初日 最新 目次 MAIL HOME


活字中毒R。
じっぽ
MAIL
HOME

My追加

2002年10月30日(水)
2002年10月30日。


 「新『親孝行』術」(みうらじゅん著・宝島文庫)より抜粋。

(みうら氏が推奨する「親孝行プレイ」には、信頼できる寿司屋の大将が必要だという話の中で)

【私の個人的な例だが、私の友人で結婚するまで童貞だった男がいた。友としては当然、結婚後の彼の童貞喪失話を聞きたくなるものだ。なので私は彼を寿司屋に連れて行き、「いつやったのか?」「どうだったのか?」と聞いてみた。すると、その寿司屋の大将が突然、私の友人に向かって「そんな都会かぶれした奴の話なんか、聞かなくていいよ」と言ったのである。
 このような「自分の意見を言いたがる大将」がいる寿司屋ほど最悪なものはない。その後の会話も成立しないし、そんな大将の握った寿司など食べたいとも思わないであろう。】

〜〜〜〜〜〜〜

 確かに、これはちょっと嫌ですよね。僕が行く店の第一条件は、値段が適正であることと、衛生的であること。そして、店の人がうるさくないこと、なのです。
 この「うるさくない」のなかには、騒がしくないというのは当然なのですが、「客と必要以上の私語をしない」というのも含まれています。
 たとえば、前に行った居酒屋で、料理は凄くおいしいし、値段もそこそこのところがありました。その店の主人が、隣の席で4人くらいの男のグループと「どこそこのラーメンはおいしい、おいしくない」とかいう話を延々としていたのです。
 僕はもともと、他人と必要以上の口をきくのはすごく辛いほうなのです。
 こっちに何か話しかけてきたら嫌だなあ、と思うともう、早く帰りたくて。
 中には、食べ物屋に店員さんとのコミュニケーションを求めてやってくる人たちもいるんでしょうが、僕はあいにく、そうじゃない。
 偉い人と一緒にいく高級フレンチより、ひとりの吉野家のほうがはるかに幸せなときって、ありませんか?

 料理屋の店員さんは、美味しいものを出してくれて、黙ってテキパキ仕事をしてくれていればそれに越したことはありません。
 よく、タクシーの運転手さんや床屋さんでも、気をつかって話しかけてくれる人がいるのですが、僕はあいにく黙って考え事をしている時間は全然苦にならないんですよね。
 むしろ、運転手さんの子供の話とかに相槌を打たないといけない状況のほうが、はるかに苦痛です。
 何年か前に、近所のコンビニに入って、パンとか飲み物を買ったとき、そこの店員の中年男性に「ひもじかったでしょ?」と親しげに声をかけられて、すごく不快だった記憶があります。
 方言なのかもしれないけど「ひもじい」という言葉自体がなんだか美しくないし、それ以前に「人の買ったものに対して、いちいち干渉しないでくれよ」と思ったのです。「あたためますか?」くらいなら構いませんけど。
 最近終了した「愛の貧乏脱出作戦」で「お客とのコミュニケーション」がものすごく美化されていましたが、実際は、いちいち食べていて感想を聞かれるようなめんどくさい店に行きたくないと思う人、けっこういるのではないでしょうか?
 サービスがいいのと馴れ馴れしいのは、根本的に違うものです。誰彼となく、話しかければいいってもんじゃない。
「家庭的な雰囲気」とかいうけれど、家のよさって、「黙っていることが許される」という面もあると思うのです。

 かくいう僕も、外来で「うちの嫁が…」とか「子供がグレて…」みたいな話を聞くことはあります。内心勘弁してくれよと思いつつですが。
 まあ、そう考えると僕のように「馴れ馴れしくするより、まず自分の仕事をちゃんとしろよ」と思う人間は少数派で、「誰でもいいから、話しかけてくれたり、自分の話を聞いてくれたら嬉しい」という人が多数なんでしょうね。
 
 サービスというのは、他人にとって居心地のいい空間をつくることのはずなのに、過剰なコミュニケーションの強要を「サービス精神」だと思い込んで自己満足に浸っている店、けっこうあるような気がします。
むしろ、静寂こそがサービスになる場合だってあるはずなのですが。




2002年10月29日(火)
2002年10月29日。


毎日新聞の記事より

【第57回国民体育大会「よさこい高知国体」秋季大会第4日の29日、開催地の高知県が冬、夏、秋季の各大会の合計得点で争われる天皇杯(男女総合優勝)を逃すことが確定した。秋季国体開催地が天皇杯を獲得できないのは1963年の山口県以来、39年ぶり。
 28日までの天皇杯争いで高知県はトップの東京都と500点以上の大差がついた12位。25競技が行われたこの日も得点は伸びず、大会を2日残して男女総合優勝の可能性はなくなった。
 秋季国体の開催地は64年の新潟大会から昨年の宮城大会まで38年連続で天皇杯を獲得。大会費用の削減、簡素化の一環で、近年は他県出身者を開催数年前から地元企業、学校などに就職させる「国体強化対策」を控えるところも増えてきた。
 高知県では橋本大二郎知事が先頭になって、地元選手の育成に限定した強化策を推進。昨年の31位を大幅に上回る成績を収める見込みは立ったものの、総合優勝までは手が届かなかった。】

〜〜〜〜〜〜〜

 確かに、この国体の開催地優勝、毎年なんなんだろうなあ、と思っていました。
 たとえば東京とか大阪みたいな大都市圏ならともかく、佐賀とか島根とかが優勝してしまうのは、何らかの作為がないとまずありえないわけで。
 みんなが、「おかしい!」と思いながら、うちの県だけ負けられないと前例どおりに続けてきたこの悪循環をあえて断ち切った高知県の名誉ある敗北を支持したいと思います。
 しかしながらその一方で、このバカバカしい伝統によって支えられてきた「国体請負人」と呼ばれる、マイナースポーツのアスリートたちがいるのです。
 彼らは、国体のたびに開催の自治体の職員や教員として、国体の開催される各県を転々としながら自分の競技を続けている人々。メジャーなスポーツならプロとして収入を得られるものの、マイナースポーツでは、お金を稼げる本業を持たないと、一流選手として競技生活を続けていくことはできません。スポンサーなんてつきませんし。
 就職したくても、スポーツを高いレベルでやるためには業務に支障が出ることもあるでしょうし、一般企業のサラリーマンとして競技生活を続けることは困難。教員になろうにも、今は本当に狭き門。
 それで、国体で各県のポイントを稼ぐための「国体請負人」として競技を続けていかざるをえらいという事情もあるんですよね。
 また、僕は九州の某県在住なのですが、国体というのは、地方にとってはインフラ整備の機会でもあるのです。「国体のためにつくられた競技場」なんてのは、ちょっとおかしい気もするのですが、今の日本の地方自治体のスポーツ事情では、そうでもないと新しい施設が導入される機会というのは、ないんですよね。

 結局、国体の開催地優勝が当然、というバカバカしい慣例をやめることは良いことだと思うんです。でも、「請負人」にならなくても一流選手たちが安心して競技ができる環境をつくることや地方のスポーツ環境の整備も同時に進めていくことは、ものすごく大事だと思われます。
 でも、純粋に実力勝負だとやっぱり都会の圧勝なんだろうなあ…
 現実には、高校野球の各県代表も越県入学の選手ばっかりだったりしますし。
 
 それにしても、みんなそんなに国体での自県の成績に興味があるんでしょうか?
 



2002年10月28日(月)
2002年10月28日。


夕刊フジの記事より。

【SMAPの木村拓哉(29)の弟でアメフト選手の木村俊作さん(23)が初めてマスコミの取材に応じ、29日発売の「週刊朝日」(11月8日号)で、“スターの弟”の苦悩を告白した)

 俊作さんは同誌で、「実際、いいもんじゃないよ。どこに行ってもぜったいに『キムタクの弟』がついて回るんだから」「迷惑のほうが多かった。親だってそう」と、戸惑いや悩みを率直に語っている。兄・キムタクのことを「やつ」と呼ぶなど、複雑な胸中をのぞかせてもいる。】

〜〜〜〜〜〜〜

 今朝、「キムタクの弟」こと木村俊作さんの姿、テレビで観てなんだか、納得してしまいました。
 似ているか?と聞かれたら、一見したかぎりでは、とても兄弟とは思えません。
 俊作さんは、将来を嘱望されるアメフト選手で、身長180センチ、体重93キロというがっしりとした体格で、いかにも体育会系という感じの強面の風貌。

 僕たちは、一般的に異性の兄弟に対しては、寛容であり、ある意味ないものねだりなところがありますよね。僕が中高生くらいのときは、浅倉南(マンガ『タッチ』のヒロイン)みたいな姉(もしくは妹)がいたらいいのに、と男はだいたい言ってましたし、女性だったら光GENJIの諸星く〜ん、という感じかなあ。
 でも逆に、光GENJIのメンバーは兄弟にいればいいなあ、と憧れる男や姉妹が浅倉南だったらと憧れる女の子は(ああ、こっちはいるかもしれないけれど)あんまりいないと思います。
 同性の兄弟って、ある意味ライバルでもあるわけで、お互いに負けまいと意識するもの。
 しかし、相手が天下のキムタクでは、俊作さんの悩みは深かったでしょうね。
 たぶん、会う人ごとに「お兄さんは格好いいのになあ」とか「今度お兄さんを紹介してよ」とか言われ続けてきたんだろうなあ。けっして、彼自身カッコ悪いわけではないですよ、念のため。
 
 それで、あえて兄とは対極の道を選んで、スポーツに明け暮れた俊作さんは、ある意味非常に立派だと思うのですが。彼だって、芸能人の弟(ましてやキムタク!)の立場を利用して、いい思いをすることだって可能だったでしょうから。
 あえて、兄の威光が通用しない場所で、自分の存在証明をしようとする気持ち、わかるなあ。
 そのワイルドな風貌もマッチョな体も、きっとキムタクのいないところに行きたいという気持ちのあらわれなんでしょう。

 ところで、こういうのって、いかにも兄弟仲が悪いように報道されがちなのですが、別に、世間の男兄弟なんて、これが普通だと僕は思うのですが。
 「ヤツ」くらい言いますよ、体育会系だし。
「拓也さん」とか「お兄ちゃん」とか言ってたら、かえって怪しい。

 でもなあ、キムタクの両親は、お店出してもらったりもしてますから「迷惑のほうが多かった」とは思ってないような気がしますけど。弟に気を使っているところもあるんでしょう。

 やっぱり、有名人の同性の兄弟は大変です。
 「ヤツ」と言えるくらいの負けん気がないとキムタクの弟なんて、やってられないですよね。僕は絶対に耐えられません。
 
 でも、松たか子の兄になら、なってもいいなあ…
 
  



2002年10月27日(日)
2002年10月27日。


朝日新聞の本日(H14.10.28付)の「天声人語」より抜粋。

(チェスの名人対コンピューターの対決の歴史的経過を追って)

【師のカスパロフさんからチャンピオンの座を奪ったやはりロシア人のV・クラムニクさんがこの10月、3週間かけてコンピューター「ディープフリッツ」と対戦した。2勝2敗4分けの引き分けだった。
 ここでもクラムニクさんの微妙な捨て駒作戦が勝敗の岐路だったらしい。「ディープフリッツ」は惑わされずに応じて大事な一番に勝利を収めた。「人間的なチェスをする機械だ」とはクラムニクさんの評だ。ここで人間が負けると、もはやコンピューターにかなわないといわれるところだったが、かろうじて踏みとどまった。】

〜〜〜〜〜〜〜

 コンピューター・チェスは、もう人間の名人と同レベルの実力を持つに至っています。
 ちなみに、将棋や囲碁では、今のところアマチュアのかなりの上級者レベルだとか。
 最初に「コンピューターと将棋ができる!」と言われた時代とは、まさに隔世の感があります。
 それまでは、「コンピューター将棋」といえば、画面が将棋盤の代わりになるというレベルのもので、コンピューターとの対戦なんて、思いもよらないものだったのですから。
 
 どうして、コンピューター・チェスに比べて将棋や囲碁のほうが、コンピューターの強さのレベルが落ちるかというと、将棋では「取った駒を使える」というのが、かなり戦略の幅を広くしているため、囲碁は、打てる場所が多く、あまりに戦略が多彩なためといわれています。
 チェスは、一度やられた駒は盤面から失われてしまって、相手も自分も使えなくなりますし、ゲームの勝利条件も「相手のキングを詰める」という、比較的直線的なものですから。
 もちろんこれは、ゲームとしての優劣を論じているわけではないですよ。むしろ、シンプルであるが故のメリットって、たくさんあるわけですし。
 
 しかし、この手の記事について語られるとき「コンピューターが人間を超えた!」というような語り口であることが多いのですが、果たしてそれは正しいのでしょうか?

