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2003年07月31日(木)
メールが使えない人生と、メールしか使えない人生。

共同通信の記事より。

【米データ保存サービス会社のベリタスソフトウェアが、企業の最高技術責任者(CIO)や技術者に行った調査で、約3分の1の人が1週間も電子メールが止まると、交通事故や離婚よりも精神的ショックが大きいと答えたことが30日分かった。
 調査によると、68%の技術者が30分電子メールが止まるとイライラし、24時間も止まれば自分の首が危ういと思っているという人が約5分の1に。1週間止まると、34%の人が離婚や結婚、急な引っ越しと同じぐらいショックだと答えた。
 調査は同社が統計会社に委託。欧米にある社員500人以上の企業から、850人の技術担当幹部が回答した。】

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 この記事、最初に見つけたときは、「メール停止 離婚よりもショック」という見出しだったので、それはさすがに…と思いつつ読んだのですが。
 しかし、まあこれは統計上の罠という感じですね。実際に対象となった人たちは、中〜大企業の技術責任者ですから、おそらく社内のネットワーク管理においても、責任ある立場の人がほとんでしょう。ということは、プライベートなメールだけではなくて、大事な仕事上のメールのやりとりができなくなるとか、社内のネットワーク運営上のトラブルが発生する、ということを意味しています。
 それならば、「結婚・離婚」などの個人的(もしくは、近しい人たちに限定された)トラブルと比較されたら、仕事にかかわる「公的なこと」のほうがショックだ、と回答するのは理解できることなのではないかなあ、と。

 そもそも、このアンケートについても、「結婚」「離婚」と「急な引越し」では、もともとショックの度合いがかなり違うのではないでしょうか。いくら急でも、「離婚」と「引越し」じゃ、比べ物にならないって。

 苦笑いしながら、僕はこの記事を読んでいたのですが、、ふとこんなことを思いついたのです。
 「では、僕にとって、これから一生結婚できないのと、一生電子メールが使えないのとだったら、どっちを選ぶだろうか?」
 これは、なかなか難しい質問だと思います。
 もはやメールは、僕にとって生活の一部となっており、昨年海外に行っていて一週間メールチェックできなかったときは、「何か重要な用件が届いているんじゃないだろうか?」とやたらと気になったものです。どんなのが重要な用件か?と言われたら、実はなかなか思いつかないのですが。
 しかし、家に着いて即時メールチェックをしてみたら、メールボックスに入っていたのは、大量のメールマガジンと広告メール。そのほかのメールも、緊急性は全く無いものばかり。
 なんだかすごくガッカリしたのを覚えています。
 抽選券をためておいてまとめて引いた福引きで、ティッシュペーパー15連発、みたいな感じでした。
 職種にもよるのでしょうが、僕の場合、そんなに緊急でメールでやりとりするべき用事なんて、ほとんどないのですよね、実際は。

 それでも、やっぱり「結婚」と「メール」だったら、思わず「メール!」と言ってしまいそうな気もするのです。だって、メールのほうが長く楽しめそうだし。

 「じゃあ、メールが一生使えないのと、女性と一生知り合えないのとでは?」

 さすがにそう言われると、ちょっと苦しい、かな。



2003年07月30日(水)
日本の恥の頂上対決、大仁田vs森ゆうこ

日刊スポーツの記事より。

【国会議員レスラーの大仁田厚(45)が、自由党の森ゆうこ参院議員(47)にリング上での対決を要求した。大仁田は29日、都内で会見を開き、森氏に対して「神聖なる議場は、あなたのお立ち台ではない。きちんとリングを用意する」と宣戦布告した。さらに同じ自由党系会派に所属する岩手県議の覆面レスラー、ザ・グレート・サスケ(みちのく)とタッグ結成を要求し「自由党解散記念タッグ結成だな」と笑い飛ばした。
 大仁田は25日の参院外交防衛委員会で森氏とイラク復興支援特別措置法案の強行採決をめぐって乱闘を繰り広げている。興奮冷めやらぬ?  邪道レスラーは「スカート姿で突進してきた勇気は認めるが、場所が違うじゃろ。勇敢な女戦士だとリング上で示すべき。自由党の小沢党首の地元岩手のリングを用意してやろう」とまくし立て「サスケの返答を待つ」と一方的に宣言。参戦を予定する8月3日のみちのく宮城大会を回答期限とした。】

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 まあ、大仁田さんのやることだから、と世間は失笑しているのかもしれませんが…
 あの乱闘騒ぎは、はっきりいって茶番でした。海外にまで報道されて、日本の恥をさらしたらしいです。だいたい、野党も牛歩戦術で法案の採決が不可能になったことはありませんし、あの手の乱闘で死んだ議員や重症を負った議員はいませんから、確かに、ある種プロレス的な「暗黙の諒解」ってやつがあるのかもしれませんよね。
 本当に命をかけて法案の採決を止めようとするのなら、あんな方法を取らずに、投票箱の前で切腹でもしたらいいのに(いや、ほんとにやられたら困ったものだけど)。
 結局、牛歩やって引きのばしました、怪我しない程度の乱闘をやって体を張ってみせました、というアピールのため、という気がするのです。
 しかし、大仁田議員も何のために国会議員になったのでしょう?「体を張って議長を守る!」って、それはSP(映画「ボディーガード」でケビン・コスナーがやっていた役のような人)の仕事であって、国会議員の仕事ではありません。そんな仕事のために給料もらってるの?頼むから、本来の仕事をしてください。

 もし、僕と将棋の羽生さんに意見の相違があって、羽生さんが「じゃあ、将棋で決着つけましょう!」と挑戦してきたら、そんなの受けるわけないですよね。
 大仁田さんが言っているのは、そういうことなのです。
 もちろん、羽生さんはそんなことしないでしょうし、それがまた「プロレス的」なのかもしれませんが。
神聖な議場は「お立ち台」でもなければ、「リング」でもないのにね。
 ところで、リングって、プロレスラーにとっては、神聖な場所なんじゃなのかなあ?
 そこに上がるために、みんな厳しいトレーニングを積んできているわけだから。
 そんな、何のトレーニングもしておらず、格闘家でもない女性国会議員を上げて、恥ずかしくないのかな?(実際は、上がるわけないけど)
 どうしてもやりたかったら、逮捕覚悟で、その辺の道端でどうぞ。

 自分の職場も議会も貶める大仁田さんは、プロレスラーとしても、国会議員としても失格だと思います。
 
 どうせなら、森議員もサスケと言わずに、ボブ・サップあたりを連れてきて、大仁田さんをボコボコにしたらいいのになあ、と僕は思うんですが。
サップは自由党とは関係ないからダメ?
そもそも、リングと国会そのものが関係ないから、それでもいいんじゃない?

 それにしても、高給取りのSPですね、大仁田さんは。



2003年07月29日(火)
難しすぎるゲームに「王様」はもう飽き飽きだ!

読売新聞の2003年2月の記事より。

【なぜ売れなくなったのだろう。ゲーム愛好者が指摘するのは「ゲーム内容が難しくなり過ぎた」ことだ。
 任天堂の岩田聡社長はゲームソフトの現状を「満腹の王様にごちそうを勧めているようなものだ」と表現する。ゲームは精密になり、画面は本物そっくりだ。20年前とは比べものにならない。だが、王様(消費者)はゲームに飽き、食指を動かしてくれなくなった。
 「満腹の王様」に食べてもらうには、より複雑で、凝った内容でアピールするしかない。とはいえ、難しいソフトは攻略本を買わないと先に進めない。そんな状況では、気軽にちょっと楽しみたいという人はついていけない。】

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 最近、ゲームが売れなくなってきているそうです。
 海外を含む2001年のソフト出荷額は5173億円で、その前年の2000年より10%の減。ミリオンセラーも3種類のゲームにとどまっていたのだとか。
 まあ、ミリオンセラーについては、この年は「ドラゴンクエスト」「ファイナルファンタジー」の両巨頭の続編が発売されなかった、という要因もあるのでしょうけど。
 同じように最近売り上げが減少している音楽CDについては、パソコンの普及によるコピー問題や趣味の多様化などが原因として挙げられていますが、少なくとも今の家庭用ゲームのソフトは、誰でも簡単にコピーできるというシロモノではありません。
 もっとも、中古市場が発達しているわけですが、これも最近になって急速に売り上げを伸ばしてきている、というわけではないようですし。
 では、どうしてこんなにゲームは売れなくなってきているのでしょうか?
 任天堂の社長の「王様にごちそうを勧めるようなものだ」という発言は、まさに現状をよくあらわしている気がします。
 ファミコンが発売されてから、もう20年。その前にテレビゲームに触れていた人々にとっては、もう少し長い間、人々はゲームという娯楽に接してきました。
 初期のテレビゲームなんて、■と○が画面を動き回るだけ、という感じだったのですが、それでも僕を含めた当時の子供たちは、「画面の上のキャラクターを自分で動かせる」ということに感動していたのです。だって、それまでテレビの画面に映っているものは「観るもの」であって「動かすもの」ではなかったのだから。
 そして、当時のゲームは、ただタイミングの正確さと反射神経を競うものがほとんどだったのです。
 そういう、「動かせることが楽しい時代」から、ゲームは少しずつ進化していきます。画面上にキレイな絵を描く「グラフィック機能」とか、音楽を奏でる「サウンド機能」などが重視されるようになってきて、「より実写やアニメに近い絵」や「より本物の楽器やCDに近い音」が追い求められるようになったのです。

 たぶん、若いゲーマーたちは信じてくれないでしょうが、昔は、画面上で女の子が「まばたきをする」、というだけで、そのゲームのデモ画面の前に人だかりができた時代もあったのです。昔って言っても、20年くらい前のこと。
 そして、ゲームの内容自体も、ゆっくりと時間をかけて、頭脳と努力でクリアするタイプのものが増えてきました。まだ、発売されるゲームの種類も少なかったし、みんなゲームのために使えるお金もなかったから、とにかく、「長く遊べるゲーム」は価値があったのです。
 そして、ゲームは劇的な進化をとげてきました。
 写真のようなグラフィック、楽器のようなサウンド、という時代を経て、今ではスムースな動画とCDとほとんど同じ音がごく当然に使われています。人間に近い思考ルーチン、素早い反応…
 今のゲームを20年前の僕が見たら、腰を抜かすんじゃないかなあ。
 それでも、ゲームは売れなくなっています。
 
 正直、僕も最近、新しいゲームになかなか手が伸びなくなっているのです。
 買ったゲームも、分厚いマニュアルを手にとって「う〜ん、慣れるのに時間がかかりそうだから、時間があるときに…」と思っているうちに、そのゲームの続篇が発売されていたり。
 美しいグラフィックの画面では、綺麗なキャラクターが縦横無尽に動き回っています。プレイヤーが指一本コントローラーに触れていなくても。「勝手にやってろよ、それなら映画観たほうがいいんじゃないかなあ?」とプレイヤーが思うくらいに。
 たぶん、遊んでみたら面白いゲームというのは、たくさんあると思うのです。
 しかしながら、その「遊んでみる」の段階に、なかなかたどり着けなくなっている30代前半の男である僕。
 それにしても、難しすぎるよなあ、最近のゲームは。ゲーム自体の難易度もそうだけど、操作法とか特殊ルールとか。 
 「ごちそうに飽きている王様」の1人として言わせてもらえれば、たぶん、王様はもう満腹で、胃がもたれまくっているのです。もうこれ以上、濃厚な料理は食べたくない、と思うくらいに。
 でも、僕たちにとっては、ゲームは「食事」みたいなもの。やっぱり、無いと寂しい。
 夜遅く家に帰ったときなどに、ちょっと気分転換にできるようなゲームへのニーズというのは、むしろ高まっているような気がするのです。

 そろそろ、ちょっとサッパリしたものが食べたい、と感じている「王様」は、きっと僕だけではないはず。でも、単にシンプルなだけでは、現代の「王様」は、なかなか納得してくれないでしょうしね。
「至高のお茶漬け」は、どこかにないのでしょうか?。
 それでお腹の調子がよくなれば、また、ごちそうが食べたくなるときもあるでしょうしね。



2003年07月28日(月)
長谷川京子がモデルから女優に転身した契機。

日刊スポーツの記事「日曜日のヒロイン」、7/27の女優・長谷川京子さんのインタビュー記事より。

【第一線で活躍する女優には、モデル出身が少なくない。しかしモデル時代は、女優に興味はなかった。そんな長谷川が女優を意識するようになったきっかけは、街で耳にした女性ファンのひと言だった。

 長谷川 「『あ〜、モデルさんだ』と声を掛けられるようになったんです。声を掛けられるとうれしい半面、長谷川京子っていう個人がどこかに行っちゃったようで寂しくもあって。与えられた服を着るだけではなく、もっと本当の自分を前面に、表に出して仕事がしたい。そんな気持ちが強くなって。モデルとしての自分の限界を感じていました。着たくない服を着るのは、意外につらいんですよ。ファッションモデルの私ではなく、長谷川京子本人をもっと表に出したかった」。】

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 どんなに華やかに見える職業にも、当事者にしかわからない苦労や苦悩というのがあるものなのですよね。
 モデルさんといえば、「いろんな流行の服が着られていいよねえ」なんていうリアクションが定番だと思うのですが、よく考えてみれば、モデルだって人の子、自分で着られる服を選べるわけではないのでしょう。ごくごく一部のスーパーモデルなんてのは、けっこう選択権があったりするのかもしれないけれど。
 それが仕事である以上仕方がないのでしょうが、中には、「こんな服着たくないなあ、好きじゃないなあ、と思うようなものもあるはずで。

 そういえば、以前「プレタポルテ」というパリ・コレをモチーフにした映画で、ほとんど裸にしか見えない「新作ファッション」で舞台に登場していたモデルさんたちがいたのですが、ああいうのって本人たちは仕事とはいえ辛いんじゃないかなあ、とも感じました。みんな自分の体の美しさには自信を持っているから、ひょっとしたら、「キライな服を着せられるよりよっぽどいい」と思ってたりするのかもしれませんが。

 しかし、イヤだなあ、と思いつつも、その服が美しく見えるようにしないといけないのがモデルさんの辛いところ。まあ、それはどんな仕事でもそうで、学校の先生だって性格的に苦手な生徒はいるだろうし、医者だって、この人の診察はやりにくいなあ、と感じる患者さんはいます。少なくとも僕には。
 それを相手に気づかれないようにするのがプロ、なんだけどねえ。

 実際、役者だって、やりたい役が自分で選べる人なんて、ごくごくわずかなものでしょう。まあ、そういう制約の中で、いかに自分を出していくか、というのもなかなか面白い挑戦でしょうが。

 「自分を出せる仕事」なんて、誰にでもできることじゃないのは確かなこと。医者だって、「医者と患者」という「形式」があるから、なんとかやっていける部分もあるわけで。100%そういった関係性を抜いて診療をやるのは、とても辛くて疲れることだと思います。

 ところで、この記事で、長谷川さんはものすごく負けず嫌いだというエピソードが出てくるのですが、その中に、ライターの「ソフトな外見の印象とは異なり」という言葉が出てくるのですが、長谷川さんの外見って、ソフトなんでしょうか?
 僕ははじめてこの人を観たとき、「なんだか気が強くてキツそうな感じ」という印象を受けました。少なくとも「ソフト」だとは思えないんだけどなあ。
 あと、優香さんにも全然「癒し」を感じない(むしろ「計算高さ」みたいなものを感じる)のですが、僕の感性は、やっぱり狂っているのかな…
 例に挙げた二人には、とても申し訳ないのだけれど。



2003年07月27日(日)
2人で4人掛けのテーブルに座るときには…

「気まずい二人」(三谷幸喜著・角川文庫)より。

(元フジテレビ・アナウンサーの八木亜希子さんとの対談の一節)

【三谷「……考えてみると、こうやって向かい合って、女性の方とお話することって、あんまりないんで疲れます」

 八木「なんか、『相対す』みたいな感じありますよね。今度からカウンターで話すっていうのはどうですか」

 三谷「隣り同士はいいかもしれませんね。いちばん僕が颯爽と会話ができるのは、電車の座席なんです」

 八木「颯爽と会話ができるんですか。颯爽と……。テレビの会話って、だいたい横に座ってるじゃないですか。相槌打つ時も、斜めにうなずいたりしますよね。だから私、ラジオに出たとき、異常に緊張するんです」

 三谷「向かい合って……」

 八木「ラジオって、そんな感じ、私だけかもしれないんですけど、お見合いみたいじゃないですか。真ん中にマイク置いて、本当にこう向かい合ってお互いに喋るわけだから。だから話してて、なんかこう、押され気味になるところってありますね。すごく緊張しちゃう。……ああ、でも、今日はそういう感じを私が与えているのかもしれないですね」】

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 雑誌の連載の対談企画で、ホスト役の脚本家三谷幸喜さんの第一回の対談相手が八木さんでした。奇しくも、「女性と話すのが苦手」というホスト(三谷さん)と人の話しを聞くのが仕事のゲスト(八木さん)という組み合わせになったわけです。

 この「座る位置」っていうのは、けっこう大事なポイントなんですよね。
 前にテレビで男女のカップルが、4人掛けのテーブルに座るとき、どういうふうに座るかで二人の関係・好感度がわかる、という心理テストをやっていました。
 ちなみに、普通はテーブルを挟んで向かい合わせに座るパターンで、これはまあ、普通のカップルというか、ベッタリではない程度、もしくは発展途上の仲のいい二人。お互いに目の前の席を空けて、互い違いに座るというのが、険悪な二人。そして、反対側の2つの席を空けて、一方に隣り合わせに座るのが、いわゆる「熱愛中」の二人、ということでした。

 確かに、僕の記憶の中でも、普通女性と二人で食事をするときは、4人掛けのテーブルだと向かい合わせに座りますよね。
 逆に、女の子がお酒を注いでくれる店では、向かい合わせに座ることはほとんどなくて、だいたい隣りあわせに座ってきます。
 僕はけっこう、そういうのって居心地が悪いんですけど。
 でも、その状況で、「もっと離れて!」とも言い難いしねえ。

 そういえば、異性に何か相談するとき、もしくはされるときって、向かい合わせに座っているときより、隣り合わせに座っている場合が多いような気もするのです。
 実際、そんな経験がそんなにたくさんあるわけではないのですが。
 まあ、そういう場合は二人っきりのことが多いし、隣り合わせだと大きな声を出さなくてもいいし、アルコールが入っているから、というのはあるんですけど。
 確かに、正面でお互いの顔を見ているより、ちょっと複雑な話をしやすいんだろうなあ。

 実際は、そういう状況で、女の子に「相談があるんだけど…」と切り出されて「来た!」とドキドキしていると「実は、後輩の誰々君のこと、好きなんだけど…」とかいう話だったり、ということばかりなんですけどね。

 



2003年07月26日(土)
光GENJI、あなどれず。

「村上ラヂオ」(村上春樹・著、大橋歩・画、新潮文庫)より抜粋。

【僕は1960年代に10代を送ったので、ビートルズをデビューから解散まで同時代的に体験したことになる。でもそのときはそれがたいそうなことだとは思わなかった。

(中略)

 高校生のときにはジャズとクラシックにのめりこんでいたので、ビートルズはどちらかといえば敬して遠ざけていた。世間的に人気があったので、「ふん」と思っていた。なにしろ生意気盛りなので、そういうろくでもない態度をとっていたわけだ。でもいくら敬遠しても、ラジオからはビートルズのヒット曲ががんがん流れてくるし、結局のところあれこれ言いつつも、ビートルズの歌が僕にとっての‘60年代のバックグラウンド音楽みたいになってしまった。たいしたバンドであり、たいした曲だったんだなと今では素直に感心する。なぜ若いときにもっと素直になれなかったんだろう?ぶつぶつ。】

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 ビートルズと比べれば、遥かにスケールは小さいかもしれませんが、この文章を読んで、僕はあるアイドルグループのことを思い出してしまいました。
 その名は、光GENJI。
 僕が中学生だったころから、全寮制男子校という青春のブラックホールにとらわれていた時代、彼らはまさに人気絶頂でした。
 中学の同級生の女の子たちは、下敷きの中に「諸星くん」の雑誌の切抜きをいれて、休み時間も彼らの話ばっかりしていたのです。
 それに対する、われわれ男子のスタンスとしては、「とにかく光GENJIを罵倒する」というのが主流。
 「あんなオカマみたいな奴ら!」とか「歌がヘタ」「口パク」なんてのが、使用頻度が高かった記憶があります。
 高校に入ってからは、女子の光GENJIファンと闘うことはなくなりましたが、全寮制の男子校なんて環境に閉じ込められた僕たちにとっては、女の子にモテまくる彼らは、まさに「共通の敵」だったのです。
 奴らの悪口なら、夜を徹して語り合えるくらい。

 そして、時が経ち、僕たちは高校時代の同窓会で再会しました。
 みんなが大学を卒業してすぐ、くらいだったかなあ。
 男子校の同窓会ですから、参加者は男オンリー。
 カラオケボックスで、いささか壊れかけながら、ブルーハーツとかを歌っていたのですが、そのとき、同級生がある曲を入れました。
 それは、「パラダイス銀河」
 そう、あの光GENJIの代表曲です。
 そして、僕たちはみんなで肩を組み、「パラダイス銀河」を熱唱しました。
 カラオケボックス内は、それまでで最高の盛り上がり。
 悔しいことに、あれだけ大キライだった光GENJIの歌が、カラオケの画面を見ないでも歌えるのです。あれからもう、何年も経ってしまっているというのに。

 キライキライも好きのうち、とかいうけれど、なんのかんの言いながら、僕たちも光GENJIの曲を聴いていた、ということなんでしょうね。
 そして、やっぱりそれは、「時代のBGM」だったんだろうなあ。

 まあ、村上さんのビートルズに対する回顧の「なぜ若いときにもっと素直になれなかったんだろう?」という心境にまでは至りませんけど。



2003年07月25日(金)
「遺体写真公表は、間違いなく正しい決断だ」

共同通信の記事より。

【ラムズフェルド米国防長官は24日の記者会見で、フセイン・イラク元大統領の長男ウダイ、二男クサイ両氏の遺体写真公表について「イラク国民は彼らの死亡が確認されることを待ち望んでいた。間違いなく正しい決断だ」と述べ、公表に踏み切った判断の正当性を強調した。
 捕虜の取り扱いを定めたジュネーブ条約にも、違反しないと指摘した。
 24日付のニューヨーク・タイムズ紙は陸軍幹部が生々しい写真の公表をためらっていたと報じた。遺体写真公表は道義上などの観点からも、論議を呼びそうだ。
 イラク復興を指揮する連合軍暫定当局のブレマー文民行政官は同じ会見で、写真公表によってイラク国民が、旧フセイン体制の支配政党バース党の終えんを信じられるようになると主張した。】

以下は、時事通信の記事より。

【イラク駐留米軍は24日、同国北部のモスルで22日に殺害したフセイン元大統領の長男ウダイ氏と二男クサイ氏の2人の遺体の写真を公表した。
 米軍発表に懐疑的なイラク国民に、両氏の死亡を納得させるために公表に踏み切った。
 公表された写真は両氏の遺体の顔を写したものがそれぞれ2枚と、ウダイ氏が1996年に暗殺未遂に遭ったときに受けた傷を示すレントゲン写真が1枚。2人とも濃いひげを伸ばし、顔面には傷跡が残っていた。
 写真は公表後、アラブの衛星テレビ局を含む各テレビを通じて放送され、多くのバグダッド市民が見入った。
 ホテルのテレビで顔写真を見たナエル・ハンナさん(37)は「これまでは疑っていたが、写真を見せられた以上、百パーセント信じる」と語った。】

参考リンク:「Some Kind of Stranger…」7/24

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 僕は仕事柄、人間の遺体を見るのには慣れています(イキナリこんな書き出しで申し訳ない)。
 件のウダイ氏・クサイ氏の写真についても、見たときには、こんなものか…と思ったのだけなのですが、時間が経つにつれ、気持ち悪いというか、見なきゃよかった、という後悔しの念が湧いてきました。
 だいたい、僕自身は彼らに恨みはありませんし、彼らが本人かどうか、なんてわかりはしないのです。テレビなどで写真は見たことがあるのですが、あんまりハッキリとは覚えていません。フセイン大統領本人なら、という気もしますが、それもちょっと似た人だったら、区別がつかないでしょうね。実際、アメリカ人の多くもそんな感じなんじゃないでしょうか。
 それは、「単なる人間の死体」の写真であるわけで。
 それでも、この写真は、けっこう大々的に世間に流布されているのです。

 要するに、僕は、単なる興味本位で自分が死体写真を見てしまった自分と、そんな写真を公開する人々に対して、すごく居心地の悪さを感じてしまうのです。
 この写真を見たときに感じることは、「そこまでやってしまうアメリカ」という存在への恐怖感、とも言いかえられます。別に歯形の照合やDNA鑑定の結果とかだけでもいいんじゃないか?とも思えるのに、あえて国家的に死体写真を公開してしまうアメリカ。
 捕虜に関する国際法である「ジュネーヴ条約には違反していない」のかもしれませんが、「条約に違反していなければ、何やってもいいの?」という気もします。
 まあ「悲しいけどコレ、戦争なのよね」ということなんでしょうか。

 「市民を安心させる」というよりは、某国の大臣じゃないですが、「さらし首」のような見せしめの要素が強いんじゃないかなあ、と勘繰ってしまうのです。
 「俺たちに逆らった者たちは、こうなるのだ!」

 でも、その一方、イラク市民たちの中には、写真を見て、ようやく信じられた、という声があるのも事実のようです。実際は、アメリカの技術力(ハリウッドの特殊メイクやSFXなど)を駆使すれば、こんな死体写真など、つくるのは容易なことなんじゃないかなあ、とも思うのですが。
 やっぱり、「百聞は一見にしかず」というのは、根強いようで。

 そういえば、1989年にルーマニアの独裁者チャウシェスク大統領が処刑された際には、彼の処刑直後の映像と歓喜する市民が報道されていたこともありました。あれも、僕には気持ち悪かった。

 しかし、市民による革命と今回のアメリカの正義による「制裁」とでは、イラク国民の受ける印象は全く違うものでしょう。
 何かと評判の悪かったらしいウダイ氏・クサイ氏ですが、「俺たちが悪者をやっつけてやったから喜べ」と勝者の視点で言われても、あんまり良い気持ちはしないのではないのかなあ。
 確かに、いなくなってくれて嬉しいという気持ちもあるだろうけど。

 ここまでくると、アメリカは「なんでもあり」みたいな印象すらありますが。

 それにしても、「死体写真」についてのイラク国民の反応は、僕たちのその写真に対する反応とは大きく異なるようです。「死体写真なんて気持ち悪い、人権侵害だ」と思うわれわれに対して、「そんなの見慣れてるよ、本人かどうかが大事」と考える彼ら。
 彼らのそんな反応は、「誰かの死体写真が公開されること」よりも、もっと悲しいことなのかもしれません。



2003年07月24日(木)
「成人女性の2人に1人は体調不良」らしい。

時事通信の記事より。

【女性が体の衰えを感じ始める年齢は32歳、2人に1人は体調が悪い−。明治製菓ヘルス・バイオ研究所が首都圏の20歳以上の女性約3600人に行ったアンケート調査で、身も心も疲れている現代女性の実態が浮き彫りになった。
 心や体に衰えを感じるかという質問に対し「よく感じる」が20.8%、「時々感じる」が69.2%で、計90%が「衰え自覚者」。20代で早くも82.7%が衰えを自覚していた。
 「衰え」を自覚し始めた年齢を聞いたところ、20代では27.0歳、30代は31.1歳、40代は37.0歳で、平均すると32.3歳。
 日々の体調については「よくない」(4.7%)と「あまりよくない」(41.6%)を合わせ、全体の約半数が体調悪化を訴えた。「まあよい」が34.7%、「とてもよい」は3.7%にとどまった。】

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 そうか、32歳なのか…ちょうど僕と同じくらいですね。
 まあ、僕は男ですが。

 自分の同級性くらいの女性は、「最近体が動かなくなってさ〜」とか言いながら、けっこうバリバリにやっている人が多いので、傍目でみると、そんな感じはしないんですけどね。
 このアンケートの20代、30代、40代の結果をみると、急速に衰える、というよりは、人間というのは、ある年齢を境に、ずっと「最近衰えてきた…」と思い続けるものなのかもしれませんね。対象年齢が高くなるほど、自覚年齢の平均も上がっていってますから。

 ところで、この「現代女性の約半数が体調が悪い」という話なのですが、これを読んで、僕は先日放送された、某「発掘大事典」の「日本人の約80%が『軽うつ』である」という話を思い出してしまいました。
 要するに、8割が軽い鬱だというのなら、むしろ、その「軽い鬱状態」の人が現代の「正常」で、残り2割が「躁」なのではないか(いや、ひょっとしたら重鬱(医学的にはこんな言葉はありませんが)かもしれないけど)なのではないか、と僕は感じたのです。

 たとえば「現代人の8割に虫歯がある」というような、正常像が具体的にイメージできるようなものならともかく、「精神的に正常とはどういう状態か?」なんて、なかなか規定するのは難しいはず。「異常がなければ正常なんだよ!」とでも答えるしかないですよね、逆説的ですが。

 そういえば、僕の周りにも、「最近体調が良い!」なんて人は、ほとんどいないんですよね。「疲れやすい」とか「肩がこる」とか「やたらと眠い」とか、いう話ばかりで。僕自身も、最近胃カメラ飲んだり、胃薬飲んだり、健診で引っかかったりもしているし。
 実際、20歳過ぎれば、「全く病気がない」とか「体は絶好調!」なんて思う機会って、ほとんどないんじゃないでしょうか?
 むしろ、「調子が悪い」と「そんなに調子が悪いとは思わない」の間を行ったり来たりする程度で。
 「元気ハツラツ!」という感じの人のほうが、むしろ珍しい。
 
 いや、本当に体調悪ければ、ちゃんと病院で調べたほうがいいですよ、ひとりで悩むより。僕も胃の調子がものすごく悪くて「巨大な胃潰瘍でもつくってるのでは?」と思ってカメラ飲んだら、単なる胃炎でした。
 ほんとに胃潰瘍だったら、ものすごくキツイんだろうなあ。胃炎であんなに辛いんだから。

 まあ、どの程度を「体調が悪い」と判断するかも人それぞれですし、時代によっても違うと思います。 
 現代人にとっては、多少体調が悪いと自分で思うくらいが、「普通の体調」なのかもしれませんね。 
 



2003年07月23日(水)
嫌いな男の理由、好きな男の理由。

「作家の花道」(室井佑月著・集英社文庫)より。

【主人公の彼氏のキャラクターが弱い、とまた叱られてしまった。主人公を殴ったり犯したりする脇役の男に関しては、リアルで気持ち悪いといつも誉められる。これは仕方のないことだと思う。嫌いな男には、なぜ嫌いなのかはっきりとした理由がある。だけど好きになる男には、理由なんて必要ないからだ。なんとなくという場合が多い。あたしはそうだ。】

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 僕の場合はどうだろうか?と考えてみたのですが、確かに、僕も室井さんと似た傾向があるような気がします。
 嫌いな人については、「贔屓ばかりして、公正じゃない」とか、「自分のことばかり考えて、他人の話を聞こうとしない」とか「とげとげしい喋り方が嫌い」とか、いろいろと言葉で説明できるんですよね。まあ、それをわざわざ、他人の前で口にするかどうかは別として。
 でも、自分が好きな人、もしくは好みのタイプの人って、確かに言葉で説明しにくいような気がします。
 「なんとなく雰囲気が…」とか「気をつかわなくていいし」とか、なんだか、すごく曖昧な表現になってしまうのです。
 これって、食べ物と言葉の関係にも似ていて、不味いものに対しては、人間けっこう饒舌になりがちで、「〜の腐ったような」とか「口に入れただけで吐きそうな」とか説明もできますし、話のタネにもなるんですよね。
 でも、美味しいものをうまく言葉にする、というのは難しくて、誰かと、ものすごく美味しいものを食べていても「これ、美味しいね!」「うん、美味しい」などと、途端に語彙が貧困になって、黙々と食べることに集中してしまっったりするのです。

 「キライキライもスキのうち」なんて言葉がありますが、確かに、「大嫌い!」なんて言いながら、その対象のことをけっこう細かく観察している人って多いですよね。
 「そう、あのしぐさがキライなのよ!」って、なら見るなよ…とツッコミたくなったことがある人は、けっこういるはずです。
 でも、キライな人って、やっぱりついつい目がいってしまって、自分がやっぱりその人をキライであるということを再確認しがちなんですよね。
 「恋は盲目」とは言うけれど、好きな人に対しては何も見えなくなって、嫌いな人に対しては観察眼が鋭くなるなんて、逆だったらいいのにねえ、と思ってしまうのですが。

 「あいつのこと嫌い嫌いって言ってるけど、よく観察してるよなあ、まさか…」なんて、誤解の種にもなりがちなものですし。

 



2003年07月22日(火)
「正しいすべり台の使い方」を教えられても…

共同通信の記事より。

【箱ブランコや雲梯(うんてい)など公園の遊具による事故が相次いだのを受けて、メーカーなどの業界団体「日本公園施設業協会」は21日までに、遊具の対象年齢や遊ぶときの注意点が一目で分かる子供向けの表示シールを作成した。
 遊具の支柱などに張り付け、子供に注意を促して事故を減らす狙い。加盟メーカーや公園を管理する全国の自治体に協力を求める。
 シールは直径24センチの円形に対象年齢を大きく示したもののほか、すべり台では「したからのぼらない」「たったまますべらない」など、遊具ごとに注意を書いたものを作成。出入り口付近に掲示する大型版では、事故が起きたときの連絡先や最寄りの公衆電話までの地図も表示する。】

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 そういえば、昨年の9月に、雲梯(うんてい)での子供の死亡事故(小学生の首が引っかかって亡くなられた事故)がけっこう話題になっていましたよね。
 「それは、管理側の責任ではないか?雲梯は、危険な遊具ではないのか?」という世論に対して、「とくダネ!」で小倉さんが「それは違うだろう」と反論したのが、けっこう話題になりました。
 また、箱型のブランコでも、事故が多いのだとか。

 今回のこの表示シールは、そういったさまざまな事故を受けての発想だと思います。
 緊急時の連絡先や遊び方、対象年齢なんてのが書いてあるそうなので、これはこれで意味はあるのでしょう。緊急時の連絡先とかは、確かに必要でしょうし、危ない、というのをアピールする効果は少しはあるはずです。

 でも、自分が子供のころのことを思い出してみると、さて、この表示を子供たちは守るのかなあ、とは感じてしまいます。
 子供というのは、自分の力を過信してしまう生き物ですし、背伸びしたがるもの。
 仮に自分が6歳だったとして、その遊具が7歳以上対応だった場合、「それじゃやめよう」と思うか、それとも「そのくらいできるよ」と思うか、どちらか考えてみるとねえ…
 賭けてもいいくらいですが、全国の男の子だった経験がある人で、「すべり台を下から上にのぼったことがない」とか、「立ったまま滑ったことがない」なんて人は皆無なのではないでしょうか?
 いや、だからといって、危ないのは確かだから、それを公然と推奨するというわけにはいかないでしょうけど。
 すべり台なんて、静々と上にのぼってすべって、の繰り返しでは、子供でも(いや、子供だからなおさら、かな)面白くないと思うのです。
 ブランコだって、座っておとなしくブラブラしていて楽しいのは、付き合いはじめのカップルくらいのものなんじゃないかなあ。
 みんな、立ちこぎとか靴飛ばしとか、やってたよね。
 ブランコを漕ぎすぎて、一回転したヤツの伝説とか、なかったですか?

 子供にとって、公園などでの「新しい遊びの発見」っていうのは、けっこう創造性の開発に役立つような気がするのです。例えば、砂場でつくる砂山に「見本」とかあったら、不粋というものだと思うのですが。
 たぶん、このシールがあっても、子供たちは遊具を使った新しい遊びを開発し続けるでしょう。

 しかし、「言われた通りの遊び方しかできない子供」を大量に作り出すリスクと事故のリスク、どちらを優先するか、というのは、非情に難しい問題ですね。
 水難事故が起こる可能性があっても、海で泳ぐな、と言われないのは、リスク以上に得るものがある、という判断なのでしょうし。
 自分の子供は絶対に犠牲にならない、というのなら、「こんな子供を枠にはめるような発想はよくない」と断言できるのだろうけど。



2003年07月21日(月)
なぜ人は時間を楽しく過ごさねばならないのだろう?

「牢屋でやせるダイエット」(中島らも著・青春出版社)より抜粋。

【だが、ではなぜ人は時間を楽しく過ごさねばならないのだろう。
 楽しい時間はあっという間に過ぎる。退屈な時間はじりじりとしか進まない。時間を早く進ませるために、人は楽しさを求めるのではないか。これがおれのたどり着いた答えだ。
 つまるところ、生きるということは、死ぬまでの時間をどうやり過ごすかということだ。時間との戦いと呼んでもいい。この戦いに勝たんがための武器として大麻があり、酒があり。全ての嗜好品があるのだろう。これらをうまく機能させれば、それだけ時間が早く進んでくれるのだ。】

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 中島らもさんの復帰第一作。彼が拘置所で考えたさまざまなことが書かれている本です。
 あんまり「反省している」という感じではなかったですけどね。まあ、それはそれで、らもさんらしいかな、と。

 人間というのは、ものすごく矛盾した存在ですね。みんな「長生きしたい」と思いながら、「楽しい時間を過ごしたい」と思っているんだから。
 本当に、長生きしたいと思うならば、「何もしない」もしくは「やりたくないことをやり続ける」というのが、もっとも「人生を長く感じられる方法」なのではないでしょうか。
 楽しい時間こそ長く続いて欲しいのに、そういうときに限って時間は早く過ぎてしまう。
 人間には「生への執着」と「死への衝動」の両方があるといわれますが、酒や嗜好品やギャンブルに溺れる、というのは、「退屈な人生を早く終わらせてしまうための手段」なのかのしれません。
ならば死ねばいい、と言われても、死ぬのはけっこう勇気がいることだし、いろいろしがらみもありますからね。

 僕たちにとって、人生ってやつは、退屈で嫌なことばかりが多いものなのかもしれません。酒を飲んだからって、問題は解決するわけじゃない。でも、飲まずにはいられない。
まあ、たいがいの「問題」は、時間が経てばなんとなく解決してしまうものですから、一概に間違った方法、とは言えないような気もしますが。

 結局、僕たちは時間を早く進めるために、酒やタバコやギャンブルや恋愛、ときには勉強や仕事に溺れているのかもしれません。
 そして、酒やギャンブルや恋愛に付随して発生する問題で、さらに退屈をしのいでいる、ということなのです。
 これらの悩みの種の多くは、「自分から関わろうとしなければ、自分には何の影響もなかったもの」なのにね。

 まあ、少なくとも今の日本では、「大麻」という道具を時間を早くすすめるのに使うのは、オススメできませんけど。



2003年07月20日(日)
ダライ・ラマ14世の「愛情って何?」という問いへの回答。

「ノーベル賞受賞者にきく 子どもの なぜ? なに?」(べッティーナ・シュティーケル著・畔上司訳、主婦の友社)より

(「愛情って何?」という質問に対してのダライ・ラマ14世の回答の一部)

【情熱的な恋愛は、氷の上に建てた家のようなもので、氷が溶けてしまえばくずれてしまうのです。そうなるとおたがいにひどく退屈になってしまいます。最悪の場合には大嫌いになってしまいます。愛しあうのも早いのですが、気持ちがさめるのも早いのです。ですから、これは本当の愛情ではありません。
 カップルの両方からこうきかれたことがあります。「わたしが相手を愛すれば、向こうもわたしのことを愛してくれるでしょうか?」。わたしはこう答えました。「いいえ、ダメです。それでは物と物を交換するみたいになってしまいますからね」
 わたしの考えでは、愛情というのはこういうものとは全然ちがいます。真の愛情は、嫉妬(ねたみ)や先入観(前もって思いこんでいること)などとは無関係なのです。キリスト教のイエスが「隣人愛」(隣近所の人への愛情)と呼んだものに似ているのです。】

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 「愛情とは何か?」というのは、非常に難しい問題ですね。
 キリスト教では、アガペーとエロスというふうに、一般的に「愛」と呼ばれているものをさらに分類したりもしているようですが。
 このあとダライ・ラマ14世の回答は、愛情の基本は、「誰かを好きになること」ではなくて「他人の身になって考えること」や「共感すること」である、というふうに続いていきます。
 
 ところで、カップルの両方から、「わたしが相手を愛すれば…」という質問をされたとき、「それは物と物との交換と同じだ」という答えは、なかなか凄いですよね。
 普通、僕たちが恋愛相談で「どうしたら彼女は僕のことが好きになってくれるかなあ?」なんて聞かれれば、「まず、彼女の気持ちよりも自分が愛することが大事なんだよ、まずは与えることだ!そうすれば彼女もきっと振り向いてくれるって!」なんて答えたりしますよね。
 でも、そういう場合に僕が「そういう発想じゃ、物々交換と一緒だろ?」なんて相談してきた相手に答えたら、たぶんものすごく嫌われるんじゃないかなあ。
 「じゃあ、いったいどうすればいいんだ!」って。
 実際、「物々交換みたいな恋愛」なんてのは、僕たちの周りにゴロゴロしているわけで。
 いや、「物々交換ですらない愛情」のほうが、多いのかもしれません。

今の日本では、宗教というのは、危険で、無意味なものだという考えの人が多いのではないかと思います。僕も、積極的に何かを信じてみようとは思えません。
 でも、こういう話を聞くと、人間が真の愛情を得るには、「神」というものの力を借りなければムリなんじゃないかなあ、という気もしてくるのです。

 僕たちは、「誰からも祝福される恋愛」を手に入れたいと願うのだけれど、僕たちの愛情が成立することが僕のこと、もしくは相手のことを好きな誰かを不幸にしてしまうことだってあるわけですし。そこに全く「悪意」が存在しないとしても。
 だからといって、「好き」なんて気持ちはどうしようもないしねえ。

 それでも、こういう考え方がある、ということは、何かの参考にはなるとは思うのです。
 「勝ち取ることが正義」になりがちの世の中だから。



2003年07月19日(土)
愛で殺した、「辛口」コラムニストの記憶。



「ザ・ベリー・ベスト・オブ『ナンシー関の小耳にはさもう』100」(ナンシー関著・朝日文庫)

(アントニオ猪木の元第一秘書・佐藤久美子氏の告発状の一節
 「(猪木議員は)永田町にプロレスを持ちこみ…」を引用してのアントニオ猪木論)

【猪木が国会議員になったことはおもしろかったが、でもちょっと嫌だった。これがプロレスラー猪木の幕の引き方かと思ったからだ。当時、レスラー猪木に対して思うところはいろいろあったが、やっぱり私も猪木に「紙一重」を認めている、プロレスファンだったから。古館は「藤波!愛で猪木を殺せ!」と実況したことがある。告発のニュースを見てから、なぜかこのロマンチックなフレーズばかり思い出す。猪木にはロマンチックに逝ってほしかった。ちょっとおセンチになってしまいました。】

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 ナンシーさんが亡くなられてから、もう1年以上になるわけですね(ちなみに、亡くなられたのは昨年の6月)。
 彼女の消しゴム版画コラムは、まさに一世を風靡していたのですが、僕自身は、彼女が亡くなられてから、彼女の作品に接することは激減していました。
 もちろん、連載がなくなったというのはあるのでしょうけれど、本屋に並んだ一連の追悼本なども、手にとることはほとんどありませんでした。
 というのも、彼女の作品は「文学作品」というような類ではなく、その時代の芸能人やテレビ番組、世相に対するものがほとんどで、「リアルタイムじゃないと面白くないんじゃないか」という意識が働いていたんだと思います。
 あまりに「時代」を描きすぎているために、古い時代のものを読むことに意味は見出せないのではないか、と。
描かれているのは、所詮、そんな大仰な問題ではないし、というような気持ちもあって。
作家が亡くなった直後って、「もう、この人の書いたものを読めないんだ」なんて思うと、読んでいて作品に対してもセンチメンタルな気分になってしまいますしね。

でも、今回本屋で、この「ベリー・ベスト・オブ…」を買って読んでみて、全然古さを感じないことに気がつきました。むしろ、その芸能人が出ていた番組やその事件のことを鮮明に思い出すことができるのに驚くばかり。
ナンシーさんという人は、文章で画面を情報として伝える、ということが非常に巧い人だったんだなあ、と思わされます。
彼女の書いた文章を(しかも、当時の「リアルタイムでその番組を観ていた人たち」を対象にしていたはずなのに)読んでいると、その番組の存在自体を忘れていた現在でも、実際の画面を思い浮かべられるのです。

 そして、今回ナンシーさんの作品を読み直して感じたことは、生前「毒舌」「辛口」と評された彼女の文章には、実は、対象への深い観察と愛情がこめられていたんじゃないかなあ、と。
 実際の作品中には、「悪口のための悪口」は、ほとんど含まれていませんし。
 今読み直すと、すべて「愛情の裏返し」みたいな気がして仕方がないのです。

 ナンシーさんもまた、「愛で殺して」いたのかもしれませんね。





2003年07月18日(金)
もしあのとき、僕がピアスの穴を開けていたならば…


毎日新聞の記事より。

【ピアスをした2人に1人が、治療が必要な感染症を起こしていると、EUの執行機関である欧州委員会は17日、若者の間で流行しているボディーピアスや入れ墨の危険性についての調査結果を発表した。同調査結果によると、02年末以降、EU諸国でピアスが原因で2人が死亡。今後、EUは新たな安全基準を作る予定。】

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 よく、「男性は女性よりも痛みに弱い」なんてことを言いますが。
 あれは、僕がまだ大学生の頃でした、当時、仲が良かった後輩の女の子と夏休みに会ったら、彼女は、ちょっと嬉しそうに、耳につけたピアスを見せてくれました。
 「先輩、見てください。開けたんですよ、ピアス」
 へえ、なんて思いながら真新しいピアスが輝く彼女の耳たぶを見て、僕は問い返したのです。
 「ふうん、いつのまに開けたの?」って。
 「昨日の夜、友達に開けてもらったんです。あんまり痛くなかったですよ。消毒して、ちょっとチクッとするだけ」
という答えに、心底びっくりしました。自分の耳に、麻酔もかけずに針を刺して穴を開けるなんて、信じられない!
 当時(今から10年近く前)は、簡易ピアス開け器、みたいなものがあって、女の子たちは、けっこう自力もしくは友達同士で、耳に穴を開けあっていたらしいのです。
 
 残念なことに、その女の子のピアスの穴は、すぐ塞がってしまいました。
 そのとき僕に、彼女はこんなことを言ったのです。
 「先輩、私のピアスの穴、開けてくださいよ」
 もちろん、僕はそんなこと怖くてできずに、医者に行くように勧めましたが(当時は、僕はまだ医学生でしたし)。
 今から考えると、あのとき彼女の耳に思い切って僕がピアスの穴を開けていたら、人生の何かが変わっていたのかも。
 もちろん、開けた穴の傷が化膿して恨まれただけ、だったかもしれないけれど。



2003年07月17日(木)
「駿ちゃん、ごめんな」って言われても…


共同通信の記事より。

【「今まで僕らは、何を教えてきたつもりだったのだろう。駿ちゃん、ごめんな」。長崎市の種元駿ちゃん(4つ)が殺害された同市万才町の立体駐車場脇に16日、「中学教諭」を名乗る匿名の人物からこんなメッセージが置かれていた。「中学の教師として本当に申し訳ない」。ワープロ打ちの文章の行間に、責任感と無力感があふれていた。
 「大人がこんだけまわりにいて、助けてあげられなくて本当にごめんね。前の長崎はみんなの顔が、お互いに見えとった」と教諭は悲しむ。
 「駿くんのことを、生徒と一緒に語り合いました。命を命と思わない心、自分自身の中にもあるかもしれない邪悪な心と対決していく誓いを交わしました」とし「教師である限り、それを続けます」と天国の駿ちゃんに誓っている。
 現場の駐車場脇の歩道には、事件発生直後の2日夕から花束やジュース類が供えられはじめ、2週間で長さ約20メートルに及んだ。】

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 僕は最初、この記事の見出しを読んで、加害者の中学校の先生かと思ったのですが、違うみたいですね。
 ああ、立派な先生だなあ、と思う一方、正直、ちょっと違和感を感じるところもあるんですが。
 それは、「この先生が、そんなに責任を感じるべきことなのか?」ということ。
 例えば、僕の仕事である医療でいえば、地元の病院で医療ミスが起こって、患者さんが亡くなられたとしましょうか。そのときに、僕は「同じ医者として本当に申し訳ない、亡くなられた患者さん、ごめんなさい」なんて思わないでしょう。
 ヒドイことをやる医者がいるもんだ、とか、自分も気をつけなければ、と感じるのではないかなあ。
 
 24時間テレビで、飢えに苦しむアフリカの人々を観たときに、僕たちの多くは「かわいそうだなあ」と思うし、「なんとかしなければ」とも感じるはずです。
 そして、いくばくかのお金を募金するのですが、だいたいは、そこで終わってしまいます。
 「アフリカの飢餓は、自分の責任だ」なんて思って、全財産を寄付するような人は(ほとんど)いないわけで。

 僕は、子供の頃は、食卓の魚を見れば「魚がカワイソウ」だと思うし、肉を見れば、「牛さんがカワイソウ」と悲しくなるような子供でした(本当だってば)。
 ずっとそのままの人生を送ってきたら、きっと何も(というのはオオゲサですが)食べられなかった。
 もちろん、「ゴメン」という気持ちが完全に消えてしまったわけではないけれど、今ではそれをマヒさせて生きていけるようになりました。
 言葉は悪いけど、最低限は「非情」になれないと、この世界というのは、とてもとても生きていくには難しい場所なのです。
 何でも「自分の責任」と考え始めても仕方がない。
 たまに、全然その人に関係ないことを「ごめんね、私が悪かった」とひたすら謝る人っていますけど、「それは、単なる自意識過剰なんじゃない?」としか思えないし。

 駿くんの事件は、もちろん、この先生のせいじゃありません。
 たぶん、加害者の中学生の担任の先生にすら、あまり責任はないと思います。偶然、この事件を起こしたときに担任になっていただけ、なのではないでしょうか。
 この事件をきっかけに、命の大切さを考え、教えるのは大事でしょうし、そういう一人一人の先生の努力の積み重ねが、将来的には悲劇を防いでいくのだと思います。
 でも、「ごめん」っていうのは、ちょっと違うような…
 まあ、こういう「美談」を意図的に作り上げようという報道姿勢にも問題があるんでしょうけど。

 だいたい、「命の大切さを教えられる先生」よりも、「教え子1000人に1人くらいヘンな奴が出てくるかもしれないけれど、生徒の偏差値を上げられる先生」のほうが、世間や親の評価は遥かに高い、というのが、現実なわけですから。
 情操教育に力を入れるヒマがあったら、勉強させてくれ、っていうのが本音の親って、けっこう多いと思いますよ。

 実際は、「お互いの顔が見える長崎」なんて、若者たちは、ほとんど誰も望んでいなかったりもするわけですし。



2003年07月16日(水)
僕が「フェロモン」を感じるとき。


「村上ラヂオ」(村上春樹・文、大橋歩・画:新潮文庫)より。

【ワインを選び、料理を注文し、それが運ばれてくるのを待ちながら、二人の会話を聞くともなく聞いていると(というか、勝手に聞こえてきたんだけど)、「この二人は、深い仲になる直前なんだな」ということがわかった。内容的にはごく普通の世間話をしているだけなのに、声のトーンでおおまかな筋は推測できる。僕もいちおう小説家のはしくれなので、そのへんの男女の心の機微はある程度読める。男性は「そろそろ誘おうかな」と思っているし、女性の方も「応えてもいいかな」と思っている。うまくいけば食事のあと、どこかのベッドに向かうことになるかもしれない。テーブルの真ん中にフェロモンの白い靄(もや)が漂っているのが見える。僕のテーブルの方は、結婚して30年にもなるので、さすがにフェロモンはあまり漂っていない。でも幸福そうな若いカップルというのは、はたで見ていても悪くないものだ。】

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 さすが村上さん、「悪くない」なんて余裕です。
 僕の場合は、自分の好みのタイプの女の子が、僕の隣の席で感じ悪い男に口説かれていたりすると、心の中で「騙されちゃダメだ!」というテレパシーを送ってみたりするのですが、あんまり成功したためしがありません。
 隣で大喧嘩がはじまったりしたら、それはそれで困ったものですが。

 それはさておき、フェロモンって、ある程度人類共通のものなんでしょうか?
 けっこう、人によって「フェロモンを感じる相手」というのは違うと思うのですが。
 僕は以前、後輩の女の子たちと飲みに行った席で、「職場で誰がフェロモンが出ているか?」と聞いてみたことがあるのですが、それはけっこう意外な答えだったような気がします。
 「男からみたイイ男」というのは、意外とフェロモン度数が少なかったりするんですよね。逆に、「えっ、あいつのどこにフェロモンが!?」という人の名前が挙がったり。
 もちろん、同性からみても、異性からみてもフェロモン出しまくりの人間、というのは厳然として存在するみたいですけど。

 しかし、僕自身は、あんまり世間一般の「フェロモン系」には惹かれないんですよね。
 なんだか「この人は手に負えないな」という感じが先に立ってしまいます。
 今の日本で「フェロモン系」といえば、叶姉妹とか藤原紀香とかになるのかな、たぶん。
 実際は、僕の周りには「叶姉妹に一度お願いしたい」というヤツはいても、「叶姉妹のファン」なんて人は、ひとりもいないんだけどなあ。

 過去の経験からも、いわゆる「フェロモン系」の人と仲良くなったことすら、一度もないような気がします。疲れそうだし。

 だいたい、男がカッコつけてレストランで女の子を口説くシーン、っていうのは、傍からみれば、これほど滑稽な光景もそんなにないと思いませんか?

まあ、よく考えてみると、僕にとってのフェロモンというのは、ちょっと「笑い」の要素を含んでいるのかもしれませんね。
 あんまり完璧な状況っていうのは、かえって笑えたりするものですし、笑いのポイントが近い人、というのは、好むもの、嫌うものが近いような気がしますし。

 自分が好感を持っている相手からは好感を持たれることが多い(逆もまた然り)というのは、お互いに似ているフェロモンを持っているから、なのでしょうか?



2003年07月15日(火)
ゲームがいちばん楽しかった頃の記憶。


「将棋の子」(大崎善生著・講談社)より。

【将棋盤はノートにボールペンで書いて作った。そこに鉛筆で駒を書きこみ、消しゴムで消して駒を動かすのである。いくべき場所に移動させたい駒を書きこみ、移動させた駒をごしごしと消しゴムで消す。何局か指すと将棋盤はぼろぼろになってしまう。そうするとノートの新しいページに定規とボールペンで線を引き、またたく間に新品の将棋盤ができあがってしまうというわけである。
 休み時間になると皆で夢中になって、今考えればとても将棋とは思えないような、しかしまぎれもなく将棋の対局をした。駒の動かし方とルールを知っているだけで、定跡なんか一つも知らなかった。それでも勝てば嬉しかったし、負ければ悔しかった。】

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 ああ、僕もそうだったなあ、とこの文章を読んで、懐かしくなりました。
 著者は、僕よりもちょうど10歳くらい年上の方なのですが、そういう風景は、一緒だったんだなあ、と。僕も将棋、けっこう好きだったんですよね。

 僕たちは、紙に書いた将棋盤のほかに、紙で作った将棋やオセロの駒、もうちょっと学年が上がってからは、紙麻雀などもやっていたものです。
 
 「定跡なんて知らなかったけど、勝てば嬉しかったし、負ければ悔しかった」というのは、まさにその通りでした。今から考えると、「負けて当然」のような拙い技量であっても、その難しいゲームをやっていること自体が楽しかったし、相手に勝てれば、すごく嬉しかったものです。
 親になかなか勝てなくて、勝つまでしつこく何度も挑戦してたなあ、などと思い出したり。
 
 そういえば、僕がパソコンに初めて触ったときは、こうやってキーを叩くと画面にその文字が表示されたり、カーソルキーを押すとキャラクターが動くというだけで感動していました。
 こんなことができるなんて、スゴイ!って。

 テレビゲームに初めて触れた子供たちも、きっとそんな新鮮な喜びを感じていたはず。

 世界は日々進歩して、僕も年を重ね、ディスプレイに文字が表示されることどころか、こうやって自分の書いたものがネットを通じて世界中に発信されることにすら、ごく当たり前のような気持ちになっています。

 はじめて将棋をやったときや、はじめてコンピューターに触れたときのような「進歩を実感する驚きと喜び」が自分に無くなってきているのは、ちょっと寂しいような気がするんですよね。



2003年07月14日(月)
ズームイン、嘘!


共同通信の記事より。

【福岡市の福岡放送が、5月29日朝に放送された「ズームイン!!SUPER」の中で、スタッフの知人をホームレスの男性の親族と偽り出演させたとして、14日朝の同番組で謝罪した。
 同社によると、問題となったのは「ズームアイ」という特集コーナーで放送された同社制作の「赤ひげ先生奮闘記」。無償でホームレスの健康相談をしている福岡市の医師を紹介したもの。
 あるホームレスの男性が両親へのおわびの手紙を親族に託すシーンで、実際には親族に手紙の受け取りを断られていたため、スタッフの知人が親族に扮して撮影したという。
 職場内で指摘を受け、10日にディレクターがやらせを認めたため発覚。14日朝の同番組内で「一部に事実と異なった放送があった」と謝罪したという。】

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 この事件については、「まあ、そのくらいのことはやってるんだろうね。これってたぶん、『氷山の一角』だよなあ」と僕は思ったのですが。
実際、このくらいのことでは誰も驚かなくなってしまっているのではないでかなあ?
 この番組を僕は観ていないのですが、少なくとも出ている人が本当にそのホームレスの両親かなんて、面識のない僕にはまったく判断がつかないでしょうし。

 もう終わってしまった「ガチンコ」をはじめとして、「あいのり」など、ドキュメンタリー風バラエティの盛況で、メディアにおける「虚構」と「現実」は、限りなく境界不明瞭になってきている印象があります。
 実際、この番組中でのホームレスの人のような、メディアを利用しての「一方的な謝罪」や「一方的な善意」に対して、嫌悪感を示す家族たちは多いでしょうし(たぶん僕もそうです)、それに対して感動の場面を映像化するために身代わりを使うなんてことは、今回が初めてだとは思えません。
 ひょっとしたら、このくらいは「テレビの常識」だったではないでしょうか?

 そういえば、僕が大学時代に、部活の勧誘のために合格発表が行われている掲示板の前で待っていたら、某ローカルテレビ局の人たちが来て、「すみません、喜んでいる合格者が撮りたいんですけど、なにかやっていただけませんか?」と言ってきたのです。
 そこで、僕らは、(もちろんその年の合格者じゃない)大学の同級生を「バンザーイ!」と大歓声とともに胴上げし、それをカメラはとらえました。
 その映像は、その日の夕方に「歓喜の合格者たち」というテロップとともに、地域のお茶の間に流れたのです。

 まあ、そのくらいならたいしたことはない、と言えなくはないですし、僕だって「川口浩探検隊」や「ガチンコ」や「あいのり」に「やらせじゃないか!」とクレームの電話をかけようとは思いません。
 あれは、別に実害があるもんじゃないし(「あいのり」に影響されて、世界放浪の旅に出ちゃった若者とかはいそうですが)、バラエティである限りは、つまらないノンフィクションよりは、面白いフィクションのほうが、僕は好きです。
 
 でもね、こうやって、「嘘があってはいけない」はずのニュース番組に、ミスではなく、確信犯的な「ヤラセ」が横行している、ということは、製作者側が、「バラエティ」と「報道」の境界がわかっていない、ということなんですよね。
 その区別がしっかりできていれば、「ガチンコ」がヤラセだなんて、怒る人はもっと少なくなるんじゃないでしょうか?
 ヤラセをやってはいけないところでヤラセをやるから、逆にヤラセが演出として当然の状況でも、みんなそれが演出であることすらわからない。
 いくら視聴率を取るためとはいえ、ニュースであるかぎりは無視してはいけない掟があるはずです。
 この件自体はたいしたことじゃなくても、「他のニュースでも、同じような『ヤラセ』をやっているかも」というイメージを持たれるのは、致命的なことですよね。
 もう、誰も既にニュースで言っていることが100%の真実だなんて、考えていないとしても。

 お涙頂戴のニセ家族よりも、そのホームレスの人が一生懸命に書いた手紙を家族が「受け取りを拒否した」という冷徹な事実のほうが、はるかに僕の心には訴えかけることが多いんだけどなあ。

 しかし、いちばん迷惑をかけられたのは、「赤ひげ先生」だよね、きっと。



2003年07月13日(日)
「美味しそうに食べる才能」が生んだ悲喜劇。


「週刊現代」2003年7月12日号の記事より。

【Q:『くいしん坊! 万才』(フジテレビ系)で、出された料理がマズかった時はどうするのか。
 A:村野さんも言っている通り、マズいケースは多々ある。しかし番組の構成上、「面白い食材の使い方ですね」などと誉めながら食べるしかない。出演者にはキツイ仕事だ。
 「かつて、ある出演者が食べている最中に思わず戻しそうになってしまい、非常に気まずい雰囲気のなか、撮り直しが行われたことがあります」(民放AD)】

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 「美味しいものばっかり食べられていいねえ」と言われがちな料理番組の出演者も、現実はけっこう大変、ということで。
 誰だって、嫌いなものはあるでしょうし、ああいう料理番組で取り上げられる「地元の名物料理」なんてのは、よそ者や若者の口には合わないものだって、少なくはないでしょうから。
 どんなものでも、いかにも美味しそうに食べないといけない、っていうのは、けっこうプレッシャーなんだろうなあ。
 「美味しい」ばっかりじゃ面白くない、なんてよく言われますが、「面白い」とか「不思議な味わい」なんてのは、実際は「これはキビシイ…」という状況で出てくる言葉なのかもしれませんね。
 よく、本当に美味しいものを食べていると、言葉が出ない、なんて言いますし。

 ところで、「美味しそうに食べないといけない」ということで辛い思いをしたことってないですか?
 僕がまだ子供だったころ、親の実家に泊まりに行ったときのことでした。
 そこで、おばあちゃんたちは、遠くから泊まりにきた孫たちのために、とっておきのいろいろな料理を出してくれたのですが、そこはまだ子供の舌ということで、正直、「これはマズイ…」というようなものもあったのです。
 とくに当時、僕は魚の煮付けが苦手で、その土地の名物だという魚の大きな切り身が出てきたときには、もう悶絶しそうでした。
 でも、周囲に気を遣う子供だった僕としては、あからさまに箸をつけないわけにはいきません。そこで、給食で学んだ、「嫌いなものは先に食べてしまって、好物を残して楽しみをとっておく作戦」を実行することにしたのです。
 もう、あまりの辛さに涙を流さんばかりになりつつ、なんとかその巨大な煮付けをクリアー!やった、これでやっと解放される、と思った次の瞬間です。
「あら、もう食べちゃったの?よっぽど気に入ってくれたんだねえ。まだあるから、たくさんお食べ」
「………」
 おばあちゃんの笑顔と、新しい煮付け。
 嫌いな食べ物、リローデッド…
 食べましたよ、結局全部。
 今度は新しいのが出てこないように、慎重に残しながらですが。

 その日の食事のことは、こうして今でも思い出せるほど辛かったのです。
 ほんと、食べ物の恨み(?)は忘れないものですね。
大人になって好き嫌いがなくなったというよりは、嫌いなものを食べなくて済むようになっただけのような気もします。

 美味しそうに食べられるのも才能のひとつ、なんて言うけどなあ…



2003年07月12日(土)
「罪をつぐなう」という言葉について。


共同通信の記事より。

【沖縄県北谷町で中学2年の座喜味勉君(13)を殺害し、遺体を埋めたとして補導された、同じ中学の2年男子(13)の母親が、座喜味君にあてて償いを誓う一文をつづったノート2冊を、事件現場近くに置いていたことが、11日分かった。
 ノートはいずれもB5判で表題はなく、うち1冊の冒頭に「つとむへ」と書かれた文章が、2ページにわたり手書きでびっしりと書き込まれていた。
 文面は「一番、友達だったA(息子の名前)が何で、って いつもつとむはおばさんの子供だよっていっていたのに。Aがこんなことしたこと、おばさんもゆるせない 一生かかっても 勉のつぐないするから おばさんが死ぬまで。Aも一緒に 一生死ぬまで。勉がゆるすまで」と謝罪の言葉で始まっている。】

〜〜〜〜〜〜〜

 「ごめんよ、きっとこの償いはするから」
 僕たちが、この言葉を口にするのは、どんなときだろう?
 ずっと約束していた彼女とのデートが、急な仕事で中止になったとき。
 子供の参観日に行けなかったとき。
 大事にしていた茶碗を割ってしまったとき。

 こういう場合の「償い」のしかたって、なんとなくイメージが湧きますよね。
 代わりのデートをセッティングしたり、次の参観日には必ず行ったり、新しい茶碗を買ってきたり。
 もちろん、「過ごすはずだった時間」や「大事な茶碗そのもの」は、戻ってきませんが、ほとんどの人にとっては、まあ、それは「償うことが可能なもの」ですよね。

 しかし、「命の償い」というのは、どうやったらできるんでしょうか?
 僕には、考えれば考えるほど、そんなことは不可能なんじゃないか?という気がしてくるのです。
 この母親の「一生かけてつぐないするから」という気持ちにウソがあるとは思えません。もちろん、世間的なパフォーマンスの一面だってあるだろうけど。わざわざノートに書かなくても、自分の心にしまっておけばいいはずのことだから。

 でも、具体的にどうすればいいのかなんて、想像もつかないですよね。
 お金を一生遺族に送り続けるの?
 亡くなった人のことを心の支えに、自分は一生懸命頑張って生きていくのかな?(それって、すごく自己満足…)
 だからといって、開き直って忘れて生きていく、というものムシのいい話ですよね。
 
 僕は、「勉くんは ぜったいに ゆるさない」と思います。
 賭けてもいいです。
 いや、「ゆるせない」んだよ。死んでるんだから。
 赦そうにも赦せない、なぜなら、彼は何も考えられない、感情も持てない、「死者」になってしまったんだから。

 よく「一生かけて償いをします」という言葉を耳にすることがあります。
 でも、この世界には「償えるもの」と「償えないもの」があるのです。

 僕の父親は、僕が子供の頃、いつも言っていました。
 「お前がもし事件を起こして他人に迷惑をかけるようなことがあったら、お前を殺して、俺も死ぬ」って。
 当時は、「なんだかガラが悪くて古臭い発想の親でイヤだなあ」とその言葉を聞くたびに反発していたのですが、今考えると、それはある意味、いちばん正解に近い「償い」の方法なのではないかという気がします。

 もちろん、一連の事件の加害者(やその家族)に「死ね」なんて僕が言う権利も資格もないのですが、彼らが「一生かけて償う」なんて口にするのは、単なる自己満足なのではないでしょうか。

 本当に、「一生かけたら償える」と思ってるの?



2003年07月11日(金)
僕が親なら、「打ち首」は理不尽だと思うだろう。


共同通信の記事より。

【鴻池祥肇防災担当相は11日午前の記者会見で、長崎市の男児誘拐殺人事件について「嘆き悲しむ(被害者の)家族だけでなく、犯罪者の親も(テレビなどで)映すべきだ。親を市中引き回しの上、打ち首にすればいい」と述べた。
 今回の事件を契機に少年法をめぐる問題が議論されている中、関係者への配慮を欠いた発言で問題になりそうだ。
 鴻池氏は「勧善懲悪の思想が戦後教育に欠けている」と指摘。「日本中の親が自覚するために、担任教師や親も全部出てくるべきだ」とも述べた。】

〜〜〜〜〜〜〜

 「関係者への配慮」って、いったい誰への配慮?とか、僕は思ってしまったのですが。
 この発言自体には、僕は嫌悪感はありません。
 あまりに時代劇の影響を受けすぎのような、この隙だらけの人物が大臣であることには、ちょっと不安を感じましたけど。
 しかし、よく考えてみたら、この発言には根本的な疑問があるのです。
 それは、「打ち首、さらし首にされるのは、加害者の親なの?」ということ。
 僕は、加害者の12歳少年を打ち首にするんだったら賛成ですけどね。

 古代〜中世くらいまでは、世界の多くの地域では、「罪三族に及ぶ」という発想は、ごく当たり前のものでした。誰かが謀反でも起こして失敗すれば、その親類縁者は何もしていなくても罰を受けるのが当然とされていた時代は、けっこう長かったのです。
 それが、近代になって、「身内の罪で罰せられる」ということは、少なくとも日本ではなくなりました。もっとも、加害者の家族が地域社会で孤立して行き場を失ってしまう、なんてことは今でもごく当たり前に生じている事実なのですが。

 ところで、この「打ち首」発言に対して考えることは、「自分の周囲の人の罪」に対して、どのくらいの責任を負うのが妥当なのか?ということです。
 このあいだテレビを観ていたら、池田小学校で子供たちを手にかけた宅間という男の父親は、「あいつはああいうヤツだ」と堂々と言い放ち、顔も隠さずにインタビューを受けていました。
 言葉は悪いけど、子が子なら、親も親だ、と僕は思いました。
 でも、あの宅間という男の人格形成に大きな影響を与えたはずの彼の父親は、罪を問われることはありません。近所の人は、もちろん寄りつかないでしょうけれど。
 「宅間は大人になってからやったことだから、親は関係ない」って思いますか?
 
 一時期、何でも幼少期のトラウマに責任転嫁してしまう風潮があって、僕はそれを憂慮していたのですが、今回の「12歳の少年にこんなことが起こったのは、親の責任だ」という風潮も、それはそれで極論だと思うのです。
 
 現実に、自分がこの子供の親だったとして、果たしてそのサイン(夜遊びとか、キレやすい、とか)をみつけて、適切な対応ができたかどうか?
 一般の家庭では、「ちょっと変わった子だけど、思春期だしなあ…」とかいう感じなのではないでしょうか。学校のせい、とか言われても、担任の先生だってそれこそマンツーマンでマークしているわけではないでしょうし…目に見えるところで問題がなければ、それ以上の危険性を予見しろと要求するのは、厳しいのではないでしょうか。
 親の責任は、もちろんあるとは思いますが、だからといって、やった子供は「補導」で、親が「打ち首」なんていうのは、ちょっとおかしい。
 「打ち首」にすべきなのは、まず加害者の少年でしょう。

 それにしても、こういう発想が出てくると、また「罪三族に及ぶ」の世界になるのではないかと、僕はちょっと心配なのです。
 責任を問うべきところには、しっかり問うべきでしょうけれど、この事件で世間の親たちに衝撃を与えたのは、「自分の子供が加害者になってしまう可能性」なのではないでしょうか。

 僕だって、自分はそんなことをしない、と思っています。
 でも、自分の身内はどうか?子供はどうか?と問われたときに、絶対大丈夫!とは言い切れない…というのもまた率直な気持ちです。

 だいたい、「勧善懲悪の時代劇の世界」って、そんなに「いい世界」だと思う?
 民衆がどんなに努力しても報われないのに、偉い人の印籠一発で問題が解決してしまうような、「普通の人間」にとって、暮らしにくい世界なのに。

 こういう犯罪を失くす方法というのは存在すると思います。
 それは、北朝鮮のように、思想教育をしたり、洗脳してしまうことです。
 たぶんあの国には、生きるための少年犯罪はあっても、こういう快楽性の少年犯罪は少ないのではないでしょうか。
 モラルというのは、幼少時からの刷り込みの影響が強いものですから。
 
 「子供の自主性を重んじろ」という一方、「子供のモラルを守れ」というのは、実はものすごく矛盾している話。
 現代社会で子供を育てる、というのは、とても難しいことですね。

 「親が打ち首になればいい」
 そんな簡単なことで少年犯罪が予防できるなら、みんな苦労してないよ。



2003年07月10日(木)
「2ちゃんねる」からは削除できても、人の噂は…


共同通信の記事より。

【長崎市の男児誘拐殺人事件で、インターネットの掲示板サイトに、補導された男子生徒の実名と称して個人名が書き込まれ、法務省人権擁護局や長崎市教育委員会が「人権侵害に当たる」として掲示板管理者に削除を要請したことが10日、分かった。
 法務省と長崎市教委によると、複数の個人の名前や学校名などが書かれた書き込みのうち、法務省人権擁護局は7件、長崎市教委生涯学習部は約30件について9日、削除を要請。いずれの担当部署でも補導された少年の実名は把握していないというが「特定の個人を容疑者であるかのように書き込むことは人権侵害に当たる」(長崎市教委)などとしている。】

〜〜〜〜〜〜〜

 「2ちゃんねる」への「ネオ麦茶」の書き込みで知られた「バスジャック事件」のことを御記憶の方は多いと思います。
 今回の記事を読んで、僕は、その事件についてのある出来事を思い出しました。
 僕は当時、その加害者が通っていた学校からそんなに遠くない病院で働いていたのですが、その事件が起こってすぐのある日、ある患者さんから、いきなり、ある中学校のアルバムを見せられました。
 そして彼は、その集合写真の中のひとりの真面目そうな男の子を指差して「こいつが『ネオ麦茶』だよ」と僕に教えてくれたのです。
 いくら加害者保護のために報道規制が敷かれていても、「人の口に戸はたてられぬ」のだなあ、ということをつくづく実感しました。
 彼と同じ学校の生徒や近所の人たちは、「ネオ麦茶」が誰であったかをみんな知っていたのです。
 
 今回の事件では、「加害者」(って呼んではいけないらしいですね、バカバカしい)の少年の情報が、不確定なものも含めて、昨日から某巨大掲示板には書き込まれていたらしいのですが、その名前はひとりじゃなくて、「濡れ衣」をきせられた子供もいたわけようです。これは、削除どころか訴えられてもおかしくないとは思うけれど。
 
 でも、いくら法務省が「加害者の人権を守る」というアクションを見せたって、このネット上に溢れるすべての情報を遮断すること、もっとつきつめれば、近所の人の噂話までシャットアウトすることなんて不可能です。
 実際、法務省だって、それらの書き込みを消したところで、そういった情報のアンダーグラウンドでのやりとりまで抑えられるなんて思ってもいないでしょうし。

 おそらく、この加害者の少年は、これから一生後ろ指を差され続け、家族も地域社会からスポイルされることでしょう。
 それは人権侵害だ!という人もいるかもしれませんが、そういう情報のやりとり、というのは、地域の人々の「生きるための知恵」でもあるわけです。
 好きこのんでリスクの高いところに近寄りたい人間なんて、まずいないでしょうから。
 
 もちろん僕だって、自分の身内が起こした犯罪でそんな目に遭うことを想像すると、非常に怖い気持ちにはなるのですが…
 
 そんな情報をネットに書くことによって、関係ない人たちを傷つけることは許されないことです。
 しかし、その一方、自分の身を守るための情報源として、加害者の情報を必要としている人がいることも確か。
 ましてや、この少年は、たぶんそんなに経たないうちに「社会復帰」してくるでしょうし。

 僕は、加害者の少年に近づきたくありません。
 なぜなら、「怖い」からです。
 
 ところで、この事件について、小さな子供がいる僕の同僚は、こんなふうに言っていました。
 「なんだか、どんなふうに子供を育てたらいいのか、よくわかんないよ。厳しくしすぎてもダメだし、甘やかしすぎてもダメ…」
 子育てに正解なんて、あるはずもないのだけれど…



2003年07月09日(水)
記憶に残る、映画の予告篇あれこれ。


「映画は予告篇が面白い」(池ノ辺直子著・光文社新書)より抜粋。

【予告篇は不思議な存在です。映画本篇とは独立した一つの作品であると同時に、本篇にお客さんをたくさん集めるための広告でもあります。だからこそ、予告篇は本篇よりも面白い(!)のです。
 私の知り合いにも、本篇上映前の予告篇上映を楽しみに映画館に行く人が大勢いますし、予告篇が素晴らしく面白かったので、本篇を見に行ったら、期待ほど面白くなかった、というような話もよく聞きます。】

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 映画が上映される前の「予告篇」って、その映画を撮ったスタッフとは別の人たちが作っていることがほとんどなんですね。予告篇は、作品の一部というよりは、独立した作品であり、広告である、と。
 著者である池ノ辺さん(とその会社の人たち)は、これまで、「トップガン」とか「羊たちの沈黙」とか、「フォレスト・ガンプ」のような大作や「HANA−BI」「学校の怪談」のような日本映画まで、たくさんの映画の予告篇を作ってこられています。
 もちろん、「みんなに観てもらいたい、オススメ映画」だけだったらいいでしょうけれど、中には、「自分は金払って観ないなあ、これ」と思うような映画でも、プロとしては、面白くみえるような予告篇をつくらなくてはいけないわけで。
 まあ、そういう意味では「広告」の世界なんですよね、あれは。

 僕も映画を観に行くときは、極力予告篇を観るようにしています。
 もちろん、席を取っておく、という意味合いもあるわけですが、ガラガラに空いている場合でも、エンディングのスタッフロールが始まった途端に席を立つ人はいても(それはそれで、何でそんなに小走りで出て行く必要があるんだろう?と思うのだけれど)、予告篇が終わるのを外で待って、本篇がはじまったら中に入るって人はいませんよね。
 実際、この予告篇を観ながら、「これ観たいね」とか「つまんね〜」とか考えるのは、けっこう楽しい時間です。
 短い時間に、その映画のウリが詰まっているわけですから。
 予告篇の「見せ方」で僕が印象に残っているものといえば、「マトリックス・リローデッド」で話題になった「100人のエージェント・スミス」のシーンは、本篇ではクライマックスシーンではなかったり、「踊る大走査線」の青島刑事の有名なセリフ「事件は会議室で起こってるんじゃない、現場で起こってるんだ!」というセリフは、本篇の中では、「ここでそんなに熱くならなくても…」と思うようなシーンだったりしたこと。
 確かに、予告篇は「映画本篇を題材にした、独立した作品」なのかもしれませんね。

 そういえば、最近笑ってしまった予告篇は、「ピノッキオ」と(まだ未公開ですが)「ラスト・サムライ」です。
 前者は、ロベルト・ベニーニの奇怪なピノキオぶりに、そして後者は、トム・クルーズの違和感ありまくりのサムライ姿と「侍魂」という言葉が大写しになったスクリーンに、思わず失笑してしまいました。

 予告篇作るのも、楽じゃないよなあ。



2003年07月08日(火)
「ブッシュマン」を知らない若者たち。


日刊スポーツの記事より。

【映画「ミラクル・ワールド ブッシュマン」シリーズで世界的に有名になったニカウさんが4日までにアフリカ南部ナミビアで死去した。59歳ぐらいとみられる。

 1日にまきを拾いに出たが戻らず、捜しに出た家族が草原で死んでいるのを見つけたという。

 ニカウさんはカラハリ砂漠に住むサン人(ブッシュマンは蔑称)で、出演した映画「ブッシュマン」シリーズは人種差別的との批判もあったが、ニカウさんの天衣無縫さがうけ、世界的に大ヒット。1981年の第1作から93年の第4作まで作られたが、90年代初頭にアフリカ南部の故郷に帰っていた。】

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 今日、同僚と話をしていたら、ちょうどこの話題になったのです。
 その同僚が、ある看護学校の講義に行って、突然死の話をしていた際に、「そういえば、この間ニカウさんが亡くなったよね。あの人は心臓疾患だと思うんだけど…」とトピックとして取り上げたら、教室中はシーンとしていたのだとか。
 彼は非常にショックを受けて、「ニカウさんを知らないやつらが、もう看護学校に通うようになったのか…」とこぼしていました。
 今の20歳くらいの人たちって、本当にニカウさんを知らないのか…と僕もショックです。

 1981年に、「ブッシュマン」が、はじめて公開されたとき、当時小学生だった僕たちは、あの有名な(って書いても、たぶんみんな「知らねえよ!」とか思うんだろうなあ…)空からコーラの空き瓶が落ちてくるシーンを面白がって真似したものでした。彼らの話す、僕たちにとっては訳のわからない言葉も、もちろん真似して。
 
 この「未開の民と文明との衝突」をコミカルに描いた映画は、日本でも大ヒットして、確かニカウさんは、映画の公開時とテレビ放映時に来日したはずです。
 映画でのコミカルさに比べて、インタビューに答える彼は、非常に真面目で誠実そうな人だなあ、と感じた記憶が残っています。

 一方、この「ブッシュマン」という映画は、「アフリカの部族を差別している!」という非難がけっこうあって(確か、「ちびくろサンボ」とかが差別的だとして焚書になったのも、この時代だったんじゃないかな)、「コイサンマン」になったり、「サン族」と呼ばれたりしました。
 まあ、日本人だって、「イエローモンキー」とかいう映画を作られたら腹が立ちますから、当然の批判ではあるのですが。
 でも、この時期の「差別」に対するあまりに過剰な「焚書」については、今となっては疑問が残るものも存在します。
 僕自身も「差別だよなあ」と思いながら、この映画自体はけっこう面白かったんですよね、困ったことに。

 しかし、二カウさんの「59歳くらい」という推定年齢と草原での死は、「文明人」である僕に、いろいろなことを考えさせてくれます。
 ニカウさんは、映画のプロモーションで、さんざん「文明」に接してきたにもかかわらず、結局は「文明」に染まることよりも故郷の草原で暮らすことを選んだ、ということ、そして、まだ世界には「草原での自然死」が、珍しくない地域がある、ということ。
 僕たちが、「未開」とか「不便」とか思いこんでいる世界って、実は、そこで生きている人たちにとっては、「当たり前の世界」であり「故郷」なんですよね、きっと。

 「文明化」が人間を幸福にするのか?というのは、永遠の命題なのかもしれません。
 とはいえ、僕にはもう、ネットや車なしの生活ができないのも確かなのですが。 



2003年07月07日(月)
ゴルフを楽しめる人と楽しめない人。


『大変結構、結構大変』(原田宗典著・集英社文庫)より。

(著者のゴルフ初体験の感想)

【いやあ、しかしゴルフは楽しい。
 もちろんスコアの方は散々で、あっちへ叩いては走り、こっちへ叩いては走っていたのだが、そうやって何ホールか回る内に、ふと自分が大きな少年になっている瞬間を何度も味わった。その“少年に還る瞬間”が、何とも言えず楽しいのだ。ティーショットを思いっ切り空振りして「ガチョ〜ン」とふざけるのも楽しいし、まぐれで一度でも会心の当たりが出れば、なおのこと楽しい。これでパーなんか出した日には、「パーだパーだ俺はパーだ!」と叫びながらグリーン上でコサックダンスを踊りまくるかもしれぬ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 ペーパー・ドライバーならぬ、ペーパー・ゴルファー(あるいは、コンピューター・ゴルファー、かな)である僕は、この原田さんの文章を読んで、「久々にゴルフやろうかなあ」と思ったのです。
 実際、けっこう立派なクラブを持ってはいるんですよ。
 このクラブ、前に勤めていた病院の院長がゴルフ好きで、「休日のゴルフ大会に出られない医者は、当直をさせられる」という噂を聞いて僕もクラブを買ってはじめてみたのです。
 これでも「みんなのGOLF」とかは、結構上手なつもりだったので、理論は完璧だったのですが、実際にやってみると難しい。しかも、周りのオッサンとかがあまりに上手いので、なんだかもう嫌になってしまいました。
 言われたとおりにやっているつもりでも、ボールはいつも明後日の方角。
 いや、それでも当たればいいほう、という状況で。

 それでも、一度だけコースに出たことがあるんです。
 冬のけっこう寒い日だったのですが、練習場とは違って、コースは広々としていて気持ちがいいし、確かに、打つたびに「ごめんなさ〜い」とか言いながら自分が打ったボールを追いかけるのは、けっこう楽しい気がしました。
 確かに、子供に還ったような気持ちになってたなあ、と今この文章を読んで、思い返しています。
 少なくとも、練習場で黙々とボールを打っているよりは、カップを目指して打つ、というのははるかに面白いのです。

 でも、18ホール回るとさすがにきつかった(翌日は凄い筋肉痛)。

 しかし、それ以降、どんどんコースに出るようになったかというと、そうでもなくて。
 僕がもともとインドア好きであるのはもちろんなのですが、実は、ゴルフってけっこう面倒なところがあるんですよね。
 それは、打っていると周りが気になるんです。
 迷惑をかけられるんじゃなくて、自分があまりにヘタだから、周りに迷惑をかけているんじゃないか、という申し訳ない気持ちが先に立ってしまって。
 やっぱり、上手い人の中に「打つたびにゴメンナサイ」の僕が入ると、みんなのリズムも乱れそうな気がするし、キャディさんにも気を遣わせて悪いし。
 「ゴルフは1人でもできるスポーツ」なんでしょうけれど、少なくとも超初心者が1人でコースを回ったりはできないですから。
 競技そのものより、そういう気配りが面倒くさいんですよね。

 原田さんは、幸福なゴルフ初体験をされたわけですが、正直、普通の人が取材でもなくはじめてコースに行って、空振りしまくったりしていたら、周りの人やキャディさんは「後がつかえてるから、早くしろよ」なんて苛立ってくるでしょう。それって、けっこうストレスなんですよね。

 たぶんそこで、ゴルフの楽しさが勝つか、気配りの面倒くささが勝つかによって、その人のゴルフへの向き、不向きが変わってくるんだろうなあ。
 
 でも、僕もまた、ゴルフやってみたくなりました。
 自分ひとりで周りの目を気にせずにのんびり回れるようなコースがあれば、きっとすごく楽しいんだろうけどね、ゴルフって。



2003年07月06日(日)
不倫疑惑の「巨乳女子アナ」と「マメな監督」の暗夜行路。


日刊スポーツの記事より。

【不倫騒動で休養中のJ2山形柱谷幸一監督(42)が5日、反論の声を上げた。
 柱谷監督がアクションを起こした。5日の朝、山形サポーターの応援ホームページに一連の報道を否定するコメントを掲示板に書き込んだ。監督自らによる異例の書き込みにファンの間からは励ましのメッセージが殺到していた。
 写真週刊誌でNHK古瀬絵理キャスターとの不倫が報じられた4日、チームでは柱谷監督の休養を発表した。その日は本人の記者会見が開かれることはなく、集まった報道関係者に対して佐藤平次総務部長から「本人が落ち度を認めているため」と経緯の説明がなされただけだった。
 メッセージの冒頭で柱谷監督は「自分自身が発言する機会をまったく設けてもらえず、すべては僕の口からではなく21世紀協会からの間違った発表だけです」と協会に対する不信感を示した。県の補助金などで財政を賄っている社団法人という特殊性からスキャンダルはご法度。協会では、騒ぎを広げないためにも記者会見の設定を見送っていた。
 現在、柱谷監督は埼玉県内の自宅に戻り謹慎中。6日にも山形に戻り、会見を開く意向を示している。球団の指示に逆らってまであえて口を開く覚悟の柱谷監督。「モンテディオ山形で指揮を執りたい。こんなことでやめたくはありません。辞任の意思はまったくないです」と電話インタビューに答えて話した。】

〜〜〜〜〜〜〜

 この一連の不倫騒動への報道で、僕が一番気になったのは、柱谷監督の不倫相手とされている古瀬キャスターのことなんですよね。
 いろんな記事で、「柱谷監督、巨乳女子アナと不倫!」という見出しが躍っていたわけですが、あらゆる記事で、本人の名前よりも「巨乳」がキーワードになっているんですよね。
 最初、古瀬さんのプライバシーを考慮して、記事では名前を出さないようにしているのかな、と思っていたのですが、どの記事を読んでも、名前はキチンと出てますし。
 いや、この間長崎で子供が亡くなった事件でも「全裸男児の身元判明」の見出しに、「全裸」という言葉以上に、この男の子のことを適切にあらわす言葉はないものなんだろうか?とかなり疑問に思ったんですけどね。
 まあ、「読んでもらえないとはじまらない」ということなんでしょうけど、あまりにインパクトのある言葉を選びすぎているんじゃないかなあ、という気もします。
 古瀬キャスターは、確かに巨乳で有名な人らしいですが、それで全人格を代弁されてしまうっていうのもねえ。
 ちなみに、古瀬さんは7月4日の出演番組を「休養」して、週明けか彼女が出演するはずの番組は、大相撲中継でちょうど2週間休みになるんだそうです。
 もともと地方局の契約社員ということですから、彼女の今後も微妙なものとなりそうです。NHKだし。
 
 ところで、山形のサポーターたちは、「柱谷許せん!」といっているかと言うと、意外とそうでもないみたいで、J2の中でも弱いチームであった山形を現在J2で4位までに押し上げた柱谷監督の手腕をサポーターやチームの選手たちは高く評価しているし、感謝もしているようなのです。もちろん、非難の声も上がっていますが。
 先日の試合でも、山形のサポーター1000人が、「俺たちは許す。柱谷」の横断幕を掲げたり、選手の中にも続投を望む声が上がっているとのことです。
 少なくとも、監督としての人望は厚いよう。

 こういう本来の仕事とは関係ないプライベートな問題で、監督が更迭されるというのは、実際ちょっとどうなのかなあ、という気はします。
 不倫は道義的には非難されてしかるべき行為ですし(本人は否定されていますが)、柱谷監督の御家族の気持ちを考えると、いたたまれなくはなるのですが、では、監督が更迭されたら柱谷家に平和が戻るのか?と言われたら、たぶん難しい、と考えざるをえません。
 まあ、山形というチームが「社団法人」ということから、そういうモラルに対して厳しい対応をせざるをえないんでしょうけど。
 
 ところで、いろいろな報道を観ていると、柱谷監督は「女性に対してもマメな人」らしいですね。
 僕も先日同じ職場の「7また男」の話を聞いていて思ったのですが、やっぱり、モテるにはマメさって大事なんだなあ、と痛感してしまいました。
 そして、そういうマメさって、きっと監督業にも活かされているんだろうなあ、などと考えてみたり。
 本業にだけ活かしていれば良かったのにねえ…



2003年07月05日(土)
「体感ドラゴンクエスト」は、「プラレス三四郎」の夢を見るか?


ZDNetの記事より。

【スクウェア・エニックスは,TVゲーム玩具「剣神ドラゴンクエスト 蘇りし伝説の剣」を9月19日に発売することを明らかにした。価格は6,980円。
 この商品は,AV端子を持つTVに繋ぐだけで,簡単に遊べるTVゲーム(専用AVケーブルは同梱)。
 遊び方は,セット内容に含まれる「ロトの剣」をプレイヤーがテレビに向かって振ることで,「紋章ユニット(本体)」内蔵のセンサーが剣の動きを認識し,画面に現れるモンスターを倒すことができる,という仕組み。プレイヤーが本当に“ドラゴンクエスト”の世界を冒険しているかのような気分で遊べるのがウリだ。】

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 「体感ゲーム」といえば、光線銃を使ったものとか、専用マットの上で走ったり跳んだりするようなもの、太鼓などの楽器もの、ゲームセンターには、イスが傾いたり回転したりするような大がかりなものもありました。
 今回、ついに、あの「ドラゴンクエスト」までが“体感”できるようになるわけですね。
 この記事を読んで、僕はなんとなく、懐かしのマンガ「プラレス三四郎」を思い出してしまったのですが。
 ただ、こういう体験型家庭用ゲームの難点って、けっこうあるんですよね。
 マットの上でバタバタ動かなくてはならない「ファミリートレーナー」なんてのは、かなり近所迷惑でしたし、光線銃も小さなテレビでやっては、迫力がありません。
 それに、ずっとやってると、けっこう真面目に銃を仕舞って構えて、っていう動作が面倒になってしまうのです。
 それこそ「プラレス三四郎」のように、自分のメカがダメージを受けると、操っている本人も肉体的なダメージを受けるようなら、真剣味も違うんだろうけど。
 まあ、それでは別の意味で、そんなゲームをやる人はいないでしょうし。

 「体感ドラクエ」って、たぶん最初は「凄い!」と感じる気がします。
 でも、もし今までのドラクエと同じくらいの率でモンスターに遭遇するとしたら、慣れてくるにつれ、敵に遭うのが厭になること必定。
 
 だいたい、「立ちあがって、思いっきり剣を振るスペース」なんて、実際に存在する家はそんなにたくさんはないでしょうし、実際は、自分ひとりでゲームをやっているのに画面に向かって剣を一生懸命振っていると、かなりムナシイ気分になりそうなんだけどなあ。



2003年07月04日(金)
「トリビア」じゃなくなってしまった、『トリビアの泉』


サンケイスポーツの記事より。

【2日スタートしたフジテレビ系新番組「トリビアの泉〜素晴らしきムダ知識〜」(後9・30)の平均視聴率が20.5%をマーク(ビデオリサーチ関東調べ)。瞬間最高は27.0%を記録した。同局のバラエティー番組で初回視聴率が20%を超えたのは平成8年4月15日放送の「SMAPXSMAP」の22.4%以来、7年ぶりの快挙。3月まで月曜深夜に放送されていた人気番組で、ゴールデンタイム進出に伴い、タモリがレギュラー出演者に加わった。トリビア(trivia)とは「雑学、さまつな」の意。】

〜〜〜〜〜〜〜

 「トリビアの泉」、僕も観ました。ちょうど当直の日と重なることもあって、深夜に放送されていたときから観ていたんですけどね。
 今回、タモリが司会に加わって、なんとなく「ボキャブラ天国」のような雰囲気です(でも、この番組って女性アシスタントがいないですよね。それは、ゴールデンタイムのバラエティ番組としては、異質な感じ)。
 この「トリビアの泉」という番組は、「視聴者から投稿された人生に全く必要のない無駄な知識(=トリビア)を品評する場」ということなのですが、確かに、「何かの役に立つわけではないけれど、話の種になるような知識」がたくさん出てくるわけです。
 
 しかし、実はこの番組には、大きな矛盾があるんです。
 それは、今回ゴールデンタイムに進出してからの僕の周りの反応からわかったのですが、実は、「みんながこの番組を観ていたら、その内容は『トリビア』というより『常識』になってしまう」ということです。
 「ねえねえ知ってる?時報の声って、中村啓子さんって人がやってるんだって!ドコモの携帯の留守電のメッセージもこの人らしいよ」
 「あっ、昨日テレビで観たよ」
 「……」
 深夜帯のときは、「知っているだけで話のきっかけになる」というネタでも、相手も観ていたら、あんまり役に立たないんですよね。
 もちろん、「それ観た!」っていうのも大事なんでしょうけど、この番組の場合は、「知ってる」と言われたら、そこから話が広げにくいのです。

 こういうのは、昔から応援していたアーティストが、売れ出したとたんに「違う!」とか言い出す「本当のファン」みたいで嫌なんですが、あんまりメジャーになりすぎた「トリビア」って、全然「トリビア」じゃないんじゃないかなあ、と。

まあ、テレビで放送されていた以上、以前は深夜枠だったとはいえ、もともと「トリビア」では無かったとも言えるんですけどね。



2003年07月03日(木)
×「酒を飲んだからセクハラをした」、○「セクハラをするヤツが酒を飲んだだけ」


毎日新聞の記事より。

【共産党の志位和夫委員長は2日、筆坂秀世・前政策委員長のセクシュアル・ハラスメント問題に関し、幹部・党本部職員約1000人を対象にした私的な外部飲酒の原則禁止の内部規定を徹底する考えを明らかにした。セクハラが酒席であったことを踏まえた再発防止策の一環で、志位氏は「(規定が)守られていなかったのが今度の事態だ。私たちのモラルとして酒の上での過ちということでは許されない」と強調した。

 志位氏によると、規定は酒のトラブルがあった1970年代に設けた。公的な酒席を除いて原則、外部飲酒を禁じ、やむを得ない場合は事前に届け出る。罰則はない。志位氏は「厳しすぎるかもしれないが、外部飲酒は事故につながる」と説明した。】

〜〜〜〜〜〜〜

 さすがに、共産党は厳しい!と思ったら、「罰則なし」なんですね。
 罰則がなければ、全然「厳しすぎる」なんて思えないのですが。

 しかし、もともとこの「外部飲酒禁止」の内部規定があったなんて、共産党凄すぎ。まあ、これも考えてみれば変な話で、「公的な酒席を除いて」なんて言うくらいですから、公的な席では酒が有用な場合もある、と認識しているにもかかわらず、プライベートな外での飲酒を禁じるとは。
 だいたい、「やむを得ない理由の場合」って、「どうしても外で酒を呑まなければならない理由」なんて見つけ出すのは、なかなか困難だと思われます。
 絶対、こんなの守っているとは思えないのですが。
 禁酒法時代のアメリカじゃあるまいし。

 ところで、共産党の人は本当に筆坂議員のセクハラの原因が、「外部で酒を飲んだからだ!」だと本当に考えているんでしょうか?
 この筆坂議員の酒席での素行の悪さは、以前より噂されていたらしいですし、こういうのは「酒のせい」というより、本人の日頃の意識と注意不足に尽きると思います。「酒を飲んでなければセクハラしなかったはず」って、謎の集団にムリに飲まされたわけじゃあるまいし。
 交通事故を起こした人が、「車なんてのがあるから悪いんだ!」と叫んでみたところで許されるわけないのと同じですよね。
 ただし、車の運転の場合には、「事故は起こるもの」という認識はみんな持っていると思いますし、同じ1人の人間が犠牲になっても、殺人事件と比べると、罪が軽くはなります。これは、車が危険はあるけど、現代人の生活には欠かせないものだ、という認識が一般化しているからです。
 
 もちろん「人生には、酒が必要だ」という人は多いでしょうけど、酒はあくまでも嗜好品であり、自分の意思で、飲まなくてもいいのに飲んでいるわけですから、酔ってやったことについては、本人が責任をとるべきです。
 
 「酒の上での過ちということでは許されない」
 確かにその通り。だからといって、罰則なしの「ザル規約」を強調してみても始まらないのではないでしょうか。
 どう考えても、悪いのは酒そのものじゃなくて、それを自分の意志で飲んで問題を起こしては酒のせいにする人間なわけですから。

 大学生じゃあるまいし、飲み方くらい自分で考えればいいのにねえ、まったく。
 
 それにしても、偶然会った古い友達と飲みに行けないのは辛いですよね。
 みんながこの内規をきちんと守れば、の話ですけど。



2003年07月02日(水)
パッケージすら開けないのも、人生。


『ファミ通・2003・7/11号』のコラム「桜井政博のゲームについて思うこと」より。

【わたしは日ごろ、よくゲームを買います。自分の好きなものばかり手に取るわけではないけれど、これも研究研究ッ!
 ……が、買ったゲームを開けて、さぁ遊ぼう!ということが、じつはちょっぴりおっくうだったりします。「最後まで遊ぶのは時間かかるだろうなぁ〜」とか、「操作を覚えるのがつらいなぁ」とか、「読み込みにどのくらい時間がかかるのかしら」、「行き詰ったらどうしよう?」とか。
 で、結果、パッケージすら開けませんでした、ということがよくあります。
 みなさんはそんな記憶はありませんか?
 「ない。」そですか。ソフトをムダにするなと。スミマセン。飽食ニッポン、ここに極まる。】

〜〜〜〜〜〜〜

 桜井さんは、「星のカービィ」の開発などに携わった、HAL研究所の方です。
 ゲームを作る側の人でも、こういう気持ちになるのか、と僕は思いました。
 そして、「そんな記憶はありませんか?」という問いには、「あるある」と頷いてしまうのです。
 ちなみに、桜井さんは、このあと、クリアーしなくていいような、人それぞれ自分の楽しみかたが見つけられる、遊び手にとって自由度の高いゲームを作りたい、と書かれているんですけどね。

 ところで、「いろいろ考えてしまって、物事をやる前から面倒くさくなってしまう」という傾向は、僕にもあるのです。
 たとえば、週のはじめに、週末に飲み会しよう!とか約束した場合。
 そのときはもう、やる気満々で、「週末が楽しみだなあ」とか思っているのですが、だんだん約束の日が近づくにつれ、「なんだか面倒くさいなあ」という気になってくるのです。
 もちろん、当日になれば、「のんびりしておいたほうが良かったかなあ」などと思いつつ飲み会に行って、行ってしまえばけっこう楽しく飲んで、「やっぱり来て良かった」と思うことがほとんどなのですが。

 まあ、買ってもやらなかったゲームとか、飲み会の約束くらいなら(結局行くわけですし)いいんですが、こういう傾向って、人間関係にも出るんですよね。
 たとえば、友達に連絡しようと思ったとき、「今の時間は、人気ドラマがやってるから、やめたほうがいいかな」と思い、終わってみたら、「今日は、時間も遅くなっちゃったしなあ」と考え込む。
 そうやって時間を過ごしているうちに、「もういいや」となってしまう。
 相手の都合とかを考えすぎて、とかいいながら、本当は自分に「拒絶される勇気」がないんでしょうね、きっと。
 
 これで失ったり、得られなかった人間関係って、けっこう大きいような気がするんですよね。なんだか、あらためて考えるとものすごくもったいない。
 しかし、考えようによっては、「そういう自由度の高い生き方ができるのも人生」と言えなくもないですが。



2003年07月01日(火)
結婚式に「仲人」が立てられなくなった理由。


毎日新聞の記事より。

【結婚式で仲人を立てるカップルが激減している。リクルート社の結婚情報誌「ゼクシィ」が01年4月〜02年3月に結婚した全国4350組を調査した結果、仲人を立てた割合は11.5%。先行して調査が行われた関西では、96年の66.7%から10.5%と、6分の1に減った。ライフスタイルの変化や「上司に頼むのは当然」といった職場付き合いの変化などが影響しているとみられ、「消滅するのも時間の問題」との見方も出ている。

 結婚式のスタイルが多様化し、民家風の建物を借り切って行うハウスウエディングや、式を親族だけで済ませて友人同士で「1・5次会」を開くケースなどが、当たり前になってきた。親の世代にも家庭的な雰囲気が人気で、「仲人を入れると堅苦しくなる」と敬遠されがちだ。

 ゼクシィ編集部は「バブル崩壊後、年功序列や終身雇用といった仕組みが崩れ、上司と公私ともに生涯付き合うという感覚が薄れている」と分析する。あるホテルのブライダル担当者は「いまや仲人を立てるのは、大学の医局勤務の医師ら限られた人だけ。下手に上司に頼めば転職の足かせになりかねないという世の中ですから……」と話す。

 一方で、古き良き伝統として惜しむ声も。服飾評論家の市田ひろみさんは「仲人は本来、夫婦の結婚を社会的に証明し、生涯心の支えとなる日本独自の存在。わずらわしさを理由に無くなっているとすればとても残念」と話している。】

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 僕自身は、仲人を立てない結婚式が、ここまで一般化しているという認識はありませんでした。まあ、自分が結婚したことがないから、深刻に考えたことがない、っていうのも事実だし、もうひとつ、僕がいままで参加した結婚式の大部分が、まさにこの「いまや仲人を立てるのは、大学の医局勤務の医師ら限られた人だけ」の限られた人だったものですから。
 こういうことから考えると、大学の医局というのは、日本社会のなかでも、かなり旧体質が依然として残っているところだといえるんでしょうね。
 実際、教授に仲人を頼むとけっこうお金がかかる(もちろん、あからさまに要求されるわけではないですが)という話も聞きますし。
 もっとも、医者の世界でも、最近は「地味婚」というのがけっこうあるのです。やりはじめたらキリがないところがあるので(同じ医局や職場の人など、膨大な数になりますから)、家族とごく親しい友人のみの小規模な結婚式というのも最近は増えてきたような気がします。
 
 僕自身は、結婚というものに対して、当人同士の意向が反映される時代になってきたのは、良いことだと思うのです。実際は仲人を自分たちの意思で立てたいと思うカップルは、あんまりいないんじゃないでしょうか?
 たぶん、こんなふうに「仲人」が減ってきたのは、自分たちが結婚するときに「仲人なんて立てなくても…」と思いつつ、「家」の意向に押し切られていた夫婦の子供たちが結婚する時代になった、ということなのでしょう。
 社会制度が変化していくには、やはり何世代かが必要なようです。

 市田さんの言われることも一理あるのですが、親の友達の議員さんとか、職場の大学教授が、生涯の心の支えになってくれるなんて思えませんし。
 でも、2人がお世話になった学校の先生とか、そういう仲人は、あってもいいとは思うのですが。
 
 「絶対仲人が必要」というよりは、「必要なら立てればいい」という風潮は、僕は自然な時間の流れだと思いますし、たぶん、これからもこの傾向が変わることはないでしょう。
 離婚率の上昇傾向も、たぶん変わることはないでしょうけど。