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2005年03月30日(水)
愛・地球博会場に持ち込めない「危険物」

共同通信の記事より。

【愛知万博(愛・地球博)会場への飲食物持ち込み禁止に入場者らから不満が相次いでいる問題で、小泉純一郎首相が制限の緩和を検討するよう経済産業省に指示、同省と万博協会が協議を始めたことが30日、分かった。
 経産省博覧会推進室は「弁当については緩和の余地があるが、飲み物については安全上の問題から難しいのではないか」としている。
 推進室によると、万博会場への弁当持ち込みは食中毒防止のためで、遠足で引率者がいる場合などを除いて原則禁止。ペットボトルや缶、瓶入りの飲み物は危険物を持ち込まれないようテロ対策として禁じている。
 小泉首相の指示は29日夜、官邸から推進室に伝えられたという。】

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 先週末の予想来場者数45万人に対して、実際は15万人など、「盛り上がっていない」と言われている愛知万博。それでも僕などは、「人気パビリオンは3時間待ち!」なんていう話を聞いただけで、「それはちょっと人大杉…」とか考えてしまうのですが、この「弁当持ち込み禁止」というのも、評判を悪くしている一因のようです。こういうイベント会場の食べ物は、「高い」「まずい」「遅い」というのが定説でもありますし。
 しかしながら、考えてみれば、某福岡ドーム(今はYahooドーム)でも、「飲食物持ち込み禁止」になっているのですから、主催者側の裁量の範囲なのかもしれません。実際、野球観戦の場合には、ビンとか缶というのは投げ込まれたら危険だし、そういう「飲食物の収入」というのも、ゴミの処理などをしなければならない主催者側としては、「貴重な収入源」なのかもしれませんから。とはいえ、Yahooドームで、このような「実験」をされた方もいらっしゃいますし、スタジアムに比べたら、万博会場は滞在時間も長いから、「行く前か行った後に食べればいい」というわけにも、なかなかいかないでしょう。「解禁」してしまうと、そのゴミの処理にかかるコストも凄くなりそうではあるんですけど。これからの季節は、食中毒のリスクが高いのも確かだし。
 しかし、この「テロ対策」という理由は、なんだかちょっと「本気か?」とつい考えてしまうのです。その言葉をオールマイティに解釈しすぎてないかな、って。本当にテロをやるつもりなら、弁当箱の中にだって、何でも入れられるはずなのに、あえて「飲み物」に限定するのも、なんだかおかしな話ですし、そこにはやっぱり「利権」が関与しているのかもしれません。
 それより、「運営やゴミ処理のコストがかかるので」というほうが、理解しやすいような気もするのですが、「そういうのは入場料に含まれてるだろ!」と言われたら、どうしようもない面もあります。

 それにしても、僕が年を取ってしまったせいなのかもしれませんが、「万博」というものに対する興味は、僕が子供のころに伝聞したり、体験したりした「ポートピア」や「つくば万博」などに比べたら、はるかに減退してしまいました。あのころ観た「最新映像」は、今ではそんなに珍しいものではなくなったし、根本的に「これ以上の技術革新」を目の当たりにしたい、というような欲求は、僕にはもうあまりないのです。見えないところで進歩していっているんだろうけど、僕自身は対応しきれていません。少なくとも、2時間行列に並んでまで観たい、とも思えません。「どうせそのうちプレステ4くらいで、同じことができるようになるんだろうし」というような、技術への「慣れ」とでも言えばいいのでしょうか。
 マンモスとかには、心惹かれてみたりもしているんですけどねえ。

 たぶん、行ってみればけっこう面白かったりもするんじゃないかなあ、とも思うし、今までのパターンでは、「盛り上がっていない」はずが、開催の終わりが近づくにつれて、「やっぱり観ておこう」という人が増えてくるのではないか、と僕は考えています。だから、「行くなら今のうち」なのでしょうけどね、本当は。だって、「まだずっとやってるし」って言うけれど、夏休みだと同じ2〜3時間でも、炎天下に並ばなければならなくもなるでしょうから。

 でもなあ、小泉首相の鶴の一声でなんとなかるのであれば、某浦安ネズミ屋敷とかも、どうにかなるんじゃないかなあ、と思わなくもないし、逆に、ネズミ屋敷のほうは、「飲食物持ち込み禁止」でも、今さら誰も問題にしないのだから、結局は「コンテンツがつまらないから、こんなクレームが出るのだろうか?」と思わなくもなりません。まあ、2時間も行列に並んだら、誰でも文句のひとつも言いたくなるとは思うのだけど、並ばずに観られたら、それはそれであんまり面白く感じなかったりもするんですよねえ。



2005年03月28日(月)
インターネットはテレビを殺すのか?

デイリースポーツの記事より。

【ライブドアによる買収騒動の渦中にあるフジテレビが27日午後4時から特番「ザ・リサーチャー2」で「ライブドアVSフジテレビ メディアはどうなる?」をテーマに生放送した。昨年10月の『新潟県中越地震』に続く第2弾。関東ローカルにもかかわらず、携帯、パソコンを通じた視聴者アンケートへの参加は2万1900件。それとは別に放送中だけでも電話やFAX、メールで1000件を超える声が寄せられるなど視聴者の関心の高さがくっきり表れた。
 渦中のフジがライブドアとの買収劇をメディア論にまで広げて視聴者に問いを投げかけた注目の生特番。フジの熱の入れようとは裏腹に、アンケートの結果は視聴者のクールでフラットな感覚が浮き彫りになった。
 フジテレビが速報性の高いネットアンケート方式「メルゴング」を使って行ったアンケートの設問は「ライブドア経営でニッポン放送の番組はうまくいくのか?」「テレビはインターネットに飲み込まれていくのか?」の2つ。
 2万1900人の答えは「つまらなくなる」の4862件、「変わらない」の2921件を抑え、「面白くなる」が5024件でトップ。さらに2番目の質問に対しても「完全に飲み込まれる」が1740件、「ある程度融合する」が4636件、「住み分ける」が2717件だった。アンケートの結果は、堀江貴文社長の主張、フジの主張の両方を精査、放送とネットの未来を見据えた視聴者の冷静な判断が表れた。
 このほかに放送中だけでも電話143件、ファクス131件、メール772件の視聴者からの意見が殺到。中には「テレビの在り方は変わってゆくべきだ」などの内容もあった。
 司会は小倉智昭と渡辺真理、ゲストにニッポン放送でレギュラー番組を持つエコノミスト・森永卓郎氏、ジャーナリスト・江川紹子氏、プロデューサー・テリー伊藤氏らが出演。堀江社長の映像、有識者の意見、放送法などを織り交ぜながら約1時間半にわたり放送した。同局広報では「タイムリーで、視聴者の関心の高い話題を取り上げた」とテーマ選択の理由を説明していた。】

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 この番組、昨日少しだけ観ていました。いや、せっかく真面目な企画なんだから、司会が小倉さんというのはいかがなものか、とか思いつつ。
 おそらくフジテレビ側としては、この特番で、「視聴者もライブドアのやり方に『ノー』を表明している!」というのをアピールしたかったのでしょうが、実際にやってみると、ことごとくアテが外れてしまったみたいです。
 ただ、この視聴者の判断が「冷静」なものなのか、「冷やかし」なのか、それとも、「思い上がっているテレビ局とその社員への鉄槌」なのかは、なんとも言えないところではあるのですけど。
 実際にネットをやっていて思うのは、やっぱりメディアの力はすごい、ということです。なんのかんの言っても、この「活字中毒R。」で採り上げている内容の多くは、大手メディアの「報道」に依存しているのだし、その内容が「ある程度のバイアスがかかっていたとしても、基本的には正しい」という前提があってこそ、成り立つものです。「イラクで戦争が行われた」というのも、みんなが「見た」のは、テレビの画面(あるいは、ネットの映像)を通してのものなのだから。医療報道に関しては、「頼むから、もっと勉強してから書いてくれ…」と思うことも多いのですが(こういうのは、おそらく、専門的な仕事をされている方は、みんなそうなのでしょうが)、だからといって、大手メディアを全否定してしまっては、「何を信じていいのかわからない」というのが、正直なところなんですよね。
 「自分の目で見たものしか信じない」というのは、ひとつのポリシーではあるのでしょうが、逆に「自分の目で見ることができるものの範囲」なんて、たかが知れています。メディアの発達のせいで、僕たちは、「隣人の病気」よりも、自分の人生にはほとんど何も影響を及ぼさないような、地球の裏側の人のことに、より詳しくなっていたりもするんですけど。

 「編集権」という言葉が話題になっていますが「ニュースを集める」というのは大変なのでしょうが、その「ニュースをどう伝えるか?何を見出しにするのか?」というのって、ものすごく大事なことだと思います。ネット上にも、例えば「かとゆー家断絶」という多くのアクセスを集めているニュースサイトがあるのですが、ネットの性質上、多くの人は、このサイトで、上から順番に項目を追っていくと思われます。そして、上のほうでは、「ちょっと気になる」という程度のニュースまでクリックしていた閲覧者も、これだけの量ともなると、最後のほうでは「よほど気になったものしか、クリックしない」ようになるのではないでしょうか(少なくとも僕はそうです)。「並べる順番」というのは、非常に重要なファクターであり、そして、その記事を「どういうふうに紹介するか」とか「どんな見出しをつけるか」によって、観る側の反応というのは、全然違ってくるはずです。僕らは普段は、そういう「送り手の思惑」に関しては、意外と無頓着なものなのですけど。
 堀江社長は、「視聴者(あるいはリスナー)の興味があるものをネットで投票してもらって、多い順に取り上げていく」と仰っておられましたが、実際のネット人口から考えると「若者の好み」に偏ってしまうだろうし、地味なニュースというのは、どんどん埋もれてしまうことでしょう。そもそも「マスコミは偏っている面がある」と思うけど、ネットもけっこう嘘つきだし。たとえそれが、意図的なものではないとしても、現在のネットというのは、ある程度の「慣れ」とか「分別」がないと、足元をすくわれる危険が非常に高いように思えるのです。堀江さんだって、「仙台ジェンキンス」を忘れたわけじゃないでしょうに。
 僕だって、既存のメディアに100%満足していないし、1局くらい、ライブドアにやらせてみても面白いんじゃない?とも思うのです。ここで堀江社長を応援している人の中には、「いい気になっているテレビ局の連中を困らせてやりたい」と考えている人も少なくないような気もするし。
 でも、変わっていくことはあるとしても、テレビはそう簡単には無くならないだろうなあ、とも思うのですよ。世の中には「誰か分かってくれている(はずの)人に、ニュースの順番を決めてもらいたい」とか「あまり他人と議論したくない」とか「ただ、受身でボーッとしながらでも楽しめるものの方がいい」という人は、確実にいるだろうし、もしかしたら、そちらの人のほうが、サイレント・マジョリティなのかもしれません。
 現在の「巨大メディアと、巨大メディアに対するチェック機構としてのネット社会」という構造は、実は、ものすごく合理的なもので、将来的にどちらか一方に統合されるとしたら、それはそれでものすごくイビツなものになるのではないか、とも思いますし。「テレビでもネットでも(あるいはラジオでも新聞でも)選べる状況」というのが、いちばん健全なはず。

 病院勤めをしていると、ずっとテレビを観ているあまり動けない高齢の患者さんと接する機会というのは、けっこう多いのです。時代劇や大相撲中継を日々の楽しみにしている先輩たちの姿は、未来の自分のような気もするし、彼らに「ネット社会への適応」を過剰に望むのは、あまりに酷というものではないでしょうか。

 なんでも「自分で選べる」って、実は、すごくめんどくさいことでもあるんですよね……
 



2005年03月27日(日)
「サムライ」に愛された男

毎日新聞の記事より。

【人気コンビ「ウッチャンナンチャン」の内村光良さん(40)とテレビ朝日アナウンサーの徳永有美さん(29)が25日、結婚を発表した。すでに結納は済ませ、来月8日付で徳永さんがテレ朝を退社した後、婚姻届を出す予定。2人は番組の共演で知り合い、1年ほど前から本格的に交際、昨年暮れに内村さんがプロポーズした。内村さんは会見で「(徳永さんは)すごくいちずでサムライみたいなところに引かれました」と語った。】

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 内村さん、とりあえずおめでとうございます。まあ、これまでのプロセスを考えると、手放しで「おめでとう!」と言っていいのかどうか、外野である僕としては、ちょっと考え込んでしまうところもあるのですけど。
 ところで、内村さんの私生活に関して、僕はいろいろな噂を聞いたことがあるのです。なんでも「内村さんは休みの日にはいつも家に引きこもってずっとDVD(以前はビデオ)を観ているだけとか、飲み会の席でも、主役にもかかわらず、積極的に中心にいて場を仕切るというよりは、宴席の片隅で、誰かをつかまえて演劇論やお笑い論を熱く語っている、というような「私生活では暗い人」らしいのです(あくまでも「噂」なのですが)。相方の南原さんが本業以外のイベントにも積極的に参加することが多く、スポーツ選手にも人脈が広くて、いわゆる「セレブ志向」のように見えるのに比べると、なんだか対照的な印象もあって。もちろん、彼らがコンビであることにおいては、そういう対照的な面は、プラスである面も大きいのだと思いますが、「才能はあるけれど、内にこもってしまいがちなところ」というのは、女性タレントより、一般人と芸能人の境界域にいる「デキるお姉さん」である女子アナたちに愛される所以なのかもしれません。
 世間では「女子アナハンター」と言われている内村さんなのですが、今回の婚約会見をみていて、僕は少し印象が変わったような気がするのです。「内村、ついに」「やっと」「年貢の納めどき」なんて言葉がネットの見出しには踊っていましたが、「男の責任」というような観点を外して、逆から考えてみればどうでしょうか?

 内村光子という、内気で優柔不断なのだけれど魅力的な女性がいて、彼女には次々と自信家の男が言い寄ってきます。そして、男たちは光子に求婚してくるのですが、優柔不断な光子は結婚生活に自信が持てず(あるいは、もっといい相手がいるのではないか、なんて悩んで)、なかなか結婚に踏み切れません。そうこうしているうちに、相手の男は熱が冷め、光子のもとから去っていきます。しかし、今度の男は、妻がいるにもかかわらず、光子のことを一途に愛してしまい、ついには、糟糠の妻と別れてしまいます。光子は「ここまでのことになってしまったのだから、この人と結婚するしかない」とようやく結婚する決意ができました。

 こういう場合、光子自身も、こんなことになってしまったことに、軽い後悔を感じつつも、ようやく「決心」できたことに、ホッとしている面もあるのではないでしょうか。決断というのは、先延ばしにすればするほど、きっかけが失われていくものですから。
 僕の先輩の「できちゃった結婚」をした人のうちの何人かは、「いや、後悔したというより、なんだかキッカケができて安心したかな、という感じ」と話していたのです。今の世の中、ひとりで生きていくのにも物理的には困らないし、「結婚しないと一緒にいられえない」というわけでもない場合が多いので、その「決断のタイミング」というのはなかなか難しいのですよね。

 結局、内村さんは、「女子アナハンター」というよりは、ずっと「受身の立場」で、さまざまな女子アナに言い寄られていた、という面もあるような気がします。それはそれで、羨ましいかぎり、なんですけど。
 内村さんは、徳永アナのことを「一途で、こうと決めたら貫いていく侍みたいな人」と会見で言っていました。一般論的には、「不倫を貫いてどうする!」と言いたくなるところではありますが、内気で優柔不断な内村さんにとっては、「自分をちゃんと引っ張ってくれる男」と出会えたのは、きっと幸せなことだったのでしょう。

 それにしても、「結婚」というものに対しては、そのプロセスがどうであれ、みんなとりあえず「おめでとう」って言うものなのだということを今回あらためて感じました。まあ、僕もひとりの大人として考えると、そういうのって、「自分にもありえないことではないからなあ…」という面もありますし、たぶんみんなそうなのでしょう。恋愛のことだけは、「なるようにしかならない」ということにしておいたほうが、みんな安心なのかな。



2005年03月24日(木)
堀江社長 vs オールナイトニッポン

スポーツ報知の記事より。

【東京高裁は23日、ニッポン放送の新株予約権発行を差し止めた東京地裁の仮処分決定を支持し、同放送の抗告を棄却。同放送は新株予約権発行を中止、最高裁への特別抗告も断念した。堀江貴文社長(32)率いるライブドアの経営権掌握が確実となり、「完全勝利」となったが、この日、シンガー・ソングライターの中島みゆき(53)やタレントのタモリ(59)、野球解説者の江本孟紀氏(57)がライブドアに経営権が移った場合、ニッポン放送の番組に出演しない意思を示していたことが判明。ホリエモンにとって、最大の逆風が襲った。
 高裁からのお墨付きも得て、完全勝利を収めたかに見えたホリエモンに、「想定外」の事態が発生した。同局の番組を足がかりにスターとなったみゆきが、タモリが「ライブドア・ニッポン放送」に「NO」を突きつけていたことが判明した。
 みゆきは深夜の看板番組「オールナイトニッポン」の月曜パーソナリティーを1979年から87年まで担当。オールナイト終了後も03年1月から04年10月までレギュラー番組「中島みゆき ほのぼのしちゃうのね」を担当するなど、長年、同局の顔として出演。所属事務所によると、近く同番組を再開する際の出演要請を受けていたという。
 しかし今年2月、ライブドアの買収計画が明らかになったことで事態が急転。同局の関係者からの問い合わせに、ライブドアに経営権が移った場合、出演の意思がないことを伝えたという。現時点でも、みゆきの考えは変わらないとしている。
 これについて事務所関係者は「堀江さんが嫌いとかではなくて、買収されたニッポン放送は今までのニッポン放送ではなくなるということ。他のラジオ局と同じになってしまうので出演する理由はない、という気持ちが(みゆきには)あったようです」と説明。
 同局の亀渕昭信社長(63)を始め現在の経営陣が、オールナイトを共に作り上げてきた現場スタッフ出身だったことも大きな理由となっているという。
 今回のみゆきの証言は「企業価値」を訴える書面として、同局が東京高裁に提出していた。書面中には、みゆきのほか、同じくオールナイトの人気パーソナリティーだったタモリや、脚本家の市川森一氏、倉本聰氏の証言もあった。同局は高裁に対し、「人気パーソナリティーを確保することは極めて困難で、降板は聴取率の低下を意味する」などと主張したという。
 この日、東京高裁が下した判断はライブドア側の勝利。みゆきやタモリらの証言は実らなかった形だが、今後の番組編成やホリエモンの戦略に大きく影を落としそうだ。】

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 この「みゆき、タモリがライブドアのニッポン放送支配に反発!」という記事なのですが、僕が最初にこのタイトルを見たときには、「もうタモリはラジオ番組にレギュラーで出るなんてことはないだろうし(というか、「笑っていいとも」も、そろそろ引退したがっているんじゃないか、とか)、中島みゆきも、なんのかんの言って、「出たくない」だけなんじゃないかなあ、と思ったのです。
 野球解説者の江本さんもそうですが、彼らは、別にニッポン放送に出演しなくたって、食いっぱぐれはしないでしょうし。「ま、売れてるからワガママも言えるよね」と、ちょっと嫌な感じもしたのです。
 でも、この記事を読んで、少なくともタモリさんとみゆきさんの「理由」には、合点がいきました。そうか、「オールナイトニッポン繋がり」だったんですね。
 僕が小〜中学校のころ、オールナイトニッポンはまさに「全盛期」で、タモリさんやみゆきさんの他にも、ビートたけしさんや笑福亭鶴光さんなどの名パーソナリティたちが毎晩僕たちの睡眠時間を奪っていたのです。当時は、ビデオやゲームがそれほど普及していませんでしたから、彼らの声は、夜更かしの魅力ともあいまって、忘れられない記憶になったのです。そして、名パーソナリティたちが、今でも芸能界で活躍しつづけているのは、彼らの努力や実力はもちろんなのですが、「オールナイトニッポン」で彼らを知って、ともに真夜中の冒険をしてきたファンの根強い支持というのも、けっして少なくはないのではないはずです。中島みゆきが、ああいうはじけた喋りをする人だなんて、歌だけを聴いていたら絶対に思いつかないでしょうし。
 そして、あまり売れていない時代に「発掘」され、長年そのパーソナリティをつとめることによって地盤を築いたタモリさんやみゆきさんにとっては、当時、一緒に番組を支えてきたニッポン放送の亀淵社長をはじめとする古株の社員たちは、まさに「戦友」と言える存在のはずです。だからこそ、こういう「一芸能人としては、越権行為的な証言」をあえてしたのだと思います。ニッポン放送が、ライブドアが、という枠組みよりは、「お世話になった人が追い込まれていくのを黙ってみていられなかった」というのが、彼らの本心なんじゃないかなあ。
 「人気パーソナリティーを確保することは極めて困難で、降板は聴取率の低下を意味する」という主張は、あまりにも飛躍しすぎの気もするし、別に彼らではなくても、「数字」を稼げるパーソナリティはいるでしょう。でも、人気タレントたちにここまでの「越権行為」をさせるだけの信頼関係というのは、やはり、あなどれないものがありそうです。株主だリスナーだといろいろ言ってみても、結局最後は「顔の見える人と人との信頼関係」が大事なはず。メディアの歴史をつくってきたのは、ハード面の充実だけではなく、まちがいなく「人間の力」なのだから。
 「聴取率を稼ぐために、聴取率が取れる番組を放送する」という姿勢って、なんだか、自分の尻尾を食べようとしている蛇、みたいな気もするのです。
 堀江社長は、「オールナイトニッポン」を聴いたことないのかなあ……



2005年03月23日(水)
あなたは「のだめ」な女を愛せますか?

『ダ・ヴィンチ』2005年4月号(メディアファクトリー)の「『のだめカンタービレ』大特集」より。

(「読者700人にアンケート、あなたは『のだめ』な女を愛せますか?」という記事の一部です。)

【汚い、くさい。のだめと聞いて真っ先に浮かぶのがこの言葉。自室のグランドピアノの周りにはゴミがこんもり。本人も「おフロは1日おき シャンプーは5日おき」という有様。
「ぎゃぼー」「もがー」「ぴぎゃー」「はうーん」。もはや言葉ではない、様々な奇声で喜怒哀楽を表現、変態ぶりを強く印象づける。「オケストラ」「ベトベン」と長音が抜け、語尾に「デス」「マス」をつけるのも「のだめ語」の特徴。「ダッチワイフ風メイク」など千秋を愛するあまりの奇行も激しい。
 誰にでも簡単に「餌付け」されるほど、とにかく食い意地がはっている。好物は千秋の手作り料理と「裏軒」の麻婆づくし。
 意外と見た目はかわいいのだめ。巨匠からは「マスコットガール」に指名され、オーボエの黒木くんは「清楚で可憐」と完全に恋に落ちた。Dカップバストには、千秋も赤面。
 一方でピアノへの情熱と才能は本物。楽譜は苦手だが一度曲を聴けばOK(超自己流解釈含む)。飲まず食わずで練習に没頭することも。大きな手で「超絶技巧」を披露し、その音色には「こいつには絶対特別なものがある」と千秋や巨匠たちをも惹きつける魅力が。
 ピアノの天才にして、変人。それが野田恵という女である。】

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 【汚い、くさい。のだめと聞いて真っ先に浮かぶのがこの言葉】【ピアノの天才にして、変人】そんな女、「のだめ」こと野田恵。彼女が主人公のマンガ「のだめカンタービレ」(二ノ宮知子・講談社)が、いま大人気なのだそうです。
 この『ダ・ヴィンチ』の「あなたは本当にのだめ(&千秋)を愛せますか?」という読者アンケートによると、異性(男性)⇒のだめの場合、「付き合いたい」が79%、「付き合いたくない」が21%という結果で、「付き合いたい」派が圧倒的多数を占めていたのです。まあ、「のだめ」というキャラクターに魅力を感じているからこそこの漫画を読んでいるのだろうし、「付き合う」にもいろいろなレベルがあるんでしょうけど。

 でも、確かに「のだめ」は魅力的な女性です。僕のような凡人にとってはとくに、そういう「破天荒な天才」は憧れてしまう存在だし。実際に恋人としてつきあうとなれば、「ピアノの天才」という面よりも、「生活破綻者」という面のほうが、より「問題」になる可能性はあるのですが。
 一緒に生活することを考えれば、自分の恋人の才能の方向性というのは、「ピアノ」よりも「家事一般」であったほうが有難い、と考える人は、けっして少数派ではないと思うのです。
 もちろん「のだめ」の魅力というのは、音楽の才能だけではなくて、その「素直」(というかなんというか、とにかく「ストレート」)な性格とか、やる気を出したときに見せるひたむきな表情とかにもあるのです。まあ、そういうのって、「地道に真面目に生きている人」からすれば、「どうして、あんな自分の好きなことしかやらないオンナがモテるんだ?」という感じもしますよね。リアルに【汚い、くさい女】だと、さすがに引きまくりそうな気もします……
 絵だけだと「のだめ」は可愛いけどねえ。

 それでも、「のだめ」はやっぱり魅力的な女性なんですよね。いやむしろ、「才能」よりも「欠点」のほうに、なんだか親しみやすさというか、愛しさを感じる人も少なくないと思います。「あまり欠点のない天才」よりも「欠点を併せ持つ天才」のほうに人気があるというのは、歴史的事実のような気がしますし。
 ただ、実際に、その「天才」を支えているのは、けっこう地味で堅実なパートナーだったりもするんですよね。「愛せる」のと「愛し続けられる」のとは、また別問題なのかもしれません。

 ところで、僕は最近、「あなたって、音楽の才能がない『のだめ』みたい」って、よく言われるのです。
 それって、「のだめ」じゃなくて、単に「だめ」なのでは……



2005年03月22日(火)
童謡「サッちゃん」をめぐる愛と哀しみのボレロ

スポーツニッポンの記事より。

【童謡「サッちゃん」の作詞者で、日本芸術院会員の芥川賞作家、阪田寛夫(さかた・ひろお)氏が22日午前8時4分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。79歳。大阪市出身。
 東大在学中、三浦朱門氏らとともに同人誌を創刊した。大阪の朝日放送でラジオ番組のプロデューサーなどを務めた後、退職して文筆業に専念。「サッちゃん」の作詞をはじめ、ドラマやミュージカルの脚本、童謡、小説、詩など、さまざまな分野で活躍した。
 ラジオドラマ「花子の旅行」で久保田万太郎賞を受け、1975年には母親の最期を描いた「土の器」で芥川賞を受賞した。他の主な作品に「海道東征」(川端康成文学賞)、「わが小林一三」などがある。二女は元宝塚歌劇団トップスターで、女優の大浦みずき。】

参考リンク「サッちゃん」の歌詞(from ごんべ007の雑学村

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 僕にとって、「サッちゃん」という童謡は、物心ついたときから当たり前のように存在していたものですから、今回の訃報を耳にして、「えっ、まだ作詞された方は存命だったのか」と失礼なことを考えてしまいました。阪田さんは芥川賞も受賞されているにもかかわらず、本当に不勉強で申し訳ありません。
 それにしても、この「サッちゃん」の歌詞を今回調べてみたのですが、僕の記憶にあるのは、1番の「本当はサチコって言うけど、ちっちゃいから自分のことを『サッちゃん』って呼ぶんだよ」というのと、2番の「ちっちゃいからバナナが半分しか食べられない」という内容だけでした。3番まであったんですね。この歌。
 子供時代の記憶としては、この歌のおかげで「サチコさん」「サチヨさん」などの「サッちゃん系」の女の子は変な替え歌をすぐに作成されていじめられていた、とか、バナナが半分しか食べられないなんて、昔の日本は貧しかったんだなあ、とか、そういうものしか残っていないんですけどね。

 思い出していくと、「自分の名前がうまく言えない」とか「バナナが半分しか食べられない」なんて、あらためて考えてみれば、昔はどうでもいいようなことを歌にしていたんだなあ、と思っていたら(いや、歌詞というもののの大部分は、現在でも「どうでもいいこと」なのですが)、3番の歌詞に目が留まりました。「ちっちゃいから 僕のこと忘れてしまうだろ」というのは、ちょっと、不思議な視点です。もしかしたら、阪田さんは同じくらいの年の男の子の視点のつもりだったのかもしれませんが、実際のところ、同世代の男の子は、相手の女の子を「ちっちゃいから」なんて考えないでしょうから、「僕」というのは、いつのまにか大人(の男性)の視点になっているのです。こういうのをあげつらって「ロリコンの歌」なんて言うのは不粋でしょうし、作詞者にはそういう意図はないと思いますが。
 おそらく、ここで描かれているのは、「子供の成長の早さ」と「忘れられていく存在の哀しみ」なのではないかと、僕は思うのです。あるいは、「小さい子供への愛しさ」と「先に退場してしまうであろう大人(=自分)への寂しさ」なのではないかなあ、と。
 大人同士だって、「忘れるときは忘れてしまう」のだけれど、大人にとっての子供というのは、愛しいけどせつない、そんな存在なのかもしれません。自分よりも未来を見ることができる、小さき者たち。
 それにしても、この歌詞で阪田さんがいちばん書きたかったことのような気がする3番が、いちばん僕たちの印象に残っていないというのは、ちょっと皮肉な話でもありますね。


※蛇足ですが、「サッちゃん」にはこんな都市伝説もあったみたいです。こういうのは得てして「考えすぎ」だと思うのですが、話の種に。




2005年03月21日(月)
「何もない携帯電話」の逆襲

『日経ベストPCデジタル』(日経BP社)2005年4月号の連載コラム「サンプラザ中野のデジタル武道館」より。

(iPod shuffleが液晶を「切捨て」て、小さく・安くしたことによって成功したという話のあとで)

【つい最近、液晶を切り捨てて売れた商品がもうひとつある。それはツーカーの携帯電話「ツーカーS」だ。お婆ちゃんの原宿「巣鴨」で、老人に試用サービスを仕掛けた。液晶のない初めての携帯電話。家の電話と同じ感覚でかけられる簡単さに、彼らは飛びついた。説明書なしでも使える・バッテリーも約1ヵ月持つ、のだそうだ。液晶がないと良いことがあるじゃあないの。】

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 ちなみに、「ツーカーS」というのは、こんな携帯電話です。
 「普通の携帯電話」に慣れてしまっている僕からすれば、この製品のあまりの「シンプルさ」に、何か落ち着かないというか、本当に大丈夫なのだろうか、という不安な感じさえするのですが、確かに「普通に電話として使うのなら、これで十分なんじゃない?」と言われれば、その通りではあるんですよね。「液晶がないと、誰からかかってきたかわからないから心配」とか「電話帳のメモリー機能がないと、相手の電話番号がわからない」とか考えてしまうのですが、そういう機能は、自宅での固定電話か公衆電話しかなかった時代には、「無くても別に困らない機能」だったのですから。現実的には、今の僕にとっては、それらの機能とかメール機能というのは「必要不可欠」になってしまったのですけど、それらの機能を使いこなすための「多少の努力」をすべての人に強要するのが正しいのかと言われると、必ずしもそうではないだろうな、とも思うのです。
 僕は1年くらい前にHDD付きのDVDプレイヤーを買ったのですが、電器製品フリークの悲しき性で、つい、「高機能・多機能」の機種を選択してしまったのです。もちろん、それなりのお金を出して。
 でも、実際に1年使ってみた感想は、「細かい編集機能とか、設定変更なんていうのは、今の僕には使いこなせない」というものだったのです。自分では「こんな機能があったほうがいい」と思って買ったにもかかわらず、使ったのは、最低限の録画・再生機能と、せいぜい録画時間の標準モードと長時間モードに切り替えくらい。まさに「宝の持ち腐れ」という感じ。そして、あまりの多機能さのおかげで、逆に「このタイマー録画を途中で終了するにはどうすれば…」というような、簡単なはずの操作も、なかなか感覚的にできなかったりもするのです。こういうのは、年齢に伴う「電脳力」の低下が主因なのでしょうが、携帯電話にしても、あの分厚いマニュアルを全部読みこなして活用している人の割合がどのくらいいるのかと考えると、「機能は多ければ多いほうがいい」という時代はもう過去のものになってしまっていて、「どれが自分にとって必要な機能か」というのを選ぶ時代になりつつあるのかもしれませんね。やっぱり「慣れている操作」というのは、なかなか捨てがたいものではありますし。多彩な編集が可能なことが売りだったはずのDVDプレイヤーで、最近では「ビデオ(VHS)と同じ操作感覚!」というような売り文句があるくらいですから。

 まあ、「ツーカーS」のような携帯電話が「主流」になることはなくても、こういう携帯のほうが「便利」だと感じる人が、今後は増えていくような気がします。僕が今使っているFOMAなんて、毎日充電を意識していないとすぐにバッテリー切れを起こすので、電話としての確実性を考えるなら、こういうシンプル携帯のほうが、はるかに「使いやすい」ですよね。
 それにしても、こういう電器製品の「新しい機能」というのは、実際に使いこなすのは、なかなか難しいものですね。
 買うときは「こんな機能も、絶対にあったほうがいい!」と毎回思ってしまうのだけど。
 



2005年03月20日(日)
岡部幸雄騎手が教えてくれたこと

「週刊Gallop」(産業経済新聞社)2005年3月20日号のコラム「僕とお馬の内緒話」(小島良太・著)より。

(通算2943勝の大記録を残して引退された、岡部幸雄騎手と一緒に仕事をされたときの思い出)

【最も印象深かったのは美浦で岡部騎手に調教を手伝ってもらったときのこと。その日は岡部騎手の他に4人の騎手に手伝ってもらっていたのですが、その中の若手騎手が牝馬(メスの馬)に騎乗し、数回ステッキを入れました。それを見た岡部騎手は血相を変えて「お前はこの馬に恨みでもあるのか!なまけてもふざけてもいない馬に何の意味があってステッキを入れたんだ。しかもその馬は牝馬だろ!お前みたいに馬を分かってないやつは明日から来なくていい!」とまくし立てたのです。よっぽど許せなかったのでしょう。岡部騎手といえば「馬優先主義」と言われますが、それを実際に目の当たりにした瞬間でした。
 そして競馬場では、レース後に僕ら現場スタッフと誰よりもディスカッションをする騎手でもあります。一緒にパトロールフィルム(レースのVTR)を見ながらその馬の足りない点などを細かく教えてくれました。その後の調教で何をすべきかが明確になるため、それはとても大切な時間でした。】

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 今日、中山競馬場で、この競馬史上に残る名手の引退式が行われました。考えてみれば、岡部騎手というのは、まだ競馬場にガラの悪い馬券オヤジたちしかいなかった時代から、ずっと38年間も乗り続けられていたわけですから、この「競馬」というギャンブルでもあり、レジャーでもあるスポーツの変遷には、非常に感慨深いものもあったのではないでしょうか。
 ここに引用させていただいたコラムを書かれている小島良太さんは、岡部さんがよく騎乗していた厩舎の調教助手をされている方なのですが、この若手騎手を叱責したエピソードというのは、どんな大レースの勝利の場面よりも、岡部幸雄という人の仕事への、馬という存在への向き合い方をよくあらわしているような気がします。
 たとえば、同じ洋服売り場で働いている人でも、「自分が売っている服への愛着」がある人がいれば、所詮「収入を得るための手段」と割り切っている人もいるように、騎手という仕事も、基本的には馬が好きでないとやっていけないにせよ、「馬は自分が稼ぐための乗り物」という意識の人もいるようです。でも、この大ベテランは、まさに、馬に対して「先生が子供に接するように」常に意識していたようです。「ふざけてもなまけてもいない馬」というのを理解していたのも凄いし、いくら若手とはいえ、同じレースに乗るかもしれない騎手に血相を変えて叱責するというのは、仕事ではマイナスの面もあるかもしれないのに。たぶん、この若手騎手は、「調教というのはステッキ(ムチ)を入れるものだ」という先入観があったのか、「ちょっといいカッコしてみようかな」というような軽い気持ちで、あまり深く考えることもなく、数回ステッキを入れただけなのでしょう。そういう気持ちというのは、僕にはわからなくもないというか、僕も同じようなことをやりそうな気がします。でも、岡部さんは、そのステッキが、その牝馬の心に悪い影響を与える、ということを知っていたのです。
 たぶんこれは、大人が子供に、先生が生徒に対して接するときにも、共通しているんでしょうが、ひょっとしたら、その場の調教では、ステッキを入れたほうがいいタイムが出るのかもしれません。そして、次のレースでも、いい結果を出せるのかもしれません。でも、その馬の将来のことを考えれば、「ちゃんとやっていたのにムチを入れられた」という経験は、どこかで「歪み」となって出てくるものではないでしょうか。
 それにしても、日頃のレースではクールなイメージの岡部さんの、この「情熱」には、あらためて驚かされます。本当に、馬が好きで、馬のことを大切に思っていた人なのですよね。いやまあ、馬券を買う側としては、「僕のことも大切にしてくれ…」と思ったことも一度や二度ではないんですけどねえ…
 それも、今となっては、懐かしい思い出です。

 岡部さん、本当に長い間、おつかれさまでした。
 馬たちも、みんな寂しがっているんじゃないかなあ。



2005年03月19日(土)
「パソコンていうのが、よくないんですよ」

「ダ・カーポ」556号(マガジンハウス)の精神科医・林公一さんの連載エッセイ「こころのあおぞら」の第70回「パソコンと携帯の真の効用」より。

【「パソコンていうのが、よくないんですよ」
 うつ病からの回復期、職場復帰した直後のある患者さんの言葉である。
「パソコンに向かってると、何か仕事してるように見えるじゃないですか。インターネットで関係ないサイト見てても、ゲームしてても。そうやって何となく時間が過ぎちゃうんです。これじゃ復帰の訓練にならないですねよね」
 仕事をしていないのに仕事をしているように見える。そんないいことはないと考えるか、逆にこの人のようにそれをよくないと考えるか、どっちの考え方が健康なのかはなかなか難しい問題である。
 しかしそれはともかくとして、仕事をしているように見えるのがパソコンの真の効用であり、オフィスが急速にOA化された真の理由であることは、現代では常識となりつつある。
 家庭用ビデオで予約録画ができるのは、平均して一家庭に一人というデータを見れば、会社で誰もがパソコンを駆使して仕事をしているという情景は幻想にすぎないのは明らかだ。しかし、そんなことより仕事をしているように見えるという外見が重要なのだ。本人にとってだけでなく、会社にとっても。

(中略)

 そして個人にとってもパソコンには大きな効用がある。始業から終業までの時間を、実はつぶしているだけでも何かをしているように感じて満足できる。まさに「生きる」という行為そのものだともいえる。
 その意味では、パソコンにやや遅れて、しかしパソコンより急速に普及した携帯電話も同じ効用を持っている。】

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 確かに、パソコンという存在ほど、職場の環境を劇的に変えたものは、今までになかったと思います。そして、パソコンほど「仕事をしているように見える(あるいは、仕事をしているフリができる)道具というのは、なかったのではないでしょうか。
 パソコンが普及するまでの「仕事のサボリ方」というのは、営業職であれば、パチンコ屋やマンガ喫茶に行って時間をつぶしたりする人が多かったようです。まあ、それも知り合いの監視下から離れられるからできることで、オフィスでは、せいぜい「同僚とお喋りする」とか「気分転換に本を読む」というくらいが「仕事のサボり方」でした。
 でも、パソコンというのは、「仕事にも使えるし、ネットにつなげれば遊びにも使える」という2つの性格を一台の中に併せ持っており、WEBサイトを観るのも「仕事関係のサイト」であれば、遊んでいるとは言い切れないところもあるので、とくにパソコンに詳しくない人にとっては、「パソコンの前で何かカチカチやっている」というだけでも、なんとなく仕事しているように見えたりもするようです。それこそ、「遊び」と「仕事」をワンクリックで切り替えたりもできますし。そういえば、昔は、ずっとパソコンの前にいて、キーボードを叩いているヤツは仕事をしているが、マウスを握ってクリックだけしているヤツは遊んでいる、なんて「鑑別法」が言われたりもしていました。実際は、僕みたいに、キーボードを叩いて「遊んでいる」人間だっているのですけど。それにしても、パソコンほど「仕事と遊びの境界線」を簡単に踏み越えてしまうツールというのは、今まで無かったのは間違いないでしょう。

 ところで、林先生は、こんなことも書いておられます。【どんな組織でも、本当に有効に仕事をしている人は、多く見積もっても全体の30%で、50%は何もしていない人、そして残りの20%は足を引っ張る人で、30%の真面目に働いている人たちは、周りを見ているうちに、働くのがバカバカしくなって「何もしない50%」に移籍したり、独立したり、うつ秒になったりする」】と。
 要するに、「パソコンを使っている人」=「仕事をしているように見える人」というのは、ある意味、「みんなが仕事をしている」という思い込みを産み出すのに役に立っている、という面もあるようなのです。確かに、真面目にやっている人にとっては、露骨に遊ばれると不快でしょうが、とりあえずパソコンの前で一生懸命カチャカチャやっていてくれれば、「悪影響」を受ける可能性は減るのかもしれませんね。「どうせ仕事しないんだったら、せめてパソコンの前にいてくれればいいや」というのが「本心」なのかもしれません。

 そして、そうやってパソコンを操作しているだけでも、なんとなく本人も「仕事をしているような錯覚」に陥ったりするのも事実です。同じ「サボる」のでも、外でパチンコしているよりは、オフィスでネットサーフィンしているほうが、「罪悪感」には乏しいような気もするし。

 こんなふうに考えてみると、パソコン社会というのは、なんだか、映画「マトリックス」に出てきた、コンピューターにエネルギーを供給するだけの、ずっと寝て夢をみている人々の世界みたいなものかもしれないですね。
 何もしていなくても、何かをやっているような、甘美な錯覚。もっとも、パソコンのおかげで、確かに「人間のやるべき仕事」というのが減った面があるのも間違いないし、便利なツールであるのは言うまでもないのですが。



2005年03月17日(木)
iPodの魅力と限界、そして、松下電器の誤解


※クリエイター同士のつきあいの話は、こちらからどうぞ。


読売新聞の記事より。

【松下電器産業は17日、デジタル携帯音楽プレーヤー「D−snap(ディースナップ)」を4月8日に発売すると発表した。米アップルコンピュータ製「iPod(アイポッド)」の圧倒的人気で急拡大するこの分野に本格参入する。
 手のひらに収まる大きさで、音楽を録音したSDカードと呼ばれる切手大のカードを差し込んで聴く。音楽はパソコンで取り込めるほか、CDからカードに直接ダビングできるミニコンポも発売する。
 最大1ギガバイトのSDカードで約500曲を録音できる。アイポッドは、数千曲録音できるハードディスク内蔵タイプが人気だが、松下は「SDカードは衝撃に強く、デジタルカメラ用に既に普及している点も有利だ」と強調している。】

「D-snap Audio」の紹介記事(AV Watch)

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 最近急激に普及している携帯音楽プレイヤー。僕の今の職場は、みんな自分の机で仕事をしていることが多いので、iPodの普及率には、すごいものがあるのです。もちろん僕も20GBのiPodを持ってます。自分で持つまでは、「自分のCDくらい、携帯CDプレイヤーかパソコンで聴けばいいんじゃない?」とか内心感じており、買った(というか、誕生日に買ってもらった)ときも、正直、「流行りものだし、面白そう」というイメージ先行だったのですが、実際に使い始めてみると、これはもう手放せない気がします。なんといっても、たくさんの曲をCDを入れ替える手間無しに聴けるというのは、実際に使ってみるとものすごく便利で手軽なんですよね。いつのまにか家のCDラジカセや車のオーディオに同じCDが長期間居座ってしまう不精者の僕としては、想像以上にラクなのです。そして、とにかく曲がたくさん入りますから(20Gでは、4000〜5000曲くらいのようです)、最初は物珍しくて、家にあるCDを片っ端から取り込んでみたのですが、そうしてみると、最近全然聴いてなかった曲を耳にして、妙にセンチメンタルな気分になってみたりもするんですよね。ああ、こんなの昔は良く聴いてたなあ、って。もしこういう機会がなかったら、「もうこんな古いの聴かないよね」という感じで、二度と聴かなかったかもしれないのに。最新のラップの後に昔のファミコンの音楽が流れてきて、妙な感覚になるのもまた、こういうハードディスク+シャッフルモードならではですし。
 それに、こういう「5000曲」という枠を埋めていくのには、なんとなく「コレクション」のような楽しみもあるんですよね。実際に5000曲なんて、1曲平均3分としても、全部聴くには10日間以上かかってしまうんですけど。

 しかし、これだけ便利な携帯音楽プレイヤーなのですが、実際問題として、僕の仕事場が臨床に移ってしまえば、出番はものすごく少なくなることが予想されます。まさかイヤホンを耳に入れたまま外来に出るわけにはいかないし、回診だってできません。家でも、緊急の電話がかかってきたときに、気付かないかもしれない。そんなふうに考えたら、iPod、全然使えなくなってしまいます。おそらく、世間の大部分の大人にとって、この携帯音楽プレイヤーっていうのは、「便利なんだけど、使いどころがないもの」なのかなあ、とも思えるのです。BGMとして職場に音楽が流れているところは多いでしょうが、イヤホンを耳に挿したまま仕事をしても問題ない職場というのは、現在の日本では、たぶん少数派のはず。FMトランスミッターを利用して、載せかえられる車載ハードディスクプレイヤーとして使うというのは、ものすごく現実的な選択でしょうけど。
 携帯電話が普及することによって、逆に「マナー」が問われるようになり、使えない場所が増えてしまったように、どんなに携帯ゲームや携帯音楽プレイヤーが普及しても、「使える場所」というのは、そんなに劇的には増えないのかもしれません。まあ、だからこそちょっとした時間に使えるのは貴重、という面もありそうですが。個人的には、FMチューナーを付けてくれたら、言うことないんだけどなあ。

 ところで、この松下の製品、僕はあまり魅力を感じません。劇的に安いのならともかく、iPodの人気の秘訣というのは、とにかくその「手軽さ」と「操作性のよさ」なんですよね。「衝撃に強い」というのは、iPodのデータが飛んだ経験者以外には、あんまり魅力的には感じられないだろうし、「SDカードを用意して、いちいち入れ替える」という作業は、けっこう面倒な気もします。「SDカードが無いと聴けない」というのは、どんなにSDカードが普及していたとしても、本体に保存できるタイプと比較すれば、ちょっと不便。パソコン無しでも、同時発売のミニコンポでSDカードに録音できるのが売りなのだそうですが、そもそも、「パソコンを使えない(あるいは使わない)人々にとって、この手の商品は、選択肢に入るものなのでしょうか?それに、ミニコンポ買うより、パソコン買うほうが安いくらいの御時世だし。
 それでも、一部の人にとっては、「朗報」なのかもしれませんが……



2005年03月16日(水)
読みもしない、邪魔もしない。

『ダ・ヴィンチ』2005年4月号(メディアファクトリー)の連載記事「一青窈のヒトトキ・第20回」より。

(一青窈さんと芥川賞作家・小川洋子さんの対談の一部です。)

【一青:おとつい、私、レイ・チャールズの『Ray』っていう映画を見たんですけど。レイ・チャールズは自分の奥さんがいて、周りに愛人がいたから作品が生まれているんですね。

小川:男性はピカソにしろミューズに触発される人って多いですよね。

一青:私がその映画で凄いと思ったのはただ一点、奥様がケンカした時「私を失ってもいい。子供を失ってもいい。ただ、あなたは音楽を失ってはいけないの」って言ったんです。それはもはや女ではなく、マネージャーのような心意気がないとできないことだなあと。

小川:でもそういう度量は女性にはあるのかも。犠牲的な精神というかね。

一青:女のクリエイターの場合は伴侶にどんな立ち位置を望むんでしょう?

小川:うちは鉄鋼マンなんです。製鉄会社に勤めていて全く干渉しない。

一青:読みもしない?

小川:(うなずいて)邪魔もしない。

一青:それはあれですか。口出しをされた方とおつきあいされた経験が?

小川:そういえば……ありました。うまくいかないですよね。あんまり意識してなかったけど。そうか。そういう失敗があって、うるさくない、ややこしくない人を選んだのかもしれない。】

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 クリエイター同士のつきあいというのは、なかなか難しいみたいですね。
 そういえば、以前に作家の群ようこさんのエッセイで、こんな話を読んだことがあります。
 群さんは売れていないころ、同業の文筆家とつきあっていたことがあったのですが、群さんが売れはじめると、相手の男性は、いつも機嫌が悪くなり「どうしてお前の書くようなつまらないものが売れるんだ」というような愚痴をこぼすことが多くなって、次第に疎遠になっていったそうです。
 ほんとにもう、こういうのは狭量な男だとは思うのですが、同業者とつきあうというのは、確かに、難しいところがありますよね。
 同業者同士だと、お互いの仕事を理解できる、というメリットがある一方で、お互いにとって(とくに男性側)は、「同じ仕事をやる限りは、相手に負けたら情けない」というようなプレッシャーがあるのも否定できません。
 僕も、彼女が自分がやったことがないような検査とか治療の話をしていたり、大きな学会で発表したりするときには「がんばれよ」と思う一方で、「ムキー!!」とか小さなプライドが揺さぶられたりもするのです。「お互いにライバルとして高めあえる」なんていうのが理想なんですが、現実的な感覚というのは、必ずしもポジティブな方にばかりは向かわなくて。それでも、職場が別だと、あまり直接の仕事ぶりなんてのはわかりませんから、救われている面もあるのですけど。

 小川さんが書かれている「女のクリエイターとしての立ち位置」というのは、必ずしも普遍的なものではないでしょうし、最近では、男性側が「マネージャーのような心意気」を持ってサポートする場合も少なくないようですが、「同じ業種の人」「相手の仕事に興味を持ちすぎる人」というのは、やっぱり、やりにくいこともあるのでしょう。作家の場合は、どうしても、「この話のモデルは?」とか、身内であれば考えてしまうでしょうし。
 そういう意味では、「読みもしない、干渉もしない」という人も、悪くないのかもしれません。もっとも「伴侶が最良の読者だった」と公言している作家も、けっこういるのですが。
 こういう「立ち位置」というのは、まさにそれぞれの人の個性にもよるのでしょうし、たぶん「こういう関係がベスト」なんていうのは、無いんですよね、きっと。
 でも、僕の感覚からすれば、「お互いの仕事内容がわかりすぎるパートナー」というのは、けっこう辛いような気がします。
 最愛の人とまで「競争」しなくてもいい、とも思うのだけれど、最も身近な相手だからこそ負けたくない、というのもまた事実なのですよね。



2005年03月14日(月)
僕の中の「ねずみ男」

共同通信の記事より。

【妖界行きは霊番のりば−−。JR米子駅(鳥取県米子市)で、同駅と境港駅(同県境港市)を結ぶ境線の「0番のりば」が17日、「霊番のりば」に改称され、ホームの愛称は「ねずみ男駅」となる。
 境港市には、地元出身の漫画家水木しげるさんの妖怪像が並び、妖怪人気で乗客増加を狙う。
 境線は、水木作品に登場する妖怪を車体に描いた「鬼太郎列車」が走っており、ホームの改装で列車と一体化を図るのが狙い。
 妖怪をイメージして「0番」は「霊番」にし、ホームには高さ4メートルの木柱に「ねずみ男」を彫り込んだ駅名柱や案内板、全国妖怪地図を設置する。
 JR西日本米子支社は、境線の残り15駅にも妖怪にちなんだ愛称名や装飾を計画している。】

参考リンク:「水木しげる記念館」

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 境港市は、「ゲゲゲの鬼太郎」などで有名な漫画家・水木しげるさんの出身地で、「水木しげる記念館」というのも建てられており、「妖怪の町」として町おこしをされているそうです。水木さんの作品には熱心なファンも多いことですし、一定の集客効果は見込めると思うのですが、一般利用者にとっては、「霊番のりば」とか、ちょっと薄気味悪いのではないかなあ、と思わなくもないですが。
 それにしても、この記事を読んで僕が思ったのは、「ねずみ男」というのは、けっこう人気があるのだなあ、ということでした。まあ、人気があるのか、それとも有名なだけなのかはわかりませんが、みんなが大嫌いだったら、こうして駅名にはならないだろうし、「鬼太郎」で最も知られているのは鬼太郎と目玉オヤジだとしても、その次に名前が挙がるキャラクターは、やっぱり「ねずみ男」のような気がしますし。
 子供のころ観た「鬼太郎」のなかで、ねずみ男というのはとにかく嫌なキャラクターで、不潔で、自分のためなら仲間も平気で売るし、そのわりには困ったときにはすぐに友達(?)を頼るし、プライドが結構高くて大きな事ばかり言っているわりにはやることはセコイし、という印象だったのです。言っちゃ悪いですが、「こんな人間にはなりたくない!」と断言できるような、そんな存在。
 しかし、こうしてオトナになって考えてみると、僕の中にもいわゆる「ねずみ男的な面」というのが存在しているのは否定できないのです。やっぱり自分が大事だし、その場しのぎなところもあるし、大風呂敷を広げるわりにはたいしたことはできないし、ほんと、「プチねずみ男」。
 それでも、「本家ねずみ男」のどうしようもなさには、正直、「僕もコイツよりはマシ、だよな…」と自分を慰められるという面もあるくらいなのですけど。
 その一方で、なんだか、あの「どうしようもなさ」に、僕はちょっとだけ憧れてもいるんですよね。あそこまで「ダメな奴」に徹することができたら、それはそれで幸せなんじゃないかなあ、とか。

 なんのかんの言っても、「ねずみ男」って、けっこう魅力的なのかもしれません。実際にあんな人がいたとしたらお友達にはなりたくないけれど、画面の向こうにいる限りは、憎みきれないキャラクターなんですよね、きっと。



2005年03月13日(日)
ある「書店員」たちの、憂鬱な日常

「本の雑誌」(本の雑誌社)2005年4月号の記事「☆書店員ガス抜き座談会〜ささやかなドリームを見せてくれ!」より。

【<コミック試し読み問題>
A:コミックの帯に「試し読み歓迎作品です。ビニールパックをかけないでください」とあるのも腹立つね。ほっとけっての。
C:『団地ともお』でしょ。うちはかけてるよ。
B:直接書店に言ってほしいよね。帯に書いたら、お客さんに「この店パックかけてるよ、ひどいなあ」と思われる。別に意地悪でやってるんじゃないのに。
C:あんたたちが読んで汚して買わないからかけてるんだよっ。
A:汚す奴に限って神経質で、下から取ったりするんだよね。うちのコミック担当なんて、指紋の跡をつけてしまってすみませんって謝ってたよ。指紋一個で取り替えてって言う人もいるんだって。
B:パックのかけ方にうるさいお客さんもいますね。綺麗にかかってないと売り上げが落ちる。
C:角がきっちりしてないとか、本が波打ってるとか。
A:機械があったまってないと綺麗にできないんだよね。なんか焦げ臭いと思ったら、ビニールが丸焦げになってたって話も(笑)。

(中略)

<書店は広告展示場じゃないぞ!>
A:私が腹立つのはチラシだね。広告会社が健康飲料とかのチラシを置いてくれって来るんだよ。女性誌や健康雑誌の前に専用の什器をセットして、「ご自由にお持ちください」とやるわけ。
B:それ、お金もらえるんですか。
A:二万三万くれるんだよ。場所切り売りしたと割り切ればいいんだけど、全然関係ない商品っていうのがなあ。本の広告ならまだしも、なんかムッとする。
B:書店全体が広告スペースになってるんですよね。英会話の勧誘と一緒。嫌だけど、その料金より儲かる本があるのかって言われると、反対するのも難しい。】

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 本好きにとっては、憧れの職業である書店員なのですが、「好きな本を売っていればいい、気楽な商売」ではないということが、この座談会では延々と語られています。ほんと、イメージほどラクな商売じゃないことだけは間違いなさそう。
 最初の「コミック試し読み問題」なのですが、僕も「本にビニールがかかっているなんてつまらない!」と思いつつも、自分が買うとしたら、やはりビニールがかかっている本の、さらに積まれている下のほうから取ってしまうんですよね。そこまでして大事に手に入れた本を、そんなに汚さないように読んでいるのか?と言われると、ものをこぼしたり、すぐに折り曲げてしまったりするのだから、そんなにこだわる必要なんてないのかもしれませんが。よく「どんな新品でも自分で1回触ればもう中古なんだから…」と言われるのですが、それでもやっぱり「せっかく買うんだから、綺麗なものを」とつい考えてしまうのです。こだわるほど、僕そのものが清潔な存在ではなさそうなものなのですが。
 それにしても、ここに書かれているような「指紋をつけたという理由で謝った」という店員さんになると、ちょっとかわいそうだな、と思います。たぶん「保存用」として買うつもりだったのでしょうけど、そうやって保管されて、読まれない本というのも、それはそれで哀しいような気もします。それこそ、無菌室に保存されて、手袋・ピンセットで取り扱わなければならないのか、とか。
 本というのは、それだけ「人の(極端すぎるものも含めて)愛情を呼び覚ます存在である」ということなのですねえ。でもほんと、店員さんは大変。
 以前コンビニで、ビールを袋に詰めていて、お客のオッサンに「こら、ビールを揺らすな!」と怒られていた店員さんに激しく同情したことがあったのですが(だって、袋に入れるときに、ちょっと他のものにあたって傾いたくらいだったのに)、ほんと、客商売というのはレジひとつとっても侮れません。いくら「お客様は神様」と言っても……

 そして、<書店は広告展示場じゃないぞ!>の話なのですが、僕は以前から、大型書店に行くと英会話の勧誘とかの女性がいるのが、ものすごく嫌だったのです。だって、本を買いにきたのに、いろいろ話しかけられたりするのって面倒だし、ああいうのは断るのもちょっとしたパワーと罪悪感を要するので。エスカレーターを降りたところにそういう勧誘の人がいたりすると、それだけで「書店としてのプライドはどこへ行った!」とか内心思ったりしていたのです。だって、僕としては、「本屋で知らない人に話しかけられる」というのは、「そんなつもりで来たんじゃない」という気持ちだから。
 でも、ここでBさんが言っている【嫌だけど、その料金より儲かる本があるのかって言われると、反対するのも難しい。】というのを読むと、書店業界の現状が伝わってきます。実際、書店というのは、そんなに儲からない(というか、利益率が低い)商売みたいなので、それこそ、「本を売るだけではやっていけない」という面もあるみたい。人が集まる場所として、広告スペース化するのも「生き残るための手段」なわけで、書店員の人たちも内心では「本を売りたいのに…」と思っているようです。確かに「同じだけのスペースに置いて、3万円の利益をあげられる本」というのは、かなり厳しそう。客としては、甘んじてああいう広告スペースの存在を受け入れさるをえないのかもしれません。本屋がなくなるくらいなら、ねえ。
 でも、ほとんど勧誘と広告スペースの本屋なんて、絶対嫌だ…

 いずれの話にしても、書店員というのは、「本を置いて、レジでお客が来るのを待っているだけ」というような簡単な仕事ではないことだけは確かなようです。最近は、コンビニと超大型書店の板ばさみにあって、僕が昔行っていたような中小の書店は、ほとんど無くなってしまっていますし。正直、大型書店は本がたくさんあるのは嬉しいのだけど、人が多くて、なんだか落ち着かないような気もするんですけどね。本の種類がいくら多くても、いつもそんなに珍しい本ばっかり買うわけでもないんだけどなあ…
 



2005年03月12日(土)
これが、石原都知事の「男の哲学」?

「ダ・カーポ」556号(マガジンハウス)の特集「本当の『男』の鍛え方」の中の石原良純さんのインタビュー記事より。

【「ぼくが幼い頃、父はよく逗子の海岸に走りに出かけていました。たまに付き合わされて一緒に走りましたが、その頃の僕には何が面白いのか全く理解できなかった。さらにぼくが大人になってからも、父は仕事先から家に帰る途中で車を降りて走って帰ってくる。そんなにしてまで走ることにどういう意味があるのか不思議でした。自分が30歳を過ぎた頃にようやくその意味がわかってきた気がします。父は自分自身と闘っていたのです。自分の老いと闘うことはもちろん、男は仕事や社会と闘っていかなければならない。それが石原慎太郎という人が子どもたちに伝えたかった哲学の一つだと思います」
 と石原良純さんは語る。】

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 『スパルタ教育』なんて著書もある、現東京都知事石原慎太郎さんを父親に持つ良純さんのこの述懐、読んだときの僕の率直な感想は、「えっ、だから何?」というものでした。いや、非常に申し訳ないんだけど、それはさすがにお父様を美化しすぎなのではないか、と。そんな、自分自身と闘いたかったら、最初から車に乗らずに走れよ!とか、そもそも、走る以外にもっとやることがあるんじゃないか?と思わなくもないですし。

 ただ、この話からは、あの石原都知事も、「ひとりになりたい」とか「何も考えずに走りたい」と思うような、「弱さ」を抱えて生きているのだな、ということがうかがえるような気はするのです。そして、こうして「走る」という行為は、一見無意味というか、バカバカしいようにすら思えるけれど、石原さんにとっては、大事なストレス解消法なのではないかなあ、という気もします。

 僕は本当に運動というやつが苦手&嫌いで、この年齢まで必要があるとき以外はなるべくタテのものもヨコにしないで生きてきたのですが、最近になって、体力の急激な低下を自覚していることもあり、イヤイヤながらも時々フィットネスクラブに行って自転車をこいだり、ウォーキングマシンで歩いたりしているのです。そんなの道路でやれ、と仰る向きもありましょうが、自意識過剰だから、なんだか恥ずかしいし、ジムの中ではテレビを観ながら自転車こいだりできるので、やりやすいのも事実。
 それで、「こんなの時間のムダなんだけどなあ、本を読むためとかに時間使いたいよ…」とか思いつつ運動してみての感想なのですが、悔しいんだけど、やっぱり「身体を動かす」というのは、人間にとって、とくに僕のような慢性運動不足の人間には、いろいろとプラスの効果をもたらしてくれるのです。
 夜は「眠る時間だから」ではなくて、ちゃんと「眠くなって眠れ」ますし、快食快便、そして、身体を動かすこと集中することで、日頃頭の中であれこれこねくりまわしていることによるモヤモヤとした感情が、なんだかスッキリするような気がするんですよね。僕はこの年まで、「頭で考えること」は「身体を動かすこと」よりも偉いことだと思い込んでいたけれど、実際には、「あたま」と「からだ」というのは、つながっているものであり、「あたま」というのは「からだ」の一部であるということを痛切に感じます。まあ、ちょっと三島由紀夫チックな話ではありますが、彼の場合はあまりに極端だったとしても、「身体性」というのは、「こころ」を考えるときには、無視できないことのように感じるのです。
 そういえば、村上春樹さんもマラソンが御趣味でしたよね。

 僕は、石原都知事は、「闘っていた」わけではなくて、むしろ「休めていた」あるいは「バランスをとっていた」のだと思うのですが、本当のところは御本人に訊いてみないとわかりません。
 もしかしたら、こういうのって、本人も、その「理由」なんて考えてなくて、単に「走りたいから」だけだったりするのかもしれませんけど。

 



2005年03月11日(金)
「一生酒は飲まない」「たばこは一生吸わない」

毎日新聞の記事より。

【強制わいせつ容疑で現行犯逮捕された自民党の中西一善衆院議員(40)は11日、東京都内のホテルで記者会見し、「許されない行為により、女性を傷付け、国会議員の信頼を損ない、誠に申し訳ありませんでした」と謝罪した。同議員は「一生酒は飲まないつもり」とし、今後の身の振り方については「全くの白紙。謹慎し、自分を見つめ直したい」と述べた。
 中西議員は事件について、警察の取り調べ中である点と被害女性に配慮し、詳細には明らかにしなかったが、9日夜は所属する亀井派の会合に出席した後、10日午前0時過ぎまで友人らと酒を飲んだ後、さらに1人で酒を飲んだという。合計で「赤ワイン1本、焼酎ボトル半分、ビールを2〜3本」飲み、六本木の路上で客引きなどをからかいながら歩き、被害女性と会ったという。
 中西議員は「元来、酒は強くない」と話したが、大量の酒を飲んだことについて質問され、「(自分の)弱い所で欠陥だと思う。気が大きくなって理性的な判断が出来なくなっていた」と釈明した。また政治の仕事をするのかと尋ねられると「反省の気持ちと愚かさに思いをいたし、自分の進路は考えられない」と述べるにとどまった。
 中西議員は約30分の会見の間、終始伏し目がちで、振り絞るように話していた。会見終了後、立ち上がって、テーブルに頭がつくほど下げ、会場を後にした。】

【日本ハムは10日、喫煙問題で謹慎していたダルビッシュ有投手(18)の処分を解除し、11日から練習に参加を認めると発表した。札幌市豊平区の球団事務所で会見したダルビッシュ投手は「自分の軽率な行動がファン、関係者に多大なご迷惑をかけた。本当に申し訳ありません」と、深々と頭を下げ「たばこは一生吸わない」と報道陣を前に誓った。
 ダルビッシュ投手は「生活を根本から改め、喫煙、飲酒、暴力など、法を犯す過ちを二度と起こさないことを誓います」と語り、計3回頭を下げた。2月20日からの謹慎期間中に体重は1〜2キロ増えたが、キャンプ中に痛めたひざの調子は回復したという。
 会見には今村純二球団社長、島田利正・チーム統轄本部長、岡本哲司・2軍監督が同席した。9日に、千葉県鎌ケ谷市の二軍の合宿所でダルビッシュ投手と会った今村社長は「本人は、ことの重大さを再認識している。毎日書いた日記に、反省と自己管理の大切さについて記されていたことなどから解除を決めた。今後も2軍監督が毎月2回程度教育する」と述べた。】

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 「ワイセツ議員」なんてタイトルの記事になってしまうようでは、中西氏の前途は真っ暗、としか言いようがありません。キャッチフレーズは「一日一善」だったそうですが、「酒に酔って気が大きくなっていた」からといって、こんな不祥事を起こすような人では、あまり偉くなる前にこういう結果になったことは、むしろ日本という国としては、よかったのかもしれませんが…でも、この人の会見を観ていたら、いかにも「日頃真面目なんだけど、酒に飲まれてしまうタイプ」みたいに見えて、ちょっとかわいそうにも思えました。僕にもそういう傾向はあるし。
 とはいえ、彼がやったことは本当に恥ずべきことで、非難されるのは当然ではあるんですけど。
 
 中西氏に比べれば、ダルビッシュのほうは「とりあえず誰にも迷惑はかけていない」ということで、比較的軽いお咎めになったようです。「生活を根本から改め、喫煙、飲酒、暴力など、法を犯す過ちを二度と起こさないことを誓います」なんていうコメントを聞くと、今までさんざん、これらの「法を犯す過ち」をやってきたんじゃないか?とか、つい考えてしまうのですが。そもそも、今回の時間の前にだって、「喫煙疑惑」が、写真週刊誌に出ていたというのに。「反省日記」を日本ハムの球団社長が読んで、「改悛の情」を認めたということらしいのですが、いっそのことブログで公開して、容赦のないコメント攻撃にさらしてみたらどうか、などと僕は思っていたんだけどなあ。
 でも、もともとダルビッシュは、楽天の一場投手と並んで、「ヒール(悪役)」のイメージでしたから、今回のことも「なんでそんな見つかるようにやるのかなあ…」という感じでもあったんですけどね。実際、大学生になればほとんどお咎めなしで18歳でもお酒飲んだりしているわけだし、ましてや自分でお金を稼いでいる野球選手ともなれば、それはもう「個人の責任」なのではないか、という気もします。もちろん、アスリートとしては、若い時期からの喫煙がプラスになるとは思えませんが。

 ところで、この2人の会見を観て僕がいちばん印象に残ったことは、「一生」とか「もう二度と」というふうに、2人とも発言したということでした。ダルビッシュに対しては、「ウソつけ!」とテレビの前でツッコんだ人は大勢いそうですし、中西氏にしても、そういう不名誉な理由で社会からスポイルされた人の末路というのは、某田代さんを見てもわかるように、「酒でも飲まなきゃやってられない」あるいは「クスリに走ってしまう」という可能性も高いのです。むしろ、これからの人生のほうが、もっと辛くて長い道のりになるはず。「飲まないつもり」なんて「つもり」になっている時点で、彼の決心のほどが知れる、というものです。1年ももたないのでは…というのは、あまりに過小評価でしょうか。
 ダルビッシュはまあ、この「約束」はしばらくすればみんな忘れてしまうでしょうし、5年後に彼が一流選手になって酒を飲んでも、みんな忘れたフリをしてくれるでしょうけど(20歳過ぎれば、法律違反じゃないしね)。

 僕は思うのですが、「一生○○しない」なんて言う決心を実行できるような意思の固い人は、そもそも、こういう過ちを犯さないのではないでしょうか。自分自身も含めて「一生○○しない」という固い決心は、まさに、「もういいだろ」と解禁されるようにあるようなもので、「一生結婚しない」はずの人の考えがひとつの出会いで変わったり、「一生浮気はしない」「一生ギャンブルはしない」なんて約束の達成率なんて、ものすごく低いように思われます。それでも、決心せざるをえないのが、人間の弱さであり往生際の悪さなのかもしれませんが。
 本当は、できもしない「一生○○しない」という口先だけの約束よりも、禁煙治療を受けたり、酒を飲んでも飲まれないように自分を律するというトレーニングをしてみせたほうが合理的なはずなのに。嗜好品なんていうのは、気持ちだけでコントロールできるようなものではない場合も多いから。

 それにしても、僕は誰かがこの「一生○○しない」という言葉を口にする姿をみると、その人への評価を少し下げたくなる衝動を抑えられないのです。
 少なくとも、この2人にとっては、これからの「一生」は、長いものになるでしょうね……



2005年03月10日(木)
「住民基本台帳」は、犯罪者と名簿業者の味方です。

時事通信の記事より。

【今年1月に名古屋市内で女子中学生に暴行したとして、愛知県警捜査1課と西署などは9日、強制わいせつの疑いで、同県春日井市味美白山町、無職武藤誠容疑者(31)=別の強姦致傷罪で起訴済み=を再逮捕した。同容疑者は「区役所の住民基本台帳を閲覧し、女の子がいる母子家庭を狙った」などと供述しているという。
 調べによると、武藤容疑者は住民基本台帳を閲覧して家族構成を確認。小学生や中学生の女子がいる母子家庭などに狙いを定めた上で、名古屋市内の女子中学生の自宅を訪問。応対に出た女子中学生を玄関先で殴って脅した上、暴行を加えた疑い。】


以下は、読売新聞の3月7日の記事です。

【大阪市など大阪府内7市3町が、名簿業者に住民基本台帳の閲覧を認めていることが7日、わかった。
 住民基本台帳法は原則、「何人も閲覧できる」と規定しているが、4月1日全面施行の個人情報保護法は、本人の同意を得ない個人情報の第三者への提供を禁じており、名簿業者が閲覧した個人情報を販売した場合、同法違反の疑いがある。
 一方、熊本市は昨年8月、営利目的の閲覧禁止を全国に先駆けて条例化した。二つの法のはざまで、自治体の判断が揺れている。
 他に閲覧を認めているのは岸和田市などで、閲覧できるのは名前、住所、生年月日、性別の4情報。
 1985年の住民基本台帳法改正で、不当な目的に使用されると市町村長が判断した場合、閲覧を拒否できるとの条文が盛り込まれ、東大阪、高槻など府内10市は、これを根拠に名簿・ダイレクトメール(DM)業者を含む営利目的の閲覧を禁止している。
 一方、大阪市以外の政令指定都市12市は、DM業者に閲覧を認めているが、名簿業者には認めていない。営利目的の閲覧禁止を条例化した熊本市は「個人情報が流出すれば架空請求などに悪用される恐れがある」という。
 総務省市町村課は読売新聞の取材に「住民基本台帳は市場・世論調査、学術研究、弁護士調査などに利用されており、公開する役割はある」と説明。自治体独自の規制について「最終的には市町村長の判断」としている。】

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 現在の「住民基本台帳法」というのは昭和40年代に制定されたもので、1985年に改正が行われたものの(この「改正」でさえ、【不当な目的に使用されると市町村長が判断した場合、閲覧を拒否できるとの条文が盛り込まれ】ですから、「閲覧自由」というのが、ずっと基本になっていたわけです。でも、今回の暴行事件では、その住民台帳が、「日中に女の子がひとりだけになる家庭を見つけるため」に、まさに「悪用」されてしまったわけですから、「名前や住所や生年月日や性別」だけとはいうものの、「こんなものを誰でも閲覧できるようにする必要があるのか?」という疑問は否めません。現に、熊本市など、原則非公開にしている自治体もあるのです。
 そもそも、総務省は、【読売新聞の取材に「住民基本台帳は市場・世論調査、学術研究、弁護士調査などに利用されており、公開する役割はある」と説明している】そうなのですが、実際にこれの住民台帳を利用しているのは、ダイレクトメールなどの名簿業者が主だと思われます。DMなんて、嫌なら捨てればいい、と言われるかもしれませんが、そうやって自分の情報が垂れ流されていることに不快感や不安感を感じる人は少なくないでしょうし、そもそも、そういう調査とか研究なんていうのは、研究される側にとって、直接的なメリットがあるとは考え難いのです。「振り込め詐欺」のターゲットになってしまう可能性だってあるわけだし。
 「長い目でみれば…なんていうけれど、それこそ、名前と住所と生年月日と性別だけで、何かまともな調査ができるのかどうかなんて、怪しいかぎり。どうして今まで、こんな「百害あって一利あるかどうか」というようなシステムが維持されてきたのか、甚だ疑問です。役所はダイレクトメール業者と癒着していたり、名簿の横流しとかしているんじゃないか?などと勘繰りたくもなってしまいます。だいたい、僕は今まで30年以上生きていますが、そんなものを見る必要性を感じたことなんて、一度もありません。誰のための台帳なのか、全然わからない。
 たぶん、この手の問題は、住民基本台帳法が制定された当時は、そんなにDMのシステムも発達していなかったでしょうから、「気にしなくてもいいこと」だったのかもしれませんが…
 テレビで観たのですが、1980年の時点での調査では、この住民基本台帳の公開について、「気になる」と答えた人は、約3%くらいだったそうです。ちなみに、最近の同じ調査では、40%くらいの人が不安を感じているのだとか。確かに、そういう「個人情報」が、すぐに悪用されてしまうようなシステムというのが、社会の裏で発達してしまっているというのは、まちがいないでしょう。
 僕が子どものころって、電話番号は電話帳に載せるのが当たり前だったけれど、最近は、電話帳に載せないほうが当然、という感じにもなっていますし。

 確かに、「悪用するのは、一部の人々」なのかもしれませんし、「悪用するほうが悪い」のも間違いありません。でも、今の状況は、あまりに無責任すぎるのではないでしょうか。
 これだけ、「個人情報保護」が叫ばれているなかで、どうしてこのシステムがいまだに続いているのか、僕には正直理解できないんですよね。公開するメリットよりもデメリットのほうが大きいのならば、早くこんな制度はやめてもらいたい。
 犯罪者やDM業者のための役所なのか、それとも、住民のための役所なのか?
 本人しか見られないようにすることに、何か、不都合でもあるのでしょうか?



2005年03月09日(水)
通天閣のおばあちゃんの決めゼリフ

「日本語トーク術」(古館伊知郎・齋藤孝共著、小学館文庫)より。

(「日本語」に関する、古館さんと齋藤さんの対談の一部です。)

【古館:NHKの『新・クイズ日本人の質問』という番組の司会をやっていたときのことなんですが、あれはクイズの答えに虚説が三つあって、一つだけ本当の答えなんですね。
 今、ふと思い出したんですけど、あのクイズに出た人で、大阪の通天閣の展望台に小さいお店を持ってる80歳のおばあちゃんがいたんです。40年間ぐらい年中無休で、大晦日もお正月も、通天閣の小っちゃいミニチュアや、いろんなお札とか絵馬とかを売っている人で、40年間無休で働いているっていうだけで面白いんだけど、この人には、自然に培った決めぜりふがあるんです。こう言うとお土産が売れるひと言があります。それは意図的に作った言葉ではありません。無休でやっている中で自然に使っている言葉で、なぜかこの言葉をいいタイミングで言うと売れるっている言葉があります。さて何でしょう、って言って、四つの説が出たんです。
 一つめは、「やめますか」って言うと、買おうかどうしようか迷っている客が「やめるのやだから、買おうかな」って反動で買う。二つめは、「お家に持って帰ってください」って言うと、お家に持って帰る情景が浮かんで、家族の幸せを感じて買うとか。でも、8人の回答者が誰も当たらなかったんです。実は一番地味な答えが正解だったんです。「どうしましょう」って言うんですよ。

齋藤:「どうしましょう」って!

古館:これは、突き詰めていくと、さっきの「預ける世界」なんです。
 要するに、客が迷っていて、どうしようって思っているわけです。こんなもの買っていく意味がないって。テレビの15秒スポットを見て悩むみたいなものですよ。左脳と右脳が迷っていて、右脳は買っていきたいっていう衝動にかられてる。でも左脳の理屈脳が「お前、こんな通天閣の置物を買って帰ってテレビの上に置いたってよくないぞ。むだ遣いするなよ、旅行気分にとりつかれちゃいけないよ」って言っている。客はやっぱり、どうしましょうと思っているわけですよ。
 おばあちゃんは、ある程度は黙っているんですって。それで、もう限界かな、客が離れるかなっていう直前に、「どうしましょう」ってちっちゃい声で言う。そうすると、そのささやきは、内なるささやきなんですよ。だから、自分以外の自分が、自分以外の他人が、自分の代弁をしちゃうんです。そうすると、あなたは私ですかっていうことになって、じゃあ、あなたのために買うよという不可思議な状態になる。だから、完全に預けに近いんですよ。「どうしましょう」って。

齋藤:素晴らしいエピソードだな、それは。

古館:ええ。「私はね、いつからそう言うようになったか全然覚えていないし、ねらったこともない」っておばあちゃんは言う。たぶん、ずっと客と向き合っているから、客側に立てる瞬間があったはずなんですよね。これはやっぱり、究極のコミュニケーションだと思うんですね。

齋藤:うーん、究極ですね。身体をそこに重ね合わせるんですね。

古館:そうですね。

齋藤:でも、絶妙なタイミングじゃないとダメなんですよ。

古館:いきなり「どうしましょう」じゃね。】

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 このエピソード、まさに長年の経験がなせるワザというか、どんな雄弁なセールストークよりも、ひと言の「どうしましょう」のほうが効果的だというのは、ものすごく興味深い話です。「通天閣のお土産物」なんて、こう言ってはなんですが、「別になくても困らないもの」というか、実際のところは、買って家で包みを開けてみれば「どうして自分はこんなものを買ってしまったんだろう?」と思ってしまうようなものですから、それを40年「その気にさせて」売り続けるのは、並大抵の技術ではないはずです。まあ、逆に、「買ってもそんなに懐が痛むようなもの」ではないのも事実ではあるのでしょうが。
 たぶん、このおばあちゃんも40年の間、「どうしたら売れるんだろう?」といろいろ工夫はされたのだと思うのです。それこそ、煩いくらいにお客さんに話しかけたこともあったでしょうし、逆に、声をかけないようにしたこともあったに違いありません。その結果が、この「どうしましょう」のひと言ですからねえ…多くのお客は、これがおばあちゃんの「決めぜりふ」であることすら知らないまま、「じゃあ買うよ」と言ってきたのでしょう。逆に、あんまりしつこく売りこまれたりするとかえって「買っても大丈夫かな?」なんて思ってしまうかもしれないし。
 そして、この「どうしましょう」のタイミングもまた、ひとつのテクニックで、齋藤さんが仰っているように、「絶妙なタイミングじゃないとダメ」なんですよね、きっと。それこそ、手にとってすぐ「どうしましょう」と言われても「いらんわ」で終わってしまいそうな気がしますから、このおばあちゃんとお客がシンクロする瞬間、まさにその一瞬がチャンスなのでしょう。僕もこういうお客の気持ちというのは、ものすごくわかるし、同じシチュエーションで、おばあちゃんがちょっと困った顔をしながら小声で「どうしましょう」なんて言ってきたら、「(おばあちゃん困ってるみたいだし)買おうかな」と、つい財布の紐も緩んでしまいそうです。その品物が欲しいというよりは、目の前のおばあちゃんと喜ばせたい、というような(いや、そのおばあちゃんは、そもそも商売でやっているのだし、赤の他人のはずなのに!)感情に押し流されてしまうんですよね。
 そういうのって、僕の「甘さ」だと思っていたのだけれど、こうして解説されてみると、それだけじゃないんだな、ということがわかります。そうか、僕はおばあちゃんの立場になっているのか、と。
 僕は服とか買うのも苦手なんですけど、確かに、「断りにくい理由」というのは、そういうところにあるのかもしれない。それで、なんとかうまく断ろうと必要以上に構えて拒否的になったりして、あとから「感じ悪かったかな…」なんて、自己嫌悪に陥ってみたり。

 ところで、これって「告白の間合い」にも使えそうですよね。いざというときには、強引に「つきあってくれ!」とか、弱気に「やめますか?」とか言うより、小声で「どうしましょう」って言ってみたら、意外と相手はこちらに感情移入して「いいですよ」と答えてくれたりするかも…
 まあ、僕らはおばあちゃんのような百戦錬磨のツワモノではないし、通天閣のペナントほど、うまく売れるとも思えませんけどねえ。



2005年03月08日(火)
『ふたり酒』って、本当に楽しい?

読売新聞の記事より。

【妻や夫を亡くし、寂しい思いをしている独り暮らしのお年寄りを元気づけようと、長野県泰阜(やすおか)村は、村職員が村内のお年寄りの家を訪ねたり、村役場の食堂に招いたりして晩酌の相手になるボランティアを今夏からスタートさせる。
 8日、村議会で松島貞治村長が明らかにした。酒やつまみはお年寄りと職員が割り勘で用意し、残業手当などは出さない「ゼロ予算」事業の一環という。
 「お酒は楽しく『ふたり酒』」と命名され、対象のお年寄りは約100人。年に2回程度で、希望者1人につき職員1、2人で応対する。6月ごろから、男性職員は自宅を訪ね、女性職員は役場に招待する。全職員46人に参加を呼びかけ、松島村長も参加する。
 人口約2千人の村は高齢化が進み、財政も苦しい。村が職員から募ったゼロ予算事業のアイデアの中に職員が晩酌相手になる案があり、一昨年、女性職員が妻を亡くした高齢者の男性を役場の食堂に招いて喜ばれたこともあって、採用したという。
 松島村長は「顔と顔を合わせて会話をすることが、本当の福祉につながる」と意気込んでいる。
 泰阜村は、介護保険の利用者負担額の一部を村が利用者に代わって負担するなど「福祉の村」として知られるほか、村が取り組む政策メニューを示し、その政策に共感してくれる人から寄付を募って財源にするというユニークな施策も展開している。】

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 やっぱり「孤独」というのは一番辛いものだと言いますから、このアイディアそのものは、けっして悪くないのだと思います。間違いなく、喜んでくれるお年寄りもいるだろうし。でも、その一方で、僕はもし自分が「ひとり暮らしのお年寄り」だったら、このサービスに応募するだろうか?とか、もし自分がこの村の職員だったら、このボランティアに応募するだろうか?とか、つい考えてしまいます。僕は正直、知らない人と一緒に気まずい酒を飲むくらいであれば、「ひとり酒」のほうがマシだろうと思うし、知らないお年寄りとサシで延々と昔話とか聞かされるのは辛いよなあ、とも思うのです。ああ、なんだか「これも仕事のうち…」と一生懸命相槌を打っている自分の姿が目に浮かんで、参加してもいないのに憂鬱な感じです。
 たぶん、世の中には「酒さえ飲めれば幸せ」という人がいれば「酒なんて見たくもない」という人もいるのでしょうけど、その一方で、大多数の人は、「気のあった仲間と飲んだり、一人でも楽しく飲むなら楽しいし、逆に、肩の凝る接待の席などは勘弁してもらいたい」という人が多数派なのではないでしょうか。そういう人たちにとって、この「知らない人と一緒に飲む」というのは、そんなに魅力的に感じられるかどうか、ちょっと疑問にも感じます。その一方で、このイベントであまり面識もなくて、年も離れている相手(もっとも、村長さんなども加わるとのことですから、そのへんの世代的な融通は調節できそうではありますけど)と酒を酌み交わして楽しめるほどのコミュニケーション能力がある人というのは、そもそも、こんなイベントに頼らなくても、日頃からそれなりに楽しくやっているんじゃないかなあ、とも思えるのです。もちろん、そういうコミュニケーション能力なんていうのは、生来のものだけではなく、こういう機会を利用して磨くべきものなのかもしれませんけど。もちろんそれは、高齢者側だけでなく、職員側にとっても。

 でもね、確かに、「話し相手になってくれたから」なんていう理由で怪しいネズミ講に引っかかってしまうお年寄りが後を立たないように、「孤独」っていうのは、それを心の底から体験したことがない僕が想像するより、はるかに根が深いものであって、それこそ、「どんな相手でもいいから、話がしたい」という人は、けっして少なくないのかな、という気もするのです。
 こういうときに「お酒頼り」になってしまうのは、いかにも日本的だなあ、とも思うんですけどね。



2005年03月07日(月)
「どうしようもない事故」というのも存在するのか?

毎日新聞の記事より。

【高知県宿毛市の土佐くろしお鉄道宿毛駅に特急列車が衝突し、運転士(31)が死亡した事故で、運転席のアクセルがほぼ全開状態だったことが6日、分かった。ブレーキをかけるとアイドリング状態となって、動力が車輪に伝わらなくなる仕組みだが、ブレーキレバーも最も強い「非常」の位置でなく、弱くしか制動しない状態で残っていた。列車が自動列車停止装置(ATS)の作動でも停車できない程の速度で進入していることから、運転士に何らかの異変が生じて事故を回避できなかった可能性が出てきた。
 一方、運転士の遺体を詳しく調べたところ、腹部の負傷状況から、衝突時は運転席に座った状態だったとみられることも分かった。列車が直前に停車した平田駅では定時に出発していることから、その後で運転士に何らかの異変が生じ、運転席に座ったまま衝突した可能性があるという。
 調べなどによると、アクセルは切っている状態を含めて9段階に分かれ、ブレーキはゼロから「非常」まで10段階に分かれている。ハンドルを手前に向かって動かすとアクセルは加速し、反対にブレーキは奥の方に動かすと強く制動する。「非常」ブレーキをかけるとレバーが固定されるようになっている。県警などは、レバーの周辺部をほぼ原形のまま回収しており、事故の衝撃でレバーが動いた可能性も含めて慎重に捜査を進めている。
 また、宿毛駅の7駅手前の中村駅を列車が出発した後に、車掌が運転室に入ったが、運転士の異変を感じなかったと証言していることも判明した。】

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 実際に僕が体験したり、記録を調べたりした限りでも、「どうして起こったのかわからない交通事故」のうちの数%くらいには、「事故が起こる前に突然に運転者に起こったトラブル(不整脈や心筋梗塞、脳梗塞など)」が原因のことがあるようです。ただし、それは剖検などで調べてみても、「病気(あるいは病死)が先か、事故が先かというのは、今ひとつハッキリしないようなことも多いのですけど。
 例えば、急にセンターラインを踏み越えて対向車線に突っ込んできた車であるとか、見通しのいい道路のはずなのに、歩道にブレーキも踏まずに入ってくる車など、傍からみれば、「なんて酷い運転なんだ…」という事故の原因として、「事故が起こっている時点で、運転者がすでに突然死している」とか「急病で意識を失っている」というようなケースがあるのです。ここに書かれている情報だけではなんとも言えないのですが、この事故の場合も、全くブレーキを踏んだ形跡がないとのことですから、不整脈などによる突然死などの可能性も否定はできません。あるいは、睡眠時無呼吸症候群などの可能性もあるでしょう。
 こういう事例が起こるたびに、「乗務員の健康管理を」という話になるのですが、実際のところ、「ちょっと高血圧の薬を飲んでいるだけ」とか「日頃症状がない」というレベルの人に起こる、このような突然死に対して、どういう手の打ちようがあるのか?と問われると、「お手上げ」だとしか言いようがないように思われます。それはもう、「少しでも危険がある人」というのを全部除外できればいいのでしょうけど、そうしたら車に乗れる人の数は激減してしまうでしょうし、この事例のように「とくに何もなかった人」でも、突然死の可能性はあるのですから。
 もちろん、多くの乗客を運ぶような公共交通機関の場合には、運転者の乗務規定を厳しくするのは当然のことだとしても、リスクをゼロにするというのは、ほとんど不可能なのでしょう(本当は、運転者をふたりにすればいいのですが、それがコスト的に見合わない、という場合も多いだろうし、自家用車レベルではそうもいかないだろうし)。

 僕はこういう事例を目の当たりにするたびに、「世の中には、どうしようもない不幸」というのがあるのかな、と、つい考えてしまいます。突然死した人の車に巻き込まれて命を落とすなんて、それ以上の不運はなさそうな気もしますけど、だからといって、「突然死するな!」と言うのもまた理不尽なことではあるし。
 基本的に、車なんて危ないものなんですよね、きっと。
 あまりに便利で、あまりにそれで生活している人が多いから、誰も何も言わなくなってしまっているだけで。
 もちろん、自分が被害者になれば、「しょうがない」では済まないのもわかるのだけれど。



2005年03月05日(土)
「プリクラ」から隔離される男たち

河北新報の記事より。

【宮城県利府町のゲームセンター「アミュー仙台利府店」は2001年4月の開店当初から、プリクラコーナーの入り口に「女性専用」の札を下げている。男性の利用は、カップルや家族連れに限って認めている。
 田中大地店長によると、東京では隠し撮りなどの破廉恥行為が頻発し、男性の利用はカップルでも禁止しているところがあるという。

 仙台市青葉区のゲームセンター「クラブセガ仙台」では、女性客から撮影中に隣室の男に携帯電話のカメラで、隠し撮りされそうになったと苦情を受けたことがある。酔った男性が近づくこともあり、男性客には入り口近くのプリクラで撮影してもらうようにしている。
 青葉区のファッションビル「イービーンズ」でプリクラコーナーを運営する「キャンディープリントハウス」も女性限定が原則。

 ただ、男子高校生らのグループが撮影を希望するときもあり、「様子を見て、店員が立ち合って撮ってもらう」(高橋利志子店長)という。
 最近のプリクラは全身撮影が主流で、足元までカーテンで覆われる。店側が衣装を貸し、中で着替えて撮影するプリクラもあり、個室化が進んでいることも規制の背景にはあるとみられる。
 男性の利用規制について、仙台市宮城野区の高校3年の男子(18)は「店側が女性に気を使うことは理解できるが、盗撮防止が目的なら、そんなつもりはさらさらないので心外だ」と納得いかない様子だ。】

参考リンク:プリント倶楽部最新機種(アトラス)

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 そういえば、いちばん最近「プリクラ」撮ったのって、何年前だったかな…僕はこの記事を読んで、そんなことを考えていました。この年になると、ゲームセンターにも行かなくなるし、ましていわんやプリクラをや。
 言われてみると、この間通りかかったショッピングモール内のプリクラがたくさん置いてあるところに、「女性専用コーナー」とか書いてあった、ような気もします。正直、もうどうでもいいんですけど。
 実際、プリクラを現在利用している世代って、10代から20代(しかも序盤)くらいのもののようですし。
 そういえば、プリクラが出はじめの頃というのは、今みたいにデジカメや携帯カメラも普及していなくて、せいぜい使い捨てカメラくらいのものでした。友達同士で集まってお酒でも飲んだときに、何か記念に写真でも…というときには、あのプリクラというのはものすごく便利だったんですよね。使い捨てカメラの場合、撮るのはそんなに苦痛ではないんですが、そのあとちゃんと現像に出して焼き増しして配って…なんていうのはけっこう手間になるんだけど、プリクラっていうのは、その場でハサミで切って分けたりもできますから。でも、そうやって何気ない勢いで撮ったような写真に好きな人と一緒に写って、こっそり大事にとっておいたり、とかね。
 「写真を撮る役の人」がいなくても撮れるというのも、考えてみれば大きな魅力です。

 でも、今やプリクラというのもすっかり様変わりしてしまい(参考リンクをご覧ください)、何かのついでにプリクラ、というよりは、プリクラで普段撮れない写真が撮れるというのがウリになっているようなのです。まあ、普通の写真なら、デジカメでも携帯カメラでもいいわけですから、どうしても「差別化」が必要なのでしょう。そうやって「特別な写真」「プライベートな写真(コスプレみたいなやつとか)」を撮るのは、オープンな空間では難しいということで(実際に「盗撮」なども横行しているということらしいし)、「男性締め出し」という対策が取られているようです。
 メーカー側としても店側としても、そうやって顧客を限定することは、お客さんの分母を減らしてしまうことになるにもかかわらず。「カップルまでダメ」っていうのはいかにも厳しいのだけど、実際は、「そういう盗撮行為に協力してお金を貰う女性」というのもいるらしいですし、「カップルのフリをしている可能性もあるんじゃないか?」ということなのでしょう。

 この「プリクラ」の流通当初は、機械の前にカップルが列を作っており、モテナイ僕としては、なんとかあの機械から恐ろしい心霊写真とかが出てこないものかと呪っていたものなんですけど、今となっては、カップルすら締め出されるほどの女子高生専用マシーンとなっているんですよね。恐るべき、禁断の空間。まあ、ここでは「問題」にされていますが、普通の男は根本的に興味ないとは思いますけど。
 でも、こんなふうに密室化してしまうと、かえって「あの中で何をやっているんだろう?」と必要以上の興味を引いてしまうような気もしなくはないです。

 「プリクラ」かぁ…
 昔は羨ましくて近づきたくなかったけれど、今では怖くて近寄れねえ…



2005年03月04日(金)
角田光代さんが『対岸の彼女』を書いたきっかけ

『文藝春号2005』(河出書房新社)の「角田光代ロング・インタヴュー」より。

(賞を貰った児童書『キッドナップ・ツアー』が、他の人から「転換期」ととらえられがちだが、自分自身にとってはそうではなかった、という話のあとで。)

【編集部:逆に角田さんにとって自分の転換期かなと思える作品というと、たとえばどういうものですか。

角田:『エコノミカル・パレス』と『空中庭園』ですね、やっぱり。それまで私の書き方が、何かの賞の候補になって、落ちると、それが必ず自分の内的な問題に結びついてきて、「ここがいけなかった、私はこういう弱いところがあってそこを避けてしまう。じゃあそこを書かなきゃ」って掘り下げていくような作業だった。今振り返って変だなって思うのは、小説に力が足りない、小説自体が力を持っていないって気づいたときに、イコール私は弱い人間だ、って結びつくんです。そうすると、変な話なんだけど、人間的にも成長しなければ小説も成長しないみたいな……。

編集部:わかります。今はそう思わない?

角田:すごく個人的な問題ですけど、『空中庭園』のときに、「私がいかような人間であっても書くものは関係ない」って思ったんです。それまでは批判がそのまま人間性への批判になって聞こえていたのでたぶんすごく苦しかったんで、あるとき切り離そうと思って、いわゆるいい、美しい話を書いている小説家ですっごいヤなヤツとかいるじゃないですか。それで「人間性って関係ない」って思ったんですよ。

編集部:でも人のことを思うのは簡単なんですけど、それを自分に向けるのは大変じゃないですか。

角田:『空中庭園』のあとに『対岸の彼女』を書いたきっかけというのは、よしんば私が本当に心が汚くてどす黒いものしか見ない人間であったとしても、きっと何か美しい小説とか希望のあるものは書けるはずだ、っていうことがつながって『対岸の彼女』になって、あれはたぐい稀なるハッピーエンドというか、はじめてハッピーエンドを書いたんです。】

〜〜〜〜〜〜〜

 そして、その『対岸の彼女』で角田さんは直木賞を受賞されて、まさに「ハッピーエンド」となったわけなのです。
 まあ、角田さんは、「私がいかような人間であっても書くものは関係ないと思った」と話されていますが、実際のところ、「書く」という行為には、良かれ悪しかれ書き手の人間性は反映されてしまうという面があるのは否定できないところです。でも、この心境に至るまでの角田さんは、「いい作品を書きたい」というプレッシャーのあまり、「人間性に問題があるから、他人に褒められる小説が書けないんだ」というネガティヴな方向にばかり気持ちが向かってしまっていたのでしょうね。それは、人格の問題というよりは、ちょっとしたコツみたいなものでしかなかったのに。
 僕は基本的に、「まず精神論」みたいなタイプの人とは相容れないのですが、そういえば研修時代に相性が悪い上司がいて、その人は僕が何か知らなかったり手順に迷ったりするたびに、「人格否定発言」みたいなことを僕に言っていたなあ、なんてことを思い出しました。その人は、もちろん実力的には僕よりはるかに上でしたし、当時の僕は、「自分はなんてダメな人間なんだ…」と毎日酷く落ち込んでいたものでした。それこそ、もう仕事なんか辞めてしまおうかと思うくらいに。
 今から考えてみると、知らなかったら勉強すればいいし、手順がわからなければ、自分で調べるかわかる人に聞けばいいだけのことです。そんなの、技術的な問題であって、人間性なんて関係ありません(勤勉性とか、そういうのは多少はあるかもしれませんけど)。少なくとも経験不足で仕事ができないからといって、人格に問題があるなんてことはないはず。
 でも、その渦の中にいるときは、とにかく「自分はダメな人間だ…」というふうにばっかり、考えがいってしまっていたよなあ…

 そして、「作品(あるいは仕事)は、必ずしも人格そのものではない」ということも言えるでしょう。「リングの上で反則とか悪いことをするレスラー(ヒール)のほうが、善玉(ベビーフェース)よりも、プライベートでは優しい人が多い」なんていうプロレス界の話を以前聞いたことがありますし、「絵本作家はみんな性格が悪くて子ども嫌い」なんていう伝説も耳にしたことがあります(いずれも、証拠があるわけではありませんが…)。
 有名な純愛小説を書いた作家が結婚と離婚を繰り返したり、男女の温かいラブソングを作るシンガーがホモセクシャルだったりするのは、ひょっとしうたら、人間というやつは、自分が持っているものより、自分に欠けているもののほうがよく見えるからなのかもしれないな、なんて思うこともあるのです。
 前にも書きましたが、本当に自分の人生に満足している人は、「何かを書く」なんて行為をやらなくても、人生そのもので完結してしまうものではないか、という気もしますし。

 行き詰まりを感じたときに、今までの自分の視点から一歩引いて、自分にできなかったこと、やらなかったことに眼を向けてみるというのは、ものすごく有効な手段なのかもしれませんね。
 「心が汚くてどす黒いものしか見ない人間」にしか見えないような「美しさ」とか「希望」なんていうのも、たぶん、どこかにあるはずだから。



2005年03月03日(木)
『ちびくろサンボ』は君に語りかける

読売新聞の記事より。

【ロングセラー絵本として親しまれながら、人種差別的との批判を受け、絶版になったままだった岩波書店版「ちびくろ・さんぼ」が別の出版社から来月復刊されることが2日分かった。
 新たに版元となる「瑞雲舎」(東京都港区)には、書店からの注文が相次いでいる。
 「ちびくろ・さんぼ」はイギリスのヘレン・バンナーマンが19世紀末に執筆。ジャングルでトラに脅された黒人の子供が、機転を利かせて危機を切り抜ける物語で、日本でも数十種の翻訳が出たが、中でもフランク・ドビアス絵の岩波書店版(1953年発売、光吉夏弥訳)が決定版として100万部以上売れた。
 しかし88年、内容が「黒人差別を助長する」といった批判が市民団体などから起き、各社は相次いで絶版処分を決定した。
 その一方、詩人の谷川俊太郎さんが「作品の力を認めたうえで、差別を考える教材として残してもよいのではないか」と発言するなど、絶版は性急過ぎたとの意見もあり、検証本の出版やシンポジウムで議論が重ねられ、99年には著者の絵を用いたオリジナル版(径書房)も出た。
 瑞雲舎の井上富雄社長は、「他の絵本と比較しても文章表現に差別は見あたらないと思う。絵がきれいで親しまれた岩波版は、次世代に残す必要がある」と話している。岩波版で収録された二話のうち、さんぼを追いかけたトラがバターになる結末で有名な一話目だけ、ほぼそのままの形で収録した。】

参考リンク:
「ちびくろサンボに関するページ」(静岡精華高等学校Web Site)

『ちびくろサンボ』の廃刊と再刊に思う

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 僕も子どものころに読んだことありますよ、この「ちびくろさんぼ」。当時は、「さんぼを追いかけたトラがすごい勢いでグルグル回っているうちに、溶けてバターになってしまう」という衝撃のエンディングに、「どうして動物がぐるぐる回っているだけで溶けるんだ?そして、なんで溶けたらバターになるんだ?トムとジェリーじゃあるまいし、でも、僕もあんまり走りすぎていたら、バターに…?」という疑問とか違和感を持っていたのも事実です。今から考えたら、絵本と「トムとジェリー」の「不条理対決」を仕掛けること自体、無意味ではあるんですけど。

 でも、この「ちびくろさんぼ」が「人種差別的である」という観点から「発禁」になったという話を聞いたときには、「あの本の内容の、どこが『差別的』なんだ?」と思った一方で、「『ちび』『くろ』『さんぼ』と3拍子揃ったタイトルの本だし、しょうがないのかなあ…」という気もしたのです。実際は「さんぼ」は別に差別用語でもなんでもないはずなのですけど、少なくとも日本語のタイトルをつけた人に差別意識がなかったと言えば(「差別的表現を回避しようという意識」と言うべきかも)嘘になるかもしれません。
 と思っていたら、スポーツニッポンの記事を読んでみると、【「米国では『さんぼ』は黒人への蔑称(べっしょう)」などと市民団体などからの指摘を受け、岩波書店は同書を絶版に。90年代にかけ、同書を出版していた日本のすべての出版社も絶版にした。】というのが絶版までの詳細な経緯なようです。実は、「さんぼ」のところも(というより、この文脈だと「さんぼ」のところのほうが)問題になっていたみたいです。アメリカでは、むしろ「黒人の野蛮なイメージの植え付け」ということが問われていたようですが。
 新しい出版元の社長さんは、「何が差別的かをよく考える必要があると思う。インドでは『さんぼ』は一般的な子どもの名前。岩波版は次世代に残す価値があると思う」とコメントされているそうで、これもまあ、確かに真実なのでしょうが。ちなみに、なぜインドの話になるのかというと、作者のヘレン・バンナーマンさんは、イギリス人でしたが、当時はまだイギリスの植民地であるインドで長い間生活をしていたので、ということらしいです。
 しかしまあ、正直なところ、僕が子どものころに見たあの「サンボ」の絵は、まさに「土人チック」なものではあったんですよね。子ども的には、そのほうが面白味があったし、ハリー・ポッターみたいな男の子だったら、それはそれで「なんか違う…」という感じですけど。

 それでも、ハリウッド映画で描かれる「現代の日本人像」に苛立ちをおぼえる僕としては、「書いた人だって悪気があったわけじゃないし、別にいいんじゃない?」と思う一方で、ああいうふうにステロタイプの「土人」として描かれることには、やっぱり黒人たちには抵抗感もあるのではないか、という気もしなくはないんですよね。おそらく、日頃あまり差別される側に無い人間からみた「このくらいはいいだろう」というボーダーラインと、本当に差別されている側の人からみたボーダーラインとは、イメージ以上の格差があるでしょうから。
 そして、もともとそんな意図のないはずの「ちびくろサンボ」にも、こういう歴史が伴ってしまうと、なんとなく、「深読み」してしまいがちになるのも事実ですし。
 いや、正直なところ、この「絶版事件」がなければ、「ちびくろサンボ」なんて、「誰もが子どものころに幼稚園で一度は読んだ虎がバターになる話」でしかなかったかもしれないし、あるいは、この物語自体が自然淘汰されてしまっていた可能性すらあるのではないでしょうか。
 少なくとも、僕が子どものころまで「語りつがれてきた物語」の多くは、現代の子どもたちにとっては知らない話になりつつあるのですから。

 あの「マンガの神様」こと手塚治虫さんの著作は、「人種差別表現が多い」ということを理由に、手塚さんが亡くなられた後、一年以上出版を自粛されていた時代があるそうです。人一倍自分の作品を大切にされていた方だから、勝手に手を入れるわけにはいかないが、著者は故人だし…というジレンマの末に出た結論は、マンガには手を入れずに(一部「お蔵入り」になったものはあり)、本の末尾に「このマンガには人種差別的表現が一部に含まれていますが、書かれた当時の時代背景とオリジナリティを尊重し、そのまま掲載しています。これを機会に、差別についても考えてみてください」という注意書きを入れる、というものでした(ちなみに「」内は、僕が文意の概略を記憶で書いたもので、正確ではありません)。
 もちろん、手塚先生としては、こういう注意書きがつけられてしまうことは、あまり本意ではないだろうな、とは思います。なぜなら、手塚先生の作品の多くはテーマを抱えていますが、それはやはり、楽しんで読んでもらううちに自然に読者に感じてもらうべきものであり、誰かに「考えてみてください」なんて言われるようなものではないはずだから。
 それでも、現在ではその注意書きをつけないと本は出せないし、一度そういうものを目にしてしまうと、やはり、作品に色がついてしまうのも否定できません。
 まあ、こういう話は尽きなくて、どんどん「差別狩り」はエスカレートしていく一方で、映画「ロード・オブ・ザ・リング」ですら、【フロドたち旅の仲間は「アメリカ絶対正義の象徴」で、冥王サウロンは「イスラム世界の象徴」であり、これは、アメリカ帝国主義のプロパガンダ映画だ!】とか言う人だって世界の中にはいたらしいですから……

 話が長くなってしまいました。
 不思議なものですね、「絶版にさせられた」なんて話を聞くと「許せん!」と思うけど、「復刊される」と聞くと、「今の子どもにはどうかねえ?」と醒めた気持ちになってもみたり。

 本人の意思とは全く関係なく「差別について考える教材」になってしまったちびくろサンボ。
 それでも、ちびくろサンボは、君に語りかける。
 「所詮、どんな人間だって、ぐるぐる回って最後はみんなバターになってしまうだけなのにね」って。



2005年03月02日(水)
「お気に入り」じゃない場合の解説

『戀戀(れんれん)シネマ』(佐々木恭子著・集英社文庫)より。

(フジテレビアナウンサー・佐々木恭子さんが、尊敬する映画・文芸評論家の川本三郎さんに会ったときの会話の一部)

【文章から滲み出る人柄と実際の印象がホントに変わらない方だなぁと思うと嬉しくなって、私も段々図々しくなってきた。「すみません、率直なところ、あんまりお気に入りじゃない場合の解説ってどうしてらっしゃいます?」と聞いてみた。「わっはっは。僕は、自分の好きなものしか語りたくありませんねぇ」(ごもっとも!)とおっしゃった後で、「僕はね、映画って何より物語に感動したいんです。自分の人生とふと重なり合って泣ければ、あぁ、この映画に出会えて幸せだなぁって素直に思いますよ。だから、本当に好きな場合は目一杯物語について語りたいし、そうでなければ、好きなシーンとか好きな台詞とか、具体的なディテールについて書くし、それもなければ、役者さんにフォーカス当てて、過去の作品なども踏まえて書きますねぇ」と心得を教えてくださった。そして、こうも付け加えた。「淀川さんも、確かそんなこと言ってたなぁ。台詞とか役者のことしか話してないときは、それしか話すことがないときだって」。
 これには深く納得した。「面白くない」とか「よくわからない」と言い捨てることは簡単。誰が話しても変わらない客観情報だけを取り上げるのも簡単。でも、それではやっぱり愛がない。100けなすより、1いいところを見つけるほうがいい。「ここだけはよかった」。そう思うほうが、観る甲斐もあるというものだ。逆立ちしたって私は今のところ映画なんてとても作れないし、自分にできないことを形にすること自体、それはスゴイことだもの。】

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 確かに、映画とか音楽・本・ゲームなどの評論を仕事にしている人にだってそれぞれの好みもあるでしょうし、誰がみてもこの作品は…と絶句してしまうようなシロモノだってあるはずですから、内心「これをレビューするのは嫌だなあ…」というようなケースは、けっこうあるんでしょうね。好きなものだけについて書くというわけには、なかなかいかないはずで。
 そういう場合に、本音を書ければ苦労しないのかもしれないけれど、実際には業界内のつきあいもあるだろうし、広告の問題などもあって、「100%本音でメッタ斬り!」というふうには、できないことも多いようです。とはいえ、やっぱり、そのレビュアーの語り口から、その作品に対する「本心」というのは、読者にはなんとなく伝わってくるものだし、書いている側も、おそらく「差別化」をしているんだろうなあ、と思ってはいたのです。
 読者側からすれば、ここで語られている川本さんの「心得」は、川本さんが物語について語っているときは「面白いと感じていたのだな」ということがわかりますし、逆に、出演者の過去の作品にばかり言及しているときには、「ああ、つまんなかったんだなあ」ということを読み取れます。そんな予備知識がなくても、そういう「熱意」みたいなのは、行間から滲み出てくるものなのかもしれませんし、いくらなんでも文中で他の映画の話ばっかりしていれば、気づきそうなものではありますが。
 正直、酷い映画の感想を「出演している役者の過去の作品」まで持ち出してきて褒めるという行為が、一般の観客にとってプラスなのかマイナスなのかはよくわかりませんし、そこには「けなせない事情」という奴も存在しているんでしょうけど、それでも、やっぱり「批評には愛がなくては」というのは、正論だと思うのです。日常生活でも常にお世辞ばかり言っていたり、他人の悪口ばかり言っている人の言葉が信頼できないように、こういうものには、ある種のバランス感覚と「対象を愛する気持ち」が必要です。
 僕のような素人にとっては、「お前はプロ野球選手より野球がヘタなんだから、プレーについてゴチャゴチャ言うな!」とか言われるのも、それはそれで腹が立ちますけどね。そりゃあ、テレビの前でゴチャゴチャくらいは言うさ。黙って観ているのも、寂しいから。
 それにしても、最近は映画にしても本にしても音楽にしても、あるいは食べ物でさえも、実際に自分の眼に触れたり口に入れたりする前に「評価」が定まっていることが多いような気がして、それはそれでちょっと寂しく感じることもあるのです。「ハズレ」を掴みたくないのはやまやまなんだけど、「ハズレ」を掴んだことがない人間に、本当の「当たり」がわかっているのだろうか?とかね。まあ、そのためにわざわざハズレを掴みに行くには人生は短すぎるし、選択肢も増えすぎてしまっているのも事実なんですが。



2005年03月01日(火)
他のパパさん達みたく、仲良くやれないの?

「御暖漫玉日記」(桜玉吉著・エンターブレイン)より。

(架空の漫画家・桜タモ吉さんと妻の会話の一部)

【タモ吉:(娘に)今度の日曜日、川原に行こう

妻:あ、日曜ダメだ!タニさんとこで一寸早いけど子供らのクリスマスパーティー

タモ吉:えー、そうなのかウイーンガシ!

妻:アナタもたまには参加しない?

タモ吉:……んーーー

妻:ハナパパは、絵がうまいから、子供らから尊敬されてるしー

タモ吉:チビどもの相手だけならいくらでもするけど

妻:田中さんとこも、小野寺さんとこも、小林さんとこも、いつもパパさん来るよ

タモ吉:その小林のオヤジと酒飲みたくないんだよ。

妻:……またそんな事言う

タモ吉:あの土建屋のオヤジとはウマが合わないんだよ。前、芋煮会の時に「マンガとか小説とか、虚業で人騙してエラソーに食ってるヤツは大っ嫌いだ!」って、面と向かって言いやがった。

妻:子供の為なんだしさあ、他のパパさん達みたく、仲良くやれないの?

タモ吉:あのへん、みんな小学校からの地元つながり。今度飲んだら、多分ケンカになるよ

妻:……
  あなたほんっと、ガンコになったよねー!昔イラスト描いてた頃とか、もっと柔軟に、いろんな人と付き合えてたじゃん?

タモ吉:ゲシシッ 虚業で食えちゃってドーモすいやせーんとへりくだれと言ってる?

妻:バカだね。そうじゃなくって、今この人達とどんな目的で集まってるかを考えれば?って言ってるの!仕事の場でそんな奴がいたらケンカすりゃいいさ。でも、これ、子供らの為の集まりでしょう?酒グセがちょっと悪い土建屋のオヤジから何言われようが、フフーンて軽く受け流しとけばいいじゃない!

タモ吉:うん。あなたの言っている事が、多分正しい。
 でも…悪い。無理。】

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 この文章を玉吉さんの絵と一緒に読むと、その「行き場のなさ」みたいなものが、ものすごく切実に伝わってきます。「結婚というのは、当人同士の問題ではなくて、家と家との問題だ」なんていうのを聞いて「まったくもって、前時代的な発想だなあ」と以前は僕も一笑に付していたのですが、最近は、それもやはり「歴史的真実」という一面があるのだと思いますし。さらに、子供がいるとなると、ここに書かれているような、新たな「つきあい」の必要も生じてくるのですよね。「公園デビュー」なんて言葉がちょっと前に流行りましたが、小さな子供同士の関係を円滑にするためには、やはり、親同士のつきあいというのも不可欠なのでしょう。
 僕がこの2人のやりとりを読んで思ったのは、「こういうシチュエーションになったときに、自分を殺して「フフーンて軽く受け流しとく」ことができるだろうか?ということでした。確かに、奥さんが言っていることは正論で、「子供のためには、その場ではガマンする」べきなのでしょうが、実際に自分がその状況下で、自分の仕事をバカにされたり、他の親たちから疎外されても耐えられるだろうか?と考えると、僕にはそういう「大人の対応」をとれる自信がありません。やっぱり、腹が立つものは腹が立つし、いちいちケンカしには行かなくても、そういう場に参加するのは避けるだろうなあ、という気はします。その場で相手に「そんな失礼なこと言うな!」と掴みかかるというわけにもいかないのでしょうし。僕の場合、地元といえるような地元もないし…
 こういう話を聞くと、「事情がわかっている同業者同士で集まってしまう」という理由もわからなくはないのです。特権階級のように思っている人も多いのかもしれませんが、ある種の人々にとっては、確実に「自衛」のために。
 それにしても、妻の実家に子供の友達の親……
 本当は「家族水入らず」なんて、どこにもないのかもしれませんね。