 もうだいぶ前の話なのですが、あるパソコンの(当時は「マイコン」の時代だったような気も)本で、コンピューターのメリットとして(1)計算が速い、(2)「ランダム」に物事を選択することが可能、という2つのことが上げられていました。
 少なくとも、今のコンピューターは、この延長線上にあるわけで、コンピューターそのものは、自律的に思考をできるものではないのです。一時期「ファジー機能」というのがもてはやされていましたが、これも要するに、暖房の設定温度を「3℃上げる」と入力しなければならなかったところを「ちょっと寒い」のボタンを押すと、3℃設定温度が上がるようにプログラミングされているだけで、コンピューターが判断しているわけではありません。
 ただ、入力方式を工夫して、それらしく見せているだけなのです。

 「人間的なチェスをするコンピューター」というのは、要するに「人間的なチェスをするようにプログラミングされたコンピューター」でしかないわけで。

 しかし、こう書いていると、「やっぱりコンピューターは人間にはかなわない」と思いますよね。
 でも、たとえば相手がの恋人や家族の場合、「以心伝心」というか、行動パターンがだいたいわかってしまうことがあるように、将来的には、高性能のコンピューターなら、人間の行動の予測ができるようになるのではないでしょうか?
 だって、まったく情報のない相手の行動パターンはわからないのに、よく知っている相手ではこのような予測が立てられるわけですから。
 
 僕たちは、「人間は機械じゃない!」と考えてしまいがちですが、実際は「人間は、感情というものを自分が持っていると思い込むようにプログラムされた精密機械」と言えなくもないのではないでしょうか?

 しかし、どうせ機械なら、もっとマシなCPUを積んでおいてくれよ、と言いたくはなるんですけどね。いまさら、メモリの増設とかもできませんし。
 
 



2002年10月26日(土)
2002年10月26日。


毎日新聞の記事より。

(横田めぐみさんの娘とされるキム・ヘギョンさんへの独占インタビューへの批判に対して)

フジテレビは26日、へギョンさんに対するインタビューが家族会側から批判されたのを受け、「これまで北朝鮮のプロパガンダにくみしたことはなく今後も一切ありません」とコメント。インタビューについて「拉致された方々、及び家族の皆様のお気持ち、お立場を十分理解し、取材・報道にあたっています」と釈明している。

〜〜〜〜〜〜〜

 う〜ん、フジテレビのこの釈明は、ちょっと苦しいです。
 あのインタビューが放送された日のフジテレビの各番組のはしゃぎようといったら、「拉致された方々や家族の気持ちを配慮し」というよりは、「特ダネだ!」というはしゃぎぷり満点でしたから。
 まあ、確かにいろんな意味で「話題」にはなりましたけれども。
 ただ、彼女のインタビューの内容が、あまりに教科書通りだったとしても、それはそれで理解できなくもないのです。
 まだ15歳の女の子が、母の母国で祖父母がいるからといって、今まで敵国と教育され続けてきた国に行きたいと思うだろうか?と。だいたい、ひとりで海外旅行なんて、不安だと思うんですよね。あの国ではもともと、そんなに海外旅行が一般的なものであるとも思えませんし。大人である祖父母のほうに来てもらいたいと思うのは、むしろ自然なのではないかと。
 ほんとは絶対日本に来たいはず!とか、日本で暮らしたほうが幸せだ、というのは、むしろ短絡的な発想。豊かな国のほうが幸せという人ばかりでは、ないと思いますし。
 彼女は、横田さんの娘であると同時に、北朝鮮人男性の娘でもあるわけですから。
 
 でも、その15歳の女の子に、過剰に政治的な意味を持たせてしまったという意味では、フジテレビは非難されてしかるべきです。独占インタビューといっても、あれだけ公の場でのインタビューでは、当然北朝鮮当局のなんらかの影響下で行われたに違いありませんから。おかげで、彼女は政治交渉の道具にされつつありますし。
 それにしても、第3者としては、家族の方たちが、自分の孫のことをDNA鑑定でようやく身内とみとめ、「あれは北朝鮮当局に言わされている」「洗脳されている」とか発言しなくてはならない状況というのは、なんだか、見ていて辛くなります。
 それならいっそ、お互いに干渉しないほうがいいのではないか?とすら思うのです。
 明らかなプロパガンダというよりは、スクープに固執するあまり、個人のプライバシーを無視した報道で、15歳の少女にフラッシュを浴びせかけるその神経は、ちょっとあまりにひどいなあ、と。
 結局、この国家的犯罪も感動的人間ドラマにすりかえられて、視聴率競争の道具にされてしまうんでしょうかねえ。
 
 それにしても、ロシアの劇場占拠事件にしてもそうなのですが、政策として「正しい」ことのために、何人の運の悪いだけの人々が犠牲になっていることか。

 最近の家族会の人々のややもすると過激な言動に対して、僕などは、自分の孫娘なんだから「おじいちゃん、おばあちゃんも行ってあげたいんだけど、今はまだ事情があって行けないんだよ、ごめんね」とへギョンさんに伝えてあげられないものなのかなあ、と思ったりもするのです。
 だいたい、ヘギョンさんが家族より先にマスコミと話していること自体が、異常なんですけどね。
 
 



2002年10月25日(金)
2002年10月25日。


時事通信の記事より抜粋。

 【最高裁から出版差し止めが命じられた柳美里さんのデビュー小説「石に泳ぐ魚」について、柳さんと出版元の新潮社が25日午後、東京都内で記者会見し、改訂版を31日に発売すると発表した。

 改訂版では、小説のモデルとなり、プライバシー侵害を理由に提訴した女性の家族関係や容ぼうに関する描写を原作から削除するなど、約50ページにわたり変更が加えられている。仮処分申請の段階で柳さん側が東京地裁に提出したものと同一内容で、同地裁は一審で改訂版の出版差し止め請求を棄却、判決は確定している。

 出版に踏み切ったことに柳さんは「初の小説が出版できず、この8年間の執筆活動はスタートラインを消されたままマラソンをしているようなものだった」と振り返り、「(評価については)わたしの作品を読み続けている読者を信じたい」と語った。】

〜〜〜〜〜〜〜

 「芸術」は、プライバシーを侵害してもいいのか?仮に完璧なプライバシーの保護が困難でも、どこに線引きがされるべきなのか?そういう観点で「石に泳ぐ魚」の出版にまつわる裁判は、興味深いものでした。

 結果は「出版差し止め」で、その判決に対しては、僕はまあ、ある種の妥当性を感じはしたのです。「身内の悪口を書けないようでは、作家としては一流じゃない」という、有名な作家(太宰だったか、芥川だったか?)の言葉がありますし、佐藤愛子さんの「血脈」なんて作品は、あえて身内のことをあからさまに書いているのですが、それは、作家本人からメリットを受けることもある「身内」としての仕方がない部分なのかなあ、と思えなくもありません。

 でも、今回の件は、モデルとされた女性は、個人の名前が出たりはしていないものの当代きっての人気作家、柳美里さんの作品中で自分の障害のことをあからさまに書かれて、しかもこの裁判でかえって世間の脚光を浴びてしまうことになったのですから、たまったものじゃないと思います。それに、モデルにされることによる、現実的なメリットは、彼女にとっては何もないわけですし。

 柳さんの「初の小説が出版できず、この8年間の執筆活動はスタートラインを消されたままマラソンをしているようなものだった」という言葉には、作家としての情念みたいなものが感じられて、自分の作品を世に出したい気持ちは、わからなくもないのです。

 でも、どうして今なんでしょうか?

 「石に泳ぐ魚」は、各地の図書館で、掲載雑誌の閲覧申し込みが相次いでいるそうです。
 「プライバシーを侵害する小説」というのがどんなものか、読んでみたいという世間の関心もあるでしょう。
 本来、柳さんや出版社が、モデル女性とよく話し合ってから出版するべきなのに、この間の判決から間もない今に、もう改訂版の出版とは…
 そんなに焦って世に出す必要が、あるんでしょうか?地裁で出版差し止め請求が棄却されていたとしても。

 初版5万部。「今なら売れる!」という気持ちがないと言えば、嘘になるのでは。

 僕が柳さんを見ていていつも思うのは、「柳さん自身が自分のプライバシーを商売道具にするのは個人の自由だろうけど、世の中には、柳さんとは違う考え方を持った人間がたくさんいるということを理解してもらいたい」ということです。

 マスコミも作家も「表現の自由」というのを過剰に標榜する人に「自分は特別なんだから、好きなことを書かせろ」と思っている人が多いように感じるのは、僕だけでしょうか?
 




2002年10月24日(木)
2002年10月24日。


毎日新聞の記事より。

【警視庁ハイテク犯罪対策総合センターと麹町署は25日、日本テレビの「24時間テレビ25 愛は地球を救う」のホームページに爆破予告の電子メールを送信したとして、愛知県豊田市柿本町5、私立大学3年、大原智子容疑者(20)を威力業務妨害容疑で逮捕した、と発表した。
 大原容疑者は、日本武道館で開催中の「24時間テレビ」の募金活動を妨害しようと、8月18日午前10時10分ごろ、番組のホームページに愛知県内から携帯電話で「武道館爆破 今、武道館の女子トイレに爆弾をしかけた。あと5分で爆発するようにした。ざまあみろ」と送信し、15分間にわたり入場制限を行わせるなど、業務を妨害した疑い。
 大原容疑者は同日午前9時50分ごろにも「今年もやらせ番組をやってますね」とメールを送信していた。容疑を認めており、「自分もボランティア活動をしているが、やらせっぽい番組が気に入らなかった」と話している。】

〜〜〜〜〜〜〜

 なんだか、とても後味が悪い事件になってしまったような気がします。
 たぶん、この女子大生は、ボランティア活動を一生懸命にやっていたひとなんでしょうね。
 そういう人たちにとっては、「24時間テレビ」って、確かに腹が立つ番組かもしれないなあ。
 だって、考えてもみてください。普通のボランティアの人たちが、寒空の下で募金活動を行っていたとして、一般の人たちの反応はどんなものでしょうか?あるいは、あなたならどうしますか?
 大部分の人のリアクションは、無視。一部の「善良な」人でも小銭を入れて、いかにも募金してやったというような風情で、鷹揚にその場を去っていくことでしょう。
 でも、24時間テレビに出演するタレントのみなさんは、付け焼刃のボランティア精神で、あまり汚い目にも危険な目にも不快な目にも遭わず(いや、確かに24時間ずっと番組を進行するのは、肉体的にはきついとは思いますよ)、募金会場で待っているだけで多数の善意の市民の皆様が、ひっきりなしに「なけなしの」お金を持って集まり、「がんばってください!」なんて声をかけてくれたりまでするわけですよね。
 地道に、見返りがほとんどないボランティア活動をされている方々にとっては、腹が立って当然のような気もします。
 しかし、だからといって、会場の爆破予告というのは、明らかに行き過ぎているわけで。
 そもそも、「ボランティア精神」というのは、自己満足と必要経費以上の対価を求めないということに、その尊さがあるわけですから。
 しかし、この20歳の女子大生をはじめとして、世の中には「正しいこと」をやっていると自認するあまり、常軌を逸してしまう人がなんと多いことなのでしょうか。
 実は、国家的犯罪や大きな事故を起こしてしまう際に、当事者は「正しいこと」をしていると思い込んでいる場合は、けっこう多いような気がします。
 それは、戦争であり、拉致であり、狂信者集団であり。
 「正しいことをしているんだから、何をやってもいい」という発想は、ものすごく危険なんですけどねえ。ヒトラーだって、「独裁政治なんかやって、すまんねえ」なんて思いながら、戦争をしていたわけじゃないでしょうし。
 
 それにしても、この犯罪、メールという情報伝達手段がなければ、きっと成立しなかったと思われます。手紙だったら、書いてる途中で思い直しただろうし、脅迫電話をかけるほど本気でもなかったでしょうから。メールの匿名性(と、彼女は信じてたんでしょうね、きっと)と即時性の生んだ悲劇といえるかもしれません。

 自己満足のためにボランティアをするって言っても、実際は誰かに認めてもらいたいっていう気持ち、誰にでもあると思うんです。でも、きっと最後に笑うのは、地道にしっかり自分の仕事をやってきた人ですよ。
 「愛の貧乏脱出作戦」(終わってしまいましたが)を観ていて、僕はいつも、「最後に笑うのは、3日間だけ必死で修行した依頼者じゃなくて、達人の傍で下働きをしながら、時間をかけて技を盗もうとしている弟子たちなんだろうな」と思っていました。
 実際、依頼者たちの店は、一部の継続して努力した人のところ以外は、ほとんどバタバタとつぶれていったみたいですし。

 困っている人たちが本当に頼りにしているのは、テレビの画面の向こうのモーニング娘。やいつも泣いてる巨人おじさんじゃなくて、目の前のあなたなんですから。

 しかし、この女の子が不運だったのは、日本国民がみんな24時間テレビに感動していると思い込んでいたことなのかも…

 24時間テレビを「やらせっぽいけどとりあえず夏の風物詩な、お笑い芸人じゃないひとたちが出演している電波少年」というスタンスで観ている人、実際はけっこう多いんじゃないでしょうか。

 そんなにマラソンで完走させたいなら、最初から高橋尚子選手に走ってもらえばいいのにねえ。




2002年10月23日(水)
2002年10月23日。


「あの娘は石ころ」(中島らも著・双葉文庫)より抜粋。

【日本人は、わび、さび、「道」を好む。ものごとを簡素化していって、その簡素の中に深さを見いだす。事物は精神性を見いだすためのツールであって、極端なことを言えば「なくてもいい」。華道も書道も香道もみんなそういう抽象性に満ちあふれている。
 琵琶もそういう「道」に取り込まれたのである。
 僕ははっきり言って、日本のこの「道」が大嫌いだ。尺八で「首ふり三年」、つまり音が出るまでに三年かかる、なんてことを言うが、あんなものは何も三年も首をふっている必要はなくて、良い先生が合理的に教えてあげればすぐに音が出ると思う。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕も、学生時代に弓道をやっていたのですが、この中島さんの書かれていること、非常によくわかる気がします。
 弓道って、けっこう作法に煩いところがあって、畳の縁を踏んではならない、に始まって、弓の立て方はこう、引き終わったあとはこう、などと、けっこう手際がめんどうなのです。いやまあ、多少の作法があるのは、仕方がないとは思うんですけどね。
 
 ある先輩が、昇段試験を受けたときのこと、引いた矢は二本とも的中し、体配(弓を射るときの作法にかなった動き、いわゆる「型」ですね)もほぼ完璧。これは受かった、と本人も周りの人も思ったのです。でも、結果は不合格。
 納得できなかった先輩が、審査員の先生に落ちた理由を聞きにいったら、一言「射が若い」と言われたそうです。なんじゃそりゃ?

 僕は、弓というものにはすごく愛着がありますが、「弓道」というものには、正直、あまり納得できないところがありました。
 
 最初に弓を開発した人は、もちろん礼儀作法から始まったわけじゃなくて、いかに敵を倒すか、という実践こそが大事だったと思うのです。でも、それはどこかで変容していって(弓が兵器としては、実戦的でなくなったという事情もありますが)精神性を重視するようになっていったのです。
 これは弓道に限ったことではなく「道」を説く人たちって、みんなその実社会とは乖離した競技の達人なんですよね。
 
 劉邦が漢帝国を建国したとき、部下があまりに宮廷で好き放題をやるので(まあ、もともと彼らは劉邦の「仲間」でしたし、ほとんどが荒くれ者の集団だったらしいですから、あまり遠慮の気持ちはなかったんでしょうね)、頭を痛めていたそうです。すると、お抱えの儒学者が「礼を宮廷の儀式に取り入れなさい」と助言をして、半信半疑ながらもそれを受けて宮廷作法を義務化したところ、宮廷は荘厳な雰囲気になりました。
高祖劉邦は「わしは今はじめて、皇帝の偉大さを知ったぞ」と、その儒学者を大いに賞したという話が伝わっています。

この高祖劉邦を茶道や華道などの「道」の達人になぞらえてみてください。彼らは、ほんとうに精神性にすぐれていたから「達人」になれたのか?それとも、技術的に優れており、他人に尊敬されるようになったから、自分の得意なジャンルに「道」を取り入れて、演出をするようになったんでしょうか?

まあ、創業期はともかく、その競技や技術が安定期の場合、多くの「道」は、むしろ支配する側の都合のいい道具とされているような気がします。
僕は弓道しか知らないのですが、確かに、弓が上手になる人は集中力があるとか、自制心に優れている人が多いとは思うのです。
でも、なんでもかんでも精神論にすりかえてしまう「ナントカ道」みたいなのは、結構胡散臭いと思いませんか?
ある意味、弓が上手になる性格というのはマイペースで頑固な人とも言いかえられますし、それは精神的に優れているというよりは、その競技に向いた性格であるというだけなんですよね。
他人に迷惑をかけるようなものでもなければ、性格に優劣なんてつけようがないと思いませんか?
結局、自分の特技や技術を脚色したいだけの似非求道者が多いんじゃないのかなあ。
すばらしい人格の2軍の選手は「野球道」なんて語らせてもらえませんしね。

だいたい、「家元」とか「宗家」なんて人たちが、そんなに精神的に立派な人ばっかりじゃないってことは、狂言界の「自称宗家」の人をみれば、一目瞭然なわけで。





2002年10月22日(火)
2002年10月22日。


午後のラジオで聴いた、プログレの雄「キング・クリムゾン」のメンバー、ロバート・フィリップのインタビューの一部。

【インタビュアー「キング・クリムゾンは、1969年に結成されて、今でも第一線で活躍されているんですが、ロバートさんは、失礼ですけれども実際のお年に比べてお若く見えるんですが、若さの秘訣というのは、何なんでしょう?」

ロバート・フィリップ「多くの人々は、年を重ねると『昔はよかった』とか『若いころは良かった』って過去のことを回想して言うだろう?
でも、私は自分にとってベストな時期は、いつも自分の近い将来にあると思っているんだ。あえて言えば、そのおかげかもしれないね」】

〜〜〜〜〜〜〜

 まあ、ある種の禅問答みたいなものかもしれませんが。
 この話、僕にはけっこう納得できたんですよね。
 たとえば、女子高生の会話などで「20歳なんて、もうオバサンだよね〜」とか言っているのって、耳にしたことないでしょうか?
 20歳は、客観的に見ればオバサンではありえないのだけれど、彼女たちはそう思っているのですよね。
 そして、20代半ばくらいでも「もう年だから」「オバサンになっちゃう」とかいう女性、けっこういます。30の僕にとっては、イヤミと思えなくもないのですが。
 でも、確かに、彼女たちは(これは、男性にも言えることなのですが)、外見がものすごく若々しくても、実年齢より老けてしまっている感じがしませんか?
 それはたぶん、その人たちが、過去のことばかりに目がいって、未来に希望が持てないからなんだと思うのです。
 確かに、年をとっていくと、体力も落ちてきますし、いろんなことを新しく始めるパワーはなくなってくるし、いろんなしがらみも出てきます。
 でも、責任のある仕事を任されるとか、家庭を持つとか、年齢的に若いときにはできなかったことで、可能になることも少なくはないですし、少なくともいろんな経験を得ることによって、まだまだ、これから先に人生のピークをもっていくことはできるんですよね。
 外見上の若さを保つことも人によっては大事かもしれませんが、肉体的に時間を止めようとするのには、限界があります。
このように未来の希望を持ち続けるってことが、いくら年をとっても実行できる若さの秘訣なのかもしれませんね。

 「もう年だから」っていうのは、かえってみっともないだけだから止めてしまおう、と思った30歳の秋。





2002年10月21日(月)
2002年10月21日。


ZDnetの記事より。

【韓国メディアの報道によると、同国で映画やゲームなどの内容審査を担当する映像物等級委員会はこのほど、韓国NCsoftのネットワークRPG「Lineage」を「18歳以上利用可」に判定した。NCsoftは再審議を申し立てる予定。

 同委員会が所属する韓国文化観光部(日本の文部省)は今年5月、オンラインゲームの等級分類基準案を発表、10月から同案に沿った事前審査を始めた。同案によると、ゲーム中でプレイヤーキャラクターを殺傷する「PK」(プレイヤーキル)行為が行われるゲームは、原則として18歳以上の成人用ゲームに分類するとしている。】

〜〜〜〜〜〜〜

 最近話題になっている「ゲーム脳」であるとか、残虐なゲームをやることによって、現実でも残酷な行為を行うようになるというような論調も強まっているようで、とくに若者への悪影響が懸念されています。
 しかし、考えてみると「PK(プレイヤーキル)」行為というのは、ゲームというものが生まれたときから存在しているんですよね。たとえば、子供の「戦争ごっこ」みたいなものから、テレビゲームで言えば、「戦場の狼」なんて、もろに撃ってるわけですし、信長の野望なんて、リアルな殺傷シーンはないですが、一度戦闘を行えば、何万人単位の死者が出ています。
 「リネージュ」の場合は、「生身の人間が操作しているから」という理由付けがあるとするのなら、「ストリートファイター2」はOKなの?とかいう話にもなるわけで。
(あれは、殴り合ってるだけで死なないからいいの?)
 そのあたりの境界をどこに引くのか?というのは、非常に難しいところですね。
 逆に、生身の人間が操作していないキャラクターなら、いくら殺してもいいのかなあ。

 もう、かなり前の話なのですが、かの怪物RPGの主な作者のひとりである堀井雄二さんが、雑誌のインタビューで次のような話をされていました。

堀井「いちばん悩んだところのひとつは、プレイヤーがモンスターを倒したときのメッセージなんです。『殺した』『死んだ』というような表現は、プレイヤー側も後味が悪いし、子供たちもやるゲームだから、使いたくない。でも、あまりに柔らかい言葉(『改心させた』など)だと非現実的だし。
 さんざん悩んだ末に『やっつけた』にすることにしたんです」

 ゲームの世界で、しかも相手は「怪物」なのに、これだけの気配りをしてたんだなあ、と驚いた記憶があります。
 
 ゲーム好き(残念ながら、ネットワークゲームは経験がないのですが)としては、どうしてこんなにゲームばかりが槍玉に挙げられるんだろうという気持ちはあります。
 
だって、野球の練習のしすぎで死んでしまう野球部員や海で溺れて亡くなる人だって、世の中にはいるわけですから。だからといって、野球や水泳が18禁になったりすることはありえないですよね。おそらく、ゲームというのがまだまだ伝統文化としてみとめられていないから、このように「わけのわからない、あやしい娯楽」と解釈されてしまっている部分もあるのでしょうし。
 年齢制限をするよりは、作る側も遊ぶ側も少しだけ節度をもってやれば、別に18禁にする必要はないと思うのですが。

 実際のところ、最大の問題はネットゲーム依存による生産性の低下なのかもしれませんね。
正直、強くなるにはネットワーク上で死ぬほど努力しないといけないネットゲームよりは、マイペースでのんびりやれるオフラインのゲームのほうが、僕の好みではあるんですけどね。
ゲームの世界でさえも、努力をしないと英雄になれない時代。




2002年10月20日(日)
2002年10月20日。


日刊スポーツの記事より。

(元ドリカムの西川氏が、覚醒剤使用で再逮捕されたことを受けて)

【西川容疑者が所属していたドリカムはこの日夜、所属事務所を通じ、コメントを発表した。「DREAMS COME TRUEは、デビュー以前からアンチドラッグという姿勢を貫いてきました。西川自身からの言葉を信じていた我々にとっては、大変残念なことです」と驚いている。また「これまで西川を信じ、応援してくださった皆さんに対しては、言葉の見つからないほど、申し訳ない気持ちでいっぱいです」とファンに謝罪した。】

〜〜〜〜〜〜〜

 この談話を読むと、結局、他のメンバーはうすうすは知ってたんだろうな、と思います。「西川自身からの言葉を信じていた」ということは、何らかのかたちで釈明したことがあったのでしょうし、今回の西川氏の脱退から覚醒剤での逮捕までの流れをみると、足元に火がついたから脱退させた、と思われても仕方なさそうです。

 西川氏といえば、いつも笑顔のドリカムの中でも、ひときわニコニコしていて、なんだかかえって気持ち悪いような感じもしていたのですが、薬のせいだったのでしょうか?
 でも、彼のそんなキャラクターは、ドリカムのひとつの象徴だったような気がします。

ところで、「活字中毒。」は、アンチドラッグの姿勢を貫いております。
 とか書いたら、ものすごく違和感ありませんか?
 それは何故かというと、「そんなの関係ないだろう」と思われるからですね。
 今回のコメントでは、「DREAMS COME TRUEは」の「は」の部分で、「いかに音楽界、芸能界ではアンチドラッグという姿勢が貫かれていないか」ということが浮き彫りになったような気がします。ドリカム「は」アンチドラッグ(他の芸能人は違うんだけどさ)というニュアンス。たとえば、「どこそこ高校は、アンチドラッグの姿勢を貫いてきました」なんていわれたら、誰でも「当たり前だろ!」と思うだけなんじゃないでしょうか。しかし、今回の事件も、けっこうみんな「芸能界って、そんなもんだよなあ」と納得してしまいがちのよう。

 僕がいちばん驚いたのは、槇原敬之さんが覚醒剤で捕まったときでした。まだ予備校時代の垢抜けない雰囲気で「どんなときも。」を歌っていたころから知っている側としては、「まさか、あの人が…」という気持ちでいっぱいになったのをよく覚えています。彼は、芸能人にならなければ覚醒剤なんて手を出さなかったのではないでしょうか?

 僕たちは「芸能界は、麻薬に汚染されている」という印象を持ってしまいがちだけれど、生まれつきの芸能人って、一部の古典芸能の人や有名芸能人の子弟を除いてはほとんどいないわけです。誰でも、元々は普通の人だった。
 普通の人でも、もしくは普通の人だから、何かのきっかけで、ドラッグにはまってしまうリスクというのは、けっこう高いのではないでしょうか。
 芸能人だからニュースとして大々的に取り扱われているだけで、現代社会ではドラッグはものすごく身近な問題だと思うのです。
汚染されているのは、芸能界「も」なんじゃないでしょうか?

 産みの苦しみに悩む創作者が、ついついドラッグに手を出してしまう気持ちは、わからなくもない。でも、創造力と引き換えにドラッグで人生を棒に振るようなら、ドラッグなんかには手を出さずに、目立たないけれども普通に働いている人のほうが、はるかに立派だと僕は思っています。悩む心は、みな同じはずで、芸能人だから特別などということは、たぶん本人と周りの思い込み。
 もちろん、人間である限り、何にも依存しないで生きていくことは至難で、人によってそれはお金であったり、酒であったり、恋愛であったりするわけですが。
 
 では、どうして酒はよくて、覚醒剤がダメなのかって?
 基本的には、依存性が強くて、自分で欲望をコントロールできなくなってしまうからでしょうね。他人にも迷惑かけるし。でも、それはアルコールでも度が過ぎれば同じこと、ではあるのですが。

 しかし、あらためて考えると、うまくその理由を説明できないんですよね。
酒や恋愛は良くて、ドラッグはなぜダメなのか?
 依存の程度の問題、ってことでいいのかなあ。
 
 ドラッグはダメだ!西川最悪!と芸能マスコミが報道するのは気持ちはわかるんですが、実際はそこからは何も得られません。
彼がなぜドラッグにはまっていってしまったのか?それを僕は知りたいと思っているのです。
自分が、ドラッグの誘惑になるべく嵌らないようにするために。




2002年10月19日(土)
2002年10月19日。


土曜夕方のFMの番組「アバンティ」での糸井重里さんのコメントより。

(うろ覚えなので、言い回し等違っていると思うのですが、ニュアンスは合っている筈)

【糸井「今の若い子が昔のマンガを読むと『〜ですわ』なんていう女の子の会話の語尾に、すごく違和感を感じて「古い!」と思うんだって。確かに「〜ですわ」なんていう女の子、今はいないよね。でも、「今は」って言ったけど、昔だって「〜ですわ」なんて使う女の子、全然いなかった気がするんだよ。そのあたりが実際の会話と文章との違いでさ。
 たとえば、会話で「〜だよね」なんていうのは、男も今は当たり前に使うんだけど、こうやって書き文字にしてみると、むしろ女言葉なんだよね。だから、話し言葉をそのまま書くと、男性・女性の区別って、全然つかなくなっちゃうんだよ」

〜〜〜〜〜〜〜

 さすがに糸井さん、言葉のプロだなあ、と感心してしまいました。
 確かに、現実に「〜ですわよ」なんて使う女性、僕は寡聞にして会ったことがありません。「エースをねらえ」とか、ああいったスポコン漫画の世界だけの言葉なのかなあ。
まあ、もともとあまり女性に縁がないせいなのかもしれませんが。
 たとえば、いろんなWEB日記を集めてきて、性別をうかがわせるような部分を全部抜いて、性別当てクイズをやったらどうでしょうか?けっこう、男女の区別って、つけるのが難しい気がします。とくに書き言葉では、会話でよりもさらに難しい。
 少しかしこまっていたりすると、全然わからないのでは。
 実は僕、女だったんです。とか書いても、意外とみんな納得したりして。
 
 よく、スッピンで丸坊主にしてしまえば、男性と女性の区別はかなりつきにくい、って言いますよね。それと同じで、こういうWEB上でも、表現法では男女差はない時代なのかもしれません。

 蛇足なのですが「ざあますのよ」なんて語尾、実際に耳にされた経験、ありますか?
 僕は、あれは赤塚不二夫さんのオリジナルのネタだとばかり思っていたのですが、忘れもしない8年前、島根県の出雲市というところに部活の試合で行った際に、この「〜ざあますのよ、オホホホホ」と喋るご婦人を目撃しました。
 そりゃあもう、驚いたのなんのって。家の前の溝でシーラカンスが泳いでいるのを目撃したような気分でしたよ。
 
 そういえば、スポ根漫画に比べて、普通の恋愛漫画では、あんまり女言葉って使わない気がします。女性だからというよりは、むしろ周りに女性らしく見せたい場合に使われる表現なのかもしれませんね。
   



2002年10月18日(金)
2002年10月18日。


「九州ウォーカー」2002,No22の菅野美穂さんのインタビューより。

(8月に25歳を迎えた菅野さんへの「何か気持ちの変化はあったんですか?」という質問に答えて)

【「ようやく24歳ですっていうのに慣れてきたのに、もう25歳(笑)。早いなって。現場だと、自分より年下で一人前にやっている人がたくさんいるんですよね。私はそういう人たちよりも経験が多いんだから、もっとしっかりしなきゃって思います」】

〜〜〜〜〜〜〜

 もうすでに、25歳になっちゃったんですね、菅野さん。でも、芸歴が長いせいか、はたまた写真集のこととかいろいろあったせいか、「まだ25歳?」という気もしなくもないんですけどね。
 菅野さんといえば、僕は何年か前に、彼女と一緒に「走らんか」というNHKの朝の連続テレビ小説の主役のオーディションを受けたという女性に話を聞いたことがあるんです。
 その人によると、菅野さんというのは、とにかくエネルギッシュな人で、「一緒にがんばろうねっ!でも、私は絶対にこの役がやりたいの!」と言っていたそうです。
 「そういうのが、嫌味じゃなかったのよねえ、やっぱり違う世界の人なんじゃないかと思った」とのことでした。
 
 さて、ちょっと話は変わってしまうんですが、この「25歳だから、しっかりしなきゃ」というように思った経験、誰にでもあると思うんです。僕も30歳になったときは、これで名実ともに大人だし、しっかりしなきゃ、と決心したものでした。
 いや、20歳のときも、菅野さんと同じ25歳のときもそうだったような気がします。
 たぶん、一生こんな感じで、35だから、40だから、と思っていくのかな?
 でも、90歳になったとき、「もう90歳だから、しっかりしなきゃ!」
と決心する姿は、あまり想像できませんよね。
 とすると、たぶん何歳かで「しっかりしなきゃ」から脱却する年齢が来るんだと思います。それは、果たして何歳のときになるんでしょうか?

 やっぱり、「もう90歳だから、オトナにならなきゃ」とか思ってたりして…




2002年10月17日(木)
2002年10月8日。の続き


毎日新聞の記事より。

【北九州市の焼きうどんと静岡県富士宮市の焼きそばの味比べ対決が14日、小倉北区の小倉城であった。食べ比べた市民ら399人が投票し、焼きうどんが202対197で接戦を制した。
 焼きうどんはJR小倉駅前の食堂が終戦直後に始めたとされている。まちおこしグループ、北九州青年みらい塾(松尾孝治代表)が昨年から「小倉焼きうどん」のPRに取り組んでいる。
 今年は、富士宮市のまちおこしグループ、富士宮やきそば学会(渡辺英彦会長)に勝負を挑み、「天下分け麺(めん)の戦い」と銘打つイベントが実現した。
 みらい塾の松尾代表は「地の利を考えれば勝って当然。ほっとした」。やきそば学会の渡辺会長は「PRの相乗効果が図れた結果には大満足」と話していた。】

〜〜〜〜〜〜〜〜

 全国の焼きうどんファンの皆様、どうやら焼きうどんが接戦をモノにしたみたいです。
 しかし、この結果は、焼きうどんのホームでの戦いだったことを考えると、今後の焼きうどん界にとっては、厳しいともいえましょう。それとも、みんな焼きそばが珍しかったり、客人に対する礼儀として焼きそばに投票したんでしょうか?
これだけ接戦だと、不正投票の疑いもなきにしもあらず。
できれは、焼きそばのホームでも戦って決着をつけてもらいたいところなのですが。
 しかし、こうして書いていて思ったのですが、なんだか今回の戦いでの焼きうどんの立場って、民主党の党首選での鳩山由紀夫さんみたいですね、なんとなく。

付記:たぶん「10月17日。」は時間があれば別に書きます。
 なんとなく焼きうどんと焼きそばの勝負の結果が気になってたもので。
   



2002年10月16日(水)
2002年10月16日。


「シティ情報ふくおか No.576」の記事「映画『Dolls』の記者会見レポート」より抜粋。

(菅野美穂演じるヒロイン・佐和子の相手役松本に選ばれた、西島秀俊さんの選考時のエピソード)

【実は、菅野に関してはキャスティングは難無く決まっていたと森プロデューサーは打ち明ける。だが監督の求める透明感と存在感に溢れる男優がなかなかいない。そんな苦労の中で、北野監督の面接にパスしたのが西島だった。ちなみに、北野監督の面接はだいたい30秒くらいで終わるのだとか。2,3の質問をしてそれで終わり。
 そして、西島への質問は「あんちゃん演技できんの?」(笑)。西島も、「『はい』とか『いいえ』とかしかしゃべってないです」と笑いながら語ってくれた。】

〜〜〜〜〜〜〜

 映画監督と一口に言っても、いろんな人がいるみたいですね。女優と不倫なさっていた、ご高齢の監督もいらっしゃいましたし。
 オーディションも、とにかく時間をたっぷりかける人もいるらしいですし。
 北野監督という人は、いつもこんな感じの面接らしいのですが、ちょっとびっくりするような話です。普通は、台詞を言わせてみたり、演技をさせてみるもんじゃないのかなあ。
 だいたい、本人に「演技できんの?」と尋ねたら、普通「できません」とは言いませんよね。これだと「ダメだった…」と西島さんは思わなかったのでしょうか。
 西島さんといえば、「あすなろ白書」での同性愛者の松岡君という役の印象しかなくて、そういえば、どこに行ってたんだろう、まさか交通事故に?(それは松岡君ですね)などと思っていた、というか、最近は忘れていた役者さんだったのですが。
 たぶん、どこかピンとくるものがあって、北野監督は彼を選んだのでしょうけど、たぶん、監督は彼の「雰囲気」が欲しかったんだろうなあ、と思います。
 「演技できんの?」という質問は、「これで演技がある程度できるようなら、こいつにしよう」と思っていたのでは。
 しかし、北野監督に対しては、演技の勉強をいくらやっても、使ってもらえそうには、ないですよねえ、これじゃ。
 やっぱり、役者というのは、才能の仕事なのでしょうか。
 ちなみに「Dolls」、不思議な佇まいをもった映画です。
 




2002年10月15日(火)
2002年10月15日。


ZDnetの記事より抜粋。

【米IBMが、トイレの順番を決めるための手法について取得した特許を放棄した。同社は昨年12月、「トイレを使う順番を決めるためのシステムと手法」について特許を取得。しかし、米特許庁が今週発行した文書によると、その後、特許取得に対してクレームが付き、同社は特許の主張を取り下げることとした。

 特許申請は2000年8月に行われた。これは飛行機や列車、船などの施設で、トイレを誰が次に使うかを決めるためのコンピュータシステムに関する特許で、トイレの待ち時間を短縮するものとされていた。だが特許庁の記録によると、特許の発行から間もなく、この手法について特許を取得する必要性についての疑問と共に、特許庁に再検討を求める声が上がったという。IBMは今月後半、この特許の放棄を決めた。】

〜〜〜〜〜〜〜

 そうですか、IBMは特許を放棄しちゃったんですね。ちょっともったいないなあ…って、正直、何がもったいないのかよくわかりません。
 僕がいちばん疑問に思ったのは、この「トイレを使う順番を決めるためのコンピューターシステム」というのが、いったいどんなものなのだろう?ということなのです。通常、トイレの順番待ちというのは、男女とも「並ぶ」というのが主流ですよね。コンサートやイベント会場では、とくに女子トイレの前に長蛇の列ができるのは、ごく日常的な光景です。
 では、この「トイレの待ち時間を短縮するためのシステム」というのは、いったいどんなものなんでしょうか?その場に並ぶ以上に待ち時間を短くするには、どうするんでしょう?とても興味深かったので、いくつか予想してみました。
 ひとつは、順番を登録して、順番までは席で待っていていいというシステム。
 これなら、並んで待つ時間は少なくて済むでしょう。もっとも、ひとりひとりに移動時間がかかりますから、全体の時間短縮にはつながらなさそう。
 さらに一歩すすめると、超音波検査で膀胱の張り具合をチェックして、より切迫している人に優先使用してもらうというのも考えられますね。しかし、そういう排泄時の切迫感というのはひとそれぞれで、前立腺肥大のある高齢の男性などは、画像以上に本人の感覚としては切迫しているわけで。
 それに「大」か「小」かによって、状況は全然変わってくるしなあ。
 順番が回ってくるときに車両の自分の席のランプがピカピカ光ったりするのも、ちょっと気恥ずかしい感じもしますし。
 
 
 しかし、どう考えても「トイレの前に並ぶ」以上にトイレの待ち時間を短縮するアイディアが浮かんでこないのです。まあ、僕にすぐ思いつくような方法では、一時的にでも特許は取れなかったでしょうけれど。
 ご存知の方、もしくは思いついた方、どなたか教えていただけないでしょうか?
   



2002年10月14日(月)
2002年10月14日。


「阿川佐和子のお見合い放浪記」(阿川佐和子著・講談社+α文庫)より抜粋。

【外科のお医者さんで、年がら年中手術で朝から晩まで血を見ていることには、別に恐怖を感じないとおっしゃっていました。ところが、その人の可愛がっていた犬が交通事故に遭ったのだそうです。その犬の血を見たときは、ショックで立ち直れなかったと言います。ふうん、お医者さんってそんなものなのか、と新しい発見をしたような気持ちになりました。】

〜〜〜〜〜〜〜

 先日、テレビを観ていたら、ある野球選手が「僕、そんなに野球が好きじゃなかったんです。素質があるって周りに言われて、イヤイヤながらやっているうちに、プロにまでなってしまって…野球は僕にとって、趣味の延長じゃなくて『仕事そのもの』なんですよね」
とインタビューに答えていました。僕は、それを聞いてちょっとびっくりしたのです。
 野球選手といえば、みんな野球が大好きな野球少年の延長だという印象がありましたから。
 でも、確かに自分にいちばん向いている仕事、口に糊する手段として野球選手を選択している人がいても、全然おかしくないわけですよね、考えてみれば。
 医者という仕事、「よく、血をみたりとか、命の瀬戸際の人を見ていて耐えられますね、すごいなあ」というような言葉をいただくことがあります。
 でも、この阿川さんの文章にあるように、僕も仕事で血を見ることについては、恐怖感は、ほとんどありません。むしろ、「この出血量だと、輸血が必要かな」とか、そういうことを考えることが多いです。
 それでも、生き造りのイカをみて、「かわいそうだなあ」とか思ってしまうんですよね、ときどき。「食べるなら一緒じゃない」とよく言われるのですが。
 もしくは、自分が患者さんに「癌で、余命は何ヶ月です」と言うときには、淡々ということができますが(もちろん、最初からそうだったわけではないですよ)、自分の親が病気で、担当医に説明を受けたときには、やっぱり一人の患者の家族になってしまいました。
 まあ、医療関係者は、親族と医療サイドの板ばさみになってしまって、辛いことも多かったけど。

 僕は、亡くなられた患者さんの解剖をさせていただくことがあるのですが、それは、この先の人類全体にとって、役に立つ(はず)と自分に思い込ませることによって、やっているわけです。別にその行為が好きでやっているいうわけではなくて、必要だと思っているからやっているだけです。
 「よくそんなことできるねえ」といわれる仕事って、本人も別に好きでやっているわけじゃないって場合、けっこう多いと思うのです。もしくは、好きでやっている仕事でも、あまり気乗りがしない部分は、きっとあるはずで。
 弁護士さんは必ずしも争いごとが好きなわけじゃないでしょうし、野球選手でも「ほんとは、バントなんかしたくないんだけどなあ…」と思っている選手、けっこうたくさんいるんじゃないでしょうか。
 好きだからじゃなくて、「仕事」だからできる。お金がもらえる仕事というのは、それがすごく難しいことであるか、みんながやりたがらないことだからかの2つのうちのひとつ(もしくは両方)であることが、ほとんどなのですから。
 僕だって、仕事以外のところで、血をみるのはまっぴらごめんです。
いや、ほんとは仕事でだって、見たくはないですけど。

   



2002年10月13日(日)
2002年10月13日。


お昼のラジオ番組での山下達郎さんのコメント。

【山下達郎「私は、よくある『セルフカバー』での自分の曲のリミックスや歌いなおしなんて、やったことないですし、やりたいと思ったことも一度もありません。ですから、私の場合は、セルフカバーは、他のアーティストに提供した曲を自分で歌う、というパターンだけになってしまいます」】

〜〜〜〜〜〜〜

 さすが妥協しないことには定評のある、達郎さんだなあ、と感心してしまいました。
 最近、セルフカバーのアルバムって、けっこう沢山出ていて、自分の旧い曲を歌いなおしたり、アレンジを変えたりしていることが多いみたいです。
 でも、実際に聴く側としては、やっぱり原曲と比べてしまうことが多いですし、「これは面白い!」と思うよりは、「これはちょっと…」と失望してしまうことが多いんですよね。
 別のアーティストによるカバーなら、視点が変わって面白いこともあるけれど。
 その人の代表曲なんていうのは、大胆なアレンジだとかえって、「僕が聴きたいのは、そんな曲じゃなくて、前の歌い方やアレンジなのに…」と失望してしまうことが多いです。
 こういうのって、その曲自身は、進化しているのかもしれませんが、その曲にいろんな想い出を投影してしまう側としては、「目新しさを狙っただけで、前の方がよかった」と思われがちなのかもしれません。「自分が好きだったのは、こんな曲じゃない!」という、記憶を穢されたような不安感。
 たとえ、アーティスト側としては、「もう、この曲飽きた…」と思っていたとしても。
 しかし、どんな名曲でも、創った側としては、後で「ああしとけばよかったかなあ…」と感じてしまうことがあると思うのですが、こんなある意味自信過剰ともとれるコメントが許されるのも、達郎さんだからなんでしょうね。

   



2002年10月12日(土)
2002年10月12日。


「阿川佐和子のお見合い放浪記」(阿川佐和子著・講談社+α文庫)より抜粋

【延々と空港で待っている間、することもないので、到着した人たちと迎えに来た人たちとの再会のシーンをぼんやりと眺めていました。
 すると、アメリカ人は必ずしっかと抱き合うのです。夫婦だったり、親子だったり、兄弟だったり、みんなそれぞれ親愛の情のこもった抱擁を交わしています。ラテン系らしき人々は、もっとドラマチックです。「オー」と声を上げて駆け寄ったり、涙を流したり、映画のワンシーンのよう。
 そこへ日本の航空会社の飛行機が到着して、日本人がどっと降りてきました。
 ところが、こちらはどう見ても駐在員とか単身赴任の家族の再会だと思うのに、実に淡々としているのですね。家族も友人同士も、「どうも、どうも」なんて手を振ったりするだけで、実にあっさりしたものです。
 私とて親や兄弟と抱き合えと言われても、恥ずかしくてできません。できないからこそ、外国人のああいう姿を見ると羨ましくなるのです。】

〜〜〜〜〜〜〜

 Mr.Childrenに「車のかげに隠れてキスをしよう」という歌があります。まあ、この曲の場合は「道ならぬ恋」というニュアンスがあるので、隠れてになってしまうのでしょうが、外国人の感性からすれば「どうして隠れてキスしないといけないんだ?」という感じなのではないでしょうか?
 しかし、このスキンシップ、ドラマや映像で観ると、確かに「ファミリーの絆」が感じられて、すごくいいシーンです。でも、阿川さんも書かれているように、実際に自分でやれと言われたら、恥ずかしくてやれたもんじゃないですね、きっと。
 でも、人前で抱き合うというのって、僕はあんまり意味無いんじゃないかなあ、と思うのです。家に帰ってからでもいいんじゃない?とでもいうか。
 日本人は、履物を家に入ると脱ぐ風習があって、公共の場所とプライベートな場所(いわゆる「家」ですね)を分ける民族だと和辻哲郎は書いています。
 外国では、子供の部屋に小さいころから鍵がかかるようになっているのが当たり前だし、家の中では、個人として生活している反動が、こうしてあらわれているのかもしれませんね。
 いろいろ書きつつも、いちばんは、僕も自分の家族と空港で抱き合ったりするのは、恥ずかしくて仕方が無いし、とうていやる気にはなれない、ということなのですが。
 懐かしくても「どうも、どうも」なんて手を振るだけにしてしまう日本人的コミュニケーション、海外では通じないのかもしれませんが、僕はけっこう好きなのです。
 まあ、人前でできて羨ましい、という気持ちと、わざわざ人前でやるなよ、という気持ちが半々、といったところでしょうか。
しかし、正直なところ、恋人ならともかく親兄弟とは「どうも、どうも」くらいにしておきたいです。
 
  



2002年10月11日(金)
2002年10月11日。


デイリースポーツの記事より。

【浜崎あゆみ(24)の最新マキシシングル「H」の売り上げが100万枚を突破したことが10日、発表された。CD不況の中、宇多田ヒカル、桑田佳祐らもなしえなかった今年初のミリオン達成。所属レコード会社のエイベックスでは“感謝”企画として11月にミリオン記念豪華盤の発売を決定した。
 CD市場のかつてない冷え込みが続くなか、「HANABI」「independent」「July 1st」の3曲を収録した浜崎のマキシ「H」が今年初めてのミリオンセラーを達成した。10日現在、2002年に発売されたシングルで50万枚を超えたのはわずか10作品。昨年が32作品だったことを考えると、CDセールスは前年比約30%。バブル期なら200〜300万枚のヒットに匹敵する数字。あゆは「普通にうれしい。100万人の人がCDを手にしてくれたことがうれしいです」とコメントした。
 昨年のミリオンシングルは宇多田の「Can You Keep A Secret?」を筆頭にCHEMISTRY「PIECES OF A DREAM」、桑田佳祐「波乗りジョニー」「白い恋人達」の4作品。今後のリリース状況から見て「H」が今年最初で最後のミリオンヒットとなりそうだ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 今日は10月11日。ということは、下手したら、2002年度はミリオンセラーなしの可能性も十分あったということですよね。
 昨今、音楽産業の不振が叫ばれています。
 去年のミリオンセラーが4作品で、今年はたぶん「H」のみになりそうとのこと。
 CD全体の売り上げも、右肩下がりの状況。

 なぜ、こんなにCDは売れなくなったんでしょうか?
 バブル期などは、テレビドラマの主題歌になりさえすれば100万枚!というような時代すらあったのに。
 巷で言われているのは、なんといってもパソコンでCDを簡単にコピーできるようになったということ。質的な劣化もほとんどないですし、ブランクCDだけあればいいことですから、非常に安上がりです。
 そして、購買層である若者たちが、携帯電話の支払いに追われて、CDを買うお金が無くなってしまったということ。

 上記2つが、主な理由として挙げられていることです。

 最近は、音楽業界としても、廉価CDやコピーコントロールCDなど、対策を練ってはいるようですが、凋落傾向に歯止めをかけるのは難しいよう。今のところ、コピーコントロールCDだから爆発的に売れたという話も聞きませんし。
 でも、最近思うのは、CDというのは、もともと、そんなに売れるものなのか?ということなのです。たとえば、CDシングル一枚1000円という値段は、文庫本一冊、ブランクCD一枚に比べて、あまりに高い印象があります。一昔前のような、カラオケの練習用になんて需要も減ってきているんでしょう。
 いろんな作業工程で時間とお金がかかる、とは言いますが、ちょっと割高なような気がするんですよね。ずっとFMを聴いていれば、流行の曲は必ず一日に2〜3回は流れてくる。
 そして、CDというメディアに対する飽きが、みんな出てきている部分もあると思うのです。ちょっと前のDVDは、新しいメディアに対する興味からみんな「マトリックス」を買ったりしていたのですが。
 浜崎さんの「H」が売れたのは、楽曲の良さもさることながら、シングルといいつつ3曲入りという「お得感」も大きかったと思うのです。
 コピー対策も大事ですが、もうちょっと世間の要望に合った価格設定にできないものなんでしょうか?
 今CDをコピーせずに買っているひとたちというのは、その曲を聴きたいというのと同時に、そのアーティストを応援したいという気持ちを持っているのだと思うのです。
 でも、そんな善意に頼るばかりではなくて、もっと企業努力をしていくべきなんじゃないでしょうか?ファンなら買うべきだ、っていわれてもお布施みたいですし。
 「CDが売れなくなった」のではなくて、「以前が売れすぎていた」だけなのかもしれないですよ、実際のところは。
 売る側からしてみれば、同じようなものを出しているのに、どうしてこんなに売り上げが違うのかともどかしい気持ちでいっぱいなんでしょうけど。

 




2002年10月10日(木)
2002年10月10日。


スポーツニッポンの記事より。

【女優・田中美里(25)が8日午後8時25分頃、東京都渋谷区富ケ谷1丁目の交差点で乗用車を運転中に品川区内の会社員の女性(21)のオートバイと接触事故を起こしていたことが9日、分かった。事故は交差点で左折しようとした田中の乗用車前部と、右方向から直進してきたオートバイ後部が接触。女性は左脚に全治10日の打撲。田中と同乗していた男性マネジャーにケガはなかった。

 この日夜、金沢市での仕事を終え帰京した田中は羽田空港内で急きょ会見。「私の中では(右側を)確認したつもりでしたが、もう1回見る余裕が足りなかった。(被害者には)申し訳ない」と反省の弁。また、空港には被害者の女性も駆けつけ「大した事故じゃないのに、こんなに大騒ぎになって…。両親に田中さんを助けてきなさいと言われた」と軽傷であることをアピール。

 代々木署の調べによると、田中は「右の方をよく見ていなかった」と話しており、業務上過失傷害と道交法違反の疑いで近く書類送検する。所属事務所によると田中は今年5月に免許を取ったばかりだった。】

〜〜〜〜〜〜〜

 なんだか、やたらと大々的に報道されていましたね、この事故のこと。
 この事故のこと、固有名詞を排すると「免許を取って半年、運転歴1ヶ月の初心者ドライバーが、常時左折可能な交差点に進入する際に、確認を怠って直進してきたオートバイに接触し、軽症を負わせた」ということになると思います。
 う〜ん、果たして、こんなこと公共(らしいですよ)の電波を通じて、大々的に世間に流布すべきことなんでしょうか?
 運転歴の浅いドライバーの不注意というのは、非常に多いですし、被害者の方も軽症だったようです。それに、被害者の方も自分で軽症をアピールしているような状況。
 運転をされる方ならわかっていただけると思うのですが、事故を起こそうと思って起こすドライバーなどいませんから、田中さんも、ある意味「被害者」であるわけで。普通、車をちょっとこすたりしただけでも、けっこうショックを受けるものですし。
 飲酒をして運転していたり、相手の方が重症を負われていたのなら話は別ですが、そんなに鬼の首をとったように大げさにしなくてもいいんじゃないでしょうか。
 僕は、この報道を聞いて「そのくらいの事故、自分でも起こす可能性は充分あるし、田中さん、かわいそうだなあ」と思いました。ましてや初心者。
 たぶん、この報道の裏には、「パニック障害を患っていたお騒がせ系女優・田中美里」という背景があると思うのですが、そのことは今回の事故とは関連はないみたいですし(そりゃ、運転中にパニック発作を起こして事故とかなら、大問題ですが)、「あの人がまた!」というような報道姿勢は、いかがなものかと思うのです。病気や事故というのは、彼女のモラルが原因ではありませんし。
 それにしても、偉そうに「運転は気をつけないといけませんね」などと言っているコメンテーター、そんなことは、田中さんも含め、みんなよくわかってます。あなたは絶対に交通事故を起こさない自信があるんでしょうね。
 パニック障害になりやすい人は、真面目で考え込みやすいタイプが多いそうですから、このことが、彼女に悪影響を与えないと良いのですが。

 でも最後に、ひとつだけ苦言を。
 田中さんが事故を起こした際に、マネージャーが車から降りて謝罪をして救急車を呼んだそうですが、いくら本人が動転していても運転者が謝りにいくのが、スジというものですよ。「騒ぎになると思って…」とのことですが、そういうのって、相手にとってはすごく悪印象なのではないでしょうか?
 接触事故のとき、運転席の彼女の代わりに、切歯扼腕して助手席を飛び出してくる彼氏と話をするのって、非常に嫌なんですよね。いいとこ見せようと思って、そっちが悪いのにやたらと大声でつっかかってきたりするし。お前は関係ないだろ!って嫌気がさします。
 田中さんも、マネージャー同伴で構いませんから、その場でちゃんと自分で謝りに行くべきだったんじゃないかなあ。
 



2002年10月09日(水)
2002年10月9日。


「新『親孝行』術」(みうらじゅん著・宝島社文庫)より抜粋。

【居間で母親の報告話を引きだしたら、続け様に、その視線を台所に向けてみるのだ。そこには、ふだん自分の家庭でも見たことがないような「家電」が置かれてはいないだろうか。
 母親という人種は「家電」の話に意外なほど喜ぶものなのである。そしてこの話題に関してのみ、彼らは若者よりも断然詳しいものなのだ。
 実家に帰ると、注ぎ位置がスポットライトで照らされ、お湯を注ぐ位置がわかるポットが置かれてあって驚いた、などという経験は、誰にでもあると思う。】

〜〜〜〜〜〜〜

 親と家電。ちなみに、この文章のあとには、「親たちがビックカメラみたいな量販店に行くわけもなく、近所の電気屋さんで新製品を売りつけられてくる」ということが述べられています。
 あまりこの文章とは直接関係ないのですが、ウチの父親は、けっこう電気製品好きな人でした。ところが、子供としては困ったことが多くって。
 単なる「新製品好き」だったらいいのですが、ウチの父親の場合は、ちょっと違っていたのです。まあ、もう15年くらいは昔の話なのですが。
 例えば、僕が「新しいビデオが欲しいなあ」と呟いたとしましょうか。
 すると、父親はそれを覚えていて、新しいビデオを買ってきてくれるのです。
 ところが、その「新しいビデオ」というのが曲者で。彼は、よくディスカウントストアに行っていたのですが、そこで安売りされているビデオデッキを買ってくるのです。
 で、その買う基準と言うのは「いかに定価より割引されているか」
 よく考えてみていただきたい、最近はそうでもないのかもしれませんが、一昔前のディスカウントストアで安売りされている電気製品というのは、やっぱり「新製品!」と言いながら型が古かったり、メーカー品でなかったりしたのです。
 結局、「新しいの」を買う予定だったのが、同じくらいのレベルのものがもう1台増えてしまうことに…
 いつか、CDラジカセの全盛期のときに「買ってきてやったぞ」と普通のラジカセを買ってきたこともありましたし。
 買ってきた理由は「ほら、こんなに定価より安くなってる!」と値札をめくって見せたりするのです。
 どうして、定価よりこんなに割引されているか、なんて考えないんですよねえ。
 ああ、安物買いの銭失い。
 いや、こんなこと言ってるうちに、僕も高校生とかから、「安いからって、そんな旧いプリンター買っちゃって…」なんて失笑されているのかもしれませんけど。
  



2002年10月08日(火)
2002年10月8日。


西日本新聞の記事より。

【天下分け目の関ケ原の戦いからざっと数えて四百年、小倉城(北九州市小倉北区)で新たな戦いの火ぶたが切って落とされようとしている。その名も「焼きうどんバトル特別編・天下分け麺(めん)の戦い」。小倉が発祥の焼きうどんと「富士宮やきそば」(静岡県富士宮市)の一騎打ち。“庶民の味”として天下を取るのは焼きうどんか、焼きそばか―。決戦は十四日午前十一時。各々(おのおの)方、参加費二百円を持って参集されよ。

 バトルを企画したのは、焼きうどんによるまちおこしに取り組む北九州青年みらい塾(松尾孝治代表)。焼きうどんは終戦直後、JR小倉駅近くの食堂店主が焼きそば用の「そば玉」を切らし、乾めんのうどんを代用したのが始まりとされている。

 今年は小倉城築城四百周年にちなんだ初の麺バトルとして、焼きそばによるまちおこしで有名な富士宮市の「富士宮やきそば」を迎え、市民ら四百人の試食・投票でどちらに軍配が上がるかを競う趣向にした。参加費二百円で両方を食べ比べる。負けた方は一年間、無償で相手方(焼きうどんか焼きそば)のPRをしなければならない。】

〜〜〜〜〜〜〜

 焼きそばvs焼きうどん。僕はどちらかといえば、焼飯に一票を投じたいところなのですが。
 まあ、それはさておき、この勝負、一般的な知名度では、焼きそばが圧倒的有利でしょうね。お祭りの夜店でも、焼きそばはあっても焼きうどんはないし、だいいち、焼きうどんというものを外食した経験、あるでしょうか?
 僕の母親は、焼きうどんをよく作ってくれましたが、それ以外で外で食べたことはないような気がします。そういえば、焼きそばはウチのメニューでは珍しかった。
 さて、この勝負、基本的にはお互いの町おこしのためのPRなので、勝敗はあんまり関係ないと思うのですが、焼きそばと焼きうどんの雌雄を決するには、ちょっと問題がありそうです。それは、開催地の問題。いくら富士宮市が精鋭の焼きそば部隊を投入しても、やっぱり地元を応援してしまうのが人情というもの。
 博多のキャナルシティという巨大商店群に「ラーメンスタジアム」という全国各地の有名ラーメンを一堂に会したラーメン店街があるのですが、そこでは来場者による投票制の「全国vs九州・ラーメンバトル」というのが常時行われています。
 そこでの結果では、いつも「九州麺」の圧勝。確かに、九州はラーメンどころでありますが、全国選りすぐりのラーメン店が揃っているわけですから、好みの差はあれ、そんなに大差がつくほどの品質の差はないと思うのですが。
 やっぱり、日頃食べ慣れているほうや地元の味を評価する人が多いということなのでしょうね。ちなみに、いつも行列が長いのは「「むつみ屋」とか「喜多方ラーメン」とかの全国麺のほうなんですけどね。
 ということで、勝負としては、ほんとうはホーム・アンド・アウェイでやらないと、不公平だと思うのですけど。まあ、そのへんは焼きそばのメジャーとしての余裕といったところでしょうか。
 ああ、そういえば、ウチの母親は、どうして焼きうどんなの?という問いに「うどん玉のほうが安いし、麺の量が多い方がみんな嬉しいんじゃないかと思って。みんな食べ盛りだからねえ」と答えていた記憶があります。
 日本が貧しい時代、というほど昔の話ではないのですが、なんとなく焼きうどんを応援したい気分、なのです。

  



2002年10月07日(月)
2002年10月7日。


日刊スポーツの記事より。

【音楽プロデューサー小室哲哉(43)がglobeのボーカルKEIKO(30)と11月に結婚することが6日、明らかになった。小室は今年3月、歌手ASAMI(27と離婚したばかり。それから8カ月後、小室にとって3回目の超スピード再々婚になる。小室とKEIKOはglobe結成前の94年からの知り合いで、KEIKOは小室の愛の数々を見守った上でのゴールインとなる。11月22日に東京・新高輪プリンスホテルで披露宴を行う。入籍は小室の誕生日となる同27日になりそうだ。
 2人はこの日、連名でマスコミ各社にファクスを送り「私達は、globeが誕生する以前から今日までの8年間、音楽を通して、親交を深めて参りました。お互い色々な出来事を経て、様々な経験を積み、そして今、それぞれの想いを尊び、重んじ、公私共に人生のパートナーとして歩んで行くことを決心致しました」と結婚を報告した。】

〜〜〜〜〜〜〜
 小室さん、KEIKOさん、おめでとうございます。ほんとうに、いろいろあったお二人のようなので、お互いに感慨深いのではないでしょうか?
 と言いつつ、率直なところ「小室さん、また結婚するんですか?」という気もしなくもありません。というか、けっこうみんなそう思ったのでは。
 ちなみに、小室さんは前妻のASAMIさんとの10ヶ月間の結婚生活の代償として、10億円の慰謝料を支払うことになったそうです。さすが、スケールが違います。
 しかし、華原さんといい、ASAMIさんといい、KEIKOさんといい、常に仕事上のパートナーを結婚相手に選んできた小室さんには、正直、あんまり良い感情は持てないなあ。
 
 大学の部活の先輩で、僕と同級生の女の子と3人で一緒によく遊んでいた先輩がいたんですよ。ところがある日、その先輩と同級生の女の子がつきあうようになったことが発覚、今から考えると、そんなに腹を立てることではないのですが、当時の僕は「俺はダシにされたってことかよ!」とひどく傷ついたのを記憶しています。

 マーク・パンサーさんは、もう大人だから、いちいちそんなに腹を立てたりしないだろうと思うのですが、同じグループのメンバーとしては、やりにくいこと甚だしいのではないでしょうか?
 僕の場合でも、付き合いはじめた2人に同じ内容のイヤミを言われたりして、
「お前ら、それをどこで相談してたんだ!」と食って掛かりたくなりましたから。

 もちろん、恋愛というのは理性でコントロールできないものですから、仕方ない面はあるんでしょう。でも、これだけ毎度毎度身近な人ばかりだと、まわりはどんどん引いていってしまうんじゃないでしょうか?
 また、こういうタイプの人って「お前もひがんでないで、後輩の○○ちゃんと付き合ったらいいじゃん」とか言うんですよね。
 そういう問題じゃないだろう、と。
 公私の区別をつけるという概念が根本的に欠如している人というのは、世間にけっこういるみたいです。
 
 マークが「お前もYOSHIKIとつきあえばいいじゃん」と小室氏に言われているんじゃないかと、ちょっと心配です。
 
  



2002年10月06日(日)
2002年10月6日。


小林よしのり責任編集長「わしズム・Vol.3」(幻冬舎)より。

【1個、59円という、ものすごい安さのハンバーガーが売られている。
 なぜ、そんなに安くできるのか?
 日本マクドナルドの藤田田社長は、その秘密を明かしている。
 インターネットで全世界から牛肉、タマネギ、ポテトなどの価格を瞬時に調べて、一番安いところから大量に仕入れる、というのである。
 
 世界で一番安い牛肉。
 …それはどんな牛肉か想像したほうがいい。

(中略)
 
 今、少数の人たちが警告を発しているが、わし(小林よしのり氏)も良心にしたがって描いておく。
 『生産地もわからない、世界でいちばん安い牛肉なんて、怖いと思うのが普通の人間の感性だ。』】

〜〜〜〜〜〜〜

 「安かろう、悪かろう」という言葉は、今まで使い古されてきた感があるのですが、この不景気で、ものの値段は、「安くないと売れない」時代になっています。確かに、そう言われてみると「普通の菓子パンよりもはるかに安い、ビーフ100%のハンバーガー」というのは、何か違和感を感じずにはいられない気がします。
 ものの値段を安くする方法というのは、企業として利潤を追求するかぎり、基本的にコストを削減するか、薄利で大量に売るかしかないわけです。
 たとえば、昔から大学の近くでやっている定食屋なんてのは、おばちゃんの善意による人件費削減と施設投資にかかるお金が少ないため、安くできているわけですね。それも最近では厳しいようですが。
 マクドナルドの場合は、この前者と後者をかなりギリギリのところまで追及しているんでしょうし、ハンバーガーでは儲けずに、サイドメニューで利益を出すという戦略をとっているから、こういう価格設定になっているのだとは思うのです。でも、こういう安い肉というのが、どこまで安全性(もちろん、食べてすぐ中毒死することはないと思いますから、長い目でみて、です)にまで気配りがされているかというのは、ちょっと不安な気はします。
 世界で一番安い肉が、世界で一番危険な肉とは限りませんが、少なくとも「安いから安全」なんて思う人は、ひとりもいないと思います。
 やっぱり、安くするには何かを犠牲にしなくてはならないのは自明の理。
 味を落とせば客が離れるし、人件費を落とせば店員が離れる。
 もちろん、インターネット導入による買い付けのコスト削減は、価格破壊の原動力にはなっているんでしょうけれど。
 それにしても、ほんとうに安全で美味しいものには、それなりの値段がつくのが必然だと思いませんか?

 「安い!」「価格破壊!」なんて売り文句に、諸手を挙げて喜ぶ前に、どうして安いのか?をちゃんと考えておいたほうがいいと思うのです。

 食費が安い方がいいのは、わかります。でも、食費を削って他の事に使うという発想は、国にお金がないからといって医療費を削って道路を造る政府と一緒で、本末転倒なのではないかなあ、と危惧せざるをえないのです。

 人のこと、偉そうに言えた義理ではないんですが、僕も今後、ちょっと気をつけてみようかな、と。
 
  



2002年10月05日(土)
2002年10月5日。


「新『親孝行』術」(みうらじゅん著・宝島社文庫)より抜粋。

【まず、自分の記憶をさかのぼっていただこう。
 諸君は自分が子供だったころ、「天真爛漫な子供」だった時期というのがあったであろうか?
 一般的には、子供は可愛い、子供は無邪気、子供は無垢、などと思われている。しかし、この言説は自分にはあてはまらなかった、と実は誰もが思っているのではないだろうか。実は誰もが、「天真爛漫な子供」を演じていた、と思っているのではないだろうか。】

〜〜〜〜〜〜〜

 この文章の後、具体的な例を挙げて「子供は小さいころから、親や大人を喜ばせるプレイをしている」ということをみうらさんは実証していくのです。
 僕も「子供は純真」という言葉を聞くたびに、自分の子供時代のさまざまな邪まな行為(部屋にさりげなくいい点数のテスト用紙を「落として」おくとか、尊敬する人に、アントニオ猪木と書きたいなあ、と思いつつも「両親」と書いたりするというような)を思い出し、心を痛めてきたのです。
 僕の持論として、「子供には子供の邪念がある」というのがあるのですが。
 でも、世間の子供好きの皆さんの言い分としては「子供は無邪気で無垢、天使!」であるので、子供の圧倒的なエネルギーが苦手な僕としては、肩身が狭いのです。
 「子供?あはははは…そうだね、かわいいね、ははは」みたいな。
 むしろ、伊武雅刀さんの「子供たちを責めないで」という歌のほうに、内心共感しまくっていたんだけどなあ。

 「子供は無邪気」というのは、ほんとうは「無邪気」なんじゃなくて、自分も一度は通ってきた道だから、自分にも理解し、コントロールできる程度の「邪気」ということなのだと思うのです。
 「わかりやすい」もしくは、オトナの自分の力で、かなえてやれる程度の「邪気」なので、許せたり、いとしく思えたりするだけで。
 でも、第三者としての印象は、子供にほんとうに好かれる大人というのは「子供扱いが巧い人」ではなくて「子供を子供扱いしない人」のような気がします。だいたい、オトナとコドモには、幼虫と成虫のような明瞭な変化はないわけで、子供は小さなオトナであり、大人は大きなコドモなわけですから。
 
 そうそう、僕が一番イヤなのは、本当の子供じゃなくて自称「少年の心を持った」オトコです。意識的に「無邪気」「子供っぽさ」をいい年の人間が演じてみせるほど邪気に満ちた行為は無いような気がするのですが。
 「少年の心」=純真なんて、自分の子供のころを忘れてしまっているんでしょうか?
 大人なら、大人の心で勝負しろよ。
 



2002年10月04日(金)
2002年10月4日。


映画「サイン」の広告から

【ある日、男と家族の前に現れた<兆候(サイン)>−何故?

(1)第一次兆候・妻の事故死
(2)第二次兆候・ミステリーサークルの出現
(3)題三次兆候・滅亡を予知する娘

−それは、もう始まっている…】

〜〜〜〜〜〜〜

 いやあ、懐かしいですね「サイン」。エイス・オブ・ベイス、どこへ行っちゃったんでしょうか…って、話が全然違いますね。
 さて、この秋の超話題作「サイン」の広告なのですが、この映画、「シックス・センス」や「アンブレイカブル」で有名なM・ナイト・シャラマン監督の最新作、僕はまだ観ていないのですが、今回もあっと驚く仕掛けがあるらしいですよ。

 さてさて、内容のほうはさておき、僕が気になっていたのは、この宣伝文句。
 この3つの「兆候」って、順番がなにかヘンだと思うんですが。
 この広告では、おそらく、これら「兆候」の重要度は
(1)<(2)<(3)という順番なんだと思います。まあ、普通、インパクトが弱いものからだんだん強いものにしていくという手法でしょうから。
 でも、実際にこれらの「兆候」が自分の身の回りに起こったとしたら、どう考えても、そのインパクト(というか、困った度とでも言いましょうか)は、
(3)<(2)<(1)もしくは、(2)<(3)<(1)
だと思うのですが。
 ミステリーサークルなんて、けっこう簡単に作れるらしいですし、「滅亡の予言をする子供」なんていうのも「ああ、そういうオカルトにはまる年頃なのかな…」とか思って、ほっといてしまいそうです。
 どう考えても、妻の事故死っていうのが、いちばんインパクトがありそうなのに、なんでこれが第一の「兆候」なんだろうなあ。
 実際、精神科の研究で、いろんな出来事が人の心に与えるインパクトを数値化したものがあるのですが「配偶者の死」というのは、他の出来事をぶっちぎって、人生にマイナスのインパクトを与える出来事ナンバーワンでしたし。
 
 というわけで、ちょっとお母さんがかわいそうだなあ、と思った次第です。
ひょっとして、この順番も何かの仕掛けなんでしょうか?




2002年10月03日(木)
2002年10月3日。


朝日新聞の記事より。

【「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」に参加する家族たちは3日午前、東京都千代田区のホテルに集まり、政府調査団が平壌で撮影したビデオ映像を見た。同会関係者によると、生存が確認された5人と、横田めぐみさんの娘とされる少女の計6人が映っていた。全体で約10分。「家族へのメッセージを話したり、手紙を読み上げたりしているが、全員が無表情だ」という。
 ビデオを家族とともに見た関係者によると、平壌で結婚したとされる蓮池薫さんと奧土祐木子さん、地村保志さんと浜本富貴恵さんのカップル2組は、それぞれ2人一緒に映っていた。 曽我ひとみさんと、横田めぐみさんの娘とされる少女「キム・ヘギョン」さんは個別だった。
それぞれがビデオに登場した時間は数分ずつで、父母や兄弟に呼びかける場面もあった。映像の中のソファが同じであり、同じ場所で撮影したと見られる。平壌での聞き取り調査中に撮影したものだという。】

〜〜〜〜〜〜〜

 このニュースの「全員が無表情」のところを読んで、どんなイメージを持たれるでしょうか?
 おそらく「監視されていたんだろうなあ」とか「洗脳されて、無感動な人格になってしまったんだろうなあ」とか感じる人が多いと思います。
 僕も、最初はそう思っていたのですが。

 でも、よく考えてみてください。例えば、留守番電話が出始めた頃、「メッセージを入れてください、ピーッ」のあと、妙に緊張してよそゆきの声で用件を入れてませんでしたか?
 あるいは、写真をとられるとき、「ハイ笑って」と言われれも、引きつった笑顔しかできなかったことはありませんか?
 北朝鮮の今の国情では、ビデオカメラなんて珍しいものでしょうし、10年以上も会っていない身内へのビデオメッセージの撮影現場で、表情豊かに、笑顔とか怒りの表情なんて、あらわせるほうが、むしろ不思議だと思います。彼らにとっては、まだ急激な状況の変化に困惑しているという面も大きいでしょうし、目の前にはビデオカメラと面識のない役人しかないわけですから。
 その状況で「お母さん!」とか叫ぶのも、かえって異常なことなのでは。
 僕にも、別に彼らが北朝鮮で楽しく平和な暮らしていたとは思えません。
 でも、ビデオでのメッセージだけの状況で、現在の本人たちについてあれこれ考えすぎるのは、あまり意味がないんじゃないでしょうか。
 人間の感情表現なんて人それぞれですし、無表情=感情に乏しいとは、必ずしも言えませんし。
 実際に会ってみることでしか、わからないことなのでしょうから、ビデオの映像での先入観であれこれイメージするよりも、少しでも早く、いい状況でご家族と再会させてあげられればと思うのです。
 電話では愛想の悪かった人が、会ってみたら親しみやすい人だったという経験、だれにでもあるはず。画面では無表情でも、目の前に家族の顔があれば、全然違う表情をみせてくれるかもしれませんよ。

 被害者の御家族はともかく、報道する側までがあまりに先入観をもっていては、誤解を招くもとにしかならないのでは。
 
 まあ、これは予想というより、願望なのですが…




2002年10月02日(水)
2002年10月2日。


毎日新聞の記事より

【朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)による日本人拉致事件で、安倍晋三官房副長官は2日昼、首相官邸で記者会見し、政府調査団による調査結果を公表した。調査団は新潟県出身の曽我ひとみさん(43)とみられる女性を含む「生存者」5人と面会し、いずれも被害者本人と断定した。5人は日本の親族との面会希望を持っていたものの、早期帰国については「総じて慎重だった」という。また安倍氏は死亡したとされる8人の「死因」として、横田めぐみさん(行方不明時13歳)は「自殺」、有本恵子さん(同23歳)は「ガス中毒死」などと北朝鮮側が説明したことを明らかにした。 

 北朝鮮側は横田めぐみさんの死因について「うつ病の末に自殺した」、有本さんについては「石岡亨さんや子供1人とともに石炭ガス中毒で死亡した」などと説明したという。さらに拉致の責任者として「チャン・ボンリム」と「キム・ソンチョル」の名前を挙げ、それぞれ死刑と15年の長期教化刑に処したと説明があった。】

〜〜〜〜〜〜〜

 今日、このニュース、僕は昼のテレビで観たのですが、その番組には、国会議員の石原某氏が出演していました。
 石原某代議士は、横田めぐみさんの死因について「うつ病で亡くなったなんて、信じられない。私は『拉致被害者を救う会』で横田さんのご両親と接する機会も多いのですが、ご両親は明るくて、積極的にリーダーシップをとっておられるのに、娘さんが「うつ病」だなんて!そんなの作り話に決まっています」と言っておられました。
 
 その前には、精神科の町沢先生が出演されていて、「そういう(うつ病、あるいはうつ状態)可能性は、特殊な状況でもあるし、起こってもおかしくない」と発言されていたのに。

 北朝鮮の言い分が正しいかどうかは、ここでは触れません。正直言って、今の時点では「嘘の可能性は高いけれど、はっきりわからない」としか言いようがありません。
 でも、この石原議員の発言が滅茶苦茶であるということは、はっきり断言できます。
 だいたい、横田さんのご両親と面識があって、ご両親が明るい人だから、うつ病にならないなんて…確かに、うつ病には遺伝的素因の関与が疑われていますが、家族歴がないからといって、発祥しないとは限らない。逆に、家族歴があれば、うつ病になるとは限りませんし。
 それに、「うつ病」と「うつ状態」というのを混同しているんじゃないでしょうか?
 僕だってそうですし、世間のどんな「普通」の人でも、思春期に部活の帰りに突然北朝鮮に拉致されて、過酷な環境におかれれば、「うつ状態」になって全然おかしくないと思うのですが。
 むしろ、そうなって当然のような気がします。そんなの性格とは関係ないですし、現に、リストラや生活の悩みで、「うつ状態」に陥っている人がたくさんいるのですが。
 彼らは、遺伝や性格が暗いから、うつ状態になったんですか?
 それに、むしろ「うつ状態」になりやすい人は、責任感が強く、日頃リーダーシップをとるような人に多いのですよ。
 僕だって、北朝鮮の言い分を信じているわけではないですし、ご家族が「うつ病で自殺なんて信じられない」と言われるのはもっともです。「うつ病」のところが「交通事故」でも「癌」でも「心臓病」でも、信じられないのが当然。
 でも、石原議員、こういうところで、自分の「うつ」に対する無知を世間にひけらかさないでいただきたい。誰だって、「うつ状態」になる可能性は持っているし、「精神的に強い人は、うつにならない」なんていう誤解を堂々と喋るなんて論外。
 たぶん石原議員は、いままで何の悩みもなく生きてきた人なんでしょうね。
 ああ、うらやましいかぎりだ…

 僕は、そういうことはありうると思いますが、誤報であるということを心より祈っております。





2002年10月01日(火)
2002年10月1日。


朝日新聞の記事より。

【大阪空港に訪れた米国の俳優リチャード・ギアさんから勤務中にサインをもらったとして、全日空のグループ会社「エーエヌエースカイパル」(本社・大阪府泉佐野市)が、女性派遣社員の交代を人材派遣会社に求めていたことがわかった。スカイパルは「ふだんから個人的な行為を慎むよう注意をしており、厳しく対処した」と話している。
 スカイパルなどによると、9月28日午後、女性派遣社員がギアさんを待ち合わせのラウンジなどに案内した際、サインを依頼し、もらった。これを知った同社が「不適当な行為だ」として同日、この社員を派遣した会社に交代を求めた。派遣会社の担当者は交代要請に「状況を確かめ、慎重に結論を出したい」と話している。この社員は待機中だという。】

〜〜〜〜〜〜〜
 まさか、勤務中にサインをもらっただけでクビになるなんて…この会社も、心が狭いですね。なにもそこまでしなくても…。
 しかし、僕はこの対応、厳しすぎるかもしれませんが、正しいんじゃないかなあ、と思っているのです。
 例えば、コンビ二に買い物に行った際などに、高校生くらいの店員さんが、友達と話しこんでいたりとか、コンサート会場で、警備のはずの人がステージをじっと観ていたりすると、ちょっと嫌な感じになることって、ないですか?
 さらに、友達に商品をあげていたり、安くしていたりすると、一般客とすれば、「何だ、この店感じ悪いなあ」と思ってしまうのです。
 疎外感、というか、友達ばっかり贔屓するなよ!という感じかなあ。
 たとえリチャード・ギアだからといって、特別な扱いをするというのは、偶然一緒に乗り込んだ1ファンならともかく、プロのサービス業としては、失格の烙印を押されても仕方がないんじゃないでしょうか?誰もみていない所でってわけでは、なかったでしょうし。
 それに、リチャード・ギアだって、自分にサービスするはずの人に、どうしてサインしなければならないのか、不快だったんじゃないのかなあ。
 たぶん、まわりの乗客も不愉快だったんでしょうね。「スターだからって、特別扱いしやがって!」もしくは「自分の仕事を利用して、サインなんかもらっちゃて!」と。
この派遣社員がクビになってしまったのは、自分の仕事に対するプロ意識が欠けていたからで、僕は、致し方ないことだと思うのです。これを許容していたら、飛行機の客室乗務員なんて、サインもらいまくりになるかもしれない。
 たかがサインくらいで…と思うところもないではないですが、職種によって、どうしても譲れない「プロとしてやってはいけないこと」というのはあるはずですし。たぶん、クビになった本当の理由は、サインをもらったことだけではないんじゃないかなあ、という気はしますけど。

 コンビ二の店員にも、「知り合いとレジでしゃべてるんじゃない!それでもバイト代もらってるのか?」と怒ってやりたい気持ちになったりもするくらいなので、僕の心が狭いだけなのかな。

 だから、知り合いが働いている店には、あんまり行きたくないんですよね…