面に注目すれば、ある意味において「クレーマー対応」に近いものが延々と続くものとも考えられます。こんな「苦情」に付き合っていたのでは、教師や学校関係者の神経がどうかなってしまうのも、仕方ないようにも感じます。】

〜〜〜〜〜〜〜

 学校の先生たちは、日々生徒を指導するだけでも大変だというのに、こんなさまざまな「苦情」にさらされているのですね……
 僕はこの「苦情例」を読んで、正直あきれ果ててしまいました。いやまあ、僕自身も休みの日に朝早くからアパートの前で大声を出して遊びまわっている子どもたちに対して、「かんべんしてくれ……」と不快になることはありますし、確かに「学校の近くで生活する」というのは大変なのでしょうけど。

 これらの苦情の中には、「今年、学校の土手の桜が美しくないのは、最近の教育のせいだ」というような、「こういう苦情を言ってくる人をいちいち相手にしていてもしょうがないよな」としか言いようがないものもあります。
 しかしながら、「運動会はうるさいからやめろ」「野良犬が増えたのは、給食があるからだ」なんていうのは、「運動会が騒がしいのは事実」ですし、「給食と野良犬の増加に因果関係が絶対にないとは言い切れない」はずです。だからといって、「運動会は中止」「給食はやめて学校内では飲食禁止」にするべきだと言われても、それはさすがに難しい。
 以前は、こういうデメリットに対して、近隣の住民は、「まあ、学校の近くに住んでいるんだから、しょうがないか……」と受け入れていたのだと思うのです。もちろん、僕が学生だった20年くらい昔にも、「買い食いをして道路を汚す」とか「登校時に道を占拠していて危ない」というような近所の人からの苦情というのは、けっこうあったと記憶しています。

 こういう「最近の学校への苦情」というのは、どうも、「個々の生徒や先生に対する苦情」ではなくて、「学校という『権力』に対する反発」あるいは「自分の日頃のさまざまな不満に対する捌け口」的な面が大きいのではないかと僕は感じました。「学校」というのは、「真面目な対応を常に求められる組織」であるがゆえに、クレーマーたちにとっても、「学校のくせに!」って言いやすい、格好のターゲットなんですよね。
 暴力団の事務所に「うるさい」とか「お前の事務所があるせいで、近くの公園の桜が美しくない」なんて苦情を言う人は、ほとんどいないはずですから。
 
 それでも、学校のスタッフは、そこが学校であるがゆえに、こういう人たちに真面目に対応しなければならない。だからこそ、クレーマーやモンスター・ペアレンツと言われる親たちは、学校に対してひたすら強気な態度に出てくるのです。
 学校の先生たちの仕事は、本来、クレーム処理ではないはずなのに。

 野良犬の例に関しては、食べ残しをちゃんと梱包するような措置は必要でしょうし、運動会のような『ハレの日』以外でも夜中に騒いで近隣住民に迷惑をかけるようなら、それは「仕方ない」とは言えないでしょう。 
 もちろん、お互いのために、言うべきところは言っていいはずです。 
 でも、「こんな「苦情」に付き合っていたのでは、教師や学校関係者の神経がどうかなってしまうのも、仕方ない」と僕も思うんですよね。

 もはや、学校はみんな郊外に移転するか、地下に潜るか、周りを高い壁で囲んで完全に外部から隔離してしまうしかないのかもしれません。
 それはそれで、「なんで近くに学校がないんだ!」「学校が地域社会から閉ざされていていいのか!」って怒る人も必ずいそうですけど……



2007年10月26日(金)
「『魔界村』というゲームの中心は、レッドアリーマーなんです」

『CONTINUE Vol.36』(太田出版)の「『ゲームセンターCX』特集」より。

(「スペシャル対談・有野晋哉(よゐこ)×藤原得郎(『魔界村』を創った男)」の一部です)

【有野晋哉:他の敵って決められた動きで出てくるのに、レッドアリーマーだけはグチャグチャじゃないですか。藤原さんは先ほどのステージ(編集部註:9月22日に東京ゲームショウで行われた「レトロゲームアワード」。この取材は「レトロゲームアワード」の終了後に収録された)で1回で倒していましたけど、何かコツってあるんですか?

藤原得郎:あります。

有野:僕はそのコツを教えてほしいんです!!

藤原:レッドアリーマーは、基本的にアーサーが攻撃したら避けるんですよ。空中にいたり、地上にもいたりするでしょ?

有野:高いところにいると、もう撃てないですよね。で、斜めにも来るじゃないですか。

藤原:空中にいたら手強いから、もう降ろすしかないんですね。そのためには「攻撃しない」んです。すると、降りてくる。で、攻撃するとまた上がっちゃうんで、しばらく我慢すると、突っ込んでくるじゃないですか。

有野:あー来ますね、ガッガガッガッって。

藤原:そのときがチャンスです。

有野:えー! そんなもんだったんですか。

(中略)

藤原:『魔界村』というゲームの中心は、レッドアリーマーなんです。主人公や世界観の前に考えられていて、そこから全部が派生しているんです。

有野:え、ボスとかが始まりじゃないんですか? その割にはレッドアリーマー、出番が少ないですね。

藤原:その代わり印象が一番強いですよね。本来は「あれが出たら、もうダメ」っていうくらいの位置付けにしようと思っていたんです。

有野:「こいつに睨まれたら、もうかなわんぞ」っていう。

藤原:だからボスが関門じゃなくて、レッドアリーマーが関門なんですよ。

(中略)

有野:僕も、昔はアリーマーくらいでやめてましたもん。

藤原:でも、当時は一度当たったらアウトっていうゲームが多かったんです。『魔界村』は、1回当たっても、まだ生き残っていますからね。だいたい、焦るとミスをするようにはなってるんですよ。だから、じっくりじっくり耐えて耐えて。

有野:じゃあ課長の噂を聞くと、シメシメなんじゃないですか。

藤原:そうですね。非常にありがたいです(笑)。こっちが思ったとおりに動いてくれて。

有野:作った罠、全部にハマるんですもんね。

藤原:それが作り手側の醍醐味ですから(笑)。それが一番いい。上手い人にはあまり興味がないんですよ。

有野:あ、そうなんですか!

藤原:「うん、上手いね」ってくらいで。どっちかっていうと、下手なプレイをしたときに面白いかどうかってことが大事なんです。

有野:どんなありえないミスをするかっていう。

藤原:それでクソーと思ってくれると。

有野:そうですね、まんまと思ってますね(笑)。

藤原:上手い人と下手な人のプレイって違いがあるんですよ。だから、上手い人を殺そうとするところでは、下手な人のほうがスムーズに行けたりするんです。両方を混ぜつつ作っていますね。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕もファミコンの『魔界村』の難しさにはさんざん苦しめられました。当時は、あまりに難しくて先に進めないので、「本当は容量が足りないか製作が間に合わなくて、ステージ3までしか入っていないのではないか?」なんていう噂も流れていましたし。
 でも、あの「宿敵」レッドアリーマーが、『魔界村』の真の主役だったというのには驚きました。確かに、あの強さと独特の動き(ああいう滑らかな曲線の動きをするキャラクターは、あのゲームではレッドアリーマーだけでしたし、当時のゲームのなかでも珍しかったのです)は非常にインパクトがありました。
 当時は「レッドアリーマーから先に進めない!」という理由で『魔界村』を投げ出してしまった人もけっこういたのではないでしょうか。
 「レッドアリーマーって、なんでボスキャラでもないのにこんなに強いんだ? ぜったい、早くゲームオーバーにしてやろうっていう陰謀だ!」とか、友達と言い合っていたような記憶もありますし。
 その後のシリーズでの活躍ぶりをみると、製作者側もアリーマーが「お気に入り」だったのだとは思っていましたが、それにしても、『魔界村』の世界観の中心が、アイツだったなんて! 

 そして、この対談のなかで、もうひとつ僕の印象に残ったところは、藤原さんが、「下手なプレイをしたときに面白いかどうかってことが大事」と仰っておられるところでした。ゲームを作る側にとっては、「クリアできる正規のルート」をキチンと作ることが大事なのだと僕は考えていたのですが、ゲームというのは、「ミスしたときに面白くなくてはダメ」なんですよね。
 言われてみれば、どんなゲームでも、一部の超絶ゲーマーを除くプレイヤーは、ノーミスでクリアできることなんてほとんど無いはずです。
 「スムーズにクリアできるシーン」よりも「やられてゲームオーバーになるシーン」を、はるかに高頻度に体験しなければならないわけで、「下手なプレイをしても面白いゲーム」じゃないと、確かに長時間遊ぶのは辛いはず。ゲームオーバーになるときって、基本的にプレイヤーはムカムカしているのですが、それでも思わず「もう1回!」とスタートボタンに手が伸びるようなゲームは、やはり「いいゲーム」なのでしょう。
 「面白いゲーム」っていうのは、ある意味「今度はどんなやられ方でゲームオーバーになるのかな?」という楽しみがあるゲームなのです。悔しいけど、キャラクターのやられっぷりに笑っちゃうような。
 そういう意味では、『スーパーマリオ』などは、本当によく考えられ、作りこまれていますよね。

 ゲームを作る人の思い入れや重視しているポイントというのは、プレイヤーが意識している部分とちょっと違うみたいです。
 でも、ファミコンの『魔界村』のアリーマーは、さすがにちょっと難しすぎたような気が、今でもするのです。
 あれをアーケードでクリアした人って、そのお金でファミコン本体くらい買えたんじゃないかなあ……



2007年10月25日(木)
「駅から徒歩60分の住宅地を売る」ための、2つの広告コピー

『広告コピーってこう書くんだ!読本』(谷山雅計著・宣伝会議)より。

(新潮文庫の「Yonda?」や「日テレ営業中」などの名コピーの生みの親、コピーライターの谷山雅計さんが「広告コピーを書くための技術」を詳説された本の一部です)

【コピーというのは、基本的には人を納得させるための表現です。けれども、それにもかかわらず、世の中のコピーには、単にカタチだけの納得に終わっているコピーと、ホントウの納得につながっているコピーの2種類があると思うんです。
 まだぼくが新人の頃、博報堂のクリエイティブ研修で、「駅から徒歩60分の住宅地を売るコピー」という課題を出されたことがありました。
 歩けば2時間かかる距離で駅が2つある。そのちょうど真ん中、つまりどちらの駅から歩いても60分かかる場所にある住宅地を売るのは、どういうコピーがいいのか、という話です。
 そのとき、そこで「たとえばこういうコピーが、いいコピーです」という例が2つあげられていました。
 ひとつは、「よく来たな。実感、いい友。」みたいなコピー。つまり、「こういうところまで来てくれるのが、本当の友だちだ」というニュアンスのもの。
 でも、それが「いい例だ」と言われても、ぼくはいまひとつ納得できなかった。
 たしかに駅から徒歩60分もかかるところにわざわざ足を運んでくれるのは、いい友だちです。それはウソではないでしょう。しかし、そのことを確認するために、誰が真実の友かと見きわめるために、住宅地を買おうと思うことはありえないでしょう。
 ”友だち”を語る言葉としては納得できるのですが、住宅地を売るためのコピーとしては「?」ではないかと、感じたわけです。
 そしてもうひとつの”いいコピー例”は、「駅から徒歩60分の場所に、駅ができないわけはありません」というものでした。
 たしかに駅から徒歩15分のところなら、少しぐらい人が増えようとも、わざわざ新しい駅をつくろうとは思わないかもしれません。けれど、60分もかかるところに人が集まりはじめたら、鉄道会社も駅をつくろうとするでしょう、という視点。
 これも無理があるといえば、無理があるコピーです。まだあるわけではない駅を想定して、モノを売ろうとしているわけですから。
 でもぼくは、このコピーの視点は、「家を買おう、宅地を買おう」という気持ちにつながっていると感じました。
 言ってみれば、ひとつめのコピーは、カタチのうえで納得しているように書いているだけだと思います。「宅地を買おう」という実際の動機づけにはなっていないわけですから。
 それに対して、2つめは、ちょっと論理の飛躍があったとしても、ホントウの意味でも納得をうながしています。
 コピーライターに求められるのは、もちろん、ひとつめではなく、2つめのコピーだとぼくは思います。
 ただ、このことは実際の広告の世界でも、ちょっとあいまいになっていて、両方が同じように評価されてしまっていることもあります。】

〜〜〜〜〜〜〜

 この「駅から徒歩60分の住宅地を売るためのコピー」の話は、僕にとっては非常に印象深いものでした。
 僕はコピーライターではありませんが、もし同じような課題を与えられたら、おそらく前者の「よく来たな。実感、いい友。」みたいなコピーを書こうとしていたと思います。もちろん、こんなにシンプルにうまく書けはしないでしょうが、それでも、こういう傾向のもの、誰かに「上手いね」って言ってもらえそうなものを書こうとしたはずです。
 「駅から徒歩60分の場所に、駅ができないわけはありません」というコピーって、前者に比べたら、たしかに一捻りしてあって、面白い発想だな、とは思いますが、なんとなく言葉のインパクトや「面白さ」が足りないような気がしますし。
 
 でも、人気コピーライターとして活躍されている谷川さんのそれぞれのコピーについての解説を読んで、僕は「なるほどなあ」と感心すると同時に、ちょっと恥ずかしくなったりもしたのです。
「ああ、僕はいつも、凝った言い回しやインパクトのある表現で、自分のことをアピールしようとするばかりで、伝えるべき相手の顔が見えていなかったのだなあ」と。
 「よく来たな。実感、いい友。」というコピーを見せられたら、多くの人は、「ああ、上手いコピーだな」と思うはずです。「歩く距離の長さを超えた友情」なんて、ちょっといい話じゃないですか。
 しかしながら、確かに「友情を確かめるために、わざわざ駅から60分も歩かなければならない家を買う人はいない」のです。そんなことをわざとやるような人とは、僕は友だちになりたくありません。
 おそらく、このコピーは、言葉として「感心」されることはあっても、「広告」としては不合格なのです。

 「駅から徒歩60分の場所に、駅ができないわけはありません」というコピーのほうは、最初に聞いた瞬間に「そうだな、そのうち駅ができるだろうな」と思わせるインパクトがあります。
 まあ、5分くらい考えているうちに、「でも、駅なんていつできるかわからないし、それまで毎日60分も歩くのはちょっと……」と感じる人が多いのだとは思いますけどね。
 しかしながら、中には、「そうは言っても、今は駅から徒歩60分だからこの値段で買えるのかもしれないし……」という人も出てくるはずです。
 そういう意味では、少なくとも「友だちの話で完結していない」分くらいは、こちらのほうが「すぐれた広告」なのでしょう。
 少なくとも、こちらのほうが「この住宅地を買ってくれるかもしれない人の顔が見えている広告」だと言えそうです。

 実は、こういうのって、「広告コピー」の話だけではなくて、誰かと話をするときやネットに文章を書くときにも考えるべきことなのでしょう。
 僕たちは、しばしば、「読んだ人を驚かせるような、カッコいい、インパクトがある言葉」を使いたがります。「どうだ、オレってすごいだろ!」と内心ほくそえみながら。

 でも、そういう言葉って、上滑りしていくだけで、相手にとっては、単に
「鼻につく言い回し」でしかなかったりしがちです。「オレがオレが」っていう人の話って、誰だって、付き合いきれないものだから。
 そんなことはわかっているはずなのに、実際に「相手に伝えることを意識して言葉を選んでいる人」っていうのは、けっして多くはないのです。
 直接相手の顔が見えないネットではなおさらのこと。

 どんなに「自分にとって優れた言葉」でも、それを求めていない人の心には響かない。
 いや、そもそもそれって、本当に「いい言葉」なの?



2007年10月23日(火)
セブン−イレブンの「コンビニでおでんを売る秘訣」

『セブン−イレブンおでん部会』(吉岡秀子著・朝日新書)より。

【おでん部会には、高谷のほかに、もうひとり重鎮がいる。サタケ食品研究所長の佐竹武司だ。確かに、他社のおでん担当MD(マーチャンダイザー:仕入れルートの開拓や既存商品の改良、価格設定などの幅広い商品政策(=マーチャンダイジング)業務の担当者)から、「セブンのおでんを作るメンバーに佐竹さんって人いるでしょ?」と、質問されるので、業界ではやり手と有名らしい。おでんを売る秘訣は何か?と聞いてみた。すると即座に、
「大根とたまごをめちゃくちゃおいしくする」
 と、答えが返ってきた。
 前述したとおり、地域によって売れる具はばらばらだが、どの地域でも売上トップ1位、2位は大根とたまご。アサヒビールお客様生活文化研究所が2004年に、成人男女1674人に「好きなおでんだね」(複数回答)アンケートをおこなっている。結果は、大根が79.8%でダントツトップ。続いてたまごが71.0%。3位のこんにゃくは41.3%と、大根とたまごの人気は、他を寄せ付けない。この定番を、どのチェーンよりもおいしくすれば、おのずとおでんの売上は伸びるというのだ。
 セブンのおでんの大根は、90年代から契約した専用農家で作っている。コンビニおでんが消費者の間に定着した当時、いち早く「大根を差別化商品に育てる」取り組みがスタートしていたのだ。まず、名産地である鹿児島県の契約農家を集め、土壌を肥沃な土質に育て直すところから着手した。土の状態を見る専門家が常駐してチェックを重ねる。並行して畑の片隅に加工工場を建て、収穫後、すぐ加工できるようにした。鮮度を最重視したのである。おでんの大根はサイズが厳しく指定されているから、中サイズの大根1本からは6個のおでんだねしかとれないが、端物はおろし大根に、葉っぱはフリーズドライにして味噌汁の具にと、すべてを残さず使っている。
 その大根。2005年は「下ゆで」と「隠し包丁」という工程を加え、2006年は、調理工程に使うすべての水を浄水器に通した水に変更し、大根本来の苦味と甘みを増す工夫をした。こうした手間ひまで、年間4万トン以上の大根が売れ、毎年、売上1位を確保している。さすがに強い。
 ある日、佐竹と高谷は、そろってたまご部会に出席していた。隠し包丁、浄水器導入と、おでんだねキングながらブラッシュアップを続ける大根部会に負けていていいのかと、たまご部員にハッパをかけていたのだ。
 個人的には、セブンでおでんを買うときは、大根がロールキャベツになるときがあるが、たまごは絶対といっていいほど買う。セブンが取引しているたまごメーカー、イセデリカの「デリシャス玉子」は、セブンの”留め型”だと、サンドイッチの取材のときに小耳にはさみ、注目していたのだ。
 おでんのたまごを買わない人に理由を聞くと、大きく2つの理由があるという。ひとつは「たまごアレルギーだから」。もうひとつは「黄身のニオイがいや」。前者は残念ながら体質的なことなのでふれずにおくが、後者は納得できる。イセデリカでは、その臭みを低減するために、たまごを産むにわとりの飼料にオレガノ・シナモンなどのハーブ類をまぜ、黄身の甘みや色みを強めるためにバニラやマリーゴールドの花弁抽出エキスまで加える工夫をしているそうだ。理由はそれだけではないだろうが、なぜか、セブンのおでんのたまごは黄身がしっとりとしているように思う(90年代は殻つき重量52〜61グラムの小ぶりのものを使用していたが、2002年から、適度な食べ応えのある58〜70グラムのたまごを使用)。
 にもかかわらず、おでんの重鎮たちは、「来年はたまごを変えよう」とまで言い切った。部員のイセデリカもケンコーマヨネーズも、「もっと新しい挑戦をしなくちゃいけませんね」と、厳しい顔つきをしていた。これ以上、どこをどうやって改良するのだろう。興味津々である。大根もたまごも、シンプルなものだけに毎年改良するのは至難の技だ。なのに、毎年どこかが変わっているのだ(他の具材も同じ)。この微妙な変化にひかれて、おでん好きは、ついセブンに立ち寄ってしまう。】

〜〜〜〜〜〜〜

 セブン−イレブンには、1999年に発足した「おでん部会」という組織があり、各店舗での味や具材の統一や新商品の開発のため、全国のベンダーや専門メーカーが毎週ミーティングをしているのだそうです。

 僕はコンビニをよく利用していますので、もちろん、20年前に比べたらコンビニの食品のレベルが上がってきたと思いますし、最近はコンビニの商品のほうが、街の「専門店」より美味しい場合も少なくない、と実感しています。それでも内心「でも、コンビニの食品なんて……」という気持ちはあるのです。
 大量生産され、保存料たくさん使われた「いいかげんなもの」ではないか、と。
 しかしながら、この本を読んで、セブン−イレブンの「凄味」に正直圧倒されてしまいました。

 もちろん、この本を書かれている吉岡さんは、セブン−イレブンに許可を得て取材されているわけですから、書ける内容に制限があるのではないかとは思うのです。でも、少なくともこの本に提示されている事例においては、セブン−イレブンは、「大手だから、コンビニだから、質の低い食材をそれなりに調理して大量生産する」というような態度で商売をしているわけではないみたいです。
 むしろ、「大手であり、たくさん売れるのだから」ということでメーカーを囲い込んで巨大なプレッシャーをかけ、より質の高い商品を生み出し、競合他社と差別化するための努力をしているというのが、「追いかけられる巨大企業」の実態。「企業努力」と言えばそれまでだし、消費者にとってはメリットが大きいのは事実なのですが、実際にその開発や製造にたずさわる傘下のメーカーにとっては、「コンビニで売ってもらえるかどうか」は死活問題なだけに、かなりキツイ思いをしているのだろうなあ、と思われます。

 僕もコンビニでおでんを時々買うのですが、やっぱり、おでんを買おうと思うときには、セブン−イレブンを選ぶことが多いです。正直、そんなにすごく美味しいという印象もないし、僕にとっては、ちょっと味が「お上品」で、子供の頃家で食べていた「煮えすぎたおでん」が懐かしくなることも多いのですが、少なくともコンビニチェーンのなかでは、セブン−イレブンのものがいちばん好きです。
 しかし、あのおでんって、「余りモノの商品を加工してボロ儲け」って感じなのかと思い込んでいたのですが、実は、ここまで細心の注意と創意工夫のもとに「開発」されていたものだったのですね。
 ダシが命、であるのはもちろんのことなのでしょうけど、普段は「違い」を意識することが少ない「具材」のほうでも、あの大根は土から作っているし、たまごは飼料にハーブを混ぜているなんて!
 「勝ち組」である巨大企業が、ここまで徹底して前に進んでいるのをみると、後発組がかわいそうになってしまうくらいです。

 それにしても、「大根とたまごをめちゃくちゃおいしくする」っていうのは、おでんを買うときに、「じゃあ、大根とたまごと……」からはじめる僕にとっては、まさに「読まれている」としか言いようがありません。
 いや、そんなに「すごくおいしい!」って思ったことはないつもりなんだけど、レジの前に行くとついつい買っちゃうので、やっぱり「僕にはおいしく感じられている」のだよなあ……



2007年10月20日(土)
内田有紀「ワガママってなんだろうって全然分からないんですよ」

『hon-nin・vol.04』(太田出版)より。

(吉田豪さんのインタビュー記事「hon-nin列伝・第五回」の一部です。ゲストは内田有紀さん。内田さんの主演映画『クワイエットルームにようこそ』の話題から)

【吉田豪:『クワイエットルームにようこそ』は主人公の再生の物語ですけど、内田さんも無事に再生できてきたというか。

内田有紀:再生……できてるのかなあ? できてるとしたら、それは先輩たちとの出会いのおかげですね。先輩たちが、私に「もっと生きやすくなりなさい」って言ってくれて。でも、「ワガママになりなさい」って言われるのはすごいプレッシャーで。ワガママになる理由がわからないので。

吉田:ワガママになれない!

内田:ワガママってなんだろうって全然分からないんですよ。だから自分がワガママなのかどうかも分からない。でも「ワガママになりなさい」って言われることが昔から山盛りあるので、じゃあワガママじゃないのかなって。「いい子だ」って言われることも多いけど、何をもっていい子なのか分からないし。だってそれ、ただ顔色伺ってるだけで、もしかしたらすっごい嫌なヤツじゃんって。

吉田:腹の中は黒いかもしれないし。

内田:そうじゃないですか。人に合わせてるだけだから、いい子ってなんだろうって思うし。もしかしたらそういうのが自分なんだっていうのは思ってますね。そんな枠にはべつに入る気もないし、入りたい思ってなかったんだけど、入らないと居場所がなかったから、誰かが言うなにかになってたし。でも、それがいまはお芝居で監督が言うA子さん、B子さんになるっている期待に応えることに喜びを見つけたんですよ!

吉田:芝居が好きっていうのは自分そのものじゃないからなんですかね?

内田:ホントそう! 自分でいなくていいから。自分でいると、何をしていいかわかんないんですね。ホント……これ、どうなんでしょうね?

吉田:ホント自分が好きじゃないんですね。

内田:好きになろうとしてますよ。

吉田:好きなところはどこですか?

内田:人に気ぃ遣うとこですかね。

吉田:ダハハハハ! それはいいところなのか悪いとこなのかという(笑)。

内田:そうそうそう! でも、人が嫌な感じにならないんだったらいいんです。それで私が疲れても、そんなの他人は知ったこっちゃないし。私が勝手に疲れてるだけで、そんなのべつにマッサージ行けば治るしって感じですよね。その場の空気が悪くなるのが一番嫌です。でも、言いたいことも……芝居をすることに関しては言えるようになってきてるので。

吉田:タレントさんでは珍しいぐらいに気を遣うタイプなんでしょうね。

内田:これが気を遣ってるのか鬱陶しいだけなのか、全然分からないです。面倒くさいですよ、延々グジグジこんなことばかり言ってますもん。】

〜〜〜〜〜〜〜

 内田有紀さんがこんな人だったとは……
 僕が記憶している「アイドル時代」の内田さんは、天真爛漫で何の悩みもなさそうなイメージだったのですが、その内面には、いろんな葛藤があったみたいです。内田さんは、このインタビューの別のところで、「こんな見かけに生まれてきてしまったから、かえって自分の内面との折り合いをつけながら芸能生活を送っていくのが辛かった」というようなことも語っておられます。

 僕も子供の頃は「いい子」と言われることが多かったのですけど、ここで内田さんが仰っている【何をもっていい子なのか分からないし。だってそれ、ただ顔色伺ってるだけで、もしかしたらすっごい嫌なヤツじゃん】というような疑問はずっと持っていたような気がします。尾崎豊の歌を聴いて、学校のガラスを割っちゃうような「青春」に走らなかったのは、別に現状に満足していたわけじゃなくて、そんなことをやっても人生全体の収支において、何のプラスにもつながらない、と妙に達観していただけですしね。
 今から考えれば、「学生時代にあまり悪いこともできなかった自分」が、ちょっと寂しく感じられることもあるのですけど。

 まあ、30余年も生きてみると、実際のところ、人間の性格とか考え方なんていうのは、そう簡単には変えられないものだということもわかります。他人に「もっとワガママになればいいのに」と言われても、ワガママになったことがない人間にとっては、「ワガママになること」のほうが、かえって「ワガママな自分を演じるというストレス」につながってしまったりもするのです。

 外見から受けるイメージや周囲からの評価や宣伝文句だけで、「あの人はこういう人だ」ってわかったつもりになりがちな僕にとっては、あらためて「人は見かけによらないもの」なんだなあ、と考えさせられるインタビューでした。
 



2007年10月19日(金)
本田宗一郎さんの「遊びの哲学」

『本田宗一郎の見方・考え方』(梶原一明監修・PHP研究所)より。

(「本田宗一郎の言葉」という項から。文・梶原一明(『本田宗一郎の名言』『本田宗一郎の哲学』などより引用・抜粋されているそうです))


「遊ぶことは相手の身になること」

 遊びに行くのもモテに行くことだと私は信じている。縄のれんや、煮干をかじって立ち飲みする酒屋の店先に行くのだって、どこかしらモテるために行くのである。縄のれんのおばちゃんや、酒屋のおっさんが、笑顔を向けて歓迎し、互いに気の合うことが嬉しいのである。
 酒を飲んで楽しいのは、私にとってなんのかざりもなく相手と共感できるときである。そのためによく遊ぶのである。私の人生は仕事で明け暮れはしたが、遊ぶのもまことによく遊んでいる。これは私のささやかな人生哲学である。相手の身になることの初歩なのだ。カネを出すのはオレだというので相手を無視したところで、そこになんの楽しさがあるだろうか。
 遊びというのは、大切なものである。遊びの下手な人間は人にも好かれないし、商売もできない。またとない時間を、その場にいる人たちとみんなで、より楽しく、よりほがらかに、共感の笑いとともにすごさずしてなんの遊びだろう。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕は自分のことを「遊び下手な人間」だと思っているのですが、この本田宗一郎さんの言葉にはとても感銘を受けてしまいました。
 僕にいつも、「女の子が接客してくる店」で、楽しそうに盛り上がっている同僚や上司に対して、「ふん、お金でチヤホヤされたってさ……」などと内心毒づきつつ、自分の隣に座っている女の子はさぞかし面白くないんだろうな、と悲しくなってしまうんですよね。いや、そこでお金使うんだったら、新刊書か新作ゲーム買いたい……とも思いますし。

 でも、『世界のHONDA』を創りあげた本田宗一郎さんの、この「遊びの哲学」を読むと、本田さんは、「遊ぶ」というのは単なる「気分転換」ではなくて、「相手の身になることの初歩」だと考えていたようです。
「オレは客なのに、なんで女の子に『面白い話してよ〜』なんて言われて、自分から話さなきゃいけないんだ!」と腹を立てるのではなく、「せっかくこの店に来たのだから、自分から面白い話をしてでも、一緒に楽しんだほうが得だし、コミュニケーションの練習にもなる」ということなんですよね、本田さんにとっては。
 たしかに、そう言われてみればその通りで、女の子が接客してくれる店で「うまく遊んでいる」人は、仕事においても接客が上手いような気がします。本人にそういう自覚があるのかどうかはさておき、「うまく遊べるかどうか」というのは、「他人とのコミュニケーションの技術」と深く関連しているんですよね。
 それにしても、「女の子がいる店」ならともかく、「縄のれん」や「立ち飲みの酒屋の店先」でさえ、「モテに行く」という感覚は凄いです。
 「カネを出しているのはオレだ」「客なんだから、サービスしてもらうのが当たり前」「店員は、客に言われたことだけキチンとやってくれればいい」というのが現代の一般的な「客の論理」ではないでしょうか?

 しかしながら、本田さんは、「どうせカネを出すのなら、自分だけじゃなくて、周りの人や店員さんも喜ばせたほうが楽しいじゃないか」と考えていたわけです。これぞまさに「サービス精神」!

 本田さんは、「とにかく周りを喜ばせるのが好きな人」だったのかな、という気がしますし、そういう性格こそが、本田宗一郎さんの「誰にもマネできない『天賦の才能』」だったのかもしれませんね。



2007年10月17日(水)
「NHK視聴者コールセンター」への困った質問と回答例

『日経エンタテインメント!2007.11月号』(日経BP社)の特集記事「映画・音楽・テレビの裏側」の「NHKの疑問〜日本でただ一つの公共放送は疑問がいっぱい」より。

【Q:コールセンターに寄せられる最も多い問い合わせって何?

 NHKには「視聴者コールセンター」と呼ばれる問い合わせセンターがあり、常時約200人のコミュニケーターが交代で電話の受付をしている。問い合わせの内容により、番組内容などを担当する「放送・経営」部門と、受信料などを担当する「営業」部門の2つの部署に分かれている。
 「放送・経営」部門には1日に3000件を超える問い合わせがあるという。15秒に1件はコールがある計算だ。中でも一番多いのは「放送内容の変更」に関するもの。災害時の緊急放送などにより、予定の番組が中止になると急増する。『冬のソナタ』にはじまる韓国ドラマブームでは「毎週楽しみにしてるんだから!」というヒステリー気味の人もいたそう。
 無茶な問い合わせも多数。スポーツ中継では「スライダーとカーブはどう違うんだ」とか、「どうしてさっきのがイエローカードで、今のは反則じゃないんだ」といった質問も。さらに「『プロジェクトX』の主題歌『地上の星』の歌詞が分からないから歌ってくれ」と言われ、電話口で歌ったこともある。「どんな問い合わせでも、できる限りの対応はしたい」(担当者)

<センターへの困った質問と回答例>
(1)今から言う日本語をロシア語に訳してください。

担当者「『ロシア語会話』の視聴者からだと思いますが、即答は無理ですので、日本語の原文を頂戴し、訳したものを後日お送りしました」


(2)民放のバラエティ番組がくだらなすぎる!

担当者「まさか他局のことまで言われるとは…。それでもご意見は拝聴し、主要な放送局が集まる連絡会でお伝えをいたしました」


(3)紅白を生で見たい。どうして抽選が当たらないんだ!

担当者「紅白の抽選は警察官立会いのもと厳正に行っていますので、その旨をお伝えして、何とかお怒りを収めていただきました」】

〜〜〜〜〜〜〜

 こんなのばっかりじゃない、と信じたいところではありますが、これが「視聴者コールセンターの現実」なのかもしれませんね。僕の知り合いの女性が勤めていた某有名企業のコールセンターも、けっこう大変だったそうですし。
 もちろん、まともな質問や頷けるクレームもあるのですが、「毎日電話してくる、とにかく話し相手が欲しいだけの人」とか「明らかに電話してくる本人の責任なのに、やたらと高飛車にクレームをつけてくる人」って、けっこういるらしいんですよね。いわゆる「セクハラ系」の電話をかけてくる人以外にも、「困った電話魔」は、けっこう存在しているのです。

 僕は別にNHKに好感を抱いているわけではないのですが、この「視聴者コールセンター」で働いている人たちは、ものすごくストレスたまるだろうなあ、と同情してしまいました。仕事とはいえ、誰かの「行き場のない怒り」みたいなものを1対1で受け止めなければならないのですから。
「なんで『冬のソナタ』を放送しなかったんだ!」みたいなクレームに対しては、逆に「平身低頭して謝るしかない」わけで、かえって担当者は気楽なんじゃないかとは思いますけどね。
 災害時の緊急特番などで予定の番組が中止になった際に、コールセンターにクレームをつけるなんてことは、内心不満に思っていてもなかなかできることじゃないだろうという気がするのですが、「お互いの顔はわからないけど、確実に電話の先に人が存在している」という状況は、人間を過剰に「正直に」してしまうのかもしれません。

 しかし、これを読むと「視聴者というのは、NHKのコールセンターにこんなことまで期待しているのか」と驚くばかりです。「スライダーとカーブの違い」とか「『地上の星』の歌詞は?」なんていうのは、「インターネットの検索エンジンで調べろよ!」とか、「近くのCD屋に行けよ!」と思わず突っ込みを入れたくなるのですが、そんな「お客様の声」にも、真摯に応えているNHK!
 いや、親切だとは思うけど、そんなことに受信料が使われているのって、いったいどうなんだろう?とも感じます。ロシア語の訳を頼んできた人も、本人はものすごく困っていたのでしょうが、(たぶん)無料で訳したものを送ってあげるなんて、さすがに「過保護」なのではないかと。

 テレビ局のなかには、(某TBSのように)視聴率稼ぎだけが目的なんじゃないかと感じるくらい酷いところもありますが、その一方で、「視聴者だって、こんなにテレビに甘えている」のも事実なんですよね。
 それにしても、この「視聴者コールセンター」の仕事そのものが、『プロジェクトX』のネタになりそうだよなあ、もう番組は終わっちゃったけど……



2007年10月16日(火)
部屋に遊びに来た友達に「本を貸して」と頼まれたとき、どう対応しますか?

『作家の読書道』(「Web本の雑誌」編・本の雑誌社)より。

(「蔵書を「貸して」と頼まれたときの作家たちの反応。
 まずは吉田修一さん(代表作『パレード』『パーク・ライフ』等)の場合)

【インタビュアー:読み終わった本はとっておきますか?

吉田修一:学生の頃に読んだ本は、人の本ばかりだから全然持ってないんです。だから、買った本はなるべく手元に置いておくようにしていますね。売ったことも、あげたこともないです。たまに「読ませて」とか言われると、同じ本を買って渡すようにしています。貸さないとケチみたいだし、返ってこないのもイヤだし(笑)。】


(森絵都さん(代表作『DIVE!!』『風に舞うビニールシート』等)の場合)

【インタビュアー:森さんの人生を変えた、そんな本はありますか。ちょっと大げさですけど……。

森絵都:気に入った本はすぐ人に貸したりあげたりしちゃうから、好きな本ほど手もとに残っていないんです。(以下略)】


(岩井志麻子さん(代表作『ぼっけえ、きょうてえ』『trái cây(チャイ・コイ)』等の場合)

【インタビュアー:買った本はきちんと取っておくほうですか。

 あまり大事にはしていないですね。本は消耗品という考え方なので。特にサインしてもらった本などでなければ、貸すし、あげるし。私は心の中にあるものを大事にしたいのであって、本はただの紙ですからねえ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 この本のなかでは、たくさんの人気作家が「本」に対するざまざまな思い出を語っているのですが、「作家」のなかでも、「本」に対する接し方というのは人それぞれみたいです。

 ここに引用させていただいた3名のなかで、僕がいちばん共感できたのは吉田修一さんで、僕にとっては、「部屋に遊びに来た友達に、『本を貸して』と頼まれたときに、どう対応するか」というのは、ものすごく難しい問題だったのです。

 「本」というのは、人に貸すとなかなか返ってこない傾向があるのです。しかも、値段がそんなに高いわけでもなく、一度貸してしまうと「早く返して」と催促するのもなんだかちょっと気まずいのですよね。
 本好きの人には分かっていただけると思うのですが、自分の本棚の一角から、一時的にでも「そこにあるべき本」が失われてしまうというのは、とても不安なものなのです。にもかかわらず、「貸して」と頼まれると、嫌われたり、ケチなやつだと思われるのがイヤで断ることもできないし、だからといって、すぐに自分で買いなおすというのも、やっぱりちょっと勿体ないし、「友達を信じられないのか」と自己嫌悪に陥ってもしまいます。
 そして、「貸して」と頼まれる本の多くは、僕も気に入っていたり、ちょっと珍しい本だったりするものですから、一昔前に田舎で生活していた僕にとっては、「この本がもし返ってこなかったら……」という危機感もひときわ強かったのです。
 今みたいにAmazonでいつでも好きな本が検索でき、買える時代(そして、それを買い漁ることができるくらいの経済力がある年齢)だったら、少しは違っていたのかもしれませんが……

 その一方で、「自分が面白いと思った本を、自分が好きな人に(これは、「恋愛関係に限らず、です)読んでみてもらいたい」という気持ちも、確実にあったんですよね。あの頃は、ネットで感想を書いて誰かに読んでもらうなんてことはできなかったので、誰かと感想を語り合いたいって「飢餓感」は、今よりいっそう強かったのです。

 吉田修一さんの「たまに『読ませて』とか言われると、同じ本を買って渡すようにしています」という発言を読んで、僕はもう「ああ、僕もそうしたかったんだよずっと!」と強く頷いてしまいました。どうせなら古い本を貸して、自分が新しい本を手元に置いたほうが得なのかもしれませんが、本って、不思議なことに他人の「中古」はちょっと気になるのに、自分の「中古」には愛着が湧いたりするものですし。
 「本を返さないようなヤツとは、友達になんかなるな!」という意見もおありでしょうが、僕自身も本というのは長い間借りっぱなしになることが多いし、そういう「アバウトさ」があるくらいの人のほうが、友達としては付き合いやすかったりもしますからねえ。
 
 「この本を貸すくらいなら、本代あげるから、自分で探して買って!」って言いたいときもあるんですよほんと。もちろん、それを実際に口にしたことはありませんけど。
 森さんや岩井さんのような「どんどん本を人にあげられる人」って、本当に凄いなあ、と僕はただ、感心してしまうばかりなのです。



2007年10月14日(日)
富樫義博さんと本宮ひろ志さん、二人の「天才マンガ家」の肖像

『サイゾー』2007年10月号(インフォバーン)の特集記事「人気マンガの罪と罰」より。

(2人の「人気マンガ家」の裏話。まず『HUNTER×HUNTER』が連載再開されたばかりの富樫義博さんについて)

【連載再開の知らせは、ファンにとって喜ばしいものだが、業界内では「8〜10週分ほど、掲載できる分量がたまったというだけで、完全復活には至らない」という見方が濃厚だ。一部のマンガ編集者の間では、「富樫を超えるマンガ家をもっと輩出しなければいけないのが『週刊少年ジャンプ』なんだから、富樫にまだ頼っている編集部はヤバいのでは?」といった、厳しい指摘もある。
「本当は、富樫さんが今『もう一度描きたい』って言っても、『今さら何言ってるんだ』と、編集部が制さなきゃならないんですよ。それなのに、連載を喜んで再開させちゃうのは、ジャンプが弱体化していることの表れですね」(元編集プロダクション社員)
 1998年から連載を開始した同作は、アニメ化もされた大ヒット作品だが、開始翌年から徐々に休載が目立つようになり、2006年にはたった4回、2007年においては、この原稿の執筆時点で、まだ1回も連載誌上に掲載されていないのだ。公式にジャンプ編集部から発表された休載理由は「体調不良」「作者都合」といったものだが、休載の間に富樫がコミックマーケットに参加していたことなどから、「編集部との確執が原因で、連載がストップしているのでは?」など、穏やかでない憶測もファンの間で囁かれてきた。
 それにしても、1年半もの休載を経ても根強いファンを持ち続ける富樫義博とは、一体どんな人物なのか?
「週刊誌のマンガ家のほとんどは、その週その週で物語を考えているものですが、富樫先生は連載開始の時点で、だいたいのプロットを作っているんです。それに、アシスタントを使うと、自分は中途半端な仕事しかしていないように思うらしく、なるべく全部自分でやろうとするタイプ。だからこそ、連載中は肉体的にも精神的にも苦しみやすいようです(マンガ関係者)。
 一方で、別の関係者は、マンガ家・富樫義博への高い評価を示している。
「富樫先生ほどの完璧主義者は、本当に珍しい。編集者の中でも、『担当になるのは嫌だけど、あの人は天才だ』って、みんな認めているくらいです。ただ、付き合うのは本当に大変だそうで、締め切り直前は24時間つきっきりで、描き上げてもらうまで一言もしゃべらず黙々と待つのもザラだとか。で、描き終わった直後に原稿を投げられて、床に散らばった原稿を拾って入稿するらしいです(苦笑)」(フリーのマンガ編集者)】

(続いて、大御所、本宮ひろ志先生の自伝『天然まんが家』を吉田豪さんが解説したもの)

【その作風同様に、むやみに熱くて素晴らしいのが、本宮ひろ志の『天然まんが家』(集英社)。「家で日本刀振りまわして、新築の仕事場は常にメチャクチャになった」とか、梶原一騎的というか、本当にデタラメなまま生きてる感じが出てますね。特に読みどころは、作品と人生がシンクロするところ。本宮先生のマンガの中で、主人公が、喧嘩の前に女と失踪するってエピソードがあるんですけど、本宮先生も連載途中で「描けない」って言って、女と失踪するんですよ。「おまえとどこかで二人だけで暮らす。全部捨てた。おまえだけだ」ってカッコよく逃避行するんですけど、でもその後すぐに「やべぇ、淋病の薬忘れてきた……」って(笑)。だから抱き合って寝たんだけど、セックスはしなかったっていう、書かなくていい話も載せる、この懐の深さがいいですね。
 あと、自律神経失調症のことも赤裸々に書いてありますね。本当にマンガが人生そのものなんですよ。嘘がない。病気でマンガが描けなくなった本宮先生は、絵コンテだけ描いて、あとはアシスタントに任せるんです。「友人のマンガ家とかで絵のうまい人間を連れてきて『原稿料半分やるから下絵を描いてくれ』というのが始まった。女を描くのも、自分でやったらもうどうしようもないから、カミさんに頼んだりした」。それで、最終的には全然プロでもない、自分の兄にまで描かせているんですよ。「兄の描く下絵のほうが私より少しはうまい」って、マンガ家とは思えない発言が(笑)。でもそのおかげで絵はアシスタントに任せて、本人は週休6日でゴルフばっかりしてるっていう、現在の本宮プロのシステムが出来上がるんですけどね。これに感動して次の本を楽しみにしてたら、次はゴルフエッセイ本だった(笑)。】

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 ここに書かれている数々のエピソードが全部「事実」かどうかは僕にもわからないのですが(『サイゾー』ですし……)、マンガ家、とくに「人気マンガ家」なんていうのは、常人にはなかなか務まらない職業なのかもしれないなあ、という気がします。
 『HUNTER×HUNTER』の連載再開については、ネット上でもかなり話題になったのですが、どんな人気マンガであったとしても、ああいう形で「休載」を連発するような作品は「切られる」のが当然であるようにも思えます。今回の「復帰」については、確かに、あの『週刊少年ジャンプ』も、「客を呼べるマンガ不足」に悩んでいるのかな、というようにも見えるんですよね。
 今のジャンプだったら、あの江口寿史先生も「長期連載」が可能なのかもしれません。
 しかし、ここで紹介されている富樫先生の「人柄」と「仕事ぶり」を読んでいると、編集者っていうのも大変な仕事だよなあ、と同情してしまいます。「完璧主義者の天才」っていうのは、読者にとっては素晴らしい作品を生み出してくれる存在なのかもしれないけれど、「24時間つきっきりで黙って待つ」なんていうのは、すごい苦行ですよね、週刊誌だし。そもそも、僕がマンガ家だったら、締切りギリギリのときに周りにずっと誰かが待っていたら気を遣ってしまってかえって描けそうにないです。しかも、終わったあと、せっかく描いた原稿を投げるなんて……
 本当に毎週そんなに命削ってたら、そりゃあ、長期連載なんてムリですよね。

 そして、本宮先生のエピソードも凄いです。こちらもどこまでが事実かはわかりませんが、これが事実だとしたら「本宮ひろ志」というのは、すでに「ブランド名」みたいなものなのですね。ここまで来たらもう、「本人が描くほうが周りからしたら偽者っぽい」のではないかなあ。それでも「本宮ひろ志の作品」がヒットしていれば、本人は満足なのでしょうか? 「代わりを探すのも才能のうち」なのだろうか……本宮さんはもしかしたら、「経営の天才」なのかも。
 でも、こういうのって、アシスタントが自分の名前で同じ作品を描いても売れなかったりするのでしょうね。

 この「二人の人気マンガ家」の話を読んでいると、あまりこだわりすぎるのも問題があるし、「丸投げ」というのも作家としてはどうなのだろう、と考えさせられてしまいます。
 いずれにしても、「人気マンガ家になる」ことは大変なのでしょうが、「人気マンガ家であり続ける」というのは、それ以上に大変なことなのかもしれませんね。



2007年10月13日(土)
卵の「本当の」賞味期限

『月刊CIRCUS・2007年11月号』(KKベストセラーズ)の特集記事「食い物の正体」より。

(「賞味期限のカラクリ」というコラムから)

【消費期限は、おおむね5日以内に消費しないと品質が急速に劣化する弁当や生菓子類などが対象。賞味期限はハムや冷凍食品など5日以上でも大丈夫なものに関して、風味等の品質が保持される期限である。
「賞味期限の算出法は、製造後、微生物などが一定数発生しだした日数に7掛けくらいすることが多いようです。この設定の加減は、各業者の判断に委ねられているのが現状です(食品表示アドバイザー・垣田達哉氏)
 だが、メーカーや小売店は賞味期限をかなり短く設定して回転率をよくしようとする傾向があるとか。ジャーナリストの郡司和夫氏は言う。
「賞味期限を短く設定するので、すぐ期限が来てしまう。期限切れのラベルを何度か貼り替え、陳列しなおすケースもありました。卵は17℃の保冷庫にきちんと保管すれば、品質は落ちますが、加熱用なら半年くらい持つものです。以前、京都で採卵後半年の卵が”生食用”として出荷されて大問題になりました。こちらはサルモネラ菌などのことを考えると命にかかわりますから恐ろしいことですが」
 消費者の安全よりも売り手のさじ加減で決まる「消味期限」とは何ぞや。】

〜〜〜〜〜〜〜

 冷蔵庫に入れた卵は、いったいどのくらい日持ちするものなのか?
 これって、かなり悩ましい問題ですよね。
 僕のように自炊をする機会がほとんどない人間にとっては、卵というのは殻に包まれていて外見上ほとんど変化がないために(新鮮なものは表面がザラザラしている、と言われますが)、いつまで食べても大丈夫なのか、判断に困ってしまうことが多いのです。
 もちろん、買った日から2、3日なら問題ないでしょうし、1年前の卵となれば、そんなに高価なものでもないしやめとこう、ということになります。でも、その「ボーダーライン」を判断するのは非常に難しい。
 それにしても、「17℃の保冷庫にきちんと保管すれば、品質は落ちますが、加熱用なら半年くらい持つ」というのには、正直驚いてしまいました。卵って、生で食べるのでなければ、かなり長期間大丈夫なものなんですね。
 もっとも、実際には「数ヶ月放置されていた卵」というのは、自分でもいつ買ったのかわからなくなってしまって、食べるのが不安になりそう。
 買った日をちゃんと記録しておくようなマメな人は、買った卵を半年も放置しておかないだろうし。

 これを読んでみると、「消費期限」に比べて、「賞味期限」というのは、かなり売り手の都合によって左右されているということがわかります。そして、「賞味期限を長く設定する」というのが違法だというのは理解しやすいのですが、実際は「わざと賞味期限を短くする」という操作が行われていることも多いようです。
「あんまり賞味期限が短いと、みんなが買い控えて売れないんじゃない?」
などと僕は考えてしまうのですが、賞味期限を短めにすることによって、商品の回転率を上げるほうが、結果的にはトータルの売り上げは良くなるとのことなのです。
 「賞味期限を短く表示する」というのは、確かに「違法」ではないのかもしれませんが、そのために「本来はまだ食べられるはずのもの」が「期限切れ」として捨てられてしまったり、同じ商品の「賞味期限」の表示が途中で貼りかえられているというのは、あまり良い気分のする話ではありませんよね。
 それでも、結局のところ普通の消費者には「本当の賞味期限」を知るための手段なんて存在しないので、「信じるしかない」のが辛いところです。少なくとも「賞味期限内に食べれば、危険は少ない」のでしょうから。
 いやまあ、そんな表示より自分の目と鼻を信じる、という人もけっして少なくないのかもしれませんけど。



2007年10月11日(木)
鳥取のヤンキー少年が「ゆうパック」で送ろうとしていた謎の物体

『桜庭一樹読書日記』(桜庭一樹著・東京創元社)より。

(桜庭さんの実家、鳥取での出来事)

【夜。すっかり常連となった郵便局の時間外窓口に行く。妙な二人組と行き会う。17、8歳ぐらいのヤンキー少年だが、二人とも真剣な顔で、片手に、ものすごく妙なものを握っている。それは古新聞で包んだ……たぶん、自転車のハンドル部分である。
 二人はハンドルを秤に載せ、小声であれこれ話している。いかなる理由でか、どうやら自転車のハンドル(だけ)をゆうパックでどこかに送ろうとしているらしい。一つ1800円かかると告げられて「そんなにかかるだが……!?」とショックを受けている。
 ズボンをずりさげ、黄色い髪を立たせ、悲しげな目をして、古新聞に包んだハンドルを握る少年たちは、どこか遠い地の、妙な部族の戦士のようにも見える。あぁ……っと、そのかっこ悪さの、あまりの斬新さにわたしも立ちすくむ。二人はそっと、後に並んでいたわたしに窓口を譲った。そしていつまでも、1800円かけて送るべきか、小声でせわしなく話し合っていた。】

〜〜〜〜〜〜〜

 彼らはなぜ「自転車のハンドル部分」をどこかに送ろうとしていたのでしょうか?
 僕はこれを読んで以来、ずっとそのことが気になってしょうがないのですが、もちろん、桜庭さんもその「答え」を書かれてはいません。
 まあ、僕が桜庭さんと同じ状況にあったとしても、17、8歳のヤンキー少年に対して「なんでそんなもの送るの?」って尋ねられなかったとは思いますし。

 もしかしたら、そのハンドル、ものすごく貴重なハンドルだとか、誰かの形見だとか……
 でも、そんな特別な由縁のあるものだったら、1800円というのは、二人で悩むような金額ではないはず。
 考えれば考えるほど、「彼らはなぜ、自転車のハンドルをどこかに送ろうとしたのか?」はわからないのです。
 そういえば、昔、あるラジオ番組で、「郵便局ではお金を払えば、いろんな『不定形郵便物』を送ることができる!」という企画をやっていて、うちわとかベニヤ板とかに切手を貼ったリスナーが、番組宛にいろんなものを送っていたのを聴いたことがあります。この「自転車のハンドル」というのは、こういう「企画モノ」への応募なのかもしれません。
 しかしながら、あんな大きくて重いものが「1800円」というのは、大人である僕にとっては、むしろ「高くない」ような気もするんですけどね。もちろん、目的次第、ではありますが。
 僕はこれを読んでいて、その1800円を払うから、なんでそんなものを送りたいのか教えて欲しくてしょうがありませんでした。
 鳥取ではそういうのが流行っている、ってことはないんでしょうけど……



2007年10月09日(火)
結婚相談所で「もっとも条件のいい相手」を探す方法

『知らない人はバカを見る! これが商売のウラ法則』(ライフ・エキスパート編・河出書房新社)より。

(「結婚相談所のウラ法則〜いい条件の相手をみすみす逃さないコツ」という項の一部)

【最近若い男性は、掃除・洗濯・炊事が苦手ではないので、昔の男性のようには独身に不自由を感じない。いっぽう、最近の若い女性は、自分で働いて生活費を稼いでいるので、つまらない男と結婚するよりは独身のほうがはるかにマシだと考えている――。
 じつに無理のない分析ではないか。
 ところで、男女が結婚における共通の利益を見出せなくなれば、結婚相談所のほうでは、ますます苦労を強いられることになる。とくに、女性会員のほうは、バブル期に流行った三高(収入が高い、学歴が高い、背が高い)どころではない、めんどうな注文をしてくる。
 結婚をしたい気持ちはあるが、ツマラナイ男が相手なら無理して結婚する必要はない――。そういう”強気”が前提になっているので、結婚相談所が売り物にするマッチング・システムによって選ばれた相手にもなかなかOKを出さない。たいがいの女性会員が、簡単に決めてなるものか、という態度で応じてくるらしい。
 だが、結婚相談所では、第一回目の見合いで、もっとも適合度が高く条件のいい相手を紹介することになっているのだ。
 つまり、「もっといい相手を」と思って断れば断るほど、どんどん条件が悪くなっていくわけだ。
 この法則は、結婚相談所を離れた男女の関係にも当てはまる。どこかにいるはずの理想的な相手を求めているうちに、男または女は、最後の最後になってあせりに駆られ、ひどくツマラナイ相手をつかまされることになるのだ。】

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 まあ、なんというか、「時代に取り残されたオッサンのたわ言」みたいな内容がほとんどの文章ではあります。コンピューターに入力された「条件」だけで結婚相手を決められれば、みんなこんなに苦労してはいないわけで。
 でも、このなかで、僕はひとつだけものすごく意外に感じたところがあったのですよね。
 それは、【結婚相談所では、第一回目の見合いで、もっとも適合度が高く条件のいい相手を紹介することになっているのだ】という部分。
 「結婚相談所」というものの「課金システム」から考えれば、「最初にもっと適合度が高い相手を紹介する」というのは、正直、あまりうまい商売のやり方ではないような気がします。
 この某結婚相談所(というか『zwei』)あるいはこちら(『o-net』)の料金システムを見てみると、課金は「月額単位」ですし、率直に言えば、「なかなかいい相手が見つからないほうが、儲かるのではないか?」と思いますよね。だからといって、あんまりにも「理想と違う」人しか紹介されないと、みんなすぐやめてしまうでしょうから、実際は、「そこそこの人」を小出しにして会員を繋ぎとめているのではないか、と僕は予想していたのです。
 しかしながら、これを読んであらためて考えてみると、そんな「小細工」なんて、そもそも必要ないのかもしれませんね。

 僕がもし結婚相談所に登録したとしたら、もし最初に紹介された相手がけっこう気に入ったとしても、確かに「でも、まだ最初の人だし、もっといい相手がいるのでは……」なんて考えて、とりあえず保留にしてしまいそう。
 おそらく、多くの会員たちも目の前にいるのが(コンピューターのマッチングでは)「最良の伴侶」であるにもかかわらず、「これが『基準値』なのだな」なんて勝手に考えてしまうのではないでしょうか。
 そして、「最初でこんな感じなら、もっといい相手がいるはず」と思い込んでしまう……
 結婚相談所としては、「ちゃんとベストの相手を紹介している」にもかかわらず、登録者のほうが、それで納得してくれるケースはほとんどないのです。登録者が後から「最初のあの人がいちばん良かったかも……」と気づいたときには、もう手遅れ。

 もちろん、「コンピューターに入力された条件が適合するかどうか」と、「実際に会ったときにフィーリングが合うかどうか」というのは、全然別物には違いありません。逆に、「こんなタイプの人、自分の好みじゃないはずなのに……」と思いながらも付き合いはじめて、結婚して幸せになった人だって少なくないはずです。
 それでも、たしかに「もっといい人がこの先あらわれるはず……」という勝手な思い込みで後悔するケースというのは、けっして少なくないような気はします。
 人生って、ロールプレイングゲームみたいに、弱い敵から順番に出てきてくれるってわけじゃないんだよね……だから面白いとも言えるんだけど……




2007年10月07日(日)
「メタルテープ」を覚えていますか?

『家電批評monoqlo VOL.2』(晋遊舎)のコラム「ALWAYS 三丁目の規格〜さらば愛しの旧規格」より。

【今年8月をもって、TDKがメディア製品(テープ、ディスク、フラッシュメモリ)に関するブランドを米国イメーション社へ譲渡すると発表した。絶頂期のTDKを知る者としては一抹の寂しさを感じながらも、なにやら因縁めいたものを感じてしまう。
 因縁というのは今回のお題、メタルテープに関して。イメーションの前身である3M社がメタルテープの開発元であり、TDKはそれを(少なくとも日本と米国では)最後まで生産していたメーカーだからだ。そのTDK最後の(つまりは国内最後の)製品となったMAIEXが生産終了となったのが2002年3月。その在庫が100円ショップに流れ、ある種の「祭り」になったのは記憶に新しい。
 かつて(といっても20年前程前だが)音楽を聴くことが最上の趣味のひとつであった当時のマニア予備軍の少年たちにとっては、メタルテープといえば価格的にも性能的にも雲の上の存在だった。当時は量販店だのディスカウントショップだのはそうそう無い時代。メタルテープ1本1000円、なんて時代が冗談じゃなくあったのだ。当時学生の小遣い程度でほいほい買える代物ではない。
 モノがモノだけに、きちんとしたステレオ(死語?)を持っている友人の父兄などに頼んで録音してもらったものだ。私の持っていた最初のラジカセも一応メタル対応だったのだが、力を発揮する機会があったのは社会人になってからだった。
 その後カセットデッキは巨大化の一途をたどるも、低価格化してきたMDやCD−Rに対してメンテナンスとアクセシビリティの悪さが災いし、次第にラインナップの縮小を余儀なくされていった。それはまるで進化の絶頂にあった恐竜たちが滅びに向かう様にも似ていた。メタルテープはある意味、その巨大化の絶頂におけるシンボルだったのかも知れない。】

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 この『活字中毒R。』を読んでいただいている世代には、「カセットテープって何?」って人はいないとは思うのですが、メタルテープと言われても、「そんなのあったの?」と感じる人はけっこういるのではないでしょうか?

 このコラムでは、メタルテープはこんなふうに説明されています。

【米国3M社(現イメーション)が高密度データ記録用として開発されていたテープを音楽用に転用。従来の酸化鉄ベースと違い、純粋な鉄分子(Fe)を用いるため、従来製品と比較して2倍以上の出力性能を誇り、高音域での出減衰も少なく、高級オーディオテープとして君臨した。反面、使用に際してのハードルが高かったのも事実で、後々までもマニアの使うテープという認識が強かった。】

 昔(といっても20年〜25年くらい前)は、記録メディアというのはものすごく高価なものでした。120分のビデオテープやフロッピーディスク1枚が1000円くらいしていた時代というのが実際にあって、それもデパートや専門店でしか手に入らなかったんですよね。
 カセットテープは、ビデオテープやフロッピーよりはかなり普及していたので、価格も入手しやすさも少しはマシだったのですが、それでも、今みたいにコンビニでいつでも簡単に手に入るようなものではなかったのです。そもそも、コンビニそのものが無かったですから。

 「メタルテープ」は、同じ収録時間でも一般的に普及していた「ノーマルテープ」よりも値段が100円〜200円くらい高かったのですが、その分「音質が良い」というふれこみで、僕も大事な番組やレコードをテープに録音するときには、奮発してメタルテープを使うこともありました。
 今から考えてみれば、当時は「なんとなくこっちのほうがいい音がするような気がする」くらいで、僕には「本当の音質の差」なんてわかっていなかったし、そもそも、あの頃使っていた普通のラジカセでは、そんなに差が出るはずもなかったんですけどね。

 正直なところ、「メタルテープがもう無くなっていた」という事実も僕は全然知りませんでした。あれほどこだわっていたつもりだったのに、薄情なものです。メタルテープは1978年の生まれだそうですから、僕より遅く生まれて、早逝してしまったのか……と感慨深いものもありますね。こういうのは、電化製品の世界の宿命ではありますが。

 現実的には、CDやDVD、iPodなどのデジタルオーディオの便利さに慣れてしまうと、もう、テープには戻れそうもないんですけど、時々、あのテープのめんどくささが妙に懐かしく感じられることもあるのです。たぶんそれは、メディアそのものへの懐かしさというよりは、「ドライブに行く前日に、とっておきの曲を集めたテープ」を編集していた自分への感傷なのでしょうね。
 そういえば、メタルテープは普通のテープより少し油臭くて、それがまた「ちょっと高級な感じ」だったんだよなあ……



2007年10月06日(土)
「常連客」になってしまうことの憂鬱

『箸の上げ下ろし』(酒井順子著・新潮文庫)より。

(「『個人商店』……微妙な距離感」というタイトルのエッセイの一部です)

【思い起こしてみれば子供の頃、まだ町には個人商店というものがたくさんあったのでした。たとえばお小遣いをもらってお菓子を買いに行く時は、近くになったキフク屋さんというお菓子屋さんまで行ったものです。
 キフク屋は、駄菓子屋さんでもなければコンビニでもない、普通のお菓子にパンやケーキが少し置いてあるというお店。
「キフク屋で何か買ってきていいわよ」
 と親に言われると、とても嬉しかったことを覚えています。
 キフク屋があった場所にはマンションが建つ今、気付いてみると私は、個人商店で買い物する機会がとても少ないのでした。何でも売っているスーパーに、足は向かいがち。
 私は元来、個人商店における対面商売という形態があまり得意ではなかったのです。比較的おとなしくて人見知りをする性格であった私は、積極的にお店の人と仲良くなるタイプではありません。そんな私は、八百屋さんでもお肉屋さんでも、特定のタイプのお店に何回か行って、”もしかしたらそろそろお店の人に顔を覚えられているかも……”と思う頃になると、急にそのお店に行くのが気が重くなってしまうのです。
 なぜかといえば、絶対に顔を知られていないわけでもなく、また完璧な常連客でもないという曖昧な顧客としては、どんな顔で、そしてどんな態度で買物をしたらいいか、迷ってしまうから。
 お店の人とアカの他人のような顔でいるか。それもあまりに愛想が悪いような気もするけれど、「こんにちはぁー」なんて突然言い出して、お店の人に「どちら様でしたっけ?」みたいな顔をされるのもいたたまれない。さらには、何も買わずにお店の前を素通りする時にはどんな顔をしていればいいのかとか、ネギが1本だけ欲しいなんて言っても許されるのかなどと考え出すとまた面倒になって、結局はスーパーへ行ってしまうことがしばしばだったのです。
 そんなある日、下町に住む友達の家に遊びに行った時のこと。友達と一緒に近くの商店街に行くと彼女が、
「先日はどうも!」
 とか、
「この前の、おいしかった!」
 などと、ほうぼうのお店の人とやりとりしつつ、歩いているではありませんか。お惣菜屋さん、酒屋さん、和菓子屋さんに定食屋さん……とお店のバラエティーも実に豊か。それぞれの店が活気にあふれていて、商店街が全く発達していない町に住む私にとっては、お祭りをやっているようですらある。まるでドラマに出てくるような下町的世界が実在していることに私はびっくりすると同様に、色々なお店の人と親しく挨拶を交わしつつ歩を進める友達が、ちょっと格好良くも思えたのです。】

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 「ドラマに出てくるような下町的世界」って、現代の日本にも実在するんですね……
 僕はあれって、「テレビの取材だから、みんなあんなに愛想よくしているんだろうな」とか「あれは『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の中に封じ込められている、過ぎ去りし昭和の日本の幻影みたいなものにちがいない」と思っていたので、これを読んでちょっと驚いてしまいました。

 しかしながら、あらためて思い返してみると、僕自身が最近「個人商店」で買い物をしたのがいつだったかさえ、記憶にないくらいなんですよね。デパートやショッピングモールに入っているような店は別として、本当に街中の「個人商店」には縁がありません。やっぱり、日中はずっと仕事で、週末以外は一人暮らし、というような生活だと、コンビニや夜まで開いているスーパーなどで買い物をする機会が多くなります。それに、あまりお客さんがいない個人商店は、一度入ってしまうと何も買わずに出るのがちょっと気まずかったりして、ちょっと敷居が高く感じることもありますし。

 個人商店で買い物をした経験のなかで、僕にはとくに記憶に残っている「出来事」がふたつあるのです。

 ひとつは僕がまだ幼稚園に通っていたときのこと。ここで酒井さんが書かれている「キフク屋」のような、おばあちゃんが店番をやっている、お菓子から雑誌、日用雑貨までがひと通りはそろう小さな個人商店でのこと。
 母親から100円玉を1枚もらって、「これで好きなものを買っていいよ」と言われ、通いなれたこの店にやってきた僕は、何を買おうかと迷った末、なかなか買いたいものが見つからず、結局、10円のお菓子をひとつだけ手に取り、それをレジに持っていきました。
 すると、店番のおばあちゃんは、不機嫌そうに
「たった10円で100円玉……」とか言いながら、いかにもめんどくさそうに90円のお釣りをくれたのです。
 いや、こうして書いてみると、たいしたことないことだったようにも思えるのですけど、当時の僕には、とても嫌な経験でした。その後、その店にひとりで買い物に行ったことは一度もないくらいに。

 もうひとつは、大学時代のこと。ある昼下がり、近所のマイナー系の(セブンイレブンやローソンやファミリーマートなどのチェーン店ではない、という意味です)コンビニ的な個人商店に入った僕は、そこで食料品をたくさん買ったのですが、店番をしていた中年のおじさんが、「ひもじかったんでしょう?」とレジで声をかけてきたのです。
 方言なのかもしれないけど、「ひもじい」っていう言葉の語感が、その時の僕にはひどく不快に感じられたんですよね。まあ「お腹すいてたんですねえ」って言われてもムカついたとは思うのですが。これも、今から考えれば、接客に慣れていないおじさんの精一杯の「お客とのコミュニケーション」だったのだろうな、という気がするのですが、正直、僕は自分の空腹度について店員さんにコメントして欲しくなんかないんですよ(かわいいお姉さんだったら、また別の感想を抱いたかもしれませんが)。でも、こういう
「よけいなお世話」と「コミュニケーション」だと勘違いしている店員さんって、けっこういるんですよね。

 僕は「常連」になるというのがどうも苦手なのです。「常連」になると「特別扱いしてもらえる」というのがメリットなのかもしれませんが、その一方で、「常連」というのは、店の人から注目される存在です。
 たとえば料理店で、「いつも来てくださるので、これサービスです」って何か一品出してもらったら、その「サービスしてくれたもの」に対して、何かポジティブな感想を言わなければならないし、不味くても残すのは悪いですよね。そういうのって、僕にとっては、ものすごくプレッシャーなのです。本音を言えば、「特別なサービス」なんてしてくれなくてもいいから、僕を面倒なことに巻き込まないでくれないか、と思います。
 まあ、こういうのって、僕が「自意識過剰」だからなのでしょうけど……

 コンビニですら、毎日同じ店に行くのはなんとなく嫌で、わざわざ遠くの店に行ったりもしているというのは、ちょっと病的なのではないかと自分でも思います。
 というわけで、僕は下町には絶対に住めそうにないです。ドラマとしての「下町情緒」には、憧れの気持ちもあるんですけどねえ。



2007年10月03日(水)
「それでは、ひろゆきさんの日常生活について聞きます。今日も1時間半、遅刻して来られたんですけど、普段どんな生活なんですか?」

『月刊CIRCUS・2007年10月号』(KKベストセラーズ)のインタビュー記事「『2ちゃんねる』管理人・ひろゆきがCIRCUSにキタ━━━━(゚∀゚)━━━━ !!!!!」より。

(『2ちゃんねる』管理人・ひろゆき氏へのインタビューの一部です。文:長谷川昌一)

【インタビュアー:それでは、ひろゆきさんの日常生活について聞きます。今日も1時間半、遅刻して来られたんですけど(笑)、普段どんな生活なんですか。

ひろゆき:すみませんでした(笑)。まぁ、日によって違いますけど、昨日だと夕方5時に起きて、7時から飲み会に行って、11時ぐらいに家に帰って寝て、朝の3時ぐらいに起きて、それから朝の9時に寝て、夕方の5時に起きて、それで「すみません、遅れます」とサーカスさんに電話して、今に至るという感じです。

インタビュアー:もう少し、具体的に教えてください(笑)。19時の飲み会というのは、どういう会ですか?

ひろゆき:僕のかかわっている「未来検索ブラジル」という会社とそのプロジェクトにかかわっている会社との合同の飲み会です。

インタビュアー:その会を23時に切り上げて、すぐに帰宅したんですか?

ひろゆき:僕、お酒を飲むとよく寝るんです。でも、その代わり睡眠時間が短くなって、すぐに目が覚めちゃうんです。

インタビュアー:そして、夜中の3時に起床。

ひろゆき:そこから朝まではマンガの『バビル2世』を読んで、朝方にはスターチャンネルで録画しておいた映画の『フィラデルフィア』を見ました。

インタビュアー:そして、朝9時に再び寝たのは、眠くなったから?

ひろゆき:そうですね。

インタビュアー:これは特殊な一日ですか、それとも、普通?

ひろゆき:割と日常に近いですね。『バビル2世』が映画になったり、ゲームになったりする程度の違いですね。

インタビュアー:じゃあ、サラリーマン生活なんてできないですよね。

ひろゆき:僕、朝起きられないんですよ。「朝9時に起きられなかったら死刑」っていうんなら起きますけど。だから「時間通りに来るけど面白くない人」と「遅れてくるけど、面白いことを考えつく人」のどっちがいいですかってことですね(笑)。

インタビュアー:周囲のサラリーマンを見てて、どう思いますか?

ひろゆき:ほかのところへ行ったら楽になるかもしれないのに、自信がないから行かないという人は、損だなとは思います。

インタビュアー:2ちゃんねるの大ヒットで大金を手にしてからも、生活に変化はありませんか?

ひろゆき:相変わらず一般市民って感じですけど。

インタビュアー:金銭感覚は?

ひろゆき:お金を使うのが嫌いなんですよ。普段、僕よりお金を使わない人って、あんまり見たことないですね。

インタビュアー:じゃあ、今一番、お金を使うことって何ですか?

ひろゆき:ゲームを買うことと、終電を逃した時のタクシー代かな。それでも漫画喫茶があればそこに泊まりますけどね。あとは……トルティーヤ・チップスを買うことがあるけど、あれは高い(笑)

インタビュアー:豪邸が欲しいとか、そういう物欲は?

ひろゆき:仮に僕が豪邸を持ったとします。でも、多分生活空間がベッドの上であるということは変わんないと思うんですよ。僕、家にいる時の90%ぐらいはベッドの上なんで。あとはトイレに行くか、風呂に入るぐらい。

インタビュアー:そうすると、広い家の方が逆にデメリットが多い?

ひろゆき:家が広ければ広い分だけ、トイレまでの距離が遠くなるとか、手元に欲しいものがないとか、部屋が暖まるのに時間がかかるとか、デメリットの方が多くなるますからね……。

インタビュアー:じゃあ、今の生活は快適ですか?

ひろゆき:割と。】

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 これはなかなか興味深いインタビューだなあ、と思います。今までの雑誌媒体での「ひろゆき」氏へのインタビューというのは、彼の「仲間」「理解者」あるいはその正反対の「批判者」によるものが多いような気がしていたので、この記事での「常識人」であろうインタビュアーと、その質問をひたすらはぐらかす「ひろゆき」氏とのズレっぷりはものすごく新鮮に感じられました。
 「ひろゆき」氏の日常生活がここまで赤裸々に明かされるのは、ものすごく珍しいのではないでしょうか。

 それにしても、このインタビューでの「ひろゆき」氏の答えは、僕を含む(いちおう)「真っ当な社会人」にとっては、「社会を甘くみやがって! くそ〜うらやましい……」というものですよね。

 会社の「看板」でありながら、「眠くなっちゃうから」という理由で23時に飲み会を辞し、雑誌のインタビューに1時間半も遅刻し、【「時間通りに来るけど面白くない人」と「遅れてくるけど、面白いことを考えつく人」のどっちがいいですかってことですね】と悪びれることもなく言い放つ。
 いや、「普通の社会人」にとっては、どれも「絶対にできないこと」ばかりです。「時間通りに来る、面白いことを考えつく人」が最強じゃないか!と言いたいけれども、少なくとも僕は、自分が「遅刻によるマイナスを補えるほど面白い人間」ではないことをよく知っています。
 「社会」では、「あいつは面白いところはあるんだけど、時間にルーズだからなあ……」あるいは、「役者としては悪くないんだけど、舞台挨拶では『別に…』しか言わないからなあ……」というように、「減点法」で採点されてしまうことも多いですしね。
 
 こういう「自由奔放な生活ぶり」を聞くと、「僕も『ひろゆき』になりたい!」なんて思ってしまうのですが、それが可能なのは、まさに彼が「オンリーワンのクリエイター」だからなのです。今の「ひろゆき」と「時間に正確でインタビューに遅れないひろゆき」がいたら、後者のほうが絶対に重宝されると思うし。
 まあ、実際には「ものすごく仕事に没頭している時間」もあるのだけれど、それを人前で語らないのが「ひろゆき」というキャラクターのスタイルなのかもしれません。

 それにしても、このインタビューから伝わってくる「ひろゆき」の「頑ななまでの合理性」「物欲のなさ」というのは、なんだかとても不思議に感じられます。他の多くの「IT長者」の生活に比べると、なんだかもう仙人みたいだというか……

 ちなみに、このインタビューのなかで、僕がいちばん印象に残ったところを最後に挙げておきます。

【インタビュアー:同世代の男性は将来に対する不安に悩んでいる人が多いのに、ひろゆきさんはまったく感じていないようですね。

ひろゆき:不安って何が不安なんですか?

インタビュアー:まぁ、将来のお金とか。

ひろゆき:多分、そういう人は外国で暮らしたことがないんだと思うんですけど、僕だったら物価の安いところとか海外に行くと思いますけどね。】

 ほんと、「身も蓋もない」人ですよね、「ひろゆき」氏は。
 でも、「メディアが伝える漠然とした将来への不安」にも踊らされない「自分の頭で考えてみる姿勢」には、参考になるところも多いような気がするのです。



2007年10月01日(月)
新聞勧誘員に狙われるアパートと「歪んだ格差社会」

『週刊SPA!2007/9/11号』(扶桑社)の「文壇アウトローズの世相放談・坪内祐三&福田和也『これでいいのだ!』」第255回より。

【坪内祐三:ネットで共犯者を募って、3人で女の子を殺したって事件(8/26 愛知)。あれはちょっと、最近で一番なんかもう……

福田和也:携帯サイトでしょ。「闇の職業安定所」。嫌な事件だよね。

(中略)

坪内:共犯者の一人は朝日新聞の勧誘員(36歳)でしょう。

福田:たしかに新聞の勧誘員って、厳しい仕事なんですよね。いま、どの家にもインターホンがあるから、玄関口まで人が出ないじゃないですか。そのなかで、ガチャンと扉を開けて出てくる住人が多いのが安いアパートで、勧誘員もそうした場所を狙うんだって。『新聞社 破綻したビジネスモデル』(新潮新書)という本に出てました。元毎日新聞の人が書いたんだけど、ヤクザまがいの勧誘員が、所得が低そうなアパートを狙って、扉が開いたら靴突っ込んで契約するまで帰らない。生活キツい人が、同じようにキツい人を狙うってパターンでしょ。『新聞社』っていい本でしたよ。

(中略)

福田:あと、”相席殺人”ね。スーパーの飲食コーナーで午後3時に若者(25歳)が寝てて、そこへ「相席したい」という年配男性(67歳)がやってきて、腹を立てた若者が、年配男性を殴る蹴るで殺した、と。

坪内:だけど、一番知りたいことが書いてないんだよね。「相席」の瞬間、どういう形で若者がキレて、どうして屋外に出て、どうして誰も止めなかったのか――を知りたいんだけど。

福田:その加害者も、新聞販売店のアルバイトなんだよ。毎日新聞の配達と集金。毎日新聞社のコメントが出てた。「取引先である販売店の従業員が」って。直接の雇用関係はないよ、と言いたげに。夕刊を配る前に休んでたんだろうね。懲役12〜15年くらいかな。

(中略)

坪内:なんかさ、いまって10〜20代の若者よりも、30代のほうがキレるんだってね。30代の暴行事件が、ここ10年で5倍になってるらしいよ。

福田:それって「ロストジェネレーション」――就職氷河期で、バイトや派遣になってツラい目に遭っている20代後半〜30代後半ってことなのかな。】

〜〜〜〜〜〜〜

「新聞、読んでますか?」
 そう尋ねられて、「毎日読んでます」という人は、現在、どのくらいいるのでしょうか?
 僕はもう5〜6年くらい新聞をとっていないのですが、そのことでとくに不自由を感じたことはないんですよね。いや、もちろん「全然読まない」わけじゃなくって、職場で休憩のときに手に取ることはありますし、競馬の予想を見るためにスポーツ新聞を買うことも少なくはないのですが。

 まあ、それにしても、「新聞」というメディアが大きな過渡期を迎えているというのは間違いないような気がします。テレビと並んで「メディアの花形」だったはずの新聞は、近年、どんどんその影響力を失ってきているようです。もっとも、テレビのニュースやネットのニュースの多くは、「新聞社、あるいは新聞記者発」であることも事実なんですけどね。

 僕は基本的に「自宅に尋ねてくる人」というのが苦手です。アポイントメントなして自宅に尋ねてくる人というのは、ほぼ100%「迷惑な来客」なのではないかと思っているくらいです。電話に関しても、携帯電話の普及で「自宅にかかってくる電話は、セールスがほとんど」になってしまっていますしね。
 気が弱く、押しに弱い人間としては、「玄関先でセールスを断るための最大のコツ」というのは、「直接顔を合わせないで、門前払いにする」ことなので、インターホンというのは本当にありがたい存在です。

 ピンポ〜ン
「どちらさまですか?」
「●●新聞です」
「あっ、今新聞いりませんから」

 これが、インターホン以前の時代であれば、とりあえず玄関で勧誘員とひと勝負しなければならなかったわけですから……

 しかし、勧誘する側からすれば、このように「門前払い」されることが増え、そのうえ「新聞」というメディアそのものが斜陽であるというのは、非常に辛い状況のはずです。
「新聞くらい読んでおかないと、時代についていけませんよ!」
「ニュースはテレビとネットでみるから困ってません」
 実際、「記事を細かく読みこむひと」にとっては、新聞記事というのはかなり有益だと思うのですが、見出しをざっとチェックするくらいのレベルであれば、ネットのニュースとそんなに変わりはないんですよね。

 そして、「インターホンのある家」では商売が難しくなった「新聞勧誘員」たちは、「インターホンの無いような安いアパート」で、金銭的に余裕がない人たちを相手に、かなり強引な「勧誘」をしているというのは、なんだかもう哀しいというか、情けない話ではあります。

 たぶん、新聞勧誘員というのは、ものすごく辛い仕事なのでしょう。僕だって、自分があんなに「門前払い」を続けられたら、精神的に参ってしまうと思うもの。
 でも、お客の立場からすれば、「同情していたらつけこまれてしまう」と用心してしまうのも事実なのです。
 以前聞いた話なのですが、押し売りの人たちは独自のネットワークを持っていて、一度売れた家には、「この家は商売がやりやすいぞ」という評判が流れ、次々と他の押し売りもやってくるのだとか。「一度引っかかったから、しばらくはそっとしておいてあげよう」なんて、誰も考えてはくれないのです。

 そりゃあ、新聞記者たちは、それなりの「使命感」に燃えて記事を書いているのかもしれませんが、「新聞」というメディアが生き残っていくために、そういう「生活キツい人が、同じようにキツい人を狙うってパターン」が必要であるならば、「新聞」って何なのだろう?と僕は考えてしまうのです。「底辺の人たちから強引に搾取するシステム」がないとやっていけないような企業が、「社会の木鐸」なんて気取っていていいの?
 「格差社会」なんて記事を「押し売り勧誘員」の被害に遭った人に読ませているなんて、ちょっとシュールすぎないかな